久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」 (original) (raw)

「図解塾」は「日本文化」を大テーマとして実施している。本日のテーマは「カラオケ」と「妖怪」。

「オケ」とはオーケストラ、「カラ」は「空」であることからのネーミングである。世界を席巻している1兆円規模までになった「カラオケ」産業の功労者12人の名前が紹介された。

日本独特の「妖怪」はかわいく、親しみがあることが特徴である。柳田国男荒俣宏水木しげるなどの名前と、具体的な妖怪、そして今も奄美大島で道路標識に使われている「ケンムン」など話題は尽きることがなかった。

f:id:k-hisatune:20241010054141j:image塾生の学び。

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「名言との対話」10月9日。輪島大士 「裸になったので、また裸で出直します 」

輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、大相撲力士、第54代横綱全日本プロレス所属のプロレスラー、タレント。享年70。

石川県七尾市出身。日本大学相撲部で2年連続の学生横綱となる。大相撲の花籠部屋に所属。初土俵から1年で新入幕。「角界のプリンス」貴ノ花大関に同時昇進、「貴輪時代」到来かと言われたが、伸び悩んだ貴ノ花とは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は大関4場所で横綱に昇進した。後に登場した「昭和の大横綱北の湖とのライバル対決の時代は「輪湖時代」と呼ばれた。この二人の千秋楽対決が大相撲人気を指せた。通算の成績は輪島の23勝21敗だった。立派な横綱を目指した北の湖は輪島を「壁のような存在」「あの人がいたから私は頑張れた」と言い、輪島は「永遠のライバル」と返した。

輪島はスーパースター、名横綱、天才力士、輪湖時代の主役、大卒初の横綱、黄金の左下手投げ、、、、と呼ばれたことでわかるように相撲界の至宝だった。通算で14回の優勝を果たしている。最後まで四股名は変えず、本名の輪島で通したのはは珍しい。

花籠親方の長女である輪島の妻の証言を記した『真・輪島伝 番外の人』は2019年7月8日発刊の衝撃の書だ。以下、その内容。

八百長相撲の清算に使った。相撲界での隠語で「チュウシャ」という。星の買取だけでなく、賞金も全て渡していたとの噂もあった。星の取引は負けて返すか、金で解決する。横綱は買取が常識だいわれている。遊びに忙しく稽古不足の輪島は1場所に何番か白星を買っていたとされている。

「裸になったので、また裸で出直します 」の「裸」発言は、引き継いだ花籠部屋が自身の不祥事などで消滅し、裸になって、相撲界からプロレス界に転出した時の言葉である。当時はこの転身を不思議に思っていたが、裸一貫での出直しだったのだ。輪島なりの決意の言葉だが、成功はしなかった。

「番外」とは、拉致外というか、話にならないという角界の隠語である。番付けの外だから、悪い意味で使われる。実績は番付のトップだが、実像は番外だったのである。

ライバルの貴ノ花は、引退後は親方となって息子の貴乃花若乃花横綱にまで仕上げ、大相撲の絶頂期をつくった。もう一人のライバル・北の湖は相撲界で階段を登り日本相撲協会理事長をつとめるなどトップとして相撲界に大きな貢献をした。

一方、稽古嫌いで遊び好きだった輪島の人生は二人のライバルのみごとな出処進退のようにはいかなかったのである。

真・輪島伝 番外の人

「福祉図解塾」の第2期がスタート。10月から12月。継続4‐5名、新規2-3名か。今期のテーマは「こども白書」。

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以下、塾生の学び。

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福祉図解塾

要点

久恒氏は図解コミュニケーションの重要性と効果を強調し、自身の経験や知識管理システムを通じてその有効性を示す。図解技術を用いて複雑な問題解決や業務効率化が可能であり、特に福祉分野や行政改革での活用可能性が高いことを説明する。参加者たちは図解の利点について議論し、実践的な応用を検討する。

次のステップ

全員: フェイスブックの「福祉図解塾」グループに参加し、メールアドレスを記入する。

全員: 10月9日午前5時までにフェイスブックグループに今日の学びの感想を投稿する。 安島さん・吉岡さん: フェイスブックのプライバシー設定を高くして参加する。

juri: 新規参加者の感想をメールで受け取り、グループ参加の手続きを行う。

継続参加者: 次回までに自分の図解の進化過程を示す資料を準備する。

juri: 子ども白書の図式化プロジェクトの具体的な進め方を検討し、提案する。

全員: 10月22日の次回セッションに参加する準備をする。

久恒: juri と子ども白書の図式化プロジェクトの進め方について相談する。

全員: 希望者は10月9日の図解塾、10月16日の幸福塾にも参加を検討する。

juri: 録画を希望する参加者に録画を送付する。

久恒: 次回セッションで新規参加者の自己紹介の時間を設ける。

全員: 3ヶ月間で子ども白書の図式化プロジェクトを完成させることを目指す。

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要約

図解コミュニケーションの効果と継続受講の重要性 久恒氏が図解コミュニケーションの講座について説明し、その重要性と効果を強調する。juriとNobuta氏が継続受講の理由を共有し、図解の力を福祉分野や仕事に活かしたいと述べる。久恒氏は自身の経験から、図解を用いて複雑な問題を解決し、大きな議論を促進できることを説明する。

福祉図解塾の効果に関する議論

久恒氏が主催する福祉図解塾の効果について、参加者の松本龍二氏が体験を共有する。松本氏は、図解を用いることで職場でのコミュニケーション改善、研修の効果的な実施、問題解決能力の向上を実感したと報告する。久恒氏は、図解の活用がプレゼンテーション力の強化、リーダーシップの向上、視野の拡大につながると説明し、さらに行政における図解の有効性についても言及する。

キャリアと知識管理システムの概要

久恒氏は自身のキャリアと知識管理システムについて説明する。彼は図解技術を用いて、自身の経歴、研究、社会貢献活動を体系的に整理し、それをSNSと連携させている。久恒氏は、この方法により情報を効率的に管理し、必要に応じて迅速に取り出せることを強調する。また、長年にわたる勉強会の運営経験や、様々な分野の専門家との交流が自身の知識拡大に貢献したことを述べる。

図解の重要性と若い社会人の課題

久恒は30代の社会人を対象としたアンケート結果について説明し、大学で学んだ能力と現在重要な能力の差異を指摘する。特に自己表現能力の欠如と幅広い教養の不足が若い社会人の課題であると述べ、これらの問題を解決するために図解の重要性を強調する。久恒は、図解を通じて自己表現能力や教養を身につけることができ、それが長期的に自分の意見や見方を形成する上で重要だと主張する。

図解思考の重要性と効果

久恒氏は、図を使って考えることの重要性について説明し、文章よりも図の方が全体像を把握しやすいと強調する。彼は、ホワイトボードに書く際はキーワードと関係性を重視し、細かい情報は避けるべきだと助言する。また、久恒氏は自身の著書の成功例を挙げ、図解思考の有効性を示し、図を描く能力が向上すると図自体も進化すると述べる。

図解の有効性と文書作成の問題点

久恒氏は、文章、箇条書き、図解の比較を通じて、図解の有効性を説明する。図解は深い質問や新しい企画を生み出し、理解と疑問を同時に促進すると主張する。また、行政や企業での文書作成の問題点や、児童福祉分野での図解の可能性についても言及する。

大崎市行政改革と業務効率化

久恒氏は、宮城県大崎市での市町村合併後の行政改革について説明し、職員の業務図解作成による組織の効率化について述べる。特に、社会福祉課の業務内容や子育て支援、高齢者福祉などの分野での図解例を紹介し、同じ仕事でも職員によって認識が異なることを指摘する。久恒氏は、この図解作業により、業務の重複や抜け落ちが明確になり、約30%の業務削減が可能になると主張する。

図解の利点と使用

久恒さんはフェイスブックグループ「福祉図解塾」への参加を促し、参加者に感想を書くよう依頼する。参加者たちは図解の利点について議論し、箇条書きと比較して図解の方が理解しやすく、効率的であると意見を共有する。信田さんは最近の会議で図解を使用したいと感じるようになったことを報告し、以前作成した図解資料について紹介しようとする。

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MetaMojioの山田さんから電話。開発状況の報告と課題、今後の見通しなどを説明してもらった。

孫正義「AGI(人間と同等)は2‐3年。ASIは(人間の1万倍)は10年。

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Amazon | 谷村新司 ベスト SBB-305 | 谷村新司 | 歌謡曲 | ミュージック

「名言との対話」10月8日。谷村新司「我も行く 心の命ずるままに 我も行く さらば昴よ」

谷村 新司(たにむら しんじ、1948年昭和23年〉12月11日 - 2023年令和5年〉10月8日)は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家。享年74。

大阪市出身。1971年に堀内孝雄とアリスを結成する。翌年矢沢透をくわえ,「冬の稲妻」などで人気をえる。1978年、山口百恵の「いい日旅立ち」を作詞、作曲。1982年からソロ活動をはじめ,「昴(すばる)」「群青」などのヒットをとばす。

2004年、中国の上海音楽学院の教授に就任。2013年、年震災孤児支援曲「風の子守歌」の作詞などで毎日芸術賞。同年「谷村新司40周年特別記念コンサート〜40Vibration〜」他で芸術選奨文部科学大臣賞。

中国東北部吉林大学で客員教授をしていたとき、千昌夫の「北国の春」は中国人は誰もが歌えて驚いたことがある。そしてもう一つは谷村新司「昴」もよく知られていた。駐日大使の呉江浩は、日本語ができる人はほぼ全員が歌えるし、この歌の中国語版は誰でも歌えると言い、この歌の絶大な影響力を語っている。また、2007年に温家宝総理は来日時に安倍総理主催の歓迎会で「昴」を歌っている。この歌は「北国の春」と同じく、台湾、韓国、タイアジア諸国で歌われている。

谷村新司というシンガーソングライターは、歌詞とメロディが同時に生まれるという。こういうタイプは珍しい。

2023年に谷村が亡くなった時、多数の追悼番組が組まれた。そとき、改めて歌を聴いて痺れたことを思いだした。

私は「サライ」の気持ちで故郷を出て、今は「昴」の心境だ。荒野に向かう道を行こうとする「この身を照らせよ」と言いたくなる。この二つの歌はカラオケで歌えるようにしておきたい。

人生をどうとらえるか。私は一個の作品としてみている。生きている間は、誕生から死去するまでの生涯を意味のあるものにしようとする過程にある。この作品は最後までその姿はおぼろであって明確な像は結ばない。「棺を蓋いて事定まる」のだ。「昴」を応援歌として、夢を追いかけて一人荒野を歩んでいこう。

八王子夢美術館の『かがくいひろしの世界』展。この美術館は地味だが、いい企画を連発している。この人気の絵本作家の企画展は子ども連れの夫婦が多かった。

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かがくいひろしの世界

かがくい ひろし(加岳井 広, 1955年2月6日 - 2009年9月28日)は、日本の絵本作家。1980年東京学芸大学教育学部卒業。特別支援学校で美術教員として教鞭をとりながら、人形劇活動や造形作品の発表を行う。2005年に50歳で『おもちのきもち』で第27回講談社絵本新人賞を受賞した。代表作の『だるまさん』三部作シリーズは累計発行部数552万部のベストセラー。2009年に54歳ですい臓がんのため急逝するまでのわずか4年という短い期間のうちに、数多くの作品を発表した。

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本人「子どもたちから、たくさんのことを学びました。もし教師をしていなかったら、絵本をr学ようにはならなかったでしょう。子どもたちの喜びは自分の喜びでした」

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会場では幼い子どもが「だるまさん」と遊んでいたのは感動的だった。

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「デメケン」のミーティング。

「アクティブ・シニア革命」編集会議

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「名言との対話」10月7日。筒美京平「音楽も人生も、エンディングが大事です」

筒美 京平(つつみ きょうへい、本名:渡辺 栄吉(わたなべ えいきち)、1940年昭和15年〉5月28日 - 2020年令和2年〉10月7日)は、日本作曲家編曲家。享年80。

東京都出身。青山学院大学卒業後、日本グタモフォンに入社。1966年、作曲家デビューし、1966年から専業になる。1968年、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」がオリコン週刊1位となる。以降、怒涛の仕事量でヒットを飛ばしてく。

1971年に尾崎紀世彦また逢う日まで」、1979年にジュディ・オング「魅せられて」で、それぞれ日本レコード大賞となる。

岩崎宏美「ロマンス」、太田裕美木綿のハンカチーフ」、近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」なども筒美の作品である。

50年にわたりオリコンでチャートインした曲は500曲以上。1位は39曲、3位以内は100曲、10位内は200曲。「魅せられて」は750万枚の売り上げで歴代作曲家総売り上げランキングで第1位。最も多くのヒット曲を世に出した作曲家である。また、日本レコード大賞作曲賞を5度受賞しており、これもトップである。

筒美京平 珠玉の名言・格言21選」という情報がサイトにあった。ヒットメーカー筒美京平のこれを分析してみたい。

筒美京平という日本最高の作曲家は、自分はシンガー・ソングライターなどの芸術家ではないとし、「僕は職業作曲家」と自認している。そして職人的なプロ意識で襲ってくる注文をこなしていったのだ。

筒美京平にはそれぞれ素晴らしい名言があるが、私の心に一番響いたのは、「音楽も人生も、エンディングが大事です」だ。

人生のエンディングはどうだったのか。晩年はパーキンソン病を患ったのだが、2013年の「時空ツアーズ」、2015年の「再会タイムマシーン」、2016年の「青い炎シンドローム」など作曲活動は盛んだった。2010年代には「センチメンタル・ジャーニー」「時空ツアーズ」「齧りかけの林檎」の3曲がシングル売り上げトップ3に入っていることでわかるように最後までレベルの高い仕事をしている。エンディングを大事にした人だったのだ。

川崎駅直結のミューザ川崎シンフォニーホールアマデウス・ソサイエティー管弦楽団の演奏会。レベルの高い市民参加のオーケストラ。

このホールはステージを囲む形で座席が設計された「ヴィンヤード形式」の、音響効果の高い設計だった。総座席数は1997。

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指揮は松川智哉。30代の若手指揮者の注目株。確実な技術と情感豊かな表現が特徴とされる。市民交響楽団のメンバーをよく盛り上げた姿が印象的だった。

曲目はリヒャルト・シュトラウス(1864-1949年)の交響詩ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」と交響詩死と変容」。壮大でドラマチックな音楽だった。ブラームスマーラーショパンらに影響を与え、ドイツロマン派の終盤から20世紀音楽への橋渡しをした。

死と変容」の完成から60年後に85歳で亡くなるが、その2日前に昏睡状態から目覚めた時に妻に語った。「「死と変容」の中で語ったことは全て正確だった。私は今こそ言うことができる。なぜなら私は今しがた、文字通りそれらを体験してきたのだから」

「ツアラツストラはかく語りき」の冒頭の「夜明け」は、映画「2001年宇宙の旅」で使われた。「英雄の生涯」という作品はシュトラウス自身の人生を描いた自己肯定感の強い作品で、賛否の批評を受けた。

同じくロベルト・シューマン(1810-1856年)の交響曲第一番「春」の「春の訪れ」「たそがれ」「楽しい遊び」「たけなわの春」。春の到来を表現した明るい音楽だった。シューマン31歳あたりの作品で、愛を成就させた人生の春を迎えたときに、驚異的な速度で完成させた作品。

「たくさんの幸せな時間を与えてくれた交響曲は、ほぼ完成された。最終的な完成は、これを耳にする時だ。こんなに容易に、このような大規模な作品をごく短時間のうちに私に書かせてくれたよき精神に、どれほど感謝しただろう」。交響曲を書くことは作曲家を志して以来のシューマンの理想だった。最初の演奏は盟友・メンデルスゾーンの指揮で圧倒的な成功をおさめた。シューマンはドイツロマン派の代表的作曲家。

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終了後は、ホールの1階でお茶会。30代初めのJAL客乗時代の仲間の環さん、堀さん夫婦、私たち夫婦での愉快な交流会。

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「名言との対話」10月6日。大原誠「大河ドラマを作るには、時代を読まなくてはならない」

大原誠(おおはら まこと、1937年10月24日 - 2018年10月6日)はNHKディレクターである。享年80。

京都出身。京都大学文学部イタリア文学科卒業後、NHKに入局。入局3年目の24歳。社会部から異動してきた芸能局長から「映画に追いつくような、日本一のドラマを作れ」と命じられた。大河ドラマ花の生涯」に演出助手として参加する。この大河ドラマの第一作「花の生涯」の平均視聴率は、20.2パーセント、「桜田門外の変」の放送回は32.3パーセントを記録し大ヒットとなった。主役の井伊直弼役は(二代目)尾上松緑だ。この作品は子ども頃に家族そろってみていたから、井伊直弼については私は悪い印象を持っていない。

その後、「樅の木は残った」「樅木は残った」「元禄太平記」で演出を担当し、「風と雲と虹と」「草燃える」「徳川家康」八代将軍吉宗」「元禄繚乱」では演出のチーフを務める。

現代ドラマも数多く手がけ、1990年に「不熟につき…」の演出で芸術選奨文部大臣賞を受賞。NHK退職後はフリーの演出家として活動し、「狼女の子守唄」(TBS系)、「疑惑」(テレビ朝日系)、「二十四の瞳」(日本テレビ系)ほかを演出した。

NH大河ドラマの膨大な作品群は、日本人の歴史観に大きな影響を与えている。私も毎年見続けてきたから、大いに影響を受けているという自覚がある。そういった仕事をしたことは男冥利に尽きるだろう。

大原によれば、徳川家康が主人公の大河は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という家康の我慢強さが、視界ゼロ経済の1983年という時代に合ったそうだ。キーワードは我慢、辛抱 だという読みである。大河ドラマを作るには、時代そのものを読まなくてはならない。

五木寛之は優れたマーケッターとして時代と社会をつかみ、優れたカウンセラーとして言葉を紡ぎ人々に伝える。五木寛之はその名人だった。「みんながそれぞれ心の中に持っている無意識の欲望や夢を感じ取り、形にして投げ返すのが作家だと思っていいます」、今を生きる人々の心を慰めるのが自身の役割だから、時代とともにあるから消えることはない。作家としての長寿の秘密はここにある。

若手人気作家の今村翔吾は、戦国武将を描くことが多い。人物を選ぶ場合に、現代のテーマと絡めて選択しているそうだ。松永弾正久秀を描いた『じんかん』は社会の不条理に抗う人びとを描いた告発の作品、『塞翁の盾』は最強の矛と最強の盾の名人の対決を通じて示唆する戦争と平和の行方、『海を破る者』は元寇国難に立ち向かう武将とキーウ(クライナの首都)出身の脇役を登場させた平和への道がテーマだ。つまり、歴史小説は、現代という時代のテーマを描く小説なのだ。

大河ドラマは現代を映し出す鏡でなければ、視聴者の共感を呼ばない。だからプロデューサーやディレクターは日本の社会や経済、世相に対する「読み」と、それを作品に仕上げていく「戦略」が重要となる。

そして作品を仕上げるには、時代考証、衣装考証、音楽、、そして多くの職能を長い期間にわたり、まとめ上げていかなければならない。この「名言との対話」で、「山河燃ゆ」以来33作32年にわたって大河ドラマを支えてきた、着物一筋の衣装考証の小泉清子、「天と地と」「平家物語」「花神」の3作を担当した冨田勲、「竜馬がゆく」「樅ノ木は残った」「勝海舟」など多くの時代考証を手がけた稲垣足穂などを知った。

「現代を映し出すことで大河ドラマは共感を呼ぶ」のである。その考えは現代ドラマでも同じだろう。テレビドラマ制作は「時代」との格闘だろう。それはあらゆる分野の表現者のテーマでもある。

日本人の歴史観は「司馬遼太郎大河ドラマ」でできているとも言われる。大原誠はその大河ドラマの黎明期から関与し続けたのだ。2025年のNHk大河は、版元と呼ばれた江戸時代の出版人の「蔦屋重三郎」がテーマとなる。この作品のディレクタは私の友人の甥だそうだ。北斎写楽も登場するだろう。これは楽しみだ。

久しぶりの「後姿探検隊」。後姿には肖像権はない。相手は安心しているので、実に面白い。だいぶたまってきたので、いずれこのテーマで写真集をつくりたいな。

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「名言との対話」10月4日。高田賢三「冒険心が私の人生と創造の原動力」

高田 賢三(たかだ けんぞう、1939年昭和14年)2月27日 - 2020年令和2年)10月4日)は、日本ファッションデザイナー。享年81。

兵庫県出身。神戸外大中退、文化服装学院卒。三愛勤務をへて、1965年パリにわたり、キスタイル会社で修業後、1970年にパリで店をだす。和服をはじめ世界各地の民族衣装からヒントをえた独特な服をパリから発表しつづけ、国際的にたかい評価をえる。1999年に後進にブランドをゆずる。2004年のアテネ五輪日本選手団公式ユニフォームをデザインした。2020年10月4日、新型コロナ感染症による合併症でパリ郊外で逝去。

以上が高田賢三、「ケンゾー」の略歴である。

2024年に訪問した東京アートギャラリーの「高田賢三」展で入手した『TAKADA KENZO』から「木綿の詩人」「色彩の魔術師」と言われたケンゾーの言葉を拾ってみた。

パリの高田の旧宅のリノベーションをやった建築家の隈研吾は、学生時代から高田賢三山本寛斎の自由さに憧れていたとし、「自分も、建築を通じて、彼ら(ケンゾーやカンサイ)の自由を引き継ぎ、未来に伝えたいと思う」と「高田賢三展によせて」で語っている。ファッションと建築という世界は違うが、彼らは束縛を嫌い、禁欲から脱して、「自由」をテーマとしてそれぞれの分野で革命を起こしたのだ。

高田賢三はデザイナー30周年、そして60歳を区切りに「KENZO」ブランドから退いて、新しい挑戦を始めている。また70歳を機にパリの自邸と美術コレクションを売却し、再出発を宣言。その後10年たって、81歳で死去している。

高田賢三は、「冒険心が私の人生と創造の原動力」と語ったように、常に冒険心をもって、新しいジャンルで創造的な仕事をしてた。人生戦略を持っていた人であった。

参考

図録「高田賢三展」

郷里・中津の川嶌眞人先生から、80歳の傘寿記念の『一隅を照らす これ則ち国なり』(梓書院)が届いた。337ページの大作である。

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講演録、「ラサンテ」(川嶌整形外科病院)に掲載された「健康」にかかわるエッセイ)、大分合同新聞の医学史に関する連載記事、日本医師学会・大分県医師会・中津医師会他の雑誌等に執筆した文章や中津を中心とする医史、亡くなった師への追悼文などで構成されている。

これらは、医療現場に立ちながら著書を数多く刊行された先生が、ここ数年に執筆したものであり、健筆ぶりがよくわかる。

贈っていただいた添え書きの文章と、この本の「あとがき」には、先生の80年の人生の軌跡が整理されている。

東京医科歯科大学卒業後に、28歳で赴任した九州労災病院の天児民和院長との出会いがあった。院長のアドバイスは、臨床医として励むことと高気圧医学の研究、蘭学のパイオニアたちの発祥の地である中津の人たちの生き様を調べ生きる糧としたらどうか、であった。その時以来、「臨床」、「研究」、「医学史」の道を歩むことになった。

現時点の総括としては、医療人として、医療現場での臨床と高気圧医学の研究。次に、蘭学・医学史の研究者として、蘭学の里・中津を中心としたパイオニアたちの研究。そして、研究の過程で巡り合った、前野良沢が愛用した古代の竹笛「一節切(ひとよぎり)」の演奏家としても精進している。

川嶌先生の世界観・人生観は、中津の先達・前野良沢の「自然を敬い、自然に従い、自然に寄り添った医学・医療、そして生き方」に影響を受けている。その考えは、中津出身で帰郷して親しく接することのできた福永光司(東大教授、京大教授)の老荘の思想で深まった。

「公人」としては医師として医療の分野で地域医療と医学研究で大きな功績をあげた。「個人」としてはフィールドワークに基づく、地域から始めた医学史の研究に成果を積み重ねている。「私人」として、父のこと、そして2024年に他界した妻・照代さんと後継者であるご子息たちとの家庭も円満であったことを私は目撃している。

川嶌眞人先生は青年期・壮年期・実年期を充実して過ごし、80歳からの「熟年期」の入り口に立って、郷里の中津で「地域DNA」を掘り起こし続けながら、「一隅を照らし、一隅に輝く」という理想の境地を追って、さらに前進することを誓っている。

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八王子夢美術館で開催されている「かがくいひろしの世界展」をみてきた。

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「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯 | +αオンライン | 講談社

「名言との対話」10月5日。瀬長亀次郎「不屈」

瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年明治40年)6月10日 - 2001年平成13年)10月5日)は、日本政治家ジャーナリスト。享年94。

20歳、七高理科入学、社会科学研究会に参加。22歳、放校。。24歳、京浜地区で臨時工、日本共産党入党。25歳、治安維持法で検挙され懲役3年。29歳、沖縄朝日新聞記者。31歳、兵役招集。33歳、復員、毎日新聞那覇支局記者。38歳、田井等市助役。39歳、うるま新報(現「琉球新報」)社長。

40歳、沖縄人民党創立、中央委員。42歳、書記長。45歳、第1回立法院議員選挙で最高点当選。47歳、米軍軍事法廷で懲役2年。49歳、出獄、那覇市長に当選。50歳、米軍の布令で那覇市長の座を11ヶ月で追放。激励の手紙5000通。52歳、沖縄人民党委員長。60歳、16回の渡航拒否を打ち破り11年ぶりに上京。61歳、屋良朝苗主席・平良良松那覇市長を誕生させる。62歳、ジョリオ・キュリー賞。

63歳、戦後初の国政参加選挙で当選。65歳、沖縄返還。70歳、日本共産党国会議員団総会会長。75歳、ヤンバルクイナを国の天然記念物に指定させる。79歳、衆議院議員7期目当選。この間、ベトナム、イタリア、ユーゴ、キューバを訪問。

83歳、衆議院議員勇退。94歳、死去。二つ年下の妻・フミも沖縄人民党市議を長くつとめた。2009年には百歳を迎えた。2010年、死去。

2016年に沖縄那覇の瀬長亀次郎「不屈館」を訪問した。資料の豊富な、そして瀬長の抜群の業績と温かい人柄がみえる優れた記念館だ。

瀬長は文章も、演説も素晴らしくうまい。新聞記者時代もあった瀬長は、人々の心に響く原稿を書いた。色紙を頼まれると必ず「不屈」と書いた瀬長亀治郎の人生哲学に深く納得する経歴である。記念館は「不屈館」と命名された。

1945年の敗戦後、日本軍に代わって米軍が沖縄を占拠。米軍はポツダム宣言を真面目に実施せず占領法規すら踏みにじった。人間としての価値も認められず、虫けらみたいに射ち殺され、はずかしめられ、略奪された。

瀬長には3つの星があった。母(「筵のあやのように、正直にまっすぐ生きるんだよ」)、松原先生(恩師)、沖縄人民党である。

県民を苦しめる三つのマジムン(魔物)と瀬長は言う。それは米軍と安保条約、大企業、自民党である。

「はて、おかしなこともある。平和からやってきて戦争へ行く。それも平和をつくるためにと。なぜはじめの平和にとどまっていないだろう」(瀬長が引用したドイツの寓話から)

瀬長の風貌は何か滑稽感があり漫画にしやすいらしく、よく対象にされたらしい。また写真をみると、よく笑っており、快活な行動で、親しみやすく、大衆に人気があったのはうなずける。

瀬長は次のように語っている。「こんなときはよくやすんで明日のたたかいを組むことだ。早めにねる」(日記)。「悲愴感があまり出すぎるとたたかいは長つづきしないことを学ばされました。だからたまには冗談もとびだし、ユーモラスなこともいう、いわゆる楽天的にかまえるということであります。しかも一本のスジは絶対に通していく、このことはつねに注意をはらうことにしています」。明るい楽観派の姿はまわりに勇気を与えたことだろう。

以下、瀬長亀次郎の言葉

冒頭の「不屈」は、瀬長の人生を一言で表す言葉だ。瀬長らの行った「島ぐるみ」闘争は今も続いている。「再び戦場にするな、沖縄を平和の島にして返せ」と叫んだ瀬長亀次郎の目には、今の日本と沖縄の姿はどのように映っっているであろうか。

参考資料。

第31回『心の健康会議』シンポジウム「生涯学習社会を生きる児童・生徒を考えるーーー人生における子ども時代に寄り添う臨床心理士」の報告が掲載された『臨床心理士報』が届いた。

2024年3月3日に北九州ソレイユホールで開催されたビッグイベント。私はシンポジストとして登壇した。

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私の発言「100年人生における子ども時代ーライフデザインの観点から考える」。独自のフィールドワーク2つ。人物記念館の旅と名言との対話。人生100年時代。人生観を変えよう。ライフをデザインする時代。公人、私人、個人。玄孫、来孫を目にする時代。親や先生が子供から見られている。子供の問題というより、大人の問題ではないのか。ヒントは、母親の影響力と先生の影響力。モデルはどこにいるのか。近現代の代表的日本人の中にいる。7つの共通項。偉い人。一廉の人物。人物伝。人生100年の生き方のモデルは日本にある。」「出会い。自分づくり。いじめ、非登校」

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『アクティブ・シニア革命』編集ミーティング(デザイン・DTP関係)のZoomの要約。

会議では、雑誌のデザインとレイアウトに関する進捗状況が議論され、表紙、目次、写真配置などの具体的な要素に焦点が当てられた。また、編集プロセスの課題やDTP作業の効率化、パソコン環境の改善についても話し合われた。全体を通して、チーム内のコミュニケーションの重要性が強調され、情報共有と頻繁な意見交換の必要性が確認された。

・近藤: 原稿を受け取り次第、PDFに変換して久恒と都築に確認してもらう。

• 近藤: デザインを進めながら、著者との最終確認を行う。

• 力丸: 扉ページと連載物のタイトルロゴを作成する。

• 力丸: 書評ページ用の図解を作成する。 白ベースで緑の枠を使った表紙デザインを作成する。

• 久恒と都築: 原稿の誤字脱字や人名のチェックを行う。

• 編集部: 原稿の文字数調整や修正を行う。

•久恒: 小笠原さんとのミーティングをセットする。

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婚約会見をする河西昌枝さん(右)と陸…:「東洋の魔女」河西昌枝さん 写真特集:時事ドットコム

「名言との対話」10月3日。河西昌枝「勝つためにみんなが 一つの目標に向かってやった 青春時代に命懸けでやったことが その後の人生の大きな宝物」

河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、女子バレーボール選手。享年80。

山梨県立巨摩高等学校 から バレーボール選手として、日紡関ヶ原 、 日紡足利 、そして伝説の日紡貝塚へ。河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼キャプテンとして金メダルの獲得に大いに貢献した。

当時の監督の大松博文は「鬼の大松」と呼ばれるほど徹底したスパルタ式のトレーニングで知られており、根性バレーで徹底的に鍛えた。選手たちは「回転レシーブ」という武器で拾って拾って拾いまくるバレースタイルを身に着けた。このときのことを、目に見えない積み重ねでいつかできるようになる、と敢闘精神にあふれた河西は後に語っている。チームメートたちは「オリンピックが終わったら、婿は世話をする」という大松監督の言葉に安心して励んだ。

174㎝の河西はオリンピック終了後の1965年1月に日紡を退社し、5月に佐藤栄作総理の取り計らいで2歳年上の自衛官(172cm)と結婚した。大松監督の仲立ちで結婚したのは6人中4人であり約束は守られたのである。そして河西はママさんバレーの指導者となった。2003年3月には日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長を務めた。2008年はバレーボール殿堂入りを果たした。

河西のことを調べるのに、『時代を創った女たち』の中村昌枝の章を読んだ。この本はNHK「ラジオ深夜便」のインタビューをまとめたものだ。各界で抜群の功績を挙げている女性の発言もついでに堪能した。

志村ふくみ「日本人の精神の根本には色がある」。森下洋子「一日一日の積み重ねがすべて」。樋口久子座右の銘は平常心」。山田満知子「リンクの冷たい空気は、私の体の一部なんです」。今井通子「物事って、始めてしまえば思っていた以上のことができてしまうんですね」、、、。

「あの程度の相手なら必ず勝ちます」とは、ソ連戦で第一セットを落とした時に河西が監督に語った言葉だ。優勝にはチームの中心にこういう冷静なリーダーの存在が必要だった。

東京オリンピックの女子バレー優勝決定戦は、家族全員で見た記憶がある。一喜一憂し、興奮してみた。 NHK[あの人に会いたい」では、「勝つためにみんなが 一つの目標に向かってやった 青春時代に命懸けでやったことが その後の人生の大きな宝物」と語っており、さわやかな印象だった。

ラジオ深夜便 時代を創った女たち (ステラMOOK)