久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」 (original) (raw)
「図解塾」は「日本文化」を大テーマとして実施している。本日のテーマは「カラオケ」と「妖怪」。
「オケ」とはオーケストラ、「カラ」は「空」であることからのネーミングである。世界を席巻している1兆円規模までになった「カラオケ」産業の功労者12人の名前が紹介された。
日本独特の「妖怪」はかわいく、親しみがあることが特徴である。柳田国男、荒俣宏、水木しげるなどの名前と、具体的な妖怪、そして今も奄美大島で道路標識に使われている「ケンムン」など話題は尽きることがなかった。
塾生の学び。
- 本日もありがとうございました。本題に入る前の様々な情報も大変ありがたいものだと思っています。特にMetamojiのお話はたいへん興味深くうかがいました。近い将来、すごいことになりそうで、大いに期待しています。谷村新司と筒美京平のことについてもたいへん興味深く聞きました。やはり私にとっても好きなアーティスト、作曲家です。本題の「日本を知る105章」について、本日は「カラオケ」と「妖怪」でした。「カラオケ」については私が担当したのですが、竹内宏さんの文だけでは分からなかったカラオケの起源や、カラオケ文化をつくる基になった12人、あるいはカラオケが経済に与えている現状など調べて、我ながらたいへんよかったと思います。高度経済成長以降、カラオケの果たしてきた役割、特に地域のつながりの崩壊、孤独といった問題を緩和してきたことを改めて認識しました。歌が上手い下手に関係なく、発散でき、拍手してもらって自己実現ができるという役割は、これからも続くでしょう。 「妖怪」は荒俣宏さんの博物学者ならではの視点がたいへん興味深いものでした。妖怪は「部分」であるというのはとてもユニークでした。怖いお化けもいますけど、多くの妖怪は愛らしく、人間と共存して、かつ自動車など現代とも結びついていることを知り、面白く聞くことができました。今後も楽しみにしております。
- 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日は、『日本を知る105章』の続きで、「32.カラオケ」と「33.妖怪」を文章と図解で読み解きました。
「カラオケ」ではカラオケの起源や開発者の一覧などが図解にあって、ジュークボックスなど懐かしい機器もあり、カラオケの歴史がよくわかりました。また、カラオケは人と人の絆を深めるための効果的な装置の役割を果たしており、少子高齢化や孤独などによる地域のコミュニティーの崩壊の防止にも役立っているとのこと。またその経済規模も1兆円と、日本発のユニークな大きい産業であることが分かりました。 担当した「妖怪」では、妖怪が声や音声、身体の一部、道具・器など、全体ではなく部分として現れて、人を驚かしたりするのですが、人に危害を加えるというよりは、むしろ恐れながらも親しみを持って受け入れられているというところが面白いと思いました。奄美大島にはケンムンという妖怪がいる(と信じられている)ことで、島の中のあらそい事などが丸く治まっているという話もあり、妖怪の存在の意外な効果?も知ることができました。また、現代では妖怪がアニメやゲーム、ヒット商品、観光資源などにもなっていて大活躍。今後の活躍も大いに期待できそうで、面白いと思いました。 - 本日もありがとうございました。「カラオケ」と「妖怪」でした。「カラオケ」は、随分前に書いてあることだけを図解した記憶があるので、今回のように、文章以外のことを調べて加えられていて、視点が少し違う図解をみるのは面白かったです。
カラオケの誕生のきっかけとなった12名の方々の関係性を調べてみるのも面白そうですね。「妖怪」は、全体は見えずに「部分」で登場するもの。声・音声ででてくる。体の一部分だけ出てくる。秘められた部分を闇の部分を強調したもの。寄せ集め。という説明が、ゲゲゲの鬼太郎を思い出し、なるほどと、思いました。広島の三次もののけミュージアムは、楽しそうですね。行ってみたいです。 平安の頃の妖怪は鬼、天狗、狐、狸、怨霊。江戸時代に妖怪パンデミック。いろいろな妖怪が書かれ、奄美大島には「ケンムン注意」の標識があるとか、ポケモンもいわゆる妖怪! 日本人は面白くするのが上手ですね。次回からも面白いお題が進みます。今日は自分の番は回ってこないと思ってすみません、図解、仕上げます! - 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は規定科目の『日本を知る105章』の「32_カラオケ」、「33_妖怪」の2つの図解が発表されました。
「カラオケ」については、独自に調べた内容として、カラオケの起源や開発者、及び市場規模などが追加されていました。おかげで、本文に至る背景をしっかり捉えることができました。特に、カラオケの開発者が12人もいるとは思ってもみなかったですし、だからこそ外国人に広がるくらいクオリティの高いものとして今も進化し続け、また、地域コミュニティでも活用されてるんだなと思いました。そして、平和な社会であれば、音楽の広がりとともにこれからもカラオケは長く愛用されていくんだろうなと思いました。 「妖怪」については、図解がとても見やすく、特に目を引いたのは「鬼、天狗、狐・・・」から「水木しげる、ポケモン」へとつながっていることと、ケンムンの標識の写真でした。日本人と妖怪の関係が、怖いけれど惹かれるようなものという感じがしましたし、図解の解説をきいて、日本人にとって妖怪がどれだけ身近な存在なのかに気づけました。また西洋のモンスターと対比したら面白い図ができるのかなと思いました。
次回も民俗性に気づくような日本文化について学びたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。 - 10月の図解塾に参加させていただき、ありがとうございました。途中からの参加でしたが、とても興味深い内容でした。今回は「日本を知る105章」の中から33番目の妖怪について、荒俣宏さんが書かれた記事をもとに図解で説明してくださり、非常に興味を引かれました。地元岡山には桃太郎伝説があり、鬼にまつわる語り継がれた話が存在するため、今回のお話は身近に感じました。妖怪は、鬼や天狗、狐、狸、怨霊とは異なり、声や音声、姿として現れることが特徴であることが理解できました。妖怪との問答や、身体の一部、道具、器としてあらわれるという説明を聞き、妖怪の全体像を把握でき、とても興味深かったです。漫画家の水木しげるさんが「ゲゲゲの鬼太郎」などで妖怪を描き、日本中にブームを起こしたことも思い出しました。現在では鳥取県の観光資源としても活用されており、妖怪の多様な可能性を感じました。妖怪について知ることで、人生が少し楽しくなるのではないかと思います。 次回も楽しみにしております。
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「名言との対話」10月9日。輪島大士 「裸になったので、また裸で出直します 」
輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属のプロレスラー、タレント。享年70。
石川県七尾市出身。日本大学相撲部で2年連続の学生横綱となる。大相撲の花籠部屋に所属。初土俵から1年で新入幕。「角界のプリンス」貴ノ花と大関に同時昇進、「貴輪時代」到来かと言われたが、伸び悩んだ貴ノ花とは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は大関4場所で横綱に昇進した。後に登場した「昭和の大横綱」北の湖とのライバル対決の時代は「輪湖時代」と呼ばれた。この二人の千秋楽対決が大相撲人気を指せた。通算の成績は輪島の23勝21敗だった。立派な横綱を目指した北の湖は輪島を「壁のような存在」「あの人がいたから私は頑張れた」と言い、輪島は「永遠のライバル」と返した。
輪島はスーパースター、名横綱、天才力士、輪湖時代の主役、大卒初の横綱、黄金の左下手投げ、、、、と呼ばれたことでわかるように相撲界の至宝だった。通算で14回の優勝を果たしている。最後まで四股名は変えず、本名の輪島で通したのはは珍しい。
花籠親方の長女である輪島の妻の証言を記した『真・輪島伝 番外の人』は2019年7月8日発刊の衝撃の書だ。以下、その内容。
八百長相撲の清算に使った。相撲界での隠語で「チュウシャ」という。星の買取だけでなく、賞金も全て渡していたとの噂もあった。星の取引は負けて返すか、金で解決する。横綱は買取が常識だいわれている。遊びに忙しく稽古不足の輪島は1場所に何番か白星を買っていたとされている。
「裸になったので、また裸で出直します 」の「裸」発言は、引き継いだ花籠部屋が自身の不祥事などで消滅し、裸になって、相撲界からプロレス界に転出した時の言葉である。当時はこの転身を不思議に思っていたが、裸一貫での出直しだったのだ。輪島なりの決意の言葉だが、成功はしなかった。
「番外」とは、拉致外というか、話にならないという角界の隠語である。番付けの外だから、悪い意味で使われる。実績は番付のトップだが、実像は番外だったのである。
ライバルの貴ノ花は、引退後は親方となって息子の貴乃花と若乃花を横綱にまで仕上げ、大相撲の絶頂期をつくった。もう一人のライバル・北の湖は相撲界で階段を登り日本相撲協会理事長をつとめるなどトップとして相撲界に大きな貢献をした。
一方、稽古嫌いで遊び好きだった輪島の人生は二人のライバルのみごとな出処進退のようにはいかなかったのである。
「福祉図解塾」の第2期がスタート。10月から12月。継続4‐5名、新規2-3名か。今期のテーマは「こども白書」。
以下、塾生の学び。
福祉図解塾 第2クールの1回目ありがとうございました。箇条書きの限界と問題点について、あらためて解説を頂いた。会議で自分の伝えたいイメージは箇条書きでは伝わらないことを実感したばかりであっただけに、心に響きました。箇条書き中心のレジュメなどの書類提出をうけると、その関係性や重要性の濃淡などが気になり、図式化してほしいと感じるのは、この講義の副作用だと思う(笑)また、もう一つ今日心に残ったキーワードとして、「これまでの『説得型行政』ではなく、これからは『納得型行政』へ」という言葉。日頃の会議の様子を思い出し『納得』してもらうためには『共感』してもらう必要があり、そのためには図解による視覚化は大いに役立つツールである。 清田さんはじめ、皆さんも忙しい中、この時間に集うために時間と戦い、勉強会に参加している姿に尊敬の念をいだくとともに、自分も様々な障壁に負けぬよう頑張って参加したいと思います。子ども白書の図解化大変そうですが、楽しみです。
今夜もありがとうございました。初めてうかがうお話や図も多く、改めて図解の力を知ることができました。伝える、伝わる、理解することに役立つ図解。自治体職員全員の仕事の図解、行政改革と図解、図解はパワフルだと思いました。継続参加の皆様、継続してくださり嬉しいです。そして、新しい方々にも聞いてもらえてよかったです。参加をご検討ください。 この週末は鹿児島にいて、幕末記念館や知覧特攻平和会館を見に行きました。久恒先生のように記録に残したいと思いましたが、資料がたくさんありすぎて、まとめるのはなかなかうまくいかず。今期はいろいろなものの全体をとらえてもっとわかりやすく図解化していきたいです。
今日は福祉図解塾第二クールの初回だった。私は、「文章を書ける人が出世する行政職」という言葉がとても腑に落ちた。実際のソーシャルワークの展開過程や、面接技術の向上からなる評価と出世との乖離や、評価のされにくさに葛藤を抱いている。振り返れば、こどもや保護者と上手くいったと思うケースほどきれいな文章が残っていないし、綺麗な記録ほど、根拠を残してなんとか終結にしたいケースであり、上手くいっていないケースだったのかもしれないということに気付かされた。また、「箇条書きが思考を停止させる」ということも腑に落ちた。図は全体や将来の見通し、ビジョンを表し、文章はその一部であることも分かった。テストの前に必死に覚えたあの単語たちが身についていないのはそういうことかと気づいた。知識が身につき、用いることが出来るよう図解を身につけたい。そして、皆様と共に学び、繋がれることに感謝して、福祉の現場を良くしたい。そう思えた時間となった。
本日もありがとうございました!1期で、自分の頭の中が「箇条書き」だということに気付けて良かったと思っています(笑)今日のお話を聴いていて、この前まで「箇条書きで整理されたと思っていた」自分が笑えます。まだまだ頭の中は縦割りで関係性がつながっていないところがあるので、図解を考えることで頭の中も箇条書きから図解へと変化していけたら・・と思います。よろしくお願いいたします!
本日は貴重なお時間となりました。参加できてよかったです。行政機関の仕事の仕方には、課題は多く、箇条書きで整理しているつもりになることや、説得にかかっていることなど、自身の職場、連携している市町、そして教育の中でも日常的に繰り広げられているなと改めて感じました。実際現場で説明している多くは言語のみで進めていたり、その場はわかったように終わることも、納得が出来ていないため拗らせていることはとても多く、また図解を作ることで自分自身の理解に繋がると思いました。 まずは自分の仕事を図解に起こしてみるところから見つめ直そうと思いました。日本の文化など、福祉から少し離れた分野で頭を整理していくこともいいなと感じたので継続参加にはちょっと調整を要しそうでしたが、明日からの業務に早速エッセンスを取り入れられたらと思います。本日はありがとうございました!
本日は参加させていただき、ありがとうございました。同じ職場の先輩である安島さんから「ホワイトボードを書くのに勉強になる面白そうな研修があるよ」とお声掛けいただき、参加させていただきました。 今日学ばせていただいた感想を図解で示した方がよいのでは…と思いながら、文字を起こしております。特に印象に残った内容は、以下の3点です。①図は全体、文章は部分!②図を書く人が進化すれば図は進歩する!③ホワイトボードを書く上で大切なのは3つ(キーワード、丸、矢印)!今日の学びから、これまで図解の重要性を深く認識せずに働いてきたことを自覚しました。ですので、今日の学びを軸に、まずは自分が全体像を捉え、カンファレンスに出席するみなさんにも分かりやすく伝えられるよう訓練して参ります。本日は、ありがとうございました
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福祉図解塾
要点
久恒氏は図解コミュニケーションの重要性と効果を強調し、自身の経験や知識管理システムを通じてその有効性を示す。図解技術を用いて複雑な問題解決や業務効率化が可能であり、特に福祉分野や行政改革での活用可能性が高いことを説明する。参加者たちは図解の利点について議論し、実践的な応用を検討する。
次のステップ
全員: フェイスブックの「福祉図解塾」グループに参加し、メールアドレスを記入する。
全員: 10月9日午前5時までにフェイスブックグループに今日の学びの感想を投稿する。 安島さん・吉岡さん: フェイスブックのプライバシー設定を高くして参加する。
juri: 新規参加者の感想をメールで受け取り、グループ参加の手続きを行う。
継続参加者: 次回までに自分の図解の進化過程を示す資料を準備する。
juri: 子ども白書の図式化プロジェクトの具体的な進め方を検討し、提案する。
全員: 10月22日の次回セッションに参加する準備をする。
久恒: juri と子ども白書の図式化プロジェクトの進め方について相談する。
全員: 希望者は10月9日の図解塾、10月16日の幸福塾にも参加を検討する。
juri: 録画を希望する参加者に録画を送付する。
久恒: 次回セッションで新規参加者の自己紹介の時間を設ける。
全員: 3ヶ月間で子ども白書の図式化プロジェクトを完成させることを目指す。
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要約
図解コミュニケーションの効果と継続受講の重要性 久恒氏が図解コミュニケーションの講座について説明し、その重要性と効果を強調する。juriとNobuta氏が継続受講の理由を共有し、図解の力を福祉分野や仕事に活かしたいと述べる。久恒氏は自身の経験から、図解を用いて複雑な問題を解決し、大きな議論を促進できることを説明する。
福祉図解塾の効果に関する議論
久恒氏が主催する福祉図解塾の効果について、参加者の松本龍二氏が体験を共有する。松本氏は、図解を用いることで職場でのコミュニケーション改善、研修の効果的な実施、問題解決能力の向上を実感したと報告する。久恒氏は、図解の活用がプレゼンテーション力の強化、リーダーシップの向上、視野の拡大につながると説明し、さらに行政における図解の有効性についても言及する。
キャリアと知識管理システムの概要
久恒氏は自身のキャリアと知識管理システムについて説明する。彼は図解技術を用いて、自身の経歴、研究、社会貢献活動を体系的に整理し、それをSNSと連携させている。久恒氏は、この方法により情報を効率的に管理し、必要に応じて迅速に取り出せることを強調する。また、長年にわたる勉強会の運営経験や、様々な分野の専門家との交流が自身の知識拡大に貢献したことを述べる。
図解の重要性と若い社会人の課題
久恒は30代の社会人を対象としたアンケート結果について説明し、大学で学んだ能力と現在重要な能力の差異を指摘する。特に自己表現能力の欠如と幅広い教養の不足が若い社会人の課題であると述べ、これらの問題を解決するために図解の重要性を強調する。久恒は、図解を通じて自己表現能力や教養を身につけることができ、それが長期的に自分の意見や見方を形成する上で重要だと主張する。
図解思考の重要性と効果
久恒氏は、図を使って考えることの重要性について説明し、文章よりも図の方が全体像を把握しやすいと強調する。彼は、ホワイトボードに書く際はキーワードと関係性を重視し、細かい情報は避けるべきだと助言する。また、久恒氏は自身の著書の成功例を挙げ、図解思考の有効性を示し、図を描く能力が向上すると図自体も進化すると述べる。
図解の有効性と文書作成の問題点
久恒氏は、文章、箇条書き、図解の比較を通じて、図解の有効性を説明する。図解は深い質問や新しい企画を生み出し、理解と疑問を同時に促進すると主張する。また、行政や企業での文書作成の問題点や、児童福祉分野での図解の可能性についても言及する。
久恒氏は、宮城県の大崎市での市町村合併後の行政改革について説明し、職員の業務図解作成による組織の効率化について述べる。特に、社会福祉課の業務内容や子育て支援、高齢者福祉などの分野での図解例を紹介し、同じ仕事でも職員によって認識が異なることを指摘する。久恒氏は、この図解作業により、業務の重複や抜け落ちが明確になり、約30%の業務削減が可能になると主張する。
図解の利点と使用
久恒さんはフェイスブックグループ「福祉図解塾」への参加を促し、参加者に感想を書くよう依頼する。参加者たちは図解の利点について議論し、箇条書きと比較して図解の方が理解しやすく、効率的であると意見を共有する。信田さんは最近の会議で図解を使用したいと感じるようになったことを報告し、以前作成した図解資料について紹介しようとする。
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MetaMojioの山田さんから電話。開発状況の報告と課題、今後の見通しなどを説明してもらった。
孫正義「AGI(人間と同等)は2‐3年。ASIは(人間の1万倍)は10年。
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「名言との対話」10月8日。谷村新司「我も行く 心の命ずるままに 我も行く さらば昴よ」
谷村 新司(たにむら しんじ、1948年〈昭和23年〉12月11日 - 2023年〈令和5年〉10月8日)は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家。享年74。
大阪市出身。1971年に堀内孝雄とアリスを結成する。翌年矢沢透をくわえ,「冬の稲妻」などで人気をえる。1978年、山口百恵の「いい日旅立ち」を作詞、作曲。1982年からソロ活動をはじめ,「昴(すばる)」「群青」などのヒットをとばす。
2004年、中国の上海音楽学院の教授に就任。2013年、年震災孤児支援曲「風の子守歌」の作詞などで毎日芸術賞。同年「谷村新司40周年特別記念コンサート〜40Vibration〜」他で芸術選奨文部科学大臣賞。
中国東北部の吉林大学で客員教授をしていたとき、千昌夫の「北国の春」は中国人は誰もが歌えて驚いたことがある。そしてもう一つは谷村新司の「昴」もよく知られていた。駐日大使の呉江浩は、日本語ができる人はほぼ全員が歌えるし、この歌の中国語版は誰でも歌えると言い、この歌の絶大な影響力を語っている。また、2007年に温家宝総理は来日時に安倍総理主催の歓迎会で「昴」を歌っている。この歌は「北国の春」と同じく、台湾、韓国、タイアジア諸国で歌われている。
谷村新司というシンガーソングライターは、歌詞とメロディが同時に生まれるという。こういうタイプは珍しい。
2023年に谷村が亡くなった時、多数の追悼番組が組まれた。そとき、改めて歌を聴いて痺れたことを思いだした。
- 「サライ」:「故郷を捨てた」「汽車の窓辺」「恋をして恋に破れ」「動き始めた朝の街角」「サクラ吹雪のサライの空へ」「迷いながらいつか帰る愛の故郷」、、、
- 「昴」:「荒野に向かう道」「砕け散る宿命の星たち」「青白き頬」「夢を追い続けるなり」「さんざめく名も無き星たち」「鮮やかにその身を終われよ」「心の命ずるままに」「我は行くさらば昴よ」、、、
私は「サライ」の気持ちで故郷を出て、今は「昴」の心境だ。荒野に向かう道を行こうとする「この身を照らせよ」と言いたくなる。この二つの歌はカラオケで歌えるようにしておきたい。
人生をどうとらえるか。私は一個の作品としてみている。生きている間は、誕生から死去するまでの生涯を意味のあるものにしようとする過程にある。この作品は最後までその姿はおぼろであって明確な像は結ばない。「棺を蓋いて事定まる」のだ。「昴」を応援歌として、夢を追いかけて一人荒野を歩んでいこう。
八王子夢美術館の『かがくいひろしの世界』展。この美術館は地味だが、いい企画を連発している。この人気の絵本作家の企画展は子ども連れの夫婦が多かった。
かがくい ひろし(加岳井 広, 1955年2月6日 - 2009年9月28日)は、日本の絵本作家。1980年東京学芸大学教育学部卒業。特別支援学校で美術教員として教鞭をとりながら、人形劇活動や造形作品の発表を行う。2005年に50歳で『おもちのきもち』で第27回講談社絵本新人賞を受賞した。代表作の『だるまさん』三部作シリーズは累計発行部数552万部のベストセラー。2009年に54歳ですい臓がんのため急逝するまでのわずか4年という短い期間のうちに、数多くの作品を発表した。
本人「子どもたちから、たくさんのことを学びました。もし教師をしていなかったら、絵本をr学ようにはならなかったでしょう。子どもたちの喜びは自分の喜びでした」
- 娘:父から「努力していれば、どこかで必ず誰かが見ていてくれる。認めてくれる人がいる。それを信じて、やりたいことをやってみなさい」と言われた。
- 妻「大学で出会ってから30年、加岳井広という善き人が身近にいて、その幸せにどっぷりと浸かっていたの、その分の喪失感はたとえようのないものです」
会場では幼い子どもが「だるまさん」と遊んでいたのは感動的だった。
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夜
「デメケン」のミーティング。
「アクティブ・シニア革命」編集会議
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「名言との対話」10月7日。筒美京平「音楽も人生も、エンディングが大事です」
筒美 京平(つつみ きょうへい、本名:渡辺 栄吉(わたなべ えいきち)、1940年〈昭和15年〉5月28日 - 2020年〈令和2年〉10月7日)は、日本の作曲家、編曲家。享年80。
東京都出身。青山学院大学卒業後、日本グタモフォンに入社。1966年、作曲家デビューし、1966年から専業になる。1968年、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」がオリコン週刊1位となる。以降、怒涛の仕事量でヒットを飛ばしてく。
1971年に尾崎紀世彦「また逢う日まで」、1979年にジュディ・オング「魅せられて」で、それぞれ日本レコード大賞となる。
岩崎宏美「ロマンス」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、近藤真彦「ギンギラギンにさりげなく」なども筒美の作品である。
50年にわたりオリコンでチャートインした曲は500曲以上。1位は39曲、3位以内は100曲、10位内は200曲。「魅せられて」は750万枚の売り上げで歴代作曲家総売り上げランキングで第1位。最も多くのヒット曲を世に出した作曲家である。また、日本レコード大賞作曲賞を5度受賞しており、これもトップである。
「筒美京平 珠玉の名言・格言21選」という情報がサイトにあった。ヒットメーカー筒美京平のこれを分析してみたい。
- 「ヒット」の秘訣を語っているものは以下。「黒子みたいにいるべきだと。自分の持っている音楽を表明していく感じでは全然ない。ヒットすることがベスト。それに殉ずる」「プロとして曲を作るうえでは、1曲ヒットしたら2曲目、3曲目もヒットさせたいと思うもんなんです」よ」「自分の音楽と人の音楽が闘っているみたいな緊張関係を持っていないとダメなんです」「注文が来れば来るほど、いい仕事ができる」
- 2塁打、3塁打クラスの「大ヒット」作品を語ったものは以下。「大ヒットした曲には、必ず過去の作品にない何か新しいものが加わっている」
- ヒットの延長線上に「ホームラン」がでる。それをレコード大賞とすると、2回のホームランを打っていることになる。
- そして「『上を向いて歩こう』にはかなわない」という言葉があった。1963年に中村八大作曲、永六輔作詞で、坂本九が歌って、アメリカのブルボード・ホット100のヒットチャート1位となった「SUKIYAKI」だ。日本という球場を越えて世界のトップとなったこの曲はまさに「場外ホームラン」だろう。
筒美京平という日本最高の作曲家は、自分はシンガー・ソングライターなどの芸術家ではないとし、「僕は職業作曲家」と自認している。そして職人的なプロ意識で襲ってくる注文をこなしていったのだ。
筒美京平にはそれぞれ素晴らしい名言があるが、私の心に一番響いたのは、「音楽も人生も、エンディングが大事です」だ。
人生のエンディングはどうだったのか。晩年はパーキンソン病を患ったのだが、2013年の「時空ツアーズ」、2015年の「再会タイムマシーン」、2016年の「青い炎シンドローム」など作曲活動は盛んだった。2010年代には「センチメンタル・ジャーニー」「時空ツアーズ」「齧りかけの林檎」の3曲がシングル売り上げトップ3に入っていることでわかるように最後までレベルの高い仕事をしている。エンディングを大事にした人だったのだ。
川崎駅直結のミューザ川崎シンフォニーホールでアマデウス・ソサイエティー管弦楽団の演奏会。レベルの高い市民参加のオーケストラ。
このホールはステージを囲む形で座席が設計された「ヴィンヤード形式」の、音響効果の高い設計だった。総座席数は1997。
指揮は松川智哉。30代の若手指揮者の注目株。確実な技術と情感豊かな表現が特徴とされる。市民交響楽団のメンバーをよく盛り上げた姿が印象的だった。
曲目はリヒャルト・シュトラウス(1864-1949年)の交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」と交響詩「死と変容」。壮大でドラマチックな音楽だった。ブラームス、マーラー、ショパンらに影響を与え、ドイツロマン派の終盤から20世紀音楽への橋渡しをした。
「死と変容」の完成から60年後に85歳で亡くなるが、その2日前に昏睡状態から目覚めた時に妻に語った。「「死と変容」の中で語ったことは全て正確だった。私は今こそ言うことができる。なぜなら私は今しがた、文字通りそれらを体験してきたのだから」
「ツアラツストラはかく語りき」の冒頭の「夜明け」は、映画「2001年宇宙の旅」で使われた。「英雄の生涯」という作品はシュトラウス自身の人生を描いた自己肯定感の強い作品で、賛否の批評を受けた。
同じくロベルト・シューマン(1810-1856年)の交響曲第一番「春」の「春の訪れ」「たそがれ」「楽しい遊び」「たけなわの春」。春の到来を表現した明るい音楽だった。シューマン31歳あたりの作品で、愛を成就させた人生の春を迎えたときに、驚異的な速度で完成させた作品。
「たくさんの幸せな時間を与えてくれた交響曲は、ほぼ完成された。最終的な完成は、これを耳にする時だ。こんなに容易に、このような大規模な作品をごく短時間のうちに私に書かせてくれたよき精神に、どれほど感謝しただろう」。交響曲を書くことは作曲家を志して以来のシューマンの理想だった。最初の演奏は盟友・メンデルスゾーンの指揮で圧倒的な成功をおさめた。シューマンはドイツロマン派の代表的作曲家。
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終了後は、ホールの1階でお茶会。30代初めのJAL客乗時代の仲間の環さん、堀さん夫婦、私たち夫婦での愉快な交流会。
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「名言との対話」10月6日。大原誠「大河ドラマを作るには、時代を読まなくてはならない」
大原誠(おおはら まこと、1937年10月24日 - 2018年10月6日)はNHKのディレクターである。享年80。
京都出身。京都大学文学部イタリア文学科卒業後、NHKに入局。入局3年目の24歳。社会部から異動してきた芸能局長から「映画に追いつくような、日本一のドラマを作れ」と命じられた。大河ドラマ「花の生涯」に演出助手として参加する。この大河ドラマの第一作「花の生涯」の平均視聴率は、20.2パーセント、「桜田門外の変」の放送回は32.3パーセントを記録し大ヒットとなった。主役の井伊直弼役は(二代目)尾上松緑だ。この作品は子ども頃に家族そろってみていたから、井伊直弼については私は悪い印象を持っていない。
その後、「樅の木は残った」「樅木は残った」「元禄太平記」で演出を担当し、「風と雲と虹と」「草燃える」「徳川家康」「八代将軍吉宗」「元禄繚乱」では演出のチーフを務める。
現代ドラマも数多く手がけ、1990年に「不熟につき…」の演出で芸術選奨文部大臣賞を受賞。NHK退職後はフリーの演出家として活動し、「狼女の子守唄」(TBS系)、「疑惑」(テレビ朝日系)、「二十四の瞳」(日本テレビ系)ほかを演出した。
NH大河ドラマの膨大な作品群は、日本人の歴史観に大きな影響を与えている。私も毎年見続けてきたから、大いに影響を受けているという自覚がある。そういった仕事をしたことは男冥利に尽きるだろう。
大原によれば、徳川家康が主人公の大河は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という家康の我慢強さが、視界ゼロ経済の1983年という時代に合ったそうだ。キーワードは我慢、辛抱 だという読みである。大河ドラマを作るには、時代そのものを読まなくてはならない。
五木寛之は優れたマーケッターとして時代と社会をつかみ、優れたカウンセラーとして言葉を紡ぎ人々に伝える。五木寛之はその名人だった。「みんながそれぞれ心の中に持っている無意識の欲望や夢を感じ取り、形にして投げ返すのが作家だと思っていいます」、今を生きる人々の心を慰めるのが自身の役割だから、時代とともにあるから消えることはない。作家としての長寿の秘密はここにある。
若手人気作家の今村翔吾は、戦国武将を描くことが多い。人物を選ぶ場合に、現代のテーマと絡めて選択しているそうだ。松永弾正久秀を描いた『じんかん』は社会の不条理に抗う人びとを描いた告発の作品、『塞翁の盾』は最強の矛と最強の盾の名人の対決を通じて示唆する戦争と平和の行方、『海を破る者』は元寇と国難に立ち向かう武将とキーウ(クライナの首都)出身の脇役を登場させた平和への道がテーマだ。つまり、歴史小説は、現代という時代のテーマを描く小説なのだ。
大河ドラマは現代を映し出す鏡でなければ、視聴者の共感を呼ばない。だからプロデューサーやディレクターは日本の社会や経済、世相に対する「読み」と、それを作品に仕上げていく「戦略」が重要となる。
そして作品を仕上げるには、時代考証、衣装考証、音楽、、そして多くの職能を長い期間にわたり、まとめ上げていかなければならない。この「名言との対話」で、「山河燃ゆ」以来33作32年にわたって大河ドラマを支えてきた、着物一筋の衣装考証の小泉清子、「天と地と」「平家物語」「花神」の3作を担当した冨田勲、「竜馬がゆく」「樅ノ木は残った」「勝海舟」など多くの時代考証を手がけた稲垣足穂などを知った。
「現代を映し出すことで大河ドラマは共感を呼ぶ」のである。その考えは現代ドラマでも同じだろう。テレビドラマ制作は「時代」との格闘だろう。それはあらゆる分野の表現者のテーマでもある。
日本人の歴史観は「司馬遼太郎と大河ドラマ」でできているとも言われる。大原誠はその大河ドラマの黎明期から関与し続けたのだ。2025年のNHk大河は、版元と呼ばれた江戸時代の出版人の「蔦屋重三郎」がテーマとなる。この作品のディレクタは私の友人の甥だそうだ。北斎や写楽も登場するだろう。これは楽しみだ。
久しぶりの「後姿探検隊」。後姿には肖像権はない。相手は安心しているので、実に面白い。だいぶたまってきたので、いずれこのテーマで写真集をつくりたいな。
- 今日は、早朝のブログと「名言との対話」でひと仕事。5日と間違えて瀬長亀次郎を書いた。4日は高田賢三なのでそれを書くことにする。
- ヨガ教室で1時間たっぷりとカラダの柔軟性を高めるストレッチ。参加者はいつもの4人で、私が最年長。今日は調子がよかった。
- 過去の読書記録を整理した。2004年からの20年間の記録が残っている。2004年4冊、2005年4冊、2006年10冊、2007年29冊、2008年18冊、2009年18冊、2010年25冊、2011年42冊、2012年57冊、特に2013年から数年間は、年間100冊近く読んでいる。2016年から「名言との対話」を始めたが、そのために必死で自伝・伝記を中心に200冊以上読み込んでいる。概算で1500冊ほどの読書記録があることがわかった。いずれ『読書悠々』というタイトルでまとめたい。
- 夕方は歯の定期チェック。ここ数か月、真面目に歯を磨いているので、成績はよかった。
- 先日訪問した八王子夢美術館「かがくいひろしの世界」の図録を読了。「だるまさん」シリーズのマンガ家の言葉を中心に印をつける。
- 「イコール」編集長会議。橘川、田原、都築、私で情報交換。
- 引き続き「アクティブ・シニア革命」のミニミーティング。副編の都築さんとコミュニケーション。
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「名言との対話」10月4日。高田賢三「冒険心が私の人生と創造の原動力」
高田 賢三(たかだ けんぞう、1939年(昭和14年)2月27日 - 2020年(令和2年)10月4日)は、日本のファッションデザイナー。享年81。
兵庫県出身。神戸外大中退、文化服装学院卒。三愛勤務をへて、1965年パリにわたり、キスタイル会社で修業後、1970年にパリで店をだす。和服をはじめ世界各地の民族衣装からヒントをえた独特な服をパリから発表しつづけ、国際的にたかい評価をえる。1999年に後進にブランドをゆずる。2004年のアテネ五輪日本選手団公式ユニフォームをデザインした。2020年10月4日、新型コロナ感染症による合併症でパリ郊外で逝去。
以上が高田賢三、「ケンゾー」の略歴である。
2024年に訪問した東京アートギャラリーの「高田賢三」展で入手した『TAKADA KENZO』から「木綿の詩人」「色彩の魔術師」と言われたケンゾーの言葉を拾ってみた。
- 僕にとってクリエイションとは喜びと幸せ、何より好きなように動きくつろいで生きる自由、そしてまた皆さんに自分自身でいられる自由を贈ることでもあります。
- ファッションはライフスタイルの一大要素。夢であり、生きる上でもビタミン剤です。美しい服を着て、あるいは着た人を見て心が豊かになる。最終的には平和に貢献するのかな。
- オーソドックスなラインを踏襲した上で、従来のしきたりを無視してかかることにしている。
- 冒険心が私の人生と創造の原動力。
パリの高田の旧宅のリノベーションをやった建築家の隈研吾は、学生時代から高田賢三と山本寛斎の自由さに憧れていたとし、「自分も、建築を通じて、彼ら(ケンゾーやカンサイ)の自由を引き継ぎ、未来に伝えたいと思う」と「高田賢三展によせて」で語っている。ファッションと建築という世界は違うが、彼らは束縛を嫌い、禁欲から脱して、「自由」をテーマとしてそれぞれの分野で革命を起こしたのだ。
高田賢三はデザイナー30周年、そして60歳を区切りに「KENZO」ブランドから退いて、新しい挑戦を始めている。また70歳を機にパリの自邸と美術コレクションを売却し、再出発を宣言。その後10年たって、81歳で死去している。
高田賢三は、「冒険心が私の人生と創造の原動力」と語ったように、常に冒険心をもって、新しいジャンルで創造的な仕事をしてた。人生戦略を持っていた人であった。
参考
図録「高田賢三展」
郷里・中津の川嶌眞人先生から、80歳の傘寿記念の『一隅を照らす これ則ち国なり』(梓書院)が届いた。337ページの大作である。
講演録、「ラサンテ」(川嶌整形外科病院)に掲載された「健康」にかかわるエッセイ)、大分合同新聞の医学史に関する連載記事、日本医師学会・大分県医師会・中津医師会他の雑誌等に執筆した文章や中津を中心とする医史、亡くなった師への追悼文などで構成されている。
これらは、医療現場に立ちながら著書を数多く刊行された先生が、ここ数年に執筆したものであり、健筆ぶりがよくわかる。
贈っていただいた添え書きの文章と、この本の「あとがき」には、先生の80年の人生の軌跡が整理されている。
東京医科歯科大学卒業後に、28歳で赴任した九州労災病院の天児民和院長との出会いがあった。院長のアドバイスは、臨床医として励むことと高気圧医学の研究、蘭学のパイオニアたちの発祥の地である中津の人たちの生き様を調べ生きる糧としたらどうか、であった。その時以来、「臨床」、「研究」、「医学史」の道を歩むことになった。
現時点の総括としては、医療人として、医療現場での臨床と高気圧医学の研究。次に、蘭学・医学史の研究者として、蘭学の里・中津を中心としたパイオニアたちの研究。そして、研究の過程で巡り合った、前野良沢が愛用した古代の竹笛「一節切(ひとよぎり)」の演奏家としても精進している。
川嶌先生の世界観・人生観は、中津の先達・前野良沢の「自然を敬い、自然に従い、自然に寄り添った医学・医療、そして生き方」に影響を受けている。その考えは、中津出身で帰郷して親しく接することのできた福永光司(東大教授、京大教授)の老荘の思想で深まった。
「公人」としては医師として医療の分野で地域医療と医学研究で大きな功績をあげた。「個人」としてはフィールドワークに基づく、地域から始めた医学史の研究に成果を積み重ねている。「私人」として、父のこと、そして2024年に他界した妻・照代さんと後継者であるご子息たちとの家庭も円満であったことを私は目撃している。
川嶌眞人先生は青年期・壮年期・実年期を充実して過ごし、80歳からの「熟年期」の入り口に立って、郷里の中津で「地域DNA」を掘り起こし続けながら、「一隅を照らし、一隅に輝く」という理想の境地を追って、さらに前進することを誓っている。
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八王子夢美術館で開催されている「かがくいひろしの世界展」をみてきた。
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「名言との対話」10月5日。瀬長亀次郎「不屈」
瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 - 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。享年94。
20歳、七高理科入学、社会科学研究会に参加。22歳、放校。。24歳、京浜地区で臨時工、日本共産党入党。25歳、治安維持法で検挙され懲役3年。29歳、沖縄朝日新聞記者。31歳、兵役招集。33歳、復員、毎日新聞那覇支局記者。38歳、田井等市助役。39歳、うるま新報(現「琉球新報」)社長。
40歳、沖縄人民党創立、中央委員。42歳、書記長。45歳、第1回立法院議員選挙で最高点当選。47歳、米軍軍事法廷で懲役2年。49歳、出獄、那覇市長に当選。50歳、米軍の布令で那覇市長の座を11ヶ月で追放。激励の手紙5000通。52歳、沖縄人民党委員長。60歳、16回の渡航拒否を打ち破り11年ぶりに上京。61歳、屋良朝苗主席・平良良松那覇市長を誕生させる。62歳、ジョリオ・キュリー賞。
63歳、戦後初の国政参加選挙で当選。65歳、沖縄返還。70歳、日本共産党国会議員団総会会長。75歳、ヤンバルクイナを国の天然記念物に指定させる。79歳、衆議院議員7期目当選。この間、ベトナム、イタリア、ユーゴ、キューバを訪問。
83歳、衆議院議員を勇退。94歳、死去。二つ年下の妻・フミも沖縄人民党の市議を長くつとめた。2009年には百歳を迎えた。2010年、死去。
2016年に沖縄那覇の瀬長亀次郎「不屈館」を訪問した。資料の豊富な、そして瀬長の抜群の業績と温かい人柄がみえる優れた記念館だ。
瀬長は文章も、演説も素晴らしくうまい。新聞記者時代もあった瀬長は、人々の心に響く原稿を書いた。色紙を頼まれると必ず「不屈」と書いた瀬長亀治郎の人生哲学に深く納得する経歴である。記念館は「不屈館」と命名された。
1945年の敗戦後、日本軍に代わって米軍が沖縄を占拠。米軍はポツダム宣言を真面目に実施せず占領法規すら踏みにじった。人間としての価値も認められず、虫けらみたいに射ち殺され、はずかしめられ、略奪された。
瀬長には3つの星があった。母(「筵のあやのように、正直にまっすぐ生きるんだよ」)、松原先生(恩師)、沖縄人民党である。
県民を苦しめる三つのマジムン(魔物)と瀬長は言う。それは米軍と安保条約、大企業、自民党である。
「はて、おかしなこともある。平和からやってきて戦争へ行く。それも平和をつくるためにと。なぜはじめの平和にとどまっていないだろう」(瀬長が引用したドイツの寓話から)
瀬長の風貌は何か滑稽感があり漫画にしやすいらしく、よく対象にされたらしい。また写真をみると、よく笑っており、快活な行動で、親しみやすく、大衆に人気があったのはうなずける。
瀬長は次のように語っている。「こんなときはよくやすんで明日のたたかいを組むことだ。早めにねる」(日記)。「悲愴感があまり出すぎるとたたかいは長つづきしないことを学ばされました。だからたまには冗談もとびだし、ユーモラスなこともいう、いわゆる楽天的にかまえるということであります。しかも一本のスジは絶対に通していく、このことはつねに注意をはらうことにしています」。明るい楽観派の姿はまわりに勇気を与えたことだろう。
以下、瀬長亀次郎の言葉
- 「母なる大地は何を求めているか。再び戦場にするな、沖縄を平和の島にして返せ、と叫んでいる。これが原点である。」「平和な島というのは基地も核兵器のない島をいっている」「(核査察を)外国には要求しながらなぜ自国の領土である沖縄にはできないのか。これでは政府の非核三原則も絵に書いたモチではないか」(佐藤総理への国会質問)
- 「瀬長被告人の口を封ずることは出来るかもしれないが、しかし、しいたげられた幾万大衆の口を封ずることはできない。瀬長の耳をロウする事はできるであろう。しかし、抑圧された大衆の耳を封ずる事は不可能である。瀬長の目を潰すことは可能であろうが、しかし、不正と不義の社会の重圧をはねかえそうとして待機している大衆の眼を突き破ることは出来ない。瀬長を牢屋に叩き込むことは可能であろう。しかし、70万県民を牢屋に収容することは不可能である。
- 「このセナガひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば全那覇市民まで聞こえます。沖縄の90万人人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波をこえて、ワシントン政府を動かすことができます」
- 「テロリズムとは何か。暴力をもって個人または集団の生命を脅かすものだけを言うのではない。普通の常識を逸脱し、投獄することを自由自在に行う現実をテロリズムというのである」
- 「日本独占資本が同じように彼ら(アメリカ帝国主義)の沖縄占領支配を支えているという点については、なかなか理解されない。覆面をしてくるからわからない(笑い)。「買弁的グループが祖国復帰を妨害している敵だ」
- 「小選挙区制は、自民党が40%台の得票で80%の議席を得ようとするものであり、議会制民主主義を根底からくつがえすファッショ的な暴挙でありました」
- 「分断して支配する」。米日支配層はさまざまな「分離返還」論を持ち込んだ。ーーー日米「地域別分離」論。「基地と施政権の分離」論。「教育権の分離」論。「核つき基地返還」論。ーーー沖縄の買弁反動派:「復帰尚早」論。「積み重ね方式」。「日米琉新時代」論。「イモ・はだし」論。
冒頭の「不屈」は、瀬長の人生を一言で表す言葉だ。瀬長らの行った「島ぐるみ」闘争は今も続いている。「再び戦場にするな、沖縄を平和の島にして返せ」と叫んだ瀬長亀次郎の目には、今の日本と沖縄の姿はどのように映っっているであろうか。
参考資料。
- 「瀬長亀次郎回想録 沖縄の心」(新日本出版社)
- 不屈館ガイドブック「瀬長亀次郎と民衆資料」
第31回『心の健康会議』シンポジウム「生涯学習社会を生きる児童・生徒を考えるーーー人生における子ども時代に寄り添う臨床心理士」の報告が掲載された『臨床心理士報』が届いた。
2024年3月3日に北九州ソレイユホールで開催されたビッグイベント。私はシンポジストとして登壇した。
私の発言「100年人生における子ども時代ーライフデザインの観点から考える」。独自のフィールドワーク2つ。人物記念館の旅と名言との対話。人生100年時代。人生観を変えよう。ライフをデザインする時代。公人、私人、個人。玄孫、来孫を目にする時代。親や先生が子供から見られている。子供の問題というより、大人の問題ではないのか。ヒントは、母親の影響力と先生の影響力。モデルはどこにいるのか。近現代の代表的日本人の中にいる。7つの共通項。偉い人。一廉の人物。人物伝。人生100年の生き方のモデルは日本にある。」「出会い。自分づくり。いじめ、非登校」
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『アクティブ・シニア革命』編集ミーティング(デザイン・DTP関係)のZoomの要約。
会議では、雑誌のデザインとレイアウトに関する進捗状況が議論され、表紙、目次、写真配置などの具体的な要素に焦点が当てられた。また、編集プロセスの課題やDTP作業の効率化、パソコン環境の改善についても話し合われた。全体を通して、チーム内のコミュニケーションの重要性が強調され、情報共有と頻繁な意見交換の必要性が確認された。
・近藤: 原稿を受け取り次第、PDFに変換して久恒と都築に確認してもらう。
• 近藤: デザインを進めながら、著者との最終確認を行う。
• 力丸: 扉ページと連載物のタイトルロゴを作成する。
• 力丸: 書評ページ用の図解を作成する。 白ベースで緑の枠を使った表紙デザインを作成する。
• 久恒と都築: 原稿の誤字脱字や人名のチェックを行う。
• 編集部: 原稿の文字数調整や修正を行う。
•久恒: 小笠原さんとのミーティングをセットする。
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「名言との対話」10月3日。河西昌枝「勝つためにみんなが 一つの目標に向かってやった 青春時代に命懸けでやったことが その後の人生の大きな宝物」
河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、女子バレーボール選手。享年80。
山梨県立巨摩高等学校 から バレーボール選手として、日紡関ヶ原 、 日紡足利 、そして伝説の日紡貝塚へ。河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼キャプテンとして金メダルの獲得に大いに貢献した。
当時の監督の大松博文は「鬼の大松」と呼ばれるほど徹底したスパルタ式のトレーニングで知られており、根性バレーで徹底的に鍛えた。選手たちは「回転レシーブ」という武器で拾って拾って拾いまくるバレースタイルを身に着けた。このときのことを、目に見えない積み重ねでいつかできるようになる、と敢闘精神にあふれた河西は後に語っている。チームメートたちは「オリンピックが終わったら、婿は世話をする」という大松監督の言葉に安心して励んだ。
174㎝の河西はオリンピック終了後の1965年1月に日紡を退社し、5月に佐藤栄作総理の取り計らいで2歳年上の自衛官(172cm)と結婚した。大松監督の仲立ちで結婚したのは6人中4人であり約束は守られたのである。そして河西はママさんバレーの指導者となった。2003年3月には日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長を務めた。2008年にはバレーボール殿堂入りを果たした。
河西のことを調べるのに、『時代を創った女たち』の中村昌枝の章を読んだ。この本はNHK「ラジオ深夜便」のインタビューをまとめたものだ。各界で抜群の功績を挙げている女性の発言もついでに堪能した。
志村ふくみ「日本人の精神の根本には色がある」。森下洋子「一日一日の積み重ねがすべて」。樋口久子「座右の銘は平常心」。山田満知子「リンクの冷たい空気は、私の体の一部なんです」。今井通子「物事って、始めてしまえば思っていた以上のことができてしまうんですね」、、、。
「あの程度の相手なら必ず勝ちます」とは、ソ連戦で第一セットを落とした時に河西が監督に語った言葉だ。優勝にはチームの中心にこういう冷静なリーダーの存在が必要だった。
東京オリンピックの女子バレー優勝決定戦は、家族全員で見た記憶がある。一喜一憂し、興奮してみた。 NHK[あの人に会いたい」では、「勝つためにみんなが 一つの目標に向かってやった 青春時代に命懸けでやったことが その後の人生の大きな宝物」と語っており、さわやかな印象だった。