風の旅人 〜放浪のすすめ〜 (original) (raw)

風の旅人 第43号より 写真/石元泰博

「シカゴ シカゴ」や「桂離宮」などの写真で知られ、戦後日本写真界でもっとも重要な写真家である石元泰博さんは、長いあいだ五反田に住んでおられ、90歳に近い年齢の頃、カメラを首からぶらさげて山手線に乗って、渋谷の街に出かけて撮影をしていた。
当時、私は目黒に住んでいたので、時々、自転車で石元さんのご自宅にお邪魔し、石元さんが撮ってこられた様々な写真を「風の旅人」で紹介した。
その最後になったのが、風の旅人の第43号の特集「空即是色」の誌面だった。これは、2010年の年末年始に大雪の高野山にこもって企画をしたものだが、その内容が、2011年3月の東北大震災とシンクロしたものになってしまった。

風の旅人 第43号より 写真/石元泰博

当初、私は、この号の表紙を、ここにアップしている石元さんの何かしらの大きな変化の兆を孕んだ波の写真を予定し、デザインを行い、印刷入稿直前だった。その時に震災が起きて、私は東北地方を取材した後、表紙を差し替え、自分が取材してきた記事と写真を巻末に組み入れて印刷を行った。
この風の旅人43号の石元さんの特集ページでは、幾つかの波の写真とともに、石元さんが渋谷の街中で撮った写真を紹介しているのだが、それらの写真は、ここにアップしているように、人の姿が固定せずに流れた状態で撮影されている。石元さんは、晩年、こういう写真を撮り続けていた。
そして私は、風の旅人を終えてからピンホールカメラで日本の古層を撮り続けて8年になるが、ようやく最近になって、ピンホールカメラで東京や京都の写真を撮り始めた。自分では意識していなかったが、晩年の石元さんの世界に、感覚が近づいているような気がしている。
第43号「風の旅人」の中の石元さんの特集ページのテーマタイトルとして私が考えた「色と空〜あはひ」のように、石元さんは、東京の街中の人々だけでなく、波とか樹木とかを連続的な動きの中でとらえながら、その形(色)が、やがて消えゆく(空)さだめであることを暗示し、その「あはひ」が、われわれの生命であるという本質を、写真で表現しているように私には感じられた。
そして、このことが東北大震災と重なり、私自身の人生にも深く影響を与え、「風の旅人」をいったん休刊するとともに、東京から京都へ移住することになった。
この期間、私の内面世界と深く関わっている写真家が、石元さんと同じく戦後の日本写真界で最も重要な写真家の一人である川田 喜久治さんであり、現在91歳であるが、不思議なことに、この10年以上、ほぼ毎日のように東京の街中の撮影を続け、インスタグラムにもアップし続けている。
私は、風の旅人の第36号で、石元さんが50年にわたって東京を撮り続けた写真と、川田さんが原爆ドームを撮った写真と、その当時の日本社会を撮った写真で、かなりのページを割いて特集したことがあった。
「不易流行」、すなわち変わりゆく現象と変わらない本質的なことが、この二人の写真からは浮かび上がっていた。
石元さんと川田さんは、太平洋戦争を直接的に経験している。戦後、太平洋戦争の経験のない世代が育ち、そこから東京の街中をカメラで撮る人が次から次へと泡のように出てきた。
敢えて「泡のように」と形容したのは、不易流行ではなく、変わりゆく現象の方に偏っていて、変わらない本質的なことが、あまり伝わってこないからだ。おそらく、そういう表現もまた、変わりゆく現象の一つとして、泡のように消えていくだろう。
そういう泡のような写真を撮っている人たちの写真は、自我の鏡にすぎず、石元さんや川田さんの写真のように、時代や社会を俯瞰する眼差しが感じられない。
自我というものに囚われてしまうのは、個人の自我なんてものが完全に打ち砕かれてしまう経験がないからかもしれない。
そういう意味で、太平洋戦争の記憶をつなぐ人が数少なくなっているなかで、90歳を超えた今もなお、毎日のように現役で写真を撮り続けている川田 喜久治さんの存在は、かけがえのないものだ。
2015年10月、「風の旅人」の最終号となった第50号は、表紙も巻頭特集も川田さんの写真なのだが、この都市の写真に、私は、「不易流行」という言葉と、日本書紀の冒頭の言葉を重ねている。

風の旅人 第50号より 写真/川田 喜久治

古(いにしえ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めお)分(わか)れず、渾沌(こんとん)にして鷄子(とりのこ)の如(ごと)く、溟涬(めいけい)にして牙(きざし)を含めり。
すなわち、陰陽が整っていない状態のカオスが、来るべき未来を孕んでいるということ。
しかし、この人間の未来というのは、常に、記憶とつながっていることを忘れてはならない。なぜなら、人間が何か新しいものを発想する時、必ず、自分の中に存在する何かとの呼応でアイデアを獲得するからであり、その何かとは、当人が意識しようがしまいが、記憶である。
私は、川田 喜久治さんの都市写真を、風の旅人の休刊(44号)の時、風の旅人の復刊の時(45号)、そして最後になった50号において、表紙と巻頭特集で使用させていただいている。
44号のテーマが「まほろば」で、45号が「修羅」、50号が、「時の文〜不易流行」。
このテーマからもわかるように、川田さんの都市写真のなかに古代性を感じ取り、その都市性と古代性が、変わりゆく現象と変わらない本質的なことを示していると判断したがゆえのことだ。
制作していた時は、それほど強く意識していたわけではなく、無意識の声に導かれるように作っていたわけだが、こうして全体を俯瞰してみると、全てはつながっているということがよくわかる。
しかし、無意識の動きと意識のあいだには、少なからず距離がある。
私がピンホール写真で撮り始めたのは、風の旅人を終えた2015年の翌年からだが、この8年に渡って、人間や花など動きやすいものは撮ろうとも思わなかった。長時間露光のピンホールカメラだと、動いているものはブレてしまうからだ。
ブレるものはブレるままでいいと自然な気持ちで思えるようになったのは、ようやく最近になってから。
石元さんの渋谷の街中の人々のブレた写真を、風の旅人の第43号で特集していたにもかかわらず、あれから13年も経ってしまった。
しかし、自分でピンホールカメラで花を撮影して感じることだが、ピタリと静止している花の写真より、微かに揺れているくらいの花の方が、花の息吹のようなものを感じる。
今こうして文章を書いている窓の向こうに林が広がっているのだが、今日は風が強く、樹々や葉が、よく揺れている。そして、静止した状態よりも揺れている方が、見ていて飽きないし、心に響くものがある。
カメラメーカーは、超高速シャッターと超クリアなレンズを開発して、本当は移ろいゆくものである現象世界の物事を、それを認めないとばかりに完全静止させることが人間の進化と考えているようだが、果たして、その方向性でいいのかと少し立ち止まることも必要なのではないか。
芭蕉も説いているように、表現において大切なことは、不易流行であり、変わっていく多くのものごとの中に、変わらない普遍性を見出すことなのだから。
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これまで何度も惨たらしい争いが繰り広げられてきた中近東で、もっとも深刻かもしれない事態がはじまって1年が経つ。
ポケベル爆弾といった最新テクノロジーを使いながら、3000年前のユダ王国を引き合いに出して自らを正当化するという傲慢。
その傲慢さは、自分たちの神が、自分たちの行為を許してくれるものだと迷信しているところからきている。自分たちの神は、自分たちを導いてくれる良き神で、イスラムの神は、人々に服従を強いる悪しき神であるという善悪二元論。常に、自分が善なる側にいるという開き直り。
ガザやレバノン南部での破壊行為も酷いものだが、ヨルダン川西岸のパレスチナ人居住地域における入植ユダヤ人の横暴は、ふつうに考えれば、一神教の神様でも悪魔の仕業としかみなさないだろうが、こうなってくると、神は、もはや都合のよい大義名分のために利用される存在でしかなく、本当に神が存在するのならば、そうした人間を目覚めさせるために天罰を下すしかないだろう。
映画で何度もリメイクされている十戒の物語は、エジプト国内において奴隷的扱いにあったユダヤ人をモーゼが率いて、エクソダス(国外脱出)をはかって、神がアブラハムに対し、彼の子孫に所有を約束したことになっているカナン(パレスチナ)への大移動を行うもので、パレスチナの地が、ユダヤ人にとっての故郷であるという正当化にもつながっている。
しかし、アブラハムには、イシュマエルとイサクという二人の息子がいて、ユダヤ人の祖はイサクの息子のヤコブだが、アラブ人の祖はイシュマエルで、マホメットの血も、アブラハムにつながっているとされている。
すなわちアブラハムは、ユダヤ人とアラブ人の共通の祖だから、ともにカナンの地を神から約束されているということになる。そして、ユダヤ教イスラム経も、この旧約聖書聖典としている。
それゆえ、イスラエルとアラブのあいだで起きていることは、肉親のあいだの相続争いのようなものだ。
一般的にも、肉親どうしが争うようになると、憎しみがより強くなるのだが、これはいったい何故なのだろう。
肉親同士の争いは、その大半が煩悩の争いだ。限られた相続財産を、自分こそが得たいと欲することで争いが泥沼化する。第三者は関係なく、身内のなかで相手が得るものが増えると自分が得るものが減るという損得の線引きが明確になっているから、両者の争いが激しくなるのだろう。
どんな争いの局面でもそうだが、争っているあいだ、いろいろと正当な理由をつけて相手を攻撃しているが、それらの理屈は、煩悩を隠すカムフラージュでしかない。そもそも煩悩がなければ、争いは起きない。
煩悩と自己正当化と、憎しみは、ひとつながり。
ユダヤ教イスラム経の聖典である旧約聖書のなかでも、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:15)と述べられている。
欲が罪だと言っているのではなく、欲がはらむ、つまり欲がつのり、欲に囚われると罪なのであり、その状態が煩悩だ。
仏教では、人間が持つ煩悩で最も根本的なものを三毒とし、貪瞋痴(とんじんち)と説明している。
「貪」は貪りの心。人よりも多く欲しい。人の物でも欲しいという気持ち。それが昂じると、人を傷つけても、そのことに気が付かない。
「瞋」は、怒りの心。絶対に許せない、仕返しをしてやるという気持ちが昂じて、その気持ちに心が支配されて、相手への攻撃を激化させる。
そして「痴」は無智。何が大切なことなのか、何が本当なのかを真摯に知ろうとせず、デマに振り回されたり、判断が面倒なので、自分にとって都合の良い情報だけを鵜呑みにする状態のこと。
仏教においては、「煩悩」は、人が生きる時に感じる苦しみの原因になるものであるから、幸福になるためには、煩悩を捨てることが必要になる。 身内の遺産争いでも、「おまえがやっていることは罪だよ」と言われると、「おまえこそ罪だ」と言い合って、怒りと憎しみはつのるばかり。
「あなたと私の煩悩が、お互いの苦しみの原因よ」と、どちらか一方でも悟ることができれば、怒りと憎しみと、さらに苦しみが鎮まる可能性が、まだ残されている。
政治家に限らないが、いろいろと飾られた言葉の裏に、人間の煩悩を見通せるようにならないと、自分の煩悩を巧みに手懐けられ操られる体制のなかに組み込まれて、その体制の僕となっていく。
消費社会の様々な虚栄のイメージ操作や、各種の情報を右から左へ流すだけのメディア情報も、人間の煩悩を増幅させる装置になっている。
煩悩が渦巻いているのは、中近東だけではない。

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伏見稲荷大社は、外国人旅行客の人気ナンバーワンの場所だそうで、連日、ものすごい人だかり。
境内には、「伏見稲荷は祈りの場です」という言葉が掲示されているが、果たして、どれだけの人が、祈るために、この場所に来ているのか?
しかし、聖所というのは、古代から二種類の場所があった。
一つは、正真正銘の祈りの場であり、厳粛な神事が行われ、巫が憑依して神の声を降すような場所。
そしてもう一つは、この伏見稲荷大社や、江戸時代の伊勢神宮のような場所で、様々な地域から、物見遊山で大勢の人がやってくるところ。
中世ヨーロッパのロマネスク巡礼で多くの人たちが集まったところは、その後、ゴシック都市、そしてルネッサンス都市となり、現在のヨーロッパの主要都市の大半は、そのように形成された。
巡礼の途中、誰かが、マリア像が涙を流したというデマを流せば、それだけで人が集まり、また集落の人は、さらに人を集めるために教会を築き、御加護を求める熱心な人たちが集まって真剣に祈っているうちに、そこは聖地独特の厳粛な気配が漂う場所になった。ピレネーの麓のコンクなどは、そういう場所の一つだ。
パキスタン北部、ガンダーラ地方の仏教都市もそうだった。
本来は、釈迦の遺灰などを分けて納められていた仏舎利を祀るためのストゥーパだが、人を集めるために、釈迦の遺灰など入っていない巨大なストゥーパが築かれ、それを中心に大きな街となり、様々な地域からやってくる大勢の人で賑わった。
タキシラなどの古代都市遺跡は、そのようにして形成された。
人の念が集まると、その場所が聖地になっていくということもある。
そして、現在のヨーロッパの都市のように、巡礼の聖地に大勢の人々が集まって、彼らの力で素晴らしい教会が建設され、教会を彩る様々な絵画や彫刻などの芸術作品が生み出された。
インドのガンダーラ地方の聖域では、ストゥーパに寄進するために自分に似せた仏陀像を作らせる人が現れ、ギリシャ人やチベット人などの顔に似た仏像が数多く作られ、それがガンダーラ美術に発展したが、もともと偶像崇拝が禁止されていたはずの仏教において、仏像は、重要な祈りの対象となるまでになった。
聖域に人が群れると、聖域の空気が壊れるなどと言う人もいるが、聖域は、人間が作り出すものであり、その時々、それぞれの人間の事情と、人間の念がからんでくる。
人が群れていようがいまいが、「聖域」という分別自体が人間の概念であり、他の生き物は、そんなことは考えない。
人が群れる場所は、疲れるという人もいるし、逆にエネルギーをもらえるという人もいる。
人が群れる場所に敢えて出かけていきたいというのも人間心理だ。
しかし何事もバランスが必要であり、静かに心を落ち着かせたいという心を持っているのも人間であり、だいたいどの聖域においても、そうした心鎮める場所がある。
ゴーダマ・シッダールタは、「極端にかたよっては真理に到達することはできない」と悟った。
孔子も、「過不足なく調和がとれている」という中庸を、人徳としては最高のものとした。
荘子は、 自然に即した「中正の道」を説いた。
「物事のなりゆきのままに身をのせて、心を労することなく自由に遊ばせ、やむにやまれぬ必然の運命のままに身をゆだねて、自然のままの中正の道を養うようにすれば、それが最上の道である」。
この自然というのは、いわゆるネイチャーではなく、「おのずから、しからしむ」ということで、自然体という言葉の方がふさわしい。
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。
親鸞八十八歳御筆 自然法爾章)
日本人の行動原理とつながる自然観は、戦後の日本社会を見ればわかるように、「自然を大切にする」とか、「自然を愛でる」ということではなく、この親鸞88歳の時の言葉のように、自然の成り行きに身を任せることを良しとするものなのだろう。
とはいえ、理性分別を持ち、計算高くなった人間にとって、自然の成り行きに任せることは簡単ではない。
よからぬ邪心で、不自然なことをしてしまうのが、われら凡人の悲しい性質だ。
そして2500年近く前から、荘子が、人間の不自然を戒めているのは、人間の本質というものが、いかに変わらないかを示している。
しかし、だからこそ人間であり、人間の宿命として、他の生物とは異なった自然との遊離を何かしらの方法で乗り越えていくしかなく、それこそが、太古の昔から変わらない人間の叡智だった。
不自然を増幅させていくベクトルと、その不自然さを収斂させていくベクトル。この鬩ぎ合いのなかから、いつの時代でも、その時々に応じた文化が生まれてきた。
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連日、京都市内をピンホールカメラで撮影し続けている。
京都の観光名所に群がる人たちは、いろいろな会話をかわしながら、人とぶつからないように巧みに左右に進路を変えながら歩いていて、その場にはすごいエネルギーが渦巻いている。
私は、その場に三脚を立てて、長い時間立ち続けているので、一人ひとりの顔は覚えていなくても、そのエネルギーを、記憶化することになる。
写真というのは、「真実の瞬間を捉える」などというキャッチフレーズがつけられた時代もあったが、真実のリアリティを、もう少し深く問う必要があるのではないかと思う。
真実のリアリティというのは、この世界のあるがままの実相ということになるのだろうが、物の見かけや、意図的な仕掛けや、夢想や妄想や空想から生じるイメージではない。
「写真家」を名乗る人が非常に多い時代だが、小説の場合も、小説を読む人の数は減っているが、様々な手段で自作の小説を公開する人は増えているらしい。
SNSなどの普及と、表現の自由大義名分で、すべての国民が、表現者となる時代に、私たちは生きている。
それは同時に、物の見かけや、意図的な仕掛けや、夢想や妄想や空想から生じるイメージが氾濫する世界でもあり、空海は、そうした状況は、迷いの闇に苦しみやすくなる状況だと説いた。
現実的には、確かにそうなっている。
1970年代、世界中で流行になった変革を目指す政治運動が、内部抗争など矛盾に満ちたものになっていき、それらの政治運動を後押しした実存主義にかわって、ポスト構造主義という新たな考え方が生まれた。
そもそも真理やイデオロギーなど言葉で言い表される「意味」は、その言葉が流通している時代の構造から生み出されたものにすぎない。その結果、真理の言葉など存在せず、個々の現場の問題は、個々において、あれこれ試行錯誤しながら、別々に問題を解決するしかないということになる。
しかし、言葉の無意味さを言葉で言うだけならば、「クレタ人が、クレタ人は嘘つきであると言っている」という類の自己言及のパラドックスになり、そこが西欧哲学思想の限界になる。
空海の考えは少し異なっていて、「法は本より言なけれども、言に非ざれば顕れず。真如は色を絶すれども、色を待ってすなわち悟る。(略)密蔵深玄(みつぞうしんげん)にして翰墨(かんぼく)に載せがたし。さらに図画を仮りて悟らざるに開示す。』(御請来目録)と述べている。
すなわち、「まことの真理というのは、言葉を離れたものであるにしても、言葉によらずには明らかにすることができないし、移ろいゆく現象界を超えたものだけれど、現象界の事物を通じて悟るしかない。密教の教えもまた、文章だけで表しても伝わらない段階の者もいるわけで、その奥義を、図絵を仮りて示すことも必要になる。」という意味になる。
つまり、ありのままの真理は、言葉や現象界の表現を超えたものだけれど、それらを使って表すしかないということだ。
そのため空海は、釈迦やキリストと違って、膨大な書き言葉を残しているし、言葉によって真理が伝わりにくい人のために、曼陀羅を活用することの重要性も認識していた。
そのため空海は、唐から帰国してしばらくは、最澄から密教の経典の借覧を乞われるたびに応じていた。しかし、『理趣釈経』の借覧を求められた時には、長文の返書でこれを断った。
その理由として、理趣は経典の文の中ではなく、お互いの身体活動の中にあり、以心伝心によってのみ伝えられるものだと空海は考えていたからであり、そのことを最澄に言葉によって丁寧に伝えている。
理趣とは、道筋の意味であり、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧に至るための道筋であるから、経典の中の言葉だけに執着する姿勢では、その真理を体得できない。
にもかかわらず最澄は、経典を借りられないとわかると、自分の弟子の泰範を空海のもとに送り込んで密教を学ばせようとした。しかし、空海の偉大さを知った泰範は最澄のもとに帰らなかったため、最澄は、泰範に対して、空海を通じて学んだ密教の知恵を教えて欲しいと懇願した。
最澄に欠けていたものは、言葉の背後にあるものに対する深い洞察だろう。
空海最澄のあいだの高い壁を象徴している言葉が、「五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵ことごとく文字なり 法身はこれ実相なり」(声字実相義)だ。
五大は「地・水・火・風」の自然界と、「空間的広がり」であり、私たちが生きている森羅万象世界を構成するものとなる。
空海は、「五大はすなわちこれ声の本体」とも述べ、つまり、声こそが、森羅万象世界を構成するものたちの本体とみなしている。
響きとは声響であり、これは、秘められた声に対する呼応と言い換えることができる。
石や樹木は、沈黙しているのではなく、声を放っている。だからこそ石工は、自らの計画設計図をもたずに、石の声に耳を傾けて、石がどこに行きたいかを聞き分けて石垣を作り、宮大工もまた同じように樹木の声に耳を傾けて仕事をする。
そのように物が放つ声と自分の心や身体を呼応させるのが匠の仕事である。
「十界に言語を具す」の十界というのは、金剛経曼陀羅で示されるような人間の心の段階を表しており、それぞれの段階に応じて異なる言葉があるが、真言以外の9界の言葉には、「妄語」が含まれていると空海は指摘する。
そして真言とは、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧の言葉であるから、経典ではなく自分自身の修行を通じて、自分自身の内側に見出さなければならない。だから空海は、その真言への道筋を説く『理趣釈経』を最澄に貸さなかった。
この経典の言葉は、修行を通じて真理を体得したものにしか真意は伝わらないからだ。
「六塵ことごとく文字なり」の六塵は、 目・耳・鼻・舌・身・意の六根に受ける 「色・声・香・味・触・法」のこと。
人間というものは、六根によってモノ・コトをとらえ、それらのイメージを声と字によって表現された世界を生みだし、この言葉によってヒトは世界と結びついているが、肝心なことは、それらの言葉には妄語が含まれているとの自覚が必要である。
その認識のうえに、「法身はこれ実相なり」と空海は明言する。
法身とは、私たちが生きている現象世界の背後にある大日如来のことであり、その大日如来の言葉(真言)が、ありのままの真実の姿(実相)を伝えることができると、空海は言葉を結んでいる。
なかなか難解な言葉だが、実相というのは、目の前の現象の背後にあるエネルギーのようなもので、そのエネルギーを、ありのままに伝えることが重要だということ。
そのためには、五大という私たちが生きている現象世界の物が放っている響き(声)に耳を傾けることから始めなければいけない。
密教の修行は、単なる身体トレーニングではなく、万物の声を聞き分けることを目指すことが肝要であり、石壁を作ろうとする人間が、自らが作った設計図を軸にしようとすると、石の声は聞こえないように、自我意識が強いと、万物の声は聞こえない。
写真というのは現代社会の産物だが、だとすれば、写真の組み合わせによる響きは、現代社会の曼陀羅になり得るということだ。
問題は、写真を撮る時に、五大の響きに耳を傾けているのか、そうでなく自己都合によって対象を切り取っているかの違いであり、自己都合というのは、言うまでもなく「十界」に生きる人間のそれぞれの段階による事情によって生じるものだから、妄語が混ざる。
石工が石の声に耳をすませるように、宮大工が樹木の声に耳をすませるように写真を撮ることができれば、現象世界の背後にある実相を、響き=呼応を通して、ありのまま伝える写真となることができる。
ポスト構造主義の「個々の現場の問題は、個々において」という概念に基づく自己表現は、それぞれの事情が絡んでくるから、妄語だらけになる必然性がある。
これを超える知恵が、 1200年前に生きた空海によって、十分すぎるほど考え抜かれていたことに驚きを禁じない。

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写真/細江英公 風の旅人39号より

薔薇刑」、「鎌鼬」、「胡蝶の夢」、「抱擁」、「男と女」、自分の書棚にこれらの写真集が置かれている幸運な人は、今、改めて見つめ直しているかもしれない。
戦後日本の写真表現界が生んだ大きな大きな星、細江英公さんが、超新星爆発のように、その生涯を終えられた。しかし、宇宙に飛び放った星のかけらから、きっと新たな大きな星が生まれてくることだろう。細江さんの命は、途絶えたわけではなく、これからも、その命を継ぐ誰かによって、続いていく。
写真家という枠を超えて、芸術家という名がふさわしい写真家は、そんなに多くないが、細江さんは、写真家やアーティストという呼び名よりも、芸術家がふさわしい。
その定義は、人それぞれかもしれないが、間違いなく言えることは、未来世紀の人間が、歴史を振り返った時、過去にこれだけ凄いものを成し遂げた人がいたのかと感心し、存在してくれたことに感謝したいほどの作品を作り出した人は、芸術家にふさわしい。
真の芸術家は、一つの時代のなかでの人気投票のような一過性の評価付けを超える存在だ。
さらに、表現分野の垣根を超えて、その表現のすごさが、圧倒的な力で伝わる存在。
細江さんの『薔薇刑』、『鎌鼬』、『胡蝶の夢』は、まさにそういう作品である。
細江さんは、生涯を通じて、次から次へと新しい作品を作ってきた人ではなかった。
薔薇刑』、『鎌鼬』の極みまで達した人が、そう簡単に次の一手を打てるはずはない。これらは、歴史上の事件に等しいものだからだ。
近代的自我の強靭な鎧で覆われた三島由紀夫を丸裸にして曝け出した『薔薇刑』。
おそらく、三島由紀夫は、自らの堅牢な自我意識を、細江さんがいかに解体してくれるのか、恍惚とした思いで楽しんでいたのではないか。
この撮影の時のことに関して土方巽さんが述懐していているのだが、撮影の時、細江さんは、三島由紀夫を床に転がしたまま、どこかに消えてしまった。
三島由紀夫は、ひたすら床に転がったまま、じいっと動かなかった。土方さんは、この光景を二階から見下ろしながら、「面白いことしているなあ」と眺めていた。
ところが、次に『鎌鼬』の撮影において、土方さんを撮影する際、細江さんは、土方さんを波打ち際に転がして、同じように消えてしまった。
土方さんは、三島の撮影の時のことを覚えていて、どこまでも待ってやろうじゃないかと腹をくくったものの、次から次へと打ち付ける波が片方の耳にダイレクトにぶつかり続け、中耳炎になるのではないかと心配してギブアップしたそうな。
舞踏の際、自我を滅却して魂を飛翔させている土方さんだが、彼を波打ち際に転ばせて、ついに、自分の身を守るために土方さんが降参したという話は面白い。
私の記憶違いがまじっているかもしれないが、私は、このエピソードが大好きだ。
細江さんの、ご本人はどこまで自覚しているのかわからないが、超然たる心の内が伝わってくる。細江さんは、常人では理解できないところで、何かを掴んでいる。
細江さんが、次にどんな新作を生み出すのか、多くの細江ファンが待っていたのではないかと思うが、私も、その一人だった。
今から15年ほど前、細江さんが館長をつとめていた清里写真美術館の小川直美さんが、「細江さんが、パリでロダンの写真を撮ってきたらしいよ。」と口にしたのを聞いて、すぐに細江さんのところに行った。
しかし、その時、細江さんは、作品のために撮影したという自覚がないようだった。
パリ旅行をする前に生まれて初めて買ったコンパクトデジタルカメラ、1インチセンサーの「GR DIGITAl」を首からぶらさげて、ロダン美術館に行って撮ったらしい。
私は、それでも気になるので、そのデータを持ち帰らせて欲しいと伝え、事務所に戻って確認したら、さすがに細江さんらしい作品になっていた。
その時、制作を進めていた風の旅人の第39号で、杉本博司の放電写真や、安井仲治の磁力写真などを軸にして「この世の際」という特集を組む企画を立てていたのだけれど、細江さんが撮ったロダンの写真も、まさに「この世の際」感が漂っていたので、20ページほどで特集を組みたいと細江さんに伝えた。
細江さんは、企画趣旨に納得して、「いいよ」と言ってくれたのだけれど、細江さんから預かったデータはとても小さく、私は、あたりデータだと思っていたので、「本データをください」とお願いした。
すると細江さんは、「本データって何のこと?」と怪訝な顔。細江さんは、電気店で買ったコンパクトデジカメを何の設定もせず、RAW現像云々の知識なんかもまったくなく、そのままパシャパシャと撮っただけだった。購入時の設定は、観光旅行のスナップ写真向けの設定で、できるだけ数多く撮影できるようにデータサイズが最も小さくなっている。
印刷にすると、最大でも六切りサイズくらいにしかならない。風の旅人では、小さくてもA4、見開きにする場合はA3サイズが必要。これは困ったと思って、細江さんにそのことを告げると、「適当にうまくやってよ」と言う。
しかたがないので、データからそのまま印刷するのは無理だから、とりあえずプリントで六切りサイズを作って、それを入稿原稿にすれば何とかなるかと思い、近くのラボ(プロ用ではなく一般用)で、濃いめ、中ぐらい、明るめに焼いて、細江さんのところに持っていった。
それを見せながら、このように六切りサイズにプリントしていただけると、それを入稿原稿にできるので、プリントを焼いてくださいと伝えたのだけれど、そもそも細江さんはフィルムからプリントを焼くことは慣れていても、デジタルカメラを使って撮影したのは初めてで、そのデータでプリント作成することなど、考えてもいないことだった。
それで、私が持って行った三種類の濃淡のプリントを見ながら、「こんな感じでいいんじゃない」と中ぐらいの濃さを選んで終了。
確かに、小さなデータをもとにプロラボではない街角の家電量販店でプリントを焼いたものだが、写真としての力は強いものがあって何も問題ない、とも言える。
だから私は、それを元に、改めて構成を考え、20ページほどで特集をした。おそらく誰一人、そのデータが、極小サイズで、フォトショップその他の事後処理をしない、パチパチと撮ったままのものだとは思わないだろう。
写真の力が素晴らしければ、機材がどうのこうの、データがどうのこうの、フォトショップでどうのこうのという細かなことは関係ないという確かな証明だ。
細江さんの何が素晴らしいかというと、普通の人は、ロダンの彫刻を見ているわけだが、細江さんは、そこに人間ロダンを見ている。そしてロダンの魂と共振して撮っているのだ。
そして、さらに驚いたのは、その後、なんと銀座で細江さんのロダンの写真展が行われたことだ。
しかも、プリントサイズが、1m以上と巨大だ。
この展覧会の開催中、私と細江さんが対談を行ったのだが、聞くところによると、これらのプリントは、木田俊一さんがプリントしたもので、木田さんは、和紙を使ったプリント技術で超一流の人である。
和紙を使うことで、画素数が少ないデータでも、その欠点があまり出ていなかった。ざらざらした感じになっても、和紙の素材感が、それを帳消しにするからだ。
細江さんの写真の力があってこそなのだが、この特大サイズのプリントがずらりと並ぶ展示を見て、まさか細江さんが買ったばかりのデジタルコンパクトカメラで、観光旅行用の小さなデータサイズで、たった1日で撮ったものだと、誰も気づかなかっただろう。
細江さんは、ふだんはニコニコを穏やかなのだが、カメラを手にすると殺気のようなものが生まれる。
イベントでご一緒した時も、いつも首から小さなカメラをぶら下げていて、隙あればという感じで、いろいろな方向にカメラを向けてシャッターを切っていたが、そのたびに、一瞬、張り詰めた殺気のようなものが細江さんの身体のまわりに漲る。
あれは一体何なんだろう。間違いなく霊的な何かだ。
その霊的な何かの力で、細江さんは、三島由紀夫の近代的自我を丸裸にしたが、同じような霊的な何かを持っていると思わざるをえない土方巽さんや大野一雄さんとの魂をシンクロさせたコラボレーションは、近代的世界のなかの黙示のようだ。
1996年12月16日、細江さんは、戦後文学を代表する埴谷雄高の家の庭で、舞踏家である大野一雄を撮影した。
この時、埴谷さんは病床で寝込んでおられたのだが、その部屋の前で踊る大野さん。どう見ても、大野さんの足がない。
細江さんに確認したら、「うん、ないんだよ」と一言だけ。
その大野さんは103歳まで生きられたが、98歳の時にベッドの上で、ひ孫と身を重ねて横たわる姿を細江さんが撮影しているのだが、これは、大きな爺と小さな爺のようにも見えて、なんともすごい写真だ。これが魂の輪廻というやつか。
細江さんの写真は、一度見たら忘れない強烈な印象があり、そして、他の誰とも異なる。
そのうえで、20世紀という時代と、真正面で向き合って、それを超越する精神の律動が漲っている。

9月28日(土)、29日(日)、京都で、フィールドワークとワークショップセミナーを開催します。
詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。
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前回の記事で、平安京が、四神相応ではなく、京田辺の甘南備山を軸にして、その真北に朱雀通りや大極殿が来るように設計されたということを書いた。
このことで明らかにしなければいけないのは、なぜ京田辺の甘南備山が軸になったかということだ。
桓武天皇というのは、第26代継体天皇のことを強く意識していており、京田辺は、継体天皇が2番名に宮を築いた筒城宮の地で、甘南備山は、古代から京田辺の聖山でありランドマークだった。
桓武天皇は、歴代天皇のうち唯一、公の場で即位式を行ったが、その場所は、継体天皇が最初に宮を築いた樟葉宮のところで、ここは、岩清水八幡宮が鎮座する男山の南麓だ。現在は、桓武天皇の父親の白壁皇子(光仁天皇)を祀る交野天神社が鎮座している。
さらに、桓武天皇が最初に都とした長岡京は、継体天皇が2番名に宮を築いた弟国宮の場所であり、さらに伏見にある桓武天皇の柏原陵は、京田辺の筒城宮から真北15kmのところだ。
なぜ、桓武天皇が、これほどまで継体天皇を意識しているのか?
桓武天皇と第26代継体天皇は、もともと天皇になる予定のなかった人物だった。ともに、時代の変転のなか、天皇に担ぎ上げられた人物である。さらに、継体天皇というのは、史実として初代天皇とされる人物だから、桓武天皇は、継体天皇に自らを重ねることで、自らの正当化をはかったとも考えられる。
歴代の天皇のうち、唯一、公の場で即位式を行ったことからも、正当な王であることを世の中に示す必要があったのだろう。
しかし、それ以前の問題として、それではなぜ、第26代継体天皇が、奈良ではなく、京都周辺の山背の地に、三度も宮を築いたのかを考えるべきだろう。
日本の歴史を学ぶ際に、日本の古代の都は、ずっと奈良にあったかのように思い込まされているが、史実としての初代天皇である継体天皇は、即位してから、今の京都周辺の山背に宮を築いた。
そのことについて、学者の先生などは旧天皇が拠点としていた奈良の豪族を警戒したからなどと説明しているが、そもそも継体天皇以前の天皇とされる存在は、史実であったかどうかも定かではなく、それらの天皇の宮も、実際にはどこにあったかもわからない。
奈良の平城京と京都の平安京の違いを考える時、平城京というのは、元明天皇が詔で述べているように四神相応に基づいて建設された「まつりごと」のための象徴的な場所であり、京都は、水運に恵まれた現実的な場所であるということだ。

鴨川

猛暑の東京を歩き回ってピンホール写真を撮り続けていた余韻を引きずったまま、京都に移動してすぐに歩き回った祇園界隈は、2014年から2019年くらい前までの5年間、住んでいたところだった。
その当時、airbnbをやりながら、毎日のように海外からやってくるゲストを迎えていた。
京都で最も賑やかな場所での暮らしは、最初の頃はわりと楽しかったが、すぐに飽きてしまった。家を出ると観光客ばかりの状況になってしまったこともあり、現在の拠点である桂川流域に移動したが、こちらは自然の景色も素晴らしくて、飽きるという感覚が生じない。
京都の魅力は、実は、こうした自然が身近に感じられるところにあるのだが、「歴史文化」こそが京都の魅力だと思っている人は多く、だからもちろん、それを目当てに観光客がやってくる。
しかし、その「歴史文化」は、実は博物館に展示されている遺物のようなもので、果たしてそれが本当に文化だと言えるのかという疑問がある。
博物館で有名美術家の作品が展示されて、それを見物しに大勢が訪れるが、その人たちの明日から未来にかけて、その展示が、自分にとって何か特別な意味をもってくるということが、果たしてどれだけあるだろうか?
温故知新につながらないような歴史との接点が、歴史文化と言えるのだろうか?
温故知新というのは、単に昔のことを調べたり知るだけでなく、故きを温ねて、新たな道理を導き出し、新しい見解を獲得すること。
少し前、テレビをつけたら京都の京セラ美術館で村上隆が大規模な展示会をやるということで、その特番をやっていた。
番組の全てを観たわけではないが、テレビをつけたタイミングで、美術館の責任ある立場らしき人が、京都と四神相応の関係云々という話をして、どうやらそれをテーマに作品作りをするらしいのだが、村上隆が、大勢の若いスタッフに叱咤激励するように「四神相応だってよ、早く調べて」と言い、スタッフがネットで検索して、「四神相応ってそういう意味ね」となって、虎の絵を描いたりしていた。
その美術館の責任ある人らしき人が、きちんと説明できないのが問題なのだが、その場でネット検索して、「そういうことね」とわかったつもりになっている程度の文化。
京都が四神相応に基づいて設計されたという話は、京都の文化人とされる人なんかでも薄ぼんやりと口にすることが多いが、史実として、そういう記録なんかどこにもない。
風水に詳しい専門家が、そういうことを述べ始め、なるほど東には青龍と言える鴨川が流れ、北には玄武と言える船岡山がある云々ということになっているが、西の白虎(道とされる)と南の朱雀(巨椋池とされるが、かなり西にズレている)は、どれに対応しているのか、実際にはよくわからない。
奈良の平城京に関しては、元明天皇が、四神相応に基づいて建設するという詔を出しているし、藤原京平城京が建設された場所の真南には、キトラ古墳高松塚古墳が築かれ、石室には、四神相応図が描かれている。
律令時代の始まりにおいては、天武天皇自身が、陰陽道の使い手であり、行政機関として陰陽寮が作られ、政治と陰陽道は深い関係があったが、平安時代平城京の時と同じだと考えるのは単純すぎる。
平安時代における陰陽道は、日常生活に即した占いの様相が強くなっており、陰陽の五行に、十干・十二支・八卦が組み合わさって9星図が作成され、それをもとに吉兆が占われたり、源氏物語においても細かく描写されているが、方違え(かたたがえ=自分が行こうとする方角が凶方位である場合に、一旦他の方角へ行ってから目的地へ向かうこと)などが行われた。
そして、平安京の位置決めがどのようになされたかについては、京田辺の甘南備山を軸にして、その真北に平安京の中心の朱雀通り(今の千本通り)がくるようにして、そのライン上に、大極殿羅生門が築かれたことが有力視されている。事実、明確にそうなっている。
そして平安京を守る方位神は、四神ではなく大将軍神であり、これが平安京の重要な意味を持つ方位に祀られている。
平安京のまつりごとが行われた大極殿の真北には、大将軍社として、西賀茂大将軍神社が祀られており、東は岡崎神社がそれに該当する。
京都の美術館からの依頼で、若いスタッフがネットでチャチャと調べて村上隆が京都を象徴するイメージとして作成した四神相応図(番組では西の虎に焦点をあてていた)は、もっともらしい顔で京都の文化人気取りが口にしていることだが、実際は間違っているイメージを増幅させたものにすぎない。
ただ、皮肉なことだが、それが「今の京都」の現実でもあり、京都の美術館の依頼で村上隆が行った「もののけ 京都」における代表展示らしい「洛中洛外図屏風」は、さらにその象徴だろう。
この作品のオリジナルは、戦国時代末期から江戸時代初期に活躍した岩佐又兵衛の傑作である。
同じ時代には、日本美術史の中の傑作が集中しており、俵屋宗達長谷川等伯、海北友松など、装飾画の枠には決してはまらない超然たる作品を作り上げた画家が多いが、それは、戦国時代という人間の生死の生々しい現実を突きつけられた時代だったからだろう。
洛中洛外図屏風も、単なる京都の生活が描かれているわけではなく、克明に描かれた一つひとつの光景の中の生命の躍動感が素晴らしいものだ。
その傑作作品を村上隆の若いスタッフがコンピュータに取り込んでトレースをして、その絵の中に、村上隆は、アニメキャラの「もののけ」を挿入している。
これを岩佐又兵衛が生きていたら、なんと思うことだろう?
しかし、この程度のものを有り難そうに持ち上げることも、今の京都文化の現実。
家元制度という虚飾の権威構造のなかで安住している京都の茶道文化とやらに対しても、千利休が生きていたら、なんと思うことだろう?
今の京都には、東京ではありえない権威や権力が横行している。
お家元とか宗家という伝統文化の継承者によって、その流派の経営や普及活動、そして数多くの弟子の統率と金銭徴収が行われているのだが、京都で開催される文化シンポジウムのようなものには、そうしたお家元とか宗家が登場していることが多い。そして中身のないことを喋っていても、周りが持ち上げるだけ。誰にも文句が言えない聖域みたいになっていて、大学の教授なんかも、そうしたお家元とか宗家とお知り合いになっているだけで、自らの文化的権威が高まると錯覚している人が多く、実にくだらない。
村上隆の「もののけ 京都」において、村上隆は、「もののけ」を単なる記号として扱っただけだが、京都の文化も、単なる記号化している。
多くの観光客は、美術館でルネッサンス展を観る場合もそうだが、記号を処理するだけのために訪れているケースが大半。だから京都には観光客が溢れている。
しかし、その反面、京都は人口流出数がもっとも多い都市であり、高齢者の比率もナンバーワンというシリアスな現実がある。
特に若者の京都離れが深刻な問題であり、その理由として住宅事情云々と説明されているが、本質的には、若者にとって魅力のない都市だということだ。
京都は、ある意味、蜃気楼。
人々の現実と、観光客が目当てにやってくる「歴史」は、離れすぎていて、単なる博物館化している都市、それが京都。
その京都よりも東京の方が観光客が多いのだけれど、彼らの目当ては、生きた現実に触れること。
東京は、生きた現実が超現実的で、それが観光客を惹きつけている。
京都に若者が住まないようになって、相変わらず東京が若者を引き付けているのは、そのあたりにも理由があるかもと思う。
若者が、NHKの美術なんとかという番組よりユーチューブを観るのと同じ。
ユーチューブにも色々問題があると指摘されるけど、何にも問題はありませんという顔をしている美術番組や、上に述べた形骸化した文化は、もっと根深い問題がある。
形骸化したものの上にあぐらをかいて威張れてしまう京都が、衰退していくのは必然かもしれない。
京都で行われる「文化活動」は、その大半が、すでに形骸化した文化に便乗する形でのものが多い。
京都の文化そのものを根本から捉え直すということは、上に述べた四神相応の件にしてもそうだが、京都の文化気取りの人がまったく理解できていないことばかりなので、大きな流れになりにくい。むしろ、そうした取り組みは、自分の牙城を崩すことにつながるのだから、そういうことに近づいたりしない。
自分が理解できていることの範疇であぐらをかくのは、人間の性質でもあるが、東京の方が、まだ自分が理解できない得体のしれなさに惹きつけられている人が多いかもしれない。
村上隆の「もののけ 京都」展は、「もののけ」を誰でも理解可能な記号の範囲に貶めているから、多くの人が安心して楽しめるものになっているのだろう。
しかし、本来、「もののけ」というのは、自分の理解を超えている存在がゆえに、心底、恐ろしくて、それでも魅力がある存在であり、だからこそ、源氏物語の中の六条御息所が特別な存在意義となっている。
村上隆の「もののけ 京都」展に、六条御息所が描かれているのかどうか私は知らない。
紫式部が主人公の大河ドラマが行われている最中であり、京セラ美術館の担当者が、それなりの知的教養があれば、当然ながら、四神相応図の虎よりも、六条御息所の方が、京都の「もののけ」を伝えるうえで重要だと判断できるはずだ。
しかし、仮に村上隆六条御息所を描くことを依頼したとしても、六条御息所のことをきちんと説明できず、村上隆の若いスタッフが、ネットのウィキペディアか何かで調べて、ああそういうことねと処理されて描かれるのかもしれない。それに対して、美術館側も、ありがたく頂戴しますという文化程度なのだろうか。
村上隆が、そういうエセ文化を嘲笑っているのなら、確信犯の反逆者として見事と言えるかもしれないが、「こんな感じでやれば、みんなに受けるんじゃないの」という形での新しい家元や宗家になっているだけなのかもしれない。すでに権威化されれば(とりわけ海外において)、言っていること、やっていることは全てご立派でございますと周りが持ち上げるだけの構造の中で、東京では、一ジャンルにすぎないことが、一大権威装置になってしまうのが京都。
それらは全て、現代の蜃気楼。
東京の蜃気楼と、京都の蜃気楼は、少し様相は異なるけれど、有意転変のなかの虚ろな現象世界。
岩佐又兵衛洛中洛外図屏風が、なぜあれほどまで躍動的なのかというと、又兵衛の意識が、有意ではあく、無為の方に向けられているからだ。
無為というのは、移ろいゆく現象世界の背後の力であり、こちらは、変わることがなく永続している。
生物の個体は有為だが、生命を過去から未来へとつなぐ力は無為。
豊臣秀吉によって切腹を命じられた千利休も、当然ながら、有為ではなく無為に意識が向いていたはずであり、それが本来の茶道の精神。表面的な虚飾によって権威化するなどというのは、もっての他だったはず。
もしも、京都に真の文化を見出そうと思えば、「有為」ではなく、「無為」に意識の重点を置くしかない。

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9月28日(土)、29日(日)、京都で、フィールドワークとワークショップセミナーを開催します。
詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/