「石橋山の戦いってどんな戦い?」「どっちが勝った?」わかりやすく解説! (original) (raw)
「石橋山の戦いってどんな戦い?」
「石橋山の場所はどこ?今の何県?」
「石橋山の戦いは、誰と誰が戦って、どっちが勝った?」
このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。
石橋山の戦いは、_源頼朝率いる源氏方300騎と大庭景親_率いる平氏方3,000騎が神奈川県小田原市と真鶴市の間にある石橋山で激突した戦いでした。
敗れた頼朝は伊豆の山中に逃げ込み、真鶴から脱出し対岸の安房に落ち延びました。
今回は、頼朝が敗れた石橋山の戦いについてまとめます。
源頼朝像
鎌倉市の源氏山公園にある源頼朝の座像 - No: 22109248|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
石橋山の戦いの主な登場人物
石橋山の戦いは、頼朝にとって大きな挫折を伴う戦いでしたが、同時に、のちの鎌倉幕府を構成する重要人物たちが登場した戦いでもありました。
ここでは、源氏方・平氏方の人物について解説します。
源氏方
源頼朝
父義朝が平治の乱で敗れると、_平清盛の母である池禅尼_によって助けられ、伊豆へ流刑とされました。
平治の乱について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。
伊豆に流された頼朝は、伊豆の豪族_北条時政_の娘、_政子_と婚姻を結ぶことで北条氏との関係を深めました。
伊豆に流された頼朝を支えたのが_比企尼_です。
比企氏について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。
1180年、_後白河法皇の皇子である以仁王_が平氏追討の令旨を全国に発すると、頼朝もこれに答えて挙兵。
北条時政らとともに監視役の伊豆国目代_山木兼隆_を討ち取り、味方する三浦氏と合流するため北上を開始した。
千葉氏などの関東の諸豪族の支持を受け、鎌倉に入城。
娘の政子が伊豆国に流刑とされていた源頼朝と親しくなると、最初は反対します。
しかし、政子が時政の館を抜け出し、「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と語るような駆け落ちをしたため、時政は頼朝と政子の婚姻を認めました。
頼朝が挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を襲撃した際、時政もこれに加わります。
そして、頼朝と共に三浦半島に向けて進軍します。
北条宗時
北条時政の嫡男。
16歳で初陣を飾った時、戦いで右腕を失ったという伝説がありますが、定かでありません。
頼朝が挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を襲撃したときには父の時政、弟の義時とともに襲撃隊の先頭に立って戦いました。
石橋山で大庭景親に敗れた宗時は、甲斐に向かって逃れる途中に伊藤祐親の軍に囲まれ、討ち取られました。
北条義時
北条時政の子で、宗時の弟。
父と共に頼朝の挙兵に参加したが、石橋山の戦いで敗北。
追手を振り切って、のちに頼朝と合流し富士川の戦いで平氏に勝利します。
頼朝の死後、北条時政が失脚したのちは幕府の中心人物として幕政を動かしますが、_後鳥羽上皇_から討伐の院宣を受けてしまいます。
しかし、姉の政子とともに鎌倉の御家人たちを団結させ、後鳥羽上皇の軍に勝利します。(承久の乱)
義時が子の泰時と共に、承久の乱後に作った執権政治の仕組みなどについて知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!
従来、悪役として描かれることが多かった義時ですが、2022年の大河ドラマの主人公となったことで、印象が変わるかもしれません。
平氏方
大庭景親
保元の乱では源氏の源義朝に属していましたが、平治の乱後には平氏に接近し、相模国内での立場を強化します。
頼朝の挙兵を知った景親は、3,000騎を率いて相模湾沿いを南下し、石橋山に着陣します。
戦いは景親の勝利に終わりますが、肝心の頼朝を取り逃がしてしまいました。
後に、頼朝が兵力を増強すると立場が逆転し、一転して劣勢となります。
富士川の戦いで源氏が勝利すると、景親はとらえられ処刑されました。
伊東祐親
伊豆国の豪族で、頼朝の監視役の一人。
祐親が京都に大番役で出張している最中に娘の_八重姫_と頼朝が結ばれ、_千鶴丸_という男子を設けてしまいました。
これを知った祐親は、平氏の怒りを恐れ千鶴丸を川にしずめて殺害。
頼朝も殺そうとしますが、頼朝は伊豆山神社に逃げ込み、その後は北条氏の庇護を受けました。
富士川の戦いの後は、立場が逆転し、とらえられてしまいました。
その後、娘婿の_三浦義澄_の嘆願で助命されますが、潔しとせず、自害します。
梶原景時
相模国の豪族。
大庭氏と同族であり、最初は源氏方、平治の乱後は平氏方についていた。
戦いの後、山中に隠れていた頼朝の居所を知りますが、景親らを偽って別の場所に案内し、頼朝を逃がしました。
『源平盛衰記』には、景時と頼朝が顔を合わせたエピソードが記されています。
平氏方に見つかったと思った頼朝が自害しようとするのを止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と頼朝に話すと、景親らを別の場所に誘導したといいます。
その後、景時は頼朝に降伏し、頼朝の信任厚い武士として権勢をふるいました。
_源義経_と対立したこともあり、そのせいで悪役として描かれることも多い人物です。
頼朝の死後、頼家を支える十三人の御家人の一人となりますが、他の御家人と対立し、自害に追い込まれます。
熊谷直実
武蔵国の豪族。
大庭景親の率いる軍に参加し、頼朝と戦い勝利します。
頼朝が勢力を回復し、再び軍を立て直すと、直実は頼朝に従います。
平氏追討の戦いである一の谷の戦いでは、源義経に従い_平敦盛_を討ち取ります。
この場面が、古典でよく扱われる『敦盛の最期』です。
『敦盛の最期』について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!
畠山重忠
武蔵国の豪族。
石橋山の戦いの後、頼朝に味方する三浦氏のこもる衣笠城を攻撃し、陥落させます。
その後、頼朝に降伏し、有力御家人として幕府成立に尽力しました。
『源平盛衰記』では、_木曾義仲の愛妾巴御前_と一騎打ちをしている場面が描かれました。
また、一の谷の戦いでは愛馬を傷つけるのを恐れ、馬を背負って崖を降りたといいます。
幕府創業の功臣でしたが、頼朝死後の権力闘争に巻き込まれ殺害されました。
石橋山の戦いの流れ
頼朝挙兵
1180年8月17日、以仁王の令旨を受け取った頼朝は北条時政らとともに挙兵し、伊豆国目代の山木兼隆を討ち取りました。
しかし、頼朝の配下はわずか300騎で、このままでは平氏方の反撃により滅ぼされてしまう可能性が高かったため、頼朝は有力な味方である三浦氏を頼ろうとします。
そのことを知った**大庭景親は、3,000騎の軍を整え、頼朝の前に立ちふさがりました**。
石橋山での激突
頼朝軍300騎は、相模国足柄郡の石橋山に陣を構えます。
一方、大庭軍は谷一つを隔てて、頼朝軍と対峙します。
そのころ、平氏方の伊東祐親は300騎で頼朝の背後に軍を進めていました。
頼朝は援軍の三浦勢が到着してから戦おうとしましたが、三浦軍は酒匂川の増水に阻まれ、いまだに戦場に到着していませんでした。
そこで、大庭景親は機先を制するため、頼朝軍に夜襲を敢行します。
戦いの始まりに、北条時政と大庭景親が「言葉戦い」を始めました。
時政が、源氏に従った鎌倉氏の子孫である大庭景親が、なぜ、頼朝を討つのかと問うと、景親は「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じます。
戦いが始まると、数に勝る大庭軍は頼朝軍を圧倒。
頼朝軍は伊豆の山中に逃げ込みました。
頼朝の逃避行
山中に逃げ込んだ頼朝軍は、各個に奮戦しますが、最終的に逃げるしかありませんでした。
頼朝は大庭軍に追い詰められ、一時は自害を覚悟しますが、梶原景時の機転により脱出に成功。
その後、真鶴半島から船で対岸の安房に落ち延びます。
しかし、北条宗時と_佐奈田義忠_は、大庭軍に討ち取られてしまいました。
石橋山の戦い後の頼朝
安房に逃れた頼朝は、房総半島の大豪族である_上総広常_や_千葉常胤_を味方につけて勢力を挽回。
10月2日には武蔵国に入りました。
それを知った武蔵の諸豪族は次々と頼朝に従います。
そして、1180年11月9日、甲斐源氏の_武田信義_とともに富士川の戦いで平氏を打ち破り、関東での勝利を確実なものとします。
富士川の戦いの後、頼朝は西に軍を進めず、鎌倉を本拠地として勢力を固めました。
まとめ
石橋山の戦いは、頼朝にとって大きな危機でした。
しかし、戦いの後も生き延び、房総半島で勢力を回復できたことで、平氏方を逆転することができました。
序盤の大きな危機を乗り越えたことで、頼朝は歴史の表舞台で活躍できる力を得たといってよいでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。