高等小学国史新指導書 下巻p216~ (original) (raw)

(四)新しい文学・芸術起こる

明治初年の文学はただ江戸時代の余勢を保っただけで、いまだ新興文学を見ることは出来なかった。仮名垣魯文の「西洋膝栗毛」はやや有名ではあるが、これは構想を東海道中膝栗毛にとって、弥次郎兵衛・喜多ハの両人が、横浜の豪商大腹屋に伴われてロンドンで遊ぶ途中、様々な滑稽を演じるという筋で、その文の手法は三馬や一九を模したくらいで、文学としての価値はほとんどいうに足りない。戯文狂詩の成鳥柳北にしても漢文学を引いたら後に残るものはなかろう。ただ一人脚本界に河竹黙阿弥がいて、ひとり黙って、芸術的独創の一路を拓いていたようだが、これとても案外思想的背景は乏しく、勧善懲悪にとらわれがちなのはやはり江戸時代の継承と見られるようである。
西洋文学の翻訳は、明治初年から相当に出たが論じるほどのものでもない。福沢諭吉が平明な独特の文章で、チェンバーの修身書を訳して童蒙牧草を出すなど、洋書の翻訳が盛んであったが、文学として論じることはできない。やはり新趣の見るべきものは明治十年代を待たねばならなかった。
十年代においてもっとも著しい事実は、翻訳文学と政治小説である。前者は欧化思想、後者は自由民権、共に時代を背景として出て来たもの。前者には数十種もあるがいちいち挙げない。後者においては十九年公にされた末広鉄腸の「雪中梅」、二十年に出た柴四郎(東海散士)の「佳人の奇遇」須藤南翠の「新装の佳人」などあらわれ、当時青年の心をとらえたものであるが、文学価値としては問題にならない。この時に当たって特に大書すべきものは、十八年に著された坪内逍遙の「小説神髄」である。これによって今までの小説を支配した勧善懲悪主義・誇大虚妄主義を排して写実主義を唱え、小説作者に指針を示している。次いで逍遙は「小説神髄」の思想を実現するために、自ら「当世書生気質」を書いた。これは逍遙の理想は完全に体現しているとはいえないが、この二書はたしかに暗黒の中に新曙光を点したものといえる。
洋楽も明治に至って起こった。その端緒は軍楽隊にあり、海軍は英式、陸軍は仏式によっていた。
明治十二年になると、東京と上野に音楽取調所(東京音楽学校)が設けられ、米国において洋学を研究した伊沢修二を所長とし、米人メーソンを招聘して洋楽を教授させ、次第に小学校にも西洋音楽が教えられるに至った。この年宮内省雅楽師林広守によって「君が代」の作曲もできた。
また明治のはじめ何事も新を競うあまり、みだりに旧来の名書宝器をいやしんだので、狩野派の天才狩野芳崖や橋本雅邦の絵画なども、ほとんど顧みられなかった。従って芳崖が窮乏のあまり、砲兵工廠の図案課の採用試験に応じ、用器書に落第したので、扇の絵を書き、また橋本雅邦が日給三十五銭で海軍の海図をかいて渡世せざるを得なかった。
洋画の方面を見ると、その端緒を幕末に開いている。欧州への留学の最初は川上清雄で、明治四年出て十四、五年頃までイタリアで学んだ。原直次郎・岡倉覚三・九鬼隆一皆西洋に学んだもの、国内では川上冬崖は洋画を吹聴するし、イタリア人フォンタネージが日本に招聘され、小山正太郎などがついて学び、小山正太郎などはまた門下生を指導し、そのうちに留学した者も帰ってきて、明治二十二年には明治美術会という洋画の団体がはじめてでき、当時の新知識を集めた団体であった。
こうした間に米人フェノロサが、明治十一年東京大学の招聘により来朝し、哲学・政治・経済を教えていたが、彼は日本固有の美術が貴重であることを説き、大いに国民に反省を促した。一方また仏国に学んだ岡倉覚三や九鬼隆一にしても日本美術には推賞おけないものがあると言い出した。この傾向に乗じて明治十五年にははじめて絵画共進会を上野の博物館で開き、次いで二十年に日本美術協会が設立され、二十一年には美術学校が創立され、岡倉覚三が校長となり、さきの芳崖や雅邦は教授となった。西洋画科が美術学校に置かれたのは明治二十九年であるが、しかしこの美術学校ができた頃には、日本画・西洋画各々その所を得て、存在の意義が見出だされてきた時である。

p218(五)洋風の輸入と国粋の保存

明治十年頃までは旧習一洗・現状打破の時代、十年頃から二十年頃までは自由民権・西洋心酔の時代であった。
政府において最も極端な保守思想家であった岩倉具視が逝去した翌月、すなわち十六年八月に伊藤博文憲法調査を終えて欧州から帰朝した。その新知識を発揮し、新統治を行おうとするに当たって、主として模範としたのはドイツにおける政治組織の美であった。「かやつも、こやつも、ドイツでなければ夜が明けない」とまで悪口を言われる程であった。その主義ではじめて内閣制度をつくり、伊藤第一次内閣が出来たのは、明治十八年十二月であったが、この内閣が手をつけた条約改正問題を解決するためには、極端な欧化政策をとるのがよいということになって、外相井上馨は日本の家屋・衣服・飲食を欧米化し、日本人種改良まで唱えるに至り、鹿鳴館(今日の華族会館)において、長夜の宴を開き、欧風舞踏や、滑稽な仮装会に浮き身をやつした。外国使臣徒は、永田町の首相官邸で催された仮装舞踏会に参列して、当年の奇兵隊長に扮した山縣や、安宅の弁慶に扮した渋沢、ヴェニスの貴族に成り済ました伊藤、田舎武士に扮した大山などの仮装を見たものである。
思想界では中江兆民が「一年有半」において「民権これは至極の道理である。自由平等これは大義である。これら理義に反する者はついにこの罰を受けぬということはできない」といった。彼はフランス学者で、ルソーの心酔者であった。キリスト教思想の新島襄は海老名弾正・小崎弘道・浮田和民・市原盛宏・徳富猪一郎・宮川経輝・金森通倫など有為の人物を輩出したときである。加藤弘之はまたイギリスのポップスの思想とダーウィンの思想を結びつけて進化論を唱え、多く欧米における思想が入り込み、一般に洋風駿々として輸入される時代であった。
この風潮に対して、明治十一年一月、早くも藤井惟勉は明治新論を公にし「祭祀は孝を明らかにし、祖先につかえ、神明に通じるゆえんである」と論じ、十二年八月、吉岡徳明はは「開化本論」を著して、物質文明を斥けて精神文明を説き、同年十月田中知邦は「大日本国教の要旨」を出して報本反始の道徳を高調し、十二月田中義廉は「古事記玄義」、同年神邑忠起は「通俗愛国問答」、十四年十月佐藤茂一は「日本憲法論」、千家尊福は「大道要義」十五年十一月岩崎実也は「国教一般」十六年八月三木整は「皇国政教論」、同年九月水原完梁は「古学通弁」、をそれぞれ著して、固有の思想を力説したが、明治十九年十二月には、西村茂樹帝国大学において三日間に渡って「日本道徳論」という公開講演を行って一大衝動を世人に与えた。その後西村は「日本弘道会」を率いて大いに旧道徳の吹聴を行い、これと互いに並んで三宅雄二郎・志賀重昴杉浦重剛井上円了などを中心とする政教社が起こり、機関雑誌「日本人」および「日本新聞」によって大いに国粋保存の思想を強調した。二十二年頃は最もその活躍した時である。こうして二十年頃から二十七、八年頃にかけて国粋保存時代があらわれる。二十一年には山岡鉄太郎などの「日本国教大道社」が起こり、機関誌「大道叢誌」が発行され、二十三年には惟神学舎の「隨在天神(カンナガラ)」二十五年に「神道」それぞれが発行され、二十二年の憲法発布、二十三年教育勅語の煥発に相応しい世態が出現したのである。
こうして旧来の事物を尊重する風が生じて来て、能楽は復興し謡曲も行われ、芝山内に能楽堂が出来るようになった。
芝居の方も欧化傾向に動かされて、明治十九年八月朝野の名士によって演劇改良会ができ、西洋劇のように写実的にさせることが相応しいと論じたこともあるので、だいぶん変わったものも出てきたが、この頃歌舞伎劇に九代目市川團十郎尾上菊五郎のような名優があらわれて、改良運動をも斟酌して一際目立って一頭角をあらわしたので、團菊中心の演劇時代をあらわして来た。

学習参考

(1)挿絵解説

狩野芳崖の書」は東京美術学校所蔵のもので、慈母観音の絵である。芳崖は独特の墨画山水を造出したが、彼の特色は人物画特に鬼神の図である。彼は西洋画法を加味し、着色の美に注意した。その芸術は新奇なものであった。この意味からすれば、慈母観音よりも、むしろ平家蟹のような不動明王において、彼の真面目を見ることが出来るだろう。
慈母観音の画想は、彼が妙義山金洞峰を見て出来たというから、この山は妙義山と見てもよい。
「橋本雅邦の画」は東京美術学校所蔵のもので、「白雪紅葉」という画題である。明治二十三年上野における第三回内国勧業博覧会に出したもので五十六歳の時の作、彼は芳崖と共に狩野雅信について学んだのであるが、和漢の古画に洋画の長所をも酌み、別に自己の立場をつくった人である。いわば復古的新意をもった人で、山水においてすぐれていた。
雅邦の真の味は、芳崖に引きずられて、強いて新奇を画幅の上に求めた時ではなくて、芳崖と伍する以前か、または明治三十一年東京美術学校引退以後において見られるという。この意味からすれば、ここに出ている画以上によい画があるかもしれない。
これら二つの絵によって、日本画の価値が認められてきたことを喜ばねばならないが、同時に日本画も次第に洋画を取り入れていくことに注意した方がよい。こうしてついには日本画とか洋画とかいえない境地に進むかもしれない。
ただ惜しいことにはこれらの芸術品から色彩をぬいだことである。教科書はやはり奮発して改良せねば駄目だと思う。

(2)指導要領

私は国史学習者の指導においては、まず何よりも形式環境や事物環境の整理をすべきことを力説している。これは教育の本質にも、歴史の本質にも合致することなのである。
環境を整理するのには、教科書に出ているものはなるべくそれを使うようにして、教科書に出ていないものを準備した方がよい。例えば貨幣の各種類とか、当時の文献とか、芳崖や雅邦がかいた他の絵画とかを準備した方がよいけれども、しかし教科書挿絵のように彩色を抜いた不完全なものでは仕方がないから、これは彩色のあるものを準備してその欠を補った方がよい。
この教材の筋道は、洋文明摂取が盛んであった世の中が、やがてまた自己の姿にかえって、固有文明を思いだし、その二つの相関的変遷の中に、文化の発展があったということである。
「その文化がどの方向に発展すればよいのか」ということは常に指導意識から離してはならない点である。
そこには「現代批評」ということも出て来るし、「将来の覚悟」も生じてくる。

※工廠=軍隊直属の軍需工場
※用器画=製図器具を用いて幾何学的に正確に描く画

※報本反始(もとにむくいはじめにかえる)=天地や祖先などの恩に報いること。人が天地や祖先など、存在の根本に感謝し報い、発生のはじめに思いを致すこと。