世の中と私 (original) (raw)

いわゆる虐待の問題に関して感情よりも認識(自己像と世界観)が重要だと考えている。

イジメ問題でも同様だ。

ワタシは母親から「出来ない出来ない」と言われて育っているが、そのことについて考えることはなかった。

既定値になっていたのだ。思考の前提。OSだと言っても良いかもしれない。

こういうことをいっているのは意外かもしれないがひろゆきだ。

1%の努力

彼は象と象使いの例で話している。

子供の頃なら象は象使いには勝てないかもしれないが大人になった象は象使いよりも強いから象使いのいうことに従う必要がないのにしたがっている。

こういう話だ。

スティーブン・キングが"イッツ"でこういうことを描いている。

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依存アディクションの問題にもこういうことがあると思う。

私自身依存アディクションがあって自助グループにも過去に関わっている。

依存アディクションを抱えているひとは「自分はダメ人団だ」ということが既定値になっていると思う。

たとえば「自分は酒を辞めるような意志の力がいない人間だ」という自己像を持っているひとが依存アディクションを抱えてしまうと思うのだ。

それは自分で自分を「ダメ人団だ」と思っている(そう認識している)ということなのだ。

そういう風に観る必要はないがやはりスティーブン・キング原作スタンリーキューブリック監督の映画「シャイニング」に出てくる小説家のお父さん(ジャック・ニコルソンが演じた)はアルコール依存症だ。そして酒乱。

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あの映画はアルコール依存症で酒乱の父親が暴れる話でもある。

あの映画は依存症の描写としてもリアルだ。

あのお父さんはイライラしている。悪い夢を観る。変な汗をかく。不快なのだ。

そういう不快さが酒を飲むとなくなる。

そういうことを繰り返しているうちにヒドクなっていくのがアルコール依存症なのだ。

そして子供の頃に父親が荒れていた経験があるひとにもリアルだ。

子供の頃に父親が荒れていたひとには父親は本当にああいう風に見えるものなのだ。

ただ依存か中毒かは不明だがワタシの周囲にいつも怒っているひとがいる。

あれは依存か中毒だと思うのだ。

ああいう人たちは怒ると脳で快楽を感じる物質が出ているような気がする。

日常的にマウンティングを取るひとも日常的に皮肉をいうひともや日常的にイヤな冗談をいうひともそうなのかもしれない。

そういうことをしているから周囲からひとがいなくなるのにずっとそういうことをしているのだ。

単に負のループに入っているだけだと思っていたのだが明らかに本人が不利益を被っているのにそういうことがやめられないようだ。

あの人たちもやはりそういうことをすると脳で快楽を感じる物質が出ているのかもしれない。

ただワタシはそういう人たちには具体的には何もできない。

病識という。

これは精神疾患にだけいう言葉のはずだ。

「頭が痛い」とか「お腹をくだしている」ことは当然本人にわかる。

「これは病気だ」ということが本人にわかることを病識があるというのだが精神疾患の場合はこれがない場合がある。

あえてそういう言葉を使うが「自分が頭がおかしいということがわからない」時に本人に病識がないという。

頭がおかしいというと極端だ。

だが最初に書いたように「自分はできないんだ」と当たり前のように信じていて、そのことを本人が疑うことが(論点にすることが)できないのもやはり病識がないということになる。

そして異常に怒りっぽいことを単に怒りっぽいだけだと思っていることも場合によっては病識がないということになるのだ。

実際単にそういう性格だということもあるのだが。

さっきも書いたように日常的に怒っていることで明らかに本人が不利益を被っているのに怒ることを辞められないことが実際にあるのだ。

それなのに本人が「自分は単に怒りっぽいだけだ」としか思えないのであればこれは病識がない。

病識があれば本人がそのことを論点にできる。

だが病識がなければ本人にそのことを論点にすることができない。

そうするとこれは精神疾患だけの問題ではなくなってくる。

あんまり具体的には書かないが本人の問題を論点にできていない人たちがそうとういるのだ。

すべて敬称略です。

10才くらい年上の人たちの影響を受けるものだ

ワタシは還暦なのだがワタシの場合は明石家さんまやミュージシャンでいえば桑田佳佑がそういう人たちだ。

そしてこういう人たちに関してはどうしても見方が甘くなってしまう。

こういうことはどういう世代にもあるはずだ。

こういう人たちからどっちかというとイヤなことを学習していたと思う。

共演NGという話がある。

ワタシは単なる視聴者だがテレビを見ていて「このゲストは辞めて欲しい」とか「このレギュラーはちょっと」と思っていることが多々あった。

ダウンタウンでもそうだ。

ダウンタウンがやっていたトークショーのゲストにどう考えても触るだけムダなひとが出ていることがあった。

触るだけムダという言い方もヒドイが触るだけムダだとしかいえないのだ。

ワタシは一介の視聴者なので「テレビ局に電話をかけてあのひとなんとかしてください」というのもおかしい。

そういうことをしても良いのかもしれないが、そういうことをするのもなあと思っていた。

ある時期からの明石家さんまダウンタウンだったら「あいつなんとかしろよ」とスタッフにいえばなんとかなっただろう。

その意味は共演NGだ。

ある時期からのそういう人たちは共演NGに出来た。

若くて力がない時は別なのだがある程度成功して力がつけばそういうことができる。というか出来てしまう。

「仕事を選ぶ」のもそうだ。

まだ売れてない時には仕事を選んでいる場合ではないのだがある程度売れてくると仕事を選べるようになるはずだ。

ワタシが言っているのはそういうことができるようになった時にどうするのかという話だ。

共演NGも仕事を選ぶことも力がない時にはできない。

でも力がついてくるとそういうことができるようになる。なってしまうというか。

こういうことがワガママだとも言い切れないのだ。

当然だがそういうことがそもそもできないのなら悩むことはない。

そもそもできないのだから。

でもいろいろできるようになると、そして売れたり力がついたりすれば、そういうこともできるようになる。

そして別にワガママがいえるようになるために頑張った(あるいはガンバル)訳ではないのだが・・・。

どっちかというとイヤなことというのはまあこういうようなことだ。

ワタシは一介の視聴者だから意味はまったく違うがいつからかテレビに「こいつ本当に嫌いなんだよね」という連中がよくでるようになった。

北海道出身の役者(?)もそうだ。

ワタシは嫌いだ。

NHKで司会をやっているが番組は好きでもこいつが嫌いなのでそういう番組は観ない。

有名野球選手の息子。本人も野球をやっていた。

こいつのこともワタシは嫌いだ。

女のモノマネ芸人で本当に嫌いなヤツもいる。

ワタシは単に嫌いなだけだし一介の視聴者だからこういう連中がテレビに出ていると観ない。

ワタシはそれだけなのだが。

ワタシが嫌いなのは意外と若い世代ではない。40代から60代の場合が多い。

そしていつの間にかワタシが嫌いな連中が本当にたくさんテレビにでているようになった。

そういうこともあってワタシはテレビを観なくなっている。

そしてそういう連中がよくテレビに出ているからワタシはそういう連中が嫌いなのだが皆はそういう連中のことが好きなんだろうと思っていたのだ。

でもそうでもなかったのかもしれない。

ユーチューバー風の女芸人が引退(?)するという話が出た時にネットで「本当にあいつが嫌いだった」「テレビにもうでないんだ。よかった」という声が異常にたくさんあったのだ。

ということはワタシだけじゃなくて皆も嫌いだったの?と思った。

でもテレビには視聴率という指標がある。

ああいう連中がでていると視聴率が良かったんじゃないの?

そうじゃなきゃそういう連中がテレビに出ているはずはない。

「仕事は結果だから」だ。

イヤそうじゃなかったのかもしれない。

ああいう連中は仲間内では受けがよかったのかもしれない。

仲間内での受けが良かったから視聴率という結果が出てなくてもああいう連中を使っていたのかもしれない。

これはテレビ業界だけの話ではない。

「仲間内でウケが良い」ということだけで仕事の結果が出ていなくても延々とやっているところはたくさんある。

そういう所(会社だったり業種)は今のテレビ業界みたいなことにしかならないはずだ。

そりゃそうだよ。

結果が出ていないのに仲間内でのウケが良いという理由だけでやっていたらうまくなんか行くはずがないではないか。

現代を舞台にした物語ではマスコミの存在と動きが重要や役者になる。

橋本治の著作によるとギリシャ悲劇では舞台上にコロスという人々がいたらしい。

コロスはコーラスの語源だ。

この人たちが歌ったり踊ったりしていて重要な役割を持っていたらしい。

最近「亜人」を読んだ。

絵柄が大友克洋だったのでいろいろ思った。

絵柄に著作権はないのだが。

亜人でも事件が起きてテレビに学者が出て色々いう。

事件現場にもリポーターが行ってリポートしている。

事件の関係者の(犯人ではないのだが)半生を振り返るVTRが制作されて放送される。

関係者の知人のインタビューが放送される。

こういうことに対してネットでの反応があって世論が動いていく。

映画でも同様だ。

マット・ディモンの「ボーン」シリーズでもマスコミが重要な役者なのだ。

マスコミと世論というか。

ボーンシリーズの最初の作品ではCIAの女性職員が「汚くて耐えられない」と言ってマスコミに情報を流す。

だがそれで彼女は窮地に陥ることになる。

羊たちの沈黙」も同様だ。

FBIの女性捜査官はマスコミに持ち上げられたり叩かれたりする。

彼女はそういうことでツライ目に会う。

こういうマスコミとネッtと世論が現代を舞台にした物語のコロスに当たる。

ただ現代のコロスの状況が変わっていると思うのだ。

ワタシは東京都民ではないので基本無関係なのだが東京都知事選に立候補している蓮舫さんの印象がどうやら悪いらしい。

これは印象の話だ。

ただ印象が悪いのはどうやらテレビを見ている人たちだけだ。

ネットの情報を中心にして暮らしている人たちには(ワタシもそうだ)蓮舫さんが印象が悪いということがわからないのだ。

これは蓮舫さんの政治姿勢や政治家としての力量の話ではない。

あくまでも蓮舫さんに対する印象の話だ。

テレビ・新聞・雑誌・ラジオとそういうマスコミの報道に対してネットが反応して世論が形成されるという全体像が現代の物語のコロスで、このコロスが実は重要な役者になるのが現代を舞台にした物語の特徴だ。

ただギリシャ悲劇には「神託」という存在がある。

アポロンの神託のような。

こういう存在も現代を舞台にした物語には実は存在しているような気がする。

神託だからと言ってもこれは神秘的な存在ではないと思うのだが。

吉本隆明が「10年いっちょ前説」を唱えている。

この意味は10年ある仕事をやっているとそういう身体になっていて、そういう身体になっている頃にそういう仕事で食べられるというものだ。

ちょっと何をいっているのかわかりづらい。

吉本は思想家だが基本著述家だ。10年物書きをやっていると腰が悪くなるというのだ。そして腰が悪くなった頃に物書きで食べられるようになっていたというのだ。

この腰が悪くなった頃というのが「そういう身体になった頃」だ。

そういう身体というのは物書きの身体だ。

そういう身体になった頃に物書きで食べられるというのだ。

これは経験上納得できる。

サービス業を10年やった頃に自分では同じように仕事をしているつもりなのになにかが変わっていたのだ。

同じように働いているのになにか違っているのだ。

あれはやっぱり身体が変わっていた。

そして今日気が着いたのだがどうやらワタシは文章を書く身体になっている。

だいたい今日はだいたい8時間文章を書いているのだ。

そのコトに違和感がない。

そんなに苦痛ではないのだ。

これはおかしいのかもしれないと思った。

おかしいというのはこういうことは普通ツライだろうという意味だ。

でもあっちこっち悪いのだがツラクはない。

こういうことも「10年いっちょ前」説の通りで、知らない間にどうやらそういう身体になっていたようだ。

これは自戒も含むのだが事実被害者であることと被害者意識を持っていることとではまったく違う。

話がそれるが自己責任論なるものがある。

自己責任論は論としてはその通りで大事なものだ。

だが、言葉遊びではなく、自己責任論者は法律や公や友達やいろんな存在に頼る。

「自分でなんとかしなきゃ」と思うと自分一人でやれないということがわかるからだ。

そして場合によっては法律の改正も目指す。

自分が頼らなきゃいけない法律がおかしなことになっていると自分が困るからだ。

そして自称自己責任論者たちで自分の言動に責任を取ったひとはあまりいない。イヤほとんどいない。

氷河期世代が他罰的だというが自称自己責任論者たちもやはり他罰的だ。

「景気が冷えてしまった」「政治が悪かった(あるいは悪い)」「こんなことは誰にも予測できなかった」「マスコミが悪い」といっている。

ふまり「自分以外が悪い」と彼らは言っている。

他罰的だ。そして自分には責任はない(あるいはなかった)といっている。

ということは彼らは自己責任論者ではない。

自己責任論者であれば事情はどうであれ自分の言動には責任を取らざるを得なくなる。

一面識もないが加藤秀視というひとをワタシは尊敬している。

自分を愛する技術

著作を読んでちょっとネットで絡んだだけなのだが。

加藤さんは昔悪かったのだ。

今は若者の更生やイジメ問題に取り組んでいる。

誰かをひとくイジメていたとしてもあるいは悪いことをしていたとしてもその子がそのことを反省して償うべきことがあれば償って、それができたのならまたガンバレばいいという考えだからだ。

ということは悪いことをしたとしてもそのことを反省して償うべきことがあるのなら償うというステップが重要なのだ。

この考えもまた自己責任論だ。

話を戻す。

事実被害者であることと被害者意識を持っていることとはまったく違う。

そして被害者意識を持っていると認知がおかしくなる。

団塊からバブル、団塊ジュニアの中にバブル崩壊がなかったかのようにいう人たちがいるのだ。

そういう人たちにはバブル崩壊はたいした影響はなかったのかなとずっと思っていたのだがそうではなかったのかもしれない。

彼らはバブル崩壊という事実を受け入れられていない。

現実の受容ができていないのだ。

ポジティブシンキングという。

ワタシは浄土真宗の信徒で生長の家の師友なのだが(あまりに不幸が多すぎて困った時の神信心だ)生長の家はポジティブシンキングでもある。

生長の家は長年極右だったのだが。

ポジティブシンキングのステップ1(ステップ0)は現実の受容だ。

「地獄みたい」という現実であっても、そういう現実を受容する。

地獄みたいな現実だとしてもそういう現実を受け入れ(受容)しやすいような世界観がある。

そういう世界観が先なのか、険しい現実を受容するためにはそういう世界観があるのかはワタシには判断が難しいところだ。

女性学者たちにもやはり認知が歪んでいる人たちがいる。

昔スカート云々という話があったのだ。

日本人は普通に男でもスカートをはく。

和服(呉服)でハカマをあわせなければ、ワンピースみたいなものだから意味はスカートだ。

スカートでしかないものを見てスカートだと認知できないのだから、それは認知が歪んでいるとしかいえない。

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上は加藤商店の着物の写真を使わせてもらっている。(スイマセン、まだ許可を取っていません)

朝日新聞NHKが長年嫌われているが、あれは思想だけではなくて「ふんぞり返り方がえぐかった」という理由があったはずだ。

金持ちのボンボンやお嬢さんの友人もいるが彼らは付き合っていて楽だ。

屈託がない。

こっちは屈託だらけだ。

彼らみたいに屈託がない人たちはお付き合いをしていてストレスが少ない。

だが朝日新聞NHKみたいにえぐいくらいにふんぞり返るようなひともいる。

ボンボンやお嬢さんでもそういうひとがいるのだ。

「えぐいくらいにふんぞり返ってしまう」のにはなにか理由があるはずだ。

こういうことをフロイトはコンプレックスと呼んだのではないだろうか。

前に「右も左も大嫌い。右も左も役立たずだから大嫌い」と書いた。

ワタシは必ずしも現実主義者ではない。

現実主義者ではないというのは理想主義者だからなのだが、だからといって現実を無視して良いとも思っていない。

日本で政治に関わろうと思うと「国防についてどう思いますか」ということでたいていつまってしまう。

日本の場合はアメリカファクターがあるわけだから国防について考えると詰まってしまうのは当然だ。

一つの答えはアメリカの政治に対してロビー活動を行うだ。

これはそういう方法もあるということだ。

実際右も左も役立たずだという訳では必ずしもないのだが右も左も現実の受容ができてない可能性がある。

現実の受容というより現実の認知かもしれない。

現実の認知ができていないのなら、スタート地点が間違っているということになる。

スタート地点が間違っているのなら後も間違うしかない。

最近白川静先生と梅原猛先生の対談を読んだ。

呪の思想 (平凡社ライブラリー)

古代中国に周という王朝があったが周の後半になると寡占制になっている。
複数の勢力による共同統治だ。

これからしばらく世界はそういう風になるような気もするのだ。

歴史修正主義なるものがある。

アルシュビッツはなかったというようなものだ。

これは近現代史についての話だ。

古代史も今も見方とはそうとう違うのかと思っている。

アフリカ北東部とアラビア半島が長く文明の中心だったような気がするのだ。

有史以前のことにはなる。

有史というのはいわゆる歴史の始まり以前という意味だ。

有史以前のことだからワタシたちにはまだわからないのだ。

今はあのアタリは砂漠が多いはずだ。

ワタシの世代はいわゆる古代文明について

「大河が何度も洪水をおこしました。洪水が何度も起きているうちに土壌が豊かになりました。

その豊かな土壌で人々は農業をはじめました。

これが古代文明なのです」

と習っている。

そして文明の終わりについて土壌(土)を使い果たすと砂漠になって文明が終わるという説がある。

だから今は砂漠だとしても昔砂漠だったのかどうかはわからないのだ。

そして砂漠を土壌(土)に戻すことができたらスゴイことだとずっと言われていたのだが日本人の研究者がこれに成功されている。

research.kyoto-u.ac.jp

ちょっと長いが京都大学の犬山修一先生のインタビューだ。

今PVの件で燃えているそうだがコロンブスは現代とも関係がある。

それはともかく。

ヨーロッパで海へ出た国がある。

スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス等がそうだ。

こういう国々は日本同様ユーラシア大陸のはじだ。

当時は地球がこうなっているということはわかっていない。

だから大西洋の向こうになにかがあるかどうか不明なのだ。

南にはイスラム勢力がいる。

陸路だと今でいうフランスドイツ、東ヨーロッパ、ロシア、中央アジアがあって、逃げ場がない。

逃げ場は海しかなかったから海に出たともいえなくはない。

こういう見方もも歴史修正主義ではある。

コロンブスが現代と関係があるというのはパンデミックなのだ。

コロンブスたちはウィルスのキャリアだったらしいのだ。

そしてアメリカ大陸でパンデミックを引き起こしている。

そして彼らはヨーロッパにも感染症を持ち込んだようだ。

research.a01.aoyama.ac.jp

こういうことが起きるのは当然グローバルな時代だ。

そしてあのPVがあんなに炎上したのもやはりグローバルな時代だからだ。

あのバンドもまさか海外で自分たちのPVが問題になるなどとは思ってもいなかったはずだ。

ココロと身体と環境(人間関係や仕事など)のリストラクチャリング(再構築)がやがて終わるようだ。

自己像セルフイメージも世界観もずいぶん回復した。

自己像セルフイメージが低いと当然のこと(自分はダメ人間だと思っていると当然のこと)が自分はダメ人間じゃないと思うと当然のことではなくなる。

世界観はホラー映画みたいな世界観だった。それが既定値(デフォルト)だった。

そういう世界観がずいぶん変わった。

そういうこととリンクして身体も変わってきている。

何十年もそうだったから「おかしい」と思えなくなっていた(普通だと思いこんでいた)のだが近所のコンビニまで行くのに途中2回か3回休まなきゃいけなかった。

でもそういうこともずいぶん回復した。

記憶もおかしかったのだがこれもまたずいぶん回復した。

「ウツはココロの風邪」という言い方が当たっているのかどうかは不明だ。

だが風邪のような苦しみが数年、人によっては数十年続くようなひともいる。

風邪どころかインフルエンザくらいの苦しみが続くひともいる。

ワタシもそうだった。

ある時に障害者枠での就職が決まったのだがいろいろ考えてお断りした。

当時は風邪かインフルエンザみたいな苦しみが続いていた。

だからといって就職しておいて(チェーンの飲食店だったのだが)ボチボチ店長出てきたかなという頃に「すいません。今日具合が悪くて」としょっちゅう電話を欠けて休む訳にもいかない。

そういうことでお断りしたのだ。

同世代で公務員をやっていた友人も結局辞職。

やっぱり似たようなことだ。

メンタルの場合は外見ではあまりわからない。

昔のことだからではあるが彼もワタシもトイレで薬を飲んでいた。

「そういうの(薬)に頼っちゃダメだって」と言われるのだ。

じゃあ薬物療法がまったくダメなのかどうかというとこれはワタシにはわからない。

ただ「これだけやればいい」というのは全部違うとは思う。

ということは「これだけをやめれば良い」というのもやはり全部違うということになる。

だから「断薬すればいい」というのも当然「これだけやめれば良い」ということになるのでやはり違う。

生活保護でパチンコに行く」という話がある。

当然けしからん話だ。

だがパチンコは一人でやる。

好きで一人で楽しんでいるひとは良い。

一人で楽しむようなことが今はたくさんある。

パチンコの他にもビリヤード、ダーツ、バイクでツーリング、一人旅、サッカーの応援、ボーリングもそうだ。

こういうことが悪いということではない。

ただこういうことをしている人の中に一人の人たちがいる。

そういう人たちは無自覚なのだが周囲がイヤな気持ちになる言動を取っているのだ。

そうすると周囲のひとが「ちょっとなあ」ということになって離れてしまう。

そういうことでそういうことをしている人たちがいる。

これは金持ち貧乏、健康不健康、男女、正社員非正規雇用、そういうこととは違う話だ。

ワタシからすれば泣き寝入りなのだがそういうひとたちから(無自覚だが周囲がイヤな気持ちになる言動を取るひとたち)からずいぶん離れた。

彼らはそういうことに無自覚なので言っても意味がないのだ。

そういうひとたとがたくさんいたのだ。

ただそういう人たちが職場やいろんなところで華やかにやっている(ように見えた)ことも多々あった。

だからそういう人たちがそうだということには長々気がつかなかった。

でもそういう人たちが実はずいぶんたくさんいる。

デートの時に男は女におごるべきかという話がでている。

多くのひとは戸惑ったはずだ。

ワタシもやはり戸惑った。

男は女におごるべきだという思想(?)は反男女平等思想だからだ。

「デートの時に男は女におごるべきだ」という思想(?)は反男女平等思想で、その話(思想?)が女性の方から出ているのだ。

そしてそういうことをいっている女性たちは必ずしも自分は反男女平等論者なのだとは思っていない(と思う)。

日本は日本で問題が多いがアメリカはアメリカでやはり問題が多い。

エンタメ業界もそうだ。

ディズニー社がカナダにスタジオを作ったのだがこの件についての大規模な発表はしなかったようだ。

なんとなくカナダにスタジオを作って、そこを拡大した。

しつこいが日本は日本で問題が多いのだがアメリカも同様だ。

アメリカの場合は組合やポリコレがあまりに強くて思うように作品が作れなくなっている(と思うのだ)。

だからなんとなくカナダにスタジオを作った。

そういうことを正式に発表してしまうと反対されるからだとワタシは思っている。

もちろんそのひとはどういうひとであっても可哀想なことはしない方が良い。

それはもちろんそうだ。

だけれどもポリコレがあまりに強すぎて良い作品が作れないようでは問題だ。

組合も労働者の権利なのだからあっても良いし必要な場合もある。

だがアメリカの現状ではポリコレにも組合にも問題があるようだ。

エキゾチックという。

エキゾチックには非標準という意味がある。

大阪人が「大阪には情がある」という。

ワタシは九州なのだが東京の言葉は冷たく感じる。

そういう風に感じてしまうのだ。

それはそうなのだが大阪人が「大阪には情がある」といっている場合には大阪はエキゾチックだ(つまり非標準だ)といっているのだ。

昔作家の栗本薫がある小説で「自分が思うような九州弁を使ったのだがフィクションでもあるし認めて欲しい」と書いていたのだがワタシは激怒した。

理由は方言にも当然文法があって学習可能だからなのだ。

こういうことも思考のワナといえばワナだ。

方言を使う人たちが「自分の言葉は学習不可能でそういう言葉を使う自分にはアドバンテージがある」といっていることがある。

これは自分はエキゾチックな存在で、その意味は自分は非標準な存在なのだといっているのだ。

もちろん学習者(それは外国語でも方言でも同様だ)にはニュアンス上わからないところがある。

昔流行った日本ユニーク論も日本は非標準でエキゾチックだという論だった。