富永京子『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』 (original) (raw)
自分は1970年代半ばの生まれで、90年代の前半に明治大学に入学したのですが、入学式の日にヘルメットを被った活動家の人たちが新入生にビラを配っている光景に驚いたのを覚えています。
もうなくなったと思っていた学生運動的なものがまだ残っていたことに驚いたわけですが、それくらい70年代後半〜90年代にかけて学生の政治運動というものは退潮してしまった(少なくともそのイメージがあった)状態でした。
これはなぜなのか?
この70年代後半〜90年代にかけての若者の政治や社会運動からの撤退の謎を、1974年に創刊され、85年に刊行を終えた雑誌『ビックリハウス』の分析を通して明らかにしようとしたのが本書です。
『ビックリハウス』については糸井重里による「ヘンタイよいこ新聞」のコーナーなどが今までも社会学者などによって分析されてきたので、ご存じの方も多いでしょう。自分も世代ではないですが、宮台真司や北田暁大の著作を通じてある程度のイメージがありました。
ただ、本書の著者は86年生まれであり、完全に『ビックリハウス』が終わったあとに育った世代になります。
そこでどうしたかというと、約10年分の『ビックリハウス』をすべてテキスト化し、計量テキスト分析をかけるという荒業を行っています。この計量分析と内容の分析を通じて、なぜ若者の中で政治や社会運動を冷笑、揶揄するような姿勢が強まっていったかを探っています。
もちろん、『ビックリハウス』の分析だけで、70年代後半以降に日本社会でおきた大きな変化のすべてを説明できるわけではないですが、1つの雑誌の分析を通じて、社会の変化の一端を捉える興味深い内容になっています。
目次は以下の通り。
第1部 日本人は政治と社会運動に背を向けたのか?――問題意識・先行研究・方法と事例
1 消費社会と私生活主義は日本人を政治から遠ざけたのか?――問題意識
2 「雑誌の時代」と『ビックリハウス』─先行研究
3 事例、方法、分析視角
第2部 戦後社会の価値変容――戦争経験、ジェンダー、ロックの視点から
4 語りの解放と継承のずれ――「戦後」から遠く離れて
5 女性解放――運動がなしえた個人の解放、解放された個人への抑圧としての運動
6 「論争」から「私的」へ――みんなで語るそれぞれのロック
第3部 みんなの正しさという古い建前、個人の本音という新しい正義
7 社会運動・政治参加――規範と教条主義に対する忌避・回避
8 「差別」が率直さの表明から不謹慎さを競うゲームになるまで
9 自主的で主体的な参加の結果、「政治に背を向けた」共同体
10 意図せざる結果への小路――考察と結論
おわりに
70年代後半以降、若者が政治や社会運動への関心を失っていった理由として、「私生活主義」や「マイホーム主義」の広がりといったことがあげられますが、これは公と私を対立的に見る見方であり、例えば、70年代に立ち上がった生活クラブなどの消費を通じて社会を変えようという運動などを見ると、かなり単純化された見方だと言わざるを得ません。
また、70〜80年代にかけて、デモや選挙について有効性を感じる人は減る傾向がありますが、「集会・会合出席」、「署名」といった行為は80年代にかけてむしろ増えてる傾向もあり、一方的に政治的活動が不活発になったわけではありません。
それでも、当時の若者は「基本的には「政治に背を向けた」私生活主義を体現する存在」(46p)として論じられてきました。
本書はそうした若者を中心とする読者共同体を形成していた雑誌に注目しています。
70年代〜80年代は数々の雑誌が創刊された時代で、若者の世代的アイデンティティの構築に大きな役割を果たしました。また、当時の雑誌は読者からの投稿・投書を募っていたものが多く、そこで読者共同体がつくられました。
この時期には、政治的・対抗的な色彩の強いサブカル誌が創刊されています。『面白半分』、『話の特集』、『宝島』などです。そして、政治性・対抗性を有しているにもかかわらず、歴史的にそうとはみなされていなかったのが『ビックリハウス』だといいます。
『ビックリハウス』も初期のコンセプトは「ヒッピー・ジェネレーションのサバイバル教本、『ホール・アース・カタログ』に影響された」(75p)とあるように、対抗性を持っていたはずなのですが、後世からはそうした評価はなされていません。
大塚英志が「「プロと素人の差を喪失させようとしている」点に階級を解体させる意図をもつ「革命」を読み取っている」(77p)ように、ある種の革新性はあったのですが、それは政治的関心を欠いた「未政治運動」の共同体のような形で終わっています。ここに著者は注目するわけです。
『ビックリハウス』は1974〜85年までパルコの出資でタウン情報誌として創刊されたもので、アングラ劇団「天井桟敷」で活動していた萩原朔美と榎本了壱がパルコに企画を持ち込んだことから始まりました。
1977年からは高橋章子が二代目編集長となり、「新人類」「女性」の旗手として各種メディアでもとり上げられました。編集部も女性が多数を占めるようになったといいます。
80年前後からは糸井重里や橋本治が編集・寄稿に加わり、連載を持った有名人もYMO、おすぎ、鈴木慶一、栗本慎一郎、ナンシー関、赤瀬川原平、日比野克彦、村上春樹、三浦雅士、とんねるず、犬飼智子など多岐にわたりました。
ただし、部数的には83年のピーク時で18万部で、高橋章子によると公称10万部で実際は5万部という程度の部数にとどまっています。
読者の平均年齢は18歳前後で男女比は半々、ただ投稿者の割合は2:1で男性が多く、高校生、浪人生、大学生からの投稿が多かったといいます。好きなタレントでは82〜84年にかけて戸川純とビートたけしがトップを占めていました。
第2部ではこの『ビックリハウス』について、「戦争(反戦・平和・運動)」「女性(フェミニズム・ウーマンリブ)」、「ロック(対抗文化)」という3つのテーマについて、計量テキスト分析を通してその言論の特徴を浮かび上がらせようとしています。
まずは「戦争(反戦・平和・運動)」です。
この話題について、『面白半分』は安保についての連載があり、『話の特集』は海外ルポタージュで反戦・平和の話題がとり上げられていました。重信房子の連載「ベイルート1982年夏」が連載されたのも『話の特集』です。
読者層がやや若かった『宝島』でも、「アトミック・カフェ・フェスティバル」、ジョン・レノン追悼キャンペーンなどでこうしたテーマに触れています。
一方、『ビックリハウス』ではどうだったのでしょうか?
70年代後半については、戦争は戦争映画の紹介記事、著名人の体験談として戦争が語られていることが多いです。
一方、80年代に入ると映画の他に、スネークマン・ショーによる「戦争反対」キャンペーンについての賛同や投稿も目立ちます。このスネークマン・ショーのキャンペーンはネタなのかマジなのかわからないものですが、読者は比較的「マジ」に受け取っていたといいます。
同時に親や教師が語る戦争体験の話が「おもしろエピソード」的に紹介されているのもこの時期の特徴です。
この時期は、戦争経験者によって周囲の職場などに戦争経験者がいなくなり、「戦友」以外にも戦争の話をするようになった時期だとも言われていますが、『ビックリハウス』ではこうした話が最近びっくりしたことを報告する「ビックラゲーション」の中で紹介されています。
例えば、「政・経の中村先生は友人Tを「起きんかっ!」と、どなったあと「満州で蒙古人150人を扱うには、これくらいの声が必要だ」と、おっしゃった」という投稿と、それに対する「中村先生の戦後は、まだ終わってないっっ!! ほおっておいていいんだろうかー。生徒としてどう対処すべきか考えよ。騎馬民族の衣装で投稿するとかさ。ちょっと、ハデかな。」とう編集者のコメントです(139p)。
ここでは特に編集者のコメントによって戦争経験が「笑い」の文脈に回収されています。
この時期のサブカル誌は女性解放や性の開放、個の開放を後押ししつつも一部の女性運動には極めて冷ややかな目を向けていました。例えば、中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)の代表であった榎美沙子は『話の特集』の嫌いな著名人の常連でしたし、『宝島』でも攻撃されています。
『ビックリハウス」でも2代目編集長の高橋章子は働く女性のロールモデルのように見られていた時期もあり、男性読者の「女の人は結婚に逃げられるからうらやましい」という発言に「そういう考え、許せないなあ」(154p)と応じているように、性別分業的な考えを強く批判しています。
一方、『ビックリハウス』の投稿や編集者のコメントに通底するものとして主婦への蔑視があります。アダルトビデオ廃止運動を行う女性に対して「だから主婦ってバカだって言われちゃうんですよ」(157p)と編集者がコメントしているように、頭の硬い暇人のように扱われています。
かといって、バリバリのキャリアウーマンが理想視されているわけでもなく、こちらも揶揄の対象になっています。
「性」についての部分でも、頻出語として「おっぱい、胸、バスト」、「尻、おしり」などがありますが、自虐的な笑いとともに言及されることが多いです。
『ビックリハウス』の編集者たちは女性解放には基本的に同調しつつも、「女性であることの構造的不利を主張する女性解放運動に対して距離を置く言明を強調して」(169p)いました。
高橋は女だからお針セットくらい持ってないとヘンだという言説に対して、それはヘンだと認めつつ、「しかし、ヘンだからといって女性差別反対とか言ってプラカードなどかついだりしないところが私のエライところである」(170p)と自著の中で述べています。ここには社会運動的なものへの忌避とともに、ある程度の社会参加を成し遂げた自分たちにとって女性解放運動は、自分たちを再び「女」という柵に囲い込むものだという意識もあったのではないかと著者は見ています。
最後は「ロック(対抗文化)」です。ロックに関しては、その後も「洋楽の歌詞を理解しなければ聴いたことにならないか?」「ロックとは音楽ではなく生き方」みたいな論争があり、「本物のロック」「本物のロックファン」をめぐる論争があったりするわけですが、それは70〜80年代にかけてもありました。
特に『宝島』では、1978年に「ロック論争」が行われるなど、ロックの衰退や「ロックとはなにか?」といったことが論じられています。
『ビックリハウス』でも1976・77年に読者投稿欄でロック論争が行われています。
特に77年6月号に載った、日本人は歌詞を理解しないで聞いているから日本のロックシーンが進歩しないという18歳の男性からの投稿は大きな反響を呼びます。
これに対して編集部は論争については「けなしあい」「あげあし取り」が多かったとして、理論ではなく「極私的ロック論」を募集します。
編集部はどのようなあり方が正しいかではなく、私はこんな風に聴いているという多様な聞き方の共有を目指したのです。
この歌詞の正確な理解を重視せずに、人それぞれの聴き方を重視したという点では同世代の音楽雑誌『ロッキング・オン』と通じる面があります。
第3部では第2部の分析結果をもとに、どうしてこのようになったのかが読み解かれています。
まずは社会運動や政治参加への忌避です。女性解放運動についての評価にあるように『ビックリハウス』の読者・編集者共同体は、性別役割分業などを否定していましたが、同時にそれを告発する女性解放運動からは距離を置こうとしていました。
この『ビックリハウス』の特徴は、他のサブカル誌とは少し違っています。『話の特集』はキーパーソンの矢崎泰久・中山千夏が政党「革新自由連合」を結成したこともあり、選挙活動の記録などが載っていました。『面白半分』も『話の特集』ほどではありませんが、野坂昭如の「四畳半の下張」をめぐる裁判がとり上げられていました。『宝島』でも学生運動や時事問題に対する言及があります。
『ビックリハウス』でも政治への言及はありますが、1978年を境に「戯画化・パロディ化」して論じる傾向が強くなるといいます。
例えば、1980年12月号には読者アンケートに基づく記事があり、その中に「鈴木善幸をどう思いますか?」という質問があるのですが、「きらい」という声が多くある一方で、「名前まけ」「サロンパスくさそう」「かわいい」「ホクロの場所が今イチ」などのイジり的なコメントが目につきます。
また、ストに対する言及でも、パロディや日常のびっくりネタのような形で言及されていることが多いです。
パロディについては、そこに政治性や対抗性があるべきだという議論もありますが、『ビックリハウス』の寄稿者でもあったタモリや糸井重里はそういったスタンスを批判しており、また高橋章子も『ビックリハウス』のパロディを「オチョクリ」だと語っています。
『ビックリハウス』の基本としてあるのは「べき論」への忌避であり、それは例えば、1983年の村上春樹の寄稿の中の自分のつれあいが絶対に投票にいかないことに関して、「「それは権利を放棄していることだ」と言う人がいるけれど、権利というものは本来的にそれを放棄する権利も包含しているのであって、そうでなければそれはもう権利でもなんでもないのである」(231p)という文章にも現れています。
こうした「べき論」への忌避は学生運動の経験者でもある糸井重里からも持ち込まれていますし、学生運動の世代ではない高橋章子(52年生まれ)も学生運動についてカッコ悪いというという認識を持っています。
また、糸井重里・栗本慎一郎の「空飛ぶ教室」では、よく「国家を感じる」というスラングが用いられていますが、これは「共同の幻想としてイヤともなんとも感じないウチに押し付けられ、無意識にそーさせてしまう力」(235p)と説明され、学生運動や社会運動などが「国家を感じる」ものとされています。
本来ならば、国家に対抗しているはずの運動が、教条主義的なものへの忌避という視点で国家と同一視されているのです。
第8章ではマイノリティに対する言説が扱われています。
『話の特集』、『面白半分』では、社会問題をとり上げつつも同時に差別語の禁止に対する反対姿勢も目立ち、差別語をふくむ「率直さ」を養護するような姿勢も目立ちます。『宝島』もそうですが、「ゲイ」や「女性」を未知の世界として見るような記事、田舎いじりの記事(「VOW」)も目立ちます。
『ビックリハウス』でも表現規制に対する反発は他誌と共通しており、一貫して表現の自由を養護する立場に立っています。
しかし、例えば、性的マイノリティについて『宝島』が啓発的な視点も持っていたのに対して、『ビックリハウス』では笑いのネタとして扱われています。
日用品の別の使い道を考えるコーナーでは、先割れスプーンについて、「スプーンでもフォークでもない特徴を生かして、おかまの人たちの代名詞として使う」、「おしりの穴に刺し、ホモよけに使う」(253p)といった投稿が載っています。
編集者のコメントで「差別ですよ」というツッコミも見られますが、それは怒りや注意ではなく、笑いを誘うためのものであり、すべてを差別認定することで差別用語の無意味さを逆説的に示す形になっています。
また、あえてギリギリの表現を用いることで笑いを誘う、不謹慎さを競うゲームのような投稿も見られるようになります。
「マイノリティ」と言えるかどうかは微妙ですが、「田舎」「地方」に対するいじりや差別的な視点は『ビックリハウス』の定番で、田舎のダサさを笑うのが基本的なスタンスでした。
『ビックリハウス』の編集部は特に読者たちを誘導しようという意図はなく、若者たちの感性を重視しました。
高橋章子が「宗教の人たちが”答”を教えている、あれはうちは絶対ナシでやってるから。自分の思ったことを言えという一点でやり続けてる。それが、それこそこちら側のメッセージだね」(276p)と述べていますが、それはある意味で規範性や教条主義を排した「民主的」な態度でした。
このスタンスを例えば鶴見俊輔は評価しているのですが、一方で椎名誠は「この種の奥社参加型雑誌のいやらしいところは素人がプロに媚びているところ」「投稿者は目下のウケウケの傾向を素早く察知し、編集長がヨロコビそうな話やセリフをしこたま送り込んでくる」(278p)と批判的に見ています。
実は初期の『ビックリハウス』では「フルハウス」という評論や社会的主張を募集するコーナーがあったのですが、投稿が集まらずに終わっています(寄稿者には高校生時代の中条省平もいたとのこと)。
そこで読者投稿を集めやすいものとしてクローズアップされたのがパロディや体験談でした。 これによる政治性・対抗性はますます抜け落ちます。これについて著者は次のように述べています。
つまり、『ビックリハウス』という政治性・対抗性なき若者共同体は、編集者たちが読者たちを社会運動への揶揄や率直な差別発言をするように導いたから成立したわけではなく、投稿という自主的・主体的な行為による共同体への参加と、その参加の敷居を下げるためのシステム構築によって成り立つ「意図せざる結果」だったのだ。(282p)
最後の第10章では分析の結果として得られた知見を既存の世代論などと比較検討しています。
また、『ビックリハウス』の女性編集者が主婦でもキャリアウーマンでもない「どちらでもない」人間を目指したものの、男性編集者や読者から「ブス」「いき遅れ」という枠に当てはめられ、そして自虐的にそれを内面化してしまう様子も紹介されています。
規範や啓蒙から距離を取ろうとした彼女らにとって、こうしたレッテルを強く拒否するという行動は生まれにくいのです(彼らが反対する言葉狩りになってしまう)。
このように本書は70年代後半〜80年代にかけての社会の変化について、『ビックリハウス』という雑誌を通じて分析しています。
もちろん、本書の分析で変化のすべてが説明できるものではないですが、若者の変化を用意したある種の構造を説明しており面白いです。
そして、読んでて感じたのは『ビックリハウス』と現在の学校文化の意外な近さ。
『ビックリハウス』は当然ながら「反・学校」だったはずですが、現在の学校では生徒の自主性や感性が尊重され、生徒の授業参加や意見表明を求めながら、政治や社会運動については忌避するという、本書が分析した『ビックリハウス』的な構造があります。また、投稿者とそれを取捨選択する編集者という関係も現在の生徒と教師の関係ににているかもしれません。
学生運動が遠い過去のことになったにもかかわらず、相変わらず日本の学校において政治や社会運動が忌避されている要因というのは改めて考えるべきかもしれませんし、ここからは『ビックリハウス』が尊重した読者の「主体性」が本当に主体性足り得るものだったか?という疑問も生まれてきます。
(そして、この『ビックリハウス』と学校の問題は、北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で分析した「天才たけしの元気が出るテレビ」におけるアイロニーとベタな感動の同居につながっていて、現在の学校ではアイロニーをベタな感動で乗り越えようという努力がなされている)
その他、分析の中から浮かび上がる、主婦、特に表現規制などの運動をする主婦への揶揄や蔑視などもジェンダーと社会運動の観点から興味深いと思いますし、さまざまな楽しみ方ができる本だと思います。