東海道(佐屋街道)を歩く 38.近鉄長島駅~桑名駅 (original) (raw)

前回、神守口バス停から近鉄長島駅まで歩いた。今回は近鉄長島駅から桑名駅まで歩こうと思う。「近鉄四日市駅まで歩くんじゃないの?」と思った人もいるかもしれないが、桑名観光しているうちにまたしてもゲリラ豪雨が降り始めたことと、桑名駅近鉄四日市駅までが遠く、やむなく桑名駅でリタイアとなったのだった。そのため「東海道を歩かない 桑名編」に近いテイストになっていることをご了承いただきたい。

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1.六華苑

今日は近鉄長島駅からスタートだ。

近鉄長島駅

昨日ゲリラ豪雨で撮れなかった長島町のマンホールを紹介しよう。

これは町の花かきつばたと水郷をイメージしたデザインで、中央に町章が入っている。長島町の町章は「ナ」を図案化したものだ。

なお、長島町は桑名市多度町と合併して平成16年(2004年)に廃止された。

善明寺がある。

善明寺

善明寺は浄土真宗大谷派の寺院で明応6年(1497年)に長島願證寺蓮淳のもとへ集まった部将の開祖によるものである。

飛び出し坊やを見つけた。

飛び出し坊や

飛び出し坊やとは子供が道路に飛び出して車と接触する事故を防止する目的で通学路に設置されている看板で全国にあるが、この形式のものは滋賀県にある「飛び出し坊や」として有名である。だがここは三重県である。

伊勢大橋で長良川揖斐川を渡る。一瞬、昨日のように橋の上でゲリラ豪雨に降られるのではないか、と考えたが、幸い降られることはなかった。

伊勢大橋

伊勢大橋を渡り、揖斐川沿いを南進していくと六華苑に到着する。

六華苑

六華苑は、桑名の実業家・2代諸戸清六の邸宅である。

初代清六の後継者となった25歳の当主の新居として、大正2年(1913年)に完成した。

初代清六は、今の桑名郡木曽岬町で生まれ、明治時代に一代で財をなし、「日本一の山持ち」といわれた人物である。

平成3年(1991年)に桑名市が取得し、整備後、六華苑として平成5年(1993年)から一般公開している。

洋館は、鹿鳴館ニコライ堂などを設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの作である。

木造2階建てで4層の塔屋をもつ、ビクトリア朝洋式の住宅で、外壁の淡いブルーが特徴的。内装は、アール・ヌーボーなどのデザインが施されている。

塔屋は様式に従えば3層であるが、揖斐川の眺望を好んだ清六の希望により4層に変更されたそうだ。

洋館の西側は和館と接続しており、そちらから入る。

和館

和館から庭園を見る。

和館の欄間に菊が彫られている。

和館の客間は床の間・付書院・飾棚を設けた本格的な座敷だ。欄間および釘隠の模様は桐と菊で、どのような来客を迎えても良い格式になっている。

和館の客間

洋館に入る。

階段の手すりはコンドルのこだわりで、手すり下の板面にハート矢印形の透かしが施されている。かわいい。

洋館の客間に入る。

洋館の客間

来客接待用の部屋で、洋館のなかで一番凝ったつくりとなっている。

暖炉はアール・ヌーボーの様式を取り入れたもので、鏡の位置が低いのはイギリス直輸入のものを使っているからである。

食堂は落ち着いた色調に統一されている。

食堂

この玄関は主人と来客のみが使用していたものだったようだ。

玄関

この部屋は客待ち的な応接室として利用された。

応接室

窓は、塔屋の形にあわせて曲面に仕上げられている。当時の日本にはガラスを曲げる技術はなく、このガラスは輸入されたものらしい。

サンルームから庭園を見る。

1階のベランダと同じ広さをもつサンルームは、言葉通り陽光がふりそそぐ明るいスペースである。「当時としては斬新な設計」と書かれていたが、サンルームが設置された洋館はいくつか訪れているので、あまり斬新にも感じなかった。

サンルームに通じる明るい部屋の居間は、食堂と同じ間取りとなっている。

居間

1階の食堂と2階の居間が同じ間取りだが、1階の客間と2階の書斎も同じ間取りである。ちなみに書斎にあるデスクは100年以上前に製造されたもの(諸戸清六が使ったものではないらしい)。

書斎

2階は居間、書斎などのほかに寝室がある。2階は諸戸清六のプライベートスペースであったと考えられている。

寝室

この部屋は、コンドルの図面には「Spare Room(予備室)」と書かれているが、実際には使用人の部屋として使われていた。

女中室

当時、洋館の使用人と和館等の使用人とは別々にいて、洋館の使用人は洋館だけの仕事をし、和館等の使用人はめったに洋館には入れなかったらしい。いかに諸戸清六が金持ちであったかがわかるエピソードだ。

洋館をあとにして、二番蔵を見る。

二番蔵

木造2階建ての二番蔵には膳碗・什器類を収納していたようだ。

番蔵棟には衣類・諸道具等日常使用するものを収納していた。

番蔵棟

離れ屋は2部屋からなり、西側に上段の間を設けて仏壇が置かれていたようだ。

離れ屋

現在の岐阜県海津市高須藩から移築したと伝えられる旧高須御殿は風格があった。

旧高須御殿

芝生広場から洋館・和館を見て、六華苑をあとにした。

2.七里の渡し

続いて、七里の渡しへ向かう。

七里の渡し

慶長6年(1601年)、徳川家康は江戸と京都を結ぶ東海道宿駅制度を設置した。

41番目の宮宿から42番目の桑名宿までの7里(約28km)は舟で渡ったことから、この渡し場には「七里の渡し」の名がついた。

航路は、時代や天候、潮の状態によってさまざまであり、所要時間は3~4時間程度。

宮宿から佐屋宿まで行き、佐屋宿から桑名宿までの3里の海路も設置されていた。

七里の渡しの渡し場は、北は揖斐川、東は桑名城の北西角に面し、その風景は歌川広重の「東海道五十三次 桑名」「伊勢参宮名所図会」「久波奈名所図会」などに描かれている。

東海道五十三次 桑名」

渡場には高札場、伊勢の国一の鳥居、舟に乗降する人々を監視する番所や乗船の手配をする船役所があった。

現在の渡場跡は、近年の揖斐川改修工事の高潮堤防によって揖斐川と隔てられ、当時の姿から大きくかわったが、平成15年(2003年)に蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら。七里の渡しの東にあった桑名城隅櫓のひとつ)を復元した水門管理所(2階は展示コーナー)が建てられ、景観の整備も行われている。

渡場周辺は桑名宿の中心でもあり、本陣・脇本陣問屋場が建ち並んでいたようだ。

当然ながら、「宮」側の「七里の渡し」も訪れており、「東海道を歩く 35.鳴海駅~熱田神宮伝馬町駅」の5.宮の渡し公園 で紹介している。

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東海道を歩く 35.鳴海駅~熱田神宮伝馬町駅」でも記載しているが、定期航路ではないものの1年に1度、NPO堀川まちネットが「七里の渡し船旅」を実施している。こちらも申し込んだが、今年(2024年)10月26日のイベントのため、イベントレポートについてはもうしばらくお待ちいただければと思う。

そして、佐屋街道は終わり、ここから再び東海道が始まる。三重県滋賀県を通って京都まで頑張ろう、と決意を新たにした。

ここで七里の渡し周辺を散策してみる。

七里の渡しには住吉神社がある。

住吉神社

住吉神社は廻船業者によって航海の安全を祈り、正徳5年(1715年)に大阪にある住吉大社から神霊を勧請して建立された。

石灯籠に「渡海安全」と刻まれているのが渡し場ならではである。

「渡海安全」

蟠龍櫓のなかは展示コーナーになっており、浮世絵や渡海路絵図などが展示されている。

蟠龍櫓

渡海路絵図

3.春日神

桑名市章の描かれたマンホールを見つけた。

この市章は「桑」の略字体「桒」の字を分解して図案化し、四方を囲み、中央に「太陽」を配置したもので、平成16年(2004年)に廃止されたデザインだ。

雨が降ってきたので、ここで昼食をとる。昼食は「満る岩」といううどん屋さんで、ざるうどんを注文した。

うどんを食べていたらゲリラ豪雨がどんどん強くなっていった。この時点で13時半だったこともあり、四日市まで歩くのは断念した。

私は普段、チェーンじゃない喫茶店にはあまり興味がない(一人で入る勇気がない)のだが、雨も降ってきて東海道をこれ以上続けるのが困難と判断し、友人が行きたい喫茶店があるというので一緒に行くことにした。

向かったのは「赤い屋根」。

「赤い屋根」

ここでアイスコーヒーとチーズケーキを注文した。

1時間くらい時間をつぶしたがまだ雨はやまないので、少しだけ先に進むことにした。

こちらはハマグリのデザインのマンホール。

木曽川長良川揖斐川の河口は3つの川の水と伊勢湾の海水が混じる汽水域で、ハマグリが豊富にとれる産地として有名であった。古くから、このハマグリを使った桑名名物に、焼き蛤がある。

ことわざにも「その手は桑名の焼き蛤(その手はくわないよ、の意味)」といわれ、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも弥次さん喜多さんが、「桑名につきたる悦びのあまり、めいぶつの焼き蛤に酒くみかはして」いる。

茶屋の店先でハマグリを焼く様子は、歌川広重の「狂歌東海道五十三次 桑名・富田立場之図」、歌川国貞の「東海道五十三次之内桑名之図」などの浮世絵にも描かれている。

狂歌東海道五十三次 桑名・富田立場之図」

当時、焼き蛤を商う茶屋は、桑名宿から現在の三重郡朝日町・四日市市富田の東海道沿いに軒を並べていた。現在は、桑名産ハマグリの漁獲量が少なく、地物の焼き蛤は高級料理となっている。そのため今回はハマグリを食べていない。

「桑名の殿さん 時雨で茶々漬」とお座敷小唄で謡われる「殿さん」は、明治・大正時代に米相場で大成功した「大旦那衆」のことであるが、時雨蛤も焼き蛤とともに茶屋でみやげ用として売られていた桑名名物であった。

時雨蛤は、ハマグリの身をたまり醤油で煮込み、炊き上げたもので、初め煮蛤とよばれていた。時雨の由来は、初冬の時雨の降る頃がおいしいということから名づけられたという。ハマグリのほかアサリやシジミなどでも時雨が作られており、桑名の特産品となっている。

こちらは桑名の折り鶴のデザインのマンホール。

一枚の紙で何羽も繋いで折る連鶴の折り方は、桑名の無形文化財に指定されている。

こちらは「東海道五十三次 桑名」デザインの消火栓。

桑名の東海道を歩く。

春日神社に到着した。

春日神社の銅鳥居

春日神社の銅鳥居は高さ6.9m、柱の回り57.5cmの青銅製で、寛文7年(1667年)に桑名藩7代藩主定重が桑名の鋳物師・辻内善右衛門に命じてつくらせたものである。

「勢州桑名に過ぎたるものは 銅の鳥居に二朱女郎」と俗諺にいわれ、桑名の名物であった。

この鳥居は「自然災害伝承碑」にも指定されている。

自然災害伝承碑とは、過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に関わる事柄が記載されているモニュメントで、令和元年(2019年)に新設された地図記号だ。「東海道を歩く」では、「東海道を歩く 33.岡崎公園前駅知立駅」で、溺死菩提という自然災害伝承碑が以前登場している。

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この鳥居が何の自然災害伝承碑なのかというと、伊勢湾台風のものである。

鳥居の左右の両柱にある窪みは昭和34年(1959年)9月26日夜半の伊勢湾台風の高潮により打ち上げられた荷物船が横さまに激突した痕跡である、という記述が鳥居の柱に刻まれている。

鳥居の正面には、平成7年(1995年)に再建された楼門がある。

楼門

春日神社は通称であり、正式名称は桑名宗社で、桑名神社と中臣神社の両社からなる。両社とも「延喜式神名帳に記されている式内社である。

名神社は、この地方の開発の祖神とされる天津彦根命(あまつひこねのみこと)とその子天久々斯比乃命(あめのくぐしびのみこと)を祭神とし、三崎大明神ともいう。

中臣神社は、伊勢国造の遠祖とされる天日別命(あめのひわけのみこと)を祭神としている。もとは桑名から西にあったが、正応年間(1288~1293年)に桑名神社境内に遷座したようだ。

さらに永仁年間(1293~1299年)には、奈良の春日大社の祭神を勧請して合祀したことから、春日大明神とも称し、「春日神社」「春日さん」の呼称が一般的になった。

8月の第1日曜日とその前日の土曜日、春日神社を中心に行われる「桑名石取祭の祭車行事」は桑名地方最大の夏祭りで、平成19年(2007年)3月に、国重要無形民俗文化財に指定された。

春日神社に参拝し、御朱印をいただいた。

春日神

4.桑名城

桑名城の城壁が見える。

桑名城

これは江戸時代初期に築造された城壁である。

桑名城は、揖斐川に面した平城で、その形から扇城ともいわれる。この地に初めて城館が構えられたのは、永正年間(1504~1521年)といわれ、東城と称し、その後文禄年間(1592~1596年)に豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が城郭を築き、桑名城と称した。

慶長6年(1601年)、徳川四天王の1人・本多忠勝が入城、修築を行い、天守・三之丸などを完成すると同時に、桑名の町割にも着手し、城下町が形成された(慶長の町割)。

5代藩主・松平定綱のときには、「海道の名城」といわれたが、元禄14年(1701年)、7代藩主・松平定重のとき大火により天守・二之丸・三之丸などを焼失、その後天守は再建されなかった。

明治時代に入ると、城の石は四日市築港工事に払い下げられ、その後も堀の多くが埋め立てられるなど城跡は大きくかえられたが、昭和3年(1928年)、松平定信没後百年を記念して、旧桑名町により本丸・二之丸跡が整備され、九華公園となった。

ちなみに時間の関係で九華公園には行っていない。

桑名城壁と並行して、「歴史を語る公園」があり、ミニ東海道が作られている。しかし公園の地面が雨で濡れていたため、歩くのを断念した。

「歴史を語る公園」

5.石取会館

突き当たりを右折して先に進むと石取会館がある。

石取会館

この建物は、もともとは昭和2年(1927年)に建造された四日市銀行(現在の三重銀行)の桑名支店である。

大正時代から昭和時代前期にかけて、銀行建築で流行したギリシャ神殿風の列柱を取り付けたモダンなビルである。

平成3年(1991年)に桑名市に寄贈されて、平成4年(1992年)から石取会館として開館した。

春日神社の石取祭は、「日本一やかましい祭」「天下の奇祭」として知られる。

もともとは、桑名神社の例祭である比与利祭の準備として、近くの町屋川で祭場用の石を取り、奉納する神事であった。

宝暦年間(1751~1764年)に比与利祭から独立した祭礼となり、今日に近い形になったといわれる。

祭りは2か月にわたるが、本番は8月第1日曜日の本楽日と前日の試楽日の2日間である。

試楽日の午前0時の「叩き出し」で春日神社の神楽太鼓を合図に各町の祭車がいっせいに鉦と太鼓を打ち始める。午前10時の「献石神楽」で各町の代表者が町屋川から採取した石を詰めた俵を神前に奉納。

夕刻から午前0時にかけて「試楽」が行われ、組内の各町の祭車が集まり、各町を練り歩く。

翌日、本楽日の午前2時に「二時の叩き出し」が行われ、午後には全祭車が各町から移動し、所定の整列場所に渡祭順に並ぶ。

午後6時半から渡祭が始まり、祭車が春日神社へ参拝する。祭車を神社楼門前に曳きだし、渾身の力で太鼓と鉦を叩く。「コラサー」と囃し立てるかけ声と熱気で祭は最高潮を迎える。約7分間でつぎの祭車と交替し、渡祭は夜中まで続く。

いつか見てみたいものだ。

石取会館の館内には、江戸時代末期の石取祭の祭車が展示されている。

石取祭の祭車は、幾多の変遷を経て現在の型式に至った。車輪は3輪の御所車で、台車の上に階段や高欄をもつ初層部が載っている。

上部には、山形十二張の提灯飾りが立てられる。また提灯飾りのかわりに、造り物とよばれる、桃太郎・鏡獅子などのからくり人形を飾るものもある。

祭車後部には、直径約80cmの大太鼓と、その両側に、青銅製で直径約50cmの大鉦が吊るされている。

祭車を飾る彫刻や幕類、塗り、蒔絵、金具などは、それぞれに趣向をこらしたもので、美術的価値が高い。

彫刻のなかには、信州諏訪の立川富重の文久2年(1862年)作や高村光雲作もあり、祭車の観賞も、石取祭の見どころになっているといえる。

ちなみに、石取会館内はこの祭車以外は撮影禁止だった。

石取会館の筋向いに、桑名市博物館がある。

桑名市博物館

昭和46年(1971年)、桑名市立文化美術館として開館し、昭和60年(1985年)に三重県内初の市立博物館として再開館した。

建物は、百五銀行旧桑名支店を増改築したものである。

残念ながらこの日は開館日ではなかった。

現在16時。まだ新幹線の時間には余裕があるがいっこうに雨がやまないので、また喫茶店に入った。入ったのはシャトークワナ。

シャトークワナ

それにしても、ライトが宇宙船みたいだ。

私はアイスコーヒーとバニラアイスを注文した。それにしてもバニラアイスの量が多い。

ふとテーブルを見たら…「カン」「ポン」「チー」「リーチ」「ロン」。どうやらこれ、元はマージャンゲーム機だったものをテーブルに再利用しているらしい。お金を入れるところにはテープが張られ、ゲームはできないようだった。

「ロイヤルクイーン」「コインを投入すると画面中央にギャルが登場します。」これ、友人があとで有識者に聞いたら脱衣マージャンというゲームらしいことが判明した。脱衣って…今だったら炎上案件だ。

店内には我々しかいなかったので少し店内を見て回ったら、マージャンゲーム機だけでなく、シューティングゲーム機もテーブルになっていた。

友人は桑名城を見てから帰るとのことで、シャトークワナ前で友人と別れ、桑名駅へ向かった。

これは「七里の渡し」がデザインされたマンホール。

シャトークワナから20分ほどで桑名駅に到着し、ここから帰ることにした。

名駅

次回は、桑名駅から富田駅まで歩く予定である。

今回の地図

今回の地図(桑名市街地拡大)

歩いた日:2024年7月15日

【参考文献・参考サイト】

風人社(2016) 「ホントに歩く東海道 別冊 佐屋街道

三重県高等学校日本史研究会(2015) 「三重県の歴史散歩」 山川出版社

国土地理院 自然災害伝承碑

https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

(2024年9月28日最終閲覧)