rory / 仏教ロック!のプラモデル日記 (original) (raw)

承前

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ニコヨン物語

私がもうMMTを知ってかなり経過した。レイの金ピカ本についてヘッドホン氏と直接やりとりしてJGPの革命性に驚き、チャーネバの本でJGPについて長年研究している人らがいることを知り、昨年出たミッチェルの訳本では、少なくとも70年代以降、左派が真剣に議論するのを避けてきた国民国家論こそが問われているのだと認識した。

未だにMMTはよくわからない。というか、未だに中央銀行のオペレーションには全く興味が湧かない。当初から私の興味はその「科学」志向ではなく、あくまで「民主的」志向についての政治哲学との接合と、日本におけるJGPのあり方についてであって、ともあれ、その割にこれらについても知識を深めることはできていなかった。

政治哲学との接合は、そんなものに興味が湧く人はいないだろうと思うのでともかくとして。とりわけ、レイやチャーネバらがJGの運営主体として労働者協同組合が挙げていることはMMTerにはよく知られているだろうが、仮に日本でJGPを実現するのであれば、労働者協同組合から学ぶべきことが多いだろうと当初より興味を持っていた。

本記事ではまず、日本のJGPの「先例」として戦後の失業対策事業を振り返り、JGPの観点から本事業の比較と評価を試みる。

さらに、失対事業労働者の運動が現在の労働者協同組合連合会へと至るその変遷を追い、また、日本における労働者協同組合の特色ある理念についても紹介…したかったのだが、長くなってしまったのでこちらは次の機会に譲りたい。とりわけ、しばしばチャーネバが言及するILOの提唱するディーセントワークとも大きな親和性を持つ日本の労働者協同組合の理念と実践が、日本における新たなJGP実現にあたっての大きな示唆を与えてくれるものであり、こちらがより重要と考えている。

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イスラエルシオニストらは、ユダヤ教徒ではなく無神論者が多いのだそうです。付け焼き刃の知識をなんとか書いてみると、元々、シオニストらはオーストリア=ハンガリー帝国あるいはロシア帝国帝国主義同化政策の下でユダヤ教アイデンティティを失い、その実存的不安の解消を近代化に見出した人達です。また、その起源にはプロテスタントにおける、経典を文字通りに解釈するリテラリズム(字義尊重主義)が密輸されています。

国家語と土地のある日本(人)とはその境遇は大きく異なりますが、取り立てての宗教的アイデンティティも希薄な日本が、私には危うく見えてしまいます。

多少の生活スタイルの違いで他国籍の人に出ていけと騒ぎ立て、同じ日本人であったとしても、少々考えの異なる人には平気で日本から出ていけと言ってのける。自分に都合の良い文章を見つければ、ほら、ここに書いてある、などと自慢げに指し示してくるーーネットでは無論のこと、最近なら週末の川崎市川口市の街頭でこうした輩と出会うことができるでしょう。彼ら自身の不安は、端的に彼らが根無し草であることから来るものでしかない。彼らの願いが叶ったところで、彼らの不安が消えることはどこまでもあり得ない。そう思います。

他方で、例えば、融和的な同化政策を提案する穏健な保守層も、近代的ナショナリズムによって立つという点ではそう変わらずの危うさを感じます。ディヴィッド・ミラーなど最新の政治哲学においてもなお、ナショナリズムにおける排斥性や暴力性を否定できる論は生まれておらず、ナショナリズムしかない、とその可能性に賭ける学者らはその仕事の傍で常にナショナリズムに対して警鐘を鳴らし続けることを忘れずに行っています。

多くの人がその表層だけを理としているリベラリズムもまた、危ういものです。リベラリストのなれの果ては、法に違反さえしていなければいいだとか、多様性の尊重などといったものーーこれは一見すると卓抜した倫理っぽいが、しかしその実はその概念が産まれた背景に興味も持たず、数年おきにリバイバルするバンドTシャツファッションレベルの、上辺だけの単なるトレンドーーに沿っていればいいだとか、といったもので、これらの道から外れた者に対しては侮蔑の目を向けて何ら問題がないという腐った独善を、正義と勘違いしている人達です。

こんなことを書いてはみましたが、何より結局のところ、故郷から逃げるように上京し、学と才能のなさに絶望し、死ぬこともできず、淋しさを紛らわすために子まで成してしまって惰性で生きているだけの私自身もまた根無し草であって、いよいよ危ういと感じています。

無抵抗の人を圧倒的な暴力で殺し、それも爆弾やミサイルで顔も見えない遠くから殺すだけでなく、戦車やブルドーザーでペシャンコにして殺してみたり、しかも死体に小便をかけたり壁に吊るしたりしてその様子を満面の笑みとともに写真に撮りSNSで公開する人らを見るにつけ、もうたぶん言葉は無力で、こちらも銃を手に取って殺し合いをするしかないーー私にはそうとしか思えないのです。しかし、このようにしか思えないのもまた、私が根無し草であるからであって、思想批判は容易に人物や民族批判へと堕し、憎悪と復讐が殲滅の理論を構築し始めます。

心の底から人間を辞めたくなる。けれども、こうも思うのです。少なくとも私は、今まで人間であった試しがあっただろうか。自身が一角の人間であるという驕りが、それなのに些細な理不尽や不条理にしばしば遭遇することとの間に落差を見つけては、自身も他人も不幸にする言動を繰り返すのだ、などと。重ねられてきた挫折と失敗という事実が、私はまだ人間ではないという証明です。そうして、こうした考えもまた、俺は猿だから、などといった居直りへと容易に堕す危険性を常に孕んでいます。

承前

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アナーキー叫べば 変わると思った

チェリーボム叫べば 壊せると思った

絶望が火を吹いて 怒りへと変わっても

信じたい あの気持ち

革命家はずっと 嘘をついてたよ

発明家はずっと 偽物作ってた

真っ黒な満月は たぶん月の裏側

見えたけど 見えたけど

本日2023年11月17日に行われた、藤井聡&ビル・ミッチェル『インフレ時代・日本の「積極」財政論』新刊発刊記念セミナーに参加してきた。在宅勤務からの移動では間に合わないので、久々に秋葉原の職場に出社してから残業なしでの移動。

結論から書くと、私にとっては大変満足のいく内容だった。久しぶりに筆を取りたい。

素朴な疑問〜何故この二人が共同研究をするに至ったのか〜

私は本セミナーに参加するにあたって、次のような質問を用意していた。

私はお二人が共同研究をするに至ったこと、それが長年疑問でした。恐縮ですが、大変に単純化して述べれば、右派の藤井先生と左派のミッチェル先生が手を取ることに。しかし、今年に入って出版されたミッチェル先生の共著の日本語訳本(『ポスト新自由主義と「国家」の再生:左派が主権を取り戻すとき』)を読んで左派として真正面から国民国家[nation - state]を論じていることを知り、新自由主義、ないしは国民不在のステート・キャピタリズムに対する危機感、この1点においてお二人が深く通底しているのだと認識を新たにしました。

新古典派経済学よろしく、我々が経済に対する神話ーー誤った知識ーーを植え付けられこの新自由主義に加担すらしているのはいうまでもありませんが、経済政策以外の政治においても複数の正義が乱立し、同じ国の中に住む人らがいがみあい、戦争でもない限りはまるでnationーー国民ーーなどというものが実感としても感じられることのない現在において、(可能であれば日本の)左派、右派、あるいは国民に対して伝えたいメッセージはないでしょうか。

結果として質疑応答の時間はなかったし、この質問に対する直接の回答が述べられることもなかった。それでも、対談から細かな経済理論の話になるのではなく、自然と国民国家の話になっていったことが嬉しく、満足だった。

藤井先生の話を聞き続けるミッチェル先生

セミナーは二部構成となっていて、前半は藤井先生による本日出版された共著の簡単な紹介。後半は藤井先生、ミッチェル先生による対談の形式を取った。

ここでは共著の内容に深く触れない。それは書(『インフレ時代の「積極」財政論』)を手に取っていただければ良いと思う。

それでも簡単に述べるなら、前半の藤井先生による説明は、一言で言えば「財政リフレ」派の話である。さらに、敢えてMMTの立場から見れば引っかかる表現を抜き出せば…

などなど。これを耳にしたXにおける経世済民クラスタが卒倒する、あるいは劣化の如く批判する姿が目に浮かぶ。「そもそもMMTにおけるインフレーションとは新古典派経済学のいうインフレーションとは定義が異なる」。「JGPの理解がまるで間違っている」。いくらでも突っ込むことはできるだろう。不勉強な私だって言いたいことはたくさんある。

しかし、そんなことは経世済民クラスタが騒ぐまでもなく、ミッチェル先生こそが言いたいだろう。ミッチェル先生は黙って藤井先生の話を聞き続けていた。そもそも非裁量的財政政策をこそ重視するMMTerが、あるいは、例えば10年以上もブログ(https://billmitchell.org/blog/)で精緻な議論とMMTの啓蒙を続けている人が、その共著のタイトルで『「積極」財政論』などと銘打っているのだ。上記のような批判をすることが、本も意図も読めておらず、ただの野暮なのだ。藤井先生もそんなことは鼻から承知での振る舞いだ。二人の共同研究は、学際的である以上に覚悟を伴って極めて政治的なのである。

MMT以前の国民国家

後半の対談でも基本的には共著の内容に沿って、日本経済と世界経済の比較、日本が採るべき財政政策についての話が進んでいった。しかしながら(私の個人的な興味も相俟ってのことだが)、本対談のハイライトは話題が国民国家に自然と移っていった1点にあろう。

藤井先生は、(財政)政策が一体なんの目的で行われるのか、誰のためのものなのかという疑問を対談の終盤で投げかけた。ミッチェル先生もまた、正しい知識を持って政策が誰のためのものなのかを鑑みて(例えば選挙における投票などで)行動してほしいと述べた。

極端な話を出すと、かつてTwitter(X)で見かけた話だが、MMTのレンズを通せばこれを利用して強固な軍事国家建設に利用することも可能だ、というのがあった*1

私たちは例えばカントを引いて、直ちにこれに疑問を投げかけることが可能だ。カントは『永遠平和のために』において常備軍の設置の禁止を説いたが、これは常備軍の設置が隣接国間での無際限の軍事費増大への繋がり、ついには平和より短期の戦争を選択する原因となる、と。他方では国民が自発的に訓練を受け自国から外敵を守ることを否定したわけではない。カントの時代と違って現代では常備軍は当たり前になってしまっているが、基本的な考えは変わらない。国民の幸福のために、どこまでの軍事支出が許容されるないし適正であろうか。とりわけ、実物資源の制約下と軍事以外の政策課題に直面している状況にあって、これ以上軍事にどれだけ実物資源を投入することが、国民の幸福に資するのだろうか。新古典派経済学が神話に過ぎないなら、過度の軍事支出が必要という議論が何故神話でないと言い切れるのか*2

西部邁の言葉を借りれば、デマとはデマゴギー(民衆煽動)のデマのことであって、ステート・キャピタリズムの代わりにステート・ミリタリズムを導いたところで、また別のデマに誑かされているだけに過ぎない。いずれもステーティズムに変わりない。MMTは通貨主権を有する政府の能力を正しく理解するための知識を提供している。そして国民である我々は国家との協働を実現するため、経済学に限らず正しい知識と力を身につける必要がある。それなくては、詰まるところ、国家(state)しか残らない。

敢えてこのように言うが、二人は精緻な議論はかなぐり捨てて、我々に行動を促した。それを受けて我々はどう行動するか。日本語圏Xにおいて経世済民クラスタによって行われている罵倒の応酬など論外である。そしてこれは私の選択だが、当然正しい知識を身につけるには精緻な議論を避けては通れないのであるから、週末は街宣車に乗りつつも、普段は書室に篭ることにしよう。今しばらくは、『正義論』に対しての多くの批判を受けその考えを修正していた晩年のジョン・ロールズ、また、そのロールズやコスモポリタリズムを提唱するピーター・シンガーやトマス・ポッゲらの議論も参照しつつ、(リベラル・)ナショナリズムの立場から政治哲学を論じるデイヴィッド・ミラーの議論を参照することになるだろう。

ビル・ミッチェル、藤井聡サイン

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Everything I know is in the past

And everything I see is now

(Everything / Flotsam and Jetsam)

daisippai.hatenablog.com

しげのかいりさん、左藤青さんの論考が、朝からズドンと胃に効いた。以下はただの落書きなのだが、なんとなく。

「なんでもよく、どうでもいい」という日本的身体というのは素朴に直感できるもので、とりわけ政治を振り返ってみてもそうだなと思う。私が成人して政治的なものにようやく触れた00年代以降、小泉・竹中による郵政民営化、2大政党制だ、マニフェストだ、などと浮かれて誕生した民主党政権、その後の安倍長期政権にせよ、専ら気運だけが問題であって「なんでもよく、どうでもいい」という表現はしっくり来る。

最近に至っては、自民と維新が典型的だが、選挙の結果こそ全て——明け透けなく「勝ち馬に乗る」のがさも当然で良いことであるかのように振る舞う政党、政治家、その支援者らも珍しくない。

昨年の7月、山上は日本的身体を確実に脱臼させたはずだった。しかし、前半戦の終わった統一地方選の結果を見ても(見なくても)わかるように、日本的身体は至って健康そのものである。異物である山上をなんとか吐き出そうとする仕草と、コロナはただの風邪と言ってのけてコロナ以前の日常を求める仕草はコインの表裏である。むしろ、脱臼した日本を治してのけた自民党支持者は清々しくすらある。

他方で、一部の野党支持者は維新や国民民主のことを野党のふりをして与党のアシストばかりする「ゆ党」などと揶揄するが、しかしそもそも、日本に「なんでもよく、どうでもいい」「自民党」以外の政党があるのだろうか。

既成野党が存在感を示せずにいる中、目下のところ内輪で揉めに揉めている旧N党だが、その支持者らのバカさ加減といったらない。陰謀論ネトウヨ仕草に酔いしれて、本当に日本を変えるのだと息巻いている。参政党も大した違いはない亜種だ。

そういえば、私の知り合いにも「なんでもよく、どうでもいい」政治に一石を投じようと先の参院選ではガーシーに投票した人というのがそれなりにいたのだが、その裏にはZ李がいてヤクザがいる、恐喝で凌ぐだけの反社野郎どもの手先でしかない、ということには無頓着な程度まで徹底して、「なんでもよく、どうでもいい」のである。

ところで、文中では日本のポストモダニズム、さらに京都学派を批判する柄谷行人が引かれるのだが、しかしその始祖たる西田幾多郎は図らずとも日本的身体なるものを言い当てていたのではなかろうか。

「AはBによって規定されると同時にBはAによって規定される」

絶対矛盾的自己同一。矛盾でしかない本概念であるが、池田善昭はこれを樹木の年輪に例え、「環境は樹木を包み、樹木は(時間を生むという生物的な営みにおいて)環境を包む」と説明した。

さらに西田は書簡「国家理由の問題」にて、本概念を敷衍して天皇制を論じる——「国家を超越する主権は国法を規定すると当時に、主権は国法によって規定される」。本問題を論じた著書を高く評価しているamazonレビューを読むことができるが、はっきり言って西田からして馬鹿者ではないかと思う。

西田幾多郎と国家への問い

これを認めれば、なんでも言えてしまうわけだ。例えば、「憲法9条が自衛隊を規定し、自衛隊憲法9条を規定する」などと言ってみよう。これこそ、しげの&左藤が述べているのとまた違った、しかし根本の部分では通底している「なんでもよく、どうでもいい」ではないか。

(中略)小林秀雄のように原理原則にこだわらないという原理原則に則っている。この原理原則とはすなわち、「護憲論者」のように原理と現場とのズレをうやむやにする「制度」である。この意味では日本人はほとんど全員「護憲論者」でしかない。一言で言ってしまえば日本の言論空間=日本的身体にとっては、あらゆるものが「なんでもよく、どうでもいい」からである。

思えば、西洋ではドゥルーズ&ガタリが「器官なき身体」概念を提唱したが、日本にはそもそも有性生殖が有り得るのだろうか。しげの&左藤は日本的身体を健忘症と言い当てたが、それもまた実は人間から見た姿に過ぎないのではないか。

先の池田は絶対矛盾的自己同一を樹木の年輪に例えたが、それも少しかっこよく言い過ぎていて、実態としては、例えば赤痢アメーバの方が近いのではないか。

赤痢アメーバはヒトによって規定されると同時に人は赤痢アメーバによって規定される」

日本が健忘症であるというのは、そもそも有性生殖を知らない(できない)、分裂増殖を繰り返す原生生物の様態に似ているのではないか。そしてそれは潔癖症とは異なる。そうではなくて、西洋の「器官なき身体」が「性器なき性交」であるなら、日本の「器官なき身体」とは「脳なき物語り」なのではないだろうか。

しかし福岡伸一なら、それこそを生命そのものとして肯定するかもしれない。そうして、時間が紡がれるからだ。

福岡伸一、西田哲学を読む: 生命をめぐる思索の旅 (小学館新書)

VMWare Fusion Player 13のインストール

無償ライセンスキーの取得とパッケージのダウンロード

VMのセットアップ

Windows 11 arm64版isoの入手

/bin/bash -c "$(curl -fsSL https://raw.githubusercontent.com/Homebrew/install/HEAD/install.sh)"

brew tap sidneys/homebrew brew install cabextract wimlib cdrtools sidneys/homebrew/chntpw

brew install aria2

chmod +x /Users/xxxxxxx/Downloads/xxxxx/uup_download_macos.sh /bin/bash -c /Users/xxxxxxx/Downloads/xxxxx/uup_download_macos.sh

VMのセットアップ

VMware Fusionへのキーボードショートカット追加

Win11セットアップ途中にネットワーク接続のセットアップをスキップする方法として、Shift+F10コマンドプロンプトを出してoobe¥bypassを実行する方法はできないケースがある模様。代替としてWindows+Rからの「ファイル名を指定して実行」を利用する

OSのインストール・セットアップ

VMware Toolsのインストール

Set-ExecutionPolicy RemoteSigned

スクロール方向を変更する

これはトラックポイントは関係ないが、macを一番初めに触ってイライラしたのがこれ。スクロール方向が逆なのである。これをさっさと戻す。

ナチュラルという表現にもイライラしてしまった。

Karabiner-Elementsのインストール・設定

Karabiner-Elementsのインストール

キーマッピングの設定

とにかく日本語入力の切り替えが大変なのでこれをなんとかしたい。参考サイトに倣って「無変換」「変換」キーの単体押しで日本語入力を切り替えられるようにした。

From Key To Key
grave_accent_and_tilde(`) f13
PCキーボードの無変換キー 英数キー
PCキーボードの変換キー かなキー
PCキーボードのかなキー かなキー
international2 lang1
international4 lang1
international5 lang2
left_control left_command
left_alt (equal to 'left_option') left_option
right_control right_command
right_alt (equal to 'right_option') right_option

トラックポイントのセンターボタンの挙動変更

これも地味にイライラしてしまうので…。トラックポイントのセンターボタンでスクロールしようとした際に、リンククリックと判断されて新しいウィンドウが開いてしまうのを抑止する。

From Key To Key
button3 button4

ref.

石塚さんから返信いただきマルクスの限界というのにずっと不満があったというのを少し知って、昨日からずっと考えていたのが、マルクスが(あるいはそれを受けた熊野さんが)指摘した「金本位制の歴史的偶然性」、およびMMTにてしばしば出てくる「労働本位制」について。

元より、MMTにおいての、JGPによる労働本位制の実現には大きな疑問を持っていた。いや、JGPは労働本位制の必要条件であることは確かだが、必要条件がそれだけとは到底思えなかったからだ。

そうして疑問を深めて考えることなく2年半ほどなわけだが。

昨日から考えていたのはこの、「労働本位制」のためのJGP以外の必須条件についてだった。普通に考えれば、金本位制が偶然的に選択されそして解体されたその歴史を追うのが常道、ということになろう。現状の私はこれについて特に知識を持たない。

しかしまた、とても頭の悪い言い方をすれば、JGPを実行したところで原油価格の安定には何ら寄与しないだろう。原油のようなコモディティ価格の乱高下が発生する状態はとても労働本位制が実現しているとは言えない。

そう考えれば、労働本位制のためのJGP以外の必須条件として、原油コモディティの安定供給、ならびにそれらコモディティに対する投機的資金流入の厳格な規制などが挙げられて然るべきだろう。 長らく訝しげに思っていた労働本位制だが、斯様な、JGPのまた別の射程というのがあるように思えた。