206.多胡碑とは何か~羊をめぐる群馬と羊の関係~ (original) (raw)
上野三碑とは何か。そして多胡碑における羊とは何か。羊とはなんの象徴であるのか。
・上野三碑とは
・上野三碑について
・多胡碑
・多胡碑の歴史的意味
・群馬の名前の由来
・羊とは
・過越祭の起源と羊
以上にて紹介していく。
■上野三碑とは
「こうずけさんぴ」と読む。現在の群馬県高崎市に存在する古代の石碑。7世紀から8世紀にかけてのものとされる。あわせて3つ存在し、多胡碑(たごひ)、山上碑(やまのうえひ)、金井沢碑。7世紀~11世紀の古代において石碑は日本で18例しかないとされ、貴重な古代を知る手がかりとなっている。そしてこれらの三碑は特に古く、最古の石碑群とされる。三碑とも国の特別史跡に指定、2017年にはユネスコ世界の記憶に登録されている。三碑は半径5キロメートル以内に存在し近接している。
↓はwikipedia、多胡碑
↓はwikipedia、山ノ上碑
↓はwikipedia、金井沢碑
■上野三碑について
それぞれの建立年と内容はつぎのとおり。
山ノ上碑:681年、墓誌。母を思い、僧になった息子が建てたもの。
多胡碑:711年、記念碑。多胡郡の建設に関して。
金井沢碑:726年 三家氏(みやけし)の一族の誓い。神仏の知識によって仏に仕えることを誓った。
■多胡碑
おおよそ次のような内容である。
朝廷の弁官局より命令があった。
上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。(以下略)。
この羊とは何者かについて明確な解釈は定まっていない。
■多胡碑の歴史的意味
単に古い石碑であるという意味だけではない。現代のクルマの工場が愛知県だとすれば、過去のクルマ(馬)の生産場は群馬。古代において馬のことを「くるま」と呼んでいた。当時は最先端の移動手段、一定の距離ごとに駅舎をつくっていた。その貴重な国産馬を育てるという特別な場所が関東、群馬の地であった。そのような地に「羊」という象徴的な文字が石碑に刻まれているということは歴史を再考する意味を持つ。
■群馬の名前の由来
かつて群馬県は「車評(くるまのこおり)」と呼ばれていた地域があった。それが大宝律令により「評」から「郡」へと改められた。奈良時代の713年(和銅6年)、風土記編集の勅令によって国、郡、郷名がその土地にあった漢字二文字で表すこととされた。「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国(こうずけのくに)」となる。また郡名の「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」へと改められた。1871年(明治4年)、廃藩置県を受けて高崎や前橋の大部分を含む群馬郡が県名となった。
↓は上毛新聞、群馬と馬の関係
以降は直接は旧約聖書・ユダヤや新約聖書・キリスト教に関わる、羊と関係がある他民族の慣習を紹介し、羊の意味を紹介する。
■羊とは
キリスト教において象徴的な用語である。たとえば「神の子羊」は、イエス・キリストのことを指す表現のうちのひとつと。キリスト教神学においてイエスは人間の罪に対する贖い、生贄の役割を果たしたとされる。また古代ユダヤ教の生贄の習慣にも由来する表現とされる。
■過越祭の起源と羊
旧約聖書の世界。ヤハウェの命を受けたモーセはエジプトへと戻る。そしてモーセはファラオと交渉してイスラエルの民の解放を求めたが交渉は失敗に終わる。モーセはヤハウェの命により種々の災いをファラオに下す。しかし、ファラオはイスラエルの解放を拒んだ。そこで神みずからがエジプトの国をめぐり、人や家畜のすべての初子(ういご)を撃つという最後の災いを下す。
イスラエルの人びとは子羊をほふる。そしてその血を天幕の入り口の二本の柱と鴨居にぬっておくように命じられる。神がその血をみて、天幕のなかに入って、中にいる人々を撃たずに、その上を過ぎ越すため。真夜中となり、神はエジプトの国のすべての初子を撃ったのでファラオはついに民の国外脱出を許可する。
<参考>
・ユダヤ教の誕生 新井章三
・上野三碑 - Wikipedia
・上野三碑 - 群馬県ホームページ(文化財保護課)
・県名の由来 - ぐんまの概要 - 群馬県ホームページ(メディアプロモーション課)
・神の子羊 - Wikipedia
・過越 - Wikipedia