旅素描~たびのスケッチ (original) (raw)
峠道
丘陵地の集落を通り過ぎると、やがて街道は、峠道に入ります。今の長野市と飯綱町との境界を分けるこの峠。それほど深い山ではないものの、少しの間、険しい道のりが続きます。ただ、ところどころに民家も見られ、峠を越えると果樹園が広がる地域に入ります。
街道の近くには、丹霞郷(たんかきょう)とも呼ばれている、桃の里があるようで、この辺りは有名な桃の産地なのでしょう。丹霞郷とは、「まるで丹(あか)い霞(かすみ)がたなびいているようだ」と評された、ある洋画家の命名だそう。桃の花が咲き乱れている光景から名付けられたと伝わります。
街道は、峠を越えて飯綱町へ。桃の里から、優雅な姿の飯綱山を眺めつつ、歩き旅を続けます。
観音山
街道は、田子池の傍を通って吉の集落へと向かいます。途中、右手には、小高い丘のような傾斜が現れ、池と丘に挟まれながら進みます。
右手にあったこの丘は、観音山と呼ぶようです。斜面のところに掲げられた案内表示と説明板。その説明板を見てみると、この丘には石仏があるそうで、西国三十三所の観音巡礼と何らかの繋がりがあると書かれています。
吉(よし)
観音山を越えた先で、吉の集落に入ります。道沿いは農家のような民家が並び、そこそこの傾斜の道が続きます。
やがて、民家がまばらになると、行く手には木々を抱いた山の尾根が迫ります。この先、道は峠に向かい、山間へと踏み込んで行くような状況です。
県道下
民家が途切れ、尾根の上へと向かって行くと、やがて、幹線道路が現れました。この道路、先の田中の集落で街道と交わった、県道60号。ここで再びこの道と出合います。
街道は、県道下に設けられたトンネルを潜ります。
宇佐美沢
トンネルを潜った先は、宇佐美沢と呼ばれる地域です。バス停はありますが、民家はそれほどありません。山間の小さな村のようなところです。
街道は、真っ直ぐ先に続いています。正面奥には、先ほどの県道と分岐して、東の方へと延びている高架道路が横切ります。高架道路の先を見ると、その奥に、僅かばかりの民家の屋根も見られます。
※宇佐美沢のバス停留所。
原池観音堂
宇佐美沢の民家の横を通り過ぎると、さらに山の上へと向かって行く、舗装道路が続きます。
山の中を蛇行しながら上る道。途中には、道端に「原池観音堂」と表示された、バス停風の小さな小屋がありました。小屋の傍には年代物の石碑が置かれ、そこにも、「原池観音」との表示です。
傍には幟旗も掲げられ、そこそこ有名なお堂があるようです。
私たちは、原池観音堂には立ち寄らず、先の道へと向かいます。
※原池観音堂前を通過する街道。
坂道を進んで行くと、その先で飯綱町に入ります。峠はまだ越えていないようですが、長野市の領域を終え、隣町に踏み入れます。
街道の左からは、県道の60号線が近づいて、その先で、県道と合流です。
※飯綱町に入った街道。
街道は、少しだけ、県道伝いに進みます。車の往来もそこそこある道路です。私たちは、県道の下り車線に設けられた歩道の上を歩きます。
※県道60号線と合流した街道。
旧道
数十メートル歩いたところで、街道は、左上へと延びている旧道に入ります。この道は、舗装こそされはいますが、昔ながらの街道筋の様子です。ところどころに民家もあって、趣深い道筋です。
※趣ある旧道に入ります。
丘の上へと向かって行った旧道は、その後、県道60号線と平行して進みます。そして、その先で、県道を横断です。
※県道と平行して進む街道はこの先で県道を横断します。
街道は、この位置で県道を渡ります。道路の標識は、「→平出・丹霞郷」と表示され、この先、冒頭で少し触れた、丹霞郷へと繋がっているようです。
※県道を横断する街道。
桃の里
街道は、飯綱町の領域に入っても、依然として上り道が続きます。道沿いには、果樹園が現れて、桃の里に踏み入れた感じです。
※桃の果樹園でしょうか。斜面に果樹が植えられています。
坂道を上り詰めた辺りには、「景勝地・桃の花 丹霞郷(たんかきょう)→」と書かれた表示板がありました。桃の花の景勝地、丹霞郷へ行くためには、この道を右の方へと向かわなければなりません。
私たちは、残念ながら、寄り道をすることはせず、街道歩きに専念します。
峠越え
街道は、先の丹霞郷への案内表示が置かれた場所が、ひとつの峠の様子です。そこを越えた後は、下り道に変わります。
峠を越えた街道は、平出の集落を緩やかに下ります。そこそこ大きな集落は、農家が中心なのか。果樹園を営む家も多いのだと思います。
道は、上り下りを繰り返し、あるいはまた、右に左に蛇行しながら平出の集落を進みます。
※平出の集落を進む街道。
集落内の小高い位置に達したところ、集落の屋根の向こうに、妙高山とも思えるような、可憐な雪山の姿が見えました。
※妙高山でしょうか。屋根の奥に可憐な山の姿が望めます。
平出の集落は、かつての街道の名残りを感じる道筋です。細くくねった道筋を通る時、今度は、飯綱山と思えるような山の姿も見えました。
雪をいただく山々を眺めつつ、街道歩きを続けます。
※今度は飯綱山でしょうか。山々を眺めながら街道歩きを続けます。
丘陵地の集落
街道はこの先で、少しずつ標高を上げ、飯綱町との境界の峠道へと向かいます。途中には、善光寺の背面に聳えている三登山(みとやま)の東に広がる斜面に沿って、若槻・田中・田子・吉などという集落が連なります。 丘陵地に広がる集落は、古くから人々の営みがあったのでしょう。斜面には、果樹園や農地が見られ、肥沃な土地が広がっているのが分かります。
道筋から東を見ると、眼下には豊野の盆地が見渡せます。その向こうには、深い山並みが連なって、雄大な信州の景観を味わえる道筋です。
※新町宿から牟礼宿までの行程。
新町宿
小さな川を越えていくと、かつての新町宿に入ります。ただ、道沿いは民家が並ぶごく普通の町並みです。
それでも、大きくカーブを描く道筋は、街道の名残りでしょうか。私たちは、かつての宿場町を北に向かって進みます。
※新町宿の入口辺り。
稲田交差点
しばらく進むと、変則的な交差点を迎えます。一応、四辻の形態ですが、直角には交わらず、いびつな形をしています。
街道は、斜め右方向。交差点を真っ直ぐ先に向かいます。
道標
かつての新町の宿場町を歩いていると、途中で右方向に分岐する県道が現れました。そして、分岐の角のところには、下のような道標です。
「左 北国往還」は読めますが、「右」は、よく分かりません。ただ、左下は確かに「くさつ 道」と読めるような気がします。
この右に向かって延びる道は、飯山街道と呼ぶようです。地図を見ると、確かに、雪深い飯山方面と繋がっているようです。
※T字路の分岐の角に道標がありました。
坂道
街道は、やがて、新町宿を後にして、急坂を迎えます。坂道の道沿いは、古くからの集落の様相で、宿場町を通り過ぎても、民家などが軒を連ねていたのかも知れません。
民家の庭先にある美しい木々の姿は、旅人の心を捉え、疲れた身体を癒してくれているように思えます。
※急坂を迎えた街道。
急坂を上り切ると、その先は、一旦下り道へと変わります。狭い道ではありますが、車の往来はそこそこあって、抜け道のような状態です。
この辺り、若槻と呼ばれる集落だと思います。ただ、集落とは言うものの、長野市の市街地に隣接している地域のようで、そこそこの住宅地の様相です。
※街道は一旦下り道へと変わります。
十王堂
道は、下り坂から上り坂へと変わります。この坂道も急勾配で、一気に標高を高めていく感じです。
道沿いは、依然として、民家が軒を連ねて並んでいます。そして、この急坂の道の左手に、白壁の小さな祠が見えました。
※上り坂に変わった街道。道の左手には白壁の小さな祠が見えます。
この祠、近づいて見てみると、扁額には、「十王堂」と書かれています。説明書きがないために由緒などは分かりませんが、さぞかし長い年月の間、地域の人々に守られてきたのでしょう。
十王堂の右隣りには、常夜灯と立派な石柱も見られます。石柱に書かれた文字は「蚊里田(かりた)八幡宮」と読むのでしょうか。神社など、近くには無いようですが、かつては、この奥に神社があったのかも知れません。
※十王堂と蚊里田八幡宮の常夜燈など。
田中
十王堂を通り過ぎてしばらくすると、今度も左手に、「幸清水」と刻まれた立派な石柱がありました。
明治初期の頃に築かれた、簡易水道の施設だそうで、山間にある湧水から竹で繋いだパイプを敷いて、この辺りの集落の水を確保したということです。
坂道を上り進むと、やがて、幹線道路と交わります。この道は、県道60号線で、長野市と飯綱町を繋いでいます。
街道がこの幹線道路と交わる場所が、田中の交差点。この先、民家はまばらになって、斜面には農地などが広がります。
※田中の交差点に差し掛かる街道。
田中の交差点を過ぎた先から、右手(東~北東方向)を望んでみると、集落の農地の向こうに、豊野の盆地が見下ろせます。そして、その先には、何重にも連なった山並みです。
こうして見ると、街道は、ずいぶんと標高を高めてきたのが分かります。
※田中の集落に入った街道からの眺め。
街道は、依然として、上り道が続きます。正面奥には、次第に山並みが近づいてきた感じです。
田子(たこ)
しばらく進むと、左から次第に山の尾根が近づきます。この辺り、もう田中の集落を通り過ぎ、田子と呼ばれる集落に入ってきた様子です。
ふと見ると、道端には、白い前掛けをしたお地蔵さんがありました。このお地蔵さんは船地地蔵と呼ぶようで、享保4年(1719)のものだそう。当初は、善光寺下の馬道沿いにあったものを、明治の頃に、この田子の集落に移されたと書かれています。
※船地地蔵。
集落の間を縫って、街道は続きます。左からは山が迫り、道は細かく蛇行しながら、山の傾斜に沿うように先へ先へと進みます。
ここまで来ると、市街地の風景は後退し、古そうな町並みの姿に変わります。
※田子の集落を通る街道。
街道は、少しずつ高度を上げて、山の方へと向かって行く感じです。右に左に蛇行しながら続く道。田子の公民館の前を通って、更に北へと向かいます。
※田子の公民館前を通る街道。
やがて、街道は、集落を通り抜け、田子池と名付けられたため池の傍を通ります。この辺り、ひとつの尾根の先端なのか、周囲は少し開けた様子のところです。
この先、街道は、吉(よし)と呼ばれる集落に入ります。
※田子池の傍を通ります。
長野市には、地下を走る鉄道が存在します。この鉄道は、長野電鉄の運営で、長野駅から善光寺の東を通り、信濃吉田へと向かいます。鉄道は、その途中の本郷駅の辺りから地上に顔を出しますが、その先も、地上線をたどりつつ、須坂市や中野市を通過して、湯田中へと向かうのです。
街道は、善光寺を出た後は、この長野電鉄の軌道と共に信濃吉田を目指します。鉄道は、街道伝いに通っているため、歩きつなぐ者にとっては大変便利な交通手段と言えるでしょう。私たちは、2回ほど、この鉄道を利用して中継の地へと移動することができました。
この鉄道、ただ、経営は大変厳しいようにも感じます。設備は古く、なかなか更新もできないような感じです。市民の利用はどうなのか。車での移動の方が便利とも言えなくもありません。ある意味、ノスタルジーを感じでしまうこの鉄道。私たち観光で訪れる者にとっては、いつまでも残してほしい長野市の交通手段です。
善光寺宿
善光寺の門前から東の路地に入っていくと、雑然とした、裏道のような状態に変わります。それでも、その辺りこそ善光寺の宿場町の中心地だったのだと思います。
今は、旅館などもありますが、普通の住宅地の様相です。
そんな、道を進んで行くと、突き当りには、小さな神社がありました。街道は、神社の前で左折して、今度は北に向かいます。
住宅がの軒を連ねる細い道筋を進んで行くと、その先で、今度は再び右折です。右折を終えた街道は、緩やかな下り坂。正面先には、長野の市街地も見通せます。
※下り坂になった街道。
一区切り
下り坂を進んで行くと、その先で、y字状の分岐です。分かれ道の角の場所には、”シンカイ金物店”と記された、古い建物がありました。
街道は、ここを左折です。ただ、私たちのこの日の行程は、一旦ここで終了します。この日の午後、川中島の駅を降り、丹波島の宿場を通って犀川の橋を越えました。そして、長野の市街地へ。その後は、門前を歩き進んで善光寺まで歩くことになりました。
私たちは、y字路をそのまま真っ直ぐ下って行って、その先にある、長野電鉄の善光寺下駅へと向かいます。
※y字状の分岐点。左方向が街道で、真っ直ぐ進むと長野電鉄の善光寺下駅になります。
城山下
翌朝、私たちは善光寺下駅に降り立って、前日の終了地点のy字路へと戻ります。
y字路の先に進むと、静かな住宅地が続きます。左手は、崖地らしく、ところどころで、木々が覆う丘状の地形が見られます。
この丘は、城山(じょうやま)と呼ぶらしく、古く南北朝時代には、お城が築かれていたということです。今は、学校や公園などが整備され、市民の憩いの場となっている様子です。
※城山公園下を通過する街道。
三輪七・八丁目交差点
山裾の道を進んで行くと、やがて、主要道路に出くわします。この道路、長野駅西口前を通っている、長野大通りの先線です。街道は、この、三輪七・八丁目交差点を横断し、向かい側へと延びている旧道に入ります。
※三輪七・八丁目交差点。
旧道
旧道は、緩やかに弧を描きながら続いています。道沿いは、古そうな民家などもありますが、概ね、新しく建て替えられた住宅が並んでいます。
※旧道に入った街道。
狭い道幅の街道沿いは、旧市街といった様相です。ところどころに小さなお店が散らばって、あとは、民家が並んでいます。
※三輪9-8と書かれた地域を進みます。
三輪9丁目
街道は、三輪9丁目辺りを進んでいます。この辺り、左手の方向に長野短期大学のキャンパスがあるようです。そして、右方向には、長野電鉄が通っています。
※三輪9丁目付近を通る街道。
吉田田町(よしだたまち)交差点
延々と旧道を進んで行くと、やがて、吉田田町の交差点を迎えます。街道を横切っている主要な道路は、南北に長野市の東部を縦断し、これから向かう飯綱町に繋がっている県道です。
街道は、この交差点を横切って、あと少し、真っ直ぐに進みます。
※吉田田町交差点。
交差点を過ぎた後は、閑静な住宅地が続きます。道は、わずかに蛇行しながら、東へと向かいます。
吉田本町通り
街道は、やがて、小さな交差点に入ります。この交差点を横切る道は、「吉田本町通り」と呼ぶようで、街灯に道路標示がかかっています。
私たちが進むのは、左手の吉田本町通りです。ここからは、方角を変え、北に向かって進みます。
ちなみに、この交差点を右折して、斜め東に下がっていくと、長野電鉄の信濃吉田駅に至ります。そして、その先線のところには、JRの北長野駅があるようです。
※左からこの交差点に入った街道は、真っすぐ奥の吉田本町通りを進みます。
新町宿へ
吉田本町通りを北に向かって進みます。しばらくすると、小さな川を渡るのですが、この辺り、何となく趣を感じる道筋です。
もう間もなく、新町宿になるのでしょうか。道はカーブを描き、この先の集落へと向かいます。
※新町宿に近づいた街道。
新町宿を通過する街道は、下の地図のところです。赤い線を見て頂くと、地図の左端から斜め北向に街道が通っています。左端に近いところで川を渡り、その先が稲田(いなだ)という集落です。
この、稲田の集落と、それに続く徳間の集落辺りに新町宿がありました。
私たちは、この先で、稲田の集落に入ります。
※新町宿を通過する街道の位置。
善光寺の起源
善光寺の成り立ちは、遠く飛鳥時代まで遡らなければなりません。縁起によると、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)は、インドから百済の国へと渡った後で、仏教伝来に伴って我が国に伝わったとされている、日本最古の仏像だということです。
当時、仏教は、全く新しい宗教であったため、受容すべきかどうかという激しい対立がありました。百済系の氏族であった蘇我氏などは、仏教を受け入れて、自身の権力形成に利用しようとしたようですが、方や、古来から天皇家に仕えていた物部氏は廃仏派であったと言われています。
この、物部氏の手によって、最古の仏像は、難波の海に捨てられてしまいます。ところが、後に、信濃国の従者となった本田善光という人が、その仏像を見つけ出し、信濃国へと持ち帰り祀ることとなりました。これが、善光寺の始まりとされていて、その後、皇極天皇の時代(642~645年)になって、長野の今の地に寺院を建立し、本田善光の名前をとって、善光寺と名付けられたと伝わります。
今も、多くの参拝者が訪れる善光寺。街道は、門前町を真っ直ぐ北へと向かいます。
門前道路
街道は、長野駅西口付近で、旧道の細い道に入ります。そして、そのすぐ先で、末広町の交差点。この交差点は、南北に延びている善光寺の門前道路と、東西に短く繋げる長野駅西口の正面道路が交わっているところです。
交差点を右に向かえば、すぐ正面が長野駅。交差点を左に進むと、国道19号線に当たります。
私たちは、末広町の交差点を横断し、真っ直ぐ北に向かいます。道沿いはビルが建ち並び、お店やオフィスが密集しているところです。
やがて、新田町の交差点を横切ると、道路の舗装は一変します。車道には、石畳風の舗装が敷かれ、歩道との境界もバリアフリー仕様です。
道の先を見てみると、正面奥に善光寺の山門が望めます。緩やかに上る坂道を、少しずつ善光寺を目指して進みます。
しばらくすると、左手に、凝った意匠の建物がありました。地図を見ると、北野文芸座の建物だということです。
善光寺の門前にあるこうした意匠の建物は、何となく奥ゆかしさを感じるもので、門前町の雰囲気がより強く漂っているようなところです。
※北野文芸座前。
門前へ
やがて道沿いから、ビルの姿は後退し、変わって、江戸風の白壁と瓦屋根の建物が目立つ地域に入ります。
これらの建物は、飲食店や土産物のお店などが中心で、シーズンには多くの観光客が訪れるのだと思います。
※江戸風の建物が連なる門前通り。
大門交差点
道は次第に勾配を増し、大門の交差点を通り過ぎると、さらに趣ある街の姿に変わります。
大門の交差点には、道の両側に常夜燈が置かれていて、この先は特別な場所であることを暗示しているようにも思えます。おそらく以前には、この辺りには、大門という善光寺の山門があったのでしょう。ここから先が、善光寺の参道だったのかも知れません。
※大門の交差点。
善光寺宿
大門を過ぎた先の道沿いは、もう、善光寺の宿場町だったのかも知れません。今は、幾つものお店が並び、多くの観光客が訪れる賑わいの街の様相です。
街道は、この先の交差点を右方向に曲がります。真っ直ぐ進むと、すぐ目の前に、善光寺の仁王門。仁王門へと向かう道こそ、本来の参道になるのかも知れません。
※街道は、この交差点を右方向に進みます。正面には仁王門が見渡せます。
仁王門を正面に見て、右方向に進んで行くと、下のような街並みに変わります。道沿いは、旅館などもありますが、どちらかと言えば雑然とした、裏道の光景です。
この道筋も、善光寺の宿場町の一角だったのだと思います。今は、その面影を見ることはできません。
※善光寺正面参道から右方向に進んだ街道沿い。
せっかく、善光寺の傍までやってきた私たち。参拝を逃す手はありません。しばし街道筋から離れはしますが、善光寺へと足を延ばすことになりました。
まずは、仁王門。左右には、善光寺傘下の寺院が並ぶ中、参道を真っ直ぐ北に進みます。
※善光寺仁王門前の様子。
仁王門を通り過ぎると、賑やかな門前町が続きます。参道伝いは、幾つものお店が並んでいます。土産物店を始めとして、”おやき”や軽食のお店などが目立つような道筋です。
そして、参道の先に見えるのが、善光寺の山門です。勇壮な楼門風の山門は、善光寺の格式を誇ってでもいるような、見事な姿を呈しています。
山門
山門に近づくと、お店は後退し、砂利が敷かれた境内が現れます。右手には、立派な六地蔵の姿も見られ、厳かさを感じる空気が流れています。
正面の山門は圧倒的で、凄みさえ感じるような姿です。
※山門に近づいた参道。
本堂
勇壮な山門を通り過ぎると、目の前には本堂です。入母屋の大屋根とその下部にある唐破風の二重屋根が見事です。
この本堂、近くに置かれた説明板を見てみると、「皇極元年(642年)の創建以来十数回の大火に逢って」いるとのことで、「現在の建物は宝永四年(1707年)の再建」だということです。
国宝にも指定されている本堂は、重厚であるとともに、絢爛豪華に輝いているようにも感じます。
私たちは、厳かな本堂へと足を延ばし、そこで参拝させて頂きました。
※善光寺本堂。
街道はこの先で、長野市の中心部に入ります。長野市は、有名な善光寺の門前町として発展し、古くから多くの人が参詣に訪れているところです。「牛にひかれて善光寺まいり」と言われるように、昔から、庶民による信仰は深いものがありました。
この善光寺、飛鳥時代に建立されたと伝わりますが、元々は、それ以前から地域の人々の信仰を集めていたようです。鎌倉時代には、源頼朝により庇護されて、その後も、幾多の武士たちにより手厚く祀られてきたのです。
今も多くの人が訪れる善光寺。その門前町は延々と坂下に続いています。門前町を真っ直ぐ下った先にあるのが長野駅。長野の街の中心地域は、善光寺と長野駅とに挟まれた、山裾の緩やかな傾斜地のところです。北国街道の道筋は、この門前町を真っ直ぐに北進し、参道の直前で善光寺の境内の東へと周りこみ、そこから進路を東に変えて進みます。
※丹波嶋宿(地図の下部)から丹波島橋を渡り、真っ直ぐ北に向かって善光寺へと向かいます。
北国街道の道筋は、犀川で一旦途切れて、犀川の渡しに入ります。今は、主要道路に架けられた丹波島橋を利用して、この犀川を渡ります。
橋の先に見えるのが、長野の市街地です。市街地の向こうには、低い山並みが望めます。
犀川の渡し
丹波島橋を渡っていると、橋の欄干のところには、趣ある説明板がはめられていて、そこには、犀川の渡しの記載がありました。
「渡しの時代 慶長十六年(1611)北国街道に善光寺宿、丹波島(ママ)宿、矢代宿が開かれるとともに『犀川の渡し』が置かれた。この渡しは、千曲川に置かれた『矢代の渡し』とともに重要な役目を担い、これにより街道を往来する人々の流れは松代廻りから善光寺廻りへと変わっていった。当時、付近の犀川は大水のたびに川瀬が変わり、渡し舟は川の状況によって『丹波島の渡し』『市村の渡し』『綱島の渡し』と位置を変えていた。そして明治維新に至るまでの役二百六十年間、人々の文化と歴史を渡し続けてきた。」
なるほど、洪水により川の流れも移動して、渡しの場所も時と共に変遷していたのです。自然と共に生きてきた、往時の人々の苦労を感じながら、長野市の中心地へと向かいます。
※犀川の橋の欄干にはめられていた説明板。
丹波島橋北詰
犀川の橋を渡り進むと、やがて、橋の北詰辺りに常夜燈が見えました。常夜灯の近くには、南詰にもあったように、常夜灯を模したようなモニュメントも置かれています。
この橋は、川中島の方面と長野市の中心部とを繋いでいる主要な道路です。車の通りは頻繁で、なかなか途切れることはありません。
※丹波島橋北詰。
橋を渡り切ったその先で、街道は、主要道路の右方向に延びていく旧道に入ります。ただ、私たちは、橋の左の歩道を伝って北詰まで歩いたために、この位置で主要道路を渡らなければなりません。横断歩道があったなら、そんな苦労は無かったのにと思いつつ、しばらく戸惑ったものでした。
絶え間なく車が通るこの道路。橋の下を潜れないかと探ってはみましたが、それも、できそうにありません。
仕方なく、しばらくの間、タイミングを見計らい、車が途切れた合間を縫って、何とか道路を横断することができました。
※丹波島橋北詰。主要道路の右前に延びる旧道に入ります。
旧道
旧道に入った街道は、緩やかに、堤からの下り道を進みます。そして、その先で、東西に延びている、もうひとつの主要な道路を横切ります。
※旧道は、東西に延びる主要道路に分断されています。
旧道の道沿いは、閑静な住宅地の様相です。道は緩やかに弧を描く中、どこまでも、立派な民家が軒を連ねて並んでいます。
※旧道沿いには民家が軒を連ねています。
駅南へ
旧道を進んで行くと、次第に、新しい市街地へと変わります。道沿いは、新しいアパートが目立つようなところです。
道幅も広がって、道の先には、鉄道の架線なども見通せます。
※新しい市街地へと姿を変える街道筋。
しばらくすると、街道は、長野駅の東西(方角的には南北)を地下道で繋いでいる、新しい道路に突き当たります。突き当たった先にある道路の状態は、正面先を横切っているJRの軌道下へと潜る途中の坂道です。
この先、街道は一旦途切れているために、左手の方向に迂回して、地下に潜る道路の先線へと向かわなければなりません。
その先線へと向かっていくと、今度は、JRの軌道を渡る高架の歩道の入口がありました。街道は、鉄道の線路によって、ここでも分断されている状態です。私たちは、高架の歩道を利用して、軌道を越えることになりました。
※JR長野駅の東口近くにある高架橋の入口。
歩道橋
歩道橋を、南から北に向けて渡ります。歩道橋の先に見えるのは、長野市の市街地です。そして、歩道橋の右手には、JRの長野駅。
私たちは、この先の、JR長野駅西口方面へと向かいます。
※歩道橋を利用して、長野駅東口から西口方面へと渡ります。
長野大通り
歩道橋を越えた先を少し進むと、広々とした幹線道路に入ります。この道路、長野大通りと呼ぶようで、長野駅の西口前を通過して、善光寺の東側へと続いています。
この道は、元は、国道19号線だったのかも知れません。松本市と長野市とを結ぶ国道が、この道の左手の先にあり、今も、主要道路の役割を果たしています。
街道は、この、長野大通りを横切って、向かいに延びる細道に入ります。
犀川(さいがわ)は、上高地に端を発する梓川や木曽路から流れ下る奈良井川を上流に持つ河川です。この川は、松本市辺りから犀川へと名前を変えて、長野市までの深い山中を縫うようにして流れています。長野市に流れ着いたその後は、千曲川に合流し、さらに川幅を増しながら新潟へと下ります。
急峻な山岳地帯と安曇野や塩尻の平地の水を集めながら、ゆったりと流れ下る犀川は、丹波嶋の宿場の先で北国街道と交わります。街道は、篠ノ井と川中島に入る前には、矢代の渡しで千曲川を越えました。そして、川中島を過ぎた先で、今度は犀川の川越しが待ち受けます。
2度にわたる川越しを求められるこの区間、往時の旅は、さぞや大変な道中だったことでしょう。
丹波嶋宿
街道は、丹波嶋の宿場町を進みます。
浄生庵観音堂を通り過ぎたすぐ先は、丹波島の交差点。街道が真っ直ぐ先に延びる中、左右を横切る立派な道路と交わります。この道路、おそらくまだ新しい道なのだと思います。丹波島の集落は、古くからの宿場町であった場所。その近くには、新しい住宅地が開発されて、車の往来が頻繁になってきたのでしょう。
※丹波島の交差点。
街道は、丹波島の交差点を直進し、その先で、右方向に曲がります。この屈曲地点の左のところに、小さな神社がありました。鳥居に掲げられた扁額には、「於佐加神社(おさかじんじゃ)」と書かれています。
※於佐加神社を左に見ながら街道は右方向に屈曲します。
右に折れた街道は、今度は、真っ直ぐに東に向けて続いています。この道沿いが、丹波嶋の宿場町の中心地だったところです。
今では、道幅だけが往時の街道の感覚を残しています。道沿いの建物は、近代的な住宅が軒を連ねて並んでいます。
※丹波嶋宿の様子。
表札
丹波嶋の宿場町の前半は、往時の面影を感じるところはありません。それでも、新しい家々には、宿場町での屋号が書かれた表札が掲げられ、何となく過ぎた時代を懐かしむ、工夫を感じたものでした。
※新しい家の表札は、「丹波嶋宿 だいこくや」と表示されています。
宿場町の風情
しばらく、東に向かって進んで行くと、やがて、左手に高札場が見えました。御触書などが掲げられた高札場。見事な状態で残っています。
そして、高札場の隣りには、少し貧弱な塀が残っています。この奥にあったのは、宿場の脇本陣だということです。
この辺りの一角は、少しだけ、宿場町の雰囲気が感じられるところです。
※宿場町には高札場が残っています。
高札場を通り過ぎ、しばらくすると、今度は立派な門構えがありました。この門は、修復されたもののようですが、門の脇に建てられた説明板を見てみると、「丹波島宿本陣 柳島家」と書かれています。
この奥にあったのが、丹波嶋宿の本陣です。今は一般の住宅がその敷地に並んでいます。
※丹波嶋宿の本陣跡。
街道は、もうしばらく東に向けて進みます。そして、その先で、左に折れる分岐の場所に至ります。
道は、直線状に延びてはいますが、街道は、ここを左折です。
※直線状に延びる道の途中で左折です。
丹波嶋宿の遺産マップ
左折後は、北に向けて進みます。ただ、もうこの道筋のところには、宿場町を思わせる建物はありません。
途中、細長い緑地のような場所があり、そこには、「丹波嶋宿の遺産マップ」と記された、宿場の地図がありました。
下の写真をご覧いただければと思います。マップの左下、南から北へと上った街道は、於佐加神社を左に見ながら右折して、東へと進みます。この東進する街道の中ほどに、高札場や旧本陣跡が見られます。そして、しばらくすると、北向にその進路を変えるのです。
※丹波嶋宿の遺跡マップ。
犀川へ
遺産マップを過ぎた後、しばらく北方面に向かって行くと、道は次第に上り坂に変わります。そして、その先が犀川の堤防です。
そして、犀川の右岸堤防道と交わるところには、立派な石碑が置かれています。
※街道は、犀川右岸道路と合流します。
この石碑、「丹波嶋の渡し」と刻まれた、見事な作品です。そこに書かれていたのは、「北国街道 丹波嶋宿 開設四百年記念」との一文と、次に掲げる2つの歌のみです。
大江山 ならねと 酒の鬼殺し 売る家もある 丹波嶋かな 十返舎一九
※丹波嶋の渡しの石碑。
街道は、おそらく、この石碑があった辺りから、犀川の渡しによって対岸へと向かって行ったことでしょう。
現代の道筋には川の渡しはありません。私たちは、右岸の堤防道を下流に下り、主要道路に架けられた、丹波島橋を利用して対岸へと向かいます。
堤防道をしばらく進むと、丹波島橋南詰交差点に入ります。この丹波島橋の付け根には、立派な常夜燈を模したようなモニュメントがありました。
私たちは、そこから、橋伝いに対岸へと渡ります。
※丹波島橋南詰交差点。
松代
篠ノ井と川中島の東に位置する松代(まつしろ)の町。この町は、北国街道は通ってはいませんが、矢代の宿場町から分岐した松代街道で、北国街道と結ばれていたということです。
松代は、元は、松代藩の城下町だったところです。江戸時代の当初には、真田昌幸の長男の真田信之が統治して、その後は、代々真田氏が治めた土地でした。位置的には、長野盆地の南の端にありますが、かつては、その盆地一帯の中心地だったということです。
この松代の町、今も、城下町の風情が香る、奥ゆかしい町並みが残っています。この町を街道が通らないのは残念ですが、街道からは至近距離。 私たちは、街道歩きの合間を縫って、この松代の町を訪れて、江戸時代の町並みを味わうことになりました。
※松代城址。
※松代の城下。武家屋敷が続いています。
川中島の道
街道は、ごく普通の住宅地から、趣ある地域に入ります。この辺り、新しい住宅もありますが、土壁の建物や、古い木造の建物なども見られます。
右に左に蛇行しながら進む道。何となく、往時の街道の様子が偲ばれるような道筋です。
川中島支所前
しばらく進むと、長野市の川中島支所がありました。この支所は、新しい建物ですが、かつてはここに、川中島町の役場があったそう。
ここが川中島の中心地になるのでしょうか。近くには、公民館やJAの建物もあり、公共施設が集まっているところです。
国道19号線バイパス
川中島の支所前を通り過ぎると、その先で、高架道路の下を潜ります。この高架道路は、国道19号線のバイパスで、長野南バイパスと呼ばれています。
本来の国道19号線は、松本市から犀川(さいがわ)伝いに下ってきた後、川中島の西の端で犀川を越え、直線状に長野市に入るのですが、このバイパスは、川中島の町中を横断し、迂回するようにして、長野市と繋がっているのです。
※長野南バイパスをくぐる街道。
バイパスを過ぎた後、街道は、民家が閑散とした場所を通ります。農地も見られ、次の集落へとつながるような道筋です。
※一時的に民家が閑散となった場所を通ります。
橋場交差点
やがて、次の集落へと進んで行くと、途中で道は大きく右方向に屈曲します。この屈曲地点にあったのが、橋場の交差点。
街道の道筋は、この辺りから、再び趣のある風景へと変わります。
※橋場の交差点。
この先は、道幅がやや狭まって、往時の道筋のようにも感じます。ただ、道沿いの建物は、それほど古くはありません。新旧の住宅が入り混じる、街道筋が続きます。
※橋場交差点の先を進む街道。
一区切り
私たちは、橋場の交差点を過ぎた先で、左へと進路を変えて街道を離れます。そして、街道からおよそ1キロ西にある、JRの川中島駅へと向かうことになりました。
この日の朝、屋代の駅に降り立って、矢代宿、矢代の渡し、篠ノ井宿へと歩を進め、川中島までやってきた私たち。この間およそ13キロ。ここで、この日の行程を終了です。
昨年秋(2023年11月)、5日間の行程でスタートした北国街道の歩き旅。中山道との分かれ道、信濃追分宿のはずれにあった分去れ(わかされ)を旅立って、ここ、川中島まで歩き通すことができました。
さて、その続きです。次に北国街道に戻ってきたのは、今年(2024年)4月のことでした。今回も、およそ5日間の行程を組み、川中島から善光寺、そして、越後の国に向け歩き始めることになりました。
まずは、川中島。私たちは、川中島の駅に舞い戻り、再び街道歩きを始めます。
ここで、川中島の駅の様子をご覧頂きたいと思います。少し寂しい駅ですが、北陸新幹線の高架下を利用して、新しい駅舎が設けられているようなところです。
街道は、この駅からおよそ1キロ東側。駅前の道を辿って街道に戻ります。
※JR川中島駅。
川中島駅入口交差点
私たちが戻ったところは、川中島駅入口の交差点。この位置は、前回の終了地点と目と鼻の先にあるところ。この位置から、再び街道歩きを始めます。
道筋は、相変わらず、街道の面持ちが少しだけ残っています。大方は、住宅地である道筋を北東方向へと進みます。
※川中島駅入口交差点。
丹波島宿へ
しばらくすると、道幅はやや広がった感じです。そして、道沿いは、古くからの集落のような町並みに変わります。
地図を見てみると、街道沿いから少し奥まったところには、左右とも、新しい住宅団地が築かれているようです。新しい住宅地に囲まれて、古くからの集落だけが、街道を中心にして残されているという状況です。
※古くからの集落を通る街道。この道の左右奥には新しい住宅団地があるようです。
浄生庵観音堂
しばらく進むと、道の左手に、小さな祠のような建物がありました。この建物、道沿いに置かれた説明板には、観音堂(浄生庵)と書かれています。
「元禄年間、仏門に帰依した問屋柳島市郎左衛門寛休により建立された。本尊は観音菩薩であるが地蔵菩薩も併尊されている。この地蔵菩薩は享保七年(1722)縁あって丹波島宿に安住することとなったと伝えられている。堂内には念仏行者徳本上人の名号碑と寛休の経塚がある。平成四年丹生寺改築に合わせて改築された。明治より昭和四十年代まで庵主がおり、浄生庵と呼ばれていた。」
この説明板を見てみると、この祠がある場所は、もう丹波島の宿場町なのかも知れません。先にあった、篠ノ井の宿場町から、およそ11キロ。次の宿場の善光寺宿までおよそ5キロという位置関係のところです。
※浄生庵観音堂の祠。
この先、街道は、川中島と呼ばれる地域を通ります。あの、上杉謙信と武田信玄が戦った古戦場がある場所です。
私は昔、川中島の戦いがあったところは、千曲川の中洲であって、だからこそ川中島と呼ばれている、と思い込んでいましたが、実はそうではありません。どうも、地図を見てみると、千曲川と犀川(さいがわ) に挟まれた、三角地のようなところ一帯を川中島と呼ぶようです。
街道は、川中島の西の部分を北上します。一方で、合戦の中心地にあたるのは、どちらかと言えば川中島の中央部。そこには、川中島古戦場史跡公園が設けられ、長野市立博物館など、文化財関係施設が並んでいます。
※川中島八幡原のこの地で上杉謙信が武田信玄陣地に不意の切り込みを行った場面の像。
見六橋交差点
東に向けた街道は、篠ノ井宿があった場所を通り過ぎ、県道と合流します。その合流地点が見六橋(けんろくばし)の交差点。
街道は、小さな川を越え、僅かな区間県道伝いに進んだ後で、斜め右方向に進路を変える県道から離れます。そして、真っ直ぐに北へと続く、篠ノ井の街中の道の方へと進みます。
※見六橋の交差点。
旧道
真北に向かう街道は、旧道のようでもありますが、入り口辺りは片側1車線に整備された道路です。
道沿いには、新しい住宅が建ち並び、古くからの町の姿はありません。
それでも、しばらくすると道は狭まり、旧道の雰囲気が感じられる道筋へと変わります。
道端に石像や石標などが置かれた一角や、板塀が残っているお屋敷なども見受けられ、由緒ある町の様子が窺えます。
※次第に旧道の雰囲気が現れる街道筋。
御幣川五差路(おんべがわごさろ)交差点
街道はやがて、御幣川五差路交差点を迎えます。旧道が左右の道にT字状に合流し、その先はV字状に分かれています。街道の先線は、V字に分かれた右側で、左側の先線のところには、小さな神社の祠です。
私たちは、右側の細い道へと入ります。
※御幣川五差路交差点。街道は、正面右手に延びる旧道です。
篠ノ井駅へ
右方向の旧道は、最初は幅の狭い道ですが、やがて道幅は広がって、ゆっくりと弧を描くような道筋に変わります。
道沿いには民家が並び、旧市街地のような町並みが続きます。
※ゆっくりと弧を描きながら旧市街地の道を進みます。
道沿いは、次第に住宅の密度が増して、市街地に近づいてきたような感覚です。この辺り、篠ノ井の街中になるのでしょう。JR篠ノ井線としなの鉄道線の篠ノ井駅は、この道の左奥。街道は、駅から数百メール東の位置を通っています。
街道は、幅の狭い旧道から、駅前通りを横切って、再びその先の旧道へと続いています。
この辺り、様々なお店が並んでいるところです。人形店は老舗のお店でしょうか。新しい建物ですが、老舗の雰囲気が感じられる建前です。
芝沢本通り
やがて、街道は、「芝沢本通り」と表示された道筋に入ります。この通り、少し年代が感じられるお店が入る建物や、木造の、由緒がありそうな民家などもありました。かつては、篠ノ井の中心地だったのかも知れません。
※芝沢本通り。
芝澤の秋葉神社と天神さん
街道の道沿いは、次第に、新しい民家が並ぶ地域に変わります。そして、その住宅地の一角に、歴史がありそうな祠がありました。祠の傍には石碑もあって、「芝澤の秋葉神社と天神さん」と記された説明板も置かれています。
その説明板には、次のように書かれています。
「ここは、北国街道に面する交通要衝の地です。右側の社殿が秋葉神社です。秋葉神社は全国的にも多数存在しています。祭神は火伏せ(防火)の神様として多数の人の信仰を集めています。左側は天神さんです。平安前期の学者・右大臣菅原道真公を『学問の神・天満天神』と崇敬してお祀りしています。どちらもここ芝澤の安寧と開運を祈念して祀られております。」
地域の方に守られてきた大切な祠の様子。北国街道のアクセントとして、今もこの地でその姿を残しています。
※芝澤の秋葉神社と天神さん。
川中島へ
街道は、やがて、篠ノ井の街中から川中島へと入ります。この川中島、かつては、川中島町という単独の自治体でした。それが、篠ノ井市と同様に、1966年、長野市に編入されることになったのです。
今では、篠ノ井と川中島との境界は良く分からない状態です。街道は、一本調子に、住宅が軒を連ねる道筋を進んでいます。
相変わらず、新しそうな住宅が並ぶ道を歩きます。道幅もそこそこあって、かつての街道の様子を垣間見ることはできません。
※川中島の住宅地を進む街道。
川中島・原
街道は、さらに北へと向かいます。そして、川中島の原と呼ばれる地域に入っていくと、少しずつ、古い民家も現れて、敷地の広い住宅なども見られます。
※川中島の原と呼ばれる地域。
途中には、立派な白壁の塀が配されたお屋敷もありました。屋敷には、手入れが行き届いた、見事な樹形の木々が伸び、道行く人を眺めています。
この辺りの街道は、落ち着いた雰囲気が感じられる道筋です。
※見事な白壁の塀に囲まれたお屋敷前を通ります。
旧篠ノ井市
街道は、千曲川を渡った先で長野市に入ります。長野市の最初の街は、篠ノ井というところ。この街は、かつては、篠ノ井市という独立した自治体でした。資料を見ると、この自治体は、1959年に市政が敷かれ、1966年には長野市になりました。この間わずか7年という、短命な市であったわけですが、篠ノ井は、多くの人が知っている、名の通った街なのです。
そのわけは、おそらく、篠ノ井駅にあるのでしょう。JRの路線を見ると、名古屋駅から塩尻駅へ、そして、塩尻駅から東京駅へと繋がっている中央本線。この路線を通る特急は、塩尻駅を経由した後、篠ノ井線を利用して、松本駅、あるいは、長野駅までその先線を延ばしています(新宿駅ー松本駅間を走る特急あずさ、名古屋駅ー長野駅間を走る特急しなの)。この、塩尻駅と長野駅とを結んでいる路線こそ、篠ノ井線と呼ばれていて、その路線の中心駅が篠ノ井駅になるのです。
篠ノ井駅は、かつてのJR信越本線起点の駅で、この駅と東京方面がJRの軌道によって繋がれていましたが、今は、北陸新幹線が主流となったため、JR信越本線は姿を消して、篠ノ井ー軽井沢間をしなの鉄道が繋いでいます。主流となった北陸新幹線。実は、篠ノ井駅の構内を通過していながらも、篠ノ井駅には新幹線の駅はありません。何とも残念な、かつての路線の中心地。今も、重要な場所であることに変わりはないのだと思います。
※地図の最下部で千曲川を渡り、東に向けて川越し跡の地点へと向かいます。
街道は、千曲川の川越しの場所ですが、今は、国道の橋を渡ります。国道18号に架けられた篠ノ井橋。正面には、なだらかな山並みが見渡せます。
篠ノ井橋を渡り終える直前には、「長野市」と記された標識がありました。街道は、いよいよ、長野市の領域に入ります。
ただ、正規の街道は、千曲川の川越しの先。今は、迂回して国道の橋を渡っているため、本来の街道筋の東側を遠巻きに進んでいるところです。この先で、橋を越え、千曲川の左岸伝いに数百メートル西(左方向)に向かった先で、川越しの地点に到着します。
※長野市に入る街道。
千曲川左岸
千曲川左岸道路は、整備されたきれいな道が続いています。堤防も、新しく、頑丈にできているのが分かります。
おそらくこの辺り、2019年、本州を襲った台風19号の影響で、堤防がダメージを受けたのだと思います。そのために新しい護岸が整備され、堤防の強化が図られてきたのでしょう。
※新しく整備された千曲川左岸堤防。
矢代の渡し
上の写真の堤防を右下に下るところに見える小さな森。この森は、鎮守の森らしく、奥には神社が見通せます。
この神社の入口のところにあったのが、「矢代の渡し跡」と記された説明板。そこには、次のように書かれています。
「江戸時代には、ここ軻良根古(からねこ)神社のあたりから千曲川対岸の矢代(現在の屋代)へ渡るための『矢代の渡し』があった。ここは北国街道篠野井追分宿と矢代宿を結ぶ松代藩七渡しの一つで、この近くの人々には『矢代の渡し』と言われていた。天保十四年(1843)にだされた『善光寺道名所図絵』のなかに、『是より矢代宿まで一里なり 其間 千曲川繰船の渡しあり』とある。その頃は渡し船であったことがわかる。」
※堤防下の神社前に置かれた「矢代の渡し跡」の説明板。
篠ノ井宿へ
ようやく、矢代の渡しの地点に戻り、正規の街道歩きを続けることになりました。道は北へと向かい、道沿いには、リンゴの木やその他の果樹が植わっています。
目線の先は、住宅地。果樹園は、わずかな空間を埋めているという状況です。
更級郡制の中心地
街道が、住宅地に入ったところには、ひとつの石標が置かれています。その石標、「←郡役所跡 →警察署跡」と彫られています。
この石標傍に建てられた説明板を見てみると、「明治時代の更級郡制の中心地」と表示され、幾つかの建物の解説と、簡単な地図がありました。
そこに記されていたのが、明治の時期の役所など。この一角に、更級郡役所や塩崎警察署、その他、地租改正取調所や蚕病予防事務所などの建物が固まっていたということです。
※更級郡役所などを示す石標と説明板。
篠ノ井宿
おそらくは、この郡役所などが置かれた場所は、元々は、篠ノ井の宿場町の一角だったと思います。今は、何も残ってはいませんが、明治になって設置された役所の跡だけが、今も語り継がれているのです。
街道は、更級郡制中心地を過ぎた後、T字路の交差点に入ります。そして、そこを右折して、今度は東に向けて進みます。
東向きの街道は、篠ノ井宿の真っただ中。それでも今は、住宅が建ち並び、宿場町の面影はひとかけらもありません。
※篠ノ井宿を通過する街道。
街道は、この先で、しなの鉄道線の踏切を越え、さらに隣接する場所を通っている、北陸新幹線の高架下を潜り抜け、篠ノ井宿の東の部分に入ります。
※篠ノ井宿の東部に入った街道。
千曲川は、長野県を流れ下る河川です。やがて、この川は、長野県の飯山市から新潟県の津南町に入ります。そして、信濃川と名前を変えて、十日町市、**長岡市へと流れをつないで、新潟市で日本海に** 注ぐことになるのです。
千曲川と信濃川、2つの名前を合わせ持つこの川の総延長は367キロあって、日本では一番長い河川であると言われています。
北国街道の道筋は、小諸市辺りからこの川の流れに沿って北西へと向かいます。そして、更埴市で川を越え、北寄りに進路をとって川中島へと向かうことになるのです。一方の千曲川は、更埴市から方向を変え北東へと流れます。この、地理的な相違から、街道は、この後、千曲川に近づくことはありません。
現在の更埴市から川中島へと渡っていた、千曲川の川越しである矢代の渡し。この渡しを最後にして、北国街道の道筋は、千曲川に別れを告げることになるのです。
矢代の枡形
矢代の宿場を通る街道は、クランク状に折れ曲がる、枡形に入ります。須須岐水神社の正面で右折して、そのすぐ先の角を左折です。
左折する角にあったのは、横町の交差点。その交差点辺りの一角だけに、古くからの木造家屋が残っています。交差点手前にあった老舗の酒屋とともに、この一角は、微かながらも街道の面影を残しています。
※横町の交差点。街道は、ここを左折し北方面に向かいます。
高見町交差点
矢代の宿場町は、新しい住宅が建ち並ぶ道筋です。この辺りの沿線には、往時の名残りはありません。
しばらくすると、高見町の交差点を迎えます。その交差点のところには、「雨宮渡2.6km」と記された案内表示。おそらく、距離といい、方向と言い、北国街道の渡しではないのだと思います。
街道は、この交差点を通り過ぎ、真っ直ぐに北に向かって進みます。
※高見町交差点。
新しい住宅が続く街道を進んで行くと、街道から左に折れる細い路地が現れます。その路地の入口付近にあったのが、「北国街道矢代宿」と表示された説明板。
そこには、次のように書かれています。
「矢代宿(ママ)は、北国街道と松代街道の分岐点で、こ地点から松代街道が始まります。この街道の両側には本陣と脇本陣があり、加賀藩の殿様の大名行列や佐渡からの金銀の輸送にも使用され、多くの人や荷物でにぎわいました。このように屋代(ママ)は昔から栄えた歴史と伝統を誇る町です。」
なるほど、と言うことは、先の”雨宮渡”は、もしかして、松代街道がどこかの川の川越しを行うための渡しだったのかも知れません。
※矢代宿の説明板。
屋代交差点
街道は、真っ直ぐに北へと進み、やがて、屋代の交差点に入ります。この辺りはもう、矢代の宿場町は通り過ぎているのでしょう。道は、この先で、国道18号線に合流し、ほんの少し、国道に沿って歩きます。
※屋代の交差点。街道はここを右方向へと進みます。
更埴インターチェンジ
国道に合流した街道の様子をご覧いただければと思います。この先に見える高架の橋は、北陸新幹線の軌道です。そして、その軌道と重なるようにして、更埴インターチェンジが設けられているのです。
※国道に入った街道。
街道は、少しの間、国道伝いに進みます。そして、その先で、更埴インターチェンジの脇の道に入ります。
インターチェンジを利用する自動車は、この脇道には入らずに、もう一つ先にあるランプの道を使うことになるようです。
※国道から離れて脇道に入る街道。
インターチェンジの脇道は、どこか雑然とした感じのところです。途中、新幹線の高架の軌道と沿うようにして進みます。
道沿いには、道路建設の事業所らしい建物もありました。
※インターチェンジ下をすり抜ける街道。
千曲川へ
街道は、インターチェンジの高架道路を上に見て、脇道を進みます。やがて、建設会社の敷地の間の向こうには、空間が開けた状態に。そして、そこには、千曲川の流れがあるのでしょう。
小諸あたりから、この川の右岸伝いに進んできた街道は、いよいよここで川を越えることになるのです。
※インターチェンジの脇道の最後、千曲川の流れの直前のところです。
街道は、ついに、千曲川を迎えます。この川の中流か上流域の場所ですが、随分と川幅があり、さすがに大河川という感じです。
川の向こうは低い山並みが続いていますが、さらに奥にも標高の高い山々が控えているのだと思います。その山々の先にあるのが白馬など北アルプスの山脈です。
手前の低い山並みの左手は、有名な姥捨て山があるところ。千曲川は、幾つもの山並みを見つめるように流れています。
※千曲川に出た街道。
矢代の渡し
街道は、千曲川の流れに当たり、その辺りから川越しでこの川を渡っていたのでしょう。
対岸にあった「矢代の渡し跡」の説明板には、渡し船による往来だったことが書かれています。
今、川の渡しはありません。私たちは、千曲川右岸の土手を数百メートル東に向かい、国道18号線に架けられた篠ノ井橋を渡らなければなりません。
距離的には、大変なロスをする区間ではありますが、それも仕方がありません。千曲川の堤外に植えられた果樹を見ながら、国道へと向かいます。
※渡しが無いために、国道の橋まで東へと向かいます。