yamachanのメモ (original) (raw)
わたしが一二歳の頃、両親の書棚でひときわ目立っていたのは、『レオン・トロツキー裁判』と『無罪』と題された赤い装丁の二巻本であった。…この本は、救済の真理と道徳的な卓越性の光を放つ本であった。…
私は長ずるにつれて、まともな人なら誰もが、トロツキストとは言わないまでも、少なくとも社会主義者であるということを知るようになった。…こういうわけで、一二歳にしてわたしは、人間であるということにおいて肝心なのは、社会的不正に対する闘いに人生を捧げることだと知ったのである。
だがわたしには、私的で、一風変わった、スノビッシュな、人には言えない関心事もあった。…
なぜかははっきりと分かっていなかったが、こうした蘭が非常に重要な意味をもつと確信していた。北アメリカに咲く気高く、純粋無垢な野生の蘭は、花屋に陳列されている見栄えがよい雑種の熱帯産の蘭よりも精神的に価値が高いという信念をもっていた。…
私の念頭にそもそも何かなすべき課題があったとするなら、それはトロツキーと蘭との対立を調停することであった。わたしは、イェーツを読んでいていて偶然出逢った感動的な言い回しにある、「実在と正義を単一のビジョンのうちに捉える」ことを可能にしてくれるような、何らかの知的ないし美的な枠組みを見つけたいと思っていた。実在[リアリティ]とわたしが言うのは、おおよそ、ワーズワース的な瞬間であり、それは、わたしがフラットブルックヴィル周辺の森の中で…、何か聖なるものに、言いようもなく大切な何かに、触れたと感じたその瞬間のことであった。正義というのは、ノーマン・トマスもトロツキーも体現していたこと、つまり、強者からの弱者の解放のことであった。わたしは、知的かつ霊的なスノッブであると同時に、人類の味方でもある道-オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士である道-を欲していた。(47-51)
『哲学と自然の鏡』は、わたしの若き日の志の実現には寄与しなかった。取り上げた話題-心身問題、真理と意味をめぐる言語哲学上の論争、クーンの科学哲学-が、トロツキーからも蘭からもかなりかけ離れていた。…三十年前大学に入った頃に望んだ「実在と正義を単一のヴィジョンのうちに捉える」ことには少しも近づいていなかった。
どこが間違っているのかを理解しようとしているうちにわたしは次第に、実在と正義を単一のヴィジョンのうちに捉えるという考えそのものが間違っていたのだ-そうしたビジョンを追い求めることこそプラトンに道を迷わせた元凶にほかならない-と断定するようになった。…わたしは、実在と正義を単一のヴィジョンのうちに捉えようとするプラトン的な企てを首尾よく放棄できたなら、知的な生というものがどういうものになるのかについて、本を書こうと決めたのである。
その本-『偶然性・アイロニー・連帯』-では、各人にとってわたしの場合のトロツキーに相当するものと野生の蘭に相当するものとを一つに織り合わせる必要などないということが論じられている。他の人びとに対する自分の道徳的責任を、何であれ自分が心を尽くし魂を尽くし精神と尽くして愛している特異な物事や人物(あるいは、自分が取り憑かれている物事や人物、と言ってもいい)に対する自分の関係にまで結びつけようとする誘惑は、むしろ退けようと努めるべきなのだ。(59-61)
・第1回:迷走する石破首相と政治の行方、問われるものとは 長谷部×杉田対談(2024年10月10日)
・第2回:護憲は保守?政治意識変化、対立軸は二つ 与野党「中道化」の行方は(2024年10月11日)
・第3回:有権者の政治意識は「3対3対3」 政権交代は「改革志向」が鍵握る(2024年10月13日)
・第4回:政策で投票先を選ぶのはそもそも難しい 政治学者が教える「決め手」(2024年10月19日)
・第5回:有権者の「三つの軸」政策に変換できない政党 心理学でみる投票行動(2024年10月20日)
・第6回:「誰ひとり取り残さない」と語る政治家の軽さ 困窮者を救うためには(2024年10月21日)
・第7回:「こいつらは怒らない」と思われてたまるか 津村記久子さんの一票(2024年10月22日)
・第8回:AIで選挙をアップデート 安野貴博さんが考えるデジタル民主主義(2024年10月23日)
・第9回:二大政党制にもう憧れない 30年間、声を遠ざけた社会と政治のズレ(2024年10月25日)
権力の人格化現象は、近代の開幕とともに衰微した。政治権力を分散し、個人の恣意的な政治指導を防ぐため、有効な制動装置を設けることが、近代政治の一つの重要な課題であったことはあらためて指摘するまでもない。(1)
デモクラシーの時代には、政治の下への拡散と、政治の分化、複雑化が、分散化した諸勢力を統合する必要を生み、そのためむしろ政治指導のもつ役割を増大させる。…近代政治ひいては現代政治は、その構造上、政治指導の重要性を否定することが出来ない。(1)
もっとも戦後においては、チャーチルに対するイギリス労働党の勝利、ロシアについては、非スターリン化という”偉大”な政治家に対する反対運動が、歴史は直線的なものではなく、つねに弁証法的に進むものであることを教えた。しかし一般的にいって、現代はよりよい意味での指導、ある意味では新しいカリスマを待望しつづけているように思われる。フランスの政治学者ジュヴネルはドゴール体制下のフランス政治を背景にこのような現象を理論化して、「元首政治」(プランシパ)への期待とよんでいる。ここで「元首政治」とは一人の人間への権力の集中を意味することはいうまでもない。たしかに、ドゴールは嫌いでもドゴールのつくったフランスはすきだというフランスの知識人は、やはりこの傾向から完全に脱却しえていない。だから、ジュヴネルのいうように、ドゴールに対抗するものも、彼らの指導者としてドゴールに匹敵するだけの傑出した政治家を探し出すのに専念しなければならないのである。(2)
政治指導ひいては政治家の役割は、マス・デモクラシー、人民民主主義の展開に伴ってむしろ増大しつつある。問題は、このような事態を率直にみとめながら、しかもこれに対して、いかなる有効な制御をなし、政治指導と民衆及び政治状況との間のフィード・バックをいかに効果的にするか、にある。(3)
われわれは本書を編むにあたって、一つの共通の問題関心をもって出発した。それを一言にしていえば、古い制度が融解し、政治状況の新しい流動化がおこりつつあるときに、政治家がこれに対してどのように対処したか、あるいはまた十分有効に対処しえずに終ったか、という視覚である。(4)
・ポピュリズム考(1):ポピュリズムの果ては「失敗国家」 タイのチュアン元首相(2024年10月12日)
・ポピュリズム考(2):SNSが太らせる「怒りの経済」 21年平和賞のレッサ氏(2024年10月13日)
・ポピュリズム考(3):「エリート支配を正す」 エクアドルのコレア元大統領(2024年10月19日)
・ポピュリズム考(4):「民衆の代弁者」排除は解にあらず 政治学者・水島治郎氏(2024年10月20日)
・第1回:多様性の象徴、ハリスの戦略は 「アイデンティティー政治」の渦中で(2024年10月14日)
・第2回:バイデンを公然と批判したハリス 黒人の活動家たちに囲まれた幼少期(2024年10月15日)
・第3回:歴史的黒人大学から検事の道へ 「権力の内側」にかけたハリスの思い(2024年10月16日)
・第4回:理想と現実のはざまで揺れ動いてきたハリス 自らの「実像」示せるか(2024年10月17日)