てるとの雑記帳 (original) (raw)
屁は、わたしたちの内なのか外なのか。部屋(一部の俗説では、「へや」とは、「屁」をこくために作られた「家」であるという説もある)で口をぽかんと開けて肛門から屁をこくとき、まさにその瞬間屁はわたしたちの内にあるのか、外にあるのか。
少なくとも、わたしたちにとって「気」が「存在者」に含まれるならば、わたしたちはその音と匂いによって「屁」を「存在者」と見做している。したがって、例えば台風が存在者ならば、屁もまた存在者である。
では、「屁」のような存在者、すなわち「屁存在」とはどのような者のことか。一般に、人前で屁をこくことは恥辱であり、そのための観念から過敏性腸症候群になってしまう若者も後を絶たない。ゆえに、屁は社会的に蔑まれるものの象徴である。そして、屁は音と匂いにより、その存在を周囲に明らかに誇示する。ということは、屁はたんなる侮蔑の対象ではなく、侮蔑の対象であることを自己主張するような者である。こうした集団や個人は、知るかぎりかなり多い。これからは彼らのことを「屁存在」と規定してもよいように思う。だから、「屁」はたんにどうでもよいものの象徴としての存在者ではないのである。
ところでマインドフルネスのモードを獲得するとよくわかることだが、意識される現象は、明確な文法やイメージに沿っているというよりは、まさに屁のように内面に漂い、屁のように霧散していく。意識が活動の副産物や規範性のまなざしと欲求との落差の只中に生じるとすれば、意識とは欲求の出す屁である。しかもそれは自己主張的なはたらきなので、他者や規範性に対して欲求が挑発的に尻を突き出して発射するような屁である。そうであるならば、意識を丁重に扱って生きている人の経験は、例えるならば屁を袋詰めにしてコレクションしている人のようなものである。そして、事あるごとに、自己に対峙してきた他者にその袋を取り出して屁を嗅がせているのである。それが、一般に「主張」と呼ばれているものの内実であることが少なくない。
屁に注意を向けないことが、わたしたちのより豊かな精神に繋がるのである。
かつて、わたしを九州国立博物館に連れて行ってくれたおじさんがいた。父方の叔父の友人で、酒飲みで趣味人のしょぼくれた痩せ型のおじさんだった。その方が2000年以前、叔父に「これすごいぞー!!」という感度で叔父に「インターネット」を紹介したそうである。それはとても凄かっただろうと思う。
わたしは最近、「弁証法」を見つけて周りに「これすごいぞー!!」と吹聴して回っている。
ところで、哲学などを学んでいるとだいたい1年に1度のペースで「これすごいぞー!!」という体験がやって来る。去年は、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、芥川龍之介、ユング、吉本隆明を読んで、まさに「共同幻想」を見出したし、「無意識」が開発されもしたし、遍く「グノーシス主義」を見出したりもした。「これすごいぞー」体験である。
ところで、この場合「哲学」や「思想」や「評論」は最後に登場する「定式の確認」である気がする。
哲学は、文学や宗教が出そろった後、最後にやってくるものだ。
そこではじめて自身の経験を自覚し、「これすごいぞー!!」となるのである。
だから、「すごい」体験を逃してはいけないし、それをしっかり獲得していくためには、哲学書や評論よりも文学や芸術に触れなければならない。考えてもみると、文学はその裾野が哲学などよりも圧倒的に広いのである。
井筒俊彦と永井晋の「精神的東洋哲学」の試みとは、彼らがはっきりと明言しているように、「その多様さゆえに統一性を持たない「東洋」の諸伝統にある統一を与えること」である。わたしは、こうした思想や哲学の罠が数多くあり、それはオートポイエーシスで解決可能だと考えているが、ともかくオートポイエーシスとは別立ての「思想的」作業として、民衆と国家の思想的背骨とするべくやってみるのである。だからこれは、実際にはわたしの信仰とは距離をおいた作業となる。だからこそできるというものでもあり、わたしはあくまでもグノーシス主義に対立する正統的なクリスチャンである。だから、「精神的東洋哲学」は、例えばかつて徳川幕府が「神儒仏三教一致論」をもって国教的なかたちで理論的に整備していたように、個々の信仰はあくまでもシントイストなら神社の講中に入り、檀家なら寺の坊主の説法を聞いて念仏を唱え、儒者ならば体系的で形而上的な窮理の学を学び出世を志す、というように、個々の信仰なのであるが、その上部機構に理論的統一が与えられている。すなわち、「最も普遍的なものは最も空虚である」というように、「統一理論」そのものはおよそ空虚なものであるが、それぞれの信仰においては充実した体験と組織化された道、および実践のための教え、各共同体があることになる。わたしが志すのはその上部機構の統一理論を与えることである。しかし、私自身の経験の基本は、既にオートポイエーシスの活用を道具立てとして活用することにし、信仰においては正統派キリスト教における神と聖書の信仰で定まってきている。すなわち、「精神的東洋哲学」あるいはわたしの試みとしての「ユング=エラノス会議風の東西問題の解消」は、神儒仏のみならず、老荘や道教、ヒンドゥ教、イスラーム、ユダヤ教、キリスト教をも射程に入れたいと考えているのである。さらにいえば、全盛期の宗教指導者に、生長の家の「谷口雅春」という者がいたが、彼は「実相」を掲げ、「万教帰一」、「唯神実相」、「唯心所現」を掲げ、世界中の多くの宗教に加え、フロイト、ユングの精神分析、さらにプラトンからカントを経て現象学までの哲学をも日本的に統合しようとしていた。ある意味での「国学」的実験であったろうと思う。
さて、わたしは、多くの理論的思想家の描く「図」に興味を示している。彼らは、それぞれ言葉は違っていても、伝達のために用いた図が明らかによく似ているのである。
まずは、井筒俊彦の図である。
次が、十牛図の第八図である。
そして、「窮理の学」朱子学の図である。
さらに、雑誌で見つけてきたが、平田篤胤にも似たような、不思議な図がある。
このように、「観想的体験」をもつ思想には、決まってその最上部、あるいは最下部、あるいは経験の極地に、「無極の円相」が出現する。
これがあの荘子の語る「虚無の実在」=「主宰者」、すなわち「道」であるか、どうか。
それは定かでないが、体験的に何かが出現するようなのであるし、それが「根源」とされる。しかし、これは様々な人が述べているように、特に朱子学では『太極図説』の解釈で、「無極而太極」、すなわち「無極にして太極」が言われる。(わたしは何らかの何かに召命されている。自覚を高めつつある。)
さて、この動くものは、エネルギーの場においては海のように活動態である。それを存在態とも言う。だからそれは、まだ可能態である。ドイツ語ではan sichなので、「それ自体」、すなわち、わたしが探究しているところの「それそのもののそれ自体のそれ」、すなわち「何らかの何か」「もう実相としか言いようがない」ということになる。そこに、突如としてポンっと現実態(エネルゲイア)が出現する。ここではじめて「意味の場」が出現し、ロゴスと分節、すなわち「天地」と「光あれ」が展開する。これはあくまでもわたしの現段階での仮説であり、決定事項ではない。すなわち、人格神に先立つ「虚無の実在」としてのプリウスがあるというのは、現代科学的にも自然な考え方である。よって、これにより無理なく「根源」と「人格神」、そして「宇宙の加速膨張」に説明を与えることができる。すなわち、ドーナツの中心にもう一つ球があれば、その周囲はそのエネルギーで何らかの変化を被るはずであるし、それを内側から見れば、すなわち球とその周囲の球形のテニス球を位相的にベロンとひっくり返せば、トポロジカルに「超越」と「無限」が出現しそうである。これについては考察の余地があるため、断言はしないが、わたしは半ば真理を求めている。
ゆえに、神の「存在」と「エネルギー(はたらき)」は区別される。ゆえに『ティマイオス』は的を外しており、イデアというよりも「ロゴスの先在」が妥当そうである。なぜなら、ロゴスは理念的に超宇宙的にも超超越的にも成立するはずだからである。この次元にあっては、「数理神学」もあながち的を外していないのではないかと思うし、シェリングの「プリウス」も「啓示の哲学」も、さらに「世界霊について」も、かなり筋のいい議論なのではないかとみている。すなわち、「超越の超越」を充溢とみたグノーシス主義は一面的に正しかったが、しかしその多神教的世界観においてやや的を外していた印象である。「神の前にあり神の右手において権能があり、神の子」であったキリストについても説明がつきそうなものである。
さて、くどくどとあまり意味のない議論をしてきたが、言いたいことは「虚無の実在」や「無極にして太極」が、恐らくは、例えば日常系アニメを見るとき、郊外を散歩するとき、その目的なき空虚さが実は最も充実しており、ジムに行きビジネス書を読むような生活ほど空虚な体験はない、ということである。
しかし、わたしたちはジムに行きビジネス書を読むことはないにしても、何かしらそれに類比される活動はしなければ修養も成長もないのである。そのことについてはゆっくり考察するとして、今回はここで〆る。
わたしは以前、通俗心理学で言うところの「マキシマイザー」であった。すなわち、絶対確実な何らかの何かを獲得しなければ、納得できない、と。
しかし、今は変わった。あくまでも心的機制をサティスファイザーにして、そのうえで納得を宙吊りにして頑張るのである。これが、筋のよい哲学であるように思う。
その場合、なにか最も良いものを求めて世界を放浪することはなくなる。それよりも、自分の身近な、自分と既に関係を結ばれている対象を参照点にして、それに基づいて考えていくのである。
その場合、断定は「憶断定立」を超えて、心性的には言葉でともかく「決断」して「実行」することが哲学となる。言い切る、ということである。
マキシマイザーの哲学の典型例はデカルトを挙げるとよいが、彼もまだ不完全であり、いわば「真実哲学した人」はやはりソクラテスだけである。
過度なマキシマイザーが幸福度が低い神経症である場合が多いのは、つまり強欲だからである。決められなくても、系の状態は勝手に進んでいく。だから、決めなければならないのである。こうした、動きのなかで哲学を続けていく巧みさが求められる。その時に出現するのが、ソクラテスでもデカルトでもない、サティスファイザーの哲学である。ともかく学び、ともかく自分なりに出力して言い切る。そして、それを今度は捨てる。こうしたところにこそ、「哲学する」という「誠実さ」が出現する。例えれみれば、デカルトやカント型の哲学ではなく、シェリングのような哲学である。シェリングは晩年、哲学の勉強はプラトンに始まりアリストテレスに終わる、という趣旨のことを言った。よほど哲学が好きだったものと思われる。
わたしが河本英夫から学んだオートポイエーシスも基本的にこの姿勢を継承している。河本がシェリングから学んだものは、決して自然哲学の構想だけではなく、「動きの只中の動きでありながらも真実哲学する人」を学んでいる。
すなわち、河本は「善き生」とは言わなかった。河本は、「より善き生」を述べていた。少しずつ変数を獲得していく生活的態度、訂正可能性に開かれて少しずつ訂正を続けていく態度。こうしたところが、まずはじめに「純粋認識論」や「絶対確実なもの」を定立する態度と大きく異なっている。ともかく、進むこと。
そうした螺旋の先に、この目まぐるしい現代であっちにこっちに流動しながら、他者や友人と結ばれながらも、さらにその社会の混沌と関係性の絶対のなかで、なお哲学を続け、生きていくというヒントがある。
イサク、父アブラハムに語りて、
父よ、と曰う。
彼、答えて、
子よ、われ此にあり、
といいければ、
―—創世記二十二ノ七
…(中略)…
義。
義とは?
その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。
太宰治『父』より
義、というのは、聖書にも「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6節)とある。
アブラハムのイサク燔祭で、父であるアブラハムが「独り子」のイサクをまさに殺しかけたときに神によって認められたのも、まさに彼の「義」である。
太宰は、それを「やりきれない男性の、哀しい弱点に似ている」と表現している。
通常「義」とは、「善さ=正しさ」である。だから「正義」と言う。
太宰は、墨に濡れた「蟻」が這い回ってできるようなもので表現している。虫の義。
聖書には、この箇所で興味深いことが語られる。「献げ物の子羊は、きっと、神が備えてくださる」。そして、「主の山に、備えあり(イエラエ)」ということわざが紹介される。ゴルゴタの丘にわたしたちの生贄になった「イエス」には、確かに備えがあった。
太宰の言い分としては、彼がまだ小さい子供を置いて意地になって女と一緒に酒を飲みにいかなければならず、しかもそれが楽しくもなく、人を楽しませるわけでもないことに重なるそうである。しかし、イサクとは、「笑い」という意味である。神が与えてくださった「笑い」だからである。
恐らく、太宰としては、意地になって笑いを殺すさまを、男の本質的なところに直観したものだと思われる。確かに、「義」は、わたしたちの男の笑いを殺すということは、日常生きていてもよくあることではなかろうか。
「義に飢え渇く人は幸いである。その人たちは満たされる。」(山上の垂訓)
すなわち、わたしたちは「義認」されたくてされたくてたまらないのである。楽しくもないのに。楽しくもないのになぜ「義認」されたいのか。馬鹿にされることに耐えられないからである。自分に絶対の自信があれば、馬鹿にされても問題にならない。わたしたちは、「やりきれない」ことに衝迫されて義に飢え渇いている。それで楽しくもない知性で自らを武装する。「徳」と言っても同じことである。
さて、しかし、イサクは殺されずに済み、イエスは復活する。笑いは死なないのである。すなわち、ロジックとしては、一旦笑いを殺すようにみえることによって、かえって義も笑いも生きるのである。仏教の「死んだように生きる」という経験と、キリスト教の「死んで、生きる」ということでは、大きな開きがある。むろん仏教でも風狂者などは、悟りすぎて笑いを生きるのであるが。
キリスト教は、信じることが、より大きな笑いに至らしめるプロセスのシステムである。
だから、わたしたちはやりきれない社会に対して社会正義に飢え渇くことを捨てないことによってこそ、笑いを生かすことになるのである。
『天使の記号学』には、中世ヨーロッパが笑いに溢れた社会であったことが記されている。だから、義のために「犠牲」をも厭わない姿勢が、笑いに導くことを、わたしはただ、信じる。
わたしは最近、挙動が「被動」的になってきた。あるいは、ずっと「被動」的だったのだが、最近は霊性や無意識の開発によりそれが自覚できてきたのだろう。この自覚が、「耳順」という孔子の述べた境地なのではないかと思う。
わたしは、古本屋で割引セールが行われていたので、井筒俊彦の『意識と本質』を買った。ここに既に何らかの心理的プライミングが入っているが、実際なんとなく買ったのである。この、「なんとなく…」ということは、人間にとって決定的に重要な意味を持つことが多い。それは、人間心理が、記憶に基づくプライミングで動いているからである。最近、聖書を読んでいても、その表層的な「言葉」ではなく、物語進行上の「プライミング」のはたらきが察知されてきた。このことは、noteのほうでより詳しく書くつもりである。だから、聖書はある程度のまとまりを一挙に読まなければならない。腰を据えて。
さて、『意識と本質』においては、西洋の「表層意識」に対して東洋の「深層意識」の組織的嚮導の体系が語られる。つまり、サルトルの「嘔吐」体験のような、むき出しの「存在そのもの」に直面しても、東洋の哲人は狼狽しないというのである。一方で、デカルトを内面化した西洋の哲人は狼狽する。「・・・の意識」という意識の志向性が対象を喪失し、行き場を失うからである。言語には、その対象の本質を直観するはたらきがある。或いは、言語と本質は不可分である。分節されるということは、既に何らかの本質をそこに直観している、という議論の立て方である。これについては再考の余地があるが、確かに説得力のある話である。
わたしが10代の頃、まさにこの本で語られているところの「言語脱落(とつらく)」「本質脱落」という事態が起こった。それで1年くらいは幸せで、散歩をしたり、酒を飲んだり、ネット配信で全裸になってペットボトルに放尿したりしていたが、2-3年後には神経症を発症した。わたしは、大乗仏教とデカルトを同一視していた。
さて、そうしたことで、わたしのような人は既にして「召命」されてしまっている。これは、「召命」と言わなくても、勝手に経験が進むような体質なのだろうが、ともかく組織化しなければならない。修行である。
キリスト教は聖書を基本とする信仰である。聖書は、「光あれ」と言う神によって分節化を開始する。光と闇をはっきり分ける。そこから多様な分節化が進行する。一方で、ナーガールジュナ式の大乗仏教は、ともかく「無自性」「無分別」にこだわり、修行の最終局面においても「空」である。すなわち、この本で取り上げられているところのシャンカラやイブン・アラビーのような、「絶対有」の神秘主義に行かない。いわば、ナーガールジュナは「神秘」をも否定する。後期ウィトゲンシュタインもそうである。あくまでも、徹底的な誠実さをもって、「それそのもののそれのないあるよ、それも違う、言語道断、朝青龍」にこだわる。そうしたところに、真の誠実さがあるが、世界的にこうした経験の組織化の主流派は老荘や中観派ではなく、あくまでも「存在」=「絶対有」に至る道である。だから、わたしはキリスト教に入ったことでもあるが、それとは別様のモードの経験の組織化も行おうと考えている。
新約聖書は以前から何周もしているが、この度旧約聖書を通読した。
聖書は全体を通して、そんなに生活世界に入り込んでこないことがわかった。読む前は、「信仰は自由を制限するのではないか」と恐れていたが、実際には、旧約聖書はただ「立ち帰れ」ということで、信仰に立ち帰ることを強調するばかりで、殺人や盗み、脱法的な性交渉など、よほどのことでないかぎり制約してこないし、そうした律法が書いてある箇所はごくわずか。だからかえって、生活の戒律が欲しい人には物足りないものだった。しかも、その律法への罪でさえ、新約聖書で、キリストによって赦される。だからこれは、神の霊と交わり、日々の行動を、日々たまたま目に入った箇所で決めるための本だ。その言葉への応答は、各人に委ねられている。