てるとの雑記帳 (original) (raw)

わたしが中学1年生の頃、卯津江という担任教師に、参観日の道徳の授業の後に激怒された。その頃の道徳の授業の内容はすっかり忘れてしまったが、わたしはとても嫌な思いをしたし、わたしはわたしなりに面白い回答をしようとしたはずである。

実は、これを素直に「面白い回答をしようとした」と認めることが大切なのである。気取ってはいけない。わたしは面白い回答をしようとした。しかも、それは何も悪くないどころか、能力形成なのであ

「もっと良いもの」を求めることは、例えば美や面白さを求めることに宿る。端的で一元的な善や正しさの、一本道での追求は、端的に狭く不健康で、社会的にも健全でなく、能力を形成しない。それはつまり、「善き生」を求めることと「より善き生」を求めることの圧倒的な差異にも関わる。だから、美や面白さはより広い。

修辞や弁論の美は、一本道の正しさと相性が悪い。しかも、画家がより美しいものを描こうとすることが「詐欺」とは呼ばれないように、それは詐欺ではない。逆から言えば、それが詐欺ならばフィクション作家は全員詐欺師である。しかし、フィクションがあることで人間のできることの範囲と、人間の経験は拡張し、健康と倫理をももたらす。

こうしたかたちで、わたしたちは「幼子」を再び取り戻さなければならない。一度幼子であった者の内なる幼子は決して死なないのである。或いは、幼子であったことのない者の幼子は永遠に生きることがないのではないかとさえ思う

だから、社会的な義のためにも、バックアップとして、「もっと!ポイエーシス」を求めていきたいし、そのためにはわたしはもっと真の意味での「古典」を、例えばキケロなどを読んだほうがいいのではないかと思ってきた。雄弁家キケロを詭弁と裁けるだろうか?或いは、「詭弁」という言葉だけを振り回して裁く者こそよほど詭弁的だとは思わないだろうか。詭弁を裁く秤を持っている人がいれば、その人をわたしは幸福者と呼ぼう。わたしには、それがわからない。

なにも、近代教育制度がはじまってから今のようになったのではなく、ある種の若者の神経症的な経験は「通過儀礼」に近いところがある。頑張れ。

「もっと!ポイエーシス」、わたしは、あなたがたの内なる幼子にこう呼びかけたい。

クリスチャンの渡辺和子さんが、『置かれた場所で咲きなさい』において、以下のような話を紹介されている。

数年前、NHKスペシャル番組として、一人のアメリカ人の少年について放映しました。崩壊家庭に生まれ育ち、友人といえば、いわゆるワルばかり。かくて自らも非行に走って刑に服している十五歳の少年の話でした。

彼は刑期を終えたら、今度こそは”まともな”生活を送りたいと考えているのですが、その方法がわからない。そんなある日、一人のホームレスが彼の働いている作業場に来て話しかけます。

「お前は、何かにぶつかった時、反射的に行動し、それから感じ、それから考えるという順序で生きてきたのか。それそもその逆の順序だったのかい」

いわれた通りの順序だったと答える少年に、ホームレスがいいました。

「だからお前は、今ここにいるのさ。これからは、逆の順序でやってみな」

この時から少年の、自分自身との戦いが始まりました。

わたしはこれに大反対である。タイトルの通りであるし、もっと言えば、「考える」という過程はいらないようにも思う。

トップダウンは全部神経症」というのが河本英夫の教えてくれたことだが、その通りである。わたしは、ものを書くとき、ただおぼろげな、意識されていない着想だけがあって、それから、書く中で端的に書いて、考えたりしていない。だから書けるようになったのである。そして、無意識的に生きている人は、わたしや河本先生のような観察システムを、通常は強くは持っていないので、自分ができていることを言うことができず、ただ暴力的に、間違ったことを教える場合が多い。

だから、わたしは河本先生について行きます。

しばらく前、わたしが「祈り」と「行動」から変えられることを祈った際、わたしに対抗して、牧師が「信仰から」変えられますようにと祈られた。わたしはそれには反対である。信仰からではなく、行動から変わるようにと思うし、意識からではなく、経験から変わるようにと思う。

通常の人は通常、「相手がこう言っていたから相手との関係のためにここを改めるべきなのか…」と考えがちだが、それはたいてい間違っていることがはっきりとわかってきた。

例えばこれは、事例としては、子供を攻撃するタイプのよくいる親が、口ではもっともなことを言っていようとも、或いは子供に落ち度があろうともなかろうとも、ともかく子供はその親の怒りを避けようがないことに似ている。

このアナロジーで人間を見れば頗るわかりやすい。理性的に生きている人間はいない、一人もいない。

なにかそうした親に育てられた子供ほど、この世には理性的に生きている人間がいると錯覚しているが、考えてもみれば、学校で出会った児童生徒や教師でさえ、果たして理性的に生きている人間だったろうか?そんなはずはない。

だから、相手が「お前はここを改めたほうがいい」と言ってきても、その言葉を信用するのではなく、また同じように自分の言葉にすら力があると考えず、もっと相手の経験を取って接さなければならない。

例えば、友達がなにか不機嫌そうで、自分の至らぬ点によって怒っているのだという意思表示をしてきた場合でも、それを一切信用せず、例えば省みるべき点と言えば、自分と相手が最近、日ごろから喋りすぎていなかったか?などである。あまりにも距離が近いと、人は反発する。しかも、自分と相手とでは、どの程度に行けば反発するのかの値が異なっている。

そこでわたしは、できれば深い関係の友達は、自分に合った人数いたほうがよいように考えるし、同時に、それが得られないときでも精神を安定させ自分を楽しませることができる深い趣味を持っておいたほうがいいと考える。

ともかく、相手の「言葉」を信用しないことである。

そのため、相手の「思想」に自分を適合させることではなく、自分の道行きを生きながら相手と関わることができるのだということを知ることが大切である。

常識と思われていることが、実際には誤謬に満ちている、ということはよくあるが、しかもその誤謬はまだ誤謬として大勢に認知されていない、ということも、またよくある。生まれ生まれて生の初めに暗く死に死んで死の終わりに冥し。

わたしはここしばらく、哲学以外の領域に広がってみようとして、さらに哲学科の先輩にわたしの「哲学力」を否定され、哲学書の多くを棚にしまい込んでみて、関係の現象的に哲学を少しく切断してみたのだが、そうしてゼルダの伝説のティアキンなどで時間をつぶしていたところ、思考が整理されてきて、わたしが完全に哲学なしでは生きられない頭になっていることがわかった。そこで、わたしの曖昧だった立ち位置もはっきりしてきた。そのことは、「立場」を標榜しないポスト構造主義や仏教、またオートポイエーシス、さらに射程を広くとると精神分析や聖書にあっても、それが妥当することがわかってきた。

すなわちそれは、平たい言葉にならして、粗雑化して言い直すと、「関係論」である。わたしの基本的な問題意識は、現象学でも存在論でも認識論でもなく、関係論である。しかし、「関係主義」ではない。このことから、わたしが実存主義者ではなく、関係論の哲学者であることがはっきりしてきた。わたしほど哲学が埋め込まれてしまうと、すっかり「哲学者」である。

実存主義は「現実存在」としての「こ」の人間に重きを置きすぎてしまう西洋的伝統がある。しかし、院生の先輩も「自己関係」「他者関係」「神関係」と述べていたので、必ずしも「主体」主義でないことはわかる。

しかし、わたしはさらにどちらかといえば、個体を自己という「主体」からではなく、「他者との対象関係の現象する場」として捉えるようなところがある。これは、仕組みとしてはユング心理学宮沢賢治に近い。そして、この仕事は既に恐らく、マルティンハイデッガーという高名な先駆者を抱えているように察知している。「ハイデガー存在論の人」と捉えると大間違いを犯す。

だから、わたしの問題意識は、「他者」であり、「対象関係」であり、「現象」であり、やっぱり「ディアレクティケー(対話=弁証法)」である。自分を低くする対話は、弁証法的にまさに他者によって自己を高めるようなところがある。

そして、人気の、カント以後の19世紀ドイツ哲学と東洋人であるわたしたちの根本的な差異も、このあたりに求められる。すなわち、仏教と儒教を擁するわたしたちの思考様式は、根本的に「関係」に彩られているところがある。しかも、それはたんなる文化相対主義的な評論に留まらず、ある意味でたんなる解釈に留まらない本質を言い当ててもいるように思う。ユダヤ-キリスト教も、イスラームも、基本的には「神関係」を基本としているが、ある意味でわたしたちの現実性の基盤を為している19世紀実存思想は、「無神論」に陥ったのちに「関係忘却」をきたし、ひたすら「実体化した個体の生」に先鋭化してしまったようなところがある。だから、神を知っていたキルケゴールはそのような誤りを犯さず、純粋に「神関係」の哲学を行った。

恐らく、デカルトとカントの哲学は、自己と自己の、カントにおいて言われるのは、超越論的な、すなわち超越論的関係のみで批判を済ませようとした。カントは理性がどこまでも登っていくことを嫌った人であって、「低く=高くなっていく」ことを知らなかった。キルケゴールが自己と自己の関係に関係するという関係を語るとき、彼の前提には恐らく「無限なるもの」との関係を知っていてそう言った。ニーチェになると自己完結型にならざるを得なかったようだ。

わたしの想定する現実的な指針は、すなわち「関係」と言っても「個別具体的な現実の人間関係」ではなく、「古典の通読」といったいつも言っている変数で、その言葉の彼方に経験を、或いは言ってしまえば際限なく開かれた領域に触れ、「交わる」ことである。

マルクスフロイトニーチェにわたしは反対する。マルクスは「関係」を説いたが、彼の思想は「社会関係」の現実性を、神のいない世界で、高めるだけの思想であった。階層、性、自己だけに留まるほど人間の関係は卑小ではない。ポスト構造主義マルクス主義的展開も、結局は「社会」のことばかりを説教することになった。

だから、わたしの関心事は、「関係の問い」ではなく、「関係を問う問い」である。

わたしが以前受けていた授業で、こういう一幕があった。

先生「過去志向は神経症、未来志向は分裂気質、現在志向はてんかん

M先輩「デリダはどうですか?」

先生「デリダ?あれはダメ、チンピラ」

M先輩「当てはめるなら」

先生「デリダは過去志向だね」

わたし「僕はどうなんですか?先生からいろいろ混乱したことを言われていますけど」

先生「本来的には分裂気質だけど、今はこっち(神経症)を通過させてるから、分裂気質に向かわせてる、本来的には分裂気質」

わたしはどうも過去志向が抜けない。というのは、失敗体験が多すぎるからである。

ツァラトゥストラ』に綱渡りがあるが、ああやって、ひたすら先へ進まなければならない綱渡りから「没落」した者は、次には失敗を恐れてなんでも人に聞く、つまり、結果の失敗を見据えて行動する「過去志向」になる。

未来志向とは、未来に開かれていることである。すなわち、「どうなるかわからんけど、とりあえずやってみるか」で踏み出してみる感覚に近い。人間は、普通、いずれのモードも使っていて、単一、ということはあり得ないが、どれが重要局面で強く出るかに違いがある。わたしは、どうも自分でものごとを決められなくなってしまったようなところが強い。それは、単純に「未来志向」で失敗してきたからであろう。

だから、ともかく踏み出してみなければならない。

過去志向の、結果から逆算する責任は、責任ではなく、責任転嫁の責任に近いところがある。むしろ、一般に無責任と思われているところに責任がある。無責任こそが責任を負うことである。

世の中の人は、際限なき複眼的尺度で測られるが、今回は道具立てとして、「言語性優位/動作性優位」「内向型/外向型」「承認欲求」を用いて語りたいと思う。

まず、よくある誤解として、内向型は人を求めない、というものがある。しかし、人を観察していると、それがすぐに間違いであることがわかる。どちらかといえば、内向型と外向型とでは、人の求め方と、人との関係性の構築のしかたに違いがある。

わたしが大学の喫煙所で感じたことだが、たいてい人がいる時間帯に行くと、わたしのように一人でいる人は少なく、こんにちの若者の喫煙者はたいてい、なにやら3人以上、4人や5人で、どこか遠い場所へ旅行をした話や、身近な人間関係の話をしている。外向型は、外界からでも内界からでも、刺激に対する感度が低いので、すなわちより多くの情報刺激に晒されても健康を保て、しかもその閾値が高いので、内向型に比してより高い刺激が快適なゾーンとなる。そこで言うと、先の外向型の典型事例である、3人以上で、雑多な、自分にとって有益になりうる「情報交換」をする、というスタイルは、情報受容量の上限が高いところから発生しているとみることができる。しかし彼らの大半は、その情報を内的に連合するという特性がはたらかないので、受け取った情報をそのまま保持し、しかししばらくすると、或いは目的が達されると忘れるという、長期記憶のなさにおいて、学業においては不利となるという課題がある。当然、これは傾向性の話であるから、連合や長期記憶の得意な外向型も存在するだろう。しかし得てして有利なことには、人間関係のネットワークにおいて広く浅く、すなわち有益な部分を交換し、楽しい会話で相互に感情を確認し合うことになるので、当然実験でも明らかにされているとおり、内向型でも自分なりに良く深い学習をした者でないかぎりは、内向型に対して外向型は実証的に幸福度が高い。人は、親子や恋人や親友のように、深く付き合うとその悪なる部分や異他なる部分が露呈してくるものである。すなわち、外向型にあっては、端的に承認欲求を、網状に広がる「社会ネットワーク」によって満たされるモデルが成立する。そして、X(旧Twitter)に対するInstagram(インスタ)やTik tokの特徴のように、何かを「論じる」ことや「理解する」ことではなく、「行く」ことや「体験する」といった動作性が、その行動様式の基本態となっており、おそらくここには後天的な分岐以上に、例えば自閉スペクトラムにおいて典型的に言語性優位が出てくるように、外向型にあっては生得的に動作性が強く出やすく、それに拍車をかけて経験的な分岐において生活様式が動作性の「行為」がメインになっている可能性が指摘できる。

一方で内向型の人間関係のスタイルは、概して、外向型とは違い、承認欲求の強弱や満たされ方のスタイルによって、大きく分岐することになる。内向型は、その承認欲求が強い場合、観測的には「場」を持つタイプが見受けられる。例えば、延々とXで、誰にでもなく意味深いことをつぶやいている人や、「シャーマンが場を作る」という事例や、自分の小説の中だけの世界に人を引き込んでいくような私小説タイプがそうである。恐らく、典型的な事例として、感性の鋭い芸術家は全てこのタイプである。

一方で、承認欲求を自己満足的に満たしていたり、そもそも承認欲求の薄いタイプの内向型は、得てして自分の作業に没入するフロー体験の世界や、もっと穏やかに、狭く深く、ごく限られた少数の友人との一対一の交流や、他者の現象しない生活それ自体を端的に楽しむことになる。しかし、人間のこととして「推し」や「好きなクリエイター」などがいる場合が多くみられ、そこで代替している印象がある。すなわち、細かく見ていくと、人は人を求めることが基本だが、その対象関係のタイプによって違いが見いだせるのである。

そうして、内向型でも動作性にそこまで支障がない場合、創作の習得などに傾き、言語性が高すぎる場合、純粋に「享受」することや「憶える」こと、また「洞察すること」「理解すること」を得意とする傾向にあるように思う。

だから、ここまで少し広げてみて、改めてユング心理学のタイプ論に立ち返った場合、「言語性優位」が行き過ぎているなら是正するために動作性の「習得経験」を積み、「動作性優位」が行き過ぎている場合言語性の「知識理解・享受」の経験を積むほうがよいのではないかと思う。なお、内向型、外向型を無理に動かすと、刺激の適正ゾーンの違いにより身体不和をきたすので、そこは動かさないほうがよいように思う。

事例としてわたしのことを語ると、わたしは刺激には敏感であることは自覚しており、内向型とのことでもあるのだが、とりわけ承認欲求が強く、また自足できてもおらず、さらに言えば著しい言語性の能力への偏りがあるので、是正する点として、承認欲求の自足のために自分の向かう方向への古典を通読することや、動作性の能力、すなわちなんでもいいから「できる」ことをメインとした学習へのシフトチェンジをしたいと考えている。

古典は、承認欲求を現代社会のみに局限しないための効果がとても高いから、使い道としては非常に豊かである。

なにかこの文章が皆さんの示唆になれば幸いであるが、答えとしてではなく、手がかりとして、批判すべきところは批判して使っていただきたい。

言葉は、現実の圧倒的な分岐の多さと動き、進んでいくことに、そのまま何の工夫もなしには対応できない。そこで、言葉を現実のために使うためには、多くの工夫が必要になる。今回は、そのプログラムの途中経過ということで、「捨てる」ということをメインに話してみることにする。

現実は圧倒的な分岐があり、また、常に動いている。それに対する動作の予期としては、必当然的に、単一の対応説や整合説ではなく、例えば多くの予期プロセスを書き出して、例えば100のラインを描いたものの99を捨てることになる。その、捨てることは、動きのさなかで行われ、予め何を捨てるかが決まるものではなく、あるプロセスの局面の全てが終わった後になってやっと決定されることになる。かなり、大事なことを話している。

このことから、芸術制作のプロセスや日常生活のプロセスにあっても、多くの現実性ある予期イメージ、すなわち、想像力の障害がある人に困難がみられる領域は、対応するイメージを決めることでも、プラス思考のイメージをトレーニングすることでもなく、多くの想定をとりあえずやってみて、動きのさなかでその都度捨てていくことになる。ここに、言葉を細かくして、どうにかして紡いでいく作業が必要になるが、そのことは、現象学や過去志向の、既にできたことの記述とは別建てのものとなる。現象学や、できたことの公共化はそれはそれで大切なことだが、「予期プロセスの哲学」は、それじしん生活に密着し、「できたものの公共化」として「わかるものにする」ことではなく、「できないものをできるようにする工夫」、また、「できているものをより上達し訂正していく工夫」となるので、より重要度が高いことが明白になる。

実は、哲学書を読むこと、文学を読むこと、世の中の同時代的な動きを読むことに関しても、この能力をはたらかせ、開発しなければならないし、しかもこれは実証史学といういっけんすると過去志向のはたらきにおいても必要な未来志向の能力となる。恐らく、真に能力的な実証史学は過去志向ではありえず、過去志向の史学とは、たんなる伝統的な「史観の歴史」にしかならない。

こうしたことが書けるのも、わたしが些細にも工夫するようにして上達と訂正を目指してノートを取り始めたからであり、そうするとすぐに、対応説や整合説では事態の動きに全く追いつかないことがわかってくる。或いは、そのことはとうに「自分で哲学をやったことがある人間」にはわかっていることだが、皆その解決策が見いだせないでいる領域である。だから、このプログラムは、恐らく広範な射程を持っており、例えば倫理の公共化過程における各人の規範の身体化と実践、芸術制作における身体化と差異化と上達、さらには現象や認識を中心とした哲学の大幅な組み替えを提起できるはずである。だから、このプログラムが進行しうまくいけば、たんなる連字符哲学には留まらないはずである。

このヒントになったのは恩師河本英夫とのやりとりであり、オートポイエーシスの理論であるが、恐らく従来のオートポイエーシスに留まってしまった場合は倫理規範の実践的規則が語れず、主に聖書を中心とした信仰の領域の細やかな実践が語れないので、工夫の目途としては、たんなる個体主義から脱皮した実行機能の代替を請求する。

そのことを踏まえて、この作業と、そのうえでなお言語的公共化を継続したい。