読み方:あんとくてんのう[1178〜1185]第81代天皇のこと。Weblio国語辞典では「安徳天皇」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。">

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安徳天皇
安徳天皇画像 泉涌寺所蔵
第81代天皇
在位期間1180年3月18日 - 1185年4月25日治承4年2月21日 - 寿永4年3月24日
即位礼 1180年5月18日(治承4年4月22日
大嘗祭 1182年12月21日(寿永元年11月24日
元号 治承養和寿永元暦
時代 平安時代
先代 高倉天皇
次代 後鳥羽天皇
誕生 1178年12月22日治承2年11月12日
崩御 1185年4月25日寿永4年3月24日壇ノ浦(現在の山口県下関市壇ノ浦)
陵所 阿彌陀寺陵(赤間神宮境内)
漢風諡号 安徳天皇
言仁
別称 水天皇大神
父親 高倉天皇
母親 平徳子
皇居 平安宮福原宮
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安徳天皇(あんとくてんのう、旧字体安德天皇1178年12月22日治承2年11月12日〉- 1185年4月25日寿永4年3月24日[1])は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)。言仁(ときひと)[2]歴代の天皇の中で最も若くして崩御した天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である[注釈 1]

高倉天皇の第一皇子[3]。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)[4][5]

略歴

吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書。安徳天皇の即位が記されている。

治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年2月21日数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った[2][6]。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った[2]。摂政には藤原基通が任じられた[2]

即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した[2]大嘗祭の為の大嘗宮は紫宸殿の前庭に建てられた[7]寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする[2][8]。この後寿永2年8月20日1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し[9]、元暦元年(1184年)7月28日に即位[10]。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった[11][12]。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっている。

一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、御所も造られた。昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠[注釈 3]及び其の附近なるべし」としている[13]。また、御所が造営されるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたとも伝わる。現在、六萬寺には「高松平家物語歴史館」の閉館に伴い奉納された安徳天皇、二位尼殿の等身大蝋人形が展示されている[14]。結局、安徳天皇と女官たちはこの地に2年弱滞在した。

しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼源義経)によって、平家は一ノ谷の戦い屋島の戦いに敗北[2]。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる[15]。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突[2]。平家軍は敗北し、一門は滅亡に至る[2]。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した[3][5]

平家物語』「先帝身投」の描写では[16]、最期を覚悟して神璽宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている[17][18]

神器の宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「天叢雲剣」の項目を参照のこと)。原型か形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している[19]。その後、後鳥羽~土御門天皇順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした[11][20]

諡号

文治元年(1185年)7月3日、九条兼実の発議により、諡号を贈ることが決まった[21]。文治3年(1187年)4月23日[21]、「安徳帝」と漢風諡号が贈られた[2][3]。平安中期から天皇号は贈られず、院号が用いられていたが、安徳のみには天皇号が贈られている。

系譜

8歳で崩御したため、后妃も皇子女もいない。未婚の男性天皇は清寧天皇六条天皇に次いで3人目で、これ以降は例が無い[注釈 4]

安徳天皇の系譜
16. 第73代 堀河天皇 8. 第74代 鳥羽天皇 17. 藤原苡子 4. 第77代 後白河天皇 18. 藤原公実 9. 藤原璋子 19. 藤原光子 2. 第80代 高倉天皇 20. 平知信(=28) 10. 平時信(=14) 5. 平滋子 22. 藤原顕頼 11. 藤原祐子 23. 藤原忠子 1. 第81代 安徳天皇 24. 平正盛 12. 平忠盛 6. 平清盛 13. 白河院の女房 3. 平徳子 28. 平知信(=20) 14. 平時信(=10) 7. 平時子 15. 二条大宮の半物

系図

77 後白河天皇
78 二条天皇 以仁王 80 高倉天皇 亮子内親王(殷富門院) 式子内親王 覲子内親王(宣陽門院
79 六条天皇 某王(北陸宮 81 安徳天皇 守貞親王(後高倉院) 82 後鳥羽天皇
86 後堀河天皇 83 土御門天皇 84 順徳天皇
87 四条天皇 88 後嵯峨天皇 85 仲恭天皇 忠成王(岩倉宮)

在位中の元号

※平氏側では改元以降も寿永を使用している。

伝説

安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説がある[3]九州四国地方を中心に全国各地に伝承地がある。

主な伝説

東北地方

近畿地方

中国・四国地方

九州地方

後世の作品における逸話

陵・霊廟

宮内庁管理の天皇陵

赤間神宮

赤間神宮小門御旅所(山口県下関市伊崎町2‐11‐1 ご尊骸は中島組のいわし網に引き上げられし)

下関市伊崎町には、壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したという御旅所がある。(みささぎ)は、宮内庁により山口県下関市阿弥陀寺町にある阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ、阿弥陀寺陵)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。天皇を祀る赤間神宮境内に所在する。

壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊(おんれい)を鎮めるため源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられた[2]。御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。『玉葉』によると、後鳥羽天皇の時代に長門国に安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨子に収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置する拝殿に安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。

明治時代廃仏毀釈運動により、阿弥陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下に五輪塔の存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされた(赤間神宮社務所発行『源平合戦絵図』「阿弥陀寺御影堂について」1985年)。赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢[36]にちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている。

のちに安徳天皇は、久留米水天宮福岡県久留米市)の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになった。また皇居では、皇霊殿宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

宮内庁指定の陵墓参考地

安徳天皇西市陵墓参考地(山口県下関市豊田町)下関駅から車で1時間半

安徳天皇越智陵墓参考地(鞠ヶ奈呂陵墓)(高知県高岡郡越知町)

伝・安徳天皇陵

関連作品

テレビドラマ

小説

アニメ

漫画

画像集

脚注

注釈

  1. ^ 弘文天皇(大友皇子)も壬申の乱で落命しているが、明治時代に追号されるまで歴代天皇に数えられず実際に即位したかどうか不明であり、即位が明確な天皇としては安徳天皇のみが該当する。
  2. ^ 『八十一安德。三年。 諱言トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。三。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。入道太政大臣清盛女。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。元年辛丑。七月十四日改元。壽永二年。元年。壬寅五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在二別帖一。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在二別帖一。』
  3. ^ 香川県高松市屋島東町にある安徳天皇社。『史蹟名勝天然記念物調査報告』によれば、古くは壇の浦神社とも言ったという。
  4. ^ 仲恭天皇は4歳で即位し、間もなく廃位されたため在位時には后妃が存在しない。
  5. ^ 『(略)之より尾根傳ひにて二ノ森、三ノ森ヲ經て絶頂に達する、絶頂は平家の馬場と稱され長さ五町ばかりの大草原をなし小笹が密生し周圍には五葉松、白花米ツツジ等の高山植物がある、又傍に安徳天皇の御劒を納めたと傳へられる寶藏石(石灰岩)がある、山上は雲霧の去來するのが常であるが天氣晴朗なれば廣潤なる眺望を恣にする事が出來る、殊に阿讃山脈を越えて瀬戸内海一帯の島山が望見せられるのは最も興味がある 頂上より西北へ五町を下れば大劒神社がある大劒は美くしい石灰岩の突起で谷に面しては高き斷崖をなしてゐる、此處より山腹を斜行すること五、六町で道は二分し木ノ鳥居と狛犬とが置かれてゐる、是より北に下れば見殘に達する、東へ進む事數町で石灰岩の大斷崖下に古劒神社があり更に一町にして兩劒神社がある(以下略)』
  6. ^ 『△信仰の劒山 劍山の信仰は諸國の名山と同じく山岳崇拝に始つたものと思はれるが、安徳天皇が御劍を此山に納めたので、元は太郎山と言ふたのをそれより劒山と改めたと言はれる、劒山に祀れる神佛は富士ノ池では郷社劍神社(劒山本宮)と龍光寺富士ノ池本坊(劍山大權現)とがあり、見殘には郷社劍神社の前堂と圓福寺とがあり劍神社には山上にあり通稱大劍神社と言はれる、劍山本宮は素戔男命及び安徳天皇を祀り末社は古劍神社以下山中の要所々々に祀られてゐる、社殿は敢えて宏壮ではないが享保の頃藩主蜂須賀綱都矩公の造營せられたもので二〇〇年を經たる古建築である(以下略)』
  7. ^ 『千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度(ふたヽび)人間に返らざるも理(ことわり)とこそ覺えけれ。』
  8. ^ 『其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覺ユ。』
  9. ^ 『知盛|今、賎しき御身の上、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給ふ。これと云ふも、父、清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひふらし、權威をもつて御位につて、天道を欺き申せし其の惡逆。積り積りて、一門我が子の身に報ひしか』

出典

  1. ^安徳天皇』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k 歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』
  3. ^ a b c d 名前で読む天皇歴史207-208頁『八一代安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』
  4. ^【夫婦の日本史(44)】高倉天皇と建礼門院徳子(1/2ページ)”. 産経ニュース (2014年2月5日). 2020年10月7日閲覧。
  5. ^ a b 国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕[注釈 2]
  6. ^ 奪われた三種神器18-22頁『平氏の栄光と没落』
  7. ^ 「神社のいろは用語集、祭祀編」監修・神社本庁、扶桑社 p. 266 ISBN 9784594071936
  8. ^ 奪われた三種神器22-24頁『都落ちする平氏―神器の行方』
  9. ^ 奪われた三種神器31-32頁『「如在之儀」と「太上法皇詔書」』
  10. ^ 伊勢神宮と三種神器281頁『神器なきままの新帝即位』
  11. ^ a b 稲田、三種神器198頁『宝剣の補充』
  12. ^ 歴代天皇総覧205-206頁『第八十二代 後鳥羽天皇 一一八〇~一二三九(在位一一八三~一一九八)』
  13. ^ 香川県史蹟名勝天然記念物調査会 編『史蹟名勝天然記念物調査報告』 7巻、香川県、1936年3月、5-16頁。
  14. ^安徳天皇御行在所 六萬寺”. 2022年4月16日閲覧。
  15. ^ 奪われた三種神器34-37頁『安徳天皇入水―宝剣喪失』
  16. ^ 伊勢神宮と三種神器278-279頁『神璽神鏡の京都帰還』
  17. ^ 稲田、三種神器193-194頁『海に消える宝剣』
  18. ^ 伊勢神宮と三種神器280頁〔『吾妻鏡』の記事〕
  19. ^ 奪われた三種神器37-38頁『「国家的プロジェクト」としての宝剣探索』
  20. ^ 奪われた三種神器40-42頁『宝剣代の創出』
  21. ^ a b 森鴎外 1919, p. 188.
  22. ^ 『美馬郡誌』
  23. ^ 徳山新名勝案内コマ102(原本190-191頁)[注釈 5]
  24. ^ 徳山新名勝案内コマ103(原本192-193頁)[注釈 6]
  25. ^ 『硫黄島大権現御本縁』
  26. ^ 鈴木彰「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興-文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P85-113
  27. ^ 奪われた三種神器43-45頁『神器不帯というコンプレックス』
  28. ^ a b c d 稲田、三種神器196-197頁
  29. ^ <#宝文舘、平家>コマ307-308(原本457-458頁)[注釈 7]
  30. ^ <#永井、太平記>コマ69-70(原本127-128頁)
  31. ^ 早稲田、太平記上コマ239-240(原本443-444頁)
  32. ^ 国史大系14巻コマ274(原本532-533頁)〔安徳―後鳥羽〕[注釈 8]
  33. ^ 伊勢神宮と三種神器281-282頁〔『愚管抄』の見解〕
  34. ^ 渡辺1990:82-122ページ参照
  35. ^ <#日本戯曲名作大系1巻>コマ74(原本34頁)〔渡海屋の場、大物浦の場〕より[注釈 9]
  36. ^ 『平家物語』「六道之沙汰」
  37. ^安徳天皇西市御陵墓(参考地)”. 山口県観光サイト. 2025年3月1日閲覧。
  38. ^安徳帝陵墓参考地が8割水没見通し”. 山口新聞 (2025年1月16日). 2025年3月2日閲覧。
  39. ^岡益の石堂(安徳天皇陵墓参考地)”. 公益財団法人 鳥取市文化財団. 2025年3月2日閲覧。
  40. ^民話・神話 平家伝説”. 鳥取県. 2025年3月2日閲覧。
  41. ^花園陵墓参考地”. 宇土市. 2025年3月2日閲覧。
  42. ^安徳天皇陵(陰徳庵)”. 北九州市情報発信強化委員会 (2013年12月20日). 2025年3月1日閲覧。
  43. ^隠蓑 伝 安徳帝 陵”. 北九州市 時と風の博物館 (2019年7月12日). 2025年3月1日閲覧。
  44. ^硫黄島について”. 鹿児島県三島村. 2025年3月1日閲覧。

参考文献

関連項目

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外部リンク

天皇一覧
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奈良時代 43 元明天皇 707-715 44 元正天皇 715-724 45 聖武天皇 724-749 46 孝謙天皇 749-758 47 淳仁天皇 758-764 48 称徳天皇 764-770 49 光仁天皇 770-781
平安時代 50 桓武天皇 781-806 51 平城天皇 806-809 52 嵯峨天皇 809-823 53 淳和天皇 823-833 54 仁明天皇 833-850 55 文徳天皇 850-858 56 清和天皇 858-876 57 陽成天皇 876-884 58 光孝天皇 884-887 59 宇多天皇 887-897 60 醍醐天皇 897-930 61 朱雀天皇 930-946 62 村上天皇 946-967 63 冷泉天皇 967-969 64 円融天皇 969-984 65 花山天皇 984-986 66 一条天皇 986-1011 67 三条天皇 1011-1016 68 後一条天皇 1016-1036 69 後朱雀天皇 1036-1045 70 後冷泉天皇 1045-1068 71 後三条天皇 1068-1072 72 白河天皇 1072-1086 73 堀河天皇 1086-1107 74 鳥羽天皇 1107-1123 75 崇徳天皇 1123-1141 76 近衛天皇 1141-1155 77 後白河天皇 1155-1158 78 二条天皇 1158-1165 79 六条天皇 1165-1168 80 高倉天皇 1168-1180 81 安徳天皇 1180-1185
鎌倉時代 82 後鳥羽天皇 1183-1198 83 土御門天皇 1198-1210 84 順徳天皇 1210-1221 85 仲恭天皇 1221 86 後堀河天皇 1221-1232 87 四条天皇 1232-1242 88 後嵯峨天皇 1242-1246 89 後深草天皇 1246-1259 90 亀山天皇 1259-1274 91 後宇多天皇 1274-1287 92 伏見天皇 1287-1298 93 後伏見天皇 1298-1301 94 後二条天皇 1301-1308 95 花園天皇 1308-1318
南北朝時代 南朝 96 後醍醐天皇 1318-1339 97 後村上天皇 1339-1368 98 長慶天皇 1368-1383 99 後亀山天皇 1383-1392 北朝 北1 光厳天皇 1331-1333 北2 光明天皇 1336-1348 北3 崇光天皇 1348-1351 北4 後光厳天皇 1352-1371 北5 後円融天皇 1371-1382
室町時代 100 後小松天皇 1382-1412 101 称光天皇 1412-1428 102 後花園天皇 1428-1464 103 後土御門天皇 1464-1500 104 後柏原天皇 1500-1526 105 後奈良天皇 1526-1557
安土桃山時代 106 正親町天皇 1557-1586 107 後陽成天皇 1586-1611
江戸時代 108 後水尾天皇 1611-1629 109 明正天皇 1629-1643 110 後光明天皇 1643-1654 111 後西天皇 1654-1663 112 霊元天皇 1663-1687 113 東山天皇 1687-1709 114 中御門天皇 1709-1735 115 桜町天皇 1735-1747 116 桃園天皇 1747-1762 117 後桜町天皇 1762-1770 118 後桃園天皇 1770-1779 119 光格天皇 1779-1817 120 仁孝天皇 1817-1846 121 孝明天皇 1846-1866
現代 122 明治天皇 1867-1912 123 大正天皇 1912-1926 124 昭和天皇 1926-1989 125 明仁 1989-2019 126 徳仁 2019-
前の数字は代数。南朝を正統とする。 名前の赤背景は女性天皇。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。 カテゴリ