近衛天皇とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
近衛天皇 | |
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第76代天皇 | |
在位期間1142年1月5日 - 1155年8月22日永治元年12月7日 - 久寿2年7月23日 | |
即位礼 | 1142年1月25日(永治元年12月27日) |
大嘗祭 | 1142年12月3日(康治元年11月15日) |
元号 | 永治康治天養久安仁平久寿 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 崇徳天皇 |
次代 | 後白河天皇 |
誕生 | 1139年6月16日(保延5年5月18日) |
崩御 | 1155年8月22日(久寿2年7月23日)近衛殿 |
陵所 | 安楽寿院南陵 |
追号 | 近衛院(近衛天皇) |
諱 | 躰仁 |
元服 | 1150年2月3日(久安6年1月4日) |
父親 | 鳥羽天皇 |
母親 | 藤原得子(美福門院) |
皇后 | 藤原多子 |
中宮 | 藤原呈子(九条院) |
皇居 | 近衛殿 |
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近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近󠄁衞天皇、1139年6月16日〈保延5年5月18日〉- 1155年8月22日〈久寿2年7月23日〉[1])は、日本の第76代天皇(在位: 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉- 1155年8月22日〈久寿2年7月23日〉)。諱は躰仁(なりひと)[注釈 1]。
来歴
治天の君であった鳥羽上皇と、寵妃の得子(美福門院)の皇子として生まれる。父の鳥羽上皇に即位を望まれ、生後1か月余りの6月27日、異母兄の崇徳天皇と中宮・藤原聖子の養子となり、天皇の御所・小六条殿に参入。同年7月16日に親王宣下され、8月17日に立太子。翌々年の永治元年(1141年)12月、わずか3歳(満2歳5か月)で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。在位中は鳥羽法皇が院政を敷いた。
久安6年(1150年)1月4日、12歳で元服。同月10日、内覧・藤原頼長の養女の多子(11歳)が入内、19日に女御となり、3月14日に立后、皇后となった。しかし、4月21日に関白・藤原忠通の養女の呈子(20歳)も入内して、6月22日に立后、中宮となる。呈子は美福門院の養女ともなっていたので、美福門院は呈子の早期出産を期待していた。仁平2年(1152年)に呈子は懐妊の兆候を見せ内裏を退出するが、これは周囲の期待に促された想像妊娠であったらしく、出産予定の翌年3月をはるかに過ぎても何の気配もなかった[2]。
この騒動が終わった仁平3年(1153年)、15歳の近衛天皇はこの頃から著しく病気がちであり、同年には一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げたという[3]。ところが、当時は近衛天皇に面会できたのは忠通らごくわずかで面会が出来なかった鳥羽法皇は忠通が嘘をついていると考えていた[4]。病弱な上に17歳で早世したため結局、皇子女は生まれなかった。
久寿2年(1155年)7月23日、御所としていた近衛殿において崩御。その夜、後継天皇を決める議定が開かれ、崇徳上皇の皇子で美福門院の養子でもある重仁親王が有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁王(後の二条天皇)への中継ぎとして、その父の雅仁親王(後白河天皇)が即位することになった。鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。
前述の通り、近衛天皇の健康情報は忠通が独占していたために数年前からの健康悪化は知られておらず、近衛天皇の崩御は左大臣・藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが朕を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため朕は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べたので、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという[5]。なお、美川圭はこの噂を流したのは藤原忠通ではないかとしている[6]。
系譜
近衛天皇の系譜 |
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16. 第71代 後三条天皇 8. 第72代 白河天皇 17. 藤原茂子 4. 第73代 堀河天皇 18. 源顕房 9. 藤原賢子 19. 源隆子 2. 第74代 鳥羽天皇 20. 藤原公成 10. 藤原実季 21. 藤原定佐女 5. 藤原苡子 22. 藤原経平(=26) 11. 藤原睦子 1. 第76代 近衛天皇 24. 藤原隆経 12. 藤原顕季 25. 藤原親子 6. 藤原長実 26. 藤原経平(=22) 13. 藤原経平女 3. 藤原得子 28. 源師房 14. 源俊房 29. 藤原尊子 7. 源方子 |
系図
71 後三条天皇 | ||||
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72 白河天皇 | 実仁親王 | 輔仁親王 | 篤子内親王 | |
73 堀河天皇 | 覚行法親王 | 覚法法親王 | 媞子内親王(郁芳門院) | 源有仁(有仁王) |
74 鳥羽天皇 | 最雲法親王 | |||
75 崇徳天皇 | 77 後白河天皇 | 76 近衛天皇 |
后妃
- 皇后:藤原多子(1140年 - 1201年) - 右大臣藤原公能女、左大臣藤原頼長養女、のち二条天皇后妃
- 中宮:藤原呈子(1131年 - 1176年) - 太政大臣藤原伊通女、摂政関白太政大臣藤原忠通養女
在位中の元号
- 永治 - 元年12月7日(1142年1月5日)践祚、2年4月27日(1142年5月25日)即位により康治に改元
- 康治 - 3年2月23日(1144年3月28日)甲子革令により天養に改元
- 天養 - 2年7月22日(1145年8月12日)彗星出現により久安に改元
- 久安 - 7年1月26日(1151年2月14日)暴風・洪水により仁平に改元
- 仁平 - 4年10月28日(1154年12月4日)厄運により久寿に改元
- 久寿 - 2年7月23日(1155年8月22日)崩御
諡号・追号
『兵範記』久寿2年7月27日条によると、葬礼の準備が進められる中で院号定があり、まず右大弁・藤原朝隆が「近衛院」を提案した。院号は邸宅に因むという原則があり、近衛殿は天皇の里内裏だった。しかし花山院忠雅は近衛の字は追号に憚りがあるので「後陽明門院」ではどうかと発言した。忠雅はその理由を述べていないが、「近衛とは天皇の護衛兵であり院号にふさわしくない」「それならば近衛大路に通じ、別称でもある陽明門が良い」「陽明門院は禎子内親王の院号として既に使用されているので、後の字を付けて区別する」という発想があったと推測される。これに対して中御門宗能は「天皇と天皇ならば前後の字があるべきだが、天皇と国母、男女の間では前後の字を付けた例はない」と反論。これにより「後陽明門院」や「陽明門院」は撤回され、当初の「近衛院」に決定した。
陵・霊廟
安楽寿院南陵
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある安樂壽院南陵(安楽寿院南陵:あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)に治定されている[7]。ここは京都南郊で、鳥羽と称された一帯に位置し、鳥羽法皇が離宮内に自らや家族の墓所として設定していた場所でもある。鳥羽法皇は保延5年(1139年)に自らの墓所として安楽寿院の境内に三重塔(本御塔)を建てて遺言通りにそこに葬られたが、久安4年(1148年)頃には皇后の藤原得子(美福門院)の墓所として三重塔(新御塔)も建てていた。しかし、得子は遺骸をそこに葬られるのを拒否し、遺言通りに遺骨は高野山に納められた。そのために新御塔は「空いたまま」となっていたが、長寛元年(1163年)になって知足院にあった近衛天皇の遺骨をここに移して新たに納めることとなった。この改葬を主導したのは、二条天皇(元の守仁王)と言われている。保元・平治の乱を経て治天の君を地位を巡って後白河上皇と二条天皇が父子間の争いを繰り広げており、鳥羽法皇・美福門院の意向でその後継者となったと自負する天皇が、義兄である近衛天皇の陵墓を鳥羽離宮内に置くことで自身の立場を強く主張しようとしたと考えられている[8]。
近衛陵は宮内庁上の形式では多宝塔となり、これは歴代天皇陵では唯一である。当初は三重塔であった新御塔であるが、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震で倒壊してしまい、豊臣秀頼の命により多宝塔として再建された[9]。
また皇居では、宮中三殿の一つ皇霊殿において、他の歴代天皇や皇族とともに近衛天皇の霊が祀られている。
勅願所
関連伝説
- 大阪府池田市伏尾の久安寺について、『摂津名所図会』の巻六・豊島群(てしまのこおり)の久安寺の項に書かれた伝説によれば、「鳥羽天皇の御世、賢実上人が久安寺において皇后の安産祈願を行い、その結果、皇后は懐妊して後の近衛天皇をお産みになられた。そのためこの地は不死王村と呼ばれるようになり、不死王村が転じて伏尾になった」という。
関連作品
テレビドラマ
脚注
注釈
出典
- ^ 『近衛天皇』 - コトバンク
- ^ 『台記』仁平3年9月14日条
- ^ 『台記』仁平3年9月23日条
- ^ 樋口健太郎「中世前期の摂関家と天皇」『日本史研究』618号、2014年。/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年、28-30頁。ISBN 978-4-642-02948-3。
- ^ 『台記』久寿2年8月27日条
- ^ 美川圭「崇徳院生誕問題の歴史的背景」『古代文化』第56巻第10号、2004年。 /所収:美川圭『院政期の都市京都と政治』吉川弘文館、2024年8月、78-102頁。ISBN 978-4-642-02989-6。
- ^ 天皇陵(宮内庁)
- ^ 美川圭 著「鳥羽殿の成立」、上横手雅敬 編『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館、2001年。 /所収:美川圭『院政期の都市京都と政治』吉川弘文館、2024年8月、12-39頁。ISBN 978-4-642-02989-6。
- ^ 【悠久の天皇陵】(25)近衛陵/唯一の「多宝塔」に眠る『産経新聞』朝刊2018年11月14日(社会面)。
- ^ 『寺院大図鑑(天台宗兵庫教区)』
表話編歴![]() ![]() |
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伝承の時代古墳時代 | 1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝霊天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇 11 垂仁天皇 12 景行天皇 13 成務天皇 14 仲哀天皇 15 応神天皇 16 仁徳天皇 17 履中天皇 18 反正天皇 19 允恭天皇 20 安康天皇 21 雄略天皇 22 清寧天皇 23 顕宗天皇 24 仁賢天皇 25 武烈天皇 26 継体天皇 507?-531? 27 安閑天皇 531?-535? 28 宣化天皇 535?-539? 29 欽明天皇 539?-571? 30 敏達天皇 572?-585? 31 用明天皇 585?-587? 32 崇峻天皇 587?-592? | ![]() |
飛鳥時代 | 33 推古天皇 592-628 34 舒明天皇 629-641 35 皇極天皇 642-645 36 孝徳天皇 645-654 37 斉明天皇 655-661 38 天智天皇 661-671 39 弘文天皇 671-672 40 天武天皇 673-686 41 持統天皇 686-697 42 文武天皇 697-707 | |
奈良時代 | 43 元明天皇 707-715 44 元正天皇 715-724 45 聖武天皇 724-749 46 孝謙天皇 749-758 47 淳仁天皇 758-764 48 称徳天皇 764-770 49 光仁天皇 770-781 | |
平安時代 | 50 桓武天皇 781-806 51 平城天皇 806-809 52 嵯峨天皇 809-823 53 淳和天皇 823-833 54 仁明天皇 833-850 55 文徳天皇 850-858 56 清和天皇 858-876 57 陽成天皇 876-884 58 光孝天皇 884-887 59 宇多天皇 887-897 60 醍醐天皇 897-930 61 朱雀天皇 930-946 62 村上天皇 946-967 63 冷泉天皇 967-969 64 円融天皇 969-984 65 花山天皇 984-986 66 一条天皇 986-1011 67 三条天皇 1011-1016 68 後一条天皇 1016-1036 69 後朱雀天皇 1036-1045 70 後冷泉天皇 1045-1068 71 後三条天皇 1068-1072 72 白河天皇 1072-1086 73 堀河天皇 1086-1107 74 鳥羽天皇 1107-1123 75 崇徳天皇 1123-1141 76 近衛天皇 1141-1155 77 後白河天皇 1155-1158 78 二条天皇 1158-1165 79 六条天皇 1165-1168 80 高倉天皇 1168-1180 81 安徳天皇 1180-1185 | |
鎌倉時代 | 82 後鳥羽天皇 1183-1198 83 土御門天皇 1198-1210 84 順徳天皇 1210-1221 85 仲恭天皇 1221 86 後堀河天皇 1221-1232 87 四条天皇 1232-1242 88 後嵯峨天皇 1242-1246 89 後深草天皇 1246-1259 90 亀山天皇 1259-1274 91 後宇多天皇 1274-1287 92 伏見天皇 1287-1298 93 後伏見天皇 1298-1301 94 後二条天皇 1301-1308 95 花園天皇 1308-1318 | |
南北朝時代 | 南朝 96 後醍醐天皇 1318-1339 97 後村上天皇 1339-1368 98 長慶天皇 1368-1383 99 後亀山天皇 1383-1392 北朝 北1 光厳天皇 1331-1333 北2 光明天皇 1336-1348 北3 崇光天皇 1348-1351 北4 後光厳天皇 1352-1371 北5 後円融天皇 1371-1382 | |
室町時代 | 100 後小松天皇 1382-1412 101 称光天皇 1412-1428 102 後花園天皇 1428-1464 103 後土御門天皇 1464-1500 104 後柏原天皇 1500-1526 105 後奈良天皇 1526-1557 | |
安土桃山時代 | 106 正親町天皇 1557-1586 107 後陽成天皇 1586-1611 | |
江戸時代 | 108 後水尾天皇 1611-1629 109 明正天皇 1629-1643 110 後光明天皇 1643-1654 111 後西天皇 1654-1663 112 霊元天皇 1663-1687 113 東山天皇 1687-1709 114 中御門天皇 1709-1735 115 桜町天皇 1735-1747 116 桃園天皇 1747-1762 117 後桜町天皇 1762-1770 118 後桃園天皇 1770-1779 119 光格天皇 1779-1817 120 仁孝天皇 1817-1846 121 孝明天皇 1846-1866 | |
近現代 | 122 明治天皇 1867-1912 123 大正天皇 1912-1926 124 昭和天皇 1926-1989 125 明仁 1989-2019 126 徳仁 2019- | |
前の数字は代数。南朝を正統とする。 名前の赤背景は女性天皇。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。 ![]() |