読み方:さいめいてんのう[594〜661]第37代天皇のこと。Weblio国語辞典では「斉明天皇」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。">

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皇極天皇」と「宝皇女」はこの項目へ転送されています。

皇極天皇斉明天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「斉明天皇」
第35代天皇 第37代天皇
在位期間 皇極天皇642年2月19日 - 645年7月12日皇極天皇元年1月15日 - 皇極天皇4年6月14日斉明天皇655年2月14日 - 661年8月24日斉明天皇元年1月3日 - 斉明天皇7年7月24日
時代 飛鳥時代
先代 舒明天皇(第34代)孝徳天皇(第36代)
次代 孝徳天皇(第36代)天智天皇(第38代)
誕生 西暦594年
崩御 661年8月24日
陵所 越智崗上陵
漢風諡号 皇極天皇(第35代)斉明天皇(第37代)
和風諡号 天豊財重日足姫天皇
寶(宝)
父親 茅渟王敏達天皇皇孫)
母親 吉備姫王欽明天皇皇孫)
子女 漢皇子天智天皇間人皇女天武天皇
皇居 皇極天皇: 1. 飛鳥板蓋宮斉明天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 2. 飛鳥川原宮 3. 飛鳥後岡本宮 4. 飛鳥田中宮 5. 朝倉橘広庭宮
女帝。皇極天皇が重祚して斉明天皇。
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宝皇女
第34代天皇后
在位期間630年3月1日 ‐ 641年11月17日舒明天皇2年1月12日 ‐ 舒明天皇13年10月9日
皇后 630年3月1日(舒明天皇2年1月12日)(大后)
配偶者 舒明天皇
高向王
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皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう、旧字体齊明天皇594年推古天皇2年〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)は、日本の第35代天皇(在位:642年2月19日〈皇極天皇元年1月15日〉- 645年7月12日〈皇極天皇4年6月14日〉)および第37代天皇(在位:655年2月14日〈斉明天皇元年1月3日〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)。

舒明天皇皇后で、天智天皇間人皇女孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から1代おいて即位した女帝女性天皇)になる。

諱・諡号

寶女王(たからのひめみこ/たからのおおきみ、新字体:宝女王)、または寶皇女(読みは同じ、新字体:宝皇女)。後者の諱の表記の方が一般化しているが、これは後世の尊称とみられている。

日本書紀』及び『藤氏家伝』によると孝徳天皇譲位した後、重祚する前は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と呼ばれた[注釈 1]。また『万葉集』の中皇命(なかつすめらみこと)を斉明天皇とする説もある[注釈 2]

和風諡号天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと、新字体:天豊財重日足姫天皇)。漢風諡号の「皇極天皇」「斉明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる[注釈 3]

略歴

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天皇系図 26~37代

天皇系図 38~50代

茅渟王の第一王女。母は吉備姫王敏達天皇の皇曾孫にあたる。

はじめ高向王用明天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。

後に舒明天皇2年1月12日630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)間人皇女孝徳天皇皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。

舒明天皇13年10月9日641年11月17日)、 舒明天皇崩御する。

皇極天皇としての即位

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、推古天皇の時と同様、中継する女帝として皇極天皇元年642年1月15日皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行った。在位中は、蘇我蝦夷大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。

皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。同年7月22日(8月22日)に百済の使節、平智積(へいちしゃく)らを饗応し、健児に命じて、翹岐の目の前で相撲をとらせた。これが記紀上初の相撲節会の記述となる。同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が南淵の河上にて跪き四方を拝み、[1]天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。このことを民衆が称えて「至徳まします大王」と呼ばれた。同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じる。同年12月21日(643年1月16日)、小墾田宮に遷幸。

皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害。

乙巳の変

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが皇極天皇がいる中で宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲った。日本史上初の天皇の**譲位退位)**とされる。

新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号が奉られた。

孝徳天皇の時代

重祚

孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即いた(史上初の重祚[注釈 4]。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、運河である「狂心渠」を作るなど、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。

斉明天皇元年には、高句麗百済[注釈 5]新羅[注釈 6]が使を遣わして朝貢してきた。また、蝦夷隼人も衆を率いて内属し、朝献した。

有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。なお、研究者の中には、これらの工事を飛鳥盆地とその周辺を宮都として整備する構想の一環であったとする見解もある(→飛鳥京[2]

対外政策

対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、にも使者を遣わした。

蝦夷平定

日本書紀』では、北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送って「後方羊蹄(シリベシ)」に至り、政所を置き郡領を任命して帰った[3]とある。さらに「幣賄弁島(へろべのしま)」まで出兵し、能登馬身龍が戦死するも**粛慎 (みしはせ)**に勝利したと伝える。「後方羊蹄」については、余市説[注釈 7][4]後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡[注釈 8]のほか、松浦武四郎尻別川流域説など諸説ある。「幣賄弁島」については粛慎の本拠地である樺太とする説[5]や、奥尻島とする説などがある。北海道ではなく、青森に比定する説も強く、定説は存在しない。

遺伝子分析の結果[6][7]から、ニヴフとオホーツク文化人遺跡で発掘された遺骨の調査により、オホーツク文化人がニブフと類縁である。粛慎 (みしはせ)がオホーツク文化人と推測する説があるが、確証はなく、推論の域を出ない。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。

朝鮮半島への軍事介入

在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、新羅の連合軍に敗北した。

直木孝次郎は斉明天皇のこれらの動向について、記紀における神功皇后三韓征伐説話のモデルになったのではないかと推測している[8]

年譜

※前節に記載されたものを除く。

この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は当時「狂心の渠」と揶揄された[9]

在位中の重臣一覧

年月日(西暦) 左大臣 右大臣 内臣
斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) 巨勢徳多(留任) 中臣鎌足(留任)
斉明天皇4年1月13日(658年2月20日) 中臣鎌足

系図

斉明天皇の系譜
16. 第29代 欽明天皇(=12) 8. 第30代 敏達天皇 17. 石姫皇女 4. 押坂彦人大兄皇子 18. 息長真手王 9. 広姫 2. 茅渟王 5. 大俣王 1. 第35代 皇極天皇第37代 斉明天皇 24. 第26代 継体天皇 12. 第29代 欽明天皇 (=16) 25. 手白香皇女 6. 桜井皇子 26. 蘇我稲目 13. 蘇我堅塩媛 3. 吉備姫王
27 安閑天皇 28 宣化天皇 29 欽明天皇
石姫皇女(欽明天皇后) 上殖葉皇子 30 敏達天皇 31 用明天皇 33 推古天皇 32 崇峻天皇 穴穂部間人皇女
大河内稚子媛(宣化天皇后) 十市王 押坂彦人大兄皇子 春日皇子 大派皇子 難波皇子 聖徳太子(厩戸皇子) 来目皇子 当麻皇子 殖栗皇子
火焔皇子 多治比古王 茅渟王 栗隈王 山背大兄王
多治比嶋多治比氏 35 皇極天皇37 斉明天皇 36 孝徳天皇 美努王
有間皇子 橘諸兄(葛城王)〔橘氏

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡高取町大字車木にある越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「車木ケンノウ古墳」で、直径約45メートルの円墳である。

ただし、研究者の間では明日香村の**牽牛子塚古墳**が陵墓として有力視されており[10]、そのほか同村の岩屋山古墳橿原市の小谷古墳も候補としてあげられている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

研究

皇后冊立

河内祥輔は、舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女も妃にいたにもかかわらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、天智天皇の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする説を採る[11]

また、仮説としながらも寶女王の天皇在位を斉明天皇としてのみとして、舒明天皇崩御後から孝徳天皇即位までは内乱による天皇空位期であり、上宮王家滅亡から古人大兄皇子殺害までの「事件」は内乱による「戦い」であった可能性を指摘している[11]

乙巳の変と皇極王権否定説

乙巳の変はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の王殺しとする[12]。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極の実子であり実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極は殺害される代わりに強制的に退位を選ばせざるを得ない状況に追い込まれた。ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄は最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。

だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄は百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたとする[12]

伝承

善光寺縁起』によれば、皇極天皇は一度崩御し、地獄に向かっていたところを本多善光の息子の善佐と阿弥陀如来に助けられた。現世に戻ると、本多善光と善佐を甲斐信濃の国司とし、信濃に如来をまつるための御堂を建立した。これが善光寺の始まりとされる[13]

在位年と西暦との対照表

脚注

注釈

  1. ^ 斉明天皇は孝徳天皇の姉であるが義理の母でもある。皇極天皇2年(643年)に亡くなった斉明天皇の母の吉備姫王も吉備島皇祖母命(きびのしまのすめみおやのみこと)と呼ばれ、天智天皇3年(664年)に亡くなった舒明天皇の母の糠手姫皇女も嶋皇祖母命と呼ばれた。
  2. ^ 間人皇女とする説もある。
  3. ^ 諡号に「皇」が含まれるのは異例であるが、上記の「皇祖母尊」の影響が考えられる。
  4. ^ この62歳での即位は光仁天皇と並ぶ高齢記録だが、斉明天皇は重祚であるため最高齢記録として捉えられることは稀である。
  5. ^ 百済の大使は余宜受、副使は調信仁で、総員100余人であった。
  6. ^ 新羅は弥武を人質にし、別に12人を才伎人にしたが、弥武は病死。
  7. ^ 地方史研究所編「余市」に瀧川政次郎「後方羊蹄」=余市説
  8. ^ 北海道歴史家協議会編「歴史家―第四号」河野廣道 胆振鉏=勇払又は江別、後方羊蹄=江別と苫小牧の間とする説など。

出典

  1. ^ 四方拝の起源とされる。
  2. ^ 木下正史『古代の漏刻と時刻制度』(吉川弘文館、2020年)P363-375.
  3. ^ 苫小牧駒澤大学:駒大在学生応援:インターネット講座■ 第4回 北海道と胆振地方の古代史アーカイブ
  4. ^ 余市町でおこったこんな話 その158「『余市』の刊行と阿倍比羅夫(その2)」|まちの紹介 |北海道余市町ホームページ
  5. ^ 西鶴定嘉『樺太史の栞』( 樺太庁、1941年)
  6. ^ 消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査。朝日新聞2009年2月4日
  7. ^ オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー 北海道新聞2012年6月18日朝刊
  8. ^ 直木孝次郎『神話と歴史』(吉川弘文館、2006年)
  9. ^ 奈良県立図書情報館長・帝塚山大学特別客員教授 千田稔 (2014年4月8日). “斉明天皇(3)「狂心」と非難された無謀な運河開削”. 産経WEST. 産経新聞. 2016年2月3日閲覧。
  10. ^ “帝斉明天皇の陵墓と特定 奈良・牽牛子塚古墳” (日本語). 47NEWS (共同通信). (2010年9月9日). https://web.archive.org/web/20100911052544/http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010090901000532.html 2010年9月9日閲覧。
  11. ^ a b 河内祥輔 『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)P54-60
  12. ^ a b 佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6
  13. ^ 『善光寺縁起ものがたり』光竜堂、2009年4月1日、144-154頁。

関連項目

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外部リンク

天皇一覧
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飛鳥時代 33 推古天皇 592-628 34 舒明天皇 629-641 35 皇極天皇 642-645 36 孝徳天皇 645-654 37 斉明天皇 655-661 38 天智天皇 661-671 39 弘文天皇 671-672 40 天武天皇 673-686 41 持統天皇 686-697 42 文武天皇 697-707
奈良時代 43 元明天皇 707-715 44 元正天皇 715-724 45 聖武天皇 724-749 46 孝謙天皇 749-758 47 淳仁天皇 758-764 48 称徳天皇 764-770 49 光仁天皇 770-781
平安時代 50 桓武天皇 781-806 51 平城天皇 806-809 52 嵯峨天皇 809-823 53 淳和天皇 823-833 54 仁明天皇 833-850 55 文徳天皇 850-858 56 清和天皇 858-876 57 陽成天皇 876-884 58 光孝天皇 884-887 59 宇多天皇 887-897 60 醍醐天皇 897-930 61 朱雀天皇 930-946 62 村上天皇 946-967 63 冷泉天皇 967-969 64 円融天皇 969-984 65 花山天皇 984-986 66 一条天皇 986-1011 67 三条天皇 1011-1016 68 後一条天皇 1016-1036 69 後朱雀天皇 1036-1045 70 後冷泉天皇 1045-1068 71 後三条天皇 1068-1072 72 白河天皇 1072-1086 73 堀河天皇 1086-1107 74 鳥羽天皇 1107-1123 75 崇徳天皇 1123-1141 76 近衛天皇 1141-1155 77 後白河天皇 1155-1158 78 二条天皇 1158-1165 79 六条天皇 1165-1168 80 高倉天皇 1168-1180 81 安徳天皇 1180-1185
鎌倉時代 82 後鳥羽天皇 1183-1198 83 土御門天皇 1198-1210 84 順徳天皇 1210-1221 85 仲恭天皇 1221 86 後堀河天皇 1221-1232 87 四条天皇 1232-1242 88 後嵯峨天皇 1242-1246 89 後深草天皇 1246-1259 90 亀山天皇 1259-1274 91 後宇多天皇 1274-1287 92 伏見天皇 1287-1298 93 後伏見天皇 1298-1301 94 後二条天皇 1301-1308 95 花園天皇 1308-1318
南北朝時代 南朝 96 後醍醐天皇 1318-1339 97 後村上天皇 1339-1368 98 長慶天皇 1368-1383 99 後亀山天皇 1383-1392 北朝 北1 光厳天皇 1331-1333 北2 光明天皇 1336-1348 北3 崇光天皇 1348-1351 北4 後光厳天皇 1352-1371 北5 後円融天皇 1371-1382
室町時代 100 後小松天皇 1382-1412 101 称光天皇 1412-1428 102 後花園天皇 1428-1464 103 後土御門天皇 1464-1500 104 後柏原天皇 1500-1526 105 後奈良天皇 1526-1557
安土桃山時代 106 正親町天皇 1557-1586 107 後陽成天皇 1586-1611
江戸時代 108 後水尾天皇 1611-1629 109 明正天皇 1629-1643 110 後光明天皇 1643-1654 111 後西天皇 1654-1663 112 霊元天皇 1663-1687 113 東山天皇 1687-1709 114 中御門天皇 1709-1735 115 桜町天皇 1735-1747 116 桃園天皇 1747-1762 117 後桜町天皇 1762-1770 118 後桃園天皇 1770-1779 119 光格天皇 1779-1817 120 仁孝天皇 1817-1846 121 孝明天皇 1846-1866
現代 122 明治天皇 1867-1912 123 大正天皇 1912-1926 124 昭和天皇 1926-1989 125 明仁 1989-2019 126 徳仁 2019-
前の数字は代数。南朝を正統とする。 名前の赤背景は女性天皇。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。 カテゴリ
日本の皇后
伝承の時代古墳時代 媛蹈鞴五十鈴媛命 五十鈴依媛命 渟名底仲媛命 天豊津媛命 世襲足媛 押媛命 細媛命 欝色謎命 伊香色謎命 御間城姫 狭穂姫命 日葉酢媛命 播磨稲日大郎姫 八坂入媛命 気長足姫尊 仲姫命 磐之媛命 八田皇女 草香幡梭皇女 忍坂大中姫 中蒂姫命 草香幡梭姫皇女 難波小野王 春日大娘皇女 春日娘子 手白香皇女507?-539? 春日山田皇女534?-539? 橘仲皇女535?-539? 石姫皇女540?-572? 広姫575? 額田部皇女577?-592 穴穂部間人皇女585?-622
飛鳥時代 宝皇女630-642 間人皇女645-665 倭姫王668-? 鸕野讚良皇女673-690
奈良時代 藤原安宿媛729-749 井上内親王770-772
平安時代 藤原乙牟漏783-790 藤原帯子806贈 橘嘉智子815-823 高志内親王823贈 正子内親王827-833 藤原穏子923-931 藤原安子958-964 昌子内親王967-973 藤原媓子973-979 藤原遵子982-1000 藤原定子990-1000 藤原彰子1000-1012 藤原妍子1012-1018 藤原娍子1012-1025 藤原威子1018-1036 禎子内親王1037-1051 藤原嫄子1037-1039 章子内親王1046-1068 藤原寛子1051-1069 藤原歓子1068-1074 馨子内親王1069-1093 藤原賢子1074-1084 媞子内親王1091-1093 篤子内親王1093-1114 令子内親王1107-1134 藤原璋子1118-1124 藤原聖子1130-1141 藤原泰子1134-1139 藤原得子1141-1149 藤原多子1150-1156 藤原呈子1150-1158 藤原忻子1156-1172 統子内親王1158-1159 姝子内親王1159-1162 藤原育子1162-1173 平徳子1172-1181 亮子内親王1182-1187
鎌倉時代 九条任子1190-1200 範子内親王1198-1206 大炊御門麗子1205-1210 昇子内親王1208-1209 九条立子1211-1222 邦子内親王1221-1224 三条有子1223-1227 近衛長子1226-1229 藤原竴子1230-1233 利子内親王1233-1239 西園寺姞子1242-1246 曦子内親王1248-1251 西園寺公子1257-1259 洞院佶子1261-1272 西園寺嬉子1261-1267 姈子内親王1285-1291 西園寺鏱子1288-1298 徳大寺忻子1303-1308 奨子内親王1319 西園寺禧子1319-1333
南北朝時代 南朝 珣子内親王1333-1337 西園寺公重女1372頃-1377以後 北朝 珣子内親王(1336-1337)
室町時代 (立后無し)
安土桃山時代 (立后無し)
江戸時代 徳川和子1624-1629 鷹司房子1683-1687 幸子女王1708-1710 欣子内親王1794-1820 鷹司繋子1824贈
現代 一条美子1868-1912 九条節子1912-1926 良子女王1926-1989 正田美智子1989-2019 小和田雅子2019-在位中
赤背景は後に即位した女帝 橙色は准母立后による尊称皇后 緑色は薨去後の贈皇后 一覧 カテゴリ