TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹 (original) (raw)
6月大阪文楽鑑賞教室公演、前期日程を鑑賞。
隣の席のおじちゃん二人組(文楽歴40年は超えてそう)が、解説コーナーに大はしゃぎしていた。冒頭からなんだが、こういうおおらかでポジティブなメンタリティでないと、文楽は見続けられないのかもと思った。
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五条橋。
- 前半日程・午前の部
- 前半日程・午後の部
午前の弁慶・玉翔さんは、出からしばらくは良いのだが、相手役に引きずられすぎるのが惜しい。相手が曲に合わせた演技ができないのであれば、逆に自分が曲にあわせてしっかり動き、つられるように仕向けてほしい。自分が先回りして長刀を出して相手に打たせるとか。周囲の若い子をよく見ているということだろうが、そこは「おにいさん」として引っ張らなくては。とマジレスしそうになった。やっぱり、ある程度年とってくると、舞台全体へ貢献できるかとか、重要だと思うんだよな。
午後の部・牛若丸の簑太郎さん、冷静だよなーと思う。なにが冷静って、自分の師匠や同門の先輩だけじゃなく、ほかの人を見て勉強してるんだろうなという点。でなければ、ああいう所作にはなり得ないと思う。あの立場ならもっと増長してもおかしくないのに、落ち着いてるなと思う。牛若丸としての良し悪しは別として、そう思った。
玉路さんは弁慶初役のようだが、見えない。相当準備していると見える。慎重さは出てしまっているといえど、かえって僧侶らしい品と知性があり、なんなら前期日程『五条橋』で一番上手いまである。長刀の扱いもとても綺麗。師匠、見習って〜。
見よ、この弁慶〈吉田玉路〉の姿勢の良さ。
\舞台写真公開!/
文楽鑑賞教室では『五条橋』と『三十三間堂棟由来』を上演中✨
本日はその中から『五条橋』の舞台写真をご紹介!
源義経と武蔵坊弁慶の二人の立ち廻りに注目です👀
※大人のための文楽入門及びDiscoverBUNRAKUでは五条橋の上演はございません。
詳細は▶https://t.co/ri49w2dFmE pic.twitter.com/72eQW153wx— 国立文楽劇場(大阪・日本橋) (@nbt_osaka) June 9, 2025
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解説。
- 前半日程・午前の部=吉田簑太郎
- 前半日程・午後の部=桐竹勘次郎
最近思うのが、体験コーナーに結構筋の良い子が混じっていること。私が観劇したある回、足遣いを担当した少年は、足の踏み出しをすべてまっすぐ綺麗に下ろしていた。模範演技を一回見てコツを理解したということだろうが、すごすぎん? 「お前はパパイヤの化けもんか?」みたいな足を日頃拝見仕っている私としては、ここはひとつ、文楽劇場の地縛霊として、「いよっ、日本一の立派な足〜〜〜!」とか掛け声かけたほうがいいのカナ🙇🏻と思いながら見た。
てかさ、解説係も、「足の踏み出し方、いいね〜!」「三人とも息あってるね〜!」とか、まずはその子らのいいとこ見つけて褒めようよ。毎回かならず「ぎこちないですね〜笑」とか言ってるけど、ただのセリフでしかない。そんなこと言い出したら、解説でいつもやってる口アキの文七の大嗤い、客前に出せるレベルになってないやん。頑張ってる若い子を茶化すの、やめよや。鑑賞教室のこういった面、いまの社会常識から「遅れすぎ」で、恥ずかしい。
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三十三間堂棟由来、平太郎住家より木遣り音頭の段。
- 前半日程・午前の部
- 前半日程・午後の部
玉志さんは2021年鑑賞教室同演目に続き平太郎へ配役。今回は最初からハッキリと武士に寄せ、目線や所作をかなり強めに打ち出していた。2021年上演時は、「平太郎住家」のあいだ、浄瑠璃の文章に寄せにいきすぎて、逆に人物像がぼけているように感じた。当時は「木遣音頭」のみ武士として遣っており、そこだけ急に良くなっていたことを覚えている。それを考慮すると、「平太郎住家」の時点で得意な武士の性根に寄せたのは、舞台映えとしてはきわめて正しい。というか、「平太郎は本来弓矢に秀でた武士」ということを短時間で表現するには、これくらいの見せ方のほうが良い。むろんこれが武士の演技だとわかるのは文楽劇場客席に湧くツメ人形だけなのだが、ここまで端正に遣っていれば、なんも知らん人にもシャキッとした雰囲気は伝わる。
「平太郎住家」でお柳が去ったあと、目線を上げめにして、かしらを軽く左右に揺すりながら足を踏む動きをしていた。これ、「寺子屋」の松王丸のいろはのくだりでもいつもやっていて、独特なやっちゃなと思っていたけど、玉志さん的にはやっぱり、浄瑠璃に乗って「ぽろん、ぽろんと泣いている」表現なんだなと思った。
「木遣り音頭」の段切の棒足が、面白いくらいバチバチに決まっていた。人形全体の位置を大幅に下げ、右足の膝を曲げずにまっすぐ伸ばし、手すりの下へ大幅に差し出すという手法。人形全体がスラリと見える。平太郎は左肩にみどり丸を乗せて決まるので、人形の位置を下げること自体は合理的だが、この下目の棒足のおかげで、かなり華やかに決まっていた。平太郎は「木遣り音頭」のみ人形を差し替えて、武士の髪型・装束で出る場合があるが、その場合ならともかく、その格好でそこまでの華麗な棒足、ありなんだ!?!!???と思った。
こういった華麗さを押し出す棒足、役の性根にもよるが、玉志さんは比較的多用する。他の人は滅多にしない。たとえば玉男さんは、棒足でも、人形の体をほとんど下げず、右ひざを折って右足を手すり内側へ引き気味にして、身体に引き寄せて決まる場合が多い。玉男さんの場合、あえて派手に見せない手法をとっているのだと思う。力強さを見せたいという観点なら、この見せ方のほうがそれらしく映る。
玉志さんが下がり方が強く派手に見える手法をとるのは、正解だよなぁと思う。これまでも、本人の意思と関係なく、シャープさと速さ(そして若干のせっかちさ)がそう見せている部分があった。それなら特性をいかしたほうがいい。『源平布引滝』斎藤実盛役でも、「九郎助住家」の段切で刀を抜いて自分の容姿を見るというイレギュラーな派手演技をしていた。あれを見たときは驚いたが(師匠はしていなかったと思われる型なので)、「やりすぎてもいいんだ」という方向に、なんらかの梶切りをしたのではないか。もしくは自分の人形が「イケメン」に見えていることに気づいたのか。
ああいう技術水準が高い人が純粋な向上心から超技術で派手演技をしはじめると、「生態系」が崩壊する。最近はそれこそ和生さんも派手だし、ジュラシックワールド開園しとるで。
午後の部・お柳の勘彌さんは、ママや平太郎といるときと、彼らが寝静まって一人きりになったときの違いの表現が良い。家族といるときは、わりと小さめな振りで、平穏な日常の延長線上。ひとりになってからはダイレクトに感情を表現し、大きく速めの振りになる。メリハリをつけることで、観客の注視を持続させる見栄えや流れを作り出していた。根本的な遣い方としても、もともと「柳腰」な、すんなりとした人形の見え方の人なので、お柳のイメージに合っている。
午前の部・簑二郎さんは、悲しげな雰囲気はいい。いいんだけど、すべての場面で演技が画一的なのが勿体ない。たしかに簑助さんも結構画一的な演技ではあったが、ただ、簑助さんは大きくいくところは大きくいっていたからなぁ。誰を見てどう勉強するかの問題なのかな。
お柳には、紗の貼られた壁から再び姿をあらわす、人形の差し替え、戸口の壁のドンデン返しで姿を消すなどのケレンがある。これらは、人形芝居がもっと「からくり」であったころの名残なのだろうか? 普段の文楽を見慣れていると余計に感じるし、現代のエンタメ水準と見比べるとかえって稚拙・唐突に見えてしまう。やるならやるで、面白く、かつもう少し溶け込むように見せる方法はないだろうか。勘彌さんはドンデン返しの板が返るまえに自分自身がうしろへ振り向いて人形を隠すことで、多少、ドンデン返しの唐突感を防いでいた。
今回も柳の葉っぱが人形や人形遣いの頭に刺さっていた。人形に刺さるのはともかく、人形遣いに刺さるのがやばいんだよな。しかもやばい髪型の人に限って刺さるし。文楽版マーフィーの法則。あの葉っぱの舞い散り方は綺麗だけど、柳の葉の散り方として自然かというと首をかしげる部分もあり、素材の検討を求む。
あと、足がかなり怪しい役があった。やっぱり、かなりの若手をつけているのか?
「木遣り音頭」の「♪和歌〜〜の浦に〜は〜〜名〜所〜が〜ござ〜る〜〜」という歌、たいていの人は、のどじまん風に歌う。東映映画に例えれば、人足役のひとりに北島三郎がいて、サブちゃんが突然前へ出て歌い出す歌謡シーンが入っている的な感覚。つまり上手く歌う人が多く、午後の部・呂勢さんはこの手法をとっていた。ところが、午前の部・藤太夫さんはこの部分をかなり野鄙たガラガラ声風に歌っていた。このような手法ははじめて聞いたが、いかにも荷運びの人足らしくて、おもしろかった。
宗助さん(午後の部)がもとに戻っていた。なんでや。
上演時間が1時間弱しかなかったが、原作をカットしすぎじゃないかと思う。平太郎が実は鳥目をわずらっていたというくだりくらいは残しておかないと、もはや「あらすじ」しか残っていない。私が学生だとして、これでレポート書けって言われても、困惑する。時間的事情があるのは重々察するが、ここまでザキザキにしなくては上演できないのだとしたら、鑑賞教室の演目として向いていないのではないだろうか。
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2021年の鑑賞教室も『五条橋』+『卅三間堂棟由来』というまったく同じ番組で、配役も近しい編成だった。そのぶん、当時との比較ができた。比較といっても、舞台を見て感じることは実は当時とさほど変わらず、そうそう人間は変わんないんだなと思った。
あらためて、『卅三間堂棟由来』、しかもカット版は、かなり難しい演目だよなぁと思った。ここまで文章をカットしていると、話になんのフックもなくなる。役を解釈して、役の持つ性質、場ごとの雰囲気、状況や感情の推移を的確に表現していかないと、観客にみごたえを与えることができない。そういう意味では、玉志さんの平太郎の武士ぶり、勘彌さんのお柳の家族の前/独白の区別、藤太夫さんの木遣り音頭の野鄙た雰囲気などは場に変化を生み、物語に彩りを添えている。
こいつらを全員固めてくれよ、レベル高い中堅公演になるで、と思うんだけど、文楽劇場もそういう人が僅少であることを「わかって」いるので、ちゃんとしてる人を4プロにバランスよく散らしてる。なんでこういうときだけ突然マトモなんだよ。と思った。
若手の人形で、残念に思う役があった。基本的な演技ができていない段階なのにウケ狙いで余計な動きを入れて散漫になってしまっていたり、ツメ人形なのにその場の主役よりガチャガチャ動いてしまったり。まず「物語の流れをつくるうえで人形を一番良く見せる方法とはなにか」を考えてほしい。というか、ものを考える習慣を身につけてほしい。
それと、最近すごく気になるのが、床の演奏を聴いて演じている人、聴いていない人に大きな技術レベルの乖離が起きていること。床と関係なく演じるのは「ありえない」わけで、指導者は本人とよく話して原因を確認し、少しでもよい方向にもっていけるよう、導いてほしいと思う。
今回は外題は『三十三間堂棟由来』と表記されているが、現行文楽での国立劇場としての正確な表記は『卅三間堂棟由来』。
鑑賞教室のような低年齢向け公演で「卅(さんじゅう)」の表記は難しすぎるという配慮かと思うものの、「外題の文字数は必ず奇数」という近世芝居の原則を無視するのはどうなんだ。『三十三間堂』表記をする場合は、『三十三間堂棟木由来』と、「木」をおぎなって奇数にするはず。というか、別に「卅」のままでよくて、いまと昔では漢字の表記に違うものがあるということを今回の経験を通して持ち帰ってもうらうのでいいんじゃないのと思った。(2021年の鑑賞教室では本公演同様、『卅三間堂棟由来』で上演していた)
また、鑑賞教室大阪公演では、配布パンフレットに人形のかしら割が掲載されていない。かしら割も、「なんかよくわからんけど本格的っぽいフレーバー」として残しておいてもよいと思う。
こういった「なんかよくわからんけど本格的っぽいフレーバー」は、言い方悪いけど「権威主義であることで人を釣れる」コンテンツでは、ありがたみとして解釈してもらえる。あなたはいま、実はとても本格的でこだわり抜かれたものに触れてるんですよって言われると、気分いい。もちろん投げっぱなしではなく、SNS連動で会期中まいにち1個ずつ「まめ知識」として解説を公開していけば、接点も増えるのでは。と思った。
↓ 備考 全段のあらすじ解説記事
↓ 本公演でノーカット上演されたときの感想
- 『五条橋 (ごじょうばし)』
- 解説 文楽へようこそ
- 『三十三間堂棟由来 (さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』平太郎住家より木遣り音頭の段
- https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2025/706bunraku/
- 配役:https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/bunraku/2024/202506kyoshitsuhaiyaku.pdf
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第二部、義経千本桜、伏見稲荷の段、渡海屋・大物浦の段、道行初音旅。
伏見稲荷の段、なんでこれがくっついてるんだ? 第二部を謡曲の「船弁慶」に寄せるために入れてあるのだろうか。
4月から配役が変わった義経〈吉田玉志〉は、きわめて高貴な印象。いままでに見たすべての演目の義経のなかでも最も高雅。あんまり言うと申し訳ないが、義経通り越してて正直誰かわからん気高さだった*1。玉志さんは、これまでは「颯爽」とでもいうべき爽やかさや透明感が特徴的だったが、だんだんと「優雅」「薫風」の方向に寄ってきている気がする(一応風が吹いてるのはそのまんま)。ただ、今回については、周囲の配役は素直な芝居の人が多いため、あまりに上品すぎて、特に静御前に対して「なんも反応しとらん」ように見えてしまう危険水域になっていた。義経はこの段より前の時点ですでに静御前との離別を覚悟していることを表現しているのはわかる。それゆえに目尻で見る程度にとどめるのはわかるが、弁慶にあれだけ速く反応するなら(これも公人・武人としての表現なのでよくわかる)、静御前への対応ももう少し検討してもいいんじゃない、と思った。
初音の鼓を「ちゃんと」扱っていたのは、さすがだと思った。亀井六郎から受け取ったとき、自分自身が持っているとき、静御前へ渡すときに「ぐっ」と握る所作をしたり、目線より持ち上げるようにして運んだりと、細かい「敬い」の所作があった。
静御前〈吉田簑二郎〉は、薄幸そうな佇まいや一種の「下賤さ」が魅力だ。今回の義経にはタイプとして合ってないのが難しいところだが、誰と組み合わせればよいのか……。
渡海屋・大物浦の段は、とても良い。
さすが大阪から続けての2ヶ月目、メインキャスト同配役なだけある。物語全体の潮位が上がったように感じた。水の中には、不気味なうろくずや悪龍、さきに入水した平家の武士や官女たちがいて、彼らが沈むのを待っているのだ。と思った。
知盛〈吉田玉男〉は、本当に良い。最近の玉男さんの役の中で最も良いし、4月よりもさらに良い。知盛という役の持つ信念の強さと輝き、その裏返しの愚直さと情念、悲劇性が存分に表現されている。失ったものへの憧憬が滲んでいた。
知盛ひとりだけで《ドラマ》を形成する表現力は、さすが玉男さん。会期後半の「幽霊」での語り部分は青く燃え上がる炎のごとき情熱に溢れていた。それが、「玉男さん」らしいのがことに良かった。
「玉男さんらしさ」とは何か。それは、「彼」にはなにか欠けているもの、失ったものがあって、それがもう手に入ることはない、取り戻せないとわかっていつつ、じっと耐えているというイメージが人形のうえに立ちあらわれることだ。こういうのは、本当に本人の資質なのだと思う。「無念」や「悔しい」といった演技は、難しい。わざとらしい方向に走ってしまう人もいて、白けることがある。玉男さんは、芝居でのこさえではなく、自然な共感として、知盛を理解できてるんじゃないのかな。知盛は師匠・初代吉田玉男が得意とした役で、師匠は当代「パーフェクト」な知盛を演じていた。だけど、いまの玉男さんは「そうでなかったこと」が、この知盛の良さだと思う。「彼ら」は何かに欠けている。自分ではどうしようもない欠如や、それによるほのかな泥臭さがあるからこその魅力と悲劇がこの知盛にはあった。
玉男さんは、「幽霊」と「碇」のバランスが上手い。さきほど、「幽霊」を青く燃え上がる炎と表現したが、「碇」は乱れて赤く燃える炎になる。どちらかを単純に大人しく(≒手抜き)するのではなく、それぞれタイプの違った情熱として表現していた。「幽霊」は検非違使のかしらであることもあいまって、情熱的でありつつ、玉男さんにしてはクールな印象。対して「碇」は、浄瑠璃通り、この世からの悪霊としての情念深さが存分に表現されている。しかし気品を保っており、単に激しい気性の表現や大きな動きをつけることに溺れてはいない。そして気品をそなえていても、強靭さは失われていない。玉男さんて、余計な手数を切っているけど、「単純」な印象にはならず、切って切って切りまくることで芝居として強靭に成立してるんだよな。お客さんはみなこれを「太っ!!!!」と表現するが、ほんと、ごん太い。
5月公演は義経の配役がかなり締まった人になり、知盛の密度も上がって、義経・知盛2人の対比が克明に出ていたのが良かった。冨樫と弁慶のよう。このコントラストを期待していたので、それが叶って、嬉しかった。知盛が滅びていく美学の世界も映えるというもの。そして義経にもまたほのかな滅びの陰がさしているのが良い。
今回の東京公演では、大阪公演時に「これはないな」と思っていた長刀の扱いがスムーズになっていた。向上して良かった。ただ、観劇料とってる舞台自体が「稽古」なのはちょっと困るんだよな。小道具類の扱いは、ちゃんと別途稽古してんだろうなって人もいるからな。
碇の扱いは、大阪・東京通して上手い。銀平として碇をかついで登場したとき、渡海屋の屋体の中に入る際に、肩にかけていた巨大な碇をおろす。その際、かいしゃくが受け取って碇を下げるまで、銀平の目線は碇についている。こういう所作、次の演技に気を取られて目線をすぐに外しちゃう人がいるんだけど、重量があるものを扱うときって、普通、上げ下げが慎重になりますよね。それが目線で表現されている。銀平にとって碇は担ぎ上げて運べるものでありながら、その実とても重いのだがわかるのが、良かった。また、これによって、銀平は雑な所作はしないのだいうことがとわかるのも、良かった。煙管の扱い、上げ下げも、丁寧です。
知盛は左遣いも極めて良い。東京公演では、「幽霊」「碇」ともに「いつもの上手い人」がついていた。特に、太鼓の音が聞こえて下手小幕に向かって走り去る姿、この人のおかげで、あまりにも、素晴らしすぎる。
足拍子の音。典侍局〈吉田和生〉の足拍子が最大になるのは、安徳天皇を抱いて入水しようとしたそのときだ。最後まで安徳天皇の帝としての誇りを守る、彼女の矜持が感じられる。わたしたち観客も彼女の内面の昂りにシンクロしている。この「高潮」の表現、メリハリの強さが和生さんらしさだよなと思う。和生さんは浄瑠璃全体に対する設計を常に重視している。そのメンタルの強さを尊敬する。こうでなくては長丁場を一人で間持ちさせることはできない。
典侍局は、安徳天皇に対し、儀式的で恭しい対応をする。装束替え、御幸の準備の複雑さなどに顕著だ。もってまわった表現だが、あえてその段取りを細かく行なっていくことで場の格式が増して、厳粛性が端的に伝わる。また、ひとつひとつの所作が演技としてひじょうに洗練されていることで、なにをやっているかはわからなくとも(いや、わからないからこそ良いのだ)、日常とは異なるイメージが形成されている。第一部の『芦屋道満大内鑑』加茂館の感想で、空手水をすべきと書いたのは、こういう部分。
今回の公演の上演資料集に、文雀さんの典侍局についての芸談が公開されていた*2。それによると、典侍局は、知盛が幽霊姿で出る場面で、観客の視線が知盛に集まっているあいだに姿勢を正し、世話女房から帝の乳母へ居住まいを変化させるとのことだった。へーっと思ったが、和生さんは実はこの手法をとっていない。幽霊知盛の出のあいだ(知盛が上手の一間にいるとき)に典侍局を注目していても、ぱっとわかるような変化はない。しかし、自分自身が衣装を変えるあたりまで使って、ゆっくりと格式を高めていっているように感じられた。
安徳天皇もろとも入水しようとした典侍局が義経に捕まり、奥の間へ引っ張り込まれるとき、典侍局が義経のスキをついて逃走しようとした日があった。義経(玉志さん)は瞬間的に掴みなおして引っ張っていたが、玉志じゃなかったら逃げられてたわ。いやいや、安徳天皇置いてどこへ逃げるねん。和生・ヤバ・アドリブ、ヤバすぎ。この手のイヤイヤ演技、和生さん的には得意技と思われる。おさん(心中天網島)、玉手(摂州合邦辻)など、引っ張っていかれるときに異常レベルの全力抵抗をしめしている。
4月公演でかなり気になった安徳天皇〈吉田簑悠〉の目線浮きは、5月会期の後半には解消されていて、良かった。
入江丹蔵〈吉田玉彦〉も、短い出番のなかでよく整理された芝居となっていて、良い。しかしこの人、パジャマで来はったんか???みたいな格好してるよな。忠臣蔵の映画の吉良邸討入の場面、こういう感じで橋の上でバタバタしてる人、いる。と思った。
床も、4月大阪公演に続き、良い。
小住さんて、偉いよなー。数年前に「なんでもいいからデカい声!」みたいなのに走っちゃって、うわっと思ったけど、すぐにやめていた。世間様ではええ歳してって年齢でも「若手」と言われて「甘やかされる」文楽の世界で、「がんばってる感」に溺れない自制心、すごいよな。この「渡海屋」にしても、銀平は単なるデカい声でやってもいいところ、正体を隠して抑えてる大物感をふまえたうえでの大きい声にしていて、個性をいかしつつ曲の意図を守っており、立派だと感じた。それに、小住さんの声の出し方には、「格式」の居住まいがあるのは良い。知盛の格式がちゃんとわかる。わざとらしい声色で格式ありげに見せかけているわけではなく、また、単に丁寧に一語一語発音しているだけというわけではない。語り口自体に品格がある。才能を感じる。
宗助さんは、まぁ、無難におさめる人やでな。と思っていたが、今月は意思を感じることができて、良かった。
別配役の日も見た。左と足は本役と同じ人と思われたが、ここまで違いが出るのかと思った。一種の「サービスデー」だとは思うが、事故なく終わってよかった。
↓ 初代玉男の弟子の人、みんな、この「右腕を下方にスッと刺し出す」演技が異様にうまい。
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) May 20, 2025
- 義太夫
- 人形
九郎判官義経=吉田玉志、亀井六郎=吉田簑太郎、駿河次郎=桐竹勘次郎、静御前=吉田簑二郎、武蔵坊弁慶=吉田簑紫郎、逸見の藤太=桐竹勘介(前半)吉田玉路(後半)、佐藤忠信実は源九郎狐=吉田玉助、女房おりう 実は 典侍局=吉田和生、娘お安 実は 安徳天皇=吉田簑悠、相模五郎=吉田玉誉、渡海屋銀平 実は 中納言知盛=吉田玉男(5/10のみ桐竹勘十郎)、船頭=豊松清之助(前半)吉田和登(後半)、入江丹蔵=吉田玉彦
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第三部、平家女護島、鬼界が島の段。
「文楽名作入門」という建て付けの部のようで、通常公演とは異なり、カラー印刷の軽い演目解説リーフ+文楽自体の解説パンフ(いつも鑑賞教室で配布しているもの)を無料で配布したり、冒頭に説明ナレーション(録音)を流していた。
ナレーションは、物語の背景を主体にわかりやすく構成されていた。ただ、録音なら、開演前に流しておけばいいんじゃ?と思った。放送中、定式幕の前に、流人3人と清盛の人形の写真、鹿児島県の硫黄島の写真パネルを吊るしていた。「え、私のチケット代、『『『これ』』』になっちゃったの?」と、素でショックだった。
上演内容的には、かなりぼんやりしたことになっていた。ここがどこで、彼らはどういう状況なのか、誰が何を言ってるのか、誰が何をしているのかが曖昧な印象を受けた。聞こえ方や見え方からそのまま話がわかるようにしてほしい。
「古典」であること、「名作」といわれていることにフリーライドしているのだろうと思った。昔はそれでよかったのかもしれないが、忠臣蔵すら認知度が低いご時世では無理だと思う。名探偵コナンですら毎回頭に自己紹介しとるやろがい。と思った。
一応書いておくが、赦免使の2人はちゃんとしていた。
瀬尾太郎〈吉田玉志〉は、赦免船からの乗り降り動作による巨船の物量感の表現、赦免状の扱いの謹厳さによる品格の見せ方など、細かい部分までこなしていた。丹左衛門〈吉田玉也〉は、無駄のない控えめな所作、落ち着いた目線のなかに、人柄としての穏やかさや都人の品性が表現されていた。彼らはさらっとやっているが、本当は「さらっと」はできないことだし、第一、意図的に「さらっと」見せているんだなと思った。
あとは、玉志瀬尾の興奮度は、俊寛役に対して相対的に決まるということがわかって参考になった。今回はあんま柴ドリルしてなかった。
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) May 21, 2025
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第二部、特に渡海屋はとても良かった。出演者の魅力が存分に際立って、上演が少なく話に馴染みのない演目でも、《ドラマ》の世界を堪能できた。それぞれの出演者がこの《ドラマ》をこう解釈しているんだなとがわかるのが一番良かった。
もっとも、今後はこうもいかなくなる演目だと思う。典侍局や知盛は、できる人が非常に限られる役だと感じるからだ。ただ、若手自主公演で幽霊知盛を遣っていた玉翔さんはかなり上手かったんだなと思った。見たときは、振り付けは頑張ってるけど、意思が感じられないと思ったのだが、振り付けができていて、目線(かしら)がしっかり前を向いていたのは、立派だったんだな。本人は焦って緊張していても、人形には目線があった。とにかく目線が大切な役だわ。と思った。
初心者には出来の良し悪しわかんないからってことなら、第三部は「若手会」のように若手のみで配役し、今後の糧にしたほうがよかったのではないかと思った。玉志さんと玉也さんは「園長先生」として残っていただき、上演クオリティの責任をとっていただきたいと思う。
最近の東京公演、毎回「いろいろと思うところがあった」的なことを言ってるような気もするけど、今回はより一層深刻に感じる部分も多かった。とくに、見ていて虚しくなってくる回が複数あったのがショックだった。「若い子がドジった」とか「そこはかとない天然がおる」*3とかなら、「おーい笑」で済ますことができるけど、改善しようがないと感じられるのが一番厳しかった。
若手俳優が多い舞台ジャンルでは、彼・彼女らの「無限の」成長を「無限に」絶賛する感想をよく見る。しかし、古典芸能だと、どうしても老いによる衰えを目の当たりにしなくてはならない。身体、体力、気力、思考力、すべてが老いていくことにファンとしてどう向き合うか。老いて芸が落ちることを見て見ぬふりしたり、全然若々しいよねって無理目なことを言うのも、なんか違う気がする。
簑助さんは、体力の低下が本人自身の不要な動きを低減させ、かえって人形が際立って感情の純粋性が増すようになった。初代吉田玉男も、晩年の映像をみると、人形の大きな動きは低減しているものの、内面描写が深まって人物の陰影は大幅に増加していた。体力の低下そのものはかならずしもパフォーマンスの低下に直結するとはいえない。なので、体力なくなったらなくなったなりに、ものを考えて、表現自体に集中してやればいいんじゃん?と思っていた。
だが、体力が衰えれば気力・思考力も衰える。私はそれを忘れていた。気力や思考力があからさまに衰えて、やることなすこと粗雑になっていく姿を見るのはしんどい。いや、しんどいというのは期待を持っているから言えるわけで、むしろ良い言い方であって、実のところ、観劇中にものすごく冷淡な気持ちで「あ。この人、終わったな」と思ってしまうのだ。私が好きな人たちも、いつかこうなってしまうのだろうか。気力・思考力が落ちはじめるまえに、どれだけ「思考」の資産を積立てしておけばいいのだろうか。
古典芸能の客に高齢の方が多いのは、高齢の方にとっては、自分と同年代の人が頑張ってる!自分も頑張ろう!と思えるからって部分が意外と大きいんだろうなと思った。
私のような「中年」から見ると、なんでこうなっちゃうわけとか、この誤魔化しにいつまで付き合わなきゃいけないんだと思われるようなことでも、同世代から見たらそうじゃないんだろうな。私はいつ「そっち側」にいくのだろうか。
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北千住ランチ。
オムライス屋さん
モダンチャイニーズなお店
からの北千住駅前風景
- 第二部
- 『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』伏見稲荷の段、渡海屋・大物浦の段、道行初音旅
- 第三部
- 『平家女護島(へいけにょごのしま)』鬼界が島の段
- https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2025/75/
- 配役:https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/kokuritsu/2025/haiyaku0705new.pdf
5月東京公演は北千住で開催。
マルイからフライングタイガーがなくなっていた。フライングタイガーで可愛いプリントのペーパーナプキン買うのが楽しみだったのに!!!!
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第一部、芦屋道満大内鑑。加茂館の段、保名物狂の段、葛の葉子別れの段、信田森二人奴の段。
良かったのは、葛の葉〈吉田勘彌〉。きつね(ぬいぐるみ)姿も、娘姿も、女房姿も良かった。ご本人独自の「葛の葉」像があるのが、良い。
しろぎつねは、あまりに似合いすぎていて驚いた。勘彌さんは髪がホワイトブロンドなので、白きつねのぬいぐるみがものすごく似合っていた。そういう2.5次元舞台の役みたいだった。文楽で見た目的に人形とマッチしてる人ってほぼいないので(和生×白太夫などのKURISOTSU事故物件除く)、衝撃的。
むろん、見た目の良さだけでない。きつねの遣い方が非常に巧み。きつぬい(きつねのぬいぐるみ)のなめらかな流線型のフォルムを保った見せ方の美しさもさることながら、「ちょんちょんちょん!」とした走り方、おびえて「くるん!」と丸まる姿がいかにも「動物」らしく、とても愛らしかった。動物の動きの特徴がよく捉えられている。とくに、悪右衛門に追われて逃げきれなくなったとき、しっぽごと「くるん!」と丸まって震える姿は、「動物病院に連れていかれる気配を察し、かつ、もはや逃げられないことを悟った猫」みたいでかわいそ可愛かった。丸まりの手順も本物の動物みたい。しっぽそのものは操作できないのに、よくあんなにうまく丸まるな。走り方にしても、勢いつけてぬいぐるみを振り回してるわけでもなく、体重が軽い毛玉生物が跳ねながら走っている印象になっているのも良かった。
「葛の葉子別れ」での女房姿では、息子・安倍童子への慈愛を主軸として役を造形しているのが良かった。葛の葉には正体があるといっても、あくまで母であることには変わりはない。母であるからこそ葛の葉は家族との離別を悲しむ。葛の葉は安倍童子から目線を離さない。母役(親役)をもらっても、これができない人、かなりいるからなぁ……。
白いフリンジ衣装になってからも、表情豊か。かなり自然な雰囲気。人間らしさと動物らしさ、精霊的なふんわり感のバランスがよかった。
まず、手の向きや動きが多彩で、「狐手」で手指が固定されているとは思えないほどの仕草で雄弁に語っているのがいい。手が子供への慈愛や人間世界での暮らしへの惜別を表現しているように感じる。また、いかにも霊力をまとった精霊らしく、空中に浮遊する振りは、足を小さく小刻みに揺らしている状態だった。人形自体の大きな左右振りは抑えめで、フリンジや衣装のすそが「サヤサヤサヤ……」と小さく振れる程度に止めており、小動物が早歩きしているときにお腹の毛が揺れているみたいだった。あのふさふさ衣装の形状をよく活かしている。
そして、なんか、身体がとても軽そうだった。中に肉が詰まっている生き物としての生々しさを感じない。以前、玉志さんが『小鍛冶』で稲荷明神役をやったときもこうしていた。この人ら、小さい動物が好きなんか?
いずれにせよ、「いかにもなきつね」に寄せすぎるとクドくなるので、適切な判断だったと思う。
ひとつ難をいえば、「保名物狂」で、「なぜきつねが保名を助けようと思ったのか」がわかりづらいのは、研究を求む。保名から離れた場所で丸まったところで、保名が「動物いじめたらあかんやろー」的に割って入ってくる流れだと、ちょっと「遠い」んだよな。というか、今回の舞台を見て、逆に、過去に見た和生さんのやりかたは上手かったんだなと思った。和生さんは、舞台へ飛び込んできたときに積極的に保名へくっつきに行き、その時点で保名役の人もわかりやすくきつねを庇う演技をしていた。これくらいやったほうが、いかにも助けてもらった感があって、良い。
勘彌さんは私的には今後の期待の人で、今回のパフォーマンスには満足した。今後勘彌さんには老女方の役がもっとつくようになると思うが、老女方でもっとも重要な子供への慈愛表現がしっかりしているのには安心した。また、よく研究された独自のきつねの表現もひじょうに面白かった。既視感のないイメージ、しかも観客に共有できる価値観のあるものを創り出せる人は貴重。今後もいろいろな役を拝見して、勘彌さんの世界を楽しみたい。
↓ 文楽劇場技術室のインスタに、少し動かしてもらっている様子の動画あり。この動画だと左や足に少しぎこちなさがあるのですが、自分が見た公演では、もっとスムーズに動いていました。
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各段の感想。
「加茂館」は滅多に出ないので、あらすじを述べておく。
(これまでの経緯)
朱雀帝の御代、陽は白虹に貫かれ日食が起こり、大内はその不吉さにざわめいている。左大将・橘元方と参議・小野好古は、その対処について対立していた。そんなこんなしているうちに、なんだか微妙に話がすり替わって、東宮・桜木親王の要望により、近頃急逝した天文博士・加茂保憲の後継者を早々に定めようという話になる。加茂保憲の2人の高弟、芦屋道満か阿部保名のいずれかに、加茂の家と秘伝書「金烏玉兎集」を継がせようというのだ。内々では後継者は保名とし、加茂家の娘・榊の前との祝言の話もあったものの、おおやけのことではなかったため、改めて正式な手順にのっとった決定が必要であった。橘元方の家臣からは岩倉治部大輔、小野好古の家臣からは左近太郎が立てられ、彼らの立ち会いのもと、後継者を定めるみくじを加茂の家で行うことになった。「加茂館の段」
左近太郎の到着に先立ち、岩倉治部大輔〈吉田文哉〉が加茂保憲の後室〈吉田玉助〉のもとを尋ねる。治部大輔と加茂の後室は兄妹であり、悪計仲間であった。治部大輔は、橘元方に仕える芦屋道満に加茂の家を継がせるべく後室に相談を持ちかけるが、腹黒い後室はすでに二重鍵のついた宝殿から「金烏玉兎集」を盗み出していた。
治部大輔や後室が去っていくと、娘・榊の前〈桐竹紋臣〉が姿を見せる。榊の前は信田庄司からもらわれた養女だった。後継者定めの次第を聞いていた榊の前は恋人・保名へ文を送っており、彼が訪ねてくるのを待ちかねて、腰元たちに小鳥のカゴを端近に並べさせる。そうしていると、保名の奴・与勘平〈吉田玉佳〉、そして保名がやってくる。榊の前が彼らを歓迎し、みくじが行われているのに平服ではおそれがあるとして、保名は加茂保憲の残した素襖烏帽子に着替えることにする。そしてそこへ、大内からの使者来訪の知らせが入る。(ここまで「中」)(ここから「奥」)左近太郎が館を訪れると、岩倉治部大輔、加茂の後室、乾平馬〈桐竹亀次〉が儀式の準備を整えて待ち構えていた。左近太郎はまずみくじを引くことを促すが、治部大輔はまず「金烏玉兎集」を神前に備えようという。後室はみずからが管理していた外鍵を使って宝蔵の扉を開け、榊の前へは彼女が管理している内鍵を使って「金烏玉兎集」の入った箱を開けるように促す。榊の前が箱を開けると、その中はカラになっていた。治部大輔と後室が榊の前の仕業に違いないと難詰していると、平馬が共犯だと言って保名を引っ立ててくる。さすがの左近太郎も擁護はできず、治部大輔と後室は保名と榊の前をますます責め立てる。言い訳のしようのなさに保名は自害しようとするが、榊の前はその刃物を奪い取り、喉を突く。倒れ伏す榊の前に取り付いて嘆いていた保名だったが、突然起き上がって高笑いをしはじめる。狂気をきたした保名に一同は驚く。あとのことは左近太郎に任せ、治部大輔は盗んだ「金烏玉兎集」を隠し持って館を去り、保名もまた榊の前の打掛をまとって館を駆け出ていく。
残された左近太郎は、後室を捕えて「狼藉」と言う。左近太郎の手には、2つの箱の鍵があった。ひとつは榊の前が保管していた本物の鍵、もうひとつは後室が「金烏玉兎集」を盗むためにひそかに作り、さきほどのドタバタに紛れて落とした合鍵だった。後室と平馬は逃げようとするが、やってきた与勘平に後室は縛り首にされ、平馬は左近太郎に首を打たれる。左近太郎は与勘平に保名を追い、事件の真実を言い聞かせて正気を取り戻させることを命ずるのだった。
※以降の段のあらすじはこちらをご参照ください。
天文博士・加茂保憲の令嬢、榊の前が秘伝書紛失の責任を取って自害し、彼女を失ったショックで恋人・安倍保名が狂気に陥るくだりが描かれている。「保名物狂」や「葛の葉子別れ」に至る過程がわかる段だが、良くも悪くも非常に類型的。ドラマとして味わいがあるとかいうたぐいのものではない。浄瑠璃的な展開として、よかれと思ってやったことが裏目に出るとかならわかるが、「アホが勝手に墓穴掘っただけとちゃうんか」的な同情のしようのない保名まわりの話の進行が気になった。
類型的で素直な内容な段のため、各出演者の実力もそのまんま出る。その意味では、かなり散漫になっていると感じた。人形は、物語の流れを踏まえて解釈を行い、個々の役に対する「演出」を行わないと、「なんか、人形がいろいろ出てきてますね」以上のものにはならない。演技プランが大味にすぎる役も多いように感じられた。「空手水(からちょうず)」などは、「場」の雰囲気を表現する演技として、最低限、やるべきだろう。
人形出遣いで演じていたが、登場人物が多く、出入りも頻繁で、見た目がガチャガチャしすぎていた。黒衣でやってほしい。また、人物そのものの動作も整理が必要であるように感じる。奥の間の道具を取りに行くために腰元〈吉田和馬〉の動きが無駄に速くなっている箇所はかなり目についた。『菅原伝授手習鑑』道明寺の覚寿は、浄瑠璃本文では道具を取りに行くための出入りすることが書かれていても、実際にはその場にとどまり、腰元のツメ人形が代理で道具を持ってくる振り付けに整理されている。このような手入れを行うべきではないだろうか。たとえばこの場では和馬さんの独断でやれることとは思えないので、和生さんが監修するなどして、検討をしていただきたい。
床の演奏〈奥=豊竹藤太夫/鶴澤燕三〉は、人物の出入りや状況の転換がよく整理されており、聴きやすかった。
いまの保名のなにもかもが悪いとは言わないが、すべてのシーンで演技のトーンが同じになっているのが非常に気になる。芝居の見せ場としてしっかり表現すべき正気と狂気の区別がついていない。また、かしらの状態からして、役としてたたえるべき品格が失われていることは重大な問題だと考える。悪いけど、今回はさすがに「良いところもある」では済ませられないわ。もはや本人の努力では解決しえないことなので、配役で配慮すべきだったと思う。いまに始まったことではなく、なぜこれがいつまで経ってもだれにも不幸な状態で放置されているのかと思う。
玉佳与勘平は、素直に生きていそうだった。保名が飼っているカブトムシにエサの昆虫ゼリーを与える前に、「お毒見ッッッ!!!」とか言って半分くらい食ってそうな感じだった。なんかカブトムシ、最近やせてきた気がする。
与勘平はちくびが立派すぎて、着物からちくびが浮いていた。男の夢。あと、裸になったとき、おへそとしてバッテン印のステッチ❌があるのが良かった。
与勘平が腕にとまらせている鳥は「小鷹」だそうだ。ちっっっっか!!!! 与勘平のボディからすると文鳥サイズ。「良弁杉」に出てくるワシは異常くそデカだったのに。ご飯が足りないのでは。やっぱ与勘平が半分食ってんだよ。
与勘平には、口を真一文字に結んだかしらが使われている。口を閉じているかしらは、性根の誠実さに揺れがないことを示している。いまのどこか抜けていて愛嬌のある与勘平も可愛いが、かしらがたたえる意思の強さに対しては、ただただ純朴なだけに見える。主人である保名をしっかり見つめる、保名の状態変化に合わせて与勘平の感情(喜び、心配、安堵)の変化を表現するなどして、もう少し「保名に一生懸命」である彼の内面を詰めていったほうがよかったのではと思った。あえて書くが、玉佳さんはこの詰めの甘さが弱点。玉男さんや玉志さんが「上手い」理由は、ここをガン詰めしているからだ。この課題点を飛び越えてほしい。
青い着物のツメ腰元は、動きに品がないのがかなり気になった。やたらガチャガチャ速く動いたり、足音を立ててドタバタ歩いたりしていたが、加茂の家は、朝廷に仕える文官で、親王が直々に後継者定めを指示してくる家柄だということをよく考えて遣ってほしい。一生懸命やっていても、その一生懸命さの方向が致命的にずれていては、意味がない。まず第一に本人の師匠が指導すべきだが、本人の師匠が言わないなら、よその師匠や先輩、お客さんが言ってあげてほしい。
いっぽう、榊の前(や葛の葉姫)が連れているピンクの着物の3人のツメ腰元は、最後の1人の首が完全に「いんで」いた。寝違えたんか!? それとも超新人の若造!?!?!? 誰かなんとか言うたってくれ!!! それはそうと、「この子」が上演中に咳き込んでしまい、大丈夫かなと思ってたら、一緒に出てきて横にいたツメ腰元が、(人形の)背中をサスサスしてあげていたのが、良かった。
最近、足がめちゃくちゃな役がある。新人とか研修生入れとんのか? おきばりやーーーー!!!! と思った。
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) May 15, 2025
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保名物狂の段。
葛の葉姫〈桐竹紋秀〉は、本当に20歳くらいの女の子みたいだった。可愛くて、なんか微妙にチャカチャカしてる感じが。品があるかというとないが、可愛くて素直な女の子の雰囲気はよく出ている。こういう子に「社内打ち上げになんかみんなで軽くつまめるもん頼もか❤️葛の葉ちゃんの好きなもんでええよ❤️」とか頼むと、からあげ100個盛り+チーズ入りハンバーグ50個+フライドポテト2kgとかウーバーで注文してくれるで(JITSUWA)。家族仲のよい田舎のお嬢様という点ではきわめて自然な雰囲気で、良かった。
段切で、きつねが葛の葉姫の姿で現れ、保名を助ける。このときの人形は本物葛の葉姫を流用していると思う(きつねが本性の役は眉メイクが違うので、本来は最低限かしらを差し替えないといけないと思うが、そこまでしてなさそうな気がする)。だが、さっきまでの本物葛の葉姫とは明らかに!全然!まったく!違い、爆美女と化していた。両者ともずらそうとして遣っているわけではなく、個々の「天然」のなすものだろうが、個性の差でここまで違いが出るんだなと思った。
悪右衛門〈吉田玉翔〉はちょっとざっくりしすぎかな。はよ帰りたい人、こういう動きしとる。はよ帰って発泡酒飲みたいんだろうなと思った。動きがきびきびしているのは良かった。
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) May 15, 2025
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葛の葉子別れの段。
安倍童子〈吉田玉延〉は、冒頭の虫殺しの動作が自然だった(褒めてます)。安倍童子や第二部の安徳天皇はじめ、文楽の子役、綺麗な内巻きボブに髪型がセットされているが、どうやってるんだ? ドライヤーで丁寧にブロー? ヘアアイロン? 顔まわりとか美容院帰りみたいな綺麗さ。しかも、寝転がったり頭を振ったりしても、すぐ「プルン」と戻るのが羨ましい。ただ、昔の舞台写真を見ると、顔まわりの髪がまっすぐおりていて、市松人形のような文字通りの「おかっぱ」になっている。文楽のかつら(床山)も現代の人間のヘアスタイルのトレンドを取り入れているのだろうか。
最後に出てくる3人の追手の武士のうち、信楽雲蔵役の玉征さんが良かった。顔(目線)、胴、手、足といった身体のパーツ個々の動きが整理されてしっかりまとまっており、人形全体の姿勢がとても綺麗。ふん!と胸をそらせて屋体を見上げる姿など、「若造」とは思えないほど映えていた。動きの整理もかなりできており、「人間みたいな人形」の動きとして違和感がない。非常にセンスを感じる。
でも、木綿織の道具が飛んできたら、刀はちゃんと振っておくれ。ぺちっと地面に落ちてから振っとるのは、おっとりしすぎや。天然か?
今回は床〈切=竹本千歳太夫/豊澤富助〉も良かった。4月公演の「そりゃ棒読みすぎるやろ」からは打って変わって、かなり自然な印象。押し付けがましいキャラ付けの力みがなく、自然に母の愛が表現されていた。節がついている部分が多いこともあると思うが、越路太夫が得意としていた(上手かった)演目だからというのも大きいのか。こういう出来のムラ、一体なにに起因して起こっているのかわからないが、客からすると、購入チケット枚数検討に影響する。(突然の生々発言)
全然関係ないが、野生下のきつねって、生きて3年らしい。葛の葉、いくつなんだ???
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信田森二人奴の段。
与勘平・野干平の配役が玉佳さん・玉勢さんなので、勝手に「うまいこと揃うやろ」と思っていた。ところが、
(故)師匠助けて! あんたの弟子ら、好きなタイミングで目え引いとる! 左右全然揃ってへん! なんとかして!!
状態で、笑った。いや、動きの根本的なところは揃っていたが、ばらついているところは、「あ、この演技、本人判断なんだな」とわかって、面白かった。野干平のほうがやや背が高いのも、笑えた。
— 国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) May 16, 2025
- 義太夫
- 人形
加茂の後室=吉田玉助、乾平馬=桐竹亀次、岩倉治部大輔=吉田文哉、榊の前=桐竹紋臣、腰元小枝=吉田和馬、安倍保名=豊松清十郎、奴与勘平=吉田玉佳、左近太郎=吉田勘市、葛の葉姫=桐竹紋秀、石川悪右衛門=吉田玉翔(5/10のみ吉田簑太郎)、女房葛の葉=吉田勘彌、安倍童子=吉田玉延、木綿買 実は 荏柄段八=吉田和馬(吉田文昇全日程休演につき代役)、信田庄司=吉田玉輝、庄司の妻=桐竹勘壽、信楽雲蔵=桐竹勘昇(後半)吉田玉征(前半)、落合藤治=吉田玉誉、奴野干平=吉田玉勢
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本作は個人的に「面白いほう」の演目の勘定には入れていないが、出演者の力により、慎ましく綺麗にまとまっていると感じた。技芸員の力で浄瑠璃を底上げできるというよい例。
今回は「加茂館」をつけて、現行上演可能な段をできるかぎり上演するという企画になっていた。ただ、これだけたくさん上演していても、全体が稚拙でチグハグな話に感じるのは否めない。それは、昭和の復活の際、「恋愛もの風」に見える段を抜き取って構成してしまったがゆえだろう。特に保名は、芦屋道満との関係性が見えてくる段、天文博士としての才覚を発揮する段がないと、なんもしてへんバカにしか見えないことは防ぎえない。(そのあたり、内田吐夢監督が『芦屋道満大内鑑』を映画化した『恋や恋なすな恋』は処理が上手かった)
昭和期の復活演目、『槍の権三重帷子』『大経師昔暦』もそうなのだが、元の主題が恋愛ものではないものを恋愛ものに「アレンジ」してしまったがゆえに、「なんか変なこと」になっている演目がいかに多いことか。いまの義太夫で演奏しやすいよう文章をアレンジしたり、人形の動きの間合いをつくるために調整したり、不要な景事を切るのはいいと思うけど、テーマは無視したらあかんやろ。本質をとらえず「なんでもいいからメロドラマ風」に恣意的な「見取り」「アレンジ」したところで、現代的観点では、「恋愛至上主義」はエンタメ嗜好からズレてきてしまっている(復活当時でも「メロドラマ」はもはや流行遅れだったと思うが)。恋愛ものに見せるにしても、恋愛感情の機敏の描写や切実性に欠けすぎていて、どこをどう見てほしくてこうなっているのかわからず、困惑する。いかんせん作劇のプロが演出や脚本整理をしていないこともあって、そもそものチグハグ感が拭えないし、テーマや方針を検討しなおしたうえで、外部のプロの脚本家を入れて再改訂したほうがいいように思う。
ただ、観客から保名へ好感を持ってもらうのがかなり難しいという問題点については、もはや、「爆発的に上手い人を配役して演技の巧みさでゴリ押しする」でしか魅力を高めることができないように思う。小手先の誤魔化しがきかず、ひとつひとつの所作そのものが美麗で知性に満ちている人でないと、役の印象を底上げできない。そんな人がどれだけいるのか。いるにしても、そんな人は配役上「保名をやっている場合ではない」状況のため、もはや、どうしようもない演目なのかもなぁと思った。
いろいろな意味で、特定の人が得意としている……ということになっている役がある。ただ、かならずしも「その特定の人」が「一番上手い」わけではないのがなかなか難しいよなーと思った。「個性の違い」ならいいんだけど、「出来の違い」がまるわかりになるケースがあるからさ〜……。
セルフプロデュースとして「自分は〇〇の役を得意としている」という売り出しをするのは商売として正しいと思うが、舞台の出来という誤魔化しようしようのない事実は存在するからなぁ。ほかの人のほうがうまいやん、ってなったら、しんどすぎる。逆に、「他人の飯櫃に手ェ突っ込」んどいて下手なのも「うわキツ…」なんだけど、最近そういう状態が結構発生してるよな〜……。
配役はあくまで劇場制作が決めているということなので、技芸員さんは(辞退しない限り)どうしようもないとはいえ、いや、だからこそなのか、「社会〜」を感じる。
参考までに、2021年大阪10-11月公演で和生さんが葛の葉役をつとめたときの遣い方をメモしておく。
- きつぬい姿…和生さんは私物きつぬい(60年以上前に大江巳之助さんが作ったもの)。臆病な性格として遣っており、「保名物狂」で悪右衛門に追われて逃げてきたときは、保名の股間に顔を突っ込んでヒヨヒヨしていた。そのほか、しっぽを股にはさむような仕草をしたり、しょんぼり寂しそうに首を下げたりと、おとなしめの仕草が多い。
- 娘姿…お姉様系爆美女。さっきまでの葛の葉姫と明らかに別人で、笑ってもうた。
- 女房姿…「ケモノ」感強め。宙に舞う際は、足をばたつかせる様子を比較的しっかり見せる。骨格しっかり、健康体な感じ。安倍童子にたびたび頬擦りするが、最後の1回は、かしらを左右に振る(左右の頬をくっつける)ほおずりではなく、かしらを下から上へ振って、動物が子供を舐め回す仕草を表現。きつぬいに戻ると再びしょんぼりする。
↓ 感想はこちら
- 第一部
- 『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』加茂館の段、保名物狂の段、葛の葉子別れの段、信田森二人奴の段
- https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2025/75/
- 配役:https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/kokuritsu/2025/haiyaku0705new.pdf