TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹 (original) (raw)

秋の地方公演、横浜会場へ行った。

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昼の部は2本立て。1つ目、二人三番叟。

人形はこなれた雰囲気。検非違使のほうの三番叟は、枝葉を落とし、洗練された雰囲気。無意識の部分も多分にあるだろうが、「踊り慣れている人物」というキャラクターが成立していた。玉勢さんは、これくらい落ち着いていると本当に上手いのだが……。首の左右振りがやや浅すぎるところがあったのが惜しい。本人の思っている以上に、客席から見ると振っているように見えない状態になってしまっているのだろうと思う。

床の演奏はもう少しメリハリがついていて欲しかった。

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昼の部2つ目、絵本太功記、夕顔棚の段、尼ケ崎の段。

さつきの閑居に集う人々の、純粋で瑞々しい雰囲気が出ているのが良かった。
さつき勘壽さん、操勘彌さん、十次郎玉佳さんの配役は、本公演に並ぶ豪華さ。この三人は描写が的確で、余分がなく、垢抜けている。

操〈吉田勘彌〉には色香がある。操は人物造形にバックグラウンドやその深さがないのが難点の役だけど、勘彌さんが遣うと独特の佇まいが出て、ただの内室とは思えないところがある。
この艶麗さをもたらしているのは、曲線をイメージさせる流れるようなモーションだろう。お辞儀する、振り向く、手を差し出すなどの基本的動作にしても、直裁的に下ろす、振る、突き出すのではなく、少し弧を描いたような動作になっている。下品に「クネクネ」させずとも色気をかもしだす表現に長けていると感じた。
個々の動作が柔らかにつながっているのはとても音楽的。義太夫のミュージカル性をいかした動きになっているのも良い。ほかの人には真似できないだろう。
女方でいえば、和生さんも柔らかく美麗な遣い方をするが、和生さんは目線や手とかしらの関係など細かいところまで詰めきっているゆえに若干緊張をもたらしてくるところがある(だからこそ政岡や戸無瀬といった気高い性格の役が勤まるのだ)。が、勘彌さんは程よく抜け感があるので、こちらを緊張させてこない。これも独特のこなれた味わい。勘彌さんの場合、美学として手順を抜くとか、雑としての手抜きとはまた違うんだよね。抜け感としか言いようがないものがある。たまに「抜け感」の限界に挑戦しすぎていることもあるけど、今回はちょうどよかった。
冒頭、操は揚帽子(角隠しみたいなやつ)を付けて登場する。そのかぶり位置が若干高めなのがなぜなのか気になった。確かに顔は見えやすいが、もう少し下めにしたほうが顔まわりのバランスに美しさが出るように思ったが、どうか。

十次郎〈吉田玉佳〉は、幼さともいえる若さが全面に出た清楚な美少年。大変優美な姿で、「尼ケ崎」冒頭の憂いに沈むさまが似合っていた。昭和の少女漫画のようなキラキラ感、お菓子でできていそうな可憐さだった。
十次郎は、肩衣姿、鎧姿、手負と場面ごとに強く変化をつける人が多いが、変化させること自体に気を取られてあまりやりすぎると、人格がばらける。そこをやりすぎず、少年らしいしなやかさを保ちつづけていたのも良かった。ただ、それとは別の話として、軍物語については、もう少し強いメリハリをつけて情感の高まりを表現したほうがいいと思う。控えめだったはずの十次郎が感情を表に出して父を気遣う姿を見たい。
玉佳さんは、『妹背山』の久我之助もかなり良かったよね。美少年役は向いているんじゃないかな。以前、あるトークショーで「師匠の思い出は」と問われて「忘れてしまいましたぁ〜……。でも、師匠はすごい人で……すごい人やったんですぅ〜……」と、それこそすごいことを言っていたけど、やっぱり、玉佳さんは師匠をよく見ていたんだな。そして、ほどよく忘れたことによって(?)、師匠の湛えていた謹厳さが薄れ、玉佳さんらしいスイーツ性が入り混じって、こうなってるんだろうなと思った。

光秀は、勘十郎さんにありがちな「かしらより先に右手から早く・強く動かしてしまい、身体の個々のパーツがバラバラに見える」ということがなく、自然な動きになっていた。いかにもなところだけ過剰に力んで芝居に凸凹ができるということもなく、いつになく落ち着いている。過剰に説明的、装飾的な演技もカットされていた。個人的には役の性根に対してこれくらいが適切だと感じた。
しかし、姿勢がかなり不安な状態になっていた。座り姿勢の人形の位置がかなり下がってしまっている。勘十郎さんは2年半前の時点で、後半光秀を持ちきれなくなり、人形の位置が下がっていた。そこからさらに時が経過した今、冒頭からこうなってしまうことは想定はしていたが、見ていて辛くなった。ひざの曲がり角度が90度以下になっていたが、普通は110度以上まで上がって、太ももが伸びて足がすっと見える状態になるはず。現状だと、足遣いの腕の上に人形を乗せている状態だよね。人形がねじれて見えるのは、人形の尻が足遣いの腕につきすぎているせいで、胴が潰れているからでは。こうなっているのは勘十郎さんだけとは言わないけれど、一応得意としているはずの役がこれというのが悲しい。

ただ、光秀が全然ダメだったかというと、そうではなかった。ぱっと見だと、上手く見える。なんなら、相当上手く見える。なぜならば、相当にちゃんとした左がついていたから。
左手の動きにインパクトを持たせる型や、左が姿勢を左右するポーズは、かなりきっちり決まっていた。手を差し出す位置、タイミング、手のひらを向ける方向、座位立位に応じ全身を美しく見せるために差し出す位置コントロールが的確。特に、最後、陣羽織姿に着替えた久吉の出を見やって振り返り姿勢になる「石投げ」の見得は、左手を高く引き上げて全身を吊り伸ばすことで、通常では考えられないほど美しく決まっていた。勘十郎さんは芸風的に動きで見せるタイプなので、「姿勢が綺麗」ということは普段ありえない。そういった特質の主遣いに「美しい姿勢で型を決めること」を実現させる左遣いの実力に唸った。これらによって、従来の勘十郎さんの光秀よりも、相当に若返って見えていた。
冒頭に書いた「身体の個々のパーツのバラバラさ」が抑えられていたのも、この左の人がかなり早めに次の動きの準備をしており、動きが速かったのもあるだろう(曲に合わせて遣っているがゆえに、たまに右手より早いのにはちょっと笑った)。風呂場にうまく槍先を突っ込めないなどのトラブルが起こりそうになった際の瞬間的な対応などを見ても、相当に慣れている人と思われる。

以下は、あくまで推測であることをお断りしておく。
この左は、通常、勘十郎さんの左に入ることはない人だろう。海外公演などに人を取られて普段左に入れている人がいないために、通常とは違う人を入れることになったのではないか。あえて書くが、これだけちゃんとした左遣いが勘十郎さんにつくことは通常ありえない。「いつもと違う人が左に入ったから変になっちゃいました」ではなく、「いつもと違う人を入れた故に見た目が劇的にアップしました」という状態になっていた。
今回の左の人がつけられたのは、端的には、人手不足だと思う。そのときに、できる限り上手い人をつけるのは客への誠意として極めて順当なことだ。しかし、その裏には、たくさんの歪みが隠れている。
興行的要請によって本質的には無理のある配役になっていること。勘十郎さんは以前、玉男さんを揶揄して「いつも玉佳さんを左に入れている、ほかの若手に勉強させていない」と言っていたが、自分は左を育成できたのかというと、そうではなかったこと。本来は、無理をさせてでも自分の弟子などの「若造」を左に入れて勉強させるべきだろうが、それができないこと。もはやこのレベルの人をつけないと、光秀を遣いきれないこと。
よく言えば、体力がかなり低下しても、まともな左さえつけば大型の人形の役も見劣りすることなく勤められると証明できたのであるが、この左の人が勘十郎さんの左につくことは二度とないだろう。
これらの歪みは本当はずっと前からあったが、限界にきたのだ。このようなことが起こる残酷さに、浄瑠璃の内容とは関係なく、涙が出た。(比喩とかじゃなくて本当に泣いた)

人形は人形なのですぐ泣き止む。

そのほかの黒衣の役では、操の足がかなり良かったことを特筆しておきたい。クドキに数回ある、上手を向いての立膝風ポーズ、脚の形、タイミングなど、かなり良かった。急激なポーズ転換を伴う役の場合、速さ等を考えず、ポーズを変え切ることだけに注意がいってしまって、なんでもいいから思いっきりやっている足遣いも多い。けど、今回の操の足遣いは落ち着いて遣っており、操らしいたおやかさが保たれていた。勘彌さんのトーンに合っているのも良い。ほかの人の操でやったら多少やりすぎになりそうなところ、勘彌さんは感情が急激に盛り上がりつつ、カーブを描いた動きを多用する遣い方なので、合っていた。

冒頭、上手袖で若手太夫が叫ぶ「ナンミョーホーレンゲーキョ」の人数が少なくて、寂しかった。ツメ人形たちの中にサボってるやつおるなって感じになっていた。

寂しいといえば、段切、加藤正清が出てこなくて、笑ってしまった。確かにあいつ、ひとことも喋らずポーズ決めるだけだけど、お迎えがツメ人形3人だけはしょぼすぎる。でかい人形が来るから迫力と久吉の格式が出る。冒頭の妙見講ツメ人形はちゃんと4人いたのに〜。人手の問題なのか、かしら等の取り回しの問題なのかわからないけど、なんとか調整して出してくれいと思った。

そういえば、妙見講ツメ人形のうち、一人、異様に雑なヤツがいるのが気になった。湯呑みを持つ→茶を飲むのがあんなに下手になることってありえるんだ。ツメ人形は動きの「適当さ」が魅力の役ではあるけど、「適当」と「雑」は違うからなあ。

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夜の部、近頃河原の達引、四条河原の段、堀川猿廻しの段。

こちらも手堅い配役によって、普通の人々の普通の生活が優しく描き出されており、曲の持つ滋味深い佇まいがよく出ていた。要所要所が的確に決まっている。「堀川猿廻し」は、5月東京公演では本当に信じられないくらい終わっていたが、今回は超絶まともだった。現在の本公演では逆にこうはできない豪華配役によるものだろう。

手堅すぎて、「四条河原」に至っては、本公演あわせても自分が観た中でベストの出来になっていた。
横淵官左衛門に勘市さん、伝兵衛に玉志さん、このレベルの人がこの役につくことは本公演だとまずありえない。「四条河原」って、本来こういう演技をすべきだったんだね……、と素で思った。こういう、誰もが「どうでもいい」と思っている段で、一挙一動をきちんと演技できるというのは、この人たち、相当にメンタルが強いんだろうな。結局、どの段も、やる人次第なんだな。勘市さんは二度と官左衛門やらないだろうけど、今後ほかの人が配役されたとしても、これくらい前向きにやって欲しいよなぁ。
それにしても、「四条河原」の伝兵衛の左、随分贅沢な人がついてないか。

玉志さんの伝兵衛は、品のある繊細な美青年だった。「四条河原」も良かったが、「堀川猿廻し」の冒頭、手拭いで頬かむりをしてしずしずと下手小幕から出てくる姿の美しさは驚異的だった。頬かむりをかぶった美男子役はほかにもいるが、治兵衛は状況や性根からするとここまで美しく表現することは出来ないので、伝兵衛ならではの突き抜けた表現になっている。
かなり上品な雰囲気、井筒屋の身代がどれほどのものかは劇中ではわからないが、京都で5本の指のうちに入るような超おぼっちゃまですか状態になっていた。グレードの高い貴公子感がありながら、ちゃんと町人に落ちていた。「すしや」の維盛などとは明確に遣い分けているのは上手い。
大袈裟な振りを徹底して抑え、微細な顔の震え、うつむきなどの表情、手の動きで見せていく遣い方で、繊細なかしらの遣い方からくる「わたし顔が完璧に整ってます」度がすさまじく、「堀川猿廻し」でおしゅんに話しかけるくだりなど、夢女夢男夢ツメ人形が涌きそうだった。人形としての容姿を最大限にいかした美麗さと透明感、清潔感。初代玉男の若男はこんな感じだったんだろうな。師匠が亡くなって18年、その芸を引き継いだ人形をいま見られることに、なんか、感動してした。
ただ、おしゅんのことを好きそうかどうかでいうと、踏み込みが足りない。ぼくはみんなのアイドルだから特定の子とは付き合えないよ感がある。このような俗世間と隔絶した高潔性は玉志さんの最大の魅力であるのだが、それによって「おしゅんのお兄ちゃん」みたいになっていた。品がありすぎ、所作が優しすぎるのが、「恋愛」感からやや離れてる。もうちょっと急に強く抱きしめる等があったほうがいいのだろう。
玉志さんの世話物の若男といえば、『大経師昔暦』の茂兵衛、『傾城恋飛脚』の忠兵衛も良かったな。時代物に配役されがちだけど、今後は徳兵衛など初代玉男師匠が得意とした世話物の若男役も見てみたい。と思った。

玉也さんはやはり上手い。与次郎を場面に応じて的確に遣っている。
おしゅんとママが話している脇で、与次郎が今日の稼ぎを数え、夕食をとる場面がある。
夕食のくだりは、細かく作り込んだ演技をする人が多い。お弁当箱やおひつの中からおにぎり状のご飯の塊を出して、それをかきこむ演技をするなど、小道具を多用して、見た目もにぎやかに演じられる。しかし、今回はおにぎりを出さず、「お弁当箱から梅干しを出す」「おひつから軽くよそう動きをする」「時々たくあんや梅干しをかじる」だけになっていた。与次郎は眉を動かせるタイプのかしらなので、ここでこれみよがしに眉を下げる演技をする人が多いのだが、眉の表情はほとんどつけられていない。首をかしげる等の表情出しもせず、手の動きも小さめに、淡々と食べるのみ。
これを「よく見て」しまうと、与次郎が本当にご飯を食べたかどうかわからない。自分の場合、最初かなり凝視していたため、「もしかして、与次郎は家族により多く食べさせるために自分は夕ご飯を食べるのを控えているけど、食べている姿を見せないとママやおしゅんが心配するので、空の茶碗だけ持ってかきこんでるフリをしてるのかな」と思っていた。が、しばらく見ていて、ああ、これは意図的に演技の見え方を曖昧にしているんだなと思った。
ここで、おしゅんとママが主役であるにもかかわらず、これみよがしに与次郎を遣ってしまう人がいる。しかし、玉也さんは与次郎の動きをややぼかし、おしゅんとママに観客のフォーカスがいくようにしているのだ。先日、『生写朝顔話』笑い薬の段の感想に書いた通り、玉也さんは、「なにをやっているか」を大変明瞭に遣う人だ。そんななか、与次郎の夕食の支度をぼかす遣い方をするというのは、非常に上手い。ほかの場面でははっきり遣っているので、落差が出て自然と目がいかなくなる。こういうやりかたがあったのかと思った。
また、猿廻しのくだり。ここでは、「夕食」とは逆に、与次郎の動きが単純化してしまう場合が多い。与次郎はおさるリードを持ったまま、床に棒をパシパシ打つ程度であることがほとんど。おさるに注目させる意味もあるだろうが、実際にはおさるもその小ささや造形の単調さゆえに表現の幅に限界があり、客としては途中で飽きてくる。
しかし、今回は与次郎に動きをつけて、時々リードをたぐる等の変化をもたせていた。リードを少し取り直すとか、両手持ちにするとかのちょっとしたことではあるが、おさるとの関係性に変化が出て、意外と効果的なのだ。リードは2本あるし、1m以上の長さがあるので、たしかに舞台上の要素としては「でかい」。この紐の状態如何が意外と視覚効果を産んでいるのだなと感じた。与次郎を「地蔵」化させず、かといっておさるより目立たせず、おさるを引き立てる遣い方だった。
このあたりの塩梅は、「さすが玉也」としか言いようがない。センスあるわ。本当、上手い人だと思う。

清十郎さんのおしゅんは、うら寂しげな佇まいがあいかわらず良い。若い女の子感とうらぶれ感を両立させつつ、浄瑠璃の女性登場人物らしい透明感を兼ね備えているのが個性的。
おしゅんは今回もまた簪を戸口に挿していなかった。清十郎さんはやらないということなのか、それとも、床の交代タイミングの兼ね合いなのか。たしかに浄瑠璃の文章では「たたずむ軒は見覚えの『確かにこゝ』」としか言っておらず、簪を見て気づいたとはなっていない。ただ、伝兵衛とおしゅんは遊郭の客と遊女の関係であって、これまでは店でしか会っていないのでは。なぜここがおしゅんの実家だとわかったのかが不自然なので、彼にわかる目印となるものがなくては意味が通らない=それが簪を戸口に挿すという型として伝承されてきたのだと思うが……。

簑一郎さんママは、穏やかな品のある佇まいで、かなり良かった。静かめの雰囲気が「さすが与次郎やおしゅんみたいないい子を産み育てたママ」感があった。個人的には、節々でもうちょっと出しゃばってもいいかなと思う。

最後の猿廻しのくだりは、平成初期の藤子不二雄アニメのエンディングみたいだった。なんか、のどか。おさるが本公演のように妙にテキパキしておらず、本物の動物みたいな動きだった。多少は与次郎の指示を聞いてるけど、本人(本猿)の意思で動いてまーす。自分のペースで生きてまーす。という感じのまったりムーブで、新味だった。私は動物が好きで、その理由は奴らは好き勝手に生きているからなのだが、そういう好き勝手に生きている動物を見て癒される感じがあって、良かった。
ただ、全体ののどか感自体は、三味線に締まりがないためやや間が抜けた印象になっているのが最大の理由だろう。意図的にのどかな演奏をしているとするにはちょっと詰めが足りないと思う。

段切は、「お初」のほうのおさるが伝兵衛・おしゅんについていかない演出になっていた。伝兵衛は、ほかの人形よりはるかに早く決まってずっとじっとしていたのが、玉志〜って感じだった。(ほかの人形は役柄もあって、全員、幕を引き終わるまで身を震わせて泣く演技をする)

これまでもしばしば書いてきたが、私は、音韻(発音)に興味がある。義太夫には、近世上方特有にみられる発音を残しているものがある。「観音」を「カンノン」ではなく、「クヮンノン」と発音するなどのそれだ。ただ、義太夫は発音の伝承を重視しないため、次第に発音が現代化してきているという。古い録音では前近代の発音で語られているものも、現代に近づいてくるにつれて前近代の発音ではなく、現代の発音になっていく場合が多い。若い太夫ではこの手の前近代的な発音を一切しない人もいるが、年配の太夫や、研究熱心な人はやっている。
今回注目したのは、「猿廻し」のママのクドキ。おしゅんの伝兵衛に寄せるまごころを聞いたママが、「親の心といふものは人間はおろか鳥類畜類でも子の可愛いに変はりはない」と嘆くくだりがある。このうち、「人間はおろか」の部分、現代標準語だと「ニンゲンワ」だが、津太夫の演奏の録音を聞くと、「ニンゲンナ」と発音している。これは昔あった「連声」という音韻の一種で、津太夫はその名残があると言える。今回、この部分に、津太夫の弟子である錣さんが配役された。錣さんはこの部分を「ニンゲンナ」の連声で発音していた。といっても、津太夫ほど明確な「ナ」ではなく、鼻濁音の「ガ」(カ゜)に接近したような発音だった。気をつけないと「特殊な発音で語っている」とは気づかないレベルだが、「ワ」ではないのは確実。錣さんはこれ以外にも、先に例として挙げた「観音様 クヮンノンサマ」(壷坂のお里のクドキ)や「名画 メイグヮ」(十種香の八重垣姫のクドキ)など、古い発音を残した語りをする場合が多い。どういう考えでそうされているのか、興味を持った。

「前」の太夫は、雑すぎないか。なぜこれでいいと思っているのだろう。客が気づかないとでも思っているのか、気付かれてもいいから手を抜きたいのか。逆に、手は抜いていない、これが全力でありベストなのだと言い出したら、より一層深刻な問題がある。手抜きするなら、客にわからないようにやって欲しい。

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「尼ケ崎」は瑞々しさ、「猿廻し」は滋味深さが魅力的で、どちらもいまの文楽のおもしろさが析出した、とても充実した舞台になっていた。

以前は、地方公演は「人手半減だから配役がひなびた感じにはなっちゃうけど、逆に珍しい役がついたりして、それはそれで面白い」という印象だった。それが今や、地方公演のほうが確実性の高い安牌配役をつけるから、結果的に上演クオリティがまともという状態になってしまっている。地方公演を見て「配役が豪華! しっかり見応え手応えのある舞台!」と思う日が来るとは思わなかった。この公演単体で見ると「レベル高かったねー!」と言えるけど、文楽全体としては、もはや破綻している。役が求める能力を満たしていない人を重要な役からできるだけ除外して配役しているからクオリティが上がって見えるに過ぎない。中間層がほかの公演に取られて抜けているから結果的に面白いとか、おかしい。こんなこと、あと3年ももたない。不健全すぎる。

今回、解説係が刷新され、昼=聖太夫さん、夜=薫太夫さんが担当されていた。
おふたりは、自分で考えたのであろうことを話されていた。いまにふさわしい切り口、言葉選びが工夫されていると感じた。どう話したらわかりやすく伝わるんだろうということを自分なりに考えて、師匠や先輩に相談しつつ、準備したんやろうね。誰に対して何を伝えたいかが整理されていて、原稿読んでる状態の鑑賞教室よりずっとわかりやすかった。おふたりとも、ガチガチに緊張して目がいんでるツメ人形状態になりながら話されていたが、「人に伝える」ことを大切にして、意識した話し方だったのがとても良かった。休憩時間のお手洗いの列でも好評の声が聞こえてきた。解説はあくまで一方的に喋るだけだが、生の舞台である限り、観客とのコミュニケーションを意識しないと、解説リーフや動画QRでも配っとけばいいって話になる。自信をもって、これからも「自分がなにを伝えたいか」を大切にして、頑張って欲しい。

それはそうと、さとちゃんは、Gマークくん(字幕表示装置)のことを「棒」と言っていた。「棒……? 棒ですかね……?」と自分でも疑問を覚えていた。薫さんは、解説中は明治時代の弁士風(?)の喋りにしていたが、Gマークくんに話しかけるときだけ、突然普通の喋り方に戻っていた。素直に生きている感じがした。

人形の若手で、演技が間違っている人がいた。性根がどうちゃらとか、決まった型ができていないとか、多少タイミングがおかしいとかではなく、初歩的な話として、物理的におかしい動きをしている。師匠はどういう指導をしているのか。一緒に舞台に出ている先輩たちも、なぜ誰も言ってあげないのだろう。悲しくなる。
ただ、「若手」といっても「本当に若い」わけではないので、自己責任なのかもしれない。こんな瑣末な間違いに気がつかない、気をつけて演技ができないのは、これまで「勉強」してこなかった結果なのだろう。そもそも、「勉強」がなにかということをわかっていない、教わっていないのだと思う。本当に残酷だと思った。

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おととしから毎年開催されている「和生・勘十郎・玉男三人会」の3回目にして最終年、今回は玉男さんの回。
昨年までとは異なり、今年は本人の得意役+本人初役の演目という意外性をもたせたプログラムとなっていた。

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一谷嫰軍記、熊谷陣屋の段 。
「前」のみの上演。熊谷=玉男さん、相模=和生さん、藤の局=勘十郎さん。

玉男さんの熊谷は、表情がない。表情のない人形それ自身のままの貌をしている。分厚い刃物のような強い鋭さをもった、「公(おおやけ)」の顔。「前」であっても熊谷が隠している本心を伏線としてやや匂わせる人もいるなか、玉男さんは完全に内面を塗り固めて、表面だけで相模・藤の局と対峙している。しかし、〈物語〉の直前の「敦盛、はさて置き」の「敦盛、」には、強いテンが置かれていた。感情をぬっぺりと塗りつぶした中にも、彼がなんのためにそうしているのかはわかるようになっていた。玉男さんの熊谷は、出と、〈物語〉に入るまで相模をまともに見ない部分に特徴と上手さがあると思った。

同時に、近年熊谷を遣っている玉志さんがいかに上手いかということがよくわかった。描写力がまったく違う。印象論ではなく具体的に言うと、かしらの可動域が違う。玉志さんはかなり明瞭に、微細に、かしらを遣っている。むろん、玉男さんは、意図的におさえた遣い方をしている部分もある。しかし、特に〈物語〉は、明らかに玉志さんのほうがかしらを使った描写が細密で、表情に富んでいる。演奏の音をOFFにしても音が聞こえるかのような演技なのだ。なにげない部分での目線の遣い方、所作の意味の明確化、緊張感の盛り込みなど、相当に研究と実践がなされていることがわかった。今回の玉男さん熊谷の左遣いは、直近で玉志さんが熊谷を遣ったときに左についていた人と同一だと思う。同条件でここまで違うとは、衝撃的だった。光秀(絵本太功記)でもそう感じたが、技術的な上手い下手の話をしても、明確な結論が出ているので、もはや意味がない。その人がなにを表現したいと考えていて、それがどれだけ実現されているかが批評の論点になる。これは「いいとこ探し」の話ではなく、「上手く」できているほうを評するのであっても、上手いから良いとかは書いてももう意味がない。その人が何を考え、何をやっているか、それを自分がどう受け止めるかでしかない。私は出演者の評価をするために文楽を見ているわけではないが、それでも、「自分の見方」というものが揺さぶられる経験だった。

和生さんの相模は、近年本公演でも役がついているため、かなり手慣れた雰囲気。上品な中年の女性の佇まいがよく出ている。細かい処理も非常に綺麗。みんなのお母さん感があった。

最後についていた座談会で、勘十郎さんは、藤の局はあまり動いてはいけない役で、今回も動きすぎてしまったという話をしていた。
でも、この話、本心ではないでしょうね。勘十郎激重監視勢の私の見立てからすると、玉男さんを立てるために、かなり控えめにしていると思う。なんでじゃーーーー!!!!! 勘十郎の過剰ド派手はいまこそ発揮すべきだろーーーーー!!!!!! もっともっとコブシ効かせろ〜!!!!!!!!!!!
藤の局はもとの身分はともあれ、正気なわけがないんですよ。もともとここまで自力で走ってきた&単独で敵将の陣屋へ忍び込んだ&たかだか護身用の懐刀一本でクソドデカ武将を殺そうとするような異常激烈気性女が、「息子が殺された」ときのことを聞いて正気なわけがない。本公演でもそうだけど、〈物語〉のあとのクドキは、もっと派手にやって欲しい。勘十郎には期待してたのに!!!!!

公演チラシのキービジュアルにも使われている、かけ出てきた藤の局を熊谷が取り押さえるところは、私がこれまでに見た「陣屋」の中でも、最も大失敗していた。このメンバーでなんでこないなことになるんじゃ。しかもここ、初代吉田玉男がこだわって改訂した重要な場面やろ。手順忘れとるやつおるど。たしかにとても難しい部分で、本公演でも初日は高確率で失敗する部分。今回は本当に全然ダメで、若干面白かった。本公演はたとえ出来はアレでも、実は裏で、お兄さんな人が段取りを指導したり、みんなで稽古してるんだろうなと思った。

しかし、前のみ!???!!!!! 熊谷が首実検のため奥へ入ろうとするところで、藤の局をよけたあとに奥の一間への引っ込みをせず、舞台上で決まって幕だった。
時間の問題だと思うけど、思い切ったな。慎重に言葉を選ぶ必要はあるが、「ミーハーさ」を考慮すると、首実検のほうやったほうがよくない? あっちのほうが「誰にでもわかりやすい」っしょ? と思ったが、玉男さんが「陣屋の本質は〈物語〉」と考えていることによるものだろうな。
以前、「赤坂文楽」という実演つきトークショーイベントがあった。有名なシーンを10分程度のみ、抜き取りで実演しつつ、出演者が自分で演技について解説するという特殊な企画。その玉男さん主役の回で、『絵本太功記』が取り上げられたときがあり、玉男さんは「操のクドキを聞いている光秀」のシーンを実演していた。「操のクドキを聞いている光秀」。文楽を見慣れている方はご存知だと思いますが、五月人形的なポーズで前方を見ているという激渋演技。人形の操役なしで。光秀一人で。「実演!?!! それを!?!??!」と思ったが、玉男さんはこの演技に深いこだわりがあることを語り、腹にぐっと力を入れて操を見据えている様子を描写するのがどれだけ重要で難しいかという旨を訴えていた。いかに本人にこだわりがあろうとも、お客さんを楽しませることを重視する勘十郎さんや和生さんはこんなシーンは選ばない。玉男さんは、とても素直な方で、そして、お客さんを信じているんだなと思った。あのときを思い出した。

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伽羅先代萩、政岡忠義の段 。
政岡=玉男さん、八汐=勘十郎さん、栄御前=和生さん。

昨年の座談会で和生さんが言っていた「綺麗目の女方やればー!」が実現し、玉男さんが初役で政岡を遣うというミラクルチャレンジ配役。客を喜ばせるためにやるのか? 一発ギャグ? と思っていたが、なんと、「陣屋」より良かった。

玉男さんって誠実なんだなと思った。
自分の気の向かない演目だと、客にわかるレベルでおざなりに済ませる方がいる。しかし、玉男さんは、若手会で初めて大役をもらった「若造」のように、懸命に政岡を遣っていた。ふだん人形を遣っているときの玉男さんは「無」の表情なのに、今回、あまりに真剣な表情であることに驚いた。純粋に、「政岡」という人に向き合っていると感じた。その懸命さが政岡に映って、とても凛々しく瑞々しい政岡になっていた。玉男さんの政岡は、ものすごくまっすぐで、澄みきった美しい内面を持っている。

女方人形遣いは動作の際に必ず「女性」の所作(身体やかしらを軽く揺らせる、カーブを描いた動きにするなど)を混ぜてくるが、それがないので、一層の意志のまっすぐさ、芯の強さを感じる。目線の使い方がかなり強く、所作より先に人形の目線を「はっ」と先にいかせたり、折々にはっきりと姿勢を整えるのも、若い武将のような雰囲気。動きもシーンの持つ性質以上に速い。後ろ振りへ入る回転スピードなどがかなり速く、フィギュアスケート選手のようなシャープさがあった。女方人形遣いが政岡を遣ったのではまず見られない政岡だった。

政岡は泣きながら舞い踊っているはずなのに泣いている感がなかったり(これは床もそうだったが)、時々「男」の所作が混じってバシッと決まりすぎたり、焦って次の振りへ入るのが速すぎたり、逆に忘れていたのをそのまま切らずにあとからやってしまったり(目を閉じるのを忘れてあとからおっかけでやっている箇所があった)、言い出すといろいろあるんだけど、これでいいんだ、と思った。至らない点ではあるが、政岡という人格を取り違えているわけではない。むしろ、ご本人の目一杯さ、ひたむきさ、焦り、その役(役の人格そのもの)を大切に思う気持ちが役の内面にシンクロして、完璧にできているわけではないことによって逆に役の本質に接近するというか、それによって魅力が一層高まるというか……。歳をとっても、真剣に新しいものごとへ向き合う気持ちでいられる人って、すごい。

最後の座談会で、玉男さんは「役に慣れないうちは先へ先へ行ってしまう」という話をされていた。この政岡が、実際にそうなっていた。フリを若干前倒しでやってしまうということは、フリ自体は覚えているということで、迷いや誤魔化しがないことが見て取れた。あまりに迷いがなさすぎるので、事前にちゃんと稽古をしてると思う(和生スパルタレッスンが行われていたのかもしれん)。そんな「若気の至り」をいまでもやってしまうほど、若いころと同じ気持ちで人形を遣ってるのは、すごい。改めて、玉男さんのことが好きになった。

そして、玉男さんの師匠への思慕も感じられた。玉男さんの師匠、初代吉田玉男は由良助・菅丞相をはじめとした立役の座頭役で有名だが、もともと女方であったため、後年も政岡・尾上などの立女方も演じていた。この演目が選ばれたことも、それに由来している。しかし、当代の玉男さんはその左を遣わせてもらったことは数回しかないと聞いていた。なぜ外されたかはご本人もよくわかっているだろう。師匠と自分との違いに悩まれたことも多かったと思う。それでもやっぱり、玉男さんは、役に関係なく、師匠のことをずっとよく見ていたんだな。

熊谷よりも政岡のほうがかしらをしっかり持てていたのは、印象的だった。
玉男さんは、最近、かしらがほんの少し上手に傾いてることがある。玉男さんがやるような立役はたいてい上手に座る役で、下手に相手役(目下の役)がくるので、そちらを見ている演技をするために、若干かしがせているのもある。ただ、必要なく傾いているとしか思えないことがあり、大丈夫かいなと思っていた。しかし、政岡はものすごくまっすぐ持っていた。それが政岡の内面のまっすぐさを表現していた。片はづしを結った時代物用の老女方のかしらは相当な重量があるらしく、和生さんでも最近は若干不用意に揺れることがあるし、「市若初陣」のときの勘十郎さんは動きに制約がありすぎて厳しいのではないかという状態だったのに……。そこはさすがにふだん立役の重量があるかしらを扱い慣れていて、かつ、強い緊張のある初役だからということなんだろうな。でもこれで、まっすぐ持てることがわかった。おてていたいいたいのときがあるのもわかりましたが、不要なときにかしいでたらアカンということね。玉男様がんばって。と思った。

というか、政岡の左、千松の死体を抱いてのクドキのところは、和生さんが左に入るかと思っていた。客へのサービス兼ねて。本公演だと、栄御前が帰ったあとに「後には一人政岡が奥口窺ひ窺ひて……」で政岡も一旦引っ込んで(あたりを見回すテイで一旦正面ふすまに入る)奥から出直す場合があると思う。そのパターンで、栄御前が引っ込んだらすぐ政岡も引っ込んで、和生さんが出遣いで政岡の左に入るのかと思っていた。ところが、そういうことはなく、もとの左をつけたまま、最後まで玉男さんが自力でやっていた。今回の政岡の左遣いの方は、以前、和生さんの政岡の左をやっていた方だと思う。なので万が一のときはフォローしてもらえるという面はあるにせよ、とくにその人に頼るわけでもなく、玉男さんが、ご自身でよくここまでやったなと思った。

和生さんは『先代萩』が出るときはいつも政岡役のため、ほかの役を遣っているのは初めて見た。和生さんの栄御前は峻厳な雰囲気で、柔らかみが一切排除されており、かなり良かった。文楽の栄御前は「ババア」ではなく、人形の容姿が可愛らしいので、甘く転ぶ人も多い中、ふだん政岡を遣っているだけはある堂々とした雰囲気だった。なお、和生栄御前は、玉男政岡を厳重監視していた。

勘十郎さん八汐は控えめな感じ。虚飾嫌い(?)の玉志さんのほうが派手に&執拗にやっているくらい、抑えた演技だった。もっと派手にやれーーーーー!!!!!

この三人が主要三役で出ると、ほかの役に存在感がなくなるのはどうしようもないか。
小さいところだが、千松が菓子箱を蹴散らしていないのが気になった。本公演だと、詞章通り、食べきることができなかった菓子は蹴り飛ばすか崩して手すりの外へ落とすが、今回はそのまま菓子箱の上へ倒れる演出。会場都合などあるのかもしれないが、鶴喜代君に絶対食べさせないことが重要なので、せめて盆の上から振り払うほうがいいと思う。
また、八汐が千松を刺すくだりで、八汐の左遣いが不用意な位置に立っていたため、うしろに控えている政岡が見えないのには困った。途中で気づいてよけていたが、狭い会場だからこそ、都度都度の状況に応じた取り回しを勉強する機会になるんだろうなと思った。次は最初からどいとって🥺

そうそう、ステージがあまりに狭過ぎて、御殿の大広間のはずが、広さが大学生の一人暮らしの部屋以下しかなかったのは、ちょっとウケた。「陣屋」はそんなに気にならなかったけど、『先代萩』は正面襖の奥のスペースも作らなくてはいけないため、あからさまに不自然になっていた。みなさん、狭い中で、お疲れ様でした。

◾️

座談会。
御殿の大道具を出したまま、その前に椅子を並べ、下手から勘十郎さん、玉男さん、和生さんの順で着席して、勘十郎さんが司会(タイムキーパー)をして進行。

今回は玉男さんが主役の回なので、最初に玉男さんから二役を終えての所感のお話があったものの、基本的には三人均等に話していた。司会を入れず、三人が普通に喋っている雰囲気が良かった。とても自然だった。もちろん、お客さん向けの会話ではあるけれど、受け答えがプライベートっぽいというか。地方の公演に来てもらったあとに、空港行きのバスの発車まであと30分あるから、旅館のロビーでちょっと待っててもらってるときに話を聞かせてもらっているとか、そういう感じだった。

以下、お話の内容をかいつまんでメモ。
(司会者なしのジジイ放談につき話が自由に前後したため、話題をピックアップして、順序を整理しています。)

今回の演目選定について

玉男 「陣屋」はすぐに決められたが、もうひとつは悩んで、決めるまでに時間がかかった。
「陣屋」「先代萩」の並びは、師匠が一日でやった二役にちなんでいる。師匠の初代吉田玉男は、昭和55年(1980)に朝日座で昼は熊谷、夜は政岡を遣った。
熊谷は9年前の襲名でもやらせてもらったが、政岡は初役。実際持ってみると、重くて、???(聞き取れず)で、大変……。政岡はこの前にもまま炊きとかあるんですけど、これはちょっとムリですので、「政岡忠義」だけ。できるかな、できるかなと思って……。(笑顔で勘十郎さんと和生さんを見回しながら話されていた。この二人から「大丈夫!」って言ってもらったから決められたんだな感があった)
お見苦しいところも多々あったと思います。後ろ振りするところ、かしらがうまく回らなくて、失敗してしまった……。稽古では大丈夫やったんやけど、熊谷やった後は手が痛くて出来なかった……。(救いを求めるように和生さんのほうを見つめる)

和生 先代さんに似たところが時々出るなと思った(突然妙にはっきりした言い方で)。後ろ振りは、左と足の責任が重いから、「左と足の責任や」と言うておけばいいんです。(つまりそれは……「失敗の原因はすべて玉男にある」…ってコト!?)

玉男 師匠は熊谷や由良助(仮名手本忠臣蔵)など立役が多かったが、尾上(加賀見山旧錦絵)や玉手(摂州合邦辻)、政岡も遣っていた。今日9月24日は、師匠の回忌命日なんです。それで…………。(話が消え入ってしまったが、おそらく、2役を勤めることで師匠のすごさを体感するとともに、みんなと一緒に師匠の追善ができて良かった的なことをおっしゃりたかったのだと思う)

「陣屋」について

和生 ぼくは相模で何度もやらせてもろうてます。相模は師匠(吉田文雀)がよく遣っていた役。師匠は、「相模は『はや日も傾きしに』で上手の障子から出て、前へ歩き、入り口の柱に寄っていって、熊谷が出るまでが勝負」と言っていた。相模は息子の小次郎が心配で、一里歩み、三里歩みして、京都まで来た。そこからまた夫や息子のいる須磨まで来て。その息子が心配で仕方ないという心情と、陣中へ来てはならないと熊谷から固く言い付けられていたのを破ってしまって、「怒られるかなぁ」という不安な気持ちを表現しなくてはいけない。熊谷が出たら、あとはラク❤️
でも、こういうこと言うと、12月にまた相模遣うたときに、「あの人、あんなこと言うてたけど、できてへんでw」と言われる……(笑)

勘十郎 ぼくは熊谷も何度かやらせてもらってますけど、藤の方が一番多い。藤の方はあまり動いてはいけないんです。でも、ぼくはどうしても動きたくなってしまって。今日も動きすぎてしまったかなーと思ってます。
先代萩』の八汐のような役はやりがいがある。八汐や『夏祭浪花鑑』の義平次など、悪役は面白い(ウッシッシと笑う)。ただ、それまでにいろんな役を遣っていないと、いきなりはできない。

女方を遣って

玉男 女方は、もう照れ臭くて、恥ずかしくて……。若い頃は、和生さんと並んで『冥途の飛脚』の傍輩女郎の“鳴戸瀬さん”“千代歳さん”をやっていたが、それ以来、何十年振り。『蘆屋道満大内鏡』の継母(役名ド忘れしていらっしゃったが、「加茂館の段」に登場する加茂の後室のことだと思う)とか、岩藤(加賀見山旧錦絵)は何回かやったことがあるが、政岡のような老女方(のかしらの役)は初めてやらせていただいた(加茂の後室と岩藤はともにかしらは「八汐」)。
師匠は女方よくやってたんですけど。ぼくが入門する前、昭和30年代には女方と二枚目をやっていた。お染(新版歌祭文)とか、小春(心中天網島)とか。ぼくが入門したときにはもう立役が多くなっていた。師匠は女方のほうがラクや言うてました。(和生さん「女方のほうが軽いから」と笑う)

急な代役

玉男 師匠も80代になってからはよく休演するようになって、代役を遣わせてもらった。

和生 (突然)NHKから出てるDVDの『伽羅先代萩』、お詳しい方はわかるかもしれませんけど、あれ、途中で政岡遣うとるの、先代さんからうちの師匠に代わっとるよな。

玉男 ああ〜、あの日、師匠が急にお腹痛いて言い出して。

和生 うちの師匠が、「代わったる(からトイレ行ってき!)」って言うて。千松が刺されて、政岡が鶴喜代君を連れて一回奥(上手の一間)へ引っ込むまで、うちの師匠。もう一回出るところから、玉男師匠。黒衣やで、よう見んとわからんのですけど。公演記録日に、偶然、そういう急な代役があって、映像に残った。

勘十郎 え〜、そのDVDがNHKから発売されておりますので、ぜひお求めください。(営業!)

師匠が左を遣ってくれた思い出

勘十郎 11月の大阪公演では、わたし、久しぶりに『仮名手本忠臣蔵』の勘平を遣わせてもらいます。「腹切」の勘平も若いころ代役で遣わしてもろて。うちの親父(二代目桐竹勘十郎)に役がついてたんですけど、直前になって、「やっぱ、無理🥺」て言い出して、左やったわたしが。(竹本)津太夫師匠のところに「今日からこいつが代わらせてもらいます」と挨拶に行って……。冷静になればフリ全部覚えてるんですけど、急に言われると頭真っ白になって。前日とかから「明日から代わって!」と言うといてくれればいいんですけどね〜。「身売り」のおかるを遣っていた師匠(吉田簑助)が入ったら(出番が終わったら)すぐ黒衣に着替えて左をやってくれた。

玉男 代役など、役に慣れないころは焦ってしまって、ゆっくり遣えばいいのに、先へ先へ行ってしまう。待ってられない。若い頃、若手向上会でこの「陣屋」の熊谷を遣ったことがある。当時は人数が少なかったために、師匠が頭巾を被って左を遣ってくれた。そのときに、自分が焦って前へ行こうとすると、師匠が引っ張ってきて、動けない。「まだや」て引っ張ってくる。でも、そのときに師匠が引いてくれたおかげで、うまく決まって。いま、自分も左遣いに「引かんかい!」と言うことがある。そうすると、人形が綺麗に決まる。(このとき、和生さんが左を遣って後ろへ引っ張るジェスチャーみたいなのをしているのがおもしろかった)

和生 ぼくは須磨浦の玉織姫役で出て、師匠が左をやってくれた。玉織姫は、熊谷に預けられた敦盛の首……、実は小次郎の首なんですけど、玉織姫はもう死にかけで目が見えなくなっているなかで、首をためつ、すがめつ、見ようとする。そのとき、普通は首を持ち上げて、玉織姫の胸の前あたりに差し出してもらえれば簡単に「ためつ、すがめつ」できるんですけど、舞台稽古のとき、師匠がいきなり、「死にかけのやつが首を持ち上げられるわけがない!」と言い出して、首を膝の上に乗せたまま動かしてくれなくなったんですよ。どうしたらいいか、もう、大変でねぇ〜。先に言うといてくれればいいのに、当日いきなりその場で言ってくるから……。

まとめ

勘十郎 この「和生・勘十郎・玉男三人会」、一旦、今回が最後ですけど、また続けていければと思っています。また面白いことができればと思います。

和生 玉男さんに八重垣姫とかやればーて言うたんですけどね。ぼくらが濡衣と勝頼やって。(玉男様顔ぶんぶん)(会場拍手)

勘十郎 この紀尾井ホールさんも、来年から1年改修やそうで。

和生 国立劇場は、なーーーーんにも決まってないのになーーーーー!!

勘十郎 わたしたちも、あちこち陳情とか行ってるんですけど……

和生 まだあそこにあるでなーーーーーーーー!!!!

勘十郎 まずあれになくなってもらわんことには……(謎の危険発言)

玉男 でも、少しずつ、進んでるみたいですね! はっきりは決まってないみたいですけど!(突然ハチワレのようなあまり意味のないフォローを入れる)

勘十郎 そろそろお時間が近づいてまいりました。文楽は今後、12月は江東区と横浜、2月は品川区と文京区と、毎回場所が変わってご不便をおかけしますが、どうぞ運びくださいますよう、よろしくお願いいたします。(幕)

主役の玉男さんは、両側に勘十郎さん・和生さんがいて安心されたのか、ご自身の思っていることをそのままお話されているようで、玉男さんらしい雰囲気だった。玉男さんから話題振りとかもしていて、楽しそうだった。両サイドの二人、せっかく玉男様が殊勝にも「立役も女方も遣うお二人はどうしてるのか知りたいです💓」みたいなこと言ったのに、興味ないのか、あんまりまともに答えず流したのは、良すぎた。個人の会話かい。
そんなこんなでまともに見えて突如脈略のない不規則発言をかましてくる和生さんも、すぐに勘十郎さんや玉男さんがしっかり受けるので、いきなり独自話題をはじめても、普通の会話として成立していた。
勘十郎さんは、単独トークや司会者との応答だと、いかにも準備してきた通り一遍の回答になりがちだが、笑顔でコッチ見てくる玉男さんのフォローに入ったり、和生さんの不規則発言に答えることで、そうでない普通の受け答えになっている部分が垣間見られて、良かった。

和生さんがまたもや役名を忘れて、「※★◎%▲(聞き取れない)の、敦盛じゃないほう」と言ったとき、勘十郎さんと玉男さんが即座に「玉織姫」と答えたことに驚愕した。そもそも、最初に和生さんが「また忘れた、あの、※★◎%▲の、ほら、あれ」と言ったとき、勘十郎さんと玉男さんが「敦盛」と言ったのにも「何言うてるかわかったんか!??!?!?」と驚いたが、和生さんの返した「いや、敦盛じゃないほう」で「玉織姫」と二人同時に答えられるって、すごすぎ。以心伝心すぎる。60年近く一緒にいる奴らは違うわと思った。(このくだり、ジジイトークすぎてややこしくなるので、上記お話かいつまみでは省略しています)

そして、60年一緒にいるにもかかわらず、勘十郎さんと和生さんを嬉しそうに見つめる玉男さんは本当にすごいと思った。さすがに60年も一緒におったら「空気」やろ。なんでそんな付き合いたてカップルみたいなピュアEYEで見つめられるんだ。むしろ、勘十郎さんと和生さんを嬉しそうに見つめる玉男さんを見ることで、私もとても嬉しい気分になった。和生さんもそこはかとなく嬉しそうだったし、勘十郎さんは「はい、はい」という顔をしているし、この三人は、三人セットだからいいんだなーと改めて思った。

しかし、玉男さん、失敗したところをよく自分から具体的に言ったなと思う。確かに顔がやや後ろ向きのままだは思ったけど、別に変じゃないし、後ろ振り自体が政岡の最大の価値じゃないから、別にいいかなという感想。真面目に「できなかった(>_<)」と言っちゃう玉男様、かわ……。と思った。和生は「できなかったのはそこだけとちゃうな」と思っただろうが。
手が痛くてとかも、そんな話、不特定多数のお客さんに聞かせると、今後その言葉尻をどう捉えられるかわからないので、黙っとけばいいのに。玉男さんは本当に素直な人なんだな。
そして、師匠が左に入ってくれたときの思い出から、「いま、自分も左遣いに『引かんかい!』と言うことがある」とやや強い口調で語った玉男さんには、ふだん知り得ることのない、玉男さん独自の人形の見せ方へのこだわりが感じられて、よかった。

あとな、和生はな、人に言うとらんと自分が八重垣姫をやれ。師匠相当かわいかったやろ!!!!!! 和生もかわいくなれ!!!!!!!!!! と思った。

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意外や意外、本人初役の『先代萩』のほうが断然良いという不思議な公演だった。2本目は適当な演目でいいから、「陣屋」全部やろうよー、なんやねん、と思ったけど、『先代萩』、やって良かった。

玉男さんの女方はともすれば「ギャグ」になってしまいそうなところ、胸を打たれる瑞々しい熱演だった。以前、『加賀見山旧錦絵』で岩藤を演じたときはあまりに不自然すぎて笑ってしまっているお客さんもいたけど、今回はお客さんみんな、真剣に見入っていた。政岡がこんなに似合うとは、思いもよらなかった。浄瑠璃の詞章通りに「男勝り」(「男」ではない)な女性で、もしかして、『和田合戦女舞鶴』の女豪傑・板額は、本来、こんな感じなのかもしれないと、そう思った。

玉男さんは性格の悪い役が苦手で、岩藤や義平次を遣ったときは、根性が曲がっているように全く見えず、役として滑ってしまっていた。たぶん、「悪意」の感情がご本人になさすぎて、悪意が行動原理という役の本質を理解できていないんだと思う。が、政岡は真面目で、すべてに真摯であり続ける性格な役なので、上手くいったのかも。ルックが男性に寄ったり、線の強さが出るのはあるにしても、本質表現にはあまり関係がなかった。今月は鑑賞教室が「初役」ばかりのせいかあまりにもメチャクチャな出来になっていたけど、根幹が確立している人がやれば、慣れない性質の役の初役でも、ちゃんとするんだな。

そして、先述の通り、玉男さんは師匠をよく見ていたんだなと思った。玉男さんは初代玉男師匠とは雰囲気がかなり異なっており、意図的に師匠の風から離していると思っている。しかし、政岡を見ると、やはり、玉男さんも、原点は師匠の芸であり、良くも悪くも計算しているところや固執しているところを剥ぎ取ると、師匠の芸に還るんだなーと思った。

間接的なところではあるが、初代玉男の芸や、師匠が残したものについても、考えさせられることが多かった。
前述の通り、初代吉田玉男は当初は二枚目・女方役者だった。立役としての初代玉男の芸があの域にまで至ったのは、「立役は立役」という既成概念に固執せず、立役のかしらの遣い方に二枚目・女方の技法を持ち込むことによって、より繊細で奥深い描写を実現したからだと思う。かしらの遣い方が、「立役は立役」「男は男」な人とは本当に全然違うもの。初代玉男の芸をもっとも色濃く継承する玉志さんはそれをそのまま踏襲しているがゆえに、とくに女方の修行をしているわけではなくとも、中性的に寄っていっているんだろうな。今回の玉男さんの政岡は、玉志さんの雰囲気にかなり近い。玉志さんが政岡をやってもこうなるだろうと想像された。
晩年の初代玉男への劇評には、「政岡や尾上を遣っても、ふだん立役が多いから、『男』に寄りすぎ」というものがよく見受けられる。映像しか見たことがなく、実際の舞台を見ているわけではないのでなんともいえないが、今回の玉男さんの政岡を見て、なんとなく、「ああ師匠はある程度わざとやってたんだろうな」と思った。「女」らしい女方女方がやればよいので、立役の自分があえて「女方」に寄せる必要はない。立役で自分だけの芸を作り上げた人なら、なおさらそうなるだろう。人を真似する必要や、若い頃にやったことを繰り返す必要、ないもん。前述の通り、役の本質と性別準拠の所作をするべきか否はほとんど結び付かず、ある程度上手い人がやれば、最終的な上演クオリティとは関係ないし。
劇評については、当時はいまよりジェンダー規範が強かったから、そういう発言(古典批評の範疇を超えているような「女は女らしく」発言)が平気で出るという面もあるだろう。いまの感覚からすると、評価は変わってくると思う。いま、和生さんの塩谷判官に、「『男』らしくないからダメ」と言っている人とか、いないし*1文楽の批評は存在しなくなったが、いま、「まともな」批評の場が存在しえるとしたら、この玉男さんの政岡は、どう評価されるだろうか。
文楽の見方そのものにも、勉強になることが多い公演だった。

三年連続で拝見したこの公演、いままでに見た外部公演で、一番良い企画だった。豪華メンバー、豪華演目、豪華座談会、言うことなし。

三人組を同時に出して、かつ、当人たちに演目を決めさせる点が良かった。単発の外部公演だと、どうしても「稽古せずパッとできる演目」「(得意演目であるがゆえに)無難な演目」に偏るので、主催者に独自のこだわりのある公演をのぞくと、もうそれいいよという演目になってしまう公演が多い。三人会の方法だと、たとえ本人たちに演目を選ばせるにせよ、3年通してどうするかという観点が入るので選定に個性が出たし、年々、経験が蓄積されてコンセプトの厚みが増していくのも良かった。そして、言うまでもなく、三人で勤める舞台は超豪華だった。

座談会があるのも良かった。一年目の座談会は司会者が下手すぎて残念だったけど、二年目は司会に児玉竜一氏を迎えて劇的に改善し、味わいの深いトークになった。三年目の今年の「司会者なし」は、本当にスペシャル企画だったな。ジジイ三人に勝手に喋らせて収集つかんくなったら、「さっきロビーにおった人」が飛び入りでどうにかしてくれるんか!?!?と思ったが、三人で無事にまとまって良かった。むしろ、司会が入っていないからこそ、まとまったという側面もあると思う。でも、勝手に喋らせると、ジジイ放談であるがゆえに良くも悪くも喋りたいことしか喋らないので、実入りのある深掘り話をお伺いするには、児玉氏のようなしっかりした司会者は必須だと思った。

三年間、本当に楽しかった。
最近は、三人がだんだん歳をとってきているのを感じて、切なくなるときもあるけど、それもいいなと思える公演だった。舞台で共演したり、語り合うお三方は、とても幸せそうなので。世の中、いつまでも同じままでいられるわけがないんだけど、この三人は苦楽をともにして、これからも三人でやっていくんだろうなと思えた。それでいいんだと思った。
ぜひとも、今後も継続して開催してほしい。

それにしても、今月、玉佳さん、本当にMVPじゃない?
あくまで推測だが、この公演を含めた今月の重要な役の左、玉佳さんばかりですよね。どんだけ働かさ……失礼、文楽に貢献してるんだ。この三人会があるなら、タマカ・フェスも開催必要ちゃうか。関西では実質タマカ・フェスと化している外部公演もあるが、東京でもやってほしい。紀尾井ホール様、タマカ・フェスもご検討よろしくお願いいたします。

┃ 参考 過去公演の感想

第一回(2022) 和生篇

第二回(2023) 勘十郎篇

*1:以前、玉男さんが塩谷判官やったのを見たことがありますが、それはそれは「男らし」かったですよ。でも、「男らしい」から塩谷判官らしい、良い、玉男のほうがうまいというわけではなかったですね。頭悪そう感とカスオーラがすごかったのは最高でしたが。

今年の鑑賞教室公演は会期が9月へ移動し、会場は新国立劇場となった。
東京の鑑賞教室は、例年、出演者を2グループに分け、ダブルキャストとすることが多いが、今回はA・B・Cの3グループに分けてのトリプルキャスト。そして、幹部と高齢の技芸員を抜いての編成となっていた。

◾️

伊達娘恋緋鹿子、火の見櫓の段。

Bプロの玉誉さんが断然良い。
「櫓のお七」は、外部公演を含めると頻繁に出る演目なので、惰性でやってしまう人もいる。しかし、玉誉さんのお七は、いまこのときだけの一心さを常に湛えている。ずっとこの気持ちでいられることに、敬意を表する。

[Aプロ]

[Bプロ]

[Cプロ]

◾️

解説。

A・Bプロは人形、Cプロは床の解説。
床の解説では、試演の題材を「住吉鳥居前」にしていた。今回はワンフレーズのみの演奏で、「住吉鳥居前」の内容がわかるほどの長さではなく、あくまで素材ではあるが、気分だけでも寄せてくれたのね。「同じフレーズをいろいろな役でやってみます」というのを先に言っておいたほうが適切だったのではないかと思った。
人形の解説は、英語逐次通訳付き解説の回で、通訳の喋っていることに合わせてもう一度身振りをして解説をわかりやすくするなど、工夫している方がいた。ワンセンテンス・ワンメッセージがこころがけられており、説明を短文で切っていたので、日本語話者にもわかりやすくなっていた。
逆に、何を伝えたいのかわからない喋り方をしてしまっている解説者もいた。そのために通訳が詰まったにもかかわらず、何も対応せずとぼけて茶化すとか、悪意はないんだろうけど、社会人としての常識がなさすぎて、普通にギョッとした。(これ、真剣な話、幕内でだれも注意しないのなら、お客さんがやんわり教えてあげるべきだと思う。悪意は本当にないと思うので)

今回は、解説者が客席通路扉から出て、客席内で説明するという企画になっていた。文楽では珍しい試みかもしれないけど、「ああ、“やってみた”んですね……」という感想かな。夜の回は撮影可能時間を設けていたり、なにか違うことをやらなくてはならない事情はわかるが、全体的に、大学生がゼミやサークルで企画したイベントみたいになっていた。一部の回で流している、映像の説明は、価値を感じない。

◾️

夏祭浪花鑑、釣船三婦内の段、長町裏の段。

先述した通りの配役体制のため、ものすごいデンジャーなことになっていた。大阪鑑賞教室公演のD班が、ただでさえD班なのに、3分裂しちゃいました、みたいな(わかる人にしかわからない表現で申し訳ない)。

鑑賞教室は初心者向けを謳った公演だけど、これだと、客より、出演者のほうが「初心者」だよね。しかも、若手会ほど稽古をしているわけではないので、あからさまに出来ていない箇所が多い。「三婦内」と「長町裏」という頻繁に上演される有名シーンを上演しているにもかかわらず、「三婦内」「長町裏」になっていなかった。その場面の情景、メリハリや場の切り替わりを感じられない。
もちろん、上手い人がところどころに配されている。彼らの出ているあいだは、物語の輪郭ができている。経験の浅い人も、彼らについていけば、一応、なんとかなる。ただ、その人数が少なかったり、間欠的であったりするため、フォローが回りきっていなかった。特に出演者の絶対数が少ない「長町裏」では、本公演で味わえる、いつのまにか魔の世界に落とされる感覚、神輿が入ってくると同時に夢幻世界の混沌に誘われる陶酔、神輿が去っていったあと鐘の音とともに現実へ還ってくる独特の雰囲気がまったくなかったのは、残念。

混沌の中でも光る人はいたので、書き留めておこうと思う。
人形で良かったのは、見た順に、Cプロのお辰・勘彌さん、義平次・玉志さん。Bプロの三婦・文哉さん、お辰・紋臣さん。Aプロの琴浦・和馬さん、三婦・勘市さん、義平次・玉佳さん。
以下、役別に、これらの方々+ほかの配役含め、メモ。

義平次

Cプロ玉志さんは義平次配役2回目のため、「初心者」の一種だろう。しかし、その義平次が編笠で顔を隠し、うちわを振りながらうつむき加減に出てくると、舞台の空気が変わる。昆虫のごとき人間の理解できない世界に生きる者の佇まい。名人の風格。
いや、風格ビュービューにならざるを得ないと言ったほうが適切か。Cプロは団七・玉勢さん、義平次・玉志さんの組み合わせだったが、団七が「初心者」すぎて、お兄さんとしての責任感からか、「こいつが焦ったりトチったりしても、俺が絶対にフォローする😤😤😤😤😤😤😤!!!(風、鼻息だったの!?)(水木しげる!?!??!??)(そういえばああいう顔の人、水木しげる漫画にいるような……)」状態になっており、団七がやりやすいように全力を尽くしていた。玉勢さんは一生懸命やっており、何をやるべきか、タイミングはわかっているのだが、緊張のしすぎで動きに制約が出ていた。そこに対し、義平次は普段玉志さんが絶対やらないくらい派手な振りを入れて、あたかも団七も派手にやっているように見せていた。玉志さん、いつも「無」の顔してるけど、やっぱりお兄さんなんだなーと思った。
「長町裏」は照明にかなりの難があり、照明が当たる場所が舞台の中央のわずかな範囲にのみ限られるという事態が起こっていた。そのため、手すりキワにいる団七や義平次の人形は真っ暗なのに、都合上舞台センターに立っている玉志さんがなぜかめちゃくちゃ照らされまくっていた。着付が白で衣装風に目立つことと、ご本人のお顔立ちの渋さもあいまって、玉志さんが主演俳優にしか見えない。「老境に至った孤高の人形遣いを描くお芝居のクライマックスの独白シーン」みたいな……。しかし、しばらくしたら、位置転換のどさくさに紛れ、義平次に照明がいい感じに当たる位置へ移動し、自分は影に入って演技をしていた。気ぃ使いやな〜……。と思った。

玉男さん団七相手に演じた初役時の鋭い悪意が消えていたのは良し悪しあり。異形性、神経質さ、悪辣さ、金に意地汚さそう感は引き続きあるものの、あの研ぎ澄まされた針のような悪意はやはり相手役あってのことだったんだなと思った。まあ、玉勢団七は小型のツキノワグマくらいの感じやで、軽トラやったらアクセル踏み込めばジジイでも勝てそうやでな(なんの話?)。あのときの「異様な殺人事件」の雰囲気は、初役ながらも、ご本人がやりたいことを思いきりやれたこと、玉男さんも一切遠慮がなかったことが理由だったのかな。井戸端で団七が刀を突き、義平次が避けるところとか、本当に殺人の現場を目撃しているようで、すごかったからな……。

話は外れるが、Cプロの団七の左にはかなり慣れた人がつけられていた。初日、かいしゃくにミスがあった際には、その左遣いが大声で指示していた。主遣いが口頭指示をするのはよく見るけど、左遣いが声を出しているのは(しかも客席に聞こえるような大きい声)初めて見た。確かに進行に差し支える重大なミスで、緊張のあまり何が起こっているかわかってない主遣いの代わりにその場で注意したのは正解だった。お兄たち、弟が心配でならないんだな。お兄ちゃん2人、心配のあまり大興奮、兄貴風(?)が最大瞬間風速55mに達し大型の台風が上陸、心配されているご本人は余計に緊張しそうだった。玉勢さんがうまくいかない理由の90%は緊張のしすぎだと思うので、出番前に、目の前で舞い踊ってあげるとかのほうがよいかもしれない。(余計緊張する)
この団七の左は前述の通り非常に手慣れた方で、自分のミスは自分で拾っていた。団七が義平次に雪駄で額を割られた際、主遣いが団七の右手を顔に当てているあいだに、左遣いが団七の額へ赤い傷シールを貼る。最初、このシールがくっつかず手間取っていたものの、すかさず2枚目を取り出し、ちゃんとデコの傷が完成した。と同時に、やっぱり重要な小道具はスペアあるんやなと思った。重要な小道具といえば、団七が拾う小石は、私の大好きな「小石のぬいぐるみ」ではなく、本物の小石だそうです。

Bプロの簑二郎さんが義平次をどう演じるかには注目していたのだが、意外と(?)普通の人間の俳優っぽかった。もう少し「チャリ」に寄せるかと思っていたが、簑二郎さんは誠実なんだなと思った。「三婦内」の引っ込み際、おつぎに挨拶をして→琴浦をせかしながら駕籠に乗せ→磯之丞からは顔を隠し→お辰が帰ってゆくどさくさに紛れて義平次も駕籠とともに去っていくくだりで、演技の段取りがやや混乱していた。舞台が狭すぎて義平次の演技できるスペースがなくなっている上に、他の役が不用意にダンゴになって近づいてきたのが最大の原因だと思うが、逆に自分の所作によって、周囲をうまくコントロールできるようになってくれればと思う。

Aプロ・玉佳さんの義平次は、キモかった。しきりに手足をうごめかせていて、ひっくり返ったゴキブリのようで、不気味だった。玉佳さんが義平次やると、人となりが丸くなっちゃうかなと思いきや、「なんかうすら嫌なやつ」におさめていたのは、上手い。嫌といっても、「性格が悪い」というより、「怪人」という言葉がふさわしい印象だった。『小遣い万歳!』に出てきそう的な意味の……。
義平次には、「長町裏」でガブになったあと、団七に蹴り飛ばされて二重から船底へ落ち、手すりにぶつかって背面姿勢となり、右手を上げて左手を手すりにかけ、団七と向き合って決まるという見せ場がある。このとき、タマカ・ギヘイジは、めちゃくちゃド派手に手すりにぶつかり、客席へ大幅にはみ出して遣っていたのが面白かった。だいぶこぼれていた。
せかせかした動きそのものは玉志さんと同じなのに、玉志さんはイライラしているように見えて、玉佳さんは気味の悪いクセのある人に見える。そして、玉志義平次はシャキッと身長176cmはありそうなのに、玉佳義平次は年をとって身長が縮んだ160cm以下の「昔のジジイ」な感じだった。同じ師匠から生まれて、なんでこんなぜんぜん雰囲気違うねんというほど、違っていた。どうして違う方向の異常者へと分離していくんだ!? というか、そもそも師匠の義平次、こんなに異常者じゃないだろ!!

文楽劇場技術室のインスタに、ガブの義平次の手を新調したという写真が上がっていた。これまでは通常の「かせ手」に汚しを入れたものを使っていたが、「幽霊」らしく見えるように骨の浮き出た細長い手を作ったようだ。実際舞台で見てみると……、…………??? 後述するが、今回、照明に問題があったため、袖の影に入ると指の細さ(面になって強く反射する面積の少なさ)と筋ばった骨の影の干渉もあいまって手自体が暗くなりすぎ、見えづらくなっていた。指が細くても存在感が出るよう、手自体を大きめに作る工夫がされているとは感じたが……。文楽劇場公演の光線下でもう一度見て、効果を見定めたいと思った。

お辰

Cプロ勘彌さんは、媚びや贅肉的な色気を排し、すっきり際立った涼やかな姿が美しかった。引き算をし尽くしたぶん、時折見せる艶のある表情が一層あでやかに見える。文楽業界の藤純子や。 顔にやけどの傷をつけたあと、お盆を鏡にして自らの姿を覗き見る様子は艶麗で、勘彌さんの普段の持ち味もよく出ていた。三婦のセクハラ発言に対する反応がクールなことが活きる。
勘彌さんのお辰を見るのはこれで3回目だが、初役時からブレがないので、これが勘彌さんの考えるお辰像と受け止めている。今回公演のプロモーション動画に、勘彌さんがインタビューで登場していた。この中の「心の動きを丁寧に表現できたらなと思っています」という話は、文楽の人形表現にとって、非常に重要だと感じた。単なる「心」「内面」ではなく、「心の動き」であることに文楽の本質があると思う。また、「一歩でも簑助師匠のお辰に近づきたい」ということを話されているが、簑助さんのお辰と勘彌さんのお辰から受ける印象はまったく異なる。勘彌さんのスキルを考えると、簑助さんのお辰を高精度でコピーすることは可能だろう。しかしそれをしていないということは、近づきたいのは表面的な所作ではないということになる。勘彌さんは何を指して「近づきたい」と語っているのか。とても重要なことだと感じた。私は、お辰という役に対しては、簑助さんより勘彌さんのほうが上手い(浄瑠璃の本質に合っている)と思う。それは、勘彌さんが簑助さんの良さを自分の個性の中に取り込んだうえで、簑助さんとは違うお辰像を作り上げているからだろう。
文楽は、ひとつの役を表現するのに太夫・三味線・人形遣い三者が関わっていると話したあと、人形もですね、と付け加えているのも良かった。そして、その「複雑さを楽しんでいただきたいと思っています」というコメントは、解説パートで聞きたい言葉だなと思った。

国立劇場(東京・半蔵門) (@nt_tokyo) August 23, 2024

Bプロ紋臣さんはお辰初役だと思うが、完成度の高さに驚いた。所作にブレや迷いがなく、ご本人の考えるお辰の像が作られていた。本役相当のパフォーマンス。楚々とした雰囲気で、余計なシナや雑味をおさえたシンプルな佇まい。かつ、おつぎのシンプルさとは区別されているのが良い。やや柔らかみが強いのが勘彌さんとの違いか。普段ご本人に出やすい動きの過剰さや装飾にすぎないシナが抑えられているので、よく考えてのことと思う。紋臣さんはおそらくこれまでにお辰の左をやっていて、その間に自分ならどうするのか考えており、今回それが現実になったということだろう。いつくるかわからない、くるかどうかもわからない役に真剣に向き合い続けてきた積み重ねが実ったのだと思う。本当によかった。このお辰だけでなく、これまでの努力に拍手を送りたい。

三婦

三婦はAプロ・勘市さんが良かった。勘市さんは、老人役の表現の幅が広い。老耄感を出しすぎないややしっかりめの演技で、後半、三下二人組を掴んで去っていく姿も似合っていた。人形の顔(かしら)そのまんまの表現ができる人は強い。

Bプロ・文哉さん三婦は、かなりちゃんとしていた。初役だと思うが、ずっとやりたいと思っていた役なのだろう、研究がよく行き届いていた。若干のうつむき加減など、ぼーっとしているように見えて周囲をよく観察しているジジイの雰囲気が出ていた。

ただ、「三婦内」はもうちょっと華と締まりがないと厳しい。三婦はただのジジイではないので、やや派手目の見栄えがあり、メリハリをつけられる芸風の人を持ってくる必要がある。どこかで玉志さんに三婦をやってもらったほうが良かったのではと思った。

おつぎ

おっ!と思わされたのは、Cプロ・簑一郎さん。簑一郎さんのおつぎ役は、以前、代役として見たことがある。その際は、間合いが埋まらない演技になっていた。具体的には、お辰が顔に鉄弓を当てた直後の演技。オーソドックスな演技としては、おつぎは一旦のれん口に下がり、お盆に乗せた湯呑みと赤い包みの薬を持ってきて、それを使って急いでお辰に手当てをする。しかし、簑一郎さんはこの湯呑みと薬を出さずに介抱していた。やけどした人に水を飲ませたり、薬を飲ませるのは不自然だという判断なのだろう。ただ、所作が抜けることによって、浄瑠璃の長い間尺に対してバタバタするだけとなってしまっていた。急な代役だから仕方ないか、というのがそのときの感想だった。しかし今回、湯呑みを出す演技を追加し、介抱の所作を若干複雑化することによって、適切な間合いが取れた状態になっていた。湯飲みを出すこと自体はお辰役の勘彌さんからの依頼かもしれないが(お盆は後にお辰の演技で使用する)、この進展に、大変な感銘を受けた。自分の考えを大切にしつつ、芝居としての完成度を上げる前向きな努力を感じた。
なお、これよりも前のくだり、三婦の口真似をして、かつての彼は気性が荒かったことを語る「チョット橋詰へ出てもらおう」というセリフでうちわを使わない/大きな振りをつけないのは、代役時と同じだった。なお、Bプロ紋吉さんは、三婦の真似はうちわで手すりをたたく所作あり、気付けは湯呑み薬両方ありで薬は三婦に預け、自分は水を飲ませる方式。Aプロ紋秀さんは三婦の真似はうちわありだが叩きつけはなしで振るだけ、気付けは湯呑み薬両方ありで、両方自分で飲ませる方式で演じていた。

そういえば、紋秀さんは、なぜか、あじを超慎重に焼いていた。頻繁にひっくり返し、間近でうちわをあおぎ、目の高さに持ち上げて焼けているかをチェックし……。せっかく立派なあじやのに、そないにいじったら身が崩れるがな。と思ったけど、ずっと出っぱなしになる役を貰えて嬉しいんだろうな。あじの身が崩れたら、セブンに売ってるあじほぐし弁当みたいなんを作ればいいもんねッ! あれ私も好き!!

おつぎが持っているうちわ。本公演だと、あじを焼いているときに使っているうちわと、お辰をあおいでやるうちわを替えている人がいるはず。今回はみなさんあじを焼くのに使ったうちわでお辰をあおいでいたと思うが、普通、魚や炭の匂いのついた料理用のうちわで客をあおいだら失礼なので、替えて客用(人間用)のものであおぐのがよいと思うが、客用を東京へ持ってこなかったとかなのかな?

これら以外にも、幕が開いたときから舞台に出ていて魚を焼いているか、それとも琴浦とアホの痴話喧嘩の途中から舞台へ入ってくるかという違いもあり、おつぎは配役によって素人目にでもわかるほど演技やその方法が違うので、注目すると面白い役だ。

琴浦

Aプロの和馬さん琴浦に驚いた。和馬さんはCプロ徳兵衛もすっくとして良かったが、琴浦は本当に良い。彼女の可愛らしさ、ぷんぷん感、いじらしさが控えめな中に的確に表現されている。本役で来てもおかしくない出来。まずもって最初にツイとヨソ向いて座っている姿からして、良い。和生さんがきちんと指導していること、本人も師匠や先輩をよく見て勉強していることがわかり、ちゃんとしている人はちゃんとしているのだと思った。
ただ、最後に駕籠へ乗り込むところで、義平次役の玉佳さんの気立のよさと和馬さんの素直さが謎の共鳴をみせ、琴浦が聞き分けよくすぐに駕籠に乗ってしまったのは気になったが……。お〜い、知らん人の車に乗ったら絶対あかんで〜。まあ、タマカ・チャンが迎えにきてくれたら、スルッと乗っちゃうわな。(逆に、Cプロ琴浦役はなかなか乗らず、義平次役の玉志さんが背後で猛烈にうちわを振っていた。舞台上だとうちわで実際に風が起こるから、一応、背後からでもタイミングが指示できるってことか……と思った。あんまり伝わってなかったけど……)

有象無象の三下

有象無象の三下ちゃうわ! 「こっぱの権」、「なまの八」ちゅうちゃんとした名前があるねん!!!!!
なのだが、今回、この二人が本当に「有象無象の三下」としか言いようがないことになっていて、むちゃくちゃ笑った。この2人、ふだんは『ひらかな盛衰記』逆櫓の段に登場する船頭3人組相当の「ちゃんとした人」(紋秀さん、紋吉さん、玉誉さん、玉翔さんなど)がついているので、立派な「ドサンピン」として活躍している。しかし今回、あまりに「若造」な人々を配役してしまったため、まじもんの「有象無象の三下」と化しており、異次元の味わいが出ていた。家の外でドッチが三婦にイチャモンつけるかを相談するくだりがこんなリアルなこと、今まであったか!?
特に、Cプロのなまの八・清之助さんが、「こいつそこまでポワンとしてへんやろ!」という天然ぶりで、良かった。こっぱの権の玉征さんは「こいつそこまで輪郭デカくねぇだろ!」という師匠譲りの謎の巨大貫禄を見せてるし、やばすぎた。とどまることを知らぬこのヤバさ。この手のヤバ事象は、ヤバいにはヤバいけど、かなり、好き。

近年「三婦内」が出る際には「切」がついている人が配役されているが、実際の演奏には「うーん」と思わされることが多かった。その理由は、間合いの違和感。登場人物のセリフの間隔が詰まって均一になっている、すべての登場人物が同じようなテンポで喋っている、誰が誰に対して喋るときでもトーンが同じ、など。私は、世話物は「間合い」がもっとも重要だと考えている。市井の人々の生活の雰囲気は、声と声(音と音)とのあいだの音が出ていない一瞬をどう含ませるかにかかっているのではないだろうか。Bプロ呂勢さんはその間合いが心地よく、その人らしさや、誰と誰が喋っているかの雰囲気が感じられてた。間合いがおかしいと、それに合わせなくてはならない人形がめちゃくちゃになるので、本当に、頼む。
Aプロ芳穂さんは、看経中の三婦と三下2人組とのやりとりが良かった。この部分、物語のコントラスト作りには重要なポイントだけど、その役目が曖昧になっている人が多い。細かいところまでよく勉強されているんだなと思った。三下のコソコソ話も、妙に上手かった。声の大きさを急激に下げることで、客席の注意をうまく引いている。また、そのアトを語った聖太夫さんが若手ながら相当にしっかりしていて、驚いた。ストレートさによって、一本気な人々の集まる市井の雰囲気が表現されているのが良かった。しかし、師匠はずっと床本見て語ってるのに、さとちゃんはほとんど見ないな。放牧!!!!!!!!!

物語の流れ、佇まいといった「義太夫らしさ」が出ているのが藤太夫さんだけというのは、この事態そのものはどうなのよとは思うものの、経験値的な面でほかの方々には難しいのかなとは思う。ただ、中堅若手も、本人たちが話の内容をよく研究して、自分なりにやりたいこと、やることを見定めているのだろうと感じることが多かった。出来ている出来ていないは別にせよ、課題意識は伝わってきたので、極端にダメだとは思わなかった。

[Aプロ]

[Bプロ]

[Cプロ]

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正直、この水準のものを、「これが文楽です!」と初心者に突き出すのは、不誠実だと思う。これを見て「文楽たいしたことない」「つまんない」と思われても、仕方ない。私は、今回の公演は、友人知人には勧められない。ほかにもいろいろな要因が重なり、今回の文楽公演は、いままでに見た国立劇場主催公演の中で、もっとも水準が低い印象を受けた。

人形は明らかにダメな役があった。役に慣れていないからできないとかではなく、根本的に、いつ・何を・どう演じるべきかをわかっていない人がいると感じる。今回、団七は全配役厳しい状態だった。団七は内面がないため、ところどころにある変化のポイントを押さえていかないと、ストーリーを形成できない。これがなされておらず、すべての配役で、何やってんだかわからなくなっていた。やりたいことはあるが、慣れていないからできないんだろうなという人もいる。しかし、そもそもの演技のねらい(物語上の意味)をわかっておらず、演技を間違っている人が見受けられた。

「長町裏」で具体的に指摘する。義平次が団七の長脇差を引き抜き、団七と「危のうござります」と揉み合う場面。人形が組み合う状態になって一周回るうち、脇差の刃は団七側から二人の中央にあったはずが、いつのまにか義平次にかかって、耳が切れてしまう。ここで、脇差の刃を義平次の耳にかけていない(義平次に当てたとわからない)人がいた。耳が切れて出た血を見たことによって団七は義平次を殺してしまうわけで、展開上、きちんと見せなくてはいけない所作のはずだ。ここが抜けるということは、話を理解していないということになる。また、この人は、義平次がガブになったあと、お互い井戸の周囲を回って井戸越しに舅を突こうとする場面で、義平次側へ刀を突き出すのではなく、井戸の縁を刀で叩いているだけになっていた。本公演で団七に配役される人だと、興奮のあまり手元が狂う見せ方のひとつとして、団七の手をがくがく震わせて井戸端に刀を打ち付ける音を出したり、義平次がいる位置から外してあさっての方向を突く所作を見せる場合がある。それをどういう理由でやっているのか考えず表面だけを真似ているのだろうが、あまりに考えなしにやりすぎではないか。

本来は、「長町裏」では団七が小石を拾って三十両と偽るところをどう見せるかといった細かい見せ方の積み重ねが重要で、それによって演目の趣旨である「異様な殺人事件」の異様さが闇の中から浮き上がってくる、この団七は小石を見つけるまでは正気だったので勧善懲悪キャラの一種として演じているのだろう、あちらの団七は平気で小石を拾うからはじめから異常者になっており、団七に対する解釈が人によって違うとか、そういう話をしたい。なのに、いまの舞台は、そんな話、一切できない次元になってしまっている。

お辰に関しても、肝心の鉄弓を顔に当てる場面で、鉄弓が顔に当たっていない(当てているように見えない)人がいた。単に鉄弓を手にしたまま、人形を後ろに倒していたが、これだと、本当に話の意味がわからなくなってしまう。この方は、以前、切腹する役で切腹していなかったことがあったので、やっぱり、演技の意味やそれをどう客に見せるかの重要性をわからずに、表面だけなぞっているんだなと思った。

古典芸能では、最初は意味が分からなかったとしても、「型」を真似することが大切だ。しかし、経験を重ねるうちに、その「型」が何を意味しているのかを、勉強によって知ったり、気づいたりしなければならない。それがなければ、いくら「経験」だけ重ねても、意味がない。団七やお辰のような重要な役でこの事態になっているのは、非常に遺憾。自分は今回の公演で何にこだわるのか、自分はその役を通して何を表現したいのかといった、課題意識をもって舞台に上がっていないのではないかと思われることが多いのも気になる。育成・指導の現状が厳しい状況に至っていることを感じた。

しかし、前述の通り、ちゃんとしている人はちゃんとしている。和馬さんや聖太夫さんが与えられた場を立派にこなす姿を見られたり、普段良い役のこない紋臣さんや勘市さんといった方が初役とは思えないほど立派に主役級の役を勤めるのを見られたのは、本当に良かった。玉志さんや玉佳さんが自身の役をきっちり見せつつ、相手役を引き立てる立ち回りをされている姿には、本物の実力を感じた。品質的ばらけの多い公演だと、このような方々は、より一層、貴重な存在だと思った。

清十郎ブログに、舞台稽古の写真が掲載されている。これでまた左や足の配役がわかる。ありがとう清十郎。あいかわらず異様に写真がボケているのが気になるが……。

◾️

以下、おまけ。

会場の新国立劇場について。

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今回、新国立劇場が会場と聞いて、中劇場での開催かと思っていたら、中劇場は歌舞伎公演が使用し、文楽は小劇場での公演だった。小劇場に入るのは初めてだったが、かなり狭いのね。天井高は別として、面積だけでいえば、大学の履修者多めの授業用の講義室のようなイメージ。販売席数は400席程度だろうか。

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舞台は間口が狭く、内子座程度かと思う。内子座へ行かれたことがない方には、演芸場のような、ごく少人数用の舞台の間口と言うと伝わりやすいかな。
左右幅も奥行きも狭いステージであることで、人形演技にはそこそこの差し支えが発生していた。「三婦内」は、室内にいる人形が鮨詰め状態になっていた。また、三婦ハウスの戸口前のスペースが狭すぎて、義平次の演技をかなり畳まなくてはいけない状態になっていた。「長町裏」は神輿が動くスペースがなく、段切で団七の走る距離が確保できないなど、重要な演出に難が出ていた(団七が走っているように見えないのは、団七役の人の技量の問題もあるけど)。5月公演のシアター1010でも、『ひらかな盛衰記』で樋口が松に登る前に歩く距離が確保できない問題が発生していたが、今後このようなことが続くと、立役の人形演技に問題が出る。ある程度舞台間口のある劇場の確保が重要だと感じた。
歌舞伎・文楽合同のプロモーションでは、「舞台と客席が近い」などと喧伝されていた。が、文楽においては、出演者(人形)−観客の単純な距離感は国立劇場小劇場とさほど変わらないと思う。

客席の横幅が舞台間口と同等の幅しかなく、そのため音が壁に跳ね返りやすいようで、音響は特に違和感はなかった。柝の音は響いていなかった。足拍子はわりとしっかり聞こえた。

舞台まわりのしつらえは通常と異なっていた。左右の小幕が文楽座の紋入りのものではなく、ただの黒幕にされていた。小幕はいつもの「シャリン」という開閉音がなかったが、単に今回の上演内容に開閉音をさせる場面がないのか、それとも鳴りにくい小幕のかけ方になっているのか。また、「三婦内」から「長町裏」へ大道具を転換する際の振り落とし幕は通常浅葱幕(水色の幕)だが、黒幕になっていた。黒幕は生地が薄く、幕の内側が透けて見えていた。作業状況が見えるのは、よく言えば「おもしろい」と言えるのかもしれないが、文楽(というか、緊張感のあるシーンのつなぎ)にこの手の「ネタバレ」はちょっと合わないかな。
普段、大道具(書割)の上部は黒幕を下ろして空間がマスキングされているが、今回は開放のままだった。舞台が広く見えると思いきや、中途半端な空き感が出て、「三婦内」では逆に大道具をせせこましく見せていた。ただ、せせこましく見えたのは、ふだんは書割(平面的な絵)にされている戸口外の障子(「つり舩」と書かれた別の入り口?みたいな部分)、室内の梁、仏壇が、実際に作り込まれていたのもあるかも。これ自体はリッチな印象があっていいんだけど、今回照明が方向性の強い光線にされているため、梁などから落ちる影がどきつく、良くも悪くもちんまり感が強調されて、ドールハウスっぽかった。
定式幕は、舞台袖に格納スペースがないため、開演中は下手側へ束ねた状態にされていた。

客電を落としていたのは、違和感はなかった。外部公演だと古典演目でも客電落としている会場があるし、本公演でも『曾根崎心中』などの復活時の新演出で上演している演目は暗くして上演しているので、この手法でもいいと思った。

今回は、「バルコニー席」と呼ばれる2階席が販売されていた。客席の左右壁面には細い張り出し通路が設けられていて、そこに、歌舞伎座2・3階の「西」「東」のような席が設置されている。上手側は床の上にあたるため販売なしだったが、下手側は一部販売されていた。試しに買ってみたら、なかなか面白かった。

開演前だが、バルコニーから舞台・階下を見下ろすと、こんな感じ。相当の見下ろし、覗き込みアングルになることがわかっていただけると思う。

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バルコニーのうち、ステージに近い前方席の場合、舞台を覗き込むようなアングルになるので、手摺に視界を遮られず、人形遣い3人の全身が見える。主遣いの足取りなど、興味深いことが多い。足遣いも全身が見えるようになるので、どうやって足を遣っているのかがよくわかった。また、床面がすべて見える状態になるため、床面にはりついているかいしゃくや小道具を置く蓮台の出し入れの様子も見ることができた。
せっかくなので、こんな見え方だったよというイメージイラストを貼っておく。すべてがウロ覚えなので厳密ではないけど、気分だけ味わっていただければと思う。

床の演奏の聞こえ方には問題はなかった。三味線の音に、若干不自然な反響が聞こえる程度。バルコニー最前方(ステージ脇通路と客席がつながっている)にお囃子のスペースが設けられており、バルコニー客席との距離が数mしかなかったので、お囃子の演奏がダイレクトに聞こえたのが面白かった。客席スペースとはパーテーション一枚で区切られているだけのため、普段はまず聞こえない細かい音もわかる。太鼓(小鼓じゃないほうのやつ的な意味での太鼓)の音は、お囃子から距離のある普通の客席では「トントン」としか聞こえないが、近くで聞くと、ピーンとした反響音のようなものが一緒に出ているんだなと思った。小鼓を打つ前に、皮に「はー」と息を吹きかける音までよく聞こえた。

『夏祭浪花鑑』は何度も観ている演目だし、珍しいとこ座ってみよという気まぐれで買った席だったが、結構楽しめた。ただ、本来的な意味では「人形がものすごく見づらい」。今回は1階席と同料金だが、普通に考えたら、20%は下げてもらわないといけないような見え方だった。あくまで文楽にある程度慣れていて、その演目の展開や人形の演技を把握している人向けかなと思う。ああ、次のために蓮台準備してるなとか、投げた小道具うまく拾ったなとか、「長町裏」では二重(井戸がある奥側)に上がるときは舞台下駄を脱ぐんだなとか、その舞台下駄を一回片付けるんだなとか、そういうのを見ておもしろがることができる人向けの席だと思った。人形の身体自体の動きの立体感(肩の押し引きなど)は見やすいので、人形好きの人は、そういう意味ではいいかもしれない。
また本公演でこのような席が販売されたときは、購入してみたいと思った。

なお、今回、スマホを使って字幕が見られるアプリが導入されていた。
自分は字幕を見ないので使わなかったが、視力に困りごとがある方にはステージ上の字幕より見やすくていいかもと思った。字幕アプリは黒地に白文字なので光漏れはほとんど気にならないのだが、スマホの画面ガラスに照明が反射するのが眩しくて、周囲の席の人が使っていると、そのちらつきが気になった。ただ、みなさん、物珍しさでちょっと試してみただけなのか、途中で飽きて見なくなっている方も多かった。

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今回、照明に大きな問題があった。
人形に照明が当たっていなかった。全体的に薄暗い中、人形のいる位置に照明を打てておらず、漫然とした位置に照明が当たっていた。特に舞台の左右端、舞台前方客席側(手すり付近)にいる人形は影になっていた。また、会場要因か演出要因かわからないが、今回はフットライトを設置していなかった。そのため、うつむき加減の演技のある人形、つまり団七、三婦といった主役級の人形の顔は暗く落ちていた。
これはないわなぁと思ったのは、「長町裏」。義平次の感想でも述べたが、本当に、人形に、照明が、当たって、いなかった。ステージ全体が暗いなかで、舞台の中央のみが漠然と照らされている状態のため、あくまで操演の都合上そこに立たざるを得ない義平次の主遣い(と団七の左遣い)だけが眩しくライトアップされ、肝心の人形たちは影に入る状態になっていた。また、人形(特に団七)の移動にスポットライトが追いついておらず、遅れたり、不用意な光の揺れ・滲みが見えていたのも気になった。
そして、光の色温度(光の色調)が極端で、悪目立ちしていた。困るのは、人形のかしらの色が本来とは違って見えていたこと。三婦は通常光源下で見るとピンク系の血色のよい顔をしているが、オレンジ系の暗い照明のせいで、茶褐色に落ちた状態になっていた。「長町裏」後半で団七に当てられる妙に青白いスポットライトも、演歌歌手のリサイタル風で、唐突な印象。

「三婦内」が暗すぎる問題は、会期後半では光量を増やし、室内全体を明るくする対応がなされていたが、「長町裏」は悪い状態が続いたままで、とても残念だった。
「新しいこと」をやるなとは言わない。しかし、これだと単なる的外れ。人形がまともに見えないのでは、話にならない。歌舞伎において、古典の上演で「主役に照明が当たっていない」なんてことをやったら、役者から重大なクレームが来て、謝罪と「対応」を迫られるのではないか。人形遣いはこの状態をどう考えているのか。
というか、人形の幹部は舞台稽古に立ち会っているのではないかと思うが、これに何も注文つけなかったのか? 和生〜〜〜〜〜〜〜〜〜なんとかしてくれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!! 今回ばかりはまじでホンマに〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!
私は客として、今後またこのような公演があっては非常に困るので、アンケートにクレームを書いた。あとはプログラムのスタッフクレジットで照明監督を調べた。

初日には、さらに大きな問題があった。Cプロ「長町裏」で、舞台下手袖のスタッフが延々雑談をしている声が客席に漏れていた。床の演奏が止まる場面でも喋り続けており、非常に迷惑だった。
照明の問題もあり、運営のありように強い不審感が募る出来事だった。国立劇場が閉場して1年、主催公演でここまでレベルが下がるとは。大変残念に思う。