フリードリヒ2世 (プロイセン王) (original) (raw)

フリードリヒ2世: Friedrich II, 1712年1月24日 - 1786年8月17日)は第3代プロイセン国王

概要 フリードリヒ2世 Friedrich II., 在位 ...

閉じる

優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。フランス文化を知り尽くすなど学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、全30巻にも及ぶ膨大な著作[1]を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されている。哲学者イマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリードリヒの世紀」と讃えた[2]

少年時

父との確執

フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテアの子として生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王とあだ名される無骨者で芸術を解さなかったが、母ゾフィー・ドロテアは後のイギリス国王ハノーファー選帝侯ジョージ1世の娘で洗練された宮廷人だった。そのため教育方針も正反対の2人は対立し、それは王子フリードリヒにも大きな影響を与えた。父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術に親しむことを禁じた。

その軍人嗜好を表す逸話として、太鼓の逸話がある。太鼓で遊ぶフリードリヒの騒がしさに怒った姉ヴィルヘルミーネが「そんなうるさいものはやめて、お花で遊んだらどうなの」と言うとフリードリヒが「花なんかで遊ぶより、太鼓を習ったほうが役に立つもん」と言ったのを聞いた父王は、さっそく太鼓を持つ王子の肖像画を描かせたという。

しかし本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していった。

逃亡事件と結婚

親友:カッテ

フリードリヒは従姉のイギリス王女アミーリアとの縁談を機会に、ついに逃亡を図ることになる。近衛騎兵のハンス・ヘルマン・フォン・カッテとカイトの2人の少尉に手引きを頼み、1730年8月5日早朝に、南ドイツにある旅行先の宿舎を抜け出したが、計画はすでに漏れており、王太子フリードリヒはロッホ大佐によってその日のうちに連れ戻された。

この逃亡計画が父王に知られ、フリードリヒはキュストリン要塞に幽閉された。このころ父王は国際的陰謀の渦中にあり、暗殺の恐怖に苛まれていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒを処刑しようとまでしたという。手引きをしたカイト少尉はイギリスに逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒの目の前で処刑された。フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容として斬首の刑を受けたという。フリードリヒは窓からその光景を見るよう強制されたが、正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように」と書かれていた。

ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール6世が調停に乗り出して、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世父子の確執の修復をして、フリードリヒは廃嫡を免れた[3]。フリードリヒは数週間後、父王にむけて手紙を書き、恭順の意を表したため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒを釈放して、近くの王領地の管理に当たらせることにした。

妃:エリーザベト・クリスティーネ
(画)アントワーヌ・ペーヌ

1733年6月12日には父の命令に従って、オーストリアの元帥であったブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚する。ハプスブルク家マリア・テレジアとの婚約の検討もあったが、フリードリヒがカトリックに改宗する見込みがないために、取り止めになった[* 1]

当時17歳のエリーザベト・クリスティーネは容姿の美しい、また善良で信仰心の篤い少女であった。彼女は夫に好かれようとして、様々な教養を身につけるべく努力したが、フリードリヒの気を惹くことはなかった。夫婦としての生活もなく、後に七年戦争が終結した時、数年ぶりに会った彼女に対してフリードリヒが言ったのは「マダムは少しお太りになったようだ」の一言だけだったといわれる。そのため2人の間には子供がなく、フリードリヒ2世の後を継いだのは王弟アウグスト・ヴィルヘルムと妃の妹ルイーゼ・アマーリエの子、つまり王と王妃の双方にとって甥にあたるフリードリヒ・ヴィルヘルムだった。しかし、それでも彼女は夫を尊敬し続け、フリードリヒとの文通は続いていたという。

赴任先のルピーン近郊に造営したラインスベルク宮でフリードリヒは、気の進まない結婚の代償として得た自由を楽しんだ。父王の意に沿って軍務をこなすかたわら、趣味のあう友人たちを集めて余暇にはげむ優雅な時間を過ごし、また著作も試みている。多くの書簡集のほか、フリードリヒの最初の著書として『反マキャヴェリ論』が知られている。反マキャヴェリ論はマキャヴェッリの提示した権謀術数を肯定するルネサンス的な君主像に異を唱え、君主こそ道徳においても国民の模範たるべしと主張する啓蒙主義的な道徳主義の書であった。この本は後に、文通相手だったヴォルテールの手を経てオランダで匿名で出版され、数か国語に翻訳されている。しかし、即位後フリードリヒ2世がオーストリア継承戦争で見せた野心は、この本の主旨と正反対のものであり、ヴォルテールにも非難されることになる。

即位後

啓蒙主義的改革

1740年代、甲冑をまとったフリードリヒ

1740年5月31日フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は崩御し、フリードリヒはフリードリヒ2世として即位した。即位後ただちにフリードリヒ2世は啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。フランス語ドイツ語の2種類の新聞が発刊され、先王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーも復興し、オイラーをはじめ著名な学者たちをベルリンに集めたため、ベルリンには自由な空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになった。

自由を実現する一方、フリードリヒ2世は父から受け継いだ8万の常備軍を、周囲の予想に反してさらに増員し、戦争に備えていた。ただし、父の作った巨人連隊は廃止された。

オーストリア継承戦争 (1740年-1748年)

第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)

1740年10月20日神聖ローマ皇帝カール6世が急逝した。国事詔書によってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジアが相続した。フリードリヒ2世はこれを承認する見返りにボヘミア王冠領(ハプスブルク帝国の構成国)のシュレージエン(現在のポーランド南西部からチェコ北東部)の割譲を求めたが、マリア・テレジアは拒否した。フリードリヒ2世は1740年12月16日宣戦布告することなしにシュレージエンに侵攻した(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事詔書を反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲は成功し、プロイセン軍はわずか戦死22人の損害で占領に成功した[4]。これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦いでプロイセンは圧勝を収め、プロイセンの台頭を各国に印象付けることに成功する。5月にバイエルンフランススペインニンフェンブルク条約でオーストリアを包囲する同盟をむすんだ[5]。フランスはプロイセンとザクセンとも同盟した。ザクセン選帝侯ポーランド王アウグスト3世ボヘミアの継承を主張して侵攻したが撤退し、オーストリアと同盟した。一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランスとむすび上オーストリアとボヘミアへ侵攻し、1741年12月ボヘミア王として戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠された。しかしハンガリーと組んだマリア・テレジアの反撃によってバイエルンを奪われた。

フリードリヒ2世は1742年5月17日コトゥジッツの戦いハプスブルク帝国に勝利し、1742年7月のベルリン条約でシュレージエンの割譲を認めさせた[6]

フリードリヒは、士官の膝枕で仮眠をとったり、負傷した兵卒の傷の手当てに自らのハンカチを差し出すなど、階級の上下を問わず将兵との交流を好み、絶大な人気を得ていた。

第二次シュレージエン戦争 (1744年-1745年)

1744年、イギリスと組んだマリア・テレジアの反撃に対して、フリードリヒ2世はカール7世のバイエルンと組んでベーメン(ボヘミア)に侵攻したが、敗れた(第二次シュレージエン戦争[6]。しかし1745年6月4日のホーエンフリートベルクの戦いでプロイセンは大勝利を収め、さらに1745年12月15日ケッセルスドルフの戦いでもザクセン軍に勝利した。12月25日ドレスデンの和議でプロイセンは、マリア・テレジアの夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位を承認する代わりにプロイセンによるシュレージエン領有権を承認させ、ザクセンからの賠償金100万ターラーも得た[6]

戦間期

サンスーシ宮殿

サンスーシ宮殿音楽演奏室。

戦後の日々、フリードリヒ2世はプロイセンの復興に全力を尽くした。細かい点まで自分で確かめなくては気の済まない王のチェックに官僚たちは恐々としたが、産業の振興、フランスからやって来たユグノーカルヴァン派)の移民などの受け入れなどによってプロイセンは再び力を付けていった。しかし、激務のためフリードリヒ2世の体は蝕まれ、リウマチ、歯、胃痛、痔、発熱、痛風などで絶えず痛みと戦わなければならなかった。そんな王の心を慰めたのが、1745年から1747年にかけて完成したクノーベルス男爵の手によるサンスーシ宮殿だった。王自らも設計にたずさわったこの宮殿は、ロココの粋を尽くし、室内は「フリードリヒ式ロココ」(Friderizianisches Rokoko)様式による瀟洒なものだったが、部屋数わずか10あまりの平屋建ての小さな建築である。ここで王は政務のかたわら、ヴォルテールなどごく少数の気が置けない友人たちと音楽や社交を楽しみ、くつろいだ時間を過ごした。

七年戦争 (1754年-1763年)

平和な日々は長くは続かず、1755年後半、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアはロシア女帝エリザヴェータフランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人と組んでシュレージエンの奪回を企てていた。

1756年1月16日、フリードリヒ2世は母方の伯父のイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世ウェストミンスター協約を締結したが、5月1日外交革命としてフランスとオーストリアがヴェルサイユ条約を締結、8月29日、フリードリヒ2世は先制防衛策をとることに決め、ザクセン選帝侯領に侵攻して七年戦争(第三次シュレージエン戦争)が始まる。

墺仏露の3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツ諸侯も加えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとって絶望的かと思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッハロイテンにおいて、巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったものの、孤立同然のプロイセンの兵力は消耗し続けた。1757年6月18日コリンの戦いで大敗した後は守勢に転じた。コリンの戦いでは劣勢の自軍を鼓舞するため、第3連隊の旗を手に「犬どもが、ずっと生きていたいのか?」という言葉を放ったとされている[* 2]

1759年8月12日クーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵弾にさらされて上着を打ち抜かれ、乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走している。この時の大臣宛の手紙には「これを書いている間にも味方はどんどん逃げている。私はもうプロイセン軍の主人ではない。全ては失われた。祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」と書かれている。フリードリヒ2世はその後、残存兵力をまとめてどうにか態勢を立て直すが、苦しい戦いは続き、1760年10月にはとうとうオーストリア軽騎兵がベルリンに迫るまでになる。

イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟したが、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、甥で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇跡的にロシアとの講和が成立した。ただ、ピョートル3世はこの講和に加え、皇后である妻・エカチェリーナ(後のロシア大帝エカチェリーナ2世)を排したり、ロシア正教会を弾圧したため、激怒したエカチェリーナと彼女を支持する近衛部隊によって半年後にクーデターを起こされて失脚。その近衛部隊兵に暗殺されることになる。

さらに西ポンメルンで苦戦を強いられていたスウェーデンも、フリードリヒ2世の妹であるスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカの仲裁により、同年5月に講和する。疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収め、孤立したオーストリアに勝利を収めたフリードリヒ2世は1763年2月10日フベルトゥスブルクで和議を結び、プロイセンのシュレージエン領有は確定する。

フリードリヒ2世はこれ以降、大きな戦争を起こすことはなかったが、1772年の第1回ポーランド分割西プロイセンを獲得して、飛び地状態だったブランデンブルクと東プロイセンを地続きとし、1778年から1779年まで続いたバイエルン継承戦争ではオーストリアと再び交戦してその強大化を阻止した。なお、西プロイセン獲得に伴い、王号をプロイセンにおける王(König in Preußen)からプロイセン国王(König von Preußen)に変えている。外交面では特にオーストリアの復興を強く警戒し、ザクセン選帝侯やバイロイトなどと君侯同盟を結成して対抗した。

さらに、フランスやロシアとの関係改善に努めて、再び七年戦争の孤立に陥らないよう細心の注意をもって臨み、アメリカ独立戦争に際してはロシアが提唱した武装中立同盟に参加し、イギリスの対米海上封鎖に対抗した。

フリードリヒ2世は女性を蔑視する発言をたびたび公の場でしており、フランスのポンパドゥール夫人やロシアのエリザヴェータ皇帝が七年戦争においてマリア・テレジアに味方したのは、彼女たちがフリードリヒを個人的に嫌っていたからだと言われている。

晩年

アントン・グラフ(Anton Graff)による1781年の肖像画。ヒトラーが官邸に掛けていた絵画でもある。

平和を手に入れた後のフリードリヒ2世は再びサンスーシに戻り、忙中に小閑を楽しむ穏やかな生活にかえった。王の余生は、忙しい政務の中で時間を作っては文通やフルート演奏・著述を楽しむ日々で、このころ『七年戦争史』(もとは『我が時代の歴史』とも)を著している。また1780年の『ドイツ文学論』でドイツ文学と統一ドイツ語について論じた。晩年にはベルリン市民から親しみを込めて「老フリッツ」との愛称で呼ばれていた。

しかし、晩年のフリードリヒ2世は次第に孤独で人間嫌いになり、人を遠ざけるようになっていった。姉のヴィルヘルミーネ王女やダルジャンス侯爵など親しい人々は既に世を去り、愛犬のポツダム・グレイハウンドたちだけが心の慰めだった。もともと優れない健康もさらに悪化し、心臓の発作や水腫、呼吸困難に悩まされ、一日の大部分を肘掛け椅子で過ごした。「もう牧草地に放り出してもらうより他あるまい」と自嘲しつつ、最後の願いとして愛犬たちのそばに埋めてほしいと頼んだという。

フリードリヒ2世は1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により崩御した。遺体は遺言に相違して、ポツダム衛戍教会に葬られた。その後、第二次世界大戦中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命をたどったが、ドイツ再統一後の1991年、サンスーシ宮殿の庭先の芝生に墓が移され、現在は生前の希望通り犬たちと共に眠っている。

サンスーシ宮殿でフルートを演奏するフリードリヒ2世 アドルフ・フォン・メンツェル

フリードリヒ2世の宮廷には当時の第一級の音楽家が集い、フルート奏者で作曲家のクヴァンツ1732年から大王に仕えたヴァイオリンの名手で作曲家グラウン、同じくヴァイオリンの名手で作曲家フランツ・ベンダらがいた。また、大バッハの次男C・P・E・バッハが1740年から1767年までチェンバロ奏者として仕え、父の大バッハをフリードリヒ2世に紹介している。

ドイツ・フルートと呼ばれる横型フルートは表現力に富むため、フリードリヒ2世が好んだという。1735年(23歳)から1756年(44歳)にかけて、自分の楽しみのためのフルート曲を作曲している。彼の作曲数は多く、フルート・ソナタだけをとっても実に121曲に及ぶ。その作品として『フルートのための通奏低音付きソナタ』『フルート協奏曲』などがいまに伝わっており、比較的演奏機会のある曲に『フルート・ソナタ第111番ニ長調』がある[* 3]

1747年(35歳)、62歳の大バッハがポツダムを訪問した際、フリードリヒ2世がバッハの即興演奏のために与えたといわれるテーマを基に、バッハの『音楽の捧げもの』が誕生したと伝えられる。

七年戦争中にプロイセン陸軍が行軍中や戦闘中に演奏していた『ホーエンフリートベルク行進曲』はフリードリヒが作曲したと言われているが、それに歌詞が付けられたのは後年のことである。

サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世の墓。ジャガイモがそなえられている。

フリードリヒ大王騎馬像(ウンター・デン・リンデン

粗食を旨とした父王と異なり、フリードリヒは美食を好んだ。昼食は8皿、うち4皿はフランス、2皿はイタリア、残りは王の好む、香辛料の利かせた、トウモロコシの粥やベーコン料理であった。また、新鮮な果実も好んだ。夕食は来客のあるとき以外は採らなかったが、その時は30皿もあった。このような食事に金をかけたために宮廷の食事予算は、現在の貨幣価値で年間1億円を優に超えるほどであった。

そんな美食家であるフリードリヒだったが、実はサクランボが大好物だった。ある時、食べ頃のサクランボを食べてしまうスズメに腹を立て、スズメ駆除の命令を下して徹底的な駆除を行わせた。ところが今度は天敵が消えたことで毛虫が大発生し、葉を食い荒らされたためにサクランボが実らなくなるという結果を招いてしまった。フリードリヒはこの結果に自らの非を悟り、以降は鳥類の保護に努めたという。

1738年に父王とともにブラウンシュヴァイクを訪問した際に、ハンブルクのロッジのマスターだったオーベルク伯爵らの勧めでフリーメイソンリーとなった(恐らくイギリスとの関係を重視して)。しかし熱心なメイソンリーというわけではなく、王位に就いた後はフリーメイソンに冷淡になった。1744年にはグランドロッジ「3つの地球」の創設に携わり、その大保護者となっているが、彼自身がそこに足を踏み入れることは一度もなかった。フリーメイソンを弾圧するような政策こそとらなかったが、1747年頃にはメイソンリーの活動からほぼ退いていたとみられる[7]

フリードリヒ2世 父:フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 祖父:フリードリヒ1世 曽祖父:フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)
曽祖母:ルイーゼ・ヘンリエッテ
祖母:ゾフィー・シャルロッテ 曽祖父:エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)
曽祖母:ゾフィー
母:ゾフィー・ドロテア 祖父:ジョージ1世 (イギリス王) 曽祖父:エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)
曽祖母:ゾフィー
祖母:ゾフィー・ドロテア 曽祖父:ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)
曽祖母:エレオノール・ドルブリューズ

当時のブランデンブルク=プロイセンの宮廷ではドイツ語でなくフランス語が使われており、フリードリヒもフランス語で多く著作した[8]。以下の著作リストはフランス語版全集による[9]

フリードリヒ大王全集[10]


注釈

  1. オーストリアの将軍プリンツ・オイゲンはマリア・テレジアの結婚相手にフリードリヒを推挙したことがあるが、実現しなかった。マリア・テレジアの長男である皇帝ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世を尊敬しており、母后はこのことを大変悲しんでいたとされる。しかし、ヨーゼフ2世はバイエルン継承戦争ではフリードリヒと敵対し、マリア・テレジアは息子とフリードリヒとの間で和議に苦心することになった。
  2. ドイツ語はHunde, wollt ihr ewig leben?。クーネルスドルフやトルガウの会戦でも同様の行動を取ったとされるが、そのたびに流弾で軽傷を負っている。

出典

  1. S.フィッシャー=ファビアン 『人はいかにして王となるか』2、p21
  2. 林健太郎、堀米雇三 編『世界の戦史6 ルイ十四世とフリードリヒ大王』人物往来社、1966年
  3. 進藤牧郎「シュレージエン戦争」日本大百科全書(ニッポニカ)
  4. 渡部重美「18世紀末ドイツ文学・文化の様相 : フリードリヒ2世のドイツ文学論を中心に据えた記述の試み」、『藝文研究』第81巻、慶應義塾大学藝文学会、2001年12月
  5. Œuvres de Frédéric le Grand, hrsg. von Johann David Erdmann Preuß, 30 Bde., Berlin: Decker, 1846–1856.
  6. 長瀬鳳輔訳、興亡史論刊行会、1919年。同訳がマキャヴェリの『君主論』と併録された版もある(平凡社、1931年)
  7. 大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年、p.55-75