春日大社 (original) (raw)

春日大社(かすがたいしゃ、: Kasugataisha Shrine[1][注釈 1])は、奈良県奈良市春日野町にある神社式内社名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社。旧称は「春日社」、神紋は「下がり藤」。

一の鳥居

本殿(背面) 手前から第四殿、第三殿、第二殿、第一殿

全国に約1,000社ある春日神社の総本社である。ユネスコ世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。

奈良時代神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏藤原氏氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿神使とする。

主祭神は以下の4柱。総称して**春日神**と呼ばれ、藤原氏の氏神である。

創建

かつては藤原氏の人間しか通れなかった「藤鳥居」。後醍醐天皇中宮珣子内親王に贈った和歌にも詠まれた。

奈良平城京に遷都された和銅3年(710年)、藤原不比等藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる[_要出典_]とする説もあるが、社伝では、神護景雲2年(768年)に藤原永手鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって春日社の創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社葵祭石清水八幡宮石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。嘉祥3年(850年)には武甕槌命・経津主命が、天慶3年(940年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位神階を授かっている。『延喜式神名帳』には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。春日祭当日、勅使が藤原氏の人間の場合は、「藤鳥居」あるいは「藤の鳥居」という鳥居をくぐって本殿に進んだ。藤鳥居は、後醍醐天皇が、元弘3年(1333年)12月、中宮に冊立された正妃の珣子内親王のために詠んだ和歌にも歌われている(『新千載和歌集』神祇・982/『新葉和歌集』神祇・594、珣子内親王#後醍醐から珣子への歌)。

神仏習合

藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が興福寺に南円堂を建立した際、その本尊の不空羂索観音は、春日社の第一殿の祭神・武甕槌命の本地仏であるとされた。神仏習合が進むにつれて春日社と興福寺は一体のものとなっていくと、春日大明神は法相擁護の神とされ、天暦元年(947年)からは神前読経が始められた。なお、神前読経は当初は興福寺の僧だけではなく東大寺の子院・東南院の僧も行っていた。康和2年(1100年)に白河法皇は神前での一切経読経のために一切経蔵を春日社に寄進すると同時に、読経をするのに必要な経費を得るための所領として興福寺子院大乗院越前国坂井郡河口荘を寄進している。ただし、僧は本殿がある内院には入れなかった。

11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。もうこの頃には春日社と興福寺と合わせて「春日興福寺」と称せられるようになっていった。

この頃になると、第一殿・武甕槌命の本地仏は不空羂索観音。第二殿・経津主命の本地仏は薬師如来。第三殿・天児屋根命の本地仏は地蔵菩薩。第四殿・比売神の本地仏は十一面観音。若宮社・天押雲根命の本地仏は文殊菩薩とされるようになっていた。

興福寺と一体化した結果、永久4年(1116年)3月6日に関白藤原忠実によって回廊に囲まれた五重塔が建立された。この塔は春日西塔や「殿下の御塔(でんかのみとう)」と呼ばれた。次いで保延6年(1140年)10月29日には鳥羽上皇によって回廊に囲まれた裳階付きの五重塔が建立された。この塔は春日東塔や「院の御塔(いんのみとう)」と呼ばれた。こうして興福寺と共に春日社は大いに繁栄し、隆盛を誇った。

しかし、興福寺や東大寺が平清盛と対立すると治承4年(1181年)12月28日に平重衡によって南都焼討が行われた。これにより、春日社に隣接している興福寺と東大寺はほぼ全焼し、壊滅的な被害を被った。その一方で春日社は春日西塔と東塔が焼失した他、当寺は春日社の摂社で現在は大神神社の境外摂社となっている率川神社が全焼する被害が出たが、主要部はからくも被害を免れた。

また、この頃には第一殿の武甕槌命の本地仏を貞慶が唱える新たな説を準拠とし、不空羂索観音から釈迦如来に変更している。

春日東塔は建保5年(1217年)に再建され、春日西塔は宝治年間(1247年 - 1249年)頃までに再建されたが、応永18年(1411年)閏10月15日に雷火によって興福寺の4代目東金堂、5代目五重塔、大湯屋と共に焼失し、以後は再建されなかった。

春日信仰は貴族だけではなく武家や町人からも厚い信仰を受けた。その際、信者が良く燈籠を寄進したために春日大社は日本で一番燈籠が多くある神社となっている。その数は石燈籠が約2,000基、釣燈籠が約1,000基である。中でも全国にある室町時代の石燈籠のうちの7割は春日大社のものである。

鎌倉時代以降、鎌倉幕府室町幕府大和国には守護を設置せず、興福寺がその代わりを行っていた。興福寺は大和国の国人を興福寺に属する衆徒と春日社に属する国民として統制し、全国にある広大な荘園から収入を得てその勢力を誇った。しかし、戦国時代になると全国の荘園は各地の武将に横領されて収入は激減し、興福寺衆徒であった筒井順慶などが織田信長の家臣となるなどし、興福寺と春日社の威勢はすこぶる衰えていった。天正8年(1580年)には興福寺は2万1,000石、春日社は1,400石の石高しかなくなっていた。

豊臣秀吉の天下統一後の文禄4年(1595年)には、春日社は秀吉により大和国添上郡大柳生、東九条、中城、大江に3,206石の所領を認められた。その内の1,554石は社家の所領である。

江戸時代になると、江戸幕府によって元和3年(1617年)に興福寺と春日社は両方足して2万1,119石の石高のみ認められた。

寛文2年(1662年)には幕府から興福寺の薪能に300石、春日社のおん祭能に200石が永代寄進されている。

神仏分離

慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈を引き起こし、春日社と一体の信仰・神仏習合が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は早々と還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。18か寺あった末寺とは本末関係を解消し、83か寺の子院、6つの坊は全て廃止され、僧は全員自主的に還俗し、とりあえず「新神司」として春日社に使えることとなった。また、春日社の中にあった興福寺関連の建物は名称を変更されて使用されたり、破却処分にされたりし、仏像仏具の一切は撤去され徹底的に仏教色は排除されていき、完全に春日社は興福寺と分離された。

興福寺が、その存続さえ危ぶまれていた時期である1871年明治4年)、春日社は社名を「春日神社」に改称すると共に官幣大社に列し「官幣大社春日神社」となった。結局興福寺は境内地の大半が奈良公園にされたものの、存続は許された。

1936年昭和11年)2月21日河内大和地震が発生。石灯篭が倒れるなどの被害が生じた[2]

1946年(昭和21年)12月、近代社格制度の廃止に伴い、このままでは単に「春日神社」となってしまい、他の多くの春日神社と混同されてしまうので、これを避けるために社名を「春日大社」に改称している。

1948年(昭和23年)に神社本庁別表神社に加列されている。

1998年平成10年)にユネスコ世界遺産文化遺産)に「古都奈良の文化財」の1つとして登録された。

創建以来ほぼ20年に一度、本殿の位置を変えずに建て替えもしくは修復を行い御神宝の新調を行う「式年造替」を行ってきており、最近では2015年(平成27年)から2016年(平成28年)にかけて第60次式年造替が行われた[3]

現在も当社では年間二千二百余の祭祀が日々行われている。

また、明治時代に神仏分離が行われたとはいえ、現在でも伝統として1月2日に行われている日供始式並興福寺貫首社参式では興福寺の僧により神前読経が行われている。

摂社

末社

境外末社

年間祭事一覧

節分万燈籠 御廊

春日祭 御戸開之儀

春日大社は平安時代に奉納された貴重な刀剣甲冑・美術工芸品などの国宝重要文化財を含んだ多数の文化財を所蔵することから「平安の正倉院」と呼称されている[4]。これらの文化財の一部は2016年10月に新装開館した「春日大社国宝殿」(旧称春日大社宝物殿)で鑑賞することができる[5][6]

2016年(平成28年)度から、1939年(昭和14年)に宝庫の天井裏から発見された12振りの太刀を順次研ぎ直し始めた結果、複数の太刀が国宝・重文級の貴重な文化財であることが判明しており、研ぎ直された貴重な太刀は報道発表に続いて国宝殿で順次公開されている。2016年12月には、延寿国吉作の1振りと北条時村[_要曖昧さ回避_]が奉納したとみられる平安末から鎌倉初期の無銘の「古備前物」2振りが報道陣に公開された[7][8]。2018年(平成30年)1月には、4番目に研ぎ直された黒漆山金作太刀(くろうるしやまがねづくりたち)が報道陣に公開された。この太刀は1942年に重要美術品に認定されていたもので[9]、研磨の結果、平安時代後期の「古伯耆」(こほうき、現在の鳥取県で製作された刀剣)とみられ、刀身に反りのある日本刀としては最古級の安綱作の可能性もあるという[10][11]

国宝

建造物

美術工芸品

国宝「古神宝類」の明細

「本宮御料古神宝類」の明細

「若宮御料古神宝類」の明細

(以上保延二年十一月七日藤原頼長献進)

「若宮御料古神宝類」のうち、毛抜形太刀、黒漆平文飾劔(柄欠失)、笙、和琴は2001年に追加指定(平成13年6月22日文部科学省告示第116号)、6行目の蒔絵弓と黒漆平文鉾は2007年に追加指定(平成19年6月8日文部科学省告示第94号)。

重要文化財(国指定)

建造物

美術工芸品

典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財の名称は、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

国指定重要無形民俗文化財

国の特別天然記念物

国の天然記念物

国の史跡

国選択無形民俗文化財

奈良県指定有形文化財

奈良市指定有形文化財

奈良市指定有形民俗文化財

奈良市の天然記念物

所在地


注釈

  1. 春日大社の公式サイト(英語版)も"Kasugataisha Shrine"と表記。
  2. 寛政3年(1791年)の火災で焼けた甲冑の金属部分のみが残ったもの。以下2件も同様。
  3. 兜の名称は、重要文化財指定名称では「鉄三十六間四方白星兜鉢」であるが、2017年に東京国立博物館で開催された「特別展 春日大社 千年の至宝」では、「鉄二十四間四方白星兜鉢」の名称で展示されていた。「○○間」とは、兜の表面の「筋」(すじ)の数をかぞえたものであり、「四方白」とは、兜の前後左右4方向に鍍金銀の板を伏せたものの意である。鍍金銀の板で覆われた部分の「筋」の数をかぞえるか否かによって、間数の差が生じる。以下2件の兜についても同様である。

出典

  1. 家屋倒壊が続出、恐怖に包まれた大阪『大阪毎日新聞』昭和11年2月22日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p204-205 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. 春日大社公式サイトには「国宝354点、重要文化財1,482点」を収蔵する旨の記載があるが、これは「古神宝類」等の一括指定物件を一点一点かぞえた場合の数字である。春日大社所有の国宝は、指定の「件数」としては建造物1件(4棟)、美術工芸品14件であり(2020年現在)、本記事の「文化財」節には春日大社所有の国宝・重要文化財全件が漏れなく記載されている。
  3. 「鼉」(だ)は、「口」を横に2つ並べ、その下に「田」「一」「黽」。
  4. 兜の名称は、重要文化財指定名称では「鉄十八間二方白星兜鉢」であるが、2017年に東京国立博物館で開催された「特別展 春日大社 千年の至宝」では、「鉄十六間二方白星兜鉢」の名称で展示されていた。これらの名称の差異については前項の脚注を参照。
  5. 兜の名称は、重要文化財指定名称では「鉄二十八間四方白星兜鉢」であるが、2017年に東京国立博物館で開催された「特別展 春日大社 千年の至宝」では、「鉄二十四間四方白星兜鉢」の名称で展示されていた。これらの名称の差異については前々項の脚注を参照。