鍋パーティーのブログ (original) (raw)

この共用ブログには、ブログオーナーである私(古寺多見, kojitaken)は原則として投稿しないことにしていたが、あまりにも閑古鳥が鳴きまくっていることと、現在行われている自民党総裁選や立憲民主党代表選においても、富の再分配の議論が低調であることなどから、例外的に投稿することにした。

先日、ちくま新書から出た吉弘憲介著『検証 大阪維新の会 - 「財政ポピュリズム」の正体』(2024年7月10日 第1刷発行)という本を読んだ。

www.chikumashobo.co.jp

非常に興味深い内容の本だったが、書評を書こうと思ったらまた膨大な時間かかる。私は最近になってようやく本を読める時間が少し持てるようになったが、それでもかつてと比較すると時間の余裕がない日々を過ごしているので、なかなか書評など書けない。

そう思いながら本書についてネット検索をかけたところ、社会学者の丸山真央(まるやま・まさお)氏の書評が、本書の発行元である筑摩書房のサイトに出ていたので、それを紹介することにした。

www.webchikuma.jp

以下引用する。

「維新の会」の "強さ" を財政学で読みとく

吉弘憲介『検証 大阪維新の会―「財政ポピュリズム」の正体』書評

丸山真央

独自調査や財政データの分析から、大阪維新の会を徹底検証した吉弘憲介さんの新刊『検証 大阪維新の会 ―「財政ポピュリズム」の正体』(ちくま新書)。同書の書評を、社会学者の丸山真央さんにお書きいただきました。『ちくま』8月号より転載します。

「維新の会」について関西以外の友人や研究仲間からよく聞かれるのが、「どうして人気なのか」「本当にそんなにすごいのか」ということである。本書の著者も言っているように、関西以外で維新の会への関心は高くない。それでも国政選挙が近くなったり大阪発の全国ニュースが増えたりすると(最近だと万博の費用や会場の問題)、維新の会のことが頭をよぎるのであろう。そこで先の問いが投げかけられるわけである。

「どうして人気なのか」とは、要するに「誰がなぜ支持しているのか」ということである。そこで、「支持者は若年層や高所得層に限られないらしい」とか「自民党の支持層と大して変わらないそうだ」とか、「 "大阪の代表" として支持されている面はあるようだが」などと、政治学社会学の実証研究を思い浮かべながら答えることになる。

それに対していつも困るのが、「本当にそんなにすごいのか」への返答である。敵を仕立てて派手に戦って見せたり、「大阪都構想」「万博」「IR」とぶち上げたりしているが、「結局どれほど大阪は変わったのか」という問いである。これに答えるために参照しうる政策研究や財政学の実証研究が、意外にもというべきか、これまで乏しかったのである。

前置きが長くなったが、本書の登場によって評者はこの悩みから解放されることになる。「本当にそんなにすごいのか」という問いに、本書は財政学を武器にして見事に答えてくれる。しかも「どうして人気なのか」に結びつけて説明してくれる。

維新の会は、「行政のムダ」を強調するなど「小さな政府」志向の新自由主義の政党とみられることがある。 しかし実際には、維新の会以前も以後も、大阪市の財政規模は「小さ」くなく、むしろ「大きな政府」だという。たしかに維新の会が最近強調する「私立高校の無償化」は「小さな政府」に逆行する。

要するに、維新の会は「大きな政府」の内実を変えたのである。既得権益」層とみなされた公務員は、「身を切る改革」によって著しく人員が減らされた。「身の丈にあった財政運営」という均衡財政主義によって、新たな借金は抑えられ返済が進められた。 他方で、小中学校の教育費の支出水準は上昇した。都心部のインフラ整備への支出も増えたという。

こうしたことが「財政ポピュリズム」というキーワードで読み解かれる。「既存の配分を取り上げ、頭割りに配り直すことで人びとの支持を調達する」ものであるが、そこでこれまでの配分を奪われるのは公務員に限られない。特別支援学校の運営費や社会保障支出など、弱者や少数者のための費用が削られ、その分がマジョリティに歓迎される政策へと回されるのである。

このような「財政ポピュリズム」が「財政の本質的な否定」であるとの指摘は非常に重たい。本来、財政は個人でどうにもできないものを共同の税の負担で賄うものである。それを、マジョリティの個人が利益を実感できるものへと解体することは、たしかに「コスパ」重視の時代にウケる面があるのだろう。維新の会はそこに的確に照準したのである。しかし「回りまわって全体の利益につながってきた」ものが解体されるのであり、本書はそこに警鐘を鳴らし、再建の途を探っている。

「財政ポピュリズムは、必ずしも維新の会の専売特許ではない」とも指摘される。政治や行政への不信が導く財政ポピュリズムは、私たちの社会をどこへ連れて行くのだろうか。こうなると問題は維新の会にとどまらない。

本書はだから維新の会に関心をもつ読者だけでなく、むしろ他人事だと思っている(関西以外の)読者にこそ届いてほしい。維新の会を理解する格好の入門書であると同時に、維新の会の財政学を手がかりにした現代政治論であり現代社会論でもある。

URL: https://www.webchikuma.jp/articles/-/3598

上記書評を読んで、神野直彦金子勝の名前が思い浮かんだ読者の方もおられるに違いない。私もそうだった、というより、書名を見た時に著者はその系統の方ではないかと予想した。そして、それは当たっていた。

著者は、「東京大学名誉教授神野直彦先生のご薫陶のもとで、アメリカ財政論から研究履歴をスタートさせた」*1、「恩師である慶應義塾大学金子勝先生からは、研究会などで研究アイデアや原稿に対してコメントをいただいた」*2と書いている。やはり、神野・金子系の学者だった。

日本のリベラル・左派系ネット論壇では、ある時期からこの神野・金子系は不評になった。それに代わって人気を得たのがMMT(現代金融理論)系だが、この系列の人たちはある時期から「消費税減税」ばかり言うようになり、私の見るところ、外形的にはイギリスで一昨年失敗して49日しか政権が保たなかった保守党の新自由主義政治家であるリズ・トラスの過激な減税政策と区別がつかない。もっともこの印象には、ただでさえ経済学のど素人である私が「日本版MMT*3に警戒して近づかないようにしているせいかもしれない。ともかく私が(日本版)MMT論者の言うことに説得力を感じたことは一度もない。

そのMMTを主張する人たちが目の敵にしているのが神野直彦金子勝である。だから、日本版MMT派が盛んになった頃から、神野・金子派は不人気になった。しかし私は本書を読んで、神野・金子系の財政学者であると思われる著者の分析に説得力を感じるとともに、MMT派は果たして維新をどのように批判するのだろうかと思ったのだった。

日本版MMTへの偏見というか悪口はこのくらいにしておく。

本書で強く印象に残ったのは、引用文中で赤色の大文字ボールドにした「財政ポピュリズム」の概念だ。

他ならぬ神野氏の著作によって、私は再分配の「普遍主義」を学んだ。「普遍主義」と、それと対をなす概念である「選別主義」について、以下に本書から引用する。

政府が公共サービスを供給する際に、その提供の基本的な考え方として、選別主義と普遍主義という二つの考え方がある。自分ではどうしても十分に買うことができない困窮者に限定し、政府が教育や医療などの公共サービスを提供するという発想が選別主義である。一方、医療や教育は、所得にかかわらずすべての人にとって必要な基礎的ニーズであると考え、政府が国民全員に公共サービスを供給するのが普遍主義である。(本書132-133頁)

財政学では一般論としては普遍主義の方が選別主義より望ましいとされる。神野直彦はよく「選別主義から普遍主義へ」というスローガンを、「現金給付から現物給付へ」、「再分配のパラドックス」とともに掲げていた。著者は普遍主義について下記のように書いている。

普遍主義では、多くの人が公共サービスの受益を実感でき、その実感が政府への信頼を育てるといわれている。歳出が大きくなると、政府を信頼する納税者は高い租税負担を受け入れるというのが、一般に語られる仮説である。(本書146頁)

普遍主義と選別主義のいずれにするかで議論になったのが、民主党政権時代の「子ども手当」である。民主党政権はこの制度で普遍主義をとったが、党内でこれに反対して所得制限を設けろと主張したのが当時民主党幹事長だった小沢一郎だ。結局所得制限は設けないことになったが、小沢は「普遍主義」を理解していなかったわけだ。

ところで、大阪維新の会がやったのは、それまで選別主義で行われていた部分を普遍主義に変更することだった。ここに大きな問題があった。

再び本書から引用する。

普遍主義に基づく支出には、選別主義よりも多くの財源が必要になる。維新の会が単なる「小さな政府」を指向しているとすれば、このような政策をとらないように思われる。しかし実際の配分を考えると、大阪維新の会が行う普遍的給付の方法には注意が必要である。(本書133頁)

簡単に書くと、維新は生活保護障がい者への給付を削って、その分を私立高校の無償化などの普遍主義に基づいた普遍主義の給付につけ替えたのだ。つまり、財政支出の規模はそのままで、選別主義に使っていたお金を普遍主義へと回した。

普遍主義はもともと政府や財政に対する信頼を増すものだが、維新の政策の出発点は既存政治や財政への批判にある。そして、(財政規模を大きくするのではなく、トータルはそのままで)選別主義を削って普遍主義に回すため、困難を抱えた人たちから資源を取り上げて(社会の)分断を深めると論じられている。

こうした維新の政策に対する批判をまとめた部分を本書から引用する。

(前略)本書で検討を行った維新の会における「身を切る改革」は、既存の配分を既得権益と批判し、さらに均衡財政主義を前提に削減した歳出をマジョリティに配り直す行為といえる。そして、既存の政治に不満を持つ人びとは、自分たちが受給者となる可能性が高まるため、これらの政策を支持することになる。つまり、財政ポピュリズムは自己利益を最大化する合理的個人からはごく自然に支持される選択肢なのである。

しかし、個人が市場を通じて合理的に取引しても供給されないのが公共財である。公共財を供給することは、個人の合理性を超えて市場以外の仕組みで財政を運営しなくてはならないことを意味している。

維新の会が行う財政ポピュリズムが合理的個人にとって魅力的に映るとしても、それは財政の本質的否定にほかならない。財政を信用できないからといって、財政を解体して個人に繰り戻しても、社会全体は徐々に貧しくなっていくことになるだろう。(本書149頁)

普遍主義でありさえすれば良いと言うものではない。考えるまでもなく当たり前のことだろう。それでなくても、日本では2010年代前半頃から「生活保護バッシング」なども起きており、私が運営するブログでも、つい最近もそれをめぐるトラブルがあった。生活保護のような選別主義の施策も必要不可欠だ。

著者は下記のようにも書いている。

そもそも、所得制限を撤廃した教育費無償化政策には「マタイ効果」と呼ばれる格差の拡大を助長する効果も指摘されており、普遍主義的な配分が自動的に社会内の問題を解決するわけではない。(本書148頁)

引用文中に出てくる「マタイ効果」とは何か。「マタイ福音書」や「マタイ受難曲」のマタイかと思ったらその通りだった。下記noteから引用する。「マタイ効果」の説明文の前後にある、例のカタカナ6文字で表記されることが多い安倍晋三政権の経済政策に対する批判も興味深いので、少し長めに引用する。安倍の経済政策に対する批判の部分は赤字ボールド、「マタイ効果」の説明の部分は青字ボールドで示した。

note.com

格差是正が重要課題と位置づけながらも、そのための政策の目的と手段をめぐる再検討があったとは言い難い。政策目的は現行の手段を正当化しない。所定の目的を最も効果的・効率的に達成される手段が講じられねばならない。格差是正を目的とした増税はそれをセーフティ・ネットの財源とするなど有機的な設計に基づいていなければ、いわゆる無駄遣いにつながる。

2012年末に安倍晋三政権が発足して以来、派手な宣伝と共に政策が次々と打ち出される。しかし、それは所得再分配よりもGDP拡大を優先させた復古的なものである。先のニュースは数年に亘る是正論議が政策にさほど生かされていないことを物語っている。

この傾向はジョゼフ・スティグリッツの懸念通りである。彼がいわゆるアベノミクスを評価したのは、再分配の原資には経済成長が必要だと考えているからだ。01年ノーベル賞受賞者は、13年6月15日付『朝日新聞』のインタビュー記事「アベノミクスに欠けるもの」において、再分配政策が盛りこまれていないことに失望している。

この宇沢弘文の弟子にとって、アベノミクスに期待していたのは成長戦略ではない。再分配である。スティグリッツは02年に国内外の格差を拡大させているとワシントン・コンセンサスを糾弾した経済学者である。それを無視して彼がアベノミクスを支持していると宣伝する人は素朴か愚劣かのいずれかである。

格差拡大や二極化を「マタイ効果((Matthew effect)」と呼ぶ。これは『マタイによる福音書』13章12節や25章29節の「持てる者はさらに与えられて豊かになるが、持たざる者はすでにあるものまで奪われる(Qui enim habet, dabitur ei, et abundabit; qui autem non habet, et quod habet, auferetur ab eo)」に由来する。社会学者のロバート・K・マートン(Robert K. Merton)が1968年に提唱している。

現在、世界中にマタイ効果が遍在している。この改善が最重要政治課題の一つであるという国際的なコンセンサスが事実上あると考えて差し支えあるまい。確かに、対象によってマタイ効果の生じる原因やメカニズムは異なる。システム論によるポジティブ・フィードバックが最もよく知られた説明だろう。いずれにせよ、マタイ効果を手放しで認める人はよほど能天気である。

マタイ効果が問題視されたのは新自由主義グローバル化の世界的伸長からだろう。

戦後、ケインズ政策をビルトインした福祉国家が国際的な標準体制と認知される。東西での違いはない。この体制下、マタイ効果はおおむね抑制される。しかし、福祉国家はグローバル規模で30年間続いた高度経済成長によって維持が可能だったのであり、その終焉と共に、限界に直面する。福祉国家は、原理上、ケインズ主義施策によって苦境から脱出できない。ケインズ主義を内包した体制であるため、不況に直面しても、財政出動の効果は弱い。

80年代に入ると、ケインズ主義に代わって、新自由主義が経済政策のヘゲモニーを獲得していく。90年代を迎え、東西冷戦が終結し、国家体制の共通化が進み、共通ルールの下での人・モノ・カネ・情報の自由な移動を国際的に促進させるグローバリゼーションが進展する。

先に言及したワシントン・コンセンサスはグローバル化におけるIMFによる途上国向けの累積債務の基本方針10箇条である。DCの国際経済研究所のジョン・ウィリアムソンが189年に発表した論文に由来し、新古典派の色彩が非常に濃い。ここから「小さい政府」や「規制緩和」、「市場原理」、「民営化」といった概念が派生する。ワシントン・コンセンサスによる世界統一戦略はグローバリゼーションの一つの象徴である。しかし、それにつれて、さまざまな方面での格差拡大や二極化が顕在化し始める。マタイ効果の時代が到来したわけだ。

福祉国家がマタイ効果抑制に一定の機能を果たしたなら、その見直しは増殖につながる。マタイ効果の遍在の一因にポスト福祉国家のヴィジョンが明確ではなかったことが挙げられる。新自由主義ケインズ主義を批判したが、国家像の点では、夜警国家への回帰程度で、建設性に乏しい。

問題意識を持った理論家は、伝統的な国家=市民社会という思考の座標軸に立ち戻り、福祉国家から「福祉社会」への脱皮を提唱する。しかし、この概念は論者によって異なっている。比較的明快に語っていたのがウィリアム・A・ロブソン(William A. Robson)であろう。彼は、『福祉国家と副詞社会(Welfare State and Welfare Society)』(1976)において、福祉社会を分権的で、市民が自主的に参加して問題解決を図るコミュニティと説明する。これは、現代的に言い換えると、高いソーシャル・キャピタルの社会である。

今日、広範囲で社会関係資本の重要性が認識されている。途上国への支援や災害からの復興などにもソーシャル・キャピタルの有効性が認知されている。議論自体は以前から行われてきたものの、定性的研究が多かったが、近年定量的成果も蓄積され、有効性が可視化されている。グローバル=ローカルのいずれのレベルでも社会関係資本の果たす役割が大きく、その成長が今後のよりよい世界構築に寄与するだろう。

福祉国家国民国家を単位にしている。しかし、マタイ効果の地球規模での遍在により福祉社会のみならず、「福祉世界(Welfare World)」が求められている。こうした現状に対応するには、その実績を考慮するなら、ソーシャル・キャピタルのさらなる育成が効果的だ。マタイ効果の改善にソーシャル・キャピタルの成長を抜きにして考えるべきではない。

ワシントン・コンセンサスは国際的標準化であるから、世界各地で時間をかけて蓄積されたソーシャル・キャピタルの違いを考慮していない。こうした市場の突出に対して政府の役割とのバランスをとることだけではマタイ効果是正には不十分だ。政府と市場と社会のバランスが要る。政府や国際機関による政策もその観点から考案・実行される必要がある。少なくとも、社会関係資本を縮小させる施策をしてはならない。格差拡大の税制変更など論外だ。時代錯誤にもほどがある。

URL: https://note.com/savensatow/n/n84995d4c6670

従来の「福祉国家」論者は再分配の範囲を国家内にとどめずに「福祉世界」を目指せという主旨だろう。グローバルな社会的資本が必要だというのはその通りだろうと私も思う。その原資としてグローバル法人税を提唱したのがトマ・ピケティで、10年前には非現実的だと嘲笑する向きが多かったが、既に税率はまだまだ低いとはいえ実施されている。

なお、本書の短い紹介として良いと思ったのが、前記丸山真央(*4の書評についたはてなブックマークだ。

b.hatena.ne.jp

最後に、本書を読んでいて気になった事実関係の誤りを指摘しておく。本の初めの方に書かれた、二度目の大阪都構想住民投票衆議院総選挙の時系列に関する誤りだ。これは本書の論旨に直接影響するものではないが、明白かつ初歩的な誤りだったので非常に気になった。その部分を以下に引用する。なお引用に際して漢数字を算用数字に改めた。

直前の衆議院選挙でも躍進した維新の勢いから、ついに都構想賛成が多数派になるかと思われたが、住民投票の結果は賛成67万5829票、反対69万2996票となり再び僅差で否決された。_(本書43頁)_

このように書かれているが、二度目の都構想住民投票が行われたのは2020年11月1日である。

vdata.nikkei.com

その直前に衆議院選挙など行われていない。維新が躍進した(思い出したくもないし、その後の日本の政治を思いっきり混迷させたと私がみなしている)総選挙の投開票日は2021年10月31日だった。

ちなみに、二度目の住民投票が行われる前の最後の衆院選で、維新は旧立民のブームに飲み込まれるなどして大惨敗した。2021年の総選挙はそこからのV字回復だったために、日本の政治に非常に大きな悪影響を与えたのだった。現在の維新は大逆風にさらされており、つい先日も衆院選候補予定者の離党騒ぎなどもあったので、次の衆院選で維新は再び2017年のような大惨敗をするのではないかとひそかに(ではなくて大っぴらに)期待している。

上記の誤記は、せっかくの好著だけに惜しまれる。著者のみならず、ちくま新書の編集部に対しても、もっとしっかりせよと「激励の喝」を入れたい。

(この記事は、9月7日に自ブログにあげ、その後加筆修正したものを転記したものになります。)

岸田首相の退陣表明前夜に、次の施策が少し話題になった。

www3.nhk.or.jp

この施策に対して、総裁選や総選挙を念頭に置いた人気取りだという批判が噴出したが、私も同意する。まさに、政権が特別に恩恵を与えることを、恩着せがましく強調するような施策であった。しかし、これは、手法があまりにも露骨で反感を買うものだっただけで、特別な給付や減税が政権の人気取りに利用されることは、近年では、べつに特別なことではない。

けれども、これは、望ましい財政のあり方ではない。それを説明するキーワードとなるのが、財政の所得再分配機能と自動安定化装置(ビルトイン・スタビライザー)だ。まず、改めて、所得再分配機能とビルトイン・スタビライザーについて確認する。ここではあえてネットからの引用はせず、カシオの電子辞書に収録されている山川出版社『政治・経済用語集』から引用する。学術的にも異論の少ない基本的な用法を確認したいからだ。

所得再分配

財政は,所得を再分配して,所得の平等化に役立つということ。所得税累進課税制度と,低所得者に対する医療・年金などの社会保障相続税による財産所得の平等化などによって,所得の再分配の役割を果たす。財政の機能の一つで,所得再分配機能⑩ともいう。

ビルト=イン=スタビライザー(自動安定化装置)⑰
built-in stabilizer 累進(るいしん)課税制度や社会保障制度を組み入れておくと,財政が自動的に景気を調節する機能をもつこと。財政の自動安定化装置ともいう。具体的には,景気が後退して国民の所得が減ると,税率が下がるため可処分(かしょぶん)所得はゆるやかにしか減少せず,社会保障制度によって給付などを受け取る人が増えるから,景気の急速な後退が避けられる。景気の拡大期には,所得の増加にともなって税率が上がり可処分所得はゆるやかにしか増大せず,給付などを受け取る人は少なくなるから,景気の過熱が抑制される。

ご存知だと思うが、見出しの後の丸数字は、この用語を取り上げている高校教科書数を記したものだ。参考までに、どの教科書にも登場しているであろう「日本国憲法」を引くと、⑰と記されている。これらが学習必須用語であることが分かる。

さて、特別な給付や減税は、主に困窮者救済や景気対策を名目に行われる。しかし、所得再分配の項にあるように、そもそも財政は、累進課税制度や相続税などで得られる財源をもとに、低所得者社会保障を行うものだ。また、自動安定化装置の項にあるように、累進課税制度や社会保障制度などによって、自動的に景気を調節するものだ。よって、特別な給付や減税による困窮者救済や景気対策が求められる状況というのは、財政が機能不全を起こしている状況なのだ。もちろんそれは、リーマンショックウクライナ危機などのような非常事態に多くの原因がある。

しかし、「失われた30年」の間に行われた「財政改革」に目を向けると、それだけが原因ではなく、政府が積極的にこの財政本来の機能を失わせてきたことも原因であることが分かる。この間に、政府は、累進課税緩和や資産課税減税、社会保障の切り捨てを行なってきたからだ。ここから、現在、当然のように行われている特別な給付や減税は、政府が財政本来の機能を破壊したことの当然の帰結として必要になったものだといえる。それを政権の人気取りに利用するのは、まさにマッチポンプで、ろくでもない風潮だ。

ここで、今、立憲民主党の代表選と自民党の総裁選が注目を集めているが、そこでの議論を、この風潮を改める契機とすることができないか。そうした観点から焦点を当てたいのが、まず、立民の枝野幸男が代表選立候補表明に際して掲げた政策だ。

www3.nhk.or.jp

www.tokyo-np.co.jp

枝野の政策について、NHKの記事には、

消費税5%分の実質的な減税策として、中間層までを対象にした「給付付き税額控除」を創設することを打ち出しました

とあり、東京新聞には、

所得税などの累進性を強化すると訴えた一方、消費税減税には踏み込まなかった

とある。NHKの記事にある「給付付き税額控除」は、具体的な方法は語られていないが、何らかの形で、中間層の所得税などの税額を控除するとともに、低所得者には給付を行うものだろう。緊急時の特別措置としてではなく、平時から制度として低所得者に給付を行うものになるのではないか。そうだとすると、財政本来の機能を回復させる性格の政策になる。低所得者への給付は、本来なら、生活保護の拡充こそが求められるが、残念ながら、現在、それは、「水際対策」や「スティグマ」などの問題により、困窮者をもれなく機敏に救済するものとは程遠いものになってしまっている。よって、それを補助し、財政本来の機能を回復させるものとして、この「給付付き税額控除」は議論する価値のあるものだと考える。東京新聞にある「所得税などの累進性を強化する」ことは、ストレートに「失われた30年」の間に破壊された財政本来のあり方を修復するものだ。

実は、枝野が掲げたこれらの政策は、立憲民主党として新しいものではない。次の2023年11月の時事通信の記事は、立民がこれらを含む政策を、次期衆院選公約の原案として発表したことを報じている。

www.jiji.com

しかし、当時、立民がこうした発表をした印象は薄い。今、枝野に注目が集まったことを好機として、改めて、こうした方向での政策の競い合いを盛り上げていくことが求められる。*1

一方、自民党の総裁選では、金融所得課税の強化が争点の一つとして浮上している。

www.asahi.com

これも、ストレートに「失われた30年」の間に破壊された財政本来のあり方を修復するもので、こうした方向での政策の競い合いを盛り上げていくことが求められるものだ。しかし、自民党には、岸田文雄が首相になる前に総裁選でこれを掲げたものの、首相になるとすぐに取り下げた過去がある。

www.asahi.com

金融所得課税強化の議論を盛り上げていくこととあわせて、自民党がそれを拒んできたことを、必ず確認していかなければならない。

まとめになるが、立憲民主党の代表選と自民党の総裁選を好機として、今こそ、財政の所得再分配機能と自動安定化装置(ビルトイン・スタビライザー)の修復・強化の議論を盛り上げることが求められる。

(この記事は、10月23日に自ブログに書き、その後加筆修正したものを転記したものになります。)

タイトルのとおりである。これらは、はてなブックマークや他所様のコメント欄などで、これまで何度も書いてきたことだが、今日、テレビから流れてきた臨時国会の岸田の所信表明演説を聞いて、これはやはり、一度自分のブログにまとまったものとして書き残すべきだと思い、久しぶりに記事を書くことにした。物価高による国民の不満の高まり、内閣支持率の急落、昨日の2つの衆参補選での惨敗と苦戦と、岸田は求心力を失ってきており、その回復のためには、国民の窮状に対応した政策の提示や、これまでの自民党政治の反省など、新しいメッセージの発信が求められている状況にある。にも関わらず、テレビから聞こえてきた岸田のメッセージは、これまでと何ら変わりないもの、いや、というより、その本質をよりグロテスクにむき出しにしたようなものだった。NHK NEWS WEB より一部引用する。

www3.nhk.or.jp

岸田首相 衆参両院の本会議で所信表明演説

臨時国会の召集を受け、岸田総理大臣は23日、衆参両院の本会議で所信表明演説を行いました。

冒頭、岸田総理大臣は、防衛力強化や少子化対策など時代の変化に応じた課題に取り組み、結果を出してきたとしたうえで「今後も物価高をはじめ国民が直面する課題に『先送りせず、必ず答えを出す』との不撓不屈の覚悟をもって取り組んでいく」と述べました。

そして「30年来続いてきた『コストカット経済』からの変化が起こりつつある。この変化の流れをつかみ取るために『経済、経済、経済』、何よりも経済に重点を置いていく」と述べました。

そのうえで、近く策定する新たな経済対策について、変革を力強く進める「供給力の強化」と、物価高を乗り越えるための「国民への還元」を両輪とした内容にする方針を示しました。

このうち「供給力の強化」では、今後3年程度を「変革期間」と位置づけ、◇半導体や脱炭素などの先端分野への大型投資を促進するとともに、◇賃上げや設備投資に取り組む企業への減税を進めると説明しました。

また、◇供給の要である労働力の拡大を念頭に、いわゆる「106万円の壁」を解消するために必要な予算を確保する考えも示しました。

そして「国民への還元」では、急激な物価高に賃上げが追いつかない現状を踏まえ、負担を緩和するための一時的な措置として、税収の増加分の一部を国民に還元すると強調し、所得税の減税を念頭に「近く政府与党政策懇談会を開催し、与党の税制調査会での早急な検討を指示する」と述べました。

また、◇各自治体で低所得者世帯への給付措置などに使われている「重点支援地方交付金」を拡大することや、◇ガソリン価格を抑える補助金や電気・ガス料金の負担軽減措置を来年春まで継続する方針も示しました。

さらに今後の経済財政運営について、所得の増加を先行させ、税負担や社会保障負担を抑制することに重きを置く考えを示しました。

一方、人口減少などの社会の変化にも対応していく必要があるとして、◇アナログを前提とした行財政の仕組みを改革する「デジタル行財政改革」を推進するとともに、◇マイナンバー制度の信頼回復に向けて、原則、来月末をめどに総点検を終えると説明しました。

また、◇地域交通の担い手不足などに対応するため、一般のドライバーが自家用車を使って有料で人を運ぶ「ライドシェア」の課題にも取り組む方針を明らかにしました。

このほか、女性や若者、高齢者の力を引き出すため、◇子ども1人当たりの支援規模をOECD経済協力開発機構のトップの水準に引き上げるのに加え、◇介護職などの賃上げに向けた公定価格の見直しや、◇認知症対策などにも力を入れる考えを示しました。

岸田の経済政策の本質は、何よりまず、供給重視、つまり、企業重視ということにある。それを、意図せずも、端的に表しているのが、岸田が決め台詞のように繰り出した、「30年来続いてきた『コストカット経済』からの変化が起こりつつある。この変化の流れをつかみ取るために『経済、経済、経済』、何よりも経済に重点を置いていく」という言葉だ。そう、30年間自民が執拗に推進してきたコストカット経済こそ、日本経済没落の元凶だ。そして、それを改めなければ、自民のお仲間さえ、日本もろとも没落するという状況にまでついにきたといったところだろう。そこで繰り出された言葉が、「経済、経済、経済」。他に言う言葉がないのか。ないのだ。自民の政策には、それでも、労働者や生活者はなく、もちろん、困窮者も決してなく、自民にとって経済と同義の、企業しかないのだ。その証拠に、それにすぐに続く言葉が「供給力の強化」だ。そして、その「供給力の強化」の内容とは、「半導体や脱炭素などの先端分野への大型投資を促進」(=相も変らぬ「選択と集中」による一部企業の優遇)と、「賃上げや設備投資に取り組む企業への減税」(=賃上げや経済を名目にした優良企業への逆再分配)なのだ。

賃上げ減税なるものが逆再分配だということに説明は必要だろうか。いちおうしておくと、経営体力のある企業は賃上げにメリットがあればするだろうし、ない企業はしたくてもできないだろう。つまり、これは強い企業への減税なのだ。そして、お金に色はないので、その減税分の税収減は、当然、社会保障等、他の財政支出を圧迫する。いわば、国民全体から集めた税の一部を強い企業に与えるようなもので、労働者重視政策の皮を被った逆再分配政策といってよいものなのだ。

この所信表明演説にはないが、岸田が早くに打ち出した「リスキリング」も同様だ。現在の「人手不足」は、ひとえに雇用条件が悪いことによるものである。そして、人手不足とは、労働者の立場から見れば、労働市場が売り手市場になり、雇用条件が改善する局面になるということである。ここで「リスキリング」とは、政府の金で無理やりに労働市場に新しい参入者を増やし、売り手市場の状況を弱め、労働者の苛烈な搾取に基づく経営を、企業に維持させようというものといえる。これもまた、労働者重視政策の皮を被った逆再分配政策といってよいものなのだ。

そして、「賃上げ減税」にしても「リスキリング」にしても、あくまでも、岸田の重視する「分配」は、企業を通してされるものなのだ。ときおり、「岸田の再分配重視は口だけ」といった言葉を目にすることがあるが、そもそも岸田の「分配」とはこのように、企業から労働の対価として当然に与えられる賃金でしかなく、いや、それどころか、このように、ここまできて、まだ、企業が自らの懐を痛めずに済むようにしてやることが真の目的のものでしかないのだ。それは、決して、勝ち負けゲームをその本質とする、資本主義による偏った分配を是正するために、政府が行う、「再分配」ではないのだ。それは岸田も百も承知で、腹の中では断固再分配拒否なのだろう。よって、そもそも岸田が「再分配重視」と言ったことなどないのだ。少なくとも、私は、これまでそれを見聞きしたことはない。

あと、「供給力強化」の具体策の3つ目にあげられている、いわゆる「106万円の壁」の解消も、その是非はともかくとして、この岸田の方向性に完全に沿ったものであるし、地域交通の担い手不足などに対応するために導入を進めるとしている「ライドシェア」も、根本問題である雇用条件の改善をなおざりにするものである。

ただし、「介護職などの賃上げに向けた公定価格の見直し」だけは、それらと方向性を異にするものだろう。その具体化を注視していきたい。もちろん、あまり期待はできないが。また、「子ども1人当たりの支援規模をOECD経済協力開発機構のトップの水準に引き上げる」というのも、ふつうに読めば、岸田の他の経済政策と方向性を異にするものなのだが、近年の自民(とくに安倍菅)による中抜き政策の実績を踏まえれば、穿った見方こそ持つべき視点で、やはりその具体化を注視していかなければならないものだ。

タイトルの、結局、岸田の経済政策は「自己責任」強化、というのは、岸田の「分配」重視というのは、ようは、働かざる者食うべからずの「自己責任」論であるということと、今回の所信表明演説にはないが、岸田の看板政策である、「資産所得倍増」を踏まえてのものだ。NISA拡充に代表される「資産所得倍増」が、「自己責任」論に基づくものであるということは、説明不要だろう。あわせて、この「資産所得倍増」には、弱小投資家を糧に、富裕層の投資をさらに安寧にしようとする狙いもあると私は睨んでいる。投資こそ、力がすべての世界であり、巨視的に見れば、弱小投資家が富裕層の糧となるのは自明である。ゆえに、力のない者が投資に身がすくむのは当然なのだが、それを政府が積極的に後押ししようとする。そして、それが成功すれば、富裕層は、投資のリスクを弱小投資家へと分散することもできる。弱小投資家こそリスクの高い投資に、それと気づかずに誘導されやすいだろうし、バブルが弾けた時に、「自己責任」として片づけられやすいだろう。よって、これも、弱い者を強い者の糧にするための逆再分配政策でもある。もちろん、そもそも金融所得への分離課税やNISA拡充などは、それ自体逆再分配政策であるが。

もし、投資がそんなにバラ色で、自民政府の政策が「自己責任」論にも逆再分配にも立つものではないというのなら、政府が投資をし、運用益を広く国民に還元して、国民の生活を安定させればよいではないか。いや、それ、公的社会保険ですけど、という突っ込みが入るだろう。そのとおりだ。しかるに、自民政府はその公的社会保険による保障を切り崩しつつ、2001年に「自己責任」型の「日本版401k」なるものを導入したり、今は岸田が、「自らの投資で生活の安定を」と呼びかけたりしている。やはり、公から「自己責任」へ、そして逆再分配強化こそが、岸田の経済政策の本質なのだ。もちろん、それは、岸田の属する自民の経済政策の本質でもある。そして、自民に属する者にその例外はいないというのも、もう十分に歴史が証明しているだろう。

岸田が新たな経済対策の「供給力の強化」と並ぶ両輪の一つとして打ち出した「国民への還元」については、そもそも、そのような一時的な対策を、あたかも政府からの恩恵であるかのようにするのではなく、再分配強化を柱とする税制改革と、社会保障の拡充とを行い、財政のビルト・イン・スタビライザー機能を回復しろということこそ、言わなければならない。また、税制や社会保障制度を物価変動に対応できるものにしろということも、言わなければならないだろう。しかし、それを再分配断固拒否の自民政府に期待できるはずもないことは、言うまでもない。現に、岸田は、「所得の増加を先行させ、税負担や社会保障負担を抑制することに重きを置く」考えを示している。そして、もちろん、それらが整備されないからには、期限付きの対策が必要ではある。つまり、この「国民への還元」という言葉は、自民政府が意図的に欠陥のある制度設計をしたがゆえに対策が必要となったことを、まるで自民政府の政策が成功したから国民に恩恵を与えることができるかのように装おうとする、詐欺的な言葉なのだ。

まず助ける人(自助)と助けられる人がいる。助けられる人は直接(共助)と公的機関による間接(共助)がある。自助、共助、公助のうち自助をなくすと全体が成り立たない。政治家は全体をみるべき→蓮舫氏「もう『自助』と口にしないで」 菅首相に訴え:朝日新聞デジタル https://t.co/tacwV7ELg6

高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2021年1月27日

助ける人と助けられる人の区別などない。人は一人で育つものではないという話はもちろん、社会の成功者は、その社会(現在でいえば「自由主義」「資本主義」の社会)の構成員が積極的‐消極的、意識‐無意識はともかく、その社会をともに構成しているからこそ、成功できるという話もあるし、巨人の肩の話もあれば、人とは人を支えることで自らも支えられるという話もある。にもかかわず、「『助ける人』(自助)と助けられる人がいる」などと騙ることは、社会、人びとからの恩恵に底なしにどん欲に甘え、タダ乗りし、ひいては人びとから搾取しようとする、真正の盗っ人根性の発露だといえよう。そして、これこそが「新自由主義」の論理だ。新自由主義が人びとを圧殺しようとしているなかで、恥ずかしげもなくその論理、盗っ人根性を発する。まさしく、盗っ人(!*1)猛々しいといえる。

*1:このようなアイロニーを加えることに多少の後ろめたさを感じないではないが、この根性を捨てない限りは、大きな顔をさせない方が本人のためと、合理化することにした。

昨年の4月にタイトルに<上>と付けた記事を投稿してから随分と月日が経ってしまったが、遅ればせながら、その続編を投稿したい。

<上>では、「再分配の重視を求める人こそ共助を重視すべきだ…(中略)…なぜなら、共助の場こそが、不条理にはびこる自己責任論や家族主義が打ち破られ、公助を求める態度が育まれる、恰好の場になると感じられたからだ」と書き、勝部さんを軸とした共助の取り組みを見ながら、共助の重要性を訴えた。この<中>では、稲葉剛著 『生活保護から考える』や阿部彩著『子どもの貧困――日本の不公平を考える』からも引用しながら、自己責任論や家族主義がどのように社会にはびこっているかを見ていきたい。

この2つの本については、拙ブログで、「読書メモ」として、私の関心に強く偏った視点からではあるが、要約のようなものを書いた。

また、『生活保護から考える』については、このブログの主催者であるkojitakenさんも、私よりずっと前に、これを中心に論じているエントリーを上げている。

拙ブログだけでは、ここでこの本から見ていきたいことについて引用できておらず、上記エントリーをあわせるとそれができるので、上記エントリーもこの本からの引用の参照先としたい。

生活保護から考える』の刊行は2013年、『子どもの貧困』は2008年と、どちらも少し古いものとなってしまっている。しかし、そこで告発されている、自己責任論や家族主義が不条理にはびこる様は、今も何も変わっていない。いや、後述するが、より酷いものとなっている。

生活保護から考える』では、家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くことが、自民党の党是であると論じられている。次に該当部分を引用する。

自民党の目指す社会保障ビジョン
次に、扶養義務強化の背景にある政治状況や政治理念について検討したいと思います。
生活保護バッシングの火付け役である自民党は、二〇一二年二月に発表した「政策ビジョン」の中で、現金給付から現物給付への移行(住宅確保、食料回数券の活用等)、医療扶助の適正化、就労支援の強化、不正受給対策の厳格化などにより生活保護予算を大幅に減額させることを公約として打ち出しました。二〇一二年一二月の自民党の政権復帰後、現実性の乏しい現物給付化を除いた諸施策は実現されつつあります。
この政策ビジョンがめざす「自助・自立を基本とした安心できる社会保障制度」像を一部引用してみましょう。
「額に汗して働き、税金や社会保険料を納め、また納めようとする意思を持つ人々が報われること。また、不正に申告した者が不当に利益を受け、正直者が損をすることのないようにすることを原点とする」
「『自助』、『自立』を第一とし、『共助』、さらには『公助』の順に従って政策を組み合わせ、安易なバラマキの道は排し、負担の増大を極力抑制する中で、真に必要とされる社会保障の提供を目指す」
「家族の助合い、すなわち『家族の力』の強化により『自助』を大事にする方向を目指す」
…(中略)…「家族の助け合い」、「自助」を最優先に置き、「公助」の役割を最も後回しにする発想は自民党の「党是」とも言えるものです。
pp.120-122

その後、この政策ビジョンが新しくなったという話は聞かない。現在もこの政策ビジョンに基づいて社会保障政策が進められているということだろう。

家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くことがなぜ問題なのか。それを理解してもらうには、少し長くなるが、次の節を引用することが効果的だと考える。

生活保護世帯の高校生の声
ここで、扶養義務問題の当事者である生活保護世帯の高校生の声を紹介したいと思います。
二〇一三年六月一四日、衆議院第一議員会館で開催された生活保護法改正案に反対する院内集会の場で、進行役を務めていた私は、九州に暮らす高校生からいただいたメールを読み上げました。
その前の週、私は生活保護法改正問題を取り上げたテレビ番組のインタビューに応じ、親族の扶養義務を強化することの問題点を指摘しました。その直後、私はその番組を視聴した高校生からメールをもらいました。そこには「生活保護世帯の高校生として国会議員に伝えたいことがある」と書かれていたため、私は彼女に集会に向けたメッセージを書いてもらい、その文面を国会議員も参加する集会で読み上げたのです。
母子家庭で暮らす彼女は、かなり複雑な事情のもとで育ったようです。「私の人生は普通の高校生が送ってきた人生とはかなりかけ離れていると思います。恐らく想像もつかないでしょうし、話せば同情、偏見様々な意見があるでしょう」と彼女は言い、自分の親を恨んでいると書いています。
専門学校に進学するためにアルバイトをしている彼女は、「高校は通学に一時間半かかる高校に通っていて朝は四時半に起きて弁当を作り、学校帰りにそのままバイトに行き、帰宅するのは二二時頃。勉強もありますし家事をしたりで寝るのは〇時か一時」という生活をおくっています。
生活保護制度について「おかしい」と思っているのは、アルバイト代が世帯の収入とされて差し引かれてしまうことと、扶養義務についてです。
アルバイトについて、彼女は「高校生のバイト代が生活費として差し引かれるのは当たり前のように思われていますが、学校に通い成績上位をキープしながらバイトをするということがどれだけたいへんなことか分かって頂きたい。そしてバイトをするのは決して私腹を肥やすためではないことを」と言います。
彼女の不安は自分の将来にも及びます。高校時代の奨学金の返済は八四万円になり、専門学校に進んだ場合、さらに二○○万円以上かかる見込みだと言います。そして、親元から離れ、経済的に自立したとしても、親が生活保護を利用している限り、福祉事務所、親族としての扶養義務の履行を求められることになります。
「専門学校も奨学金で行けばいいと言われますが、専門学校卒業後、高校の奨学金と専門学校の奨学金を同時返済しさらには親を養えと言われる」
「私はいつになれば私の人生を生きられるのですか。いつになれば家から解放されるのですか」
「子が親を養うことも当たり前のように思われていますが、それは恨んでいる親を自分の夢を捨ててまで養えということなのでしょうか。成績は充分であるにもかかわらず進学は厳しいというこの状況はおかしいのではないでしょうか」
メールの最後に彼女はこう訴えています。
「私がどうしても伝えたいことは生活保護受給家庭の子供は自分の意思で受給しているわけではないということです。生活保護への偏見を子供に向けるのはおかしいです。不正受給ばかりが目につき本当に苦しんでいる人のことが見えなくなってはいませんか。選挙権がない私には国を動かす方々を選ぶことができません。だからこそ生活保護受給家庭の子供について国を動かす方々にはもっと考えていただきたいと思います。」
彼女は生活保護世帯の子どもたちのほとんどが沈黙をせざるを得ないなか、「私の意見を広めることで、同じ生活保護受給家庭の子供が意見を発するきっかになれば」と言っています。
国会議員のみならず、日本社会に生きる私たち大人はこうした子どもたちの訴えに真摯に向き合う必要があるのではないでしょうか。
pp.110-113

これが「家族の助け合い」(扶養義務)と「自助」の実態である。人は生まれを選べない。生活保護の家庭に生まれた子どもは、なんの「自己責任」もないのに様々に不利な状況に置かれ、そこで懸命に「自助」の努力をしたとしても、将来に渡って「家族の助け合い」(扶養義務)から解放されることはない。個人の尊厳と人の平等とを謳う現憲法の下で、こんなことがまかり通るのは、理不尽としか言いようがない。しかし、安倍自公連立政権の支持率は、大きな流れで見ると、最近では数々のスキャンダルが露呈しているというのに、この本が書かれた政権発足当初より高い。これが、自己責任論や家族主義が不条理にはびこる様が酷くなっていると考えるゆえんである。

このように、生まれにより不公平に貧困状態におかれている子どもがいる。その広がりを統計的に示そうとしたのが『子どもの貧困――日本の不公平を考える』である。

この本では、日本の子どもの貧困率が国際的に見て高いことが示されている。次に該当箇所を引用する。

図2-3は、一九八〇年代から二〇〇〇年代前半の先進諸国における子どもの貧困率の推移を示したものである。このデータは、ルクセンブルク・インカム・スタディ(LIS)という国際機関が、国際比較が可能なように、各国のデータを同一の定義で収集したものである。日本は、この国際機関に参加していないが、 LISデータと比較可能なように、図では日本についても同じ定義を用いて貧困率を計算している。ここにおける貧困概念も、相対的貧困であり、各国における社会全体の所得の中央値の五〇%である(計算の方法が若干異なるため、図2-2とは異なる数値となっている)。
これをみると、日本の子どもの貧困率は、アメリカ、イギリス、カナダ、およびイタリアに比べると低いが、スウェーデンノルウェーフィンランドなどの北欧諸国、ドイツ、フランスなど大陸ヨーロッパ諸国、日本以外の唯一のアジア地域の台湾などと比較すると高い水準にある。すなわち、日本は子どもの相対的貧困が他の先進諸国と比較してもかなり大きいほうに位置していることがわかる。LISのデータにおいても、本書の冒頭に述べたOECDの報告書と同様の結果が得られたこととなる。さらに、他国と比べた日本の子どもの貧困率の高さは二〇〇〇年代に入ってからの新しいものではなく、一九九〇年代初頭から見られた傾向であることが追記される。
pp.53-54

そして、次のように、この子どもの貧困率が、政府による再分配後の方が悪化することも述べている。

社会保障の議論の中で、「貧困世帯」という視点が抜けたときに、最も被害を被るのが、子どものある貧困世帯であろう。なぜなら、子どものいる世帯はおおむね現役世代であり、社会保険料や税といった「負担」が最も大きい世代だからである。このことは、以下の国際比較により、明らかである。
図3-4は、先進諸国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを、「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかもしれない。再分配前所得における貧困率と再分配後の貧困率の差が、政府による「貧困削減」の効果を表す。
これをみると、一八か国中、日本は唯一、再分配後 所得の貧困率のほうが、再分配前所得の貧困率より高いことがわかる。つまり、社会保障制度や税制度によって、日本の子どもの貧困率は悪化しているのだ!
pp.95-96

日本の社会保障制度や税制度がいかに不公平なものであるかが分かる。

子どもの貧困が極めて深刻な世帯としてあげられているのが、母子世帯である。

これらの世帯タイプ別の貧困率を見ると、母子世帯の貧困率が突出して高いことがわかる(六六%)。三世代世帯と両親と子どもの核家族世帯は、低い数値(一一%)であり、この二つの世帯タイプと、母子世帯との間に、大きな隔たりがあるのが特徴的である。母子世帯の貧困率は、OECDやほかのデータを用いた推計においても、六〇~七〇%の間で推移しており、親と同居した三世代の母子世帯においても、その貧困率は三〇%台と高い(阿部2005)。
女性の経済状況が改善し、それが離婚に繋がっているという見方も多いが、母子世帯で育つ子どもの半数以上が貧困状況にあるのである。第4章にてOECDのデータを紹介するが、国際的にみても、日本の母子世帯の貧困率は突出して高く、OECDの二四か国の中ではトルコに次いで上から二番目の高さである。
pp.57

そして、それにもかかわらず、日本の母子世帯の母親の就労率が国際的に見て高いことも述べられている。

母子世帯に育つ子どもの生活水準が、ほかの子どもの生活水準に比べて低いことは前に述べた。これは、他の先進諸国にても同じ状況であるが、日本の母子世帯の状況は、国際的にみても非常に特異である。その特異性を、一文にまとめるのであれば、「母親の就労率が非常に高いのにもかかわらず、経済状況が厳しく、政府や子どもの父親からの援助も少ない」ということができる。
まず、就労率をみてみると、一九九〇年代を通じて、八〇%台後半から九〇%台がずっと保たれており(八四%(厚生労働省編2006))、他の国と比較するとその差は明らかである。図4-1と図4-2をご覧頂きたい。これは、OECD諸国のひとり親世帯(どの国においてもほとんどが母子世帯)の就労率と母子世帯の子どもの貧困率を比べてみたものである。これによると、日本のひとり親世帯の就労率は、ルクセンブルク、スペイン、スイスに続く第四位(三〇か国中)と、きわめて高い。しかも、就労率がこれほど高いのに、貧困率は、最悪のトルコとたいして変わらなく、上から二番目である。まさしく、母子世帯は「ワーキング・プア」なのである。
pp.109-110

日本で子育てをしながら働くことの難しさは叫ばれて久しい。その労働環境のなかで家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くとどうなるか。その結果がこれである。

そして、それがいかに不条理なものであるかを示しているのが次の箇所だ。

母子世帯における母親の長時間労働は、子どもが親と過ごすことができる時間の減少に直結する。日本と欧米諸国の母子世帯の母親の時間調査(一日に何にどれくらいの時間を費やすかの調査)を国際比較した研究(田宮・四方2008)によると、日本の母子世帯の母親は、平日・週末ともに、仕事時間が長く、育児時間が短いという「仕事に偏った時間配分」の生活を送っているという(仕事時間は日本が平均三一五分、アメリカ二四二分、フランス一九三分、ドイツ一六〇分、イギリス一三五分)。
育児に手間暇がかかる六歳未満の子どもを育てながら働いている母子世帯に限ってみると、平日の平均の仕事時間は四三一分、育児時間については、なんと四六分しかない。参考までに、同年齢の子どもをもつ共働きの母親の平日の育児時間は平均一二三分である。母子世帯の母親の場合、土日の週末でさえも、仕事時間が平均一六三分もある。さらに、一九八〇年代に比べて、その傾向が強くなっているという。分析を行った田宮雅子神戸学院大准教授・四方理人慶應義塾大学COE研究員の両氏は、「シングル・マザーのワーク・ライフ・バランス」の政策が必要であると述べているが、まったくその通りである。
pp.120-121

それにもかかわらず、こうした状況に対する政府の「改革」はどのようなものか。それは次の箇所で見ることができる。

母子世帯に対する施策の中で、最も対象者が多いのが児童扶養手当である。
児童扶養手当は、父親と生計を共にしない一八歳未満の子どもを養育し、所得制限を下回るすべての母子世帯(または養育者)を対象とする現金給付制度である。その給付額は、世帯の所得水準によって異なり、最高月四万一七二〇円(二〇〇八年度、二人目はこれに五〇〇〇円の加算、三人目以降は一人あたり三〇〇〇円の加算となる)から〇円まで段階的に決定されている。二〇〇七年二月現在、約九九万人が児童扶養手当を受給しており、これは、母子世帯の約七割となる。母子世帯の 増加に伴って、児童扶養手当の受給者数は増加しており、一九九九年の六六万人から、約一〇年後の二〇〇八年には九九・九万人に達した。
こうした中、政府は二〇〇二年に、母子世帯に対する政策の大幅な改革を行った。改革の主目的は、「児童扶養手当の支給を受けた母の自立に向けての責務を明確化」し、「離婚後などの生活の激変を一定期間内で緩和し、自立を促進するという趣旨で施策を組み直す」(厚生労働省「母子家庭等自立支援大綱」)ことである。つまり、児童扶養手当など受給期間が長期で恒常的な性格をもつ所得保障は極力制限し、代わりに、職業訓練などを通して母親自身の労働能力を高めることにより、将来的には政府からの援助を必要としない「自立」生活を目指すというものである。
pp.132-133

ここでも自助と家族主義が貫かれているのだ。

このように、『こどもの貧困』では、子どもの貧困の広がりとそれに対する冷淡な政府の政策とが描き出されている。さらにこの本は、それ以上に私たちが目を向け、向かい合わなければならない現実も描き出している。それは、日本が、政府の政策の次元だけでなく、人びとの意識の次元でも、子どもの貧困に対して冷淡である、ということである。次に該当箇所を引用する。

子どもの必需品に対する社会的支持の弱さ
筆者は、二〇〇三年と二〇〇八年に「合意基準アプローチ」を用いて、一般市民が日本の社会において何を必需品と考えるかの調査を行った。〇八年調査では、特に子どもに特化して「現代の日本の社会においてすべての子どもに与えられるべきものにはどのようなものがあると思いますか」を、二〇代から八〇代までの一般市民一八〇〇人に問うた。調査は、インターネットを通じて行われており、一般人口に比べて若い層が多い、所得が若干高い、などのサンプルの偏りはあるものの、回答傾向に大きなひずみはないと判断される。
調査では、「一二歳の子どもが普通の生活をするために、〇〇は必要だと思いますか」と問いかけ、回答には三つの選択肢を用意し、「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべきである」「与えられたほうが望ましいが、家の事情(金銭的など)で与えられなくてもしかたがない」「与えられなくてもよい」「わからない」の一つを選ぶようにした。調査項目は、「朝ご飯」「少なくとも一足のお古でない靴」「(希望すれば)高校・専門学校までの教育」など、子どもに関する項目の二六項目にわたる。その結果を表6-1に示す。
驚いたことに、子どもの必需品に関する人々の支持は筆者が想定したよりもはるかに低かった。二六項目のうち、一般市民の過半数が「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべきである」と支持するのは、「朝ご飯(九一・八%)」 「医者に行く(健診も含む)(八六・八%)」「歯医者に行く(歯科検診も含む)(八六・一%)」「遠足や修学旅行などの学校行事への参加(八一・一%)」「学校での給食(七五・三%)」「手作りの夕食(七二・八%)」「(希望すれば)高校・専門学校までの教育(六一・五%)」「絵本や子ども用の本(五一・二%)」の八項目だけであった。「おもちゃ」や「誕生日のお祝い」など、情操的な項目や、「お古でない洋服」など、子ども自身の生活の質を高めるものについては、ほとんどの人が「与えられたほうが望ましいが、家の事情(金銭的など)で与えられなくてもしかたがない」か「与えられなくてもよい」と考えているのである。
文化の違いがあるものの、近似した項目について、他の先進諸国の調査と比べると、日本の一般市民の子どもの必需品への支持率は大幅に低い。たとえば、「おもちゃ(人形、ぬいぐるみなど)」は、イギリスの調査(一九九九年)では、八四%の一般市民が必要であると答えているが、日本では、「周囲のほとんどの子が持つ」というフレーズがついていながらも、「スポーツ用品(サッカーボール、グローブなど)やおもちゃ(人形ロック、パズルなど)」が必要であると答えたのは、一二・四%しかいない。同じく「自転車(お古も含む)」は、イギリスでは五五%、日本では二〇・九%であった(小学生以上)。「新しく、足にあった靴」は、イギリスでは九四%とほとんどの市民が必要であるとしているが、日本では「少なくとも一足のお古ではない靴」は四〇・二%である。「お古でない洋服」は、イギリスでは七〇%、日本では「少なくとも一組の新しい洋服(お古でない)」は三三・七%であった。一時は教育熱心であると言われた日本人のことだから、教育関連については支持率が高いのだろうと期待したが、それもイギリスに劣っている。「自分の本」はイギリスでは八九%であるが、日本(「絵本や子ども用の本」)では五一・一%である。
これはイギリスだけが特に子どもの生活について意識が高いということではない。同様の調査をしたオーストラリアとの比較においても、日本は低い傾向が見られる。驚いたことに、日本では「国民皆保険」が達成され、すべての子どもが歯科治療や健診を受けられるはずであるが、「歯医者に行くこと(健診を含む)」への支持は八六・一%である。対して、オーストラリアでは九四・七%の人が「すべての子どもが歯科検診を受けられるべき」と考えている。オーストラリアでは、公的医療保険では、歯科健診はカバーされないのにもかかわらず、である。
pp.184-188

日本の政府の冷淡な政策は、私たちの冷淡な意識に根差している。私たちはこの現実と向かい合わなければならないのだ。

さて、家族の助け合いや自助を社会保障政策の中心に置くことを党是とする自民党が、なぜ高い「支持」を得続けるのか。私たちはなぜ、「子どもの貧困」に冷淡なのか。その答えとして、私は、私たちが、他者を蝕む不公平な現実を、見なくてよいことにして、意識の外に追いやってしまおうとするからだと考える。彼らは私たちとは生きる世界が違う。私たちとは違う世界で、彼らは自らそのように生きている。自己責任である。『子どもの貧困』もあとがきで、次のように私たちの社会を告発する。

一九九八年二月、新宿駅西口の段ボール村が消滅した。つい数週間前まで、ここは寒さと危険から逃れてきた二〇〇人以上ものホームレスの人々が段ボール・ハウスで生活する「村」だった。新都心のど真ん中、都庁のお膝元にできたこの「村」は、バブル崩壊後の日本において「貧困」の存在を市民の目の前につきつけるものだった。行政による何度もの「強制撤去」の危機にも屈せず、最後の生きる場所を守ろうとする人々が必死の「闘争」を繰り広げていた。しかし、火災という不運と「自主撤廃」 というぎりぎりの選択肢に迫られて、ある日、村は忽然と消え去り、そこはフェンスで囲まれた無機質な空間にかわっていた。
その不自然な空間を、通行人は何事もなかったかのように、振り向きもせずに通り過ぎていた。ここで多くの人が生活していたという事実は痕跡すら残されていなかった。こうして社会の底辺ながらも精一杯生きていた彼らの「生」は忘れられていった。
「貧困」を「醜いもの」として見えないところに追いやり、「自己責任である」という説明で自らを納得させて意識の外にさえ排除してしまう社会。私は、そのフェンスの前に文字通り釘付けになり、動くことができなかった。私の貧困研究の発端は、ここにあるといってもよい。日本の貧困の現状について、多くの人が納得できるデータを作りたい。それが、私の研究テーマである。
それから一〇年の時が流れ、このような本を出版させていただくことになった。その間、「格差社会」という言葉が当たり前のように使われるようになり、二〇〇八年に入ってからは「貧困」「ワーキング・プア」などという言葉もちらほら見かけるようになった。このことは、「貧困」が社会問題として認知されつつあるということを示しているのかもしれない。一方で、それだけ「貧困問題」が深刻になってきたということの表れでもあろう。しかし、「格差論争」がすでに下火になってきたことからも示唆されるように、「貧困論争」も実質的な政策の変換を伴わずに、一時的なブームで終わってしまう可能性もある。「格差」や「貧困」を、「上流」「下流」、「勝ち組」「負け組」といったラベル付けに象徴されるような、一種の「ゲーム」的な関心で語っているだけでは、「貧困」も「格差」も、新宿西口のホームレスの人々と同様に、いつのまにか「見えなく」なり、「語られなく」なるであろう。それは、「貧困」や「格差」が解消したからではなく、ただ単に、社会がそれを見ることにあきてしまい、見ることをやめたからである。
pp.245-246

このようにして私たちが別の世界として切り離し、見ることをやめた世界を、共に生きる世界として結び付け、見ようとする。勝部さんが取り組んでいるような共助の取り組みの場こそ、そうした態度が育まれる場となるのではないかと感じる。

本日、この『鍋パーティーのブログ』にブログ主催者であるid:kojitakenさん自身が、新ブログになってからは実質初めての記事を投稿されるとともに、読者にも記事の執筆を呼びかけられた。それを受けて、私も、再分配の中でも年金について、(年金は本来は再分配政策とは異なる領域の政策であるのだろうが、)拙いながらも私見を述べたいと思う。

ちょうど今日のことだが、朝日が次の世論調査を報じた。

digital.asahi.com

安倍晋三首相に一番力を入れてほしい政策は?」という質問に対する回答が、「年金などの社会保障」38%、「教育・子育て」23%、「景気・雇用」17%、「外交・安全保障」14%、「憲法改正」3%となったというものである。政権が何をアピールしようとしても、何を声高に主張しても、依然として社会保障に対する関心がそれらよりも高いということが分かる。

では、関心の高い「年金などの社会保障」について、今回の参院選で各党はどんなことを訴えたのか。それをNHKによる「NHK選挙WEB」の「選挙データベース」で簡潔にみることができた。ただし、残念ながら、台風の目になった「れ新」については、選挙前に政党要件を満たしている7つの政党が対象ということで、ここではみることができなかった。

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年金について目を引くところは、多くの党が低年金者への支援を掲げていること、共産と社民が「マクロ経済スライド」の廃止やそれによる「年金の抑制の中止」を掲げていること、維新が「積み立て方式への移行」を掲げていることなどである。

さて、私がここで主張したいことの1つは、共産や社民の求めている「マクロ経済スライドのの廃止」ないし「マクロ経済スライドによる年金の抑制の中止」は、いわゆる「年金の2階部分」については、再分配の観点から望ましくない、ということである。なぜなら、久しく叫ばれているように、制度設計の失敗から、公的年金の積立金の枯渇が必至であるからである。積立金が枯渇する中で現制度での給付水準の維持を求めれば、当然、保険料か国庫負担のいずれか、または、両方の引き上げが必要になる。ここで、「2階部分」、つまり公務員共済組合や厚生年金などの老齢年金給付は、現役時代の個人間の所得格差を退職後も保障するという性格をもつ、ということを考えなければならない。現役時代に多くの保険料を納めた者がそれに応じた年金給付を受けるとは、そういうことである。積立金が枯渇するなかで保険料や国庫負担を増額すれば、それはこの所得格差の保障のために、現役世代により多くの保険料を納めさせたり、広く国民にさらに重い税負担を強いるということになる。それは逆再分配的な政策であるといえる。そして、本来、倫理的にも感情的にも受け入れられる政策ではないはずである。

しかし、マクロ経済スライドの廃止を認めず、積立金の減少に応じて給付を減額していくことにすれば、将来の生活不安が厳しい実態をともなうものとして広がることになる。そこで、私が主張したいことのもう1つが、1階部分の国庫負担による上積みを、ということになる。それは、中間層の人たちの2階部分の給付の減少を、相殺するに十分な額であることが望ましいだろう。1階部分が広く国民全体を覆うものだとすれば*1、2階部分とは違い、そこに広く国民に税負担を求めることに問題は生じない。さらには、税制を累進的なものに改革することにより、再分配を強力に推し進めることができる。再分配を求める立場の人たちこそ、このような制度改革を求めていくべきではないだろうか。

このようなことについては、おそらく専門家や研究者も少なくなく、著書や論文も多く出されているのではないかと思います。にも拘わらず、それらを読んだこともない私がこうして拙い主張をするのは、これをこのような議論の叩き台にしていただいたり、そうした著書やブログ記事などを紹介していただくことで、よりよい認識が広まっていくことに僅かでも貢献できればという思いからです。ご意見、ご助言等いただければ、大変うれしく思います。ぜひ、よろしくお願いします。

*1:ここで、決して少なくない年金未納者についてどうするかという問題が課題として残されるということはあるのだが。

本共通ブログの管理人、古寺多見(kojitaken)です。

この共通ブログの前身は、最初FC2に立ち上げました。2010年11月のことです。しかし折悪しく2011年3月に東日本大震災と東電原発事故が起き、政治ブログの世界も、また私自身も、震災そのものよりも原発問題に関心が偏ってしまって、本来このブログの立ち上げに注力すべき時期にそれが十分できませんでした。

リベラル・左派全体を振り返っても、2011年〜2013年頃に論点が原発問題に偏りすぎた隙を、2012年12月に発足した第2次安倍内閣に突かれた恰好でした。安倍政権の経済政策は、私にいわせれば評価できるのはその大胆な金融緩和の部分だけであって、この共通ブログのテーマである「富の再分配」については全く不十分だと思われるものなのですが、リベラル・左派内でも、「なんとかノミクスは本来リベラル政権がとるべきリベラルな経済政策である」という謬論がまかり通る時期が長く続きました。もっともこれには、特に旧民主・民進支持層などの間に、新自由主義的な均衡財政志向などの刷り込みが根強かったせいもあります(この傾向は今も続いています)。

しかし、安倍政権下においても、安倍政権が再分配に全くの不熱心で、財政支出アメリカ・ロシアなど安倍晋三が気に入った国や、安倍の「お友達」などへの傾斜配分がなされた結果、日本国内の格差はますます拡大し、「新しい階級社会」化が進みました。

先日(2019年7月21日投開票)の参議院選挙で、山本太郎が率いる、元号名を冠した新政党(以下「山本党」と略称)がいきなり比例区で2議席を獲得したのは、自民党はもちろん、旧来の「中道」野党である旧民主・民進系の立憲民主党や国民民主党はもちろん、これら中道野党と「共闘」を行う共産党からさえも「疎外」されたと感じた人々が、山本党に熱い期待を託したためであることはあまりにも明らかです。

各種メディアの調査によると、たとえば立憲民主党の支持層は60代以上を中心とした高齢者層に偏っていて若年層ほど支持率が低い一方、山本党に投票した有権者は40代以下が多かったとのことです。つまり、いわゆる「就職氷河期」の世代とそれより若い世代からの支持を、立憲民主党(や国民民主党)は得られていないということです。これらの旧民主・民進系政党は、急激な格差の拡大と新・階級社会化への対応が立ち遅れているといえましょう。共産党は本来、新しい階級世界におけるアンダークラス(by 橋本健二)のニーズに応え得る政党のはずですが、「野党共闘」の過程で旧民主・民進系(小沢一郎一派を含む)に引っ張られるばかりで、旧民主・民進系政党の経済政策を「左に寄せる」ことができなかったばかりか、共産党自らも、これは経済政策よりも専ら政治思想的な面においてですが、ずいぶん右傾化した印象があります。それにもかかわらずこの国の社会にずっとあった伝統的な共産党に対する忌避感はまだ残っています。今回の参院選では、これらの要因が相俟って人々に山本党への投票へと向かわせたと考えられます。

このエントリでは、その山本党の「ポピュリズム政党」的な性格については何も論じません。この記事の論点は以下に述べる通りです。

それは、経済の拡大期において機能した程度の再分配政策では、経済の縮小期における再分配政策としては全く不十分であり、経済の縮小期においては、経済の拡大期におけるよりもずっと強い、ドラスティックな再分配政策が必要だということです。

私が念頭に置いているのは、ごく単純なパイの分配のモデルです。パイが急速に大きくなっている段階では、強欲な金持ちが自分の取り分を多く取っても、それよりもパイの取り分が大きくなります。金持ちがパイを取り過ぎてもメタボになって早死にするだけですから当然の話で、その結果富の分配(再分配ではない)は自然に進むのです。その時期には、強い再分配政策は必ずしも必要ありません。

しかし、パイが小さくなる時期には、金持ちは自分の取り分だけは守ろうとしますし、実際彼らには政権の中枢に与える影響力も十分ありますから、強引に自分の取り分を減らさずに守ります。その結果、金持ちが取ってしまった分を除くパイの減り方の度合いは、金持ちが取る前よりも大きくなり、格差の拡大と階級社会化が急速に進むというモデルです。後者の弊害は、「強い再分配」によって強制的に矯正されなければならないと私は考えます。

日本も本格的な人口減の時代に入りました。この時代においては、これまでよりもずっと「強い再分配政策」が必要になります。そして、「強い再分配政策」が「強い経済」に直結する時代であるともいえます。アンダークラスの人たちが自助に頼る必要が減ってより多く消費できるようになれば、それだけで日本経済がその潜在能力を有する分だけは拡大することは明らかでしょう。

つまり、これからの時代こそ「富の再分配」が大きなテーマになる時代なのであって、議会制民主主義がそれから取り残されて、時代遅れの新自由主義的な政策をいつまでも続けていられる余裕など、もはや全くありません。

ポピュリズムの脅威」ばかりを声高に叫びたがる人たちの中には、以上のような観点が欠けている人たちが少なからずいるのではないか。そんな彼らたち自身が議会制民主主義の首を絞めることになりはしないか。

そう強く危惧するため、閑古鳥が啼いているこの共通ブログに久しぶりに記事を公開する次第です。