いまだ螻蟻は徘徊している! (original) (raw)

発見があったら更新(20240617 更新)

書くことのモチベーションの一つに、日々を美しく、ユーモラスに異化することで、生活のなかで自分を見失わないようにしたいという思いがあり、ツイートはそのコストが少ない手段として有力である

しかし、色々ノイズが入りやすいメディアでもあるため、それを取り除く指針を明確にしておきたい

美しいツイートあるある

・詩である

・自然体である

・素朴である(変な作為性を感じさせない)

・変な作為性を感じるが、その作為性が変すぎて面白い

・ユーモラスである

・目に入った際のストレスがない

・社会的価値基準から遠く離れた美しさ・面白さを見つけている

・社会的価値基準をユーモアの道具にし、その価値体系を相対化している

・なぜそのようなツイートをしたのか謎である

・短いか、描写的な持続を伴って長い

あまり美しくないツイート

・衒学的毛づくろい(これしかできなくなったら厳しい)

・鳴き声っぽい

・一周回って とか そういうユーモアで とかじゃなく 文体が真顔

・何かを主張?しようとしている(ブログやnoteで勝負してほしい)

・何か真理?みたいなことを言ってくれている

・喧嘩?している(喧嘩はよくない)

・ガチの、クネクネ(寝るなどしたほうがいい)

・工夫のない宣伝

・流行りのミームを擦る(流行りとか知らん)

・実体験っぽい恋愛・性愛の話

・一般論としての恋愛・性愛の話

・肩に力が入っている

・逆に、素朴すぎる(自分の内側にとどめておけばよくない?)

美しいツイート研究(他人のツイート)

二度寝してたら希望の夢を見た

素朴に 良かったね と思えるような感じ美しい

希望の夢ってなんなんだ

大人ダルすぎ、子どもにいい未来見せた過ぎる

本当にそう

渋谷は俺がサンダルで踏み潰しておきました

ありがとう

花持って歩くのかっこいい

こう思える感性 忘れずに書き留めておけること くだらないと思わずにツイートできること 全てが尊い

おれが東京テディベアを歌うと「父さん母さん今までごめん」で失笑が起きる

こういうのは許せる

クーラーガンガンの部屋でピザパクー

特に ピザパクー が素晴らしい

飲み友のうっちーが桐島聡と判明した人がこの世のどこかにいるわけですよ そういう時にただ悲しみ悼むか、通報して賞金を貰えばよかったと思うか、もっと仲良くしてればよかったと思うか、みたいなのって人によると思うんですけど こういう話題で酒が飲みたい

「社会的価値基準から遠く離れた美しさ・面白さを見つけている」の一例 飲みの席が良い感じになるとき、こういう社会的価値基準からしたらどうでもいい話で一生盛り上がっている

死にたいというよりこんなんどないしますん?という気持ちの方が近い

こういうクネクネは全然余裕で耐えてる

リクルートスーツを着た若い女が「自己啓発」の棚の前で呆然と立ち尽くしていた

描写・詩系

新宿 一度 全体的に軽く焼いた方がいい

人の多すぎる汚い大都市の悪口 スッとする

うしじまいい傷

この調子で全部を詩にしていこう

まだ風呂入れてなくてテンションあがってきた!明日の朝温泉いこうかな

美しすぎる 風呂入れてないことに引け目を感じるのではなく、朝温泉という豊かな時間への積極的なチャンスと捉えられることがすごすぎる

麦茶うまい

正直ここまで素朴すぎると逆に厳しいライン入るか……? という感じだけど、季節感がジャストだから許された 白米うまいとかだとかなり怪しかった

王は絶対に凱旋できる≒最後に笑っちゃうのはあたしのはず

おう

なんかそもそも ツイートそれ自体が普通に書くと美しくなくなる よくないコンテンツな気がしてきた

自己分析も兼ねて。随時更新

Tier表

S(これを抜かしては人生史が成立しなくなる級のバイブル)

・将棋、将棋AI、研究ブログ(小五~現在)

→①システム化思考→哲学・思想・批評→柄谷『探究』「形式化の諸問題」、九段理江、内海健ASD論→(破綻)→脱システム化(浅田『構造と力』、郡司『天然知能』、木村敏岡田利規

→②決断主義ネオリベ・社会ダーウィニズム→『ゼロ想』、福本『カイジ』『涯』、『fate/stay night』→創作、佐藤友哉園子温、『花束みたいな恋をした』、新人賞主義的葛藤vsフィッシャー『資本主義リアリズム』、原田『実存的貧困とは何か』→(破綻)→共同性的転回(木村敏

・『アマガミ』及びその考察ブログ(中二)

福本伸行『天』(中二~三?)

きづきあきら+サトウナンキ『メイド諸君!』(高二?)

→①自意識(自己嫌悪)の忌避→朝井『何者』→福田『この劇』による演戯論的転回→岡田

福本伸行最強伝説黒沢』(高三?)

→「アリになれたかな?」

・『盤上のシンデレラ』(高三?)

岩井俊二監督『花とアリス殺人事件』(大三)

岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(大三~四)

岡田利規ブロッコリー・レボリューション』(大四)

・郡司ペギオ幸夫『天然知能』(大四)

・九段理江『東京都同情塔』(大四)

木村敏『心の病理を考える』(大五)

木村敏分裂病と他者』(大五)

A+(かつてものすごく衝撃を受け、確実に現在の自分を支えている)

福本伸行賭博黙示録カイジ』(小六?)

・『Fate/Zero』(高一?)

・アニメ『シュヴァルツェスマーケン』および『マブラヴオルタネイティブ』の吉宗鋼紀インタビュー(中二~高三?)

佐藤友哉『青酸クリームソーダ』(大一)

→「蟻を殺すなら三匹まで」、愛について

・一階堂洋「みそは入ってませんけど」(大一)

柄谷行人『探究Ⅰ』(大二)

園子温監督『冷たい熱帯魚』(大三)

・千葉雅也『デッドライン』(大三)

福田恆存『人間・この劇的なるもの』(大四)

川田絢音『球状の種子』(大四)

・映画『aftersun/アフターサン』(大四)

・映画『リリィ・シュシュのすべて』(大四)

柄谷行人『隠喩としての建築』(大五)

A(今なおそれなりの熱をもって語れる想い出のコンテンツ)

・王城夕紀『青の数学』(高一?)

→たかだかゲームじゃん、という嘲りへの反抗 「青春」

・自己矛盾さんのアルトネリコ2・エヴァンゲリオン論(高二?)

フェティシズムヘーゲルエヴァンゲリオン

朝井リョウ『何者』(高三)

・アニメ『氷菓』(大一)

・片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』(大二)

坂元裕二監督『花束みたいな恋をした』(大三)

東浩紀大塚英志『リアルのゆくえ』(大三)

久保明教『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』(大三)

→アクターネットワーク理論(ANT=蟻)

柄谷行人『意味という病』(大四)

・九段理江「悪い音楽」(大四)

十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』(大四)

内海健自閉症スペクトラムの精神病理』(大四)

浅田彰『構造と力』(大五)

・篠原正寛監督『トラペジウム』(大五)

・江野スミ『たびしカワラん!!』(大五)

→死生観、〈呪術〉と〈批評〉

A-(今思い返せば語り直す余地があるかも/もっと勉強すればハマれるかも)

・古川知宏監督『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』(大二)

・アニメ『デュラララ!!』(高三)

→池袋について

佐藤友哉エナメルを塗った魂の比重』(大二)

→キャラクター小説のリアリズムを最大限に活かした仕掛け

國分功一郎スピノザ』(大四)

國分功一郎『はじめてのスピノザ』(大四)

永井均西田幾多郎』(大五)

B+(かつてはかなり影響を受けたが、いま酒を入れてもそこまでアツく語ることはできないかも)

・アニメ『イナズマイレブン』(小二)

→美少年、悪堕ちの存在論的勝利

小林よしのり戦争論2』(小五)

→『ゼロ想』~『マブラヴ』~批評および批評的創作への興味

筒井康隆『笑うな』(中一)

福本伸行銀と金』(中一)

宇野常寛ゼロ年代の想像力』(中二)

・アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(中二)

・加藤純一のアマガミ実況及び配信活動(中二~?)

福本伸行『無頼伝 涯』(中二)

・アニメ『咲-Saki-』(高二)

海猫沢めろん『全滅脳フューチャー!!!』(高二)

・アニメ『NHKへようこそ!』(高三)

・アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(大一)

庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(大一)

佐藤友哉『灰色のダイエットコカコーラ』(大一)

浅野いにおおやすみプンプン』(大一)

・原田和広『実存的貧困とはなにか』(大三?)

浅野いにおデッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(大三~五)

新海誠監督『秒速5センチメートル』(大四)

佐藤友哉水没ピアノ』(大四)

B(そんなのもあったな~/消費して損はなかった)

・アニメ『CANAAN』(高一?)

・アニメ『BLACK LAGOON』(高三)

東浩紀動物化するポストモダン』(中二、大四)

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』(大一)

新海誠監督『天気の子』(大二)

トッド・フィリップス監督『ジョーカー』(大二)

・アニメ『神様のメモ帳』(大二?大三?)

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(大三)

保坂和志『プレーンソング』(大三)

・菅谷規矩雄『菅谷規矩雄詩集』(大四)

C(なんだこれは?)

宇野常寛『母性のディストピア』(高三)

佐藤友哉フリッカー式』(大一)

・村上裕一『ゴーストの条件』(大三)

庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』(大二)

チェルフィッチュ『消しゴム山』(大五)

D(控えめに言って、どうなのか?)

最果タヒ『グッドモーニング』(高三)

朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』(大四)

来歴的に、これを履修していないとおかしくないか?

・『マブラヴ』および『マブラヴオルタネイティブ』

ヘーゲル精神現象学

チェルフィッチュの演劇(DVD)

東浩紀存在論的、郵便的

・保坂スクール(保坂和志青木淳悟山下澄人など)

西田幾多郎善の研究

ゲシュタルトクライス

有機体が生きているということは、「生きる」という目的に添った関係が確保されているということである。

木村敏『心の病理を考える』、岩波新書、一九九四年、五六ー五七頁)

期せずして、医学ではなく精神病理学に強い影響を及ぼしたドイツの内科医ヴァイツゼッカーにとって、「主体」とは、個体が自らの一挙一動を意志的にコントロールし、偶然性の干渉も含めて結果の責任を引き受けるといった実存主義的概念ではなく、より関係論的なものであった。個体は「生きる」という目的に添ったかたちで、変動する環境的状況とのあいだに、つど新たな関係を生成する。関係は、環境の変化によって解体と生成を繰り返す。ヴァイツゼッカーにとって「主体」とは、個体と環境とのあいだにあって両者の出会いを保持している、この有機体の生存原理に他ならない。個体の「主体性」は、個体の「自己」に内在するものではなく、個体を取り巻く非ー自己的な環境とのあいだに成立するものでしかありえない。

いわば、個体はつど、ある種の関係的調和を外界と取り結んで「主体性」を確保するわけだが、ヴァイツゼッカーはこの関係を相即(コへレンツ)と呼ぶ。相即関係は、環境の変化によって解体されるので、また新たに生成し、維持されなければならない。この相即関係の解体の危機は転機(クリーゼ)と呼ばれる。

ヴァイツゼッカーの**ゲシュタルトクライス**を、松岡正剛は「知覚+α」と表現している*1が、このプラスアルファの部分こそ、転機を前にして絶えず相即関係を確保しようとするダイナミズムに他ならない。ゲシュタルトクライスとは、コへレンツ維持のための、個体のスタティックな知覚(内的な構造)と、ダイナミックな運動性(外的な力)の統合的な機能、動態認知システムをさしている。そこにおいて、知覚と運動、内部と外部との境界はもつれ的である(その意味で、ゲシュタルトクライスの機能不全は、防衛反応としての、個体の不自然な個別化の努力に起因すると考えられる)。

人間も、体内では様々な微生物や細菌との互恵関係によって健康を維持している。つまり、個体とはいうものの、それは厳密に環境と区別される「個」ではない。やはり、環境的状況との関係を取り結ぶことによって成立している。つまり、私たちの「主体性」は、他者や自然といった「外部の他者性」とのあいだだけではなく、自己の身体や無意識といった「内部の他者性」とのあいだとの関係によって成立する。「他者とのあいだ」と「自己とのあいだ」のあいだに「主体」という調和が生まれる。ヴァイツゼッカーにとって、「主体」とは調和(もつれ)である。

イントラ・フェストゥム

この調和=もつれを「祝祭」と呼んでも良いだろう。

ヴァイツゼッカーに強く影響を受けた精神病理学者の木村敏は、躁うつといった非定型精神病や癇癪持ち、境界例の世界観を、「個人版」の「祝祭の世界」と分析している*2。彼らは、「周囲と一体化しようとする傾向や自分の内面をそのまま外部へ表出しようとする傾向が強く、現在置かれている状況以外のことには無頓着」*3であり、「個別的自己(=みずから)が宇宙全体の超個人的な生命力のようなもの(=おのずから)に完全に吸収され、アクチュアリティがリアリティをまるごと呑み込んで、忘我的なエクスタシーの状態になりやすい」(同、八四ー八五頁)という特徴をもつという。この特徴を、木村はイントラ・フェストゥム(祭の最中)と呼ぶ。

イントラ・フェストゥムが病理性を持つとき、彼らの「祝祭」が具体的な他者とのあいだではなく、想像的なもの(自己の鏡像)との関係によってのみ現前してしまっている。だからそれはあくまで「個人版」の「祝祭」であり、相即関係の破壊の果てに「死に至る病」(キルケゴール)であるわけだが、もしこの「祝祭」を、安定して個別具体的な他者とのあいだに実現することができるならば、彼/彼女は極めて魅力的な人物として映るだろう。「ノリがいい」という賛辞を想起するならば、この「ノリ=祝祭」というのは、極めてヴァイツゼッカー的な意味で「主体」的に創発されたものである。

「ノリ」が良くて魅力的な人は、相即的な「祝祭」を自己と他者・環境・〈自己〉のあいだに創発し、ともに没入するための条件を高いレベルで身体化しているのだといっていい。

二村ヒトシは、内容としてはほとんど精神病理学の到達であるところのアンチ・恋愛マニュアル本『すべてはモテるためである』で、「相手と自分との関係についてちゃんと考える」ということは、「なるべくスムーズに相手と同じ土俵に乗っかって、相手と同じルールで動ける、遊べる方法を考えつく」ことだといっている*4。スムーズに同じ「土俵」に乗り、同じ「ルール」で遊ぶこと、それはまさに共同的なイントラ・フェストゥムの条件であり、優れたゲシュタルトクライスによる調和の創発に他ならない。

『劇場版 少女歌劇☆レヴュースタァライト』と「祝祭」

自宅だとついだらけてしまうクセがあり、さらには将来的な転機(クリーゼ)を見越して計画的に準備することが苦手なのだが、そのとき私の意識は、木村敏分裂病者の時間感覚の特徴として指摘するアンテ・フェストゥム(祭の前)に近いと思われる。「現在」が立ち現れてこない。

『劇場版 少女歌劇☆レヴュースタァライト』(『劇ス』)において、繰り返し強調される「私たちはもう舞台の上」というテーゼは、日々が次の「祝祭」のための転機であることを指摘するものとしてある。他者や共同体との「祝祭」を前にして、私たちがなすべきなのは退屈な祭の準備ではなく、自己の他者性とのあいだにある前夜祭というもう一つの「祝祭」である。

日々は前夜祭としての「祝祭」でなくてはならない。『劇ス』の前半は、昨年の文化祭を超えられるのかという焦点において、メランコリー者のノスタルジーの心情=ポスト・フェストゥム(祭の後)的であるが、祭の後にあるのが新たな祭の絶え間ない前夜であり、それは潜在的な前夜祭という「祝祭」であることに気づかなくてはならない。中盤以降の展開は、それを忘れていた九九組に「祝祭」を思い出させるものとしてあるのだ。