鳥井の岡本少年から知る (original) (raw)

岡本太郎の日本辺境探訪記はおもしろいと聞いていたけれども、どうせ芸術家の主観の勝った独断的なもの、主義主張を押し聞かせられるものではないかという偏見があったので(有名人によるそういう紀行はうんざりするほど数多い)、読まずにいたのはうかつなことだった。近くにできた古書のあるカフェで彼の『神秘日本』を借りて読んでみて、つまらぬ先入見を恥じた。実におもしろい。美に関しては主観が強く、主義主張もかなり打ち出していて、必ずしも賛同しかねるけれども、民俗文化については、マルセル・モースの弟子だけあって、細部にも目を行き届かせつつ、核心に直入している。思想行文ともに強靭で勇猛だ。大いに共感させられる。

太郎は「芸術は呪術である」と言い切る(『岡本太郎の本1 呪術誕生』、みすず書房、1998、p.6)。現代芸術と「土俗」(「民俗」の昔の言い方)には深い連絡がある。パリの芸術家たちはアフリカのいわゆる「原始美術」に刺激を受けていた。ヨーロッパ人は自分の外にそれを探さなければならなかったが、岡本太郎は日本人として自分の内に豊富に持っており、それを丹念に掘り起こす必要を感じていた。「現代文化について考える場合、われわれの意識はいつでも外にひろく開かれている。そして芸術の上ではニューヨーク、パリなどが焦点として浮び出る。私自身も、やはりそういうひろがりの方を凝視するのだが、しかし、にもかかわらず、一方肉体にひそんだ情熱は、かえって日本の内側――むしろ閉ざされ、忘れさられ、現代生活の外に押しやられている、原型のようなものにひきつけられる」(『沖縄文化論』、中公文庫、1996、p.213)。

彼は文章もなかなかにすばらしく、徴兵され中支の部隊にあったときに見た「大陸の風物」を叙したものなど、まさしく文学である。

岡本太郎のことでは、両親岡本一平・かの子が大田市鳥井に家を持っていたなどという話を聞かされていて、半信半疑、というより一信九疑だった。東京の人が海辺に家を買うなら湘南か房総だろう、千キロも離れたこんなところに避暑の家を構えるはずがない。しかし彼の著書を読んでみると、たしかに鳥井で海水浴はしていた。だから、誤伝ではあるが、まるきりの間違いではない。

「この地方の山河は私にはなつかしい。子供の頃に二三度来て夏を過したことがある。関東大震災の時には、鎌倉で遭難し、命からがら逃げてきて、二カ月も滞在した。東京育ちで、他所をあまり知らない私は、だから田舎というと自然にこの辺の風物がイメージに浮んでくる」と『日本再発見』(新潮社、1958)の「出雲」に書いている。彼が初めてそこへ行ったのは小学校3年のとき(大正9年・1920)で、そのときの旅をこう振り返る。

「朝早く東京駅を発った。生れてはじめての大旅行なので、心が躍った。今でもまざまざと憶えている。暮れ方京都に着いて、賀茂川べりの旅館に一泊。翌早朝、山陰線に乗り込んだ。

真夏の日を浴びて、ムンムン草いきれのたちのぼる田畑、山の中を一日じゅう汽車は走りつづけるのだがいたるところトンネルだらけ。百以上もあるという。熱気と煤煙でむせかえり、何もかも真黒になる程だった。このとじこめられた汽車旅行は堪え難い責苦だった。目的地の石見大田駅におりた時は、もう夜の九時過ぎだったと思う。

列車が去ったあとは真暗だった。まる一日、ゆすぶられ通して来た汽車の響きが遠ざかり、シンとした夜気、生きかえった耳もとに、今度はワッと八方からわき上って迫ってくる異様な物音。その激しさにびっくりした。すぐに蛙の鳴声だとわかったのだが、初めてふれる「田舎」の音と匂い、ナマナマしい感動は今なお忘れられない」(p.131f.)。

映画『張込み』(1957)で刑事たちは鳥栖まで蒸気機関車の牽く夜行列車に乗って出張する。満員で座席なく夜通し通路に座り、そんななりでタバコをふかしたりしているのを見ると、「マイルドなインド」のように思えたものだが、戦前ならもっとたいへんだったに違いない(戦争末期や直後の列車はインドをもしのぐものだったから、あれで存外刑事は平気なのだろう)。

滞在したのは長久で、そこから切り通しの峠道を土地の子供と下駄ばきで一里も歩いて鳥井に海水浴に通った。「世界に、あんなにいっぱい蛇がいるもんだとってことを知ったのはここだ。道をよぎったり、思いがけない樹の小枝に鎌首をもたげてとまっていたり、都会育ちの私にはひどく、ぶきみで、また神秘的だった。田舎の子が平気で頭をふんづけたり、逆におどかしたりするのを見て、肝をひやしたものだ」。

「いたるところに黒牛がいた。…ある夕方、桑畑の中の狭い道を通っていると、突然、夕闇の中から真黒な牛が角を振り立ててすっとんで来た。危うく身をひるがえしたが、一しょにとびのいたお婆さんの袂スレスレをかすめて、猛然とはしり過ぎて行った」(p.160)。彼の子供の頃は東京でも荷車や肥車はみな牛が曳いていて、「ある日、芝白金の家の前の道ばたで、黄色い朝鮮牛が休んでいた。動物の生命の神秘に吸いこまれるように、半日にらめっこをしていた」(『神秘日本』「花田植」)のだから、牛に親しくはあったはずだけれども(慶応幼稚舎の教師は太郎を「牛のような子」と評していたらしい)、それでもこういう遭遇のしかたは印象深かったわけだ。

「爆発する縄文人」のイメージの岡本太郎は、野生児のように思っていた。たしかに東京でも裸足で駆け回る腕白であり、教師と衝突し小学校を何度もかわるなどいかにもな子である一方で、こちらの側から見ると、土地の子には驚くようでもないこと(まあちょっとは驚くけども)に驚く都会っ子であるわけだ。同時に、「帰りにはお腹がすいて、動けなくなったこともある」子供な少年から、うちにはらんでいた「岡本太郎」になるべき種子を発芽させていく過程に、「少年の日の夢を濃く彩った」この「中央から離れた農村、漁村の原始的な生活のすべて」もいささか寄与したのかもしれないと思う。

「ある夏、山陰の田舎につれられて行った。一面に田圃がひろがっている光景は、驚きだった。真青にのびあがった葉が、びっしりと、ゆれながら豊かに波うっている。それが米、食べものだとはどうしても考えられなかった。みずみずしいゆらめきが、いのちをとり囲んだ儀式の息づかいに感じられた。

海に行った。砂浜の中央に、のり出したような形で、奇岩がそそり立っていた。まん中に穴がぽっかりあいて、波が泡だっている。冷たい水の中で、しぶきを浴びながら、じっとその不思議な岩をにらんでいると、ふるえる思いだった。巨大な形がこちらの身に迫って、圧倒される。だがまたふと自分の生命、未来がそこに投影され、凝固されているような思いがしたのである。

幼い心には、天地すべてがいのちである。まわり中からそれぞれの息吹きをもって話しかけてくる。神羅万象が自分の投影であり、また自分を襲う戦慄的な存在なのだ。このような世界観、子どもの感性は人間生命の根源である」(『美の呪力』、新潮文庫、2004、p.31f.)。

土地の者が当然自明のように思っていたことが、よそから(特には都から)来た者に全体の中の位置づけを指摘され、世間知らずの蒙を啓かれて自らのさまを客観的に認識させられるのはよくあることで、それはまた正負逆のベクトルでも起こる。

太郎は出雲大社をこう評している。

「分厚なヴォリューム。千木をてっぺんに、ぶすりと太太とした柱を地上に突きたてている。逞しいハリを組み上げ、荘重でいながら、空間的な切れ味である。

軒下からハスに見上げると、ただまっ四角に切ったままのタルキが何本も何本もつき出ている。その見事に組まれた構成美。

真前から、真後から、ぐるぐる周囲を廻ってみると、簡潔な部分部分と、壮大な全体の重さ、その均衡がすばらしい。

日本の過去の建築物で、これほど私をひきつけたものはなかった。この野蛮な凄み、迫力。――恐らく日本建築美の最高の表現であろう」(p.139)。

そう言われてみて、諸国の名のある神社の建物が何かしら「ぬるい」「たるい」印象だったのは、出雲大社という比較の基準が不適当だったためとわかった。

日御碕灯台もしかり。波打ち寄せる岩壁の上に天指して高くそびえ立つ白亜の美しい灯台。実はあれが日本無双だったのだ。灯台とはこういうものだと思っていたので、犬吠埼などほかの諸灯台がかなり見すぼらしいのを妙なことと思っていた。日本に灯台らしい灯台は日御碕だけなのか?などと。

ズーズー弁もそうで、このあたりでズーズー弁と言えば出雲弁のことである。松本清張の『砂の器』では、殺された身元不明の被害者がズーズー弁を話していたのが手がかりとなる。だが、彼は東北人でなく奥出雲人だった。「出雲のこんなところに、東北と同じズーズー弁が使われていようとは思われませんでした」と刑事が言うように、大方の人は「日本には東北のほかにズーズー弁を話すところがあるのか!」と思うのだろうが、われわれは逆に、「日本には出雲のほかにズーズー弁を話すところがあるのか!」と長じたのちに気づくのである。

岡本一家が鳥井の近くの長久で夏を過ごしたのは、そこに生家がある恒松安夫との関係からである。この人は、祖父がかの子の父と親しかったそうで、そういう伝手で慶応の学生時代岡本家に寄寓したのだが、それから20年、卒業後も、慶大教授になってからも同居を続け、まったく家族の一員と化して、家事や秘書役を引き受けていた。そして、どうやらかの子の「愛人」と周りには見られていたようだ。恒松と同じく同居人であり、一平とともにかの子の最期を看取った新田亀三はまぎれもなく愛人であるが、恒松がそうであったかは瀬戸内晴美の『かの子撩乱』を読んでもわからない。初めは兄源吉といっしょに下宿していたわけだし(源吉は4年後にチフスで死去)。いずれにせよ周囲はそう見ていたようで、昭和4年(1929)から2年間一平はかの子とパリに留学する太郎を連れて2年もの長い洋行をするが、そのときもかの子の希望により恒松と新田を同行している。世間では「かの子がヨーロッパへ男娼を二人もつれていった」と噂していたそうだ。40歳になった恒松に恋人ができると、かの子は家から追い出した。一人の女と三人の男の奇怪な同棲生活が崩れた。かの子の「崇拝者」だったことは間違いなく、「まるで忠僕のように」仕えていた。かの子一平の死後岡本家を訪ねたときに、「私の人生で何といっても一番輝かしい生活だったのは、ここでかの子さんと暮らしていた頃でしたよ」と述懐していたそうだ。彼が岡本家を去ったあと、急にかの子の体が弱ってきた。新田は瀬戸内晴美に、「かの子には、ぼくたち三人が三人とも必要だったんです。三人の必死に支える力が均等で、かの子という烈しい魂と肉体がやっとおだやかで安心していられたんです。その中の一人でもかけるということは、かの子の精神と肉体のバランスがくずれることになって、急に弱りはじめたのだと思いますね」と語ったという(『かの子撩乱』、講談社文庫、1971、p.489)。恒松安夫はのちに島根県知事になる。そんなおもしろい(知事たるものにおよそ似つかわしくない)経歴を持つ知事がいたとは、なかなかけっこうな「郷土の誇り」である。そんな誇りなら大いに持ちたい。最近は能吏知事ばかりだ。

「杵築中コネクション」の存在も興味深い。恒松安夫の杵築中の同級生に三明永無がいた。この人は温泉津町(今は大田市)西田の真宗名刹瑞泉寺の次男に生まれ、一高の寮で同室だった川端康成の親友となり、婚約と破約事件で知られる伊藤初代との仲を取り持った。川端・初代と三人で写った写真がある(右にいる永無が切り取られ、川端・初代二人の写真として流布している。恒松の場合も同じく、五人での洋行の船上、右の恒松・新田は切り取られ、一平・太郎・かの子の家族三人の写真を見せられることになる)。永無は恒松とのつながりで岡本家にもよく出かけていた。「岡本かの子はその頃青山にいて、同宿の恒松安夫が私の中学の同窓であるという関係から、よく出入りしていたが、新思潮で評判のよくなった川端に会いたいというので、私が紹介して銀座のモナミというレストランへ川端を伴い岡本一平、かの子、恒松安夫等に会わせた」と『川端康成の思い出』に書いている。すでに歌人として名のあったかの子は、47歳のときかねての念願をかなえて小説家として立ち、わずか3年の作家生活ののちに亡くなるのだが、彼女の「作品の鑑定をし、発表の手伝いをした」のは川端康成だった。川端はかの子の文学碑建立にも尽力し、自殺前の絶筆となったのはかの子全集の推薦文だったというくらい関わり深かった。仏教研究者でもあった彼女に自身の帝大での師である仏教学者高楠順次郎を紹介したのも永無であろう。彼の結婚に際しては、岡本一平・かの子が媒酌人となった。永無はのちホノルルの本願寺開教師となるが、真珠湾奇襲で1年半の抑留生活をしたあと、交換船で帰国した。

かの子が小説家として出る際には、阿部知二も文学論の相手をさせられ辟易させられたというが、彼もまた「杵築中コネクション」に連なる一人で、父が杵築中学に教師として勤めていて、彼自身は父の転任先で中学に入ったが、若くして死んだ兄公平が杵築中で彼らと同級だったという。

ハンガリールーマニアにいたころ、あれらの国の名望名士連はたがいに血縁地縁で結ばれていることが多く、いかにも小国と思ったものだが、しかし昔の日本もよく見ると、旧制高校はもちろん、旧制中学でも戦前にそこに進むのは地方の名士層であり、それによるつながりが薄いながらもあったようで、革命家となる青年がたいがい裕福な家庭の出であるのと同じく、発展途上の国によくあることのひとつだ。エリートがエリートから出ているうちは「その程度の国」にとどまる。

また思う。人の価値は友人によって決まる、ということはたしかに言える。学校制度が確立した近代においては、学校が友人をつくる場として機能する。留学というのもそういう場のひとつであろう。岡本太郎の場合、パリがその場であった。彼は、日本の外で思想を鍛えられながら、抜きがたく日本人であった人で、そんな人が「日本の最深部」の「土俗」を訪ね歩いたら、おもしろくないはずがない。