浅瀬でぱちゃぱちゃ日和 (original) (raw)

ども〜〜 めっきり秋めいてきたこのごろ、皆様いかがお過ごしでしょうか。僕は最近の蚊の多さにビビっています。あいつら今が一番元気。

そして今年の紅葉はどこを見に行こうかと考えています。都立庭園美術館などが狙い目でしょうか。

www.teien-art-museum.ne.jp

さて今月もやってまいりました、10月の振り返りです。日頃、ちょっとずつ書き溜めているその日のメモを、月末にやや手直ししつつ放出する回です。今月は旅行で電車に乗っている時間などが長く、その分たくさん書いたと思う。あとやたら暗いことをたくさん書いた記憶がある。まあそういう月もあるということで、日記メモ、放流していきますよ!!

10/4(金)

只の静止ではない!

超高速で回転するコマは静止して見えるのだ!

山口貴由覚悟のススメ』10巻著者コメントから引用。

ebookjapan.yahoo.co.jp

最近はこれが仕事の流儀。「ただの定時退社ではない! 超高速で回転するコマは静止して見えるのだ!」 そんな社会人がいたらカッコ良すぎる。

「近頃じゃ夕食の話題でさえ仕事に汚染よごされていて.....」と歌っていたミスチルの気持ちがよくわかる。この頃仕事が忙しい、というか悩ましい。悩みが多い。あまり仕事のできない人々によって、どこかに皺寄せがいっており、大抵それは立場の弱い者たちへと行くのだが、「仕事のできない人を責めてはいけない」という風潮のもと、身内を庇う精神が発揮され、能率も悪く特に自己反省もないような仕事のできぬ人はそのまま放置され、そのことで外縁への皺寄せは止まらず、皺寄せを受ける非正規職員の方々がどんどん離職し、それをなんとかしようとする問題意識の高い人のところへは過度に仕事が集中してしまい、結局その人も疲弊し、「仕事のできない身内を庇う」という風潮だけが温存されるということが、どんな職場でも起こっているのでしょうか(我が職場で起きているとは言ってませんよ)。暗いな!!

働き始めた頃に、「仕事は研究と違って、定時という概念があるのが新鮮」ということを書いた気がする。院生時代は四六時中、食事の時も寝る前も研究の悩みが続いていたが、仕事は定時を迎えれば「はい仕事のことお終い〜〜」と頭を切り替えられるのが良い、ということを当時は考えていた。が、この頃はそれも失われている....... 夕食の話題でさえ仕事に汚染されていて、、、よくない傾向なので断ち切りたいですね。

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次からは明るい内容をメモる。そして虹の彼方へ放つ。

10/5(土)

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千葉大学・西千葉キャンパスに遊びに行ってきた。

特に意味もなく、ただキャンパスを散歩しに行った。

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「このごろ国立大巡りをしていて、次は千葉大に行ってみたい」という話を職場の同期にしたところ、その同期の妹(千葉大生)が大学を案内してくれた。どゆこと???? しかし、大変感謝です。

千葉大学西は、緑豊かで、あまり主張の強いところがなく(タテカンや目に見える荒れ事などがなく)、バランスのよい大学だった。長らく行ってないが、地元の新潟大学も確かこんな雰囲気で、「地方国立らしさ」というのがどこかにあるのかもしれない。各大学を巡って「地方国立らしさ」なるものを解き明かす旅、出たい。パーティーメンバー募集中。

千葉大はいいところだったが、しかし、百万の蚊軍がいた。本当に蚊が大量にいた。こいつらさえいなければ、自然の中でゆっくり時を過ごせると思う。10月なのに蚊だらけで、それだけは困った。

千葉大学西千葉キャンパス 評価】

自然度:★★★★☆

人工物度: ★☆☆☆☆

秩序度: ★ ★ ★☆☆

カオス度: ★☆☆☆☆

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教育学部のところにあった像。

前になんだったか、大学に関する雑誌を読んだ時に、ある教員が自分のキャンパスに対して、「こんなに大学内に裸婦像が置かれてるのはどうなんだ」という問題提起をしていた気がする。まあ確かに、なんで大学に裸の女性の像が置かれているの? とは思う。その記事ではそこから、そういうところから大学内の女性の過ごしやすさを変えていかねばならないのでは、ということを訴えていたと思う。どこの大学だったかは忘れてしまった。

上に挙げた写真の像は、一目見ると女性をモチーフにしてそうだが、タイトルは「巻貝の芯もしくは女」とのこと。いいモチーフだと思った。しかし、パット見でこれを女性っぽいと思う我々の心こそ、ジェンダーバイアスに囚われているのだと、この像は訴えたいのかもしれない(それは穿ちすぎか)。で、この像を見て、「大学内の女性銅像を論じた記事があったなー」ということを思い出した。みなさんはどう思いますか?

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「サイエンスブロムナード」にも行った。千葉大理学部内にある小さな科学博物館のようなもの。お昼を食べた後だったこと、だいぶ歩き疲れていたこと、蚊に大量に血を吸われていたことが災いして、全く頭が働かず、あまり理解できなかった。

千葉大はそんな感じ。次に私が現れるのは、あなたの大学かもしれません。

10/10(木)

われらのとるべき道は、理不尽に忍耐することでなく、理不尽に必勝することである。

山口貴由覚悟のススメ』第1巻(完全版)より引用。

覚悟のススメ (1) (チャンピオンREDコミックス)

この頃、仕事が忙しいという話をまた始めそうになってしまった。反省。できるだけ明るい話をするのだった。

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ネバヤンの「明るい未来」でも置いとくか。

明るい話、ないな。。。

久々にネバヤンを聞いたらこの曲は、死すらも明るい未来にカウントしてて、すごいなーと思った。「たとえ僕らが死んでしまっても〜 あっちでも仲良くやろう」だって。

PVではひたすら仲の良いカップルが映されるのだが、こういう時こそ、明るい未来ではなく「終わり」や悲劇・絶望を想起してしまう。2人がスーパーを歩いていると、包丁握った通り魔にめちゃくちゃにされるのではないかとか、飲酒運転のトラックが突っ込んで来て理不尽に殺されるのではないかとか、実は、2人は異母兄弟であることが発覚して、近親姦の重みに耐えられず兄は首を吊り妹はドラッグ依存になるのではないかとか。明るくない未来のことばかり考えてしまう(それにしても明るくなさすぎる)。

通り魔でもトラックでも悲劇でも、自分の外からやってくるものに振り回される生活はつらい。「 われのとるべき道は、理不尽に忍耐することでなく、理不尽に必勝することである。」という一文は、またしても覚悟のススメからの引用なのだが、最近はこのメンタルを仕事でよく感じる(また仕事の話してる)。

自分のコントロールが全く及ばない侵略物のことを理不尽と呼ぶのなら、最近の仕事は特にそういうことが多い。そんなものには耐え忍ぶしかないのだが、しかし「われらのとるべき道は、理不尽に忍耐することではなく必勝することである」ということを信条とするのなら、なんとか頑張れる気がする。ただ耐えるのではなく、少しでもコントロール権を取り戻そうと、足掻くことが大事。

呪術廻戦で言うならば、来たものをただ打ち落とすだけの落花の情ではなく、攻撃にも転ぜられる簡易領域を使うことが大事ということになる。来週、仕事で、新入職員に仕事のあれこれを教える機会があるのだが、「 落花の情ではダメだ、簡易領域を使えるようになれ」ということを話そうと思う。降りかかる業務はそれで叩き潰し、理不尽な上司の怒りは、領域展延で中和しよう。余裕のある空間を作って、そこに他者の怒りを流し込むことが大事。これが呪術から学べる教訓。

10/12(土)

電車の中から書いている。

自分のはてなブログを開くと、PCなら右側、スマホなら下の方に「アクセスの多い記事」というのが出てくる。これは僕がセットしているわけではなく、はてなブログが自動で作ってくれているもの。ここを見て僕自身、この記事に今アクセスがあるんかいって思ったりしている。

betweeeeeen.hateblo.jp

人気の記事に、上記「秋なのでスピッツを聞きましょう」が上がっている。これは2021年に買いた記事で、去年もその前の年も、特に秋だからといってアクセスが増えてた様子はなかったと思うが、今年は多いらしい。なぜ.......

久しぶりに過去の自分の記事を読み返すと、本当に面白いと思う。自分で面白いと思ったものを書いてるのだから、自分で読んで面白いと感じるのは、自画自賛と言うよりは論理的必然です。しかし面白いな。

この記事を読み返すと、「この時の精神を忘れてしまってるなあ」と感じる。この時は、ブログを書くときは、何か面白いことをしてやろうという気概があった。だから唐突なハカセとか登場させてるし、なんか今よりもっと自由な感じがする。

それに比べると最近のブログ更新は、すっかりルーティン化してしまって、自由に飛んでいる感じがしない。もちろん、読書感想は書いてて有意義だし、書いてる時は楽しく感じるのだが、もっとふざけてもいいのかもな。伏黒が領域展開にチャレンジしたときのように。また呪術廻戦の話してる。

まあ、悲観的なことばかり書くのは良くないな。

10/20(日)

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ここはどこでしょうか??

正解は名古屋大学東山キャンパス。現在絶賛工事中らしい。

10/19が名大のホームカミングデーで、母校ということも兼ねて遊びに行った。7月にも遊びに行ったので3ヶ月ぶりの来訪。来すぎである。

出身ゼミのOBOG会というものを初めて企画して、実施した(偉すぎる)。OBOG会、人を呼んだり会場探したりも難しかったが、一番の難敵は、カンパ代の徴収・調整だった。これが本当に難しい。

OBOGだけでなく現役生も呼んでたのだが、できれば現役生の参加費は少なくしたい。まだ学生だしね。しかし、僕もそうだが、わざわざ東京から名古屋に来ている人に追加でお金を取るのも忍びなかった。だから「多めに出してください」とも言いづらい。集めすぎてもどうする? という感じだし。困った。

今後OBOG会を企画したいという方は、カンパ集めが難解ということは念頭に入れておこう。

お金を出し合うことを「カンパする」と言いますが、これはロシア語の「kampaniya(カンパニア)」の略です。

本来のロシア語のカンパニアは「政治的な活動や闘争」を意味し、目的達成のために「大衆を先導するような組織的な活動」のことを指します。そこから目的達成のための資金集めという意味で「カンパ」が使われるようになったそう。もちろん、現在では政治的な目的以外でも使われます。

https://www.rarejob.com/englishlab/column/20220420/

へえー。

www.law.nagoya-u.ac.jp

名古屋大学法学部には、EQUIP Miraiというプログラムコースがあり、こっちもこっちで同窓会があった。ゼミの集まりより、こちらに参加したときの方が思うところが多かったので、今日は追加でその話も。

EQUIP Mirai、というよりは僕の研究コミュニティ遍歴については、いずれしっかりした記事を書きたいと思っているが、今日は簡単にこのプログラムの説明でも。当然だが、ネットで検索してもEQUIP Miraiについて書いてる人はおらんかった。僕がちょっとぐらい紹介してもよいだろう。

EQUIP Miraiとは、2017年ごろから始まった名古屋大学法学部のプログラムで、その趣旨は「研究職の志望者を増やすこと」。名古屋大学は法曹志望者はそれなりにいるのだが、研究科の大学院に進む人は本当に少なく、その危機感を持って作られたプログラムらしい。ただ実際は研究志望者を「増やす」というより、学部時代からなんらか大学院というものに触れてもらおうというプログラムで、そこまで研究職志望者は増えてないと思う。

これに参加すると、自習室がもらえたり、研究発表の機会をもらえたりする。

ゼミがあくまで、近しい関心分野の人々が集まって、学術的方法なども共有されているのに対し(判例を分析するとか歴史検証するとか)、このコースでは実定法から政治学までいろんな分野の人が入り乱れるので、議論の方法も多様なものとなり、そこが新鮮だった。学部2年の後期から卒業するまで最大2年半過ごすことができ、色んな人に出会えたので、僕としては大変思い入れの深いプログラムである。

で、その同窓会が先日あった。同窓会では、2個上の先輩で研究員として働いている方の発表を聞くことができた。感想としては「ちゃんと専門性を活かしているのだなあ」だった。当たり前だけども。

僕は現在大学の一般事務職を勤めており、ジョブローテーションということもあり、専門性はあんまりない。「今後は大学職員にも専門性が必要だ」という話を方々で聞くが、同期や周りを見ても、そこまでその機運が高まってるとは感じられない。あくまで、今でも何でもこなせる一般職が求められているという印象。

ただ今回、同窓の方の話を聞いて、「組織に言われるままに、なんとなく何でも屋さんになっていくだけでよいのか?」という意識を強く持った。やはりなんかしら、自分の強みとなる専門性を持って、そのことでもっと自立して頑張っていくべきではないかと....... 自分もこのような特殊なプログラムを出て、せっかく大学院にも進学したのに、何の専門性も持たずにただジョブローテーションに流されるまま便利屋さんというのは良くないなーーとか。偉いな。

大学院を出たばかりの頃は、そういう気持ちを常に抱いていたが、近頃じゃ夕食の話題でさえ仕事に汚染されていて、、、様々な角度から物事を見ていたら自分を見失っていたのかもしれない。

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まあそんなわけで、今回の名古屋来訪で、もっと勉強を頑張ろうと思った。いずれは「本を出す」という夢も持っているので、しっかりその夢に向かって行きたい。

10/22(火)

科学を語るとはどういうことか 増補版

今日はこの本を読んでた。大変面白い。

天文系の物理学者と哲学者(倫理学・科学哲学者)が、互いの噛み合わなさを本気でぶつけるというもの。基本的には「科学者から見たら哲学はこんなにおかしい」という構造で、最初の方は哲学者側も「確かにね〜」「一部そういう悪いところはあるよね〜」という感じなのだが、途中から互いに血管がブチブチ浮き出てるんじゃないかと思うほどレスバトルしていて、面白い。

職場で近くの席同士の人々が、ガチトーンで言い合い寸前みたいになってる時の緊張感・気まずさのようなものが、この本にはある。終始ハラハラするが、その分飽きずに読める。久々に100ページ以上をぶっ続けで読んだ。

少し感想を書くと、序盤に科学者の側から「哲学者のコミュニティって、学術的な意味では不健全じゃない?」という指摘がある。「過去の人を勝手に権威化して意味のない議論を続けてるだけ」とか、「相互批判の精神が無い中でお互い空虚な議論を続けているだけ」とか、そういう事が言われる。

で、我が身を振り返ってみると、大学院に行ったことで、いろんな研究に対し「そういう良さもある」ということを思えるようになったんだなあと思った。同書では科学者の側が、一部の哲学や現代思想の分野を指して「やる意味がない」「学問として健全ではない」というふうに腐すのだが、僕も学部3,4年の頃は、哲学(特に大陸系)や精神分析系に対して同じことを思ってた。やたら難解な言い回しで、もったいつけて空虚なことを言い合ってるだけだろと。

ただ、大学院で3年過ごす頃には、「そういう分野の良さも確かにあるよなあ」と感じるようになっていた。M1ぐらいまでは、学術的な議論においては分かりやすく書くことが「良いこと」「正しいこと」で、それができていないだけならまだしも、「やろうともしていない」というのは、ただの怠慢や不誠実だと思ってた。本書でも科学者の側から同様の指摘がされている。

ただこれはあくまで、分かりやすさという一つの指標を重視した時の立場にすぎないよなあと。「そうじゃない学問があってもよい」とは思うようになった。結局は己の関心に沿ってしか研究はできないのだから、分かりやすく書こうとすることでそれがこぼれ落ちてしまうなら、そうじゃない指標があってもよいだろうと。一つの基準を押し付けるのも良くないっすね。大人になったのかもしれない。

とはいえ、自分自身は「わかりやすく」書きたいとずっと思ってるし、分かりやすい文章をケロっと書ける人こそ本当に尊敬する。そこは変わらないのだが、やや懐は深くなったかもしれないという話。

まだ全部は読めてないので、近日中に読み終わりたい。しかし、ハラハラ感がすごすぎるんだよな。

以 上 !!

以上、10月の振り返りでした。今月は多めにメモを書いてたなあと思います。

メモは10/22までだけれど、その後も、神保町の古本まつりに行ったり、衆議院選挙に投票してきたりと、いろんなことがありました。10月は結構楽しんだのだと思います。なんか書いてることはやたら暗いけどな!!!

11月は、前向きなことを書いていきたいですね。例えば、こんな秋の味覚が美味しかったよとか。それができればみんなハッピーだ。

海も見に行ったよ。葛西臨海公園

— あいだた (@dadadada_tatata) October 31, 2024

なぜ働いていると読書感想が書けなくなるのか。

.......全然更新してなくてすみません。今日は98日ぶり、今年7回目の読書感想となります。気合出していきます。

今回読んだ本はこちら!!!!!

組織不正はいつも正しい~ソーシャル・アバランチを防ぐには~ (光文社新書)

中原翔『組織不正はいつも正しい 〜ソーシャル・アバランチを防ぐには〜』(2024,光文社新書

今年の5月に出た新刊です。

皆さんは「組織不正」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。少し前のニュースになりますが、ビッグモーター社のあれを思い浮かべる方が多いかもしれませんね。車を故意に傷つけることで、保険金を不正に請求していた(しかもそれが組織的に行われていた)という問題です。

他にも、汚職パワハラの揉み消しなど、定期的に組織不正は摘発され、問題となります。で、本書はそんな組織不正がなぜ行われ、そしてそれに我々はどう向き合うべきかを論じた一冊となります。

現在2024年10月ですが、実はこの本7月頃には読み終わっておりまして、、、3ヶ月も感想を温めてしまった。サボりすぎたので、あまり凝ったことはせず、今日はサクッと行きたいと思います。

......ちなみに、感想を温めすぎると、どうなりますか??

答えは、乾燥します

はい、いつも通り、①読んだきっかけ、②内容紹介、③感想という順番で行きます。

読んだきっかけ

度々書いておりますが、私、某国立大学で現在経理系の仕事をしております。で、経理担当になったのは単なる偶然というか、人事にそう言われたからやっているだけなので、強い関心はなかったです。大学院では法哲学倫理学などをやっておりました。問題関心としては倫理や正義の問題があります。

で、経理の仕事をやり始めたときに、「そもそも会計ってなんだよ〜〜〜〜」と思ったので、下記の本を読みました。これが大変おもしろかったです。

帳簿の世界史 (文春文庫)

↑その時の記事。

で、この本では、「いかに会計というものに職業倫理が求められるか」ということが書かれていました。帳簿というものはキッチリ・嘘なく記さないといけない、が、だからこそ不正や誤魔化しの温床となっており、そこには正しい倫理観が求められるという話でした。

これを読んだときに、職業倫理って面白いな!? と思った次第です。倫理学の分野でも、法曹倫理・医療倫理などはあるけれど、あまり会計倫理というか、「一般職業人の倫理」については聞いたことがありませんでした。企業倫理の話はあるにはあるけれど、どちらかというと環境問題や障害者雇用などの話が多く、「職業人が持っておくべき倫理」ということはあまり扱われていない印象です。

倫理学の外に出ても同様で、昨今は「法に触れない範囲で儲けてる人間が一番偉い」という風潮や、「根詰めて働かず、自分のペースで無理しないことが一番」という言説が根強いように思います(そんあなことない?)。ので、正しい倫理観・正義観を持って仕事なさいという話は、滅多に聞かないな〜〜という感じ。もちろん、コンプライアンスというものはありますが、それも社会的に正しいことを遂行しようぜというよりは、己の身を守るため、という側面が強いかなと感じます。言っていることは要は「炎上するな」ということなので、裏を返せば、炎上しない範囲であれば何してもいい/手を抜いてもいいという感じではないでしょうか。

何が言いたいかといえば、決して「自分のため」ではないような、職業人が備えるべき倫理というものもあるのでは? と思っているところです。それは医療倫理・法曹倫理といった専門領域における倫理だけではなく、一般的に働いている会社人にも求められる倫理で、「その会社から求められて」ではなく「この社会の一般原則として」求められるような倫理のことです。そんなものがあるのか!? 論じてる本があれば読みてえな〜〜〜〜と思ってたところで、本書『組織不正はいつも正しい』に出会いました。じゃあ読もうぜ!!!となった次第です。読みました。偉いな。

内容紹介

簡単な内容紹介です。本書の著者の中原翔氏は組織不正の研究者。本書の主要な問題は「組織不正はなぜなくならないか」というものになります。ちなみに組織不正とは、一個人ではなく組織ぐるみで行われる不正のことで、個人による不正よりも大きな社会的影響をもたらすとされています。

で、「なぜ組織不正はなくならないのか?」という問題を考える際に、一番シンプルな答えとして「自分だけ得をしようとした人間がいたから」「倫理観の欠如した人間がいたから」などが考えられます。いわば、正しい倫理観を備えていない人間が起こすものであって、倫理教育さえしっかりしていればそんなことは起こらない、という立場です。

本書は、こういったシンプルな立場は取りません。そうではなく、各自が「正しさ」を追求した結果として組織不正が起こるのだという立場を取ります。正しさを追求した結果ってどういうこと!?!?

本書でまず、不正のトライアングルというモデルが紹介されます。不正のトライアングルとは、「動機」「機会」「正当化」の3つが揃ったときに不正行為が発生するのだという考え方のことです。

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DIAMONDオンライン:組織不正はいつも「正しい」ヤバイ社員が悪事を働くという大いなるカン違い より引用

例えば万引きを例とすると、「お金に困っていた」という"動機"があり、かつ「店員の目の死角」という"機会"があり、最後に「バレなきゃ何してもいい」という"正当化"が揃ったときに起こる......という感じですね。ゼル伝トライフォースと同じです。ハイラル王に横取りされないように気をつけましょう。

しかし、著者はこのモデルの欠点を指摘していきます。まず、この3つが揃ったからといって必ず不正行為が発生するわけではありません。また、このモデルでは、「不正を働こうと企てた人物」がいることが前提となります。不正行為というものは、まず不正を行おうと考えるような悪人がいて、そこに「動機」「機会」「正当化」が揃うことで具体化するという考え方になるわけです。

著者は社会学者のドナルド・パルマーを引いてこれを批判します。曰く、「多くの人は不正に無関心なことが多く、不正をしようとも考えていない」とのこと。組織不正の多くは、誰か特定の「悪い人」が意図的に引き起こすものではなく、普通の「一般の人」が、無意識的に(不正を働くという意図を持たずに)行うものではないか....... というのが著者の問題意識です。一箇所引用。

ここまでの話でお気づきかもしれませんが、「不正のトライアングル」やこれまでの研究は、組織不正にはあらかじめ原因があり、それを取り除けば組織不正がなくなるといった楽観的な見方に立つものと言えます。......[中略]

しかし、現実はそれほど単純ではありません。これまでにも述べているように、多くの人が不正に手を染めたいとは考えていないにもかかわらず、不正が行われてしまうのです。さらに、多くの人が不正に無関心であるがゆえに組織不正の影響が計り知れないものとなってしまう傾向にあるのです。これは言わば、多くの人が無関心であるにもかかわらず、組織不正が起きてしまうという悲観的な見方になります。
中原 翔. 組織不正はいつも正しい~ソーシャル・アバランチを防ぐには~ (光文社新書) (p.26). 光文社. Kindle 版. 太字は引用者。

とはいえ、誰も不正を行おうと思っていないのに、なぜ不正が起きてしまうのか? というのが次の問題になります。そこで著者は、「各々が”正しさ”を追求した結果として、不正が起こってしまう」ということを主張します。

例えば、不正は大抵、組織の外部の人間によって判断されます。組織の内部では正しさを追求したつもりでも、外部から不正と判断されればそれは「不正」となります。もちろんこのケースでは、組織の内部の人々は「不正を働いてやろう」と思っていたわけではありません。むしろ正しいことをしていたつもりが不正と判断されてしまうわけです。これが1つ目のパターン。

もう一つ、組織の内部で正しさ同士が衝突した結果、不正へと発展することがあります。例えば、経営陣が会社を存続させるために、現場に厳しいノルマを課したとします。これは経営陣にとっては「正しい」判断と言えます。しかし、現場の人々は、会社を長続きさせることよりは、自分たちの生活を守ることを重視し、ノルマのごまかしなどを行うかもしれません。これも彼らにとってはある種「正しい」判断です。ただ、その正しさ同士がぶつかると、「不正」として発露してしまうケースがある...... というのを著者は紹介しています。これが2つ目のパターン。

本書では様々な現実の事例を通して、「なぜこのような組織不正が起こってしまったか」を見ていきます。燃費不正・会計不正・品質不正・軍事転用不正などなど。そうすると、不正の原因の多くは上記2パターンに見られることがわかってきます。最初に述べたように「倫理観の欠如した人がいて、そいつが悪事を働いたから不正が起きる」わけではありません。あくまで、意図的ではない形で不正が起こされてしまうのだ、というのが本書の主張の一つです。ので、「誰でも組織不正の当事者になりうるぞ」ということも繰り返し強調されています。

本書ではもう一つ、強く主張されていることがあります。それが「絶対的な正しさに固執するのはやめよう」ということです。正しくあろうとすることが不正の原因となるのなら、正しさばかりを追求するのは悪手です。ましてや、その正しさの基準を一つしか持っていなければ、他の正しさと抵触することが容易に想像できます。

ので、正しさの基準を一つにするのではなく、「複数の正しさがある」という見解を持つことが大事だ、と主張されます。例えば「俺の組織ではこれが絶対正しいとされているけれど、他所に行けば違うかもしれない」という見方をするなどなど。この辺は実際の事例などを用いて非常にわかりやすく説明されています。

結論としては、"正しさ"というのは移ろうものだから、閉じられた組織の中の正しさだけを信じるなよ!!! という感じでしょうか。本当はこのことが、もっと具体例をもってリアルに語られているので、それは是非本書を読んで体験してみてください。

読んだ感想

面白かったです。まず、文章が非常に読みやすく、事例も日本のものばかりでとっつきやすいので、あまりむずかしい感じがしませんでした。「あの組織でいかにして不正が起きたか」に迫るドキュメンタリー的な面もあるので、物語を読むような感覚でも読めます。かつ、自分の職場はどうだろうか......などと考えるきっかけにもなりました。

そんな無難な感想はいらねえからもっと突っ込んだことを書けという声が聞こえてきましたので、もう少し突っ込んだことを書きます。

正しさの複数性・流動性とは

組織において単一的=固定的な「正しさ」が維持されることは、時代や場所にそぐわない「正しさ」が組織において浸透し、それが世間や他の組織と大きく乖離することによって組織不正が生まれると言えるのです。

こうした事態を避けるためには、「正しさ」とはつねに複数的=流動的なものであると考えることだと言えます。(Kindle版 192-3頁)強調は引用者。

上で述べたように、本書では、特定の「正しさ」を唯一絶対のものとするのではなく、それが複数的・流動的であることを認めよう、という立場が取られます。もう一つ別の箇所から引用すると、「このような絶対的な「正しさ」には、さらなる「正しさ」を対抗させること(突き合わせること)でしか、食い止めることはできないように思います」(168頁)ということが言われます(バケモンにはバケモンをぶつけんだよ!)。

ただ、これを読んでいる法哲学徒の皆さんは、こう思うかもしれません。「いや、複数性が認められるのは善の構想の方であって、正しさとはその前提条件としての社会構想のことだから、正しさに複数性があるというのはおか思うわけないですよねすみませんでした。オタクモードに入ってすみません、、、

どういうことかというと、倫理学法哲学をやっていると、正しさについて相対主義的な見方を取ることって基本ないんですよね。相対主義的な見方というのは、「〇〇は場所や環境によって異なるものであって、それら同士を比較したり優劣を付けることはできない」とするような見方のことです。正しさを例に取ると、「正しさは時代や文化によって異なるものだから、今正しいとされることも別の視点からすれば正しくないことになり、つまり正しさについて議論することは無意味である」といった立場となります。

一見もっともな意見のように見えますが、本当にそうか?? という感じでもあります。例えば、無力な子どもに一方的に暴力を振るうことや、無実の人を裁判で有罪にすることは、大抵の文化では「悪いこと」「正しくないこと」とされています。我々もこの悪さには同意できるはず。ただ相対主義の立場では、「それも別の面から見たら正しいかもしれないよね、間違ってるとは言えないよね」という感じで、正しさという概念を検討不能にしてしまっているので、正しい/正しくないについて議論することができなくなります。

ただ、複数性があるのはあくまで「何を正しいとみなすか」についての我々の考え方・信念の持ち方についてであり、「正しさ」という概念そのものに複数性があるわけではない、というのが私の思うところです。各人が正しいと信じていることが、そのまま「正しい」のではなく、それらの信念についても「正しい/正しくない」という判断は可能であり、思い込みや偏見、狭量な見方に囚われた「正しさ」についてはちゃんと「正しくないよ」と言っていかなければならない、と思っております。急に自信なくしてきた。よくわからなくなってまいりました。

入札改革―談合社会を変える (岩波新書)

少し別の話になりますが、僕は普段のお仕事では、特に調達の分野に関わっております(こういうことを書く度に本当に身バレが怖い)。そうすると、最もありがちな組織不正が「談合」です。談合というのは、本来はお互い競い合うべき企業が、裏で手を組んで価格とかを操作することですね。これを官公庁の側が手動する「官製談合」という地獄もあります。

で、談合は普通、不正として誹りを受けるのですが、中には談合を擁護する議論もあります。宮崎学『談合文化 日本を支えてきたもの』(祥伝社黄金文庫、2014)がそんな感じだったはず(全部は読んでないけど)。この立場で言われるのは、談合はある種「合理的」であり、日本社会は従来談合をベースに進めてきたのであって、欧州の市場主義原理がそれを破壊しに来ているが、実際は経営者がお互いを守るために談合をやったほうがうまくいくとか、そういう話です。うまく談合をすることが企業を、ひいては日本社会を守ることに繋がるのだ...... という意見は、今でも結構目にします。

本書『組織不正はいつも正しい』的には、これは仲間同士を守ろうとする企業の「正しさ」と、できるだけ費用を抑えようとする行政の「正しさ」の衝突と捉えられそうです。で、企業側が自らの正しさを追求した結果として、談合という不正が起こるということになるでしょうか。

ただ、企業側が(主観的には)正しさを追求していたとしても、これは実際には正しくないことをしているのであって、これをもって「正しさの複数性」という話になると、やや引っかかりを覚えます。主観的に正しいことと本当に正しいことは別であるというか.......

↑で書影を挙げた、武藤博己『入札改革』においても、次のようなことが書かれていました。すなわち、談合ではしばしば「企業の自己防衛」ということが主張されるが、そこには国民の税金を適正に使うという視点が全く入っていない。日本社会を守るためなどと言われるが、談合の当事者が言う”我々”の中には、税金を払っている国民のことが少しも考慮されていない、と。このように、ある種独りよがりな正しさのことを「正しさ」と呼んでよいのか? とか、「正しい」と言っているけど実は間違ったことを追求しているのではないか? という視点は、個人的には結構気になるところです。

もし正しさは複数的・流動的であると言うと、どうしても「それは間違っている」「そもそも正しくない」という議論がしにくくなりそうで、そこが気になるところでした。とはいえ、「みんながみんな不正を働こうと思ってやっているわけではない」という指摘は非常に重要と思うので、そこの言い回しが難しいですね。

仕事に保身を持ち込んでよいのか

もう少し続けます。

この読書感想シリーズ、唐突に関係のない漫画の話をしがちですが、今日もします。

僕がここ最近読んだ漫画の中で、特に良かったものの一つに「医龍」があります。メディカルドラゴン!! しかしこの漫画は、医龍本人というよりは「医龍と称されるほどの天才の周りにいる普通の人達」の物語なんだよなあという話はどうでもよいので置いといて.......

医龍(1) (ビッグコミックス)

さてさて、前にもブログで書いた記憶がありますが、医龍のテーマの一つに「手術室に保身を持ち込むな」というのがあります。これは例えば、瀕死の患者がいて、自分がマニュアル通りの手術を行えば100%死んでしまうが、医局のルールを無視して、未承認の術式を用いれば生存率が10%は上がる......という状況を想定してみてください。この術式を用いたところで助からない可能性のほうが高く、しかもルールを破ったということで自分の地位を危うくする行為でもあります。手術が成功したとしても失脚は免れ得ないかもしれません。医龍に出てくる普通の医者は、まずマニュアル通りの手術を選びます。

しかしこのとき、主人公の朝田は未承認の術式を用います。朝田は患者ファーストな人間なので、自分の手術に保身の考えを持ち込みません。どれだけ自分の立場を悪くしても、患者の命を救うことを何よりも重視しています。で、そのあまりに一途な姿勢に影響される者もいれば、いやいや大学の医局というのはそんなに甘い場所じゃないぞ.......ということで話が進むのが医龍という漫画です。第1巻はあんまりおもしろくないけど、3巻ぐらいから後半に行くほど面白いぞ!!!

で、医龍を読んでいて思うのは、医者に限らず、仕事には大抵「顧客」がいて、我々は顧客にサービスを提供することを仕事としているということです。まあ当たり前のことなんですが、、、

ただ時には、単にサービスを提供することを超えて、顧客自身の生活を左右するような瞬間もあるかと思います。「患者の命を救う/失う」ほどではないにせよ、我々は何かしら、仕事というものを通じて、顧客の生活に大きな影響を与えることがあるはずです。役所の仕事とかは思い浮かべやすいですね。職員が生活保護審査をてきとーにやってしまうと、それで本当に人生が変わる人が出かねないわけです。

また、カスタマーとサプライヤーでは、情報量などで力関係に大きな差があるとも思います(大抵はサプライヤーの側が強いはず)。ので、パワーの非対称性ということを考慮しても、「仕事においては、できるだけ顧客の身に立って真摯に対応すべし」というのは、一つ倫理原則として主張できるのではないかな〜〜と感じています。最近あんまこういうこと言う人見かけないけども。

で、巷の仕事論などを読むとですね、思想の左右を問わず、その理論の中心に自分を置きたがる人が多いなーと感じています。「自分が競争で生き抜くために仕事で成長しよう」とか、「自分らしい余暇の時間を確保できるようにほどほどに働こう」とか、そういう仕事論です。

ただ僕は、もっと医龍のごとく、「顧客ファースト」の仕事論もあってよいかと思っています。自分がどうあるかではなく、相手に対して何ができるかという仕事論ですね。そして、それが職業倫理というものに関わってくるのではないかなーどうかなーと思ってます。この立場だと民間企業は全部NPOになっちゃうでしょうか? どうなんでしょう?

で、今一度本書『組織不正はいつも正しい』に戻ると、本書の事例でも、正しさがぶつかるところではしばしば保身的な態度が見られました。自分の言ったことに引っ込みがつかなくなって相手を追い込んだとか、そういうものです(軍事転用不正の事例がそうですね)。力関係の偏りなども話しましたが、多くの場合、既に強い側にいるサプライヤーが保身に走ってしまうと、大抵誰か弱い者が苦しい思いをしていまうはずです。そんなわけで、一職業人として、「できるだけ相手の身に立つ」というのは倫理的に求められることかなと思いました。

「仕事に保身を持ち込まない」というのは、僕が医龍から学んだ大切な原則の一つです。あと「人を馬鹿にしすぎるとエレベーターでボコボコに殴られる」ということも医龍を読んで学びました。みなさんも是非医龍読んでください。「夏目アラタの結婚」もバリ面白いよ!!!!

以上

以上、『組織不正はいつも正しい』の感想でした。サクっと書くつもりが結局長くなってしまった。いつも熱い気持ちが溢れがちなんだよな。

途中でも書いたけど、非常に読みやすい一冊であるし、また「組織不正は誰もが当事者になりうるもの」なので、みなさんも是非読んでみてください。

次回は、男性の性機能障害についての本を扱うかもしれません(マジ!?)。今回が7回目の読書感想ですが、年内に#12まで行くことが目標です。行けるのか、、、? がんばりますので次回も乞うご期待です。

— あいだた (@dadadada_tatata) October 31, 2024

ども!! 秋、ですね、、、秋が来ると、なんだかいろんなことが終わりに向かっていくようで、もの侘びしくなります。「夏が終わる」という言い方がよくない。「春が終わる」「秋が終わる」という言い方はしないけど、夏だけがなぜか終わる、と思って「夏だけが終わる」で検索したところ同じことを言ってる人が山ほどいて恥ずかしくなりました。

今日は9月の振り返りになりますが、基本的にですね。皆さんはこのあっという間の9月、何をして過ごしていたでしょうか。悔いは残していませんか。悲しい思いをしていませんか。秋服の準備はできましたか。そんなことを振り返っていきます。

基本的には、日々のどこかしらで書き留めていた日記メモの放出ですね。ちょっとずつメモを残して、毎月の終わりに振り返るというもの。今月もやっていきます。

9/7(土)

特に意味もなく、筑波大学に遊びに行った。

先月は東北大学に遊びに行ったが、このごろ国立大学を巡るのにハマっている。行ったら必ず、本部棟を見るようにしている。そして「もしこの大学に転職とかで就活したら、この建物に来るんだろうな〜〜〜」ということを考える。大学巡りを趣味にしている人は少なからずいるかもしれないが、本部棟を比較しているのは僕ぐらいだろう。大学生のときは一番興味のない建物だったからね。

自然が豊かだった。大学は自然派/人工物派、カオス派/秩序派に分けられると、常々考えている。京大は自然が少なく、放置自転車やタテカンが混沌としているので「人工物・カオス派」。名古屋大はまあまあ自然がありつつ人工物もあって、きっちり区画で秩序っぽいがよくわからんアートとかもあるので、色んな意味で中間。東大も池とかあるし自然派の要素が強く、かつ秩序派だろう。北大・東北大も自然派かつ秩序派かな。

筑波大は、かなり自然派だったと思う。で、作りがやたら凝ってて、秩序派に見えるのだが、中に芸術系の学部とかもあって、その辺はカオス派が優勢だった。つまりバランスがよい。だいだいの大学はバランスがよいが、京大だけ偏りすぎである。

筑波大学の図書館にも行った。入館申請が必要だが、それさえすればかなり自由に見学できた。東大・京大の場合は確か閲覧する資料が決まっている場合のみ入館可能だったと思う。筑波大、自由度たかし。この図書館もとてもいい感じだった。

10月は千葉大を見に行く予定がある。他にも、九州大や信州大、金沢大や秋田の国際教養大学なんかを見てみたい。「国立大学漫遊記」いつかどこかでまとめます。

9/11(水)

今日もトレーニング事務の休憩室から書いている。さっき30分ぐらいの運動を終えたところ。

昨日まで、ひょんなことから同居人(居候?)ができて、1週間ほど男二人暮らしだった。家に帰ると、職場のあれこれを愚痴れる相手がいて、楽しかった。

職場のあれこれというのは、良くも悪くも大学職員は変化を望まない人が多く、いい意味では「落ち着いた職場」「無理をされない職場」であるけれど、悪く言えば、悪い言い方はキリがないな。ともかく、みんなを引っ張っていくような存在が極端に乏しく、「出来ないことは出来ないまま」という現状が多いと感じる。

僕の後輩で、就活の説明会などで先輩職員に質問する時間があったら、「自己研鑽は何をしてますか?」という質問がちょうどよいのではと言っている人物がいた。これはコンサルの説明会などで質問すれば、大変ウケがよさそうだが、我が職場で自己研鑽なんかをしている人は本当に皆無なのではなかろうか。それぐらい「今持ってる能力でやりゃ十分」という感じの職場。まあぬるま湯ですな。だからこそ、もしみんなを引っ張ってキャリーするような人物がいたら、過労死枠になってしまうので、十中八九転職するだろうな。そんなんでよいのか、大学職員。

【なぞなぞコーナー】

事務仕事でみんなを引っ張ってくれる俳優、誰??

  1. ライアン・ゴズリング
  2. ホアキン・フェニックス
  3. マシ・オカ
  4. ジム・キャリー

.......答えは言うまでもないですね。

今日はトレーニングマシンで走りながら、ずっとそんなことを考えていました。

喉が渇いた。

9/15(土)

3連休の初日。何もせずに過ごしていた。

ここのところ、土日はだいたいスマブラの大会を見ている。今日はウメブラ11をやっていた。ミーヤー様が優勝していた。ミーヤー最強!! ミーヤー最強!!

スマブラについてなんか書こうと思ったけど、特に書くことないな。

小学生のときにやっていた野球でも、中高大学とやっていたテニスでも、特にプロの試合には興味が湧かなかった。人のプレイを見るよりも自分がやるほうが好きだったから。大学院に入ってハマった将棋でもそうだった。逆に、逐一プロの試合をチェックしてる人は何がそんなに楽しいんだと思ってた時期が私にもありました。

スマブラだけは違って、スマブラはなんというか、プロのことも身近に感じられる何かがあるように思う。プレイヤーの年齢が近いというのもあるが、一緒に相手キャラの理不尽さにブチギレたり、逆に不利キャラを実力ではねのけていく姿におお!! ってなったり、一喜一憂を共感できるところがあるように思う。

それは逆に、気に入らない選手への誹謗中傷が起こりやすい...... ということかもしれないが、まあよくわからないですね。あとは、純粋なスポーツや将棋と違って、常に「キャラ調整」をできる運営という存在がいるので、なんとなく他律的なところもあるのかもしれない(誰々のせいだということを言いやすい)。その辺が、ゲームのプロ界隈を見ているとやや不安になるところですね。今後のゲーム業界の行く末はいかに....... 本当に書くことなかったな。

9/20(金)

今日も今日とて、ジムトレーニング終わりに休憩室で書いている。この日記メモ、ここかお風呂でしか書いてないな。

この頃、お仕事が忙しい。大して残業しているわけではないが、考えることが多い。先月までは70%ぐらいの力で働いていたが、8月後半から90〜100%の力で働かされている。退勤後に力が残っていない。それが普通か? どうでしょうか。

唐突に話題が変わるが、呪術廻戦の面白いところは、能力関連の設定を現実の話に落としやすいところだと思う。「一発クリティカルヒットを出すとゾーンに入ってボルテージが上がる」とか、「自分に枷を科すことで逆に強度を増す」とか、なんとなく現実に落とせそうな設定が多い気がする。あんまり例は出てこないけど。

で、この頃、呪術廻戦で一番面白いと思ってる設定が「必殺技の究極奥義を使った後は、しばらく能力が使えなくなる(領域展開後に術式が焼き切れる)」というもの。最近は仕事でこれを感じている。仕事中にフルで領域展開を使っているので、仕事終わりに読解能力という術式が焼ききれている。ので、全然読書とかできていない。

それに伴い、最近は読書記録も全然書けてない。『なぜ働いてると本は読めなくなるのか』の答えは、「領域展開後に術式が焼き切れているから」ですよ、先生!

術式ではなく、呪力操作を用いた純粋な体術なら可能なので、こうやってジムには来れている。理屈は一貫している。全身で働きすぎだとか、新資本主義云々というよりは、用いる脳の部位が同じすぎるんだと思う。

喉が乾いた。こんなことを書いていて何になるのか。

9/24(火)

3連休明け。勤務後に図書館でブログの下書きを書くなどした(この記事とは別です)。ついでに科学コミュニケーションについての本も何冊か集める。「今、学術的に最も興味のある分野は何ですか?」と聞かれたら科学コミュニケーションと答えるだろうな。

betweeeeeen.hateblo.jp

↑この記事を書いてた。9/30の深夜1時に投稿。

まだ見ぬ科学のための科学技術コミュニケーション 社会との共創を生み出すデザインと実践

↑図書館で借りた本。そのうち読みます。

ちなみに3連休は、特に何もせずどこにも出かけず家で休んでいた。部屋の片付けとかもした。

今は平日週5日働いて、土日が休みなわけだが、たまにこう考える。「5日間働くために2日間の休みがあるのか、2日間の休みのために5日間働いているのか」。労働者という存在が生まれて以来の問答かもしれない。

学生の頃は「いや後者だろ」とキッパリ答えただろうが、今はよくわからん。どちらかというと「平日・休日を無理に区別する必要はない。どちらも等しく己の生活だ」という見方が正しいようにも思える。これと似たようなことを言ってる著作とかあったらぜひ紹介してください。

働くというのは、能力をちゃんと活用している感じがあって、それはそれでよい。自分という機械が正常に動作していることを感じられる。逆に休日は、汚部屋・片付けという現実に向き合わねばならず、自分の人間性能の低さを著しく感じる。みんなもそうなんでしょうか。

僕が汚部屋に住んでたところで、誰も困らないんだけどな。掃除したところで誰かが褒めてくれるわけじゃないし。しかし、やる。3連休でちゃんと掃除と洗い物をした。まあまあ偉い。

以上!!!!

振り返ってみると、なんというか、そこはかとなく暗いですね。9月は仕事がいそがしかったからなー。10月半ばを過ぎればまた落ち着くので、そうなったらもう少し元気が湧き出るかもしれない。

9月のプレイリストも置いておきます(途中、Apple Musicに乗り換えることを検討していた時期があるので少なめ)。

10月の目標は、読書感想の投稿、そしてnoteの更新だな。noteも月一ぐらいで更新するつもりが全然できてない。できてないことばかりや。誰か僕に仕事をくれ。仕事ならできるんだ、、、、、、 そんな感じです。

皆さーーーーーん

新書読んでますか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は読んでます。今日は新書の話です。

新書論

この頃、新書を読んで感想を投稿するということをしばしば行っています。

↑前回の投稿

で、その際に、「新書の割にかなり詳しく書かれている」とか、「新書とはいえ、もう少し専門的に論じてほしい」といったことを度々書いています。まるで新書の評論家ですね。

お前が新書の何を知っているというのか。。。

お前が新書の何を知っているというのか!!!!!!

今日はテンション高めです。

というわけで、今回は自分なりの「新書論」を語ってみたいと思います。新書とは何で、それを読むときに何を期待するのか、という話です。これをやって初めて、「新書にしては〇〇だ」とかの評価が可能になるはずです。新書というジャンルを手に取る時、そこに何を求めるのでしょうか。

で、こういった「新書論」、ちょっと調べてみたんですが、あまりネット上では語られてない印象です。これには検索の難しさもあって、「新書 とは」で検索しても、『〇〇とは何か』というタイトルの新書ばかりがヒットして、新書そのものを扱った文献にたどり着けないという問題があります。ただそれを差し置いても、いろいろ工夫しても見つけられないので、「新書論」は現状あまり語られていないのではないかと思います。Twitterで"新書論"と検索してもあまり出てこないしね。

そんなわけで、今日は僭越ながらも僕が新書というものを語ってやろうと思います。今日語りたいのは以下の3つです。

これには全体を通して、「新書に何を求めるか」という問題意識が横たわっています。そのうえで、上記3つに対して自分なりの回答を出していきます。。

*ちなみにですが、僕は出版関係者でも編集者でも、評論家や読書の専門家でもなんでもなく、「年に20冊新書を読むかどうか」のクソ雑魚ナメクジ最下級呪霊です。ので、なんとなくで読んでもらえると幸いです。

一応、先に結論を述べると、新書というのは「何らかの専門的内容を、一般読者にわかりやすく伝えようとする本(かつサイズ縦長)」で、よい新書・そうでない新書というのは、「読者を無知で教育されるべき存在とみなすか、あるいは読者も知識を持っていると仮定して、その経験知や体験知に沿った説明をするか」というところに表れると考えています(後者がよい新書)。

ここから先はこの結論を言い直すだけなんですが、新書の歴史を辿ったりよくわからん図を作成したりもしているので、よければ読んでいってもらえると幸いです。

そもそも新書とは

まず新書とは何かという話ですが、これは結構難しい問題ですよね。

新書の定義については、辞書的な定義の他に、「新書を自称している本」とすることも可能だとは思います。何も本質的な定義ではないんですが、Wikipedia新書のレーベル一覧によると現在新書は81種類もあるようで、いかに新書というものが多様であるかがわかります。ので、それをひとつの定義でまとめることは難しく、とりあえず「自称してれば新書」とするのもありっちゃありかなと思います。

でもそうすると、最初に新書を自称したのは誰なのか? というのが気になります。いつ・どこで新書というものが誕生したのでしょうか。その歴史を追ってみます。

新書の歴史

新書はいつ、どのように誕生したのでしょうか。そもそもなぜ「新書」なんて名前がついているんでしょうか? 気になりますねー。

これについて、新書の始祖は**岩波新書**です。岩波書店が"新書"というジャンルの本を新たに創設したことで、この世界に新書というものが生まれました。すごい。ちなみに1938年のことです。

岩波新書の歴史―付・総目録1938‾2006 (岩波新書)

このあたりのことは、**鹿野政直岩波新書の歴史』(2006,岩波新書)**に書いてありました。序章に詳しく書いてあります。この本面白かったので、以下、この本をもとに新書の誕生を紹介します。

岩波新書は、1938年に第一刊が創刊されました。ここで初めて「新書」というものが生まれます。

発行元の岩波書店は、1927年には既に、みんな大好き「岩波文庫」を創刊していました。岩波文庫といえば、古典ですね。岩波文庫の創刊の辞を読むと、その目指すところとして、「いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行」することが挙げられています。古典を簡単に読めるようにすっぞってことですね。このように岩波書店には、既に岩波文庫の「古典」という強いジャンルがありました。

ただ、その岩波文庫から10年後、岩波書店「現代人の現代的教養」を目指し、新たなジャンルを創設していきます(本書4-12頁)。これは1930年代当時、岩波書店の創業者である岩波茂雄が、侵略戦争に進んでいく日本の姿を憂いて、現代人にはもっと教養が必要だと考えてのことだそうです。そうした「現代人の現代的教養」を目指して生まれたのが岩波新書でした。

ここに「新書」という名前の由来が見て取れますね。岩波書店がこれまで得意としてきた「古」典に対して、現代を生きるための「新」しい書が必要になったと。これがまさに新書の誕生というわけです。

付け加えると、この「新書」という形式は岩波茂雄が一から作ったわけではなく、これはイギリスのペリカン・ブックスに倣ったとのことです。

ペリカン・ブックス。新書と同じく縦長。

ペリカン・ブックスは、縦長のコンパクトサイズで、社会科学・自然科学を扱った大衆向けの本となっておりました。本書から引用すると、その内容は「各分野の専門家が、素人である読者に向かって、自分の専門に属することをわかり易く語るという、いわば啓蒙的な著作の集まりになっていた」とのこと。岩波茂雄はこれに着目したらしいです(15頁)。

で、この「各分野の専門家が......」というくだりは、僕が持っている新書のイメージにもぴったり合致します。「新書とは何か」ということを考える際に、この一文はかなりピントのあった説明になっているのではないでしょうか。

こうした新たな教養書に、岩波書店だけでなく他の出版社も着目していきます。後追いで似たものを発行していくわけですが、既に岩波によって「新書」というジャンルが命名されていたので、各社も「〇〇新書」という名前で売り出していったそう。このようにして新書が普及していったという話になります。

こうして考えると、新書とは何かという問題に対して、3つの視点から説明ができると思います。

ひとつは当然サイズですね。ペリカン・ブックスを参考にしたように、新書は独特な縦長サイズとなっています(日本だと基本横10.5×縦17.3cm)。この文庫との違い、そして学術書などのハードカバーとの違いは、新書の定義の一つに入れてよいかもしれません。

次に内容面ですが、何らかの専門性を備えているというのが新書の要素だと思います。新書がエッセイと異なるのは、筆者の体験や思いを語るだけではなく、何かしらの専門的な内容を含んでいる点にあるのではないでしょうか。実際、「新書」と名の付く本は星の数あれど、どれもなんらかの専門的内容を扱っているはず。

3つ目に、わかりやすさです。専門的内容を扱うだけなら、学術書や教科書でもできるわけで、それらと新書を区別する要素が「わかりやすく」書かれていることだと思います。まぁ実際には難解な内容になっているのも多いですが、「原則として」わかりやすく書かねばならないという思想が、新書の根底にはあるはず。持ち運びやすいサイズと相まって、あくまで一般向けであるところに、新書の特徴があるはずです。創刊者の岩波茂雄も、電車での通勤時とかに読まれることを想定していたらしいっすからね。

そんなわけで、新書とは何かということについては、①縦長コンパクトサイズで、②専門性を含む内容を、③わかりやすく伝えることを目指した本ということにしてみました。小説でもエッセイでも教科書でも専門書でもない「新しい書」、それが新書だったわけですね。ただし、実態はかなり多様だから「新書とは新書を自称している本だ」という定義も、ありっちゃありではないかないかとは思います。この定義への未練がすごい。

わかりやすさという問題

岩波新書の歴史』に戻りますが、上述のように、新書には発刊当時から、「人々を教養へと誘う」「教養への道案内となる」という思想がありました。そこでは当然、何かを専門に学んでいる者からそうでない者へ、それを「わかりやすく」伝えることが求められます。

ただ、この「わかりやすさ」という点について、本書ではひとつ懸念が挙げられています。これが非常に面白く、新書を考える上でキーとなりそうなポイントなので、少し長いですが引用します。

出版文化のうえで岩波新書が、「大衆」と「啓蒙的良書」との出会いの機会を飛躍的に高めたことは、疑いの余地がない。同時にその出会いが、送り手から受け手へのほとんど一方交通的であったこともまた、疑いを入れない。〔中略〕「啓蒙」する者としての自意識は、相手を「啓蒙」される者との境域に押しつけずにはいない。書く側を構成することになる知的エリート(の多く)と、読む側を構成する「大衆」とみなされる存在とのあいだには、その意味での隔絶があった。(23頁、太字は引用者)

ここでは、書き手を「エリート」、読み手を「啓蒙されるべき無知」として、上から目線的に知識が伝えられることが懸念されています。

続く文章も引用します。

そのことは、叙述のかたちという問題にも連関する。本の性格上、新書は「やさしく」また「わかりやすく」書くことを求められる。だが、「やさしく」また「わかりやすく」書くとは、どういうことか。その問題は、「いかに」そうするかという技術的な次元に収斂されがちだが、書く主体として、そもそもそのように文体を場合に応じて変えられるのかどうか。変えられるとして、「やさしく」書く場合、想定する読者への視線に何らかの変化が生じないだろうか。新書の誕生は、おそらくそのような文体の問題をも提起した。(23,4頁、太字は引用者)

新書というわかりやすく書くことが求められるジャンルが生まれたことで、それをどう書くかという技術的な問題だけでなく、「読者をどのように想定するか」という、読者像の問題が生まれたことが指摘されています。

確かに「わかりやすい」という感覚は、読者が受け取って初めて生まれるもののはず。だから筆者としては、自分の好きなように書くのではなく、「読者にとってどうか?」というのを考えなければならなくなったということだと思います。小説やエッセイであれば、自分の感じたことを書けばいいっちゃいいし、専門書であれば読者は同じ研究者仲間であることが多いから、あえて「やさしく」書く必要性も薄いです。新書というジャンルだからこそ、「読者をどのように想定するか?」という問題が、常にセットになって生まれたということになりそうです。これは非常に面白いポイントですね。

新書の類型化

以上で、新書とは何かというのを見てきましたが、上記の定義はかなり薄ーいもので、新書の多様性や現実を考慮できていないとも思います。実際の新書はかなり多様で、その多様性にも目を向けたいなーというところ。

先ほどの岩波新書の創刊の辞では、「現代人の現代的教養」ということが言われていました。しかし新書には、教養すなわち知識を授けるというよりは、「問題意識を世に発する」というタイプのものもかなりあると思います。

妻に稼がれる夫のジレンマ ――共働き夫婦の性別役割意識をめぐって (ちくま新書)

僕が直近で読んだ本だと、『妻に稼がれる夫のジレンマ』ちくま新書)がそんな感じでした。本書は修士論文を出版したもので、専門的内容がわかりやすく書かれていることは間違いないです。ただ、筆者がこの本を書いた狙いは、「読者に教養をつけてもらおう」とかではなくて、「もっと自分の問題意識を世に知らしめたい」というものだったかと思います。

ので、言ってしまえば、厳密に内容が正しいかどうかは、そこまで問題では無いはず(そもそも修士論文だしね)。そういった内容的正しさよりも、「〇〇という問題がこの社会にはある」というのを強く提起できるのが、新書の強みだと感じます。このタイプの新書は、学術的な内容でありながら、読む手の姿勢としてはどちらかというとエッセイぽいですね。筆者の問題意識を何より感じたいので。

もちろん反対に、ガチガチに知識を授ける系の新書もあります。ここ最近手に取った中では、ちくま新書『労働法はフリーランスを守れるか』がそうでした。この本、手に取ったはいいんですが、内容があまりに教科書チックすぎて、途中で挫折してしまいました(すみません)。やってることはほぼ学説の解説という感じです。

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

これのもうちょっとライトなところで言うと、今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』や、千葉雅也『現代思想入門』などがあるかと思います。これらは、内容は専門的なものになってはいますが、ゴリゴリに学説の紹介をするとかではなく、ほどよく話題をかみ砕いて提供してくれています。学術書というほど難しくはないが、エッセイよりは全然知の伝達を目的にしています。

で、常々感じていたことなのですが、新書にはこのように、「教養を授けるタイプ」と「問題意識を世に問うタイプ」の2種類があるんじゃなかろうか。教養を授けるタイプも、何らかの問題意識に基づいていたりしますが、その問題意識を伝えることよりは、まず正しく議論を整理したり、学説をまとめることに主眼があるかと思います。対して問題意識先行タイプは、ひとまず学説紹介の厳密性は置いといて、とにかく筆者の主張を世に問うことが重視されているように思います。両者がくっきり分かれるわけではないですが、そのような軸を持って新書を眺めてみることも可能ではということが言いたいです。

もう一つ、新書には、著者がバリバリ研究者の場合と、そうでない場合があります。この著者の属性によっても結構新書の色が変わると思っているので、個人的には重視している一要素です。その分野で何冊も専門書を出しているような研究者が、一般向けにわかりやすく新書を書いたというものもあれば、ジャーナリストや評論家が、自身の調べた範囲で情報をまとめた系の新書もあります。この「著者のアカデミック性/非アカデミック性」というのも、新書を分類するうえでの一つの軸になるのではないでしょうか。どうでしょうか。どうなんだ??

そんなわけで、4象限を作ってみました(唐突)。横軸が教養重視or問題意識先行かで、縦軸が著者のアカデミック性or非アカデミック性となってます。どうでしょうか。

実際は個々の新書を当てはめて判断する用なのですが、とりあえず出版社ごとに埋めてみました。これ自体は15分ぐらいで作成したので、異論は全然受け付けます。あくまで「浅ぱちゃVer 1.0.0」ということで、多めに見てもらえれば...... かなり個人的な印象に基づいています。

逆に、どんな象限で分けられるか、あるいはこの象限で出版社を分けるとしたらどうなるか、皆さんも考えてみましょう。

で、この区分けに何の意味があるのかというと、自分の好みを可視化できるのではないかというのがあります。例えば僕の場合は、教養系が好きだけれど、あまり難しすぎるのもあれという立場なので、「講談社現代新書」「ちくま新書」あたりが好みになります。逆に問題意識先行型はあんまり好きじゃないので、最近の集英社新書ちくまプリマー新書あたりはイマイチに感じています。光文社新書平凡社新書あたりがちょうどいいときもあるし、岩波・中公を強く欲するときもあります。

だいぶやっつけのマトリクスにはなりますが、こういう視点で新書を分類してみると面白いんじゃないでしょうか〜〜〜というのが言いたかったことです。

ameblo.jp

ちょっと調べたところ、新書を4象限で分類しているブログが他にもありました。ここでは「あっさり/こってり」「知識欲/金銭欲」で分ける案が取り上げられています(金銭欲て)。僕の4象限では、右下の「教養重視」「評論家」のところが「金銭欲」と置き換え可能かもしれません。まあ新書っていろいろあるからね。

分類についてはそんな感じです。

どうわかりやすくするのか

教養を伝えるにしろ、問題意識を訴えるにしろ、それを「読者にとってわかりやすい文体で書くこと」が新書には求められるという話でした。

これが今日一番論争的な内容になるかもしれませんが、この文体も、2パターンに分けられると思っています。1つが、読者を無知な存在とみなすような文体。つまりは、読者を知識が欠如した空っぽな器のように仮定して、そこに筆者が知識を注いでいくようなイメージですね。

もう一つが、読者を空の器ではなく、何らかの固有の知識を持っている存在とみなすような文体です。読者には専門的知識はないかもしれないが、日々の体験の中で「なぜかは知らないが、これはこういう風になっている」というような「経験知」は持っているかもしれません。この場合、読者は空っぽな器なのではなく、その人に即した文脈で知識を持っているのだと言えます。そうすると書き手側には、単に器に知識を注ぐことではなく、読者自身が持っている知識を、うまく専門的知識を繋げることが目指されるはずです。

先ほどの『岩波新書の歴史』でも「読者をどのような存在と想定するか」という問題が挙げられていました。一つに読者を無知な存在(啓蒙対象)とみなす見方、もう一つに、読者にも何らかの知識があり、単なる啓蒙対象ではないとみなす見方があるかと思います。

科学コミュニケーション論 新装版

で、知ってる人は知ってるよとなったかもしれませんが、僕はここで、科学技術コミュニケーションにおける「欠如モデル」「文脈モデル」を念頭に置いてます。最近読んだのでちょうど使えるなーと思って。

少し脱線しますが、科学技術コミュニケーションという分野があります。ここでは、専門家である科学者が、非専門家である市民・大衆に対して、いかに科学技術の安全性・危険性や有効性を伝えていくか、というのが主題になっています。例えば原発などですね。

で、最初期の科学技術コミュニケーションでは、「欠如モデル」という理解にしたがってこれが行われていました。これは市民や大衆を、「科学の知識を何も持ってない無知な存在」と見なして、彼らに正しい科学知識を教えてやれば、市民も科学的に正しい判断ができるようになる..... とするような考え方です。

この欠如モデルは批判されることが多いのですが、その問題点は、専門家から非専門家への一方通行性にあります。まず、市民は単に知識を注がれるだけの器なのか? そうではなく、市民も知りたいことは自分で調べるし、興味のあることは自ら探求するような自主性があります。欠如モデルはこれを無視しており、「専門家が教えれば市民の無知が解消される」というような、ある種の上から目線に基づいています。

これに反対して生まれてきたのが、「文脈モデル」です。市民には彼ら自身の関心があるのだから、その文脈に沿って情報を伝達することが大切だ、というのがこの発想になります。興味のないことを延々と言われても理解は深まらないし、彼らのニーズや状況に注意を払いつつ知識を伝えることが大事だということですね。

僕がここで言いたいのは、新書においてもこれは同様ではないかということです。「わかりやすく」しようとするときに、読者を全くの無知と想定して、そこに知識を注ぎ込むようなスタイルを取っている新書も、あるっちゃありますよね。こういった新書は、やけに上から目線であったり、必要以上に教科書的であったりと、個人的にはよくない新書だと思っています。読んでてあまり楽しくないしね。

反対に、できるだけ読者の関心に合わせたり、その文脈に沿おうとしてることが分かる新書もあります。例えば、先ほど挙げた『言語の本質』では、教科書的に言語学を解説するのではなく、ところどころ「読者の皆さんもこういうの不思議に思いませんか~」というすり寄りがなされていました。また、千葉雅也『現代思想入門』でも、単に哲学の講義をするのではなく、現代を生きる我々の目線に沿って解説がされていたと思います(まあ僕全部は読んでないんですが)。どちらもほどよく読者の文脈が活用されていて、わかりやすくかつ面白い内容になっていると思います(さすが新書大賞)。

で、先ほど4象限を書きましたが、じゃあ教養重視型なら欠如モデルの傾向が強くて、問題意識先行型なら文脈モデルになりがちなのかというと、、、そうとも言えないですね(じゃあなんのための4象限なんだ)。これも個人的意見になりますが、例えばちくまプリマー新書は、中高生が読者層として想定されていますが、読んでいるとかなり「教えてやろう」的な空気感を感じます。「中高生の君たちに先生が教えてあげるよ」的な。

逆に中公・岩波新書では、読者の皆さんはこれぐらい知ってるよね〜〜と言わんばかりに、やたら内容が難解なのも多々あるなと感じています。これはこれでハードでよいとも思いますが、もうちょっとこちら側にすり寄ってほしいと感じることもしばしば。ので、4象限のどこにあるかに拘わらず、ちょうどいい具合に読者の文脈を活用できるかというのが、個人的な新書のポイントです。

まとめると、新書には「専門的な内容を一般向けに伝える」という特性がある以上、新書が面白くあるためには、ある程度読者の知識の文脈に沿うことが必要であるのでは!? というのが僕の見解です。これがマイ新書論や!!!!!

面白い新書とは、専門的な内容を解説しつつ、それを一方通行的に「教える」のではなく、ほどよくこちらの日常知や経験知と繋げてくれるような新書である。

というのはどうでしょうか。どうなんでしょうか......

どうなんでしょうか

そうはいってみたものの、どこまでが欠如モデルで、どこからが文脈モデルかというのは、そうはっきりと決まらない問題だとは思います。それに、新書にゴリゴリ専門的・教科書的内容を求める層も一定数いる気がする。。。そんなわけで、これはあくまで僕の新書論になります。「僕が新書を論じるときはこういう点を重視している」という話になるので、皆さんもぜひ、自分の新書論を語ってみてはいかがでしょうか。

今回、一万字近く書いたんですが、実は新書についてはもっと語りたいことがたくさんあります。最近は老いをネタにした新書が多すぎとか、集英社新書があまりに新自由主義批判に寄りすぎとか、新書はほかの本と違って出版すれば内容がアレでも本屋や図書館においてもらえる(新書コーナーが設けられてるから、専門書と違ってほぼ確実に本屋・図書館に買ってもらえる)から怠慢が働いているのではという話とか、いろいろ書きたいことは多いです。ただまあ、それはまたいずれということで。

今日は久しぶりの更新になりましたが、新書について日頃から語りたいことを語れてよかったです。こういうところから各自の「新書論」が活発になっていくといいですね。いいよなあ。君もぜひ語ってみてくれ。それでは!!

— あいだた (@dadadada_tatata) September 29, 2024

ども!! 今年もまた、為すすべもなく8月が去っていきましたが、皆様お元気でしょうか。我々はあと何度無力に8月を見送り、そのたびに哀愁を感じることになるのでしょうか。しかし猛暑ではなくなったのは嬉しいですね。

すでに本日、9月2日ですが、8月の振り返り記事を放出します。先月同様、暇な時間にメモを貯めておいて、それをひと月分まとめて記事にする感じです。

これはどちらかというと、他人に見せるようというよりは、自己の魂の救済のためにやっているものですね。

あと、8月は全くブログを更新せず、大変申し訳ありませんでした。雨の日が続くとブログを更新しない傾向にあります(図書館やカフェなどでしか書かないから)。9月こそは頑張りたいと思っている。そして8月を振り返ります。

8/10(土)

覚悟完了!!

championcross.jp

実家に帰省している。実家に帰ると、特にすることがないので、姉や母に頼んで快活クラブに輸送してもらう。同様に迎えにも来てもらう。いいご身分になったものです。

快活クラブで『覚悟のススメ』を全巻読んだ。これより熱い漫画を僕は知らない。

1巻の表紙カバーの作者コメント。

少年の名は覚悟! 穏やかな瞳に秘めた運命・必勝!

鎧の名は零! 物言わぬ鋼に込めた悲願・七生!

牙を持たぬ人の血が流れる時、少年と鎧は一つになる!

その時は只今! 只今がその時なり!

ふさわしい場所に堕ちよ現人鬼!

死戦の彼方に見えるのは因果!

熱すぎる。

8/19(月)

仕事終わりにジムに来て地獄の運動をした。

この頃体重がかなり増えてしまい、運動が必須になっている。3年前と比べると13kgぐらい増えている。

ジムについては前にnoteで本当にしょうもない記事を書いた。noteも月一ぐらいで更新していきたいな。

ジムに行くのはよいのだが、自分が汗っかき過ぎてつらい。親曰く汗っかきは遺伝らしい。激しい運動をするとサウナ出た後みたいに汗をかいてしまう。じゃあサウナを出たあとはどれぐらい汗をかくのかというと、これもサウナ出たあとと同じぐらい汗をかく。汗っかきのせいで、学生時代からしばしば恥ずかしい思いをしてきた。

今日も、チャリライドマシンを爆走したら、マシンにだいぶ汗が飛んでしまった。終わった後にちゃんとマシンの汗を拭いたつもりなのだが、完璧ではなく、係の人から注意を受けてしまった。

「君、マシンの側面にまで汗が飛んでるよ。ちゃんと拭いてってね」と。

チクショおおおお!!!!!!!

という気持ちをなんとか抑えた。

ジムの休憩室でこのメモを書いてます。

整いましたー!!(サウナだけに?)

汗っかきの人と掛けまして、パンデミックと解きますー!!!

その心は?

どちらも、感染(汗腺)が止められないでしょう〜〜〜

あんまりうまくないな。

体力を絞り切った後は、意外と文章が回るのかもしれない。

汗っかきの人は涙腺もゆるいのか、誰か検証してください。ちなみに私は涙脆いです。

8/22(木)

湯船に浸かりながら更新。

filmarks.com

この間、『ヘザース ベロニカの熱い夏』という映画を観た。

映画を観たきっかけは、若い頃のウィノナ・ライダーを見たかったから。この辺のことは過去に書いたnoteのクソ記事にまとめている。

そしてこの映画、普通に面白かったっす。

最近は映画を観る際は、ストーリーとか背景とかオチとかではなく、あまり全体に絡まないようなちょっとしたシーンのほうが好きだったりする。この映画で言うと、冒頭にクラスの一軍女子たちが、他の生徒にインタビューするシーンがある。

インタビューの内容はこう。

あなたは宝くじで100万ドル当たりました。小切手を受け取った帰り道、宇宙人に出会い、2日後に地球を爆破することを告げられました。何をして過ごしますか?

これについて、パンピーの生徒たちはつまらない回答ばかりするのだが、一人だけ洒落た回答をするミステリアスな男子がいて...... という話。このミステリアス男子の回答、「こりゃモテるわ」という感じで好きだった。ただ、他の生徒たちが、「100万ドル当選と言っても、税金でこれだけ取られるはずだから、手元にはこれぐらいしか残らなくて......」とか超絶くだらない議論を始めるシーンがもっと好き。

この映画は1988年のものだが「高校という空間がいかに狭苦しく生きづらいか」ということが非常によく描かれていると思う。僕も高校時代はとにかく息苦しかった。今思うと、馴染めない空間に毎日9時間も晒されるのやばいっすよね。職場だったら即転職しろという話になるけれど、学校はそうもいかないのが大変ですね。

「この学校は社会の無関心によって歪められたのではなくて、学校こそが歪な社会そのものだったんだ」

いいですねー。

8/27(火)

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昨日から仙台に来ている。

我が職場にはリフレッシュ休暇なるものがあって、有給とはまた別に3日間休みを取ることが可能である。そしてこの3日は出来るだけ続けて取ることが推奨されているらしい。旅行などに行けとのこと。今回はその2日分を使った。

仙台にはずっと前から行きたい行きたい思っていたのだが、なかなか行く機会に恵まれずここまで来てしまった。今回急遽、行ける時に行ってみようと思って行ってみた感じ(前日に決心した)。

簡単な旅行記を残します。

東北大学(片平キャンパス)

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仙台駅から徒歩圏内に、東北大学片平キャンパスがある。東北大学も前から行ってみたかったので、ようやく訪れることができた。

片平キャンパスは、理系の研究所系がいくつかと、事務の本部棟などがあるらしい。この感じは大阪大学の吹田キャンパスに似てるなーと思った。

もし東北大事務職員として就活するならこのキャンパスに来るんだろうなと。違ったらごめん。

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東北大学博物館が無料で入れたので行ってみた。東北大学の歴史がわかる。面白い。

東北大学は、片平キャンパスから比較的近いところに青葉山キャンパスと川内キャンパスがある。てっきり、駅近の便利さを活かして、後から片山キャンパスを作ったのかと思ったが、そうではないらしい。先に片平キャンパスがあり、後から青葉山・川内キャンパスができたとのこと。段々駅から遠くなってくのは珍しい気がしないでもない。

大学ファンドのあれに選ばれた系のニュースは、ぱっと見では掲載されてないようだった。今後の東北大学、どうなっていくんでしょうね。

広瀬川
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片平キャンパスの後は青葉山・川内キャンパスを目指す。シェアモビリティの自転車をレンタルした。川が綺麗。仙台、自然豊かでいいところですね。

東北大学(川内キャンパス)
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川内キャンパス。猪が出るらしい東北大学だなあと感じた。

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熊の目撃情報も多数寄せられてるらしい。

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総合図書館。一瞬だけ中に入ったが、かなり「市の図書館」という佇まいだった。他の国立大学の図書館でこんな垂れ幕が下がってるところ、あまり見ないと思います。そこも市の図書館っぽいなーと感じた。

それと東北大学は、建物がどれも新しいと思った。普通に綺麗である。しばしば東北大の人から、東北大は山の中にあり近くに店や施設がなんもないと聞いていたので、全体的に古びた感じなのかと思ってた。が、実際はかなりハイカラなキャンパスである印象(分からんけど)。確かに、飯屋やコインランドリーなどは本当に何もなかったが、名古屋大なんかよりは建物がよほど立派だった。フリスビー投げられそうなスポットも多かったです(最近フリスビーにハマりすぎてやばい)。

仙台城跡(伊達政宗像)
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近くに仙台城跡もあったのでついでに見に行った。

仙台城はいろいろあって、今は跡形もないらしい。伊達政宗関ヶ原以降に居を構えた城であるが、火事によって消失したり、明治時代に取り壊し令が出たりしたらしい(現地の解説では「心無い俗吏によって破壊された」とあった)。

お城は今となっては楽しい観光資源だが、当時は反逆の予兆や不穏因子になってしまったりして、なかなか残すのが難しいんだなーと感じた。確かにこんなところに籠城されたらどうしようもない。しかし仙台城は空襲でも焼けたらしい。そう考えると空からの攻撃、強すぎる。

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仙台城跡からは、仙台の街が一望できる。よい。

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夕飯は宿の近くの居酒屋で食べた。

今回は一人旅だったが、旅行先で夜に居酒屋で一杯引っ掛けるのが、かねてよりの夢だった。

いつからの夢かというと、松本に旅行して以来の夢。学部4年のときにゼミ合宿で松本に行ったことがあるのだが、その時はゼミのメンバーが全く仲良くなく、自分も4年生は一人だったため、夜は一人で出歩いていた。その時に行ったのが「松本つなぐ横丁」。いろんな飲み屋があって、かつ観光客も多く、自分がどこから何用で来たか〜的な話をしている人が多かった。僕は社会人ではなかったので、お金もあまりなく、せこい飲み方しかできずに帰ってしまった。が、この時から、働いて自分で稼ぐようになったら、旅行先の居酒屋で一人で飲んでやろうという夢があった。それが叶った。無駄話終わり。

このお店は夕飯兼ちょい飲みにちょうどよかった。餃子もうまかった。しかしビールが若干高かった。

勾当台公園 野外音楽堂

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2日目。仙台といえば伊坂幸太郎というイメージがあり、伊坂作品で出てきた場所をちょっと巡りたいと思った。が、ググった感じではあまり出てこず、行ってみたのは上記の「勾当台公園 野外音楽堂」のみ。

こちら、どの作品で出てきたか、みなさん分かりますでしょうか。ヒントは映画です。

正解は映画版『ゴールデンスランバー」』でした。堺雅人がここで無実を訴えました。この映画を観たの中学生の時なので「そんなシーンもあったなあ」という感じ。

伊坂作品には中学生の時にめっちゃハマった。『オーデュボンの祈り』から入って、『ラッシュライフ』『アヒルと鴨』『陽気なギャング』『重力ピエロ』『死神の精度』『チルドレン』『フィッシュストーリー』『終末のフール』 『砂漠』あたりを読んだ。結構読んでるな。

高校時代に『モダンタイムス』を読んで、なんかよくわかんねえなと思って伊坂作品からは離れてしまった。個人的に、小説で一番好きなのがオーデュボンで(最初に読んだ作品なので思い入れが深い)、映画だとフィッシュストーリー。ただ今読み返すと違うかもな。

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話戻って勾当台公園、喫煙注意系の貼り紙が至る所にされていた。確かに大量の喫煙者のいる公園だった。

ここで無実を声高に主張しに行ったら、喫煙者しか聞いてなかったらちょっと面白い。

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仙台はもう木々が色づき始めている......?

メディアテック
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仙台メディアテック。公園から近かったのでついでに寄ってみた。市民ホールのような感じで、市民の交流企画なども開催されつつ、3・4階が図書館になっている。図書館はおしゃれで綺麗だった。

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どうも館長があの鷲田清一らしく、哲学カフェとかもやっていた。ちょっと企画展示を見てみたが、こちらはユース向けということで、10代・20代の任意の参加者が「友達とは何か」「才能とは何か」「多様性とは何か」といったテーマで議論していた様子(簡単な議事録が残されている)。割と面白かった。

こういう場にもし自分が参加したとすると...... と考えると、きっと思ったことや感じたことをありのままに話すのではなく、まずは用語の意味や用法を整理しようとか、あの人はあまり会話に参加できてないから話を振ってみようとか、そういう「交通整理」的な役割に終始するんだろうなと思う。悪い癖でございますね。

こういう場で思ったままのことを言ったり、個人的経験を話したりするのが苦手で、なぜかというとスルーされたり軽くあしらわれたりすると悲しくなるから。他の人のはウケがいいと、やはり僕自身の経験なんて何の価値もないな.......などと考えてしまう。だから議論の整理などを頑張ってしまうが、そうすると、整理のしようのない突飛な意見や個人の暴走に対して、かなり冷淡になってしまうので、こういうのに優しい人こそ、本当に心の優しい人なんだろうなと思ったりする。何の話?

ちなみに、今は松島に向かう途中の電車でこの文章を書いています。

牛タン 司
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牛タンは「司」という店で食べるとよいと聞いたので、ほぼ開店と同時ぐらいに行ってみた。平日昼なので流石にすんなり入れたが、出る頃には行列ができていた。人気店。

普通にうまかった。

ちなみに、なぜ仙台で牛タンが有名なのかと言えば、牛タン焼きの発祥の地だかららしい。登場したのは戦後だとか。こういう名物の由来を調べて披露するのが結構好き。

松島

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そのあとは松島に行くなどしたが、風が強すぎて島に渡れず、ほとんどただ歩いただけだった。一応瑞巌寺などにも行ったが、歩き疲れてあまり情報が頭に入ってこなかった。そんなこんなで、仙台旅は終了。この文章は帰りの新幹線やまびこで書いており、この後は寝ます。雑でごめん。

仙台は伊達政宗の街だったな、、、どこに行っても伊達政宗の名前を目にしたと思う。

8/29(木)

労働労働労働労働労働労働労働労働忍耐_!_

残業残業残業残業残業残業残業残業悪鬼_!_

*「旅行に行っていたせいで仕事が溜まっており、残業続きである」の意

*『覚悟のススメ』単行本6巻 作者コメントをパクった。

以上!!!

いかがだったでしょうか。8月はブログ更新のモチベをだいぶなくしてしまい、全然かけませんでした。改めてすみませんでした。

これから涼しくなって、過ごしやすくなってくれるといいなと思います。次回、またお会いしましょう。それでは。

— あいだた (@dadadada_tatata) September 2, 2024

ども!! 去年まで、毎月月末になると、その月の振り返り記事というものを書いていました。↓がその記事です。

betweeeeeen.hateblo.jp

毎月25日ぐらいになったら構想を練り始め、月の最終日に合わせて更新していたのですが、次第に書くことがなくなってきてやめてしまいました。

が、以前こうした日記系のコツとして、知人から「毎日Twitterなどを開くタイミングで、ちょっとずつ下書きに書き溜めればよい」という話を聞いており、今月はちょっとそれを試していました。ので、今日はそれを放出します(ただしだいぶ加筆修正あり)。7月の振り返りとなります。あまり読む価値はないです。

7/7(日)

都知事選終了

www3.nhk.or.jp

大阪・京都観光

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www.bunpaku.or.jp

shogakukan-comic.jp

7/13(土)

東京の盆

7/16(火)

仕事に保身を持ち込むなという話

〔あの店員たちは〕保身第一で責任は一切負いたくなく、そのためにお客とマトモなコミュニケーションを取りたくない類の人間なんだ」

7/21(日)

名古屋来訪

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@名古屋大学(工事中)

kiyo-shit.hatenablog.com

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@川名公園。昔よく行った。いい公園だが、この日は暑すぎて人がまったくいなかった。

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@名古屋のCOSTNAコストコの再販売店

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@日比野。やたら細い居酒屋を眺めたりもした。

7/29(月)

小説「サクリファイス」を読んだ

サクリファイス(新潮文庫) サクリファイスシリーズ

www.bitters.co.jp

7月のプレイリスト

中でもおすすめの一曲

Mustard Service / (Your Cat) Don't Stand a Chance

www.youtube.com

以上!!

久しぶりに、月の振り返り記事を投稿してみました。いかがだったでしょうか。

このスタイルでやってみて分かったのは、結局のところ修正やリライトが結構大変だということです。月末にその月にあったことをいちいち思い出さなくてもよいのは利点ですが、見出し付けたり日本語直したりと、手直しが結局大変でした。ので、次月もやるかどうかは正直分かりませんが、できるだけ頑張っていこうとは思います。(あと、こうして振り返り記事を書こうとすると、あのことも書こうこれも書こうとなりがちですが、そこはメモしていた範囲のみに留めました)

この7月は本当に暑くて大変で、かつコロナもまた流行り始めていました。ぜひ皆さん体調に気をつけて、猛暑真っ盛りの8月に備えましょう。嫌だ。もう暑いのは嫌だぁっぁぁぁ。。。。。それでは。

もう7月も下旬ですよ

皆さんどうもお久しぶりです。

暑いですね! これを書いている現在、最高気温37度とかです。暑すぎるだろ!!!!! この頃は、買っておいた野菜などが暑さで全てダメになってしまい、家には小バエが大量発生し、もう何の気力も湧きません。

さて、7月は更新多めにしたいと言いつつ、25日振りの更新となりすみませんでした。暑さのせいです。今日も読書記録をやっていきますが、本日紹介するのは、今話題のあの本、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。

こちら気になっている人も多いのではないでしょうか。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)

いつも通り、読んだきっかけ→内容紹介→読んだ感想でやっていきます。ちなみに今回、長いです。

読んだきっかけ

まず、書名に惹かれました。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」。よいタイトルですよね。学生の時はたくさん本を読んでいたのに、就職してからトンと読まなくなったという人の話をよく聞きます。このあるあるが書名になっているというのがまず嬉しいところです。

ただその逆に、 僕自身は社会人の中ではまあまあ本を読んでいる方ではないか? という気持ちもあります。以前のブログにも書きましたが、大学院生の時より、よっぽど社会人になってからの方が本が読めています。これはどのように説明されるのか? というのも気になりました。

一つ思っていたのは、働き始めると本が読めなくなるのは「仕事と読書で、あまりに脳の動かし方が似すぎているからではないか」ということです。僕は事務系の仕事をやっていますが、日々メールを読んだり書類を解読したりして、とにかく情報処理することに追われています。で、仕事終わりに読書をしようにも、既に仕事で脳の処理野がイカれてダメになってしまっているので、今日は1ページも読めないなという日が多々あります。仕事をすると本が読めなくなっているのは、仕事と読書がタスクとして似すぎているからと感じていました。

で、本書についても、前にちょっと紹介したデイヴィッド・J・リンデン『快感回路』のように、脳科学や心理学の話なのかなーと思っていました。ただ実際のところは、それとはだいぶ毛色の違う内容です。では内容を紹介していきます。

内容紹介

本書は「なぜ現代人は、働き始めると本が読めなくなるのか」という問いに、労働の歴史や就労観という視点から切り込んでいます。

皆さん、映画「花束みたいな恋をした」はもうご覧になっていますでしょうか。

hana-koi.jp

まあ僕は観ていないんですが....... 「そろそろ観る」と言い続けて3年弱になります。

で、本書ではまず、「花束みたいな恋をした」の登場人物(麦)がフォーカスされます。この映画では、サブカルを愛し読書を愛したはずの青年が、社会人になってどんどん「本が読めなくなっていく」様子が描かれています。この描写に共感を覚えた人は結構多いのだとか。そして筆者もここに問題意識を据えます。すなわち、「現代人が読書と労働を両立させるにはどうすればよいか?」「働きながら本が読める社会にするにはどうればよいか?」という問題に取り組んでいきます。

その際のアプローチとしては、歴史社会学的な手法が採られます。というのも、読書と労働との関係についてはすでに明治時代から議論がありました。ので、そこから遡って日本の労働観を見ていくという感じですね。

目次を見ると、第1章が明治時代、第2章が大正時代、第3章が戦前・戦中、第4章が1950年代~60年代ときて、第5章以降はそこから10年刻みなります。5章が1970年代で、その後の6・7・8章が80s, 90s, 00s,と進んで、最後の第9章が2010年代になります。かなり細かく時代を区切っているのがわかりますね。

そしてその時代において「どのような本が読まれていたか」が注目されます。例えば1970年代では、司馬遼太郎歴史小説がヒットしていました。そのヒット本から当時の時代精神や労働観を読み解いていきます。例えばこの1970年代であれば、「当時のサラリーマンは、司馬作品の戦国武将や明治の軍人たちの在り方に、自分の組織論や仕事論を投影していた」(Kindle版 p106)といったことが言われています。まあこれはあくまで一例ですが。

で、このような時代考証を明治から現代まで遡っていくことによって、一体どんなことが見えてくるのかというのは、是非本書を読んでいただいてということで.......(ぶっちゃけうまくまとめる自信が全くない)。一応、ここまでの話がいい感じにまとまっている箇所があったので、ちょっと長いけど引用しておきます。これさえ読めばこの本の流れがわかるはず。

本書は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」というタイトルを冠している。

普通に考えれば、長時間労働によって本を読む「時間」を奪われたのだという結論に至る。だが第一章では、それにしては日本人はずっと長時間労働を課されてきており、現代にはじまったことではない、と指摘した。

序章で引用した映画『花束みたいな恋をした』の麦は、長時間労働に追われるなかで、「パズドラ」はできても「読書」はできない。「パズドラ」をする時間はある。でも「読書」はできない。ここにある溝とは何なのかを知りたくて、私は近現代日本の読書と労働の歴史を追いかけてきた。

戦後、本が売れていた。とくに戦後の好景気からバブル経済に至るまで、人口増加にともない本は売れていたし、読まれていた。しかし1990年代後半以降、とくに2000年代に至ってからの書籍購入額は明らかに落ちている(第六章〈本をみんな読んでいた?〉参照)。

しかし一方で、自己啓発書の市場は伸びている。(Kindle版 p137, 強調は引用者)

引用箇所の最後で自己啓発書の話が出てきました。この引用は第7章からですが、本書では7~9章あたりにかけて、「なぜ働くと本が読めなくなるのに、自己啓発書は読めるのか?」という問題も追いかけていきます。「花束みたいな恋をした」の主人公も、以前読んでいたような本への興味をなくした代わりに、自己啓発本に関しては読めていたそうです。これは一体なぜなのか??

これについて本書の内容を紹介しますと、筆者はこのことについてノイズの有無という考え方を持ち出します。この「ノイズ」というのが本書において非常に重要な概念です。著者曰く、働くと本が読めなくなるのに、他方で自己啓発書は読めるのは、本はノイズに満ちているのに、自己啓発書はそれが取り除かれているからとなります。

そもそもノイズとは何なのか? という点については、「ノイズ=歴史や他作品の文脈・想定していない展開」と書かれています(Kindle版 p174)。例えば自己啓発本の世界では、物事が上手くいかないのは自分自身のせいだとか、成功する人は自分で努力しているだとか、あらゆることが個人や自助努力の話に還元されがちです。そして、自分を離れた「社会」というものはそこでは触れられません(と筆者は見ています)。この「社会」というものこそ、筆者が言うところの他者の文脈・自分から離れたところにあるもの、つまり「ノイズ」であるとされます。

忙しい社会人は、ノイズの摂取をよしとしません。自分に関係のある、無駄のない情報だけを好みます。自分でコントロールできない事象はノイズとして切り捨てます。だからこそ、「社会」という文脈を切り離した自己啓発本は、忙しい社会人でも手に取れるのだと、筆者はそのように分析しています。

①読書――ノイズ込みの知を得る

②情報――ノイズ抜きの知を得る

Kindle版 p174)

本書ではこのように、「読書」と「情報」が区別されたうえで、自己啓発本は、あくまで「情報」を摂取するものだ、ということが言われます。そして読書という行為について、次のように述べています。

自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。

そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。

仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。(Kindle版 p183)

つまりは、本が読めない原因は、我々の「余裕の無さ」にあるとのこと。なぜ余裕がないのかと言えば、全身全霊で働き過ぎだからとなります(最終章)。

本書の最後の主張は、「全身全霊で働くのをやめよう」「むしろ、半身で働こう」となります。「全身」の対比としての「半身」が提唱されます(これ自体は上野千鶴子が言った言葉とのこと)。我々は全身をかけて働き過ぎであり、そうなると仕事に関係のないノイズまみれの情報は摂取しなくなってしまう。ただ、筆者の分析では、そもそも読書とは「ノイズ込みの知を得る」(自分から遠く離れた文脈に触れる)行為です。つまろ働きすぎとは相入れないわけですね。

ここまでの流れをまとめると、

という感じになります。

ちなみに著者が提案する「半身で働くこと」はその名の通り、仕事のことは半分、そしてもう半分で趣味や文化的活動の時間を取ろうという提案です。また、本書の最後には、働きながらも本を読むコツなどが紹介されています。興味のある人はぜひ手に取ってみてください!!

読んだ感想

本書については、いろいろと、本当に色々と思うところがあるのですが.......

まずはポジティブな感想から書くと、結論の「半身で働く」ということについては、本当によい提案だなと思いました。

僕自身、こうして週5で働きながらも読書感想が書けているのは、確実に「半身で働いているから」となります。お仕事、真面目にやっておりますが、決して全身全霊とか人生を懸けてではありません。ほどほどに定時で帰って、ほどほどに有給も取って、その反面でほどほどに真面目に働いています。仕事の勉強(財務や会計の勉強)もたまにしていますが、その情報以外をノイズと判断するとかそんなことは全然ないです。

むしろ、何かに全身全霊で取り組んでおり、全く本が読めなくなっていたのは、大学院生の頃でした。B4、M1の時とか、「研究に関係のない本」が全く読めなくなってしまいました。今でもあのときは、読書が趣味ではなくなった瞬間として記憶に残っています。

ので、僕の場合は「働いていると本が読めない」ではなく、「大学院に行くと本が読めない」ですね。もちろん研究用の本は読んでいますが、趣味の文化的な読書は一切しなくなっておりました(漫画はめちゃくちゃ読んでたけど)。

それを考えてもやはり、今の仕事は、ほどよく半身で行えているのだと思います。

ただ当然、本が読めなくなった背景には、「成果を出さなければならない」という強い焦りがありました。それは今本を読めていない人たちも同じではと思います。

で、この焦りはそのままに「いや半身で働けばいいんだよ〜」と言うだけでは何も解決しないなーとは感じます。著者は意外と、「まずやってみよ? やってみたらうまくいくかもしれんから」などと言いそうですが(偏見)、この辺は本当にどうするべきなんでしょうね。

別に我々、のんびり気楽に過ごしていても生きていけるというわけではなくて、院生なら研究して論文を書き上げなければならないし、社会人にも多くのタスクが溜まっていると思います。「やるべきこと」が常にある状態ですね。で、中には「全然関係ない本を読んでいたら、本業の方でも着想が得られた」という方もいそうですが、大体の場合は「いや今読まなきゃならん本が山積みなのに関係ねえ本なんて読んでられんよ」という状態だと思います。それをほどよく両立させている人間が超人なのであって...... そこを標準としてはならないとも感じます。

当然ですが、心の余裕があるからこそ関係のないこともできるのであって、関係のないことをし始めれば心に余裕が生まれるわけではないということは、一応気を付けなければならないとは思いました。

........で、ここからは、本書に対して批判的な内容となります。先入観を持たないためにも、まだ読んでない人は読んでからの方がいいかもしれません!!

読みました? もう本書読みましたね? 読んだということで、もう少し率直な感想を書いていきます。

この本、個人的にはかなりうーー ーん........という感じでした。今回で読書記録は6回目となりますが、過去に挙げた本がどれも☆4~5つだとすると、今回は☆3いくかどうかというところです。それぐらいイマイチだったというか、なんというか、最近の左寄りの論者の問題点がギュッと詰まった一冊だと感じました。批判等も覚悟の上で、そうした感想を書いていきます。

分析の進め方が.......

まず、分析がかなりガバガバに感じました。「新書なんてそんなもんだろ」という反論は最後に取り上げるのでここではひとまず置いておいて...... 僕は日本現代史や労働史の専門家ではないので、むしろ勉強させてもらうつもりで読んでいたのですが、素人目にも「これは話半分で読んだ方がいいな......」と感じました。

どういうところが不満であるかというと、主に本書の論じ方のスタイルについてです。本書を読んでいてとにかく感じたのが、自説と異なる見解・事例をほとんど取り上げないということです。

説得的な文章の多くは次のようなスタイルを採っていると思います。すなわち、まず事例を集め、そこから仮説を展開した後、その仮説を補強するためにあえてその仮説に合わない事例を取り上げるという流れです(あるいは同じ事例からも別の主張ができるかもしれないとして別説を展開する)。時には自説の修正を強いられるかもしれません。ただ、そうしたことを積み重ねて、多角的な批判にも応えられる主張を練り上げていくのだと思います。

そこについて本書を見てみると、次のようなパターンが目立ちます。すなわち、まず何らかの特徴的な事例を取り上げて(この時代には○○が流行っていたなど)、次に自説を展開し(ここから、この時代には△△という思想が根付いていたと言えるなど)、その後、もう一度自説と合致する事例が取り上げられます。反例を取り上げたり、あえて自説と別の見解を取り上げたりといったことがほとんどありません。それがあれば「確かにそういうことも言えるな」と、読者としても続きの展開に期待できるんですが、本書では、「そう考えると、Aがこの時代に生じたのも無関係ではないだろう」とか、「Bという社会学者も同じことを言っている」とか、とにかく自分の主張への反省というもの無しに話が進みます。

そうなると、個人的には、事例を分析した結果として筆者の主張があるのではなく、あらかじめ筆者の言いたいことがあって、それを補うための事例をピックアップしているという印象を受けてしまいます。特に時代分析ともなれば、どの事例をピックアップするかは恣意的になりがちです。そんな中で、自説と異なる事例が全く触れられず、むしろ親和的な例ばかり挙げられて、「この事例もそのように説明できる」「誰々も同じような話をしている」と続くのは、正直、言いたいことだけ言ってんな〜〜〜と強く感じてしまいます。具体例については、長くなってしまったので註を辿ってもらえればと幸いです[*1](#f-690e1971 "一例として、第6章の議論を取り上げます。第6章では「『コミュ力』の時代到来」と題した節があり、ここで「BIG tomorrow」という雑誌が流行ったことが取り上げられます。1980年代に流行ったBIG tomorrowは、主に「職場の処世術」と「女性にモテる術」の2つを教えてくれる、男性にとって即物的で実用的な雑誌でした。で、これまでの分析で筆者は、70年代には学歴が重視されていたことを指摘しています。しかし80年代には、こうした教養的ではない雑誌が流行りました。なぜなのか? 筆者が言うには「答えは簡単で、サラリーマンの間で『学歴よりも処世術のほうが大切である』という価値観が広まったからだ」(kindle版 p114)とのこと。なぜ学歴より処世術の方が大事であるかと言えば、80年代に入ると大卒者が増えてきた影響で、入社段階の学歴よりも、入社後のコミュニケーション能力こそが命運を分けると考えられたからだとか。 そこから筆者は、「労働に必要なのは、教養ではなく、コミュニケーション能力である。——当時のサラリーマンがおそらく最も読んでいたであろう「BIGtomorrow」のコンセプトからは、そのような当時の思想が透けて見える」(Kindle版 p115)と言っているのですが、これが反例に着目しない例の一つ目ですね。正直なところ、雑誌一つ取ってそこまで言う? と思ってしまいます。もう少しそれに合致しない例もあるのではないかと。 ただ、筆者は、この事例一つのみで話を進めるわけではありません(早とちりで済みませんでした)。次に、同じ時代のベストセラー文芸に着目します。ここはまるっと引用します。

このような補助線を引くと、1980年代のベストセラー文芸――『窓ぎわのトットちゃん』が500万部超、『ノルウェイの森』が350万部超、『サラダ記念日』が200万部超――という華麗なる発行部数にも、ある種の合点がいく。というのもこの3作品、どれも一人称視点の物語なのだ。 [中略]つまりこの3作品、どれも「僕」や「私」の物語なのである(Kindle版 p115) 

1980年代、つまり10年の間にヒットした3作品を挙げて、「どれも一人称視点の物語なのだ」と言っているのですが、ここは正直、3作品だけならそういうこともあるだろと感じました。ここで、「とはいえ、この時代には○○もヒットしていて、必ずしもそうとは言えないのだが......」とかがあれば別なんですが、本書全体を通じてそういうことはほぼ無いです。そして、上記の事例から、次のように続きます。

そう、70年代と比較して、80年代は急速に「自分」の物語が増える。そしてそれが売れる。これは当時、コミュニケーションの問題が最も重要視されていたからではないか。(Kindle版 p116-117) 

この辺りの流れが、先ほどから書いている「自説の反証を取り上げない」「自説を補強する話ばかり取り上げる」といったところです。自己批判が本当にないんですよね。だいぶ長々と書きましたが、批判をするからにはちゃんと証拠を挙げなきゃと思い、このようになった次第です......")

ついでに言うと、先行研究への批判もほぼ無いですね。先行研究が引用されるときは、筆者もその意見に共感していそうな場合が多いです。そして、それが本当に妥当であるのかや、何かしらの反論が挙げられていないかなどがほとんど気にされません*2。これもかなり不満で、先行研究を聖典のように使うなと思ってしまいます。むしろその妥当性や有効性に疑問を投げかけて、彼ら・彼女らの研究を批判し、自分の手で前に進めるようなことをやってほしいなと感じます。「誰々もこう言っている」と、無批判に引用するのではなくて。

で、この問題は正直、『映画を早送りにする人たち』『ファスト教養』を読んだ時にも感じました。3つとも、自説や先行研究への批判をほとんど行わず、とにかく話が一本調子で進むんですよね。スタイルが結構似ていると思います。文章としては、非常に流麗というか、流れるような展開でスルスルと読めるんですが、逆に突っかかりや障害がなさ過ぎて、「いやほんとにそうなのか??」と度々感じてしまいます。そんなわけで、「近頃の左寄りの論者の問題がギュッと詰まっている」ということを最初に書いた次第です。

用語の定義も......

「近頃の左寄りの論者の問題」でいうと、用語の使用法にもいくらか気になるところが...... 本書で頻出するワードに、「階級」そして「格差」そして「新自由主義」があります。いかにも近頃の左派論者が好きそうなワードですね。本書では特に「階級」という言葉がよく出てくるのですが、これがほとんど定義がされず便利に使われすぎだと感じました。労働者階級、エリート階級という言葉が頻出し、「自己啓発書は読者の社会的階級を無効化する」とか、果ては「モテの階級」ということも言われるんですが、なんのことだかもう少し説明してほしいなと感じます。単なる年収を指しているわけではなさそうなんですが、じゃあそこでいう階級って何で測られているの? 本当に実態ある? というところが、ふんわりと使われすぎに思いました(ただ、新自由主義についてはp167でそれなりに説明されていて、そこはよかったです)。

極めつけは「ノイズ」ですね。内容紹介でも書いたとおり、本書では、「ノイズがある=読書」、「ノイズが剥ぎ取られている=情報」と分類されます。かつ、自己啓発書やインターネットについては、「ノイズが剥ぎ取られている(情報である)」ことが指摘されています。そう考えると、「自己啓発書を読む=読書ではない」ということになりそうですが、本当かよと思います。あまりにも定義が曖昧であるか、自己啓発書を舐めすぎかのどちらかと感じます。本書の中心的問いであった、「社会人は読書ができないと言われているが、自己啓発書は読まれている」ということへの回答が、「自己啓発書は読書ではない」となるのは、正直おいおいおいと思ったところでした*3

それと、反例を取り上げないという話にも通じますが、現代の自己啓発書について、どんな本が売れているかとかがあまり紹介されないんですよね。僕のイメージでは『FACTFULNESS』とか、全く面白くはなかったけど社会的問題に触れている自己啓発書も売れているかなという感じなんですが、どうなんでしょう?

試しに自己啓発書の売れ筋ランキングを調べてみようと、ブックウォーカーというサイトを訪れたところ、

本書が一位でした自己啓発書とは何なのか、改めて定義を考えることも大事かもしれませんね。

お気持ちの表明が先行

「お気持ち」という言葉、本当は好きじゃないんですが、今回は使います.......

本書の分析・考証パートは、上記の理由で、あまり説得力や納得感を得られませんでした。

ただ、感想の冒頭でも書いたように、本書の主張である「全身全霊で働くのをやめよう」「半身で働こう」については、よい提案だなと感じたのも事実です。

とはいえ、共感は覚えるのですが、あまりにお気持ちの表明が先行しすぎだとも感じました。この辺りの「半身」に関する主張は、主に第9章・最終章で行われるのですが、ここに来ると途端に改行が増えるのが特徴的です。

大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。

仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。

仕事以外の文脈を思い出すこと。

そのノイズを、受け入れること。

それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。(p181-182)

こんな具合の文章がしばらく続くのですが、急にふんわりエッセイみたいな文体にしだすのやめてほしいなと思いました。note読んでるんじゃないんだから......と。締めだけならまだしも、ほぼ2章分です。何か主張があるのなら、具体的に何を改善すればそれが実現するかとか、どういうところから制度改革を始めるべきだとか、ゆるふわ文体で凌ぐのではなく、もう少し最後まで粘ってほしかったなと思います。

ここも最近の左派論者の弱さを感じるところで、現代の問題を論じるという時に、新自由主義への批判をお気持ち的に表明しすぎなんですよね。これは自分の見解に親和的な人たちにはウケるかもしれないけど、本当に自己責任論を信奉する人間に対しては、全く説得的な議論になってないと思います(上の引用とかほぼ根性論だし......)。例えばですが、本当に経済成長は追わなくてよいのかとか、何らかの合理性があったからこそ新自由主義が台頭したのではないかとか、衰退を続けるこの国で焦りを抱かなくてよいのかという点は、もう少し具体的に論じて欲しいと感じました。

新書に何を求めるか

色々書きましたが正直なところ、これは新書に何を求めるかという問題でもあると思います。僕自身は、そういう左派のお気持ち表明はネットでいくらでも読めるのだから、新書では分析や論証を中心にしてほしいと感じています。ただ、これはかなり個人差があるとも思うので、次回「新書論」でも書いて、たくさん思うことを述べたいと思います。

ただ、やはり気になるのは、本書に本当に「ノイズ」があったのかということです。どうにも本書では、著者と異なる見解がほとんど紹介されておらず、新自由主義批判など左派論者にとって聞き慣れた話も並ぶため、言いたいことを言ってるなーというか、著者やそれに親和的な人たちにとっては「読書=自分から遠く離れた文脈に触れること」が起こらないのではないかなど、そういうことを感じました。逆に言えば、我々からすれば自己啓発書は「ノイズ」だらけかもしれませんね。実際未知の世界だし。

僕自身、読書をするときには確かに未知=自分から離れたところにあるものを求めますが、もちろんそれだけではないです。実用的な知識を重視することもあるし、単に笑いや刺激がほしい場合もあります。その点でいうと、本書はちょっと読書を神格化し過ぎという点も気になりました。「〈読書的人文知〉には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している」(p156)といったことも書かれるんですが、あまりに読書の格を上げようとし過ぎていて、ちょっと怖いです。もちろん、読書に限らず「文化的趣味一般」の話なのだと最初に前置きされてはいるのですが、本編での話を読書に絞っている分、読書の多様性が失われていないかも心配でした。

で、僕個人としては、新書であろうとある程度は「しっかり論じる」ことを求めてしまいますが、その点は様々だと思います。むしろ、「我々は読書に何を求めるのか?」という点を、もっと争点にしていってよいのかもしれません。著者のようにやや崇高な理念を掲げてもよいし、単なる暇つぶしでもよいし、「売れてる新書を読んでもの申す老害修士卒の回」というクソ記事を書くためでもよいかもしれません(それはダメか)。本書は「読書」について扱った新書でありながら、やや「読書」の範囲を狭めるような見解も見えたので、最後にそのことを指摘しておきたかったという次第です。

終わり!!!!!

終わりです。

と言うわけで今回は、読書記録第6回でした。

この本、結構人気だし、著者も有名な方なので、批判的なことを書くことには正直かなりの勇気が要りました。25日振りの更新となったのは、この勇気が湧かなかったことが原因だと思っていただけると幸いです。ただまあ、ブログで自分の感想を書くのは自由だろうと、こうして一本書き切きったところです。著作権違反や事実誤認など、重大な問題がある際は遠慮無くご指摘ください。

あと、タイトルに惹かれたという方も、ぜひ遠慮をせずに読んでみてください。自分の感想を持つことが何より大事だ!!!!!!

次回は、「不正」についての本を扱う予定です。僕自身、仕事がら常に「不正」との闘いですが、この闘いは結構過酷です。それでは次回もよろしくお願いします。あしたのあなたがエネルギーで幸せになりますよに。合い言葉は、ハピエネ!!!!

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最近ハマっててよく見ています。

この度、私事ではございますが、お風呂の読書で使っているKindle PaperWhiteが2台ともぶっ壊れました。

1台は無限に再起動(アップデート?)を繰り返しており、もう一台は木の画面のままピクリとも動きません。1台目がたまにこの状態になるため、2台目を買いつつ両方使っていたわけですが、この度無事にどちらも死亡しました。

防水とはいえ、お風呂でずっと使っているのがよくないらしいです。使った後は浴室にそのまま放置するのではなく、よく拭いたうえで乾かしとかなければなのだとか(当たり前か)。 僕はこれでKindleを3台破壊していますが、ようやく「風呂に放置するのはダメ」と気付きました。遅すぎる。

そんなわけで、最近あまり風呂読書が出来ていないのですが、先日読み終えた本を紹介したいと思います。

嫉妬論~民主社会に渦巻く情念を解剖する~ (光文社新書)

山本圭『嫉妬論』(2024,光文社新書)

今年の2月に出た新書、『嫉妬論』です。ポケモンXYカロス地方ミアレシティのジムリーダーは?(それはシトロン)。くだらないことは言ってないで、いつも通りやっていきます。

あと先に断っておくと、タイトル詐欺というか、**ハガレンの話は別にしていないです**。ほんとすみません(今回マジでタイトルが思い浮かばなくて......)。

読んだきっかけ

あまりちゃんと書いたことはないような気がするんですが、私、名古屋大学を卒業しております。牡丹亭で学生セットを頼むとか、名大おじさんがいなくなってしまったとか、名大生あるあるもちゃんと言えます。専門は法学系だったわけですが、政治学の院ゼミにも顔を出したりしておりました。もう5年ぐらい前になります。

で、本書の著者である山本圭さんも名古屋大学で博士を取っているということで、なんとなく、かねてより一方的に親近感を覚えておりました。政治学や哲学系の授業で名前を聞いたりもしていたので。そしてこの度新書が出たので、読んでみようと思った次第です。

もうひとつ、最近政治哲学の議論から離れがちだったので、この機にもう一回摂取しておこうと思ったのがあります。社会人になってからも読書は続けてるけど、こういう学部時代の専門の分野はあまり読まず、どちらかというと雑学・教養系の本を読みがちです。ので、改めて政治哲学の話に触れることで、どんなノスタルジーが生まれるかというのが気になっていたところでした (3月に読み終えたのでそのときは意識していなかったが、ちょうど今は都知事選がありタイムリーですね)。

内容紹介

早速内容紹介ですが、本書は「嫉妬」について扱った本です。ただし、嫉妬するのをやめようとか、そういう自己啓発系の本ではなく、「我々の嫉妬感情というものが、この社会や政治にどのような影響を与えているか?」についてを論じています。社会学政治学系の本です。

著者はまず、嫉妬という感情が隠蔽されがちなことを指摘しております。我々は普通、他者に対して「怒っている」とか「許せない」ということは口にしますが、「私は○○さんに嫉妬しています」とはなかなか言いません。言うとしてもよい意味で「羨望」的なニュアンスだろうし、「俺は○○が嫉ましいのでこうやって批判しています」ということを明言する人はいないはず。一応本文から引用。

私たちは嫉妬の存在を容易には認めようとしない。誰かの成功に妬んでいたとしても、「あいつは大したことない」といったように、その価値を否定することで自分を慰めることも多い。そのためこの感情は、たとえば怒りや悲しみといった感情に比べると、ストレートには表に現れにくい。それはたいていの場合、自らを偽装する。

山本 圭. 嫉妬論~民主社会に渦巻く情念を解剖する~ (光文社新書) (pp.37-38). Kindle 版. 太字は引用者。

そんなわけで、嫉妬は表に出されないので、これを主題として扱うことは結構難しいわけです。

ただ、本書はあえてそこに挑んでおります。これも続けて引用します(上の文章の続きです)。

そのためだろうか、現実の政治分析において、嫉妬が主題化されることはあまりない。だとすると、この感情にはどのような特徴があり、それが人々の判断や評価にどれほどの影響を与えているのか、あるいはもっと広く、嫉妬が持つ政治的な意味合いについて、私たちはあまり理解してこなかったのではないだろうか。本書が目指したいのは、この感情の秘密を心の暗部から引きずり出し、そこに光を当てることである――たとえその作業がときに苦痛に満ちたものだとしても。(Kindle版,p38、太字は引用者)

このように、「今まで正面から取り上げられてこなかった『嫉妬』という感情を、政治的な文脈できちんと扱う」というところが、本書の一番の特徴であるかと思います。本書でも言われている通り、我々は嫉妬という感情を、他人に対してだけでなく、自らに対しても隠しがちです。嫉妬していることを自ら認めるのは大変悔しいことであるため(ここはハガレンのエンヴィーの最後みたいですね)。ただ、我々の社会に嫉妬心が渦巻いているのは事実であるため、まず嫉妬とは何なのか、それが現実にどう影響しているか、そして我々はそれとどう付き合っていくべきか..... というのが本書の内容となっています。

もう少し具体的には、第1章が嫉妬の概念分析、第2章が「嫉妬の思想史」、第3章は嫉妬と「誇示・自慢」の関係について、第4章・第5章が嫉妬と民主主義(政治理論)との関係について、となっています。第1章は導入のようなものだけど、第2章はプラトンプルタルコス、カント、ヒューム、ルソー、福沢諭吉など、過去から現代に至るまでの多様な思想家を扱っていて、まさに「嫉妬思想の系譜図」が見て取れます。第3章ではSNSなどの話もしているため、より今日的な問題を知りたい人にはここが刺さるかも。4章・5章は著者の政治哲学上の見解が現れており、まさに嫉妬と民主主義の関係が論じられます。

著者の結論を大雑把に言えば、「この社会から嫉妬をなくすことはできないし、むしろそれとうまく付き合っていく方法を探す方が有意義だぜ」という感じ。我々は、嫉妬するときは苦しいし、他人から嫉妬を向けられるのも結構嫌です。そのため、嫉妬なんて無い方がよいと思いがちですが、著者の見解はそうではなく、まず、嫉妬をなくすのが「無理」とのこと。その理由というのは、「嫉妬というのは他者との差異に気付くことから生まれるが、この現代民主主義社会で、他者との差異をゼロにすることなどできないから」となります。これも引用しておきます。

嫉妬は等しい者同士のあいだに生じるものだが、同時にそこには最小限の違いが求められることに注意しよう。つまり、嫉妬は平等と差異の絶妙なバランスのうえに成立する感情なのである。そしてほかならぬ平等と差異こそ、私たちの民主主義に不可欠な構成要素であるとすれば、嫉妬が民主的な社会において不可避であることが理解できる。(Kindle版, p221、太字は引用者)

続けて著者はこうも述べます。「嫉妬のない社会とは、人々のあいだに差異のない完全に同質的な社会であるか、絶対的な差異のもとでいっさいの比較を許さない前近代的な社会であるかのいずれかであろう」と(Kindle版, p221)。つまりは、前近代的な社会では、身分差が固定されており、平等というものがまるで無かったが、その分、平民が貴族に「嫉妬」するようなこともなかったわけです。まるで階級が違いすぎると、逆に嫉妬は生じないと。「あいつと俺は同じはずなのに、なぜこうも違うのか......」というのが嫉妬の根本に存在する感情であり、そこでは「ある程度の平等」というものが条件となっています。

で、この「あいつと俺は同じ人間だ」というのを強く打ち出したのが、民主主義というものでした。我々はみんな平等であるからこそ、絶対の支配者というものを置かずに、絶えず自分たちで反省を繰り返しながらやっていこうと。ただ、「平等」と言っても完全に誰しも同じというわけではなく、現実には様々な「差異」が存在しています。この差異というものも、民主主義にとっては重要な要素です。そのため、平等と差異が民主主義の条件である以上、「嫉妬と民主主義は切っても切り離せない」と著者は考えます。逆に、嫉妬を敵視しそれを無くそうとするような政治理論に対しての批判も述べられています(批判対象としてはヌスバウムなど)。

内容紹介としてはだいたいこんな感じです。最後に、じゃあ僕たちは嫉妬とどう付き合っていけばいいの? というところについては、是非本書を読んでご確認をということで....... 嫉妬についての思想的・社会的・政治的分析がたくさん詰まっており、また、ある意味「政治学入門」的な要素も含む一冊で、おすすめです!!

読んだ感想

まず正直なところ、この本、めちゃくちゃ面白かったです。まさに「新書の楽しみここにあり」という感じでした。専門家が自身の研究内容を、ちょっとキャッチーな話題で分かりやすく初学者に伝えるということが、非常に効果的になされていたと思います。文書も読みやすく、内容が専門的な割にはスラスラと読めました。

個人的には、2章・3章辺りの内容が特に面白かったです。2章・3章は、過去→現在という時間軸で嫉妬に関する思想の変遷を追っていて、登場人物やトピックは多いのだけれど、どれも説明が簡潔でよかったです。思想の系譜なんかは、ともすれば学説の列挙になりそうなところを、ちゃんと読みやすい一本の流れを作っているのはすごいなと思いました。

逆に、4章は個人的にはちょっとイマイチでした。内容としてはロールズ批判になっているのですが、ちょっと批判としては弱いかな〜〜と感じたところ。話の筋としては「ロールズは格差を減少することで嫉妬が抑えられる言ってるが、むしろ格差を縮めると、嫉妬が蔓延し手に負えない社会になりかねない」という感じなんですが、個人的には、「格差が縮まることで弱められる嫉妬もあるだろうし(同期のボーナスが自分より20万多いよりは当然5万しか差がない方が我慢できる)、そもそも格差の減少は、嫉妬以上に大切な何かを解決しているのではないか?」などと思ったところです。第1章では「よい嫉妬」「悪い嫉妬」などの話も出てくるのですが、それがここではあまり活かされていないように感じました。この辺は反論もあるかと思いますが、一応感想として書いておく次第です。

「どう見えるか」と「実際にどうであるか」

で、本書の感想はいくつかあるのですが、正直どれもうまくまとまってはおらず、書いても面白くないだろうな〜〜〜と思っているところ。3月に読み終わってたくせにここまで感想書くのが遅れたのはそれが原因ですね、、、ちょっと微妙な感想ばかりになるのですが、一応書いておきます。

本書の感想は諸々あるのですが、一つに個人的に以前から気になっている問題、すなわち、どう見えるかと実際にどうであるかの問題というのがあります。

この記事の最初の方で、「嫉妬の感情は隠されやすい」ということに触れました。本人が実際は嫉妬心を行動原理としていたとしても、それを表立っては言わないし、なんなら自分自身でも認めようとしないので、「本当に嫉妬感情が原因なのか?」というのがよくわからないという話です。

これは裏を返せば、相手の言動に対して、「ただ嫉妬してるだけだろ?」とも言いやすいということだと思います。そういう煽り、よくありますよね。相手がそれを認めたがらなければ「誰だって嫉妬を認めたくはないもんな」と言い返せるし、とりあえずと言っておけばいい感があるので、批判や中傷の手段としてもお手軽です。当然、相手を矮小化した言葉なので、真摯にその人と向き合ってる限りは出てこなさそうですが、まあネットでも現実でもよく目にする論法です。

で、本書でも度々、「これこれの社会制度は、実は人々の嫉妬心に結びついている」ということが言われます。例えば累進課税制など。あれは富める者から多く取る制度なので、人々の嫉妬心をある程度利用していると。また筆者は、古代アテネで取られていた「陶片追放」も、人々の嫉妬心に基づいていたと言います。そうしたところから、民主主義と嫉妬の切り離せ無さを主張したりもしています。他にはコロナ禍の自粛警察なども挙げられています。

ただ、別に本書への批判というわけではないのですが、この点は本当に慎重であるべきだなと感じました。つまりは、一見すると嫉妬が原動力に「見える」ことでも、「実際にどうであるか」という点については、我々はもっと想像力を働かせられるだろうということです。嫉妬も確かに、その行動の原因の一つとしてあるかもしれないが、それ以上に不正を許さない心や憤りがあるかもしれない。その人の感情の一部でしかないものを、まるで「それが全部」であるかのように見なすのは、本当によくないな〜〜と思います。嫉妬してるだけだろ? と言うのがあまりに簡単すぎることもあり、そう「見える」ことと「そうである」ことを混在させてはならないと強く思います。

そんなわけで、感想としては微妙なんですが、ともかく「相手の感情を一方的に決めるのはやめよう」ということを、改めて思った次第でした。

ちなみに、どう見えるか(how it looks)とどうであるか(how it is)は違うというのは、映画『スーパー!』を観たときに出てきたセリフです。この映画、僕は非常に好きなので観るものを探しているという方は是非。

この映画も、「一見嫉妬心に狂っているように見えて、実は正義の心があった」という話かもしれないですね。

ヘイト管理は重要だ!!

もう一つ、本書の感想として、やっぱりヘイト管理は大事だなと思ったのがあります。現代人にとって最も重要なのはこのヘイト管理かもしれませんね。

本書の第三章は、嫉妬と「誇示・自慢」との関係となっています。これがどういう関係かというと、昔の人は、他人から嫉妬されるのを避けるために「誇示・自慢」を控えていた(あるいは上手にやっていた)という話が挙げられています。例えば大昔、狩猟でマンモスを仕留めた若者は、そのことを皆に自慢するのではなく、むしろ謙虚に振る舞うようにしていたとのこと。あまりに功績を上げすぎると、他人の嫉妬によって引きずり下ろされるリスクが高まるので、あえて自身の分け前を少なくしたり、功績自体を隠蔽したりしてリスク管理するということですね。

で、面白いのが、著者の見方によれば、現代のSNS社会ではそうではないとのこと。引用すると、

かつて「持つ者」は「持たざる者」からの嫉妬を恐れ、富や成功を隠す傾向にあったが、**ソーシャルメディアの時代にあって人々は自身の幸福をもはや隠そうとはしない。**それどころか、自身の幸福を過剰に繕い、実態以上に見せることすらある。(Kindle版, p153)

ここは本当に、「たし蟹」と思ったところでした。特にインスタが顕著かと思いますが(というのは時代遅れおじさんの偏見ですか.....)、我々は自身の充実振りを臆面もなくアピールしたりしていますね。Youtubeでも「セレブの日常」や「ラブラブカップルのいちゃつき」なんかがちゃんとウケているし。まあ本当は皆、チャンスがあれば殺したいと思いながら観ているのかもしれませんが.......

で、結局ウケている人間というのはヘイト管理がうまいんだという話もよく耳にします。僕もブログをやっていて、実は一番怖いのが炎上です(次に身バレ。身バレして炎上したら本当に終わり)。で、炎上回避のコツとして、当然不正や差別に加担しないことがあるけれど、同時に嫉妬をうまく管理するということがあるかと思います。つまりは、人の目を引くコンテンツでありながら、オチとして自虐や失敗を入れるなどして、妬みを向けられないようにうまくコントロールするということですね。

先ほどの話でもあった通り、著者の見解としては「この社会から嫉妬はなくせないし、なくそうとするとさらなる不都合が生じる」というものでした。だからといって当然、嫉妬が奨励されたり全肯定されたりするというわけでもありませんが、ただ嫉妬が不可避なものだとしたら、我々の「ヘイト管理」こそが重要になるのかもしれません(自己防衛)。そんな社会は窮屈で嫌だ!! とは思いますが、一方で、それこそ我々が身につけるべき慎ましさや処世術なのかもしれない、とも感じます。格差というものは確かにこの社会に存在するので、自身の幸せのみを誇示するのではなく、「それを見た人々が何を感じるか」というのを考えるのも大切というか。

今時こんなこと言う人もいないかなとは思います。今はむしろ、「我々には自由に発信する権利があり、そこに嫉妬を覚える人間こそが狭量である」という見解が強いはず。ただ、この点については筆者の「嫉妬のない社会など無理」という意見に僕も同意で、嫉妬がどうしても生じてしまう社会だからこそ、我々は自身の嫉妬を抑える術だけでなく、「相手の嫉妬心を煽らない方法」も模索していくべきなのではないかと感じます。それは炎上回避の自己防衛でありながら、格差や差異に敏感であるという他者への配慮も含んでいるのかもしれません、な!!!

歯切れの悪い微妙な感想でほんと申し訳ないっす!!!! あんまりまとまった感想が浮かんでこなくて、、、、

以上

今回は読書感想第5弾でした。

非常に面白い本だったのですが、なぜか感想をまとめるのが難しかったです。読んでから書くまで3ヶ月もため込んでしまった、、、あとタイトルを考えるのも難しかったです。最初にも言ったけどタイトル詐欺ですみませんでした。

僕の記事は歯切れ悪しでしたが、これぞまさに「新書の楽しみここにあり」な本なので、ぜひ読んでみてください!! 政治哲学に触れてみたいという方は特に。

今回はこんな感じです。

次回。社会人の皆さん、本、読めてますか? 読めてませんか? 読めてないとしたら、最近出たあの新書が気になっているかもしれませんね。近いうちにあれを扱います。それではそれでは。

おまけ

結局、Kindle Oasisを買いました。3万円。高い!! 大事に使います。

— あいだた (@dadadada_tatata) June 29, 2024

皆さん、東京、住んでますか? 僕は住み始めて約1年と4ヶ月になります。住む前は「人の心も枯れ果てたコンクリートジャングル」などと思っていましたが、住んでみると意外と居心地がよく、なんだかんだいい場所だなと思っています。ただしこれからの季節は地獄です。

で、2024年6月23日現在、東京都を賑わせているものがあります。もちろん**東京都知事選**ですね。僕はテレビは見ませんが、Twitterのトレンドという名の掃き溜めはわりかしチェックしています。そして、そこではいつも都知事選のニュースばかり入ってきます。住んでいる地域のトレンド的な感じで。

で、僕は本当に毎日なんかしらこの話題を見聞きしているのですが、東京に住んでいない人にとってはそこまで関心のないことかもしれません。かつ、この東京都知事選によってどんなカオスが巻き起こっているも、あまりご存じでないかもしれません。やべーことになってますよ皆さん!!

そんなわけで、今日は一東京在住者から見た都知事選の雑感となります。こういう記録を残しておくのも大切かもしれませんね。できるだけ特定の候補者を持ち上げたり貶したりということはしないつもりですが、まあ左寄りの思想の持主であることはご容赦ください。とはいえ、自分の政治的意見を出すというよりは、「マジでこの選挙、どうなるんやろな〜〜〜」という、この頃の肌感覚を記しておくのが狙いです

混沌の都知事

まずは、今の東京都に掲示されている選挙ポスターを見てみましょう。出勤時に毎朝見かけています。

まずですね、**掲示板がデカすぎですね。これは去年の文京区区長選挙の時も思いました。東京は候補者が多いようで、他のどこでも見たことのないような掲示板のデカさになっています。まずこれにビビる。これを都内の至るところに設置するコストだけでもかなりのものでは。ちなみに今回の立候補者は56人**とのことです。

そして皆さん見えていますでしょうか、一帯を占める黄色いポスターが。これが東京都知事選のカオスその1、**NHK党による掲示板ジャック**です。ここは立花氏の写真が貼られていますが、他のところにはオーケストラの広告やよく分からん宣伝画像が掲載されていたりします。

↑風俗の広告も載せて警告を受けたらしいです。

これがどういうことかというと、NHK党の立花氏が広告掲載主を募って、一人当たりいくらという金額をもらいつつ、選挙ポスターを完全に広告として利用しているという感じです。

今回の都知事選で、NHK党は関連団体を含め、24人を擁立した。「掲示板をジャックして、あなたのビジネスを広げるチャンス」と呼びかけ、寄付した人に対し、都内約1万4000か所にある掲示板のうち、1か所を選んで、自作のポスターを貼る権利を譲っている。

候補者と無関係のポスター、有料サイトに誘導のQRコード…東京都知事選挙で苦情殺到 : 読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/election/tochijisen/20240621-OYT1T50195/

そんなことしていいの?? というのが率直な感想ですが、今回の選挙中はずっとこのままかもしれません。次回からは何かしらの規制が入るんでしょうか。

また、選挙ポスターについては、ほぼ全裸の女性の写真を載せて掲載を撤回されたところがあります。これが都知事選のカオスその2ですね。

こちらの候補者の河合悠祐氏、ほぼ全裸のポスターは撤回されたのですが、依然として「一夫多妻制を導入します」と宣言するポスターは貼られており、街中で見かけるとかなりカオスです。ちなみに↑で挙げた写真では、京大の学位記を持ちながら「僕は学歴詐称してません!」と呼びかけ、小池都知事のことを意識したものとなっています。

小池都知事については、学歴詐称疑惑が連日ネットニュースで流れてくるのですが、これが東京在住者以外に(東京在住者にとっても)どれだけチェックされている(関心のある)ことなのかはよくわかってないです。

どうでもいいですが、「なぜヌードを公然と掲示してはいけないのか」というのは、法哲学的に興味深い(蓄積のある)議論と思います。公然猥褻だろ!! と怒られているわけですが、当人からしたら「その公然猥褻というのが、そもそも不当に表現の自由を制限しているんだ」という問題意識があるわけで、規制されるべき表現とは何かという問題を改めて提示していると思います。

かつ今回は「そもそも選挙の候補者を掲示するための空間に関係のないことを載せていいのか?」という問題もありそうです。この辺、サンデルなんかは「その掲示板が果たす機能や目的から考えよ」などと言いそうですが、現代リベラルの政治哲学者がどんな見解を示すかは気になります。やはり基本的には自由であるべきなんでしょうか。

そんなわけで、ここまではまぁまともに勝つ気はないだろうという候補者を取り上げてきました。今回の都知事選では「選挙を単なる売名行為に利用してよいのか」という問題意識が各所で上がっています。これについては「確かに」と思う一方で、他方今から「選挙や民主主義に求められる徳」というものをきちんと示していくことも難しそうだと感じています。投票率がここ十数年に渡り下方を続け、そのたびに選挙の大切さというものが説かれてきましたが、むしろここにきてより状況が悪くなっていないかという印象です。逆に、行くところまで行き着くことで、ここから再生されていくのでしょうか!? なぜ選挙でふざけてはいけないのか、選挙には最低限どういった徳や倫理が求められるのかというのは、きちんと考えなければならない問題だと思います。

小池 VS 蓮舫 VS 石丸?

で、次は真面目に争っている候補者についてです。

今回の都知事選、僕の元に流れてくるニュースでは、小池 vs 蓮舫になりそうと報じられています。現職の小池都知事がこのまま勝つか、勢いのある蓮舫氏がそれを上回るか。第三候補としては、安芸高田市の議会でお馴染みの石丸氏が上がっています。他だと保守系の田母神氏とか、ネット探偵を自称するYoutuberの暇空茜氏の名前をよく見かけていますが、まあ有力なのは小池・蓮舫・石丸あたりかと思います。

そしてこの3人、僕ももちろん名前は知っているのですが、掲げている政策については正直調べておりませんでした。この3人が勝つことで都政がどうなるか? というのは単純に気になりポイントです(後述するけど、政策よりも不祥事やスキャンダルの方が争点になってそうで、政策の比較とかあんまりされてない気がするんですよね)。こちら、この機に調べましたので、以下簡単にまとめておきます。

小池百合子

箇条書きでメモとして書いていきます。

蓮舫

石丸氏

どうなる!?

あくまで個人的にですが、政策面で気になるのは蓮舫>石丸>小池の順番となっています。小池都知事に関しては、現状の2期目と次の3期目で何をどう変えていくつもりなのかが気になるところ。革新的な政策よりは「安定感」の方が売りなのかもしれません。対して蓮舫・石丸は現状打破を狙っている印象で、特に蓮舫の「現役世代の手取り向上」と「都政のオープンデータ化」は実現したらすごそうだと感じています。石丸氏のIT活用なども面白そうですが、具体的に何をするんだろう.....というのがよくわかっていないです。

そして都知事選のカオスその3ですが...... ネットニュースを見ていると、こうした政策の比較よりも、互いがどれだけの不祥事やスキャンダルを持っているかというのが重視されているように見えます。小池氏は学歴詐称の信用ならん奴だとか、蓮舫二重国籍で中国に肩入れしているだとか、石丸氏は漫画オタクを詐称しているだとか(最後のはマジでよくわからん)。そして、いつの時代もそうかもしれませんが、人格やキャラクターが非常に重視されているとも感じます。ので、なんかしら都知事選の情報が入ってくると、政策の検討ではなく誰かの人格面を貶しているようなものが多いため、正直結構疲れてもいます(それ以外のニュースは、前半で取り上げたような「そんなことしていいの?」系のものが多いし)。

とはいえ、これは都知事選がカオスなのではなく、ネットがカオスなだけかもしれませんね(ある意味通常運転ですが)。大変失礼いたしました。

選挙の話題をどう語るか

最後に、選挙や投票に関してですが、去年何かの記事で有権者は負ける候補に票を入れることを好まず、投票するなら勝てる人間に入れる 傾向がある」というのを読みました。この話が大変印象に残っています(検索したが見つけられず...... 元記事知っている人いたら教えてください)。自身が票を投じた者が負けるのを「ダサい」と感じる感性と言いますか、「勝たせたい人に入れる」のではなく、「勝ちそうな人に入れる」ものとして紹介されていたと思います。本末転倒といえば本末転倒ですね。

読んだときは、匿名投票なんだからそんなの気にしなくても..... と思いましたが、今はなんとなく気持ちはわかります。自分が投票した者が結果的に敗れ、後からボロカスに言われたりすると、自分も嫌な気持ちになったり傷ついたりするので、最初から勝てるやつにしか投票しないという心理。これは確かにありそうに思います。『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』でも似たようなことが書かれていたような。

で、今は都知事選が熱いので、僕としては周囲ともできれば一度はこの話題に触れたいと思っているのですが、政治への無関心とは別として、上記心理もこれを阻害する壁としてあるように感じています。つまり自分が支持した者が負けると恥ずいので、最初から口に出さないというか。もちろん、支持者なしだったり、無用な対立を避けるために口に出さないということも全然ありますが、「負け馬に乗ったところを見られたくない」ゆえに意見表明を避けることがあるとすれば、結構現代的な問題なのかな? と思います。

ちなみに、今回の僕の選挙への見立てとしては、まあやっぱり小池氏が有力なのではという感じです。現職ということと、提示されているスキャンダルの弱さなどから、「勝ち馬」度合がやはり強いと感じます。ただ、個人的に応援しているという意味では蓮舫・石丸市長の方となります(別に小池氏が勝っても全然よいのだが、なんとなく)。特に石丸氏は、今後もっと具体的なビジョンを出してくれれば推せるのにと感じています。そんなわけで、僕も「外して恥ずかしい」などとは考えず、今の予想や支持者を書いておきたいと思った次第です。

そして今回挙げた3つのカオス、N党の掲示板ジャック、売名過激ポスター、候補者の人格面の貶し合いというのが、どこかで終息してくれれば.....と思っています。これらは現在の選挙を刺激的にしている半面、正直、疲れてきたというのがこの頃の都知事選への感想です。疲れてきている。ネットばかり見ているのがよくないですね。今こそ新聞を取った方がいいのかもしれない。

投票まであと2週間ありますが、この2週間でどんな事件が起きるか、そしてどのような結果となるか、疲労とワクワクの両方を感じるこの頃です。

以上

今日は珍しく政治の話をしてみました。あまり思想の色を濃くしないようにと思いましたが、田母神氏・暇空茜氏あたりをちゃんと紹介してない時点で左一色だとの批判は受けそうですね。その点は申し訳ないです。疲れていまして、、、、

ただ、こうして目下の選挙に触れている自分を「立派だな」とも感じています(偉いぞ!!)。とかく我々は、政治的意見を表立って表明しない割に、他人のことはひそかに馬鹿にしがちだと思います(あいつは○○を支持してるらしいぞとか)。よくないな!!!! 健全な心を心がけていきたいところです。

特に非東京在住の人に、この頃の都知事選の温度感を知ってもらいたいというのが今日の狙いでした。東京は日々カオスですが、総合的にはいい街です。皆さんもぜひ、この機に東京を訪れて、クソデカ選挙掲示板を目にしてみたりしてください。それでは。

~エンディングソング「カオスが極まる」~

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— あいだた (@dadadada_tatata) June 23, 2024

ども!! 梅雨の足音が近づく今日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。じわじわと暑い。夏の到来を感じますね。


あじさいが咲いてますよ。

僕は結構梅雨が好きです(唐突な告白)。じめじめして嫌だという人も多いですが、初夏を感じられてよいんですよね。皆さんもスピッツの「あじさい通り」なんかを聴くようにしてください。

さて今日は、この頃頑張っていることなどについてです。この頃、地味に勉強を頑張っています。皆さん、勉強、してますか? 僕は現在社会人2年目ですが、社会人で「勉強」を頑張っている人はそう多くないのではないでしょうか。つまり僕は偉い。

ちなみに勉強というのは、英語やビジネススキルや資格勉強のことではないです。仕事の役に立つからやっていることではなく、もっとこう、単に「知りたいことがあるから学んでいる」ということになります。その意味では、勉強と言うより「探究」と呼んだ方がいいかもしれませんね(恥ずかしいから呼びませんが)。仕事と関係がないわけではないんだけれど、仕事のためにやっているのではなく、あくまで自身の好奇心から調べていることになります。

で、今日はこういった「社会人になってからの勉強」について、諸々考えていることを書きたいなと思います。

何を勉強しているの?

何を勉強しているのかといえば、この頃は「研究の社会的責任」というものに興味があります。もう少し言うと、「大学の研究や科学技術は、社会に対してどのような責務を負っているか。また、その責務はどのような形で果たされるのか」ということに関心がある感じです。これだけだとかなり広く漠然としているので、もうちょっと詳しく書きたいのですが、その前に、自分自身の関心の変遷を書いておこうと思います。

入職前

仕事に就く前、つまり大学院生の時は、倫理学法哲学という分野をやってました。ただ、そこで↑のように「科学技術の社会的責任」というのを考えていたわけではないです。

当時の自分の関心としては、「倫理や法というものを、『社会感情』とどう折り合いを付けてやっていくか」というのがありました。例えば、夫婦別姓同性婚といったことについて、「倫理学」の立場からはそれが支持されるとしても、「社会的な感情」を見ると、何かしらの忌避感や嫌悪感があったりして(最近はかなり賛成派も増えてそうだが、自分が研究やってた時期にまだ反発が強かったため、癖でこの例を出してしまう)、じゃあ法はそういうときにどっちにどうすべきだろうね? というのが関心でした。分野としてはリーガル・モラリズムとかが該当すると思ってます。人々が一般的に抱いている感情、特に偏見や思い込みを含むような感情について、法はどう向き合うべきかといったことに興味がありました。

で、この時から、何かしら「社会に対する説明責任」というものに興味があったのだと思います。僕の立場としては、社会感情は確かにヤベーものも多いのだが(今の都知事選に関するネットのご意見を見ていると特にそう思う)、ただこの社会に生きている人たちの生の声だし、法や倫理の議論の中でもどこかで拾うべきではないか..... という感じでした。

あと、倫理学法哲学をやっていたことで、「責務」というものへの関心が高まったように思います。義務や責任と言い換えてもいいですね。例えば「○○は××に対してどのような責務を負っているのか?」という文字列が出てきただけで、やったーーー!! 責務の話だーー!!ってワクワクしてしまう。だから「大学が社会に負っている責任」とかの話も、学生時代のうちから受け入れる地盤ができていたのだと思います。

ただし、ここで「大学」を代入させるようになったのは、やはり働き始めてからの関心が強いと思います。

入職後

そんなこんなで、大学院を修了して、2023年に大学事務職員になったわけですが、今は大学の財務関係の仕事をしています。主に、研究室が「これ買いたーい」というので「うーん、わかった!」と言う仕事ですね(嘘です。もうちょっと煩雑です)。

で、財務の仕事は、とかく書類や手続が多くて面倒なのですが、その面倒さの多くが、社会的な説明責任と関係しているのではないかと感じています。財務は何も、内部のお金をしっかり管理することだけではなくて、その管理の適切さを外部、つまり社会に対しても示さなければならないのだと。

一例を出すと、大学では文房具や書籍などの少額なものは研究室で勝手に購入することが可能です。その際は自分で購入を行った後「この研究費で払いたい」というのを事務部に伝えて、事務部で支払い処理をする流れとなります。

ただ、何百万円もするような高額案件では、研究室が勝手に発注することはできず、「事務部に発注を依頼して、契約手続を行ってもらう」こととなります。ちなみに今の僕のメイン業務がこれですね。そうすると事務部の方で、研究室が使う備品について業者に連絡を取ったり、見積もりを取ったり、入札を実施したりして、契約手続を行うことになります。

で、正直なところ、「なぜこんな面倒なことを???」と最初の頃はずっと思っておりました。ぶっちゃけ意味が分からなかった。我々第三者が間に入るより、研究室が直接業者とやり取りした方が、早いし食い違いとかもないのではないかと。無駄なプロセスを挟んで互いに手間を増やしているだけなのでは? とそう感じておりました。

ただここで、社会的責務というのが関係してきます。まず研究費というのは、その多くが税金を財源としていると。そうである以上、それを適正に使用すること、そしてその適正さを社会的に説明できることが何より重要となります。例えば、研究室に任せっきりにした場合、特定の業者からしか発注せず、本当はもっと安く買えるのにその業者の言い値で買っていたり、あるいは何かしら業者と不穏な関係になっていることがあり得ます(卒業生の会社にばかり発注して、その分何かと融通利かせてもらったりとか......)。

かといって、研究室に一般競争入札とかを実施させるのは無理だし、そもそもの話、それは事務部が責任を持ってやるべきことなので、ちゃんと我々が中間に入って適切に買い物をしようと、そういうことなのだと思います。まだ2年目なので勘で書いているところもありますが......(こういうところの説明、ちゃんと受けることないんだよな、、、)

話が大変長くなりました。結論、何が言いたいかというと、今は財務系の仕事をしているけれど、それが大学や研究が持つ「社会的責務」というものと関連していそうだということです。

社会に対して責任を持つというのは、別にどの仕事もそうかもしれません。ただ、殊お金が絡む領域では、社会感情というものが激しくなりがちだと思います。このところ東大の学費値上げ問題なども話題ですね。また研究費という観点では、2009年の民主党事業仕分けも記憶に新しいかと思います。あのときは科学研究費というものがとにかく仕分けの対象とされました(スパコンに対する「二位じゃダメなんですか」 とか懐かしいですね)。そんなわけで、研究についても「金を無駄遣いしている」「適正に使用していない」と思われては、非常に強い社会的反発を喰らうわけで、そもそも税金を使っているのだから、説明責任を背負って当然であるとも言えるわけです。

以前もどこかで書きましたが、会計(account)というのは説明責任(accountability)であるのだと...... これマジで名言ですよね。そんなわけで、今の仕事からは「研究や科学技術の社会的責務」というものを意識することが多く、冒頭で言ったような関心を抱くに至ったという話でした。ちなみに、いつもフェチが刺激されています。

現在の関心

最初に書いたとおり、「研究や科学技術が、社会に対して負っている責任」というものに興味があります。今までの大学院までの関心が、現在の仕事で素材を得たという感じですね。

ちなみに、僕は元々文系人間ですが、現在理系部署で働いていることで「科学技術」というものへの関心も高まっています(以前は全然そんなことはなかった)。最近は本当に技術が高度化しているので、「この分野にお金をつぎ込むことについて、市民からどのように納得を得るか」という点について、ますます難しくなっているのではないかと思います。

で、そうしたことを踏まえ、現在「勉強」しているわけですが、いくつか本を読んでいます。以下はそれを簡単に紹介していきます。

科研費(研究費)

科研費のしくみと研究をめぐる状況

渡邊淳平『大学の研究者が知っておきたい科研費のしくみと研究をめぐる状況』(2016,科学新聞社)

関心の一つ目は科研費です。僕は大学院にいましたが、修士までしかいなかったので、「科研費」というものがよく分かっておりません。あれ本当になんなの?? なんでお金くれるの?? という思いが以前からありました。

そこで上記本を読んでみたのですが、結構わかりやすくて面白かったです(amazonレビューは低いですが.....)。世の中に科研費の本は数多くあるのですが、大抵が「獲得の仕方」についての本で、「そもそも科研費って何??」という解説本が珍しいように感じました。上記の本はその辺も丁寧にやってくれていて助かりました。

特に印象的だったのは、科研費ボトムアップ型であるという話です。

先ほど、「この分野にお金をつぎ込むことについて、市民からどのように納得を得るか」ということを書きました。これについて一つの考え方として、いわゆる「選択と集中」があります。これから流行りそうなところに絞ってお金を出すということですね。これはトップダウン型の助成と言われています。

対して科研費は、流行りそうなテーマとかで絞られているわけではなく、むしろ研究者の自由な発想から生まれる「多様性」を重視する形となっている、と本書で解説されています。流行りそうなトップを支援するのではなく、全体的な基盤(ボトム)をアップするというわけですね。一箇所引用します。

ボトムアップ型はトップダウン型に比べて成果が出る確率が低く効率も悪いように感じられるかもしれませんが、その際の成果とは何でしょうか

そもそもボトムアップ型の研究から芽が出にくくなれば、先につながるものが少なくなり、トップダウン型で重点的に支援すべきものも乏しくなってしまいます。さらに、本当に革新的なイノベーションは、思わぬところから生み出されることが多く、なかなか予想できるものではありません。逆に、予想できるようなものであれば、世界各国でも同じように力を入れるので、その中で常に抜きん出た成果を出していくことはできません。いい芽が出た後で重点的に育てることと、重点的に狙っていい芽を出させようとすることはまったく違うということです(p12)

ここは本当に、なるほど〜〜〜と思いました。科研費についての「なぜ」が一つ解消されたように思います。まあそんな感じで、「研究費」についての勉強を行っているという話でした。

② ELSI・RRI

入門 科学技術と社会

標葉・見上編『入門 科学技術と社会』(2024,ナカニシヤ出版)

2点目に、これが一番力を入れていますが、ELSIやRRIの勉強も進めています。ELSIやRRIとは何ぞやというと、まあ簡単に言えば、「倫理・法・社会実装のことも踏まえた研究を行っていこう」といった形になります。

ELSIというのが、Ethical、Legal、Socialで、倫理・法・社会を意味しています。これが実は僕の関心とかなりハマっているというか、「倫理に法に、そして社会までやっていいの!!?!?!?」となっているのが心境です。

とはいえ、ELSIはこの頃の流行り分野ではあるのですが、胡散臭く見られているところもあるというか、「研究資金を取るための小手先のテクか何かだろ」といった形で、信用されていないところはありそうです。実は僕もよくわかっていない。これについては今もいろいろ勉強中で、今日の段階であまり書けることはないので、ひとまず「こういうところに興味持ってるよ」ということだけ触れておきます。いずれちゃんと書きます。

大学と社会を結ぶ科学コミュニケーション

他にも、「科学コミュニケーション」という観点で、上記の本を読んだり、

脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか 脳AI融合の最前線

倫理的に議論になりそうな科学技術を学ぶために、上記の本を読んだりしています。どっちの本もかなり内容的に平易ですぐ読めました。感想はいずれ書くかもしれないし書かないかもしれないです。

あと、ELSIやRRIといった分野に関心のある方がいましたら、ぜひ一緒に勉強会とかやりたいですね。山月記みたいになりたくないので、同朋を見つけていくことも大事だと感じています、、、

③ オープンサイエンス

オープンサイエンスにまつわる論点:変革する学術コミュニケーション

南山泰之編『オープンサイエンスにまつわる論点』(2023,樹村房)

最後に、オープンサイエンスについても若干勉強しています。現状、科学や研究の社会的責務を考える上で、絶対に外せないのがこの分野だと思います。

↓こちらも以前読みました。非常に面白かったです。

学術コミュニケーション入門: 知っているようで知らない128の疑問

ただ、オープンサイエンス系は情報の展開が速く多く、ちょっとついて行けていない感じがあります。まだまだ分からない用語とかも多いのに、気付いたらどんどん新しい展開が生まれているんだよな...... たまに調べるぐらいではどんどん置いて行かれる感覚があります。

とはいえ、非常に面白い分野であるので、ちょっとずつでも食いついていきたいなト感じています。

悩み

そんなわけで、ここまで「社会人だけど、むしろ勉強を頑張っているよ!!」という話をしてきました。我ながら偉すぎてエラスムスだと思いますが、同時に悩みも結構あります。

その中でも大きいのが、自分を引き上げてくれる人がいないということです。大学院で研究室にいたときは、他の人の発表を聞くなどして、「もっと自分も頑張らねば!!」という思いが湧いていました。何もしていないととにかく「焦り」が生まれて、何かに追われるように勉強をしていました。あと、報告の締め切りやレポートの提出があったりして、常に「ここまでをこのペースでやっていこう」という感覚を持てていたと思います。

で、今の悩みとして、そういうのが一切ないですね。自分一人でやっていることなので、今日やってもいいし、明日やってもいいし、なんなら来月までやらなくていい。やったところで、自分の中でまとめるのみで(ブログで報告しろよとは思う)、特に他人に影響を与えるわけでもない。

betweeeeeen.hateblo.jp

↑以前の記事で、「大学院は常に焦燥感に満ちていてツラかった」と書きましたが、今はそれがない分、勉強もほどほどにという感じです。よいことじゃん、と思いますが、同時にどこか時間を無駄にしているような感覚も付きまとっています。難しいですね。

ただ、そこはむしろ、自分で自分を上げるしかないとも感じています。モチベを与えてうれる誰かに頼るのは甘えだってことよ(厳し〜〜)。あくまで、自分が立てた目標に自分で向かっていく。このことが難しくも、今後やっていかなきゃならないことだな〜〜〜と感じています。

かもめチャンスの話など

最後に、もうひとつ大きめの悩みがあります。

それというのも、今更これをやって何になるの?? という悩みです。ここまで読んでいた方も薄々感じていたかもしれません。今から勉強を始めて、何になろうとしているの?と。僕もそう思います。

確かに、大学院でやっていたテーマを継続する人なら一定数いるわけです。しばらくしたら大学院に戻ったりだとか。ただ、大学を出て、ドシロートの状態で何かを始めるというのが、一体何になるのか? と。それで生きていくわけではないし、お金に換えられるわけでもないし、趣味と呼ぶにはマニアックだし、ただ中途半端なだけなのではないかと、、、、

かもめ☆チャンス(20) (ビッグコミックス)

話は逸れますが、ここで『かもめチャンス』の話をします。僕のブログはいつも突然漫画の話に飛びます。

最近この漫画を読みました。全20巻、2008年から2013年に連載されていた作品です。快活で読んだよ。

で、この漫画、個人的にすごくよかったです。↑の表紙の通りロードバイクの漫画で、僕はロード好きなので、それもあって非常に楽しめました。

【あらすじ】
28歳のシングルファザーが、仕事と子育てに追われる中でロードバイクに出会い、どんどんその世界にのめり込んでいくよ。

社会人×自転車ということで、かなりリアル路線な漫画です。前半は自転車にハマっていく過程、後半は実際にロードバイクのレースに出たりするんですが、某小野田坂道くんのあれと違って、レースの描写もかなり堅実で面白いです。

そしてこの漫画、まさに「20代後半から新しいことを始める」というのがテーマとなっています。主人公はシングルファザーの社会人で、そんな中で何をやろうにも、結局なんなんだ? 何のためにやってんだ? という気持ちが付きまといます。

で、最終話のネタバレになってしまいますが、主人公は最後に「お前これからも自転車続けるん? どうするん?」と問いかけられます。「子どももおるし仕事もあるし、もうすぐ30なんやろ? 無理では?」と。それに対し主人公は、「確かになぁ」と認めつつも、

「俺は...ゴールを目指すより、スタートを見つける方がいい。いや、俺たちは一生スタートを探し続ける。きっとその方がいい。」

と答えます。この「ゴールを目指すよりスタートを見つける方がいい」というのが、滅茶苦茶いいですね、、、

確かに、今から何かを始めても、何者かになったりバズったりというのは難しいかもしれません。ただそうやって、「何になれるか」や「どこまでいけるか」ということではなくて、新しいスタートを切れること、それ自体に価値を見出すのが素晴らしいと思いました。心に来ますね。「俺たちは一生スタートを探し続ける」という言葉もかっこいいんだな、、、

そういうわけで僕自身、この頃勉強を頑張ってはいるけれど、あくまで「自分が何かになれるか」ではなくて、「新しいことを今からでもやれること、それ自体がすげえんだ!!」という気持ちでやっています。逆に、何者かになろうとし過ぎるとしんどかったりしますしね。夢を追うことだけでなく、夢を始められることそれ自体の大切さも大事にしていきたいと思っています。

ちなみに「かもめチャンス」は本当に面白いので、ぜひ読んでみてください。皆も休日は快活クラブに閉じこもろう(置いてない店舗も多いよ)。

以上!!!

今日はそんな感じです。「最近は勉強やってて、モチベ維持が大変だけど、なんとかやってるよ」という話でした。このところはだいたいそんな感じです。

途中でも書いたけど、特に社会人になっての勉強は、大学院と違って「一緒にやる人を見つけづらい」というのが悩みです。というよりむしろ、「一緒に議論できる相手を見つけられる」というのが大学院のメリットなんでしょうね。現在大学にいる方々は是非是非頑張ってください。

というわけで、次回はまた読書記録を再開する予定です。多分、山本圭『嫉妬論』になるかと思います。真面目な諸兄はぜひ予習してきてください。それでは!!

嫉妬論~民主社会に渦巻く情念を解剖する~ (光文社新書)

おまけ

www.youtube.com

このところ、Laura day romanceがたくさん新曲を出してますが、どれもよいですね。エンディングソングとしておいておきます。

— あいだた (@dadadada_tatata) June 13, 2024