ざびえる(お菓子)とグローバルヒストリー (original) (raw)
はじめに
生徒がお世話になっている立命館アジア太平洋大学の方に「大分に『ざびえる』というお菓子がある」と教えていただいたのですが、先日デパートに行ったら売っていました。今日はそのお菓子からザビエルとキリシタンについて芋づる式に考えます。
目次
1 ざびえる/ざびえる本舗
https://www.zabieru.com/xavier/
銀のざびえると金のざびえるがあります(○ョコボール?)
えーっと、この丸い感じは「ザビエル像」の頭(トンスル)のイメージ?
金の方の餡にはラム酒と刻みレーズンが入っているので色が濃いです。食べるとラムレーズンの風味が口の中で広がります。
ラム酒はサトウキビの搾りかす(糖蜜)の蒸留酒で、西インド諸島でサトウキビプランテーションが開発された頃に製造が始まったそうです。
17世紀にはアメリカのニューイングランドでラム酒の蒸留が盛んになり、西インド諸島から糖蜜がアメリカに持ち込まれてラム酒となり、アフリカへ運ばれ、その対価として黒人が西インド諸島へ運ばれてサトウキビプランテーションの労働力になりました。武器・奴隷・砂糖を取引する大西洋三角貿易のもうひとつの顔です。
上智大学の2020年の問題に「宣教師の活動について「香料と霊魂」という受け止め方が一般にみられる」とありますが、スペインとポルトガルは船にカトリックの宣教師を乗せ、アジアや「新大陸」で布教と貿易をセットで行っていました。
そのひとりであるザビエルをモチーフとしたお菓子に奴隷貿易の象徴であるラム酒が使われているのは奇遇です。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
2 フランシスコ・ザビエル
参考
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれました。ナバラ王国はフランスとスペインの係争地で(ブルボン朝開祖のアンリ4世はナバル公)、1515年にスペインに併合されました。
ハビエル城 著者死亡後80年が経過しているのでパブリックドメイン。
志摩スペイン村にこれをモチーフにしたアトラクションがあります。
https://www.parque-net.com/attraction/havier.html
1525年、ザビエルは19歳の時にパリ大学に留学しました。ここで彼は同じくバスクから来た37歳の転校生イグナチオ・デ・ロヨラ(イグナティウス・ロヨラ)と知り合います。ロヨラの感化を受けたザビエルら青年7人が1534年にモンマルトルの聖堂で「神に生涯を捧げる」という誓いを立てました(モンマルトルの誓い)。これがイエズス会の始まりです。
当時東アジアに植民地を建設していたポルトガル王ジョアン3世がイエズス会に植民地での布教を依頼しました。ザビエルが急病の仲間の代わりにインドに行くことになり、彼は他の3名のイエズス会員とともに1541年4月にリスボンを出発、モザンビークを経由して5月にゴアに到着しました。
ザビエルはゴアを拠点にインド各地で宣教し、1545年にマラッカ、1546年にモルッカ諸島を訪れ宣教活動を続けました。
1547年にマラッカに戻ったザビエルは日本から来たヤジロウと出会いました。日本への布教を考えたザビエルは1548年に一旦ゴアに戻り、1549年にほかの宣教師やゴアで洗礼を受けたヤジロウとともに出港し、鹿児島に到着しました。
ザビエルは薩摩国の守護大名・島津貴久の許可を得てヤジロウの家で布教を始めしたが、僧侶からの苦情で貴久が禁教に傾くと、ザビエル一行は京都に向かいました。
ザビエルは全国での宣教のためには「日本国王」の許可が必要と考え、天皇と将軍への拝謁を請願しましたが、贈り物をしないと不可能と言われました。また僧侶の養成機関である比叡山への入山を試みましたが拒否されました。
時代は戦国時代、京都の荒廃を見たザビエルは有力な大名の保護のもとで宣教することに方針転換しました。ザビエルは山口の大内義隆に取り入って領内で改宗者を増やし、さらに豊後の大友義鎮の保護を受けて宣教を行いました。
この過程でザビエルは日本が中国の文化の影響を強く受けていることを感じ、日本での布教のために中国での宣教が不可欠と考えました。
1552年にゴアに戻ったザビエルはポルトガル大使の随員として中国入りを試みますが失敗します。諦められないザビエルは密航で中国入りしようとし、上川島から広州への船を待つ間に病気になり死去しました。
3 聖ザビエル像
神戸市立博物館蔵の複製品。パブリックドメインの画像
参考 文化遺産オンライン 神戸市立博物館の説明
日本史の教科書で有名なザビエル像はリアルタイムの肖像画ではありません。
ザビエルによるアジアでの宣教活動がヨーロッパで広く知れ渡るようになるのは、16世紀末のオラツィオ・トルセリーノによる『ザビエル伝』によるもので、これらに掲載された銅版画の肖像画が最初期のザビエル像の典型として流布しました。日本に伝わるものもこの系譜に属します。
『ザビエル伝』は「ザビエルが早朝にゴアの教会の庭で祈っている際に神の愛に触れて意識を完全に失い、我に返った後、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて "Satis est Domine, Satis est."(充分です、主よ、充分です)と言った」と伝えます。図中のラテン語がそれです。
また絵ではザビエルの燃える心臓に十字架("INPI" は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」の意味)が刺さり、背後にIHS(イエス)とあります。「十字架にIHS」はイエズス会の紋章です。
したがってこの絵はイエズス会の教えを視覚化したものです。原画はおそらく宣教師向け教育図版で、それが信仰の対象にもなったと推察できます。
図像の成立年代ですが、ザビエルの名前の前に「S・P」とあります。ザビエルは1619年に福者に、1622年に列聖されているのでそれ以降のもの(異説あり)とすると、江戸幕府が禁教令を出す前後と推測できます。作者は、狩野派特有の壺印の落款と「漁夫」(ペトロ)の署名から、狩野派の絵師ペトロ狩野と考えられます。
4 茨木市立キリシタン遺物資料館
「聖ザビエル像」は大阪府茨木市千提寺の民家で発見されました。集落内に記念館が建設されていると聞いたので行ってきました。
場所は新名神高速道路千提寺ICから少し山道を登ったところ。
ここからは資料館で放映されていたDVDと図録を参考にしています。
大正8年、千提寺地区の「かくれキリシタン」の噂を聞いた藤波大超さんが同地に住む東藤次郎さんに調査の協力を依頼したところ、東さんの裏山で十字と「上野マリヤ 慶長8年」と刻まれた墓石を発見しました。
大正9年、藤波さんがさらに東さんを問いただしたところ、東さんが物置から「あけずの櫃」を出してきました。中にはザビエル像ほかキリシタン信仰具がありました。
展示物の写真撮影不可なのでパンフレットでご勘弁を
下音羽地区の別の家々にもキリシタン信仰具や半円形のキリシタン墓碑が伝わっていました。所有していた家の人の聞き取りによって、これらの家々では大正時代ごろまで「かくれキリシタン」の信仰行事が行われていました。
天保生まれの女性へのインタビューで、オラショ(口承で受け継がれたキリスト教の祈禱、ラテン語の "Oratio" より)が唱えられていたこともわかりました。
さて「かくれキリシタンというと長崎」という印象を持つ人もいると思いますが、なぜ大阪の山村に「かくれキリシタン」の信仰具が存在するのでしょうか。
https://oratio.jp/p_column/kirishitan-kabashima
ザビエルが去った後に日本でのキリスト教布教が本格化し、大名は貿易の利益を求めて布教を認め、中にはキリシタンになるものが現れました。
キリシタン大名として有名な高山右近は三島(現茨木市)の国人で、1573年に高槻城主となり、領内で信者が増えました。領民に「領主と喧嘩するより喜ばせる方が得策」という意識があったのかもしれません。
高山は秀吉によって1585年に国替えになり、茨木は秀吉の直轄地になりますが、シモンという洗礼名を持つ安威了佐が代官として着任しました。こうした事情から宣教師がしばしばこの地を訪れ、キリシタン信仰具(ヨーロッパ製の信仰具も多数見つかっている)が持ち込まれたと推察されます。
しかし秀吉、家康、家光が禁教令を出して、次第に宣教師や信者は追放されます。高山右近も1614年にマニラに追放となり、その地で死去しました。
禁教令が発せられた後もこの地域でキリシタン信仰が保持されました。ただし長崎の場合は組内の信仰ですが、茨木の場合は特定の家が信仰具を保持してキリシタン信仰を継承しました。信者の家はみな曹洞宗の門徒で、信仰具は当主から当主へと引き継がれ、人目に触れないように巧妙なカモフラージュが施されました。
オラショを口述した女性は「絵踏み」の体験を語っています。聴き取った藤波さんによると「踏み絵の前で転んで、踏んだことにしてもらった」そうです。
マリア十五玄義図。東家と原田家から見つかっていますが、後者は昭和5年に屋根裏の丸太材に括り付けてあった竹筒の中から見つかりました。現在は京都大学総合博物館が所蔵しています。「聖ザビエル像」と同じく日本で作成されたものです。
上段にイエスとマリアが、下段にはロヨラとザビエルが描かれ、後者は信者の聖母信仰を取り次ぐ役目をしています。周囲には「喜び」「悲しみ」「栄光」に関わる物語が5ずつ計15コマがあり、キリスト教の教義を学べるようになっています。
著者死亡100年以上経過でパブリックドメイン。
おわりに
「聖ザビエル像」はザビエルの説明で使いますが、どういう意図で描かれ、なぜ現存しているのかは曖昧にしていました。月並みですが、疑問を持つことや現地を訪れることは大事と改めて感じました。
また「かくれキリシタン」という信仰と正統派(カトリック)は同じではないらしいので、今後はその点も調べてみたいと感じました。
最後に、ぶんぶんは車にETCをにつけていないので、千提寺ICがスマートICだと知らずえらい目に遭いました。下調べは大事です。(´・ω・`)