憲章は経典ではない (original) (raw)
質問
令和6年十月定例評議員会に関し以下のような質問を頂戴しました。
先日の定例評議員会で葦津評議員が「神社本庁の教義・経典は神社本庁憲章」という主旨の発言をしたと聞きましたが、庁規にそう定められているのでしょうか? またその場合、神社本庁包括下の神社も神社本庁憲章を教義・経典としなければならないのでしょうか?
質問の葦津敬之評議員の発言は、神社新報3704号(令和6年11月4日)に下記のように掲載されています。
一神教の場合は教義・経典があり、それに反する人間は指名できないが、本庁の場合は教義・教典が神社本庁憲章となり、宗教団体のトップである統理がそれを斟酌して指名しないといふ立場をとってゐる
結論から述べますと、神社本庁憲章を教義・経典とする考え方は、伝統的な神道思想はもちろんのこと、葦津珍彦の思想からも逸脱したものです。
経典に対する神道の伝統的な理解
吉田兼倶は『神代上下抄』において「**神道に書籍なし。天地をもって書籍となし、日月をもって証明となす**」と唱えました。簡単に言えば「神道というのは、森羅万象を通じて天神地祇の意志を感じ取るものであるから経典というのは必要ない」ということであって、これが伝統的な神道の教義経典に対する基本姿勢です。
古典の知識をもって室町から幕末にかけて神職の世界で絶対的な権勢を誇った吉田家の発言だからこそ重みがあります。
神の意志
吉田兼倶は天地日月が経典だと述べましたが、それは自然崇拝とは違います。神道は天地日月から神祇の意志を感じ取るのであって、拝んでいるのは自然ではなく、目に見えないけど自然のなかにお鎮まりになっている天神地祇です。
神道人が最優先すべきものは御祭神の意志です。ただ神の意志を最優先するのは神道の専売特許ではなく、全ての宗教に共通することです。聖書やコーランを信徒が重んじるのは聖人(イエス・キリストやムハンマド)を通じて人々に伝えられた神の言葉・意志だからです。神の言葉だから人々は唱えるし、経典を粗末に扱われたら激怒する。
これに対して**神社本庁憲章は神の言葉ではありません**。当時の評議員(神職総代)らが議論してつくった人智の産物です。神職が御神前で神社本庁憲章を唱えたり、氏子の前で「神社本庁第〇条を朗読します」なんてしている事例を聞いたことがありません。神職自作の祝詞はお焚き上げするのに、憲章の書かれた書物(規程類集など)をお焚き上げしているなんて話は聞いたことがありません。新しい規程類集を買ったら古い規程類集(憲章が掲載されている)を古本屋に売ったり、お焚き上げせず普通に廃品として処分している神職がほとんどです。このように神職の憲章に対する態度は、宗教者の教義・経典に対するものではありません。
今回のご質問に対する私の回答は「**神社本庁憲章は教義・経典ではない。神道人は憲章よりも御祭神の意志を重んじるべき**」です。
憲章に足りないもの
神の言葉という観点から考えて、五大神勅や日本書紀、古事記、五箇条の御誓文の方が神社本庁憲章よりも遥かに神道的権威の高いものです。仮に憲章が神社本庁にとって教義・経典であるならば、これらの位置づけについて明文化しておく必要があります。例えば「第〇条 古事記・日本書紀を神典として重んじる」などです。このように述べると第11条2項に「神職は、古典を修め、礼式に習熟し、教養を深め、品性を陶冶して、社会の師表たるべきことを心掛けなければならない」とあるからいいじゃないかと思う人もあるかもしれませんが、数ある古典のうちどの古典を重んじるかを明確に、できれば優先順位をつけて示すことが教義として重要なのであって、「古典を修め」としか書いてないのでは教典として成り立ちません。古典といっても様々な書籍があります。日本書紀・古事記だけなのか、古語拾遺や延喜式も含めるのか?神勅を尊重するにしても三大神勅だけなのか、五大神勅なのか、歴代詔勅まで含めるのか?それらの優先順位は?そういう内容が全く書かれていない憲章では教義にはなりません。
特に神社本庁憲章の前文で戦前との連続性を謳っておきながら、大日本帝国の基本方針である五大神勅と五箇条の御誓文を掲載していないのは**神社神道の教義経典として致命的欠陥**と言わざるを得ません。そのため戦前の神職に神社本庁憲章を「これが神社神道の教義経典です」と見せられたら激怒するでしょう。
本庁としては教義を立てない
葦津珍彦は「私も神道人の中の一人である」(葦津珍彦の主張普及発起人会編(2007)『昭和史を生きてー神国の民の心』参照)のなかで以下のように述べています。
全神社をすべて合同させる任務をもつ本庁では、教義は立てるべきではないと答えている。
それに本来、日本人の神道史を見ると、それは全く自然成長的に多様多彩な発展をして来たのが歴史の事実である。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、大国隆正など、いわゆる一系列の国学者と称せられる人々の思想でも、神学的に精緻に見て行けば、その間にかなりの論理的心理的異同がある。その外に明治維新の神道に大きな影響を及ぼした崎門学者の神学とか、水戸学の神道思想ということを加えれば、その間には、いよいよ特徴の異なるものがある。それを一つの神学体系の中にまとめあげて、それぞれに議論の岐れたときに、一管長がその論争の正否を決して、一説を正とし、一説を否として、全国の神社の大同が保てるものではない。明治初期に天皇親政で、政府の権威隆々たりし時代においてすら、有名な大国主神に関する祭神神学論争の生じたときにも、正否明快な教義裁決は、できなかった。その後も類似の歴史がある。今の時代に何人が裁決を下しつつ、しかも全国神社の大同を確保し得るものがあろうか。絶無と断じていい。
このように神社本庁は教義を立てるべきではないと葦津珍彦は断言していますし、その理由も詳細に述べられています。葦津評議員の「教義・教典が神社本庁憲章となり、宗教団体のトップである統理がそれを斟酌」するという意見が、葦津珍彦の主張と正反対のものだということも一目瞭然です。
折口信夫をはじめ本庁設立当時から教義を立てたいという神道人も相当数おり、その説得に葦津珍彦は相当な苦心をしました。それは上記の信念に基づくものでしたが、後の歴史学者からは権力を持って神社界から折口信夫を排斥したと非難を受けています(この件に関しましては阪本是丸が神社新報において論じています)。葦津珍彦にとりましては相当な労力をはらい、嫌な思いもしながら達成した「本庁は教義を立てない」という基本方針ですので、憲章を経典とし統理が正否を裁決するという意見が評議員会で出されたことに冥世でさぞお嘆きのことでしょう。