美和神社 式内社(邑久郡)① (original) (raw)

邑久郡式内社、「 美和神社 」 は、『 岡山県神社庁 』 では、2座が

検索されます。

瀬戸内市長船町福里341 村社

瀬戸内市長船町東須恵1064 郷社

同宮は、備前の支配者:松田氏・宇喜多氏・小早川氏・池田氏 の施策に翻弄された

ようです。

式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』では、

【由緒】『吉備温故秘録』( 寛政年中 )によると、「美和神社 同( 邑久郡磯上村) 式内社

なり、祭ところの神一座、大己貴命なり、今は廃して社地のみ残れり、可惜~」と

あつて、美和神社は現在の邑久郡長船町磯上に鎭座してゐたとしてゐる。

しかし、平賀元義は『 吉備國地理之聞書 』でこれを否定し、「 神主池畑某、寛文六年

邑久郡北の方 荒神・藪神(やぶがみ)の類十社をこぼち、石(磯)上村多賀大明神の

社地に寄宮として、吉田家より正印を勧請して、是を美和神社といふ。正徳二年大多羅

村(上道郡)に遷して今にあり。」と述べてゐる。

また、『 備陽國誌 』(元文四年)には 美和神祉 福里村 延喜式神名に見えたり、

正徳年中上道郡大多羅へ移して寄宮とす、今社地のみ残れり」とあるが、この福里村

(現長船町福里)の美和神社について、『 東備郡村志 』(天保年中)は「此神淫祠たるに

より正徳年中大多羅村に遷さる」とし、また『 吉備温故秘録 』は「福里村の寄宮に

有といへども、是は別の美和神社ならん」といづれ式内社美和神社ではないと否定し

てゐる。

岡山藩では、寛文六年 ( 1666 ) に領内の村々で「故も無之或狐狸等之崇リヲ成シ候と

て、祝置荒神と號シ候淫祠有之ニ付、巫覡(ふげき)之輩種々之邪読ヲ成、彼荒神

禱り(いのり)其利ヲ貪リ、民ヲ惑シ候」( 岡山大学所蔵池田家文庫『御頒内寄宮記』)

といふ理由で、村々の「産神」及び「故有之正社」だけを残して、その他の淫祠一萬

五百二十七社を七十1ケ所に集め寄宮としたが、その時邑久郡では千二百六十五社が

十ケ所の寄宮へ集められた。『 御領内寄宮記 』によると、十ケ所のうち磯上村に集め

られた淫祠は服部村十二社、上村二十四社、牛文村十五社、福里村一社の計五十二社で

あつた。福里村の一社は美和神社であつた。これらの淫祠は磯上村の多賀大明神境内に

寄宮を建て、吉田家の證印(しょういん)をうけて「美和神社」と称してゐたが、

正徳二年( 1712 ) に上道郡大多羅村(現岡山市大多羅)句々酒馳神社の寄宮へ遷された、

平賀元義が磯上村の美和神社跡地を式内社美和神社の舊跡ではないと否定したのは

このやうな事情からであつた。また、福里村にあつた美和神社を「 吉備温故秘録 』

『 東備郡村志 』が否定したのは、式内社美和神社であるなら淫祠として整埋される

はずがないといふ理由からであつた。口碑によると、福里村の美和神社は須恵にあつた

美和神社の分霊を勧請してゐたと傳へられてをり、淫祠として整理されたのは、この

神社が巫覡等によつて新たに創建され、「利を貪り、民を惑」してゐたためであらう

か。

岡山藩では江戸中期頃にそれまで不明であつた式内社の再興が進められるが、磯上

村・福里村でも式内社美和神社がそれぞれ鎭座してゐたとして、その再興が行なはれて

ゐる。福里村では延享三年 ( 1746 ) に祠官大西權之進が藩へ美和神社再興願ひを出し、

翌四年三月に許可され、寛延二年(一七四九)に社殿を造営、北隣の服部村宇佐八幡宮

ら神霊を奉遷してゐる(昭和二十七年『福里・美和神社明細書』)。

同じころ、磯上村でも名主安冶衛門が多賀大明神境内の元寄宮美和神社跡地に碑を

たて、中村元三郎なる者が文を書いて「古の美和神社の古跡」としてゐた (『 吉備國

地理之聞書』)。

明治初年になつて、式内社の調査が行なはれた際、常然のことではあるが、これら

両地の美和神社は式内社美和神社としては否定され、東須恵・西須悪村境にあつた

廣高八幡宮式内社美和神社に比定された。その理由は廣高八幡宮の鎭座地を古來

「三和ノ峯」と称してをり、その東南の榊谷に「美和の井一と呼ぶ泉があること、参道

の烏居の額にもともと「神(ミワ)八幡宮」と彫られてゐたのを「神」の字をけづつて

八幡宮」としてゐたことからであつたといはれる(明治初年『備前國式内書上考録』、

大正四年『 邑久郡神社誌 』)。

かくして、魔高八幡宮は明治三年に「舊號(キュウゴウ)ニ復古」して美和神社と

改称し、同六年郷社に列し、同四十年一月に神饌幣吊料供進神社に指定された。美和神

社の舊號であつた廣高八幡宮は「永禄年中松田左近 當國舊社悉皆破却セシ時、美和神

社替號シテ八幡宮トス」といはれ、また「 寛文年中の棟札には須恵八幡宮と記せり 」

ともいふ。

また、古く四十餘町の神田を有してゐたといふ(別當大聖寺の寺領を含むか)が「金川

城主松田左近將監元堅永緑五年十一月神田悉皆没収」と傳へ、その後「 浮田中納言

( 宇喜多秀家 ) 御寄附アリシヲ、金吾中納言 ( 小早川秀秋 ) 没収」、「 池田三左衛門

輝政公御寄附アリシヲ松平宰相公 ( 池田忠雄 ) 御代寛永六年御検地之時竿入トナリ社領

不残不被下 」といふ変遷を経て、寛文年中に「池田新太郎少將 ( 光政 ) 公高拾七石弐

斗、東須恵村・西須惑村之内ニテ御折帋(オリガミ)附ニテ御寄附」となり、それ以後

明治概年まで社領十七石二斗を有してゐた( 明治七年『 延喜式内社取調書 』『 邑久郡

神社誌 」他 )。しかし、替號後の明治三年の美和神社々領は「現米高拾一石八斗一合

六勺、内九石八斗五升六合二勺池畑景久(祠官)、一石六斗二升一合二勺鳥居喜代治(一禰

宜)、一斗六升二合一勺北谷澤次郎(二禰宜)、一斗六升二合一勺久山千代吉(三禰宣)」と

なつてゐる( 神肚明細帳 )。

慶安元年(1648)の西須恵村畑山大聖寺の『書上』によると、廣高八幡宮には「社僧

七人、神職二人、神子・禰宜二十四人」が仕へてゐたとある。この大聖寺は廣高八幡宮

の別當で、報恩大師建立と傳へ、備前四十八ケ寺の内に数へられる眞言宗の古刹であつ

た。同寺は往昔十六坊を数へたといふが、その後次第に衰微し、寛文五年(1665)には

寺中六坊、寺領十四石二斗六升を有してゐたものの、まもなく廃寺となつてゐる

(『 邑久郡誌 』)。

明治三年の嘗社は「祠官池畑景久 一禰宜鳥居喜代治、二禰宜北谷澤次郎、二禰宜

久山千代吉、一ノ神子恭三養女、二ノ神子灌太郎株(久山千代百受込、佐山村神子俊平

妻へ預)」が仕へた。祠官池畑氏は初代の七郎右衛門が寛文年中に廣高八幡宮神主とな

つて以來、代々相続し、景久で九代目、現美和神社宮司池畑太根夫氏は十四代目にあた

る。

美和神社