What was it ???(あれ、なんやったっけ???) (original) (raw)
8 月25日(日)9時現在、強い勢力の台風10号(サンサン)は日本の南を北西に進んでおり、今後は発達に適した領域に進み、27日(火)には非常に強い勢力まで発達。その後は西日本に上陸する予想だそうです(心配)
今回の台風は、関空が孤立し14人の死者を出した、2018年9月の台風21号に似た進路と勢力らしいです
役立つアプリ(サイトも含む)
台風状況
停電状況
◆北海道電力サイト(LINEアプリあり)
◆中国電力 サイト
◆中国電力 LINEアプリ用
◆九州電力 サイト
◆沖縄電力 サイト
事前備え
「防災ログ~非常食・グッズの期限管理」をApp Storeで (apple.com) ※iphoneのみ
皆様! くれぐれも、御身大切に!!
挿絵&カバー画像:「いらすとや」さん (いつも、ありがとうございます!)
もうすぐお盆(休み)ですね~!
暑い日がつづきますね!今回は、以前ブライダルのお仕事(ウェディングプランナー)に就いていた時に調べた “お盆” に関する内容を中心にお話いたします!m(_ _)m
私がウェデングプランナーだった時代、お盆=※弔事というイメージが強くあり
今も若干残ってはいますが、その時期に結婚式(慶事)を行うのは不謹慎、かつ縁起も悪いと忌避され、我々式場側も新郎新婦との招待状作成の打ち合わせにおいて、その時期を回避し、前後の吉日に送るという案内をしていました
※だいたい10月中旬に挙式をされる方が、2ヶ月前のちょうどお盆のシーズンに送付。1ヶ月前に返信締切日をもうけ、参列者の人数を集計、料理・引出物等の手配の打ち合わせをおこないます
※弔事(ちょうじ)・・・葬儀などのお悔やみ事を指す。告別式の前夜に行う通夜、告別式、火葬を含めて葬儀という。一般的には、故人の逝去から葬儀、初七日または四十九日法要までが弔事に含まれる
そもそもお盆とは?
先祖等既に亡くなっている近親者の精霊をこの世に迎え、供養する行事のこと
お盆の由来は?
諸説あるそうで、仏教経典の一つ「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」、古代インド・アーリア語に属する言語のサンスクリット語の「ウラバンナ(逆さ吊り)」が起源という説が最有力とされている※なにゆえ「逆さ吊り」?
釈迦(しゃか)の弟子である目連(もくれん)が、亡くなった母親が地獄で飢えに苦しみ、「逆さ吊り」にされたような苦しみを味わっていることを知った。それは生前、自分達だけの幸せを祈り、他者に施しをしてこなかった報いだそうな※私も含め、世間一般的に皆「逆さ吊り」になるんじゃないかな?(苦笑)
そこで目連は、母親を救済するために釈迦に助けを求めると、「夏の修行が終わる7月15日に、供物を捧げて飢えた心を満たしてあげなさい」とのこと。彼の助言通りに行動した結果、母親の魂は救済され、無事極楽浄土に行くことができたという話から、「精霊を供養する」「親や先祖の魂に感謝する」等のお盆の行事が旧暦の7月15日に定着したそうな
新盆と旧盆とは?
「本来、お盆は旧暦(太陰太陽暦)の7月15日である」
「新盆」
1.現在の新暦である7月15日に行われるお盆のこと。「新のお盆」ともいう
2.故人が亡くなって(※忌明けして)、初めてのお盆(初盆)を指すこともある
※忌明け・・・遺族が喪に服す期間を終えること。仏教では四十九日の法要を行う
「旧盆」
1.旧暦の7月15日(現在の8月15日頃)に行われるお盆のこと。「月遅れの盆」「8月盆」ともいう
2.新暦と旧暦の違いがあるため、正確には毎年日付が変わるそうな(だいたい8月上旬から9月上旬)
※旧暦のお盆で有名なのは、沖縄・奄美地方のお盆。最終日のお見送り(ウークイ)にあわせて、祖先の霊を供養する「エイサー」が有名
なぜ、新盆(7月盆)と旧盆(8月盆)が共存するのか?
・元来、農業国家である日本は、農作業のスケジュールを中心に年中行事が動いているといっても過言ではなく、明治時代の改歴(新暦)により、日本の各行事は約30日遅れることとなる
・従って、本来お盆が行われる7月15日が、旧暦の6月15日頃と農繁期にあたるため、全国の農村部では現在(新暦)の8月15日(旧暦の7月15日頃)に行うようになったそうな
世間一般的に、“お盆休み”といわれる期間は、8月13日~16日の4日間ですが、何故その期間なのか?が次のお盆の流れ(スケジュール)でわかります
お盆の流れ(スケジュール)
1.七日盆(なぬかぼん)・盆初め(7日~)・・・お盆行事初めの日。旧暦の7月7日(現在は8月7日)に始まることからそう呼ばれる
※「仙台七夕まつり」が毎年8月6~8日に行われるのは旧暦の7月7日に起因する
お盆(迎え盆・盆の入り)前にすること
・※寺院(菩提寺・檀那寺等)への依頼
・お墓の掃除(墓薙ぎ)
・その昔は、井戸替え(池替盆)、食器や仏壇仏具の手入れ掃除(磨き盆)、女性の洗髪が行われた
・※精霊棚などお飾りの用意
の用意を行うのが一般的だそうな
※菩提寺(ぼだいじ)
①先祖代々、死後の冥福を祈ってもらうお寺のこと
②「菩提(ぼだい)」とは、サンスクリット語で「さとり」「めざめ」という意味がある
③元々菩提寺は「近しい肉親がお釈迦様のようにさとりを得て、目覚めるように」という願いを込めて建てられたお寺のことを指していたが、現在は先祖代々のお墓があり、葬儀や法要を執り行う場所を指すようにつかわれているそうな
※檀那寺(だんなでら)
菩提寺とほぼ同じだが、その寺院にお布施等様々な活動を支え、自身が※檀家であるお寺のことを指す
※檀家(だんか)
その寺に属し、お布施をして寺の財政を助ける家のこと
※精霊棚
①お盆の際に仏壇の前に飾られる特別な棚のこと
②地域・風習にもより、お供え物として、キュウリの馬、ナスの牛で作る「精霊馬」「精霊牛」や、ほおずきを飾るのが有名
2.迎え盆・盆の入り(13日)
・一般的に家族そろってお墓参りに行く
・「迎え火」として、家の前で火を焚いたり、提灯に火を灯したりする
3.盆中日(15日)
・家族・親族が集まり、ご先祖様を供養する
・僧侶に読経をお願いする家もある
4.送り盆(16日)
・ご先祖様を送るために「送り火」を焚き、精霊棚を片付ける
※「迎え火」や「送り火」には古来、清浄とされているおがら(麻の茎)をほうろく(素焼き)の皿に入れて燃やすそうな
・「送り火」で有名な地域行事として、「京都の五山送り火」や「長崎の精霊流し」「盛岡の灯篭流し」などがある
夏の“風物詩”といっても過言ではない、「花火(大会)」と「盆踊り(夏祭り)」
実はこれらのイベントも“お盆”と深い関わり合いがあるのをご存知でしたか?
お盆と関係の深いイベント
1.花火大会
・日本で初めて行われた花火大会は、江戸時代の享保18(1733)年に始まった「両国川開き花火(現在の隅田川花火大会)」だといわれている
・元々“川開き”のためのイベントだったが、前年に大飢饉とコレラの流行があり、約100万人近い人々が亡くなり、時の将軍、テレビ時代劇「暴れん坊将軍」で有名な、八代将軍徳川吉宗が慰霊と悪病等を鎮める※施餓鬼(せがき)のために祭を行い、花火を打ち上げたのが始まりだそうな
※施餓鬼(せがき)
生前の悪行などにより、餓鬼となった霊魂や無縁仏など供養されない死者に施しを行う法会のこと
・その後、各地でお盆の後に花火大会が増えていったのも、「送り火」「精霊火」の風習と「花火」をつなげたのだといわれている
2.お祭り(盆踊り)
・元々「祭」とは、「神にいけにえを供えて祈り、慰霊を行う儀式」、つまり「祭祀(神道の儀式)」である※仏事(仏教行事)ではないのだ!
・四季のある日本では、「祭」の目的が異なるとされ
春・・・季節の始まりであり、田植えの時期である。「無病息災」「豊作祈願」等が祈願される「祭」が行われる
夏・・・台風や害虫の発生、疫病の流行、お盆の時期であり、「風除け」「虫送り」「疫病退散」「厄除け」「祖先を祀る」「鎮魂」等を祈願する「祭」が行われる
※「疫病退散」「厄除け」で有名な「祭」として、京都の「祇園祭」がある
秋・・・収穫に対する「感謝祭」、伊勢神宮の「新嘗祭(にいなめさい)」に代表される「祭(祭祀/さいし)」が行われる
冬・・・収穫を終えた農閑期の時期。田の神をねぎらい、新年を迎えるための「新春祝い」に関する「祭」が行われる
・夏祭りに踊る「盆踊り」は、本来お盆に帰って来る先祖の霊を迎える「鎮魂」の儀式で、文献に最初に登場するのは室町時代で、「念仏踊り」がお盆と結びつき、「盆踊り」が定着したそうな
※「鎮魂」で有名な「祭」として、徳島の「阿波おどり」がある
参考URL:夏休みイベント・おでかけガイド2024(Walker plus より(ありがとうございます)
神道にもお盆はある!?
・神道のお盆は、ご先祖様の御霊(みたま)が家に戻って来るための「先祖供養」や「先祖崇拝」だけなく、一年間不幸がなかったこと、そして祖父母、父母の長寿と健康を祝う行事でもある
・基本祝い事であるため、別名「めでたい盆」とも呼ばれているそうな
・また、「生き盆」「生き御霊(みたま)」とも呼ばれ、親族が一同に集まり、お盆を迎えるのが一般的とされる
・お盆の流れ(スケジュール)は、ほぼ仏式と同じだが
①七日盆には神道らしく、禊(水浴び)を行う
③お墓、神棚に供える物も神道らしく・・・
・水・お神酒・塩・米・海の物(魚・昆布)・山の物(川魚・果物・野菜)等※仏教と違って生ものOKなんです
・生花ではなく、榊
・線香はあげない
・二拝二拍手一拝 etc
お盆の正体
以上、調べてみると、色んなことがわかり、特に “お盆” は厳密にいうと “弔事(葬事)” ではなく、“※祭事(祭祀)” であり、それ以外にも・・・
①仏事(仏教行事)だと思っていたが、神事(神道行事)にもあり、神事は祝い事でもあった
②本来、(原始)仏教の教えには“霊” という存在はないそうで、日本に仏教が伝わる(六世紀)以前からある神道における「怨霊思想」が根強くあり、時の為政者(天皇)が外来宗教である仏教に「怨霊鎮魂」を託してから、神道と仏教の調和(神仏習合)の影響がこの“お盆”にも多少なりともあるそうな
③“お盆”の時期が地域によって、7月や8月にあるのは、日本の年中行事のほとんどが、古来より農作業のスケジュールに合わせて、行われていること※まさしく“祭事”!
※祭事(祭祀)・・・神や祖先をまつること。まつり
何故そこまで調べる必要があったかというと、私が従事した当時のブライダル業界の7、8月は今よりも極端な閑散期であり、その時期に結婚式をするということは・・・
①一年で一番暑い時期であり、新郎新婦本人は勿論、親族、来賓客は暑さ対策を強いられる
②“お盆休み” 等の長期夏季休暇があり、帰省する予定の親族、来賓客に迷惑を掛ける可能性が高い
③“お盆”自体、“弔事” と思われている方が大半で、そんな時期に “慶事” を行うことは不謹慎だと思われている
といわれてました
理由①②は理解できるとしても、③の理由が今一つわからなかったので、よくよく調べてみると、厳密には“お盆”は“弔事”ではないことがわかり、そのことを希望された新郎新婦やそれを心配する親族に伝えることによって、その時期に式を挙げる方、招待される方へ少しでも納得いただける説明をしたかった・・・という思いもありました※実際に披露宴の余興で、“河内音頭(盆踊り)” “阿波踊り” “エイサー” を興じられた招待客もいましたもんね~(笑)
形骸化する日本の年中行事
昔から外国の友人に、「日本人は、自分の国の年中行事の意味も理解しないで過ごす人が多い!」とよくいわれました(恥)
特に彼らにとって信じられないのは、宗教の混在。自宅には仏壇(仏教)もあるが、神棚(神道)もあり、また12月になれば、クリスマスツリー(キリスト教)を飾る・・・汗
一神教(ユダヤ・イスラム・キリスト教)を信じる彼らにとって、あるまじき行為だと思いますm(__)m
が、これも悪気があることではなく、古来より“神道”は多神教、よく“八百万(やおよろず)の神”といいますが、「日本にいるたくさんの神様達も、仏様、その他海外の神様達も等しく尊い。その時々でいい神様を拝めば良いのでは?」という感覚が今も日本人の中に根強くあるんですよね~m(__)m
とはいいながらも、自分の国の年中行事本来の意味を理解することは、非常に大事なことだと思います(海外の人に説明できないほど恥ずかしいものはありませんものね)
今年の “お盆(花火大会も夏祭りも含めて)” の過ごし方、その意味も噛み締めて、楽しまれてはいかがでしょうか?
挿絵&カバー画像: いらすとや さんより(ありがとうございます)
今年の七夕(7月7日)は日曜日
7月7日は、星に願いを込めるロマンティックなイベント、七夕ですね!
織姫と彦星が年に一度だけ会える夜というストーリーは誰もが知るところですが、七夕の起源や歴史について詳しく知っている方は意外と少ないのではないでしょうか?
特に七夕をなぜ “たなばた” と読むのか?
今回は、七夕の知られざる一面に迫りたいと思います
七夕の起源は中国にあり!
七夕の発祥は、今から約1800年前の中国後漢時代まで遡ります
当時の書物「古詩十九首(こしじゅうきゅうしゅ)」に記されていたものが起源とされ、夜空に輝く星の神秘に由来しています
織姫と彦星の物語
こと座のベガとわし座のアルタイルが7月7日の夜にひときわ明るく輝くことから、中国で織姫と彦星の伝説が生まれました
天帝の娘(孫娘とも)である織姫は、機織りが上手で働き者の女性。天帝は同じく働き者で牛飼いの牽牛と引き合わせました。二人はひと目で恋に落ち、結婚しました
ところが結婚すると遊んでばかりで、働かなくなるという結果に怒った天帝は、二人を天の川の両岸に引き離しましたが、織姫が泣いて悲しんだため、年に1度、7月7日の七夕の夜にだけ会うことを許すようにしたというお話
実際の星の動き
ちなみに、こと座のベガは裁縫の仕司る司る織女星(しょくじょせい)、わし座のアルタイルは農業(養蚕)の仕事を司る牽牛星(けんぎゅうせい)と呼ばれ、どちらも1等星で明るい星です
日本では7月上旬から見えやすくなり、9月上旬ぐらいまでよく観察でき、七夕の頃だと、20~22時ごろ、東の空の下の方に見え始めます
はくちょう座のデネブを加えて、「夏の大三角」とも呼ばれています
新暦の現在は、7月7日は日本の多くが梅雨の最中ですが、かつては旧暦の7月7日だったので、現在でいうところの8月上旬~下旬頃で、昔は晴天率の高い行事だったようです
また、月の動きに基づく旧暦では、7日は必ず半月。その月も22~23時頃には西に沈むため(※地方により多少時間がズレがありますが)、夜半には天の川がよく見える日だったようです
ですから、そんな旧暦の七夕を、国立天文台は「伝統的七夕」と呼んで、毎年公表しています
ちなみに、2024年の「伝統的七夕」は、8月10日(土)です
織女の星に裁縫の上達を祈る「乞巧奠(きっこうでん)」
こと座のベガは、裁縫を司る星とされていました。 中国では、これにちなんで裁縫の上達を祈る「乞巧奠(きっこうでん)」という行事が行われていました
庭先に、五色の糸を通した針7本と、酒肴や果物等の捧げ物をし、織女の星に祈りを捧げます
元々は裁縫や機織りの上達を願うものでしたが、時代とともに芸事や書道など、その幅は広がっていきました
日本への伝来
七夕が日本に伝わったのは755年、第48代孝謙天皇が在位した奈良時代と言われています
当時、遣唐使によって中国の文化が盛んに日本に持ち込まれており、七夕もその流れに乗って伝来しました。当初は宮中行事として、皇族や貴族のみが行っていました
行事も、中国の乞巧奠のならわしにそって、果物や野菜、魚をお供えし、音楽を奏で、詩を読むといったことが行われていました
そういった一連のならわしの中に現代のスタイルである短冊に願い事を書くという風習につながったとのこと
ただし、この頃は短冊ではなく梶の葉に和歌をしたため、願い事をしたそうです
これは梶の木は古くから神聖な木とされている他、葉の裏には細かい毛が生えており、墨が染み込みやすかったためとされています
また墨は芋の葉に溜まった夜露を混ぜて使われていました
この夜露が当時は「天の川の雫」と言われていたそうです
※中国の人が星の輝きから織姫と彦星の伝説を考えついたように、日本の人も自然に不思議な力を感じていたようです
そして、江戸時代になると庶民の間にも広がっていきます
七夕は「五節句」の一つとされ、幕府公式の祝日でした
寺子屋などでは紙の短冊に願い事を書き、読み書きの上達を願ったようです
浮世絵師の鳥居清長が1795年ごろ描いた浮世絵には、いろんな形の短冊が描かれています
江戸時代は経済の発展が目まぐるしく、商売繁盛が時代を生き抜いていくためのカギを握っていました
七夕がこの時代に広まったのは、習い事の上達が商売に直結する要素だったからです
このころからその習わしも、笹の葉に短冊をつるすという現代の形に変わっていきました
笹の葉に願い事を書く日本独自のスタイル
現在の日本で一般的な、笹の葉に短冊を飾るスタイルは、江戸時代に定着しました
笹は生命力が強く、不思議な力を持っていると信じられていました
また、短冊は、中国の五行説に基づき、青(緑)・赤・黄・白・黒(紫)の五色を用います
青(緑)は木(植物)
赤は火(炎)
黄は土(大地)
白は金(鉱物)
黒(紫)は水
※のちに、青は緑も含むようになり、黒は縁起が悪いとして高貴な色である紫が用いられるようになっています
短冊以外の七夕飾りとは?
色とりどりの短冊や、いろんな形の飾りを笹竹に吊す七夕飾り。昔は高ければ高いほど星に願いが届くと考えられ、屋根の上まで高くかかげていたようです
折り紙で作る七夕飾りにはいくつかの種類があり、「七つ飾り」と呼ばれます
それぞれに下記のような意味が込められています
◆吹き流し・・・機織りや、お裁縫の上達を願う飾りです
かつての宮中儀式で、五色の糸を長い針に通してお供えしていたものを、紙で表現したものだそうです
◆くずかご・・・ 清潔、倹約を意味しています
七夕飾りを作るときに出た紙くずを入れて飾ることもあるそうです
◆網飾り ・・・漁業の網から生まれた飾りで、大漁を祈願しています
◆折鶴 ・・・家内安全や、長寿を願う飾りで、千羽鶴にする場合もあります
◆巾着(きんちゃく) ・・・金運の上昇や、貯蓄を願って飾ります。財布の場合もあるそうです
◆紙衣(かみこ) ・・・折り紙で作った人形や着物の形を指します
裁縫の上達を願うほか、病気や災いの身代わりになってもらうという意味もあります
◆短冊 ・・・「五色の短冊」に願い事を書いて飾ります
七夕に食べる料理
◆索餅(さくべい)
小麦粉や餅粉をひねって揚げたお菓子で、唐の時代に日本に伝わりました
今でも奈良県では「麦縄」と呼ばれ、親しまれています
◆そうめん
索餅が、だんだんと進化していったものがそうめんと言われています
例えば、宮城県仙台市では今も400年の伝統を持つ「仙台七夕祭り」が行われていて、そうめんが定番の食べ物です
そうめんには色つきのものもあるので、五色の短冊にちなんで「五色そうめん」もあるそうです
索餅にもっとも近いお菓子が、かりんとうと言われてます
かりんとうは唐菓子(とうがし・からくだもの)が原型、またはスペインの南蛮菓子がルーツともいわれています
東北地方のかりんとうはバラエティ豊富で、秋田県には短冊形や落ち葉の形のかりんとう、岩手県には渦巻き形のかりんとうがあり、どれも個性のあるおいしさだそうです
「七夕」の読み方が「たなばた」なのはなぜ?
七夕を「たなばた」と読むことを不思議だと思ったことはないでしょうか?
これは、日本で古くから行われていた「棚機(たなばた)」という習わしが由来といわれております
棚機は、神様に秋の豊作と人々の穢れを洗い流すことを祈願するため、乙女が着物を織って棚に備えるというものです
遣唐使の時代、仏教が盛んになると、お盆の準備として7月7日の夜に行われるようになり、
七月七日の夜という日付と時刻をそのまま漢字で、「七夕」と表し、読み方は棚機の「たなばた」が受け継がれ、棚機は乙女が着物を織る行事だったため、中国の七夕(乞巧奠)伝説の裁縫を司る星に祈るという要素がそこに共鳴し、これらが一つの行事となっていったとされるそうです※諸説あります
日本の棚機と中国の七夕の時期が重なっていたというのも偶然にしてはよく出来た話ですが、中国から伝来し、日本の文化と融合して独自の進化を遂げた「七夕」
星に願いを込めるロマンティックな行事であると同時に、裁縫や芸事の上達を願うという側面も持ち合わせています
今年の七夕は、その起源や歴史に思いを馳せながら、夜空を見上げてみてはいかがでしょうか?
カバー画像:いらすとや さんより(ありがとうございます!)
ようやくの梅雨入り・・・(憂鬱)
2024(令和6)年梅雨入り
沖縄・・・・・・・・5月21日 平年より11日遅く、昨年より3日遅い
奄美・・・・・・・・5月21日 平年より9日遅く、昨年より3日遅い
九州南部・・・・6月8日 平年より9日遅く、昨年より9日遅い
九州北部・・・・6月17日 平年より13日遅く、昨年より13日遅い
関東・甲信・・・6月21日 平年より14日遅く、昨年より13日遅い
近畿・・・・・・・・6月21日 平年より15日遅く、昨年より23日遅い
東海・・・・・・・・6月21日 平年より15日遅く、昨年より23日遅い
四国・・・・・・・・6月22日 平年より4日遅く、昨年より11日遅い
中国・・・・・・・・6月22日 平年より16日遅く、昨年より24日遅い
北陸・・・・・・・・6月22日 平年より11日遅く、昨年より13日遅い
東北南部・・・・6月23日 平年より11日遅く、昨年より14日遅い
東北北部・・・・6月23日 平年より8日遅く、昨年より14日遅い
なぜ、雨の日を“良い天気”といわない のか?
よく考えるとそうですよね~(反省)
そこで、今回はその疑問や「雨」にまつわる雑学の数々を考察していきたいと思いますm(_ _)m
挿絵画像:Facebook 「ジブリ」より(おっしゃる通り!m(_ _)m)
そもそも “天気(の意味) ” とは?
1. ある地点の ある時刻における 大気の総合的な状態(=気象状態)※意外と難しい
具体的には、気温、湿度、風向き、視程、降水、雲量、気圧などの要素を指すそうな
2. 晴天。※これだ
天気 = 晴天 の概念が
“良い天気” = “晴天な日”
“悪い天気” = “晴天でない(雨もしくは曇りな)日”
という考え方になる
雨の種類が400種以上!?
には、雨の種類を言いあらわす言葉が400種以上あるそうな
日本語には雨を表現する言葉(呼び方)がたくさんあり、一説には400種以上あるそうな※さすが、四季があり、一年中雨が降る国、NIPPON
それゆえに日本人は、昔よりその雨を疎み、時には感謝しながら、共生してきましたが、
その中で、悪いイメージの雨の表現や、逆に良いイメージの表現を解説
ダークサイドな雨の表現
【天気予報でよく聞く言葉】
・大雨(おおあめ)
大量に降る雨。大雨注意報の基準を超える雨
・強雨(きょうう)
大量に降る強い雨
・豪雨(ごうう)
大量に降る激しい雨
・ゲリラ豪雨(げりらごうう)
限られた場所に短時間集中的に降る、急激な強い雨
・集中豪雨(しゅうちゅうごうう)
限られた場所に集中的に降る激しい雨。警報基準を超えるような局地的な大雨
・スコール
短時間に猛烈に降る雨。熱帯地方で雨を伴ってくる突発的な強風に依る
・線状降水帯(せんじょうこうすいたい)
次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなし組織化した積乱雲群によって、数時間にわたり、ほぼ同じ場所を通過、または停滞することで作り出される線状に伸びた、長さ50~300 km程度、幅20~ 50 km程度の強い降水をともなう雨域
【日本古来の言葉】
・鉄砲雨(てっぽうあめ)
大粒の、鉄砲のような強烈な雨
・篠突く雨(しのつくあめ)
細い竹や篠で突くような、激しく降る雨
・飛雨(ひう)
風が混じった激しい雨
・夕立(ゆうだち)
夏の夕方に降る、短時間で降る雷を伴った雨※「スコール」の和名ともいわれる代表的な表現
・神立(かんだち)
神様が何かを伝えようとしている「雷」を指すことから、夕立や雷雨を意味する※“神ってる” “神対応” という良い言葉もありますが、元々“神”は、畏怖の念を抱くものなんですね
・電雨(でんう)
夏に稲妻とともに降る俄雨
・鬼雨(きう)
鬼の仕業ともいえるような、急で激しい雨※「ゲリラ豪雨」の和名ともいえる表現。現代でもよく、“鬼かわいい” “鬼速い” とかいいますよね(笑)
・肘笠雨(ひじかさあめ)
急に降り出す雨。笠をかぶる暇もなく、肘で頭を覆う様子が由来
・長雨(ながあめ)
数日以降降り続く、まとまった雨
・陰雨(いんう)
しとしとと降り続く陰気な雨。「淫雨」とも書く
・地雨(じあめ)
強さが一定の長く降り続く雨
・連雨(れんう)/霖雨(りんう)
連日降り続く雨
・積雨(せきう)
積もっていくように、長く降り続く雨
・宿雨(しゅくう)
前夜から降り続く雨
・漫ろ雨(そぞろあめ)
それほど強くはないが、降り続く雨
・怪雨(かいう)
色がついていたり、異物を含む雨。つむじ風に巻き上げられた魚やカエル、木の実、火山灰などが降ったという観測もある
・時雨(しぐれ)
あまり強くないが、降ったりやんだりする雨。傘を差す間もなくすぐに晴れるような通り雨
・村時雨(むらしぐれ)
ひとしきり強く降り、すぐに通り過ぎる雨※ある意味“村時雨”も「ゲリラ豪雨」ですよね!
・片時雨(かたしぐれ)
ひとところに降る村時雨※まさに「ゲリラ豪雨(局地的大雨)」!
・横時雨(よこしぐれ)
横殴りに降る村時雨
・氷雨(ひさめ)
霙(みぞれ)や雪に変わる前の、非常に冷たい雨※ホント、冷たくて寒い雨も嫌ですね~
・凍雨(とうう)
凍るような冷たい雨
・黒雨(こくう)
空を真っ暗にするような大雨
以上が、雨を悪いイメージにさせる表現
昨今、地球温暖化による異常気象の代名詞といっても過言でもない「ゲリラ豪雨」や「線状降水帯」と似た表現が古来日本にもあるのが、とても興味深い
次に、良いイメージとして・・・
ライトサイドな雨の表現
・翠雨(すいう)
青葉に降り注ぐ恵みの雨
・喜雨(きう)
日照り続きの後に降る喜びの雨。「雨喜び(あまよろこび)」ともいう
・慈雨(じう)
干ばつを救い、草木を潤す恵みの雨。「喜雨」と同義
・甘雨(かんう)
草木を潤す、しとしととした雨。「慈雨」と同義
・緑雨(りょくう/青雨(せいう)
青々とした新緑の草木に降る雨
・紅雨(こうう)
春に咲いた花々に降り注ぐ雨
・白雨(はくう)
夏、明るい空から降る、俄雨※暑い夏の日の俄雨は “一服の清涼剤” になりますよね!
・洗車雨(せんしゃう)
陰暦7月6日、七夕の前日に降る雨。彦星が織姫に会う際に使用される牛車を洗う水と云われている※私も自家用車が汚れてる際に雨で洗車しますね(笑)
・血雨(けつう)
土壌由来の成分を含んだ、赤い色の雨
・作り雨(つくりあめ)
打ち水のこと※別名でこういう表現があるのですね
・樹雨(きさめ)
濃霧の森林を歩いている時に葉から滴り落ちてくる雨※心地よさそうですね
・雪解雨(ゆきげあめ)
冬に積もった雪を解かすようにふる雨※雪国の方には “恵みの雨” では?
・催花雨(さいかう)
花の育成を促す雨。「養花雨(ようかう)」「育花雨(いくかう)」とも呼ばれる
・麦雨(ばくう)
麦が熟する頃(梅雨の時期)に降る雨
以上が、雨を良いイメージにさせる表現
さすが、 “農耕民族” らしい “用水” としての役割が大半ですね
**なぜ、「梅雨」に「梅」の漢字がはいるのか?
次に「梅雨」についてのお話
なぜ「梅雨」というのか?
諸説あるそうで、一般的なものとして下記の二つが挙げられるそうな
1.中国ルーツ説
の揚子江周辺では、梅の実が熟す頃が雨期にあたり、そのことから「梅」の字を使うようになったとされる
2.当て字説
雨によって黴(かび)が生えやすくなることがあげられ、そこから「黴雨(ばいう)」という言葉が生まれたというもの。ただし、語感が良くないので、「黴(ばい)」の字ではなく、「梅(ばい)」という字になったそうな
以上、二つの説で共通することは、「梅雨」は、当初 「ばいう」 と呼んでいたということ
なぜ、「梅雨」は「つゆ」と読むのか?
諸説あるそうで、一般的なものとして下記の二つが挙げられます
1.露(つゆ)けし語源説
雨が多い時期であることから、「露にぬれて湿っぽい 」という意味を持つ
「露けし」 からとったとされる
2.潰(つい)ゆ語源説
梅が熟して潰れる時期であることや、長雨により食べ物や衣服が傷んでしまう時期であることから、「潰ゆ(ついゆ)」 からとったとされる
「梅雨」にも色んなものがある
・入梅(にゅうばい)
梅雨に入ること。由来は梅の実が熟す頃に降る雨から
・栗花落(ついり)
梅雨に入ること。由来は栗の花が散る頃に降る雨から。「堕栗花」とも書く
・五月雨(さみだれ)
旧暦五月に降る長雨。梅雨のこと
・走り梅雨(はしりつゆ)
五月中旬から下旬にかけて降り続く、梅雨入り前の雨
・暴れ梅雨(あばれつゆ)
梅雨の時期の終盤に降る、強烈な雨
・送り梅雨(おくりつゆ)
梅雨明けを知らせる、雷を伴った雨
・返り梅雨(かえりつゆ)
梅雨明け後に、再び雨が降り続くこと。「戻り梅雨」「残り梅雨」とも呼ばれる
・旱梅雨(ひでりつゆ)
雨があまり降らない梅雨。「空梅雨(からつゆ)」「枯れ梅雨(かれつゆ)」とも呼ばれる
・男梅雨(おとこつゆ)
雨が降るときは激しく降り、雨が止むときはすっきり晴れる梅雨
・女梅雨(おんなあめ)
しとしととした、雨脚の弱い梅雨
※「男梅雨」「女梅雨」は、現代ではNG表現ですよね
「雨」にも “におい” がある
皆さんもご経験があるのでは?特に夏の暑い日に降る雨の際にどこからともなく、漂ってくるあの嫌な “におい”
これも、「雨」に対して悪いイメージを与えるのでは?
1.雨の降り始めのにおい・・・ペトリコール(石のエッセンス)
雨が降り始める際に、**アスファルトから漂ってくる** “におい”
これは、カビや排ガスなどを含むほこりが水と混ざり、**アスファルトの熱によって、においの成分が気体**となったものだそうです
この “におい” のことを 「ペトリコール(Petrichor)」。**ギリシャ語で、「石のエッセンス**」と呼ばれ
①雨粒が地面や植物の葉などに落ちた際に、微小な粒子を含んだ**エアロゾル(気泡)が放出**
②植物由来の油が付着したエアロゾルが乾燥した粘土質の土壌や岩石に当たった際に、それらがもつ成分がエアロゾルの中に取り込まれる
③これらが、空気中に巻き上げられ、雨の降り始めの独特のにおいが生じる
そうな
また、雨がまだ降っていないところでも、不思議と雨を感じさせるにおいがするのは、雨が降っているところで、においを取り込んだエアロゾルが、風などによって運ばれてきたことが一因と考えられるそうな
2.雨上がりのにおい・・・ゲオスミン(大地のにおい)
雨上がりの際に、地面から漂ってくる “におい”
これは、土中のバクテリアなどにより作り出された有機化合物で、カビ臭いにおいで、雨水によって拡散するそうな
この “におい” のことを「ゲオスミン(Geosmin)」。**ギリシャ語で、「大地のにおい**」と呼ばれます
「ペトリコール」や「ゲオスミン」の他にも、雨を感じさせるにおいの成分として、オゾンもあるそうな
それにしても、さすがギリシャ 紀元前よりアスファルトを使い、石畳等の舗装道路を作っただけありますよね
「雨」にまつわる妖怪
日本の伝統文化でもある “妖怪”
この中にも「雨」にまつわるものがいて、そのことが「雨」に対して悪いイメージを与えたのでは・・・?
・雨降り小僧/豆腐小僧/雨の小坊主
では雨の神を「雨師(うし)」と呼ばれ、それに仕える子供が「雨降り小僧」だといわれる。
では和傘を頭に被り、提灯を持った姿で描かれ、時に通り雨を降らせ、 人が困る様子を見て喜ぶいたずら好きの妖怪。似た妖怪に「**豆腐小僧」 「雨の小坊主」がいる※ちなみに「豆腐小僧」が持っている豆腐をすすめられて食べてしまうと、体中にかびが生えるそうな(誰が食べるかっ**)
・すねこすり
犬のような姿をし、雨の降る夜に現れ、夜道を歩いていると、足の間をこすりながら通り抜けたり、歩いている人の足をひっぱって転ばせるという妖怪※メッチャ迷惑な妖怪や
・雨女
ルーツが諸説あり。
①産んだばかりの子供を雨の日に神隠しに遭って失った女性が「雨女」となり、泣いている子供のもとに大きな袋を担いで現れ、さらっていくもの
②雨の日に訪れる神が堕落して妖怪化したもの
などがある
基本、「雨を呼ぶ迷惑な妖怪」とされるが、干ばつが続いたときに雨を降らせてくれる「雨を呼び人を助ける妖怪」という神聖な「雨神(龍神)」の一種とされることもあるそうな※その昔、 自称「雨女」の会社の同僚が 慰安旅行で、本当に天気を覆して大雨を降らし、時の上司に「雨が降らない砂漠の国の王子の嫁になれ❗」と今なら立派なモラハラになることを言われてたの思い出しました(ある意味、神ってるよな~)
ちなみに、私も 迷惑な 「雨男」 です
最後に、これから始まる「梅雨」の時期が楽しく過ごせるよう
「雨」にまつわる歌をご紹介!
「雨」にまつわる歌
参考URL:mora さんより (ありがとうございます!)
「雨の日」の髪の広がりやうねり、本当に嫌ですね
「雨の日」の過ごし方の本
ちなみに、私の大好きな歌は 「はじまりはいつも雨」 です
カバー画像:いらすとや さんより (ありがとうございます!)
REMEMBER 3.11
3月16日に起きた地震でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、 被災された皆様の一日も早い、原状回復を願っております
さて、早いもので、あの『東日本大震災』から今年で、11年の歳月が経ちました
例年、3月11日に合わせ、国や各地方自治体で、追悼式が開催されてきましたが
政府主催の式典は、節目の10年ということで、今年が最後となり、東北各県の自治体も政府に倣うもの、新型コロナウィルスの影響による中止、式典の規模縮小や形態の変更など、“記憶の風化” を危惧する声がきかれました
「記憶を風化させてはならない」
『東日本大震災』のような大きな災害や、昨今のロシアによるウクライナ侵攻(もはや戦争といっても過言ではありません)等が発生すると、必ずマスメディア上にあがる “フレーズ”
そもそも “記憶の風化” とは
歳月の経過に伴い、その出来事の記憶が薄れていくこと
大阪在住の私は、あの『阪神淡路大震災』を経験し
昨日食べた夕食の献立の “記憶” は定かではありませんが(笑)
2つの震災の “記憶” は、27年、11年経った今も鮮明・・・、ではないにしろ、残っています
戦争や災害、事件、事故等における “記憶” の特異性
一般的に“記憶” とは、“経験した出来事を心の中にとどめ、忘れずに覚えていること” で、主にその出来事を直接経験した当事者のものですが、戦争や災害、事件、事故における “記憶” は、マスメディアを介して話題にあがる頻度が高く、当事者だけでなく、それを経験していない第三者にとっても、インパクトの強いものになります
実際、私も 『阪神淡路大震災』 『東日本大震災』 が起きた時、直接的な経験(被災)はしておらず、その時の(中軽微な)揺れを体感したり、震災後の被害状況を客観的に見たに過ぎません・・・
が、例年震災が起きた日が近づくと、関連記事やテレビ、ネット放送を巷で目にすることによって、あの時の “記憶” を思い起こさせてくれます
“記憶” を風化させないことの意義
そもそも、戦争や災害、事件、事故等における “記憶の風化” を防ぐことによって
1.(加害者側に立って)同様の事柄による過ちを繰り返さない
2.(被害者側に立って)災害や事件、事故を未然に防ぐ
3.被害を(最小限に)抑える/善後策を講じる
ことが活かされると言われますが、この “記憶の風化”ふ にとって一番難しいのが
1.当事者、または同世代に生き、間接的に経験した第三者から次世代への伝承
2.伝承された(次世代の)第三者における“記憶”の維持、次々世代への伝承(語り継ぐという作業)
です
自分が経験した “記憶” 、特に忘れたくても忘れることができない悲しい(悔しい)出来事は、なかなか “風化” しにくいものですが
間接的に経験、伝承された者にとっての “記憶” は、どうしても希薄になりがちです(他人事ですもんね)
“記憶” を風化させない手立てとして
現在では、マスメディアを通じて、その出来事の映像、記事や(科学的)データ等が、いつでも、どこでも目にすることができ、“記憶の風化” を防ぐ手立ての主流といっても過言ではありません
では、今のような文明の利器がない時代、どうやって、戦争や災害、事件、事故等における “記憶の風化” を防ぐ手立てを講じていたのでしょうか?
石碑は物語る
石碑・・・せきひ。いしぶみ。後世に伝えるため、人の事績や災害、事件、事故等を記念や戒めの文として、刻みつけた石造りの碑
参考URL&挿絵画像:Wikipediaより(ありがとうございます!)
関西在住でご存じの方はいらっしゃるかと思いますが、大阪市内の京セラドーム近くにある『大地震両川口津浪記(だいじしんりょうかわぐちつなみき)』という名の石碑
その昔(江戸時代)に大阪にも津波が来たそうで、1854年12月24日の※安政南海地震後に発生した津波の状況とその津波にで亡くなった犠牲者への慰霊、1707年に発生した宝永地震の時に起きた同様の災害の教訓が生かせなかったことを、後世への “戒め” として残すため建立されたもの
江戸時代後期の1854年12月24日(嘉永7年旧暦の11月5日)に発生した南海トラフ巨大地震の1つ。約32時間前の12月23日(旧暦の11月4日)午前9~10時に発生した『安政東海地震』と共に、『**安政地震』、『安政大地震』**とも総称される。この地震が起きた当時の文書には『嘉永七年』と記録されているが、この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元され安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる
高校生の時に、たまたま石碑の近くを通りかかり、この存在を知った次第でm(__)m
石碑に刻まれている文章を直接読み取ることはできず、石碑の内容を補足説明する欅板の看板やその後方に設置されている解説看板で、その内容がかろうじてわかり(笑)、感慨にふけった “記憶” が・・・
碑文の内容
・先ず、嘉永7年6月14日の午前零時頃に大地震があり、大阪の町の人々は川のほとりにたたずみ、4~5日間、余震に恐れながら、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良で死者が多く出た
・次に同年11月4日の午前8時頃に大地震が発生した。以前から恐れていたため、空き地に小屋を建て、お年寄りや子供達が多く避難していた
・地震が発生しても、水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところに、翌日の5日午後4時頃、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生、それらがおさまった夕暮れに、雷のような轟音とともに一斉に津波が押し寄せてきた
・安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀に泥水が約1.4メートルの深さまで流れ込んだ
・安治川・木津川両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちた
・さらに、大きな道路にまで水が溢れ、慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もいた
・道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し、川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった
・大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その轟音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった
・また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると、心配した人々が上町(台地)方面へ慌てて避難した
・その昔(宝永4年10月4日)の大地震の際も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人が多かったと聞いているが、長い年月が過ぎ、このことを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今回もまた同じように多くの人々が犠牲となってしまった
・今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけないし、建物は壊れ、火事になることもある
・お金や大事な書類などは大切に保管し、何よりも「火の用心」が肝心である
・川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、もしくは早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである
・津波というのは、沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもある
・海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもあり、今回の地震で大和の古市(奈良県北部)では、池の水があふれ出し、家が数多く押し流されたが、これと同じ現象なので、海辺や大きな川や池のそばの住民は用心が必要である(今でいう液状化現象ですね)
・津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、(後世の人々に対し)十分心得えるように
3.犠牲者への慰霊ならびに 後世の人々(我々)への依頼
・犠牲になられた方々のご冥福を祈る(仏教の題目も書かれている)
・つたない文章であるが、ここに記録しておくので、心ある人は、時々この碑文が読みやすいよう(時の経過とともにこの石碑に刻まれた文の墨が薄くなっていくことを思ってか)墨を入れ、伝えていってほしい
1855年7月に建立されて以来、幾度か移設されたものの、碑文が読み易いように住民たちが適宜、碑文に墨入れを行い、管理され続けているそうです
高校時代の懐かしい “記憶” が蘇りました!m(__)m
参考YouTube:TSUNAMI JAPANさん 【安政南海地震】大地震両川口津波記 より(ありがとうございます!)
石碑以外に、当該の集会や式典、記念館・歴史資料館等の存在があります
それらも石碑同様、自ら現地に赴き、実際に経験された方々のお話や、発生した場所や遺物を目で見、耳で聞き、心に感じるという、本当の意味で “記憶の風化” を防ぐ、良い手立てではないでしょうか?
実は日本全国に、このような石碑が結構あって
ご興味のある方は、下記URLで地元にある石碑を調べ、ご散歩がてら、実物をご覧になり、先人の遺訓に思いを馳せ、災害における “記憶の風化” 防止の一助にされてみてはいかがですか?
皆さんの地元にも石碑があれば、是非!
参考URL:国土地理院 「自然災害伝承碑」より(ありがとうございます!)
東北にも昔からこういった石碑が沢山あるんですね~
石碑に刻まれた伝承・「教訓」より(ありがとうございます!)
11年前の『東日本大震災』は、本震とされる『東北地方太平洋沖型地震』の平均発生間隔として、約600年程度とされているそうです
このような大地震は、そうそう起きるものではありません
が、未だ “余震” と称する大きな揺れが発生し続け、また約600年後に本震が発生するとも言われています
これは『東日本大震災』に限ったことではなく、日本には地理的な条件に起因し、またいつか発生する可能性が高いところが多く、それゆえ長い間地震が起きなかったとしても、いつかは起きるものとして、その地における “記憶” を風化させないことが、そこに住む人々を守ることに繋がります
また、震源地に該当しない地に住まれていても、総体的な地震・災害の “記憶” を風化させず、自発的に心に留め置くことができれば、いざ地震が起きても、守られる命は多分にあるかとも思います(移動手段が発達した現代では、どこにでも行くことができ、そのため、旅行や出張先で地震に遭う可能性もゼロとは言えませんものね!)
戦争や災害、事件、事故等における “記憶” を風化させないこととは、守られる命を増やすことに繋がる
最後に・・・
人の上に立つ者(為政者)こそ肝に銘じて欲しい “石碑”
『戒石銘』の原典は、965年、の後蜀(ごしょく)の君主、孟昶(もうちょう)が作った “二十四句九十六文字” の 『戒諭辞(かいゆじ=戒め諭すことば)』 だといわれています
983年、北宋(ほくそう)の君主、太宗(たいそう)が、この『戒諭辞』より “四句十六文字” を抜き出し、『戒石銘』とし、これを官史に示し、戒めとしたそうな
その後、南宋(なんそう)の君主、高宗(こうそう)が 『戒石銘』 碑を、各州県に頒布し、この時代中国全土に広く建てられたとされています
所変わって 1749年(寛延2年)、二本松藩の第五代藩主、丹羽高寛(にわ たかひろ)が、藩士達の戒めとするために建立したもの。藩の儒学者、岩井田昨非(いわいだ さくひ)の進言によって建てられたといわれてます
この石碑には、こう刻まれている
爾俸爾禄 “なんじの俸(ほう) なんじの禄(ろく)は”
民膏民脂 “民の膏(こう) 民(たみ)の脂(し)なり”
下民易虐 “下民(かみん・げみん)は虐(しいた)げやすきも”
上天難欺 “上天(じょうてん)は欺(あざむ)きがたし”
この “四句十六文字” の意味合いとしては
『お前が手にする富は、すべて民の汗によるものである。下々の民は、権力で押さえ従わせることができても、天を欺くことはできない』(だから自分を律し、身を慎み、民を大切にしないといけないかと!)
元来、この碑文は、為政者が家臣を戒めるために残したもの・・・
ですが、この先人の言葉を、後輩である現在の中国、ならびに、ロシアの為政者のお二方に是非、読んでいただきたいものです
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
書籍も “記憶の風化を防ぐ手立て” “守れる命を増やすこと” に繋がります!
カバー(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
カバー(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
ひな祭りもおわりましたね~!
お嬢様をお持ちのご家庭の皆さんは
もう※お飾りのお片付けは済まされました?
ヤバい! うちはまだだ~!!
娘たちが行き遅れる~!!!
※お飾りのお片付けのタイミングはあるの?
特にないとのことですが、下記の時期に片付けると良い。言われているそうな
1.ひな祭り(3月3日)が終わったらすぐ片付ける地方が多いが、4月3日(旧暦の3月3日)まで飾る地域もあるそうな(良かった!まだ大丈夫!!)
2.※二十四節気の一つ、啓蟄(けいちつ)に片付けるのがベストと言われてるそうな※新暦でいうと、実は今日です!
元々ひな祭りは、※(五)節句の一つ、『上巳(じょうし)の節句』(別名、桃の節句とも呼ばれる)で、二十四節気と共にから持ち込まれた “季節の節目” に関する慣習で、その節目に片付けると良いとされるのが理由らしいです
ですから、ひな祭りから約2週間を目安に。とか、 新暦の3月の中旬頃、旧暦なら4月中旬くらいまでに片付けるのが良いとよく言われるのは、下記の二十四節気に該当すれば。と言うことらしいです
【今年のひな祭り後の二十四節気】
啓蟄(けいちつ)3月5日(旧暦では4月5日になる)
春分(しゅんぶん)3月21日(旧暦では4月21日になる)
清明(せいめい)4月5日
3.一番科学的で(笑)、かつ、理にかなっているのが、天気!
よく晴れた、湿気の少ない日に片付けると良い。ひな人形に使用されている生地は湿気に弱く、天候の悪い、湿度が高い日に片付けると人形に湿気が残り、カビやシミの元になるそうな
ひな人形を片付けるのが遅れると、婚期が遅れる。と言われますが
結論から言うとただの迷信です
その昔、「片付けがちゃんとできないようでは、きちんとした女性になれず、お嫁にもいけない」と、しつけの意味を込めての言い伝えで、かつ、 情操教育のひとつとされたのです※女性に限らず、男性もしかり!(反省)
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※(五)節句
さて、前回のつづきですが・・・
ひな飾りの中心人物である 『お内裏様』 と 『お雛様』 にも
“かみしも(上座下座)” があることをご存じですか?
古来の礼法のしきたりで、「左上右下(さじょううげ)」という言葉があり
その中で一番偉い人、格の高い人、年配の人等が、一番左に座り(左上座)
その右以降は、次に偉い人、格の低い人、若い人等が座る(右下座)
という意味で、元々はから伝わったしきたりで、日本の飛鳥時代(中国は唐の時代)から明治時代に欧米のしきたりが入るまで、中心だった考え方でした
ですから、京都に都があった時代の帝(今の天皇陛下)は、妃(今の皇后陛下)の左側、つまり、我々から向かって右側に座っていました※今回のカバー画像は欧米のしきたりで並びが逆
明治時代になって、欧米のマナー(※プロトコル)が日本へ入り、皇室のしきたりが変化したそうな
大正天皇が皇后陛下の右に立って写真を撮影して以来、現在に至るまで天皇陛下の位置は皇后陛下の右側(我々からみて左側)が決まりとなった
そして、昭和3(1928)年、昭和天皇が皇后陛下の右にお立ちになった御大典(即位の式)の写真が全国的に広まった頃より、東京を中心に、ひな人形のお内裏様を我々からみて左側に、お雛様を右側に飾るようになったそうな
その際、二段目以降の人形の位置は変わらなかったために、お内裏様は右上位(我々からみて左側)ながら、代表的な随身一位の左大臣は、左上位(我々からみて右側)のままと新旧二つのしきたりが介在することなる※ややこしい・・・
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
しかし、京都のように古い慣習を大事にする土地では
現在も昔の「左上右下(左上座右下座)」で飾っています
「京(風)雛」 と
それ以外の 「関東(風)雛」 の違い
一段目、お内裏様とお雛様について
1.お内裏様とお雛様の位置
【京雛】
古来の「左上右下」のしきたりのもと、お内裏様が左上位(我々からみて右側)
お雛様が右下位(我々からみて左側)
【関東雛】
お内裏様が我々からみて左側(右上位?)で、お雛様は右側(左上位?)
実は、現在の※ひな祭り(ひな人形)の形は、江戸時代初期に武家の子女等、身分の高い女性の嫁入り道具の家財の一つとして作られたらしく、元々は京ではなく、江戸がルーツだといわれてます
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※ひな祭り(ひな人形)
では、何故「関東雛」のお内裏様が左側で、お雛様が右側なのかというと・・・
徳川第二代将軍であり、最終官職として太政大臣にもついた、徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘、東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)が当時天皇だった第108代天皇の後水尾(ごみずのお)天皇に嫁ぎ、皇后となり、その間にできた娘(内親王)が、のちの第109代天皇の※明正(めいしょう)天皇となったために
お雛様が女帝だから、左上位(我々からみて右側)
お内裏様が右下位(我々からみて左側)※実際は、「女帝は即位後、独身を通さなくてはいけない」という不文律があり、生涯独身で、74歳に崩御されたとのこと
参考URL:Wikipediaより(ありがとうございます!)
※明正(めいしょう)天皇
2.お内裏様とお雛様の顔
【京雛】
特徴は、細面で鼻筋が通っており、目は切れ長な、高貴な顔
【関東雛】
特徴は、少しふっくらとした顔立ち。目が大きめ、口元は少し笑っている現代的な顔だそうな
二段目、『三人官女』について
【京雛】
中央の官女が持っているのは、「※島台(しまだい)」
参考URL:コトバンクより(ありがとうございます!)
※島台(しまだい)
【関東雛】
中央の官女が持っているのは、「三方(さんぽう)」で、盃を乗せる台のこと
現在のひな飾り(ひな人形)では、「関東雛」 の 「三方(さんぽう)」 がポピュラーです
三段目、『五人囃子』について
基本、「京雛」 「関東雛」 とも
能楽の地謡(詞章を合唱する演者)と囃子方(能の音楽を担当する奏者)ですが
たまに、※雅楽の楽士を並べるものもあるそうです
参考URL:文化遺産オンラインより(ありがとうございます!)
※(五人囃子)雅楽の楽士
五段目、『仕丁(しちょう・じちょう)』について
挿絵(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
仕丁(しちょう・じちょう)とは、平安時代以降、身分の高い家のもとで、雑務に従事したもののことで、地方から出てきて無報酬で働いていた、ひな人形の中で唯一の庶民です
そういった境遇でもあるため、「怒り」 「泣き」 「笑い」 という三つの表情で作られていることが多く、「三人上戸(さんにんじょうご)」とも呼ばれるそうで、「京雛」 「関東雛」 では、持ち物が違います
【関東雛】※上記挿絵画像参照願います
・我々から向かって左側の仕丁
血色の良い、うすだいだい色の肌をした「怒り」の中年男性で、台傘(日傘)をもっている
・中央の「泣き」の仕丁
血色の悪い(?)、色白の肌をした「泣き」の青年男性で、沓台(沓を置くための台)をもっている
・我々から向かって右側の仕丁
血色の良い、うすだいだい色の肌をした「笑い」の老人男性で、立傘(雨傘)をもっている
【京雛】
・我々から向かって左側の仕丁
基本、血色の良い、うすだいだい色の肌をした「怒り」の中年男性で、熊手をもっている
・中央の「泣き」の仕丁
基本、血色の悪い(?)、色白の肌をした「泣き」の青年男性で、ちりとりをもっている
・我々から向かって右側の仕丁
基本、血色の良い、うすだいだい色の肌をした「笑い」の老人男性で、竹箒をもっている
これは余談ですが、前編に
ひな人形の中で、お顔(肌)の色で血行の良い方々は、『左大臣(老人)』 と一部の『仕丁(しちょう・じちょう)』 だけとお話しましたが、どうやら、中高年(老人)層の人形だけ、肌の色が濃い傾向にありますね~※是非、ご自宅のひな人形で確認してください!
現在にもいきづく
“かみしも(上手下手)”の慣習
前編に、今回の話題に関する内容を
私が専門学校で教鞭をとっていた時に授業をしたと申し上げましたが
将来ホテル・ブライダル業界の就職を目指す(ほとんどが女子)学生に対し
古来の “かみしも” ならびに、欧米における “かみしも(プロトコル)” が混在する
このややこしい日本で(笑)、少しでも理解を深めてもらうために授業をしたという経緯がありまして、最後にその時に話した内容を少しばかり・・・
舞台ならびに落語のおける “かみしも(上手下手)”
基本、舞台は、我々からみて、右側が上手、左側が下手ですが
これは、舞台(からみて)を中心にして、「左が上手」 「右が下手」 が原則だからなんです
挿絵(画像):「いらすとや」さん作(ありがとうございます)
その影響は、落語の “かみしも(上手下手)” にもいきづいています
一人で話す「落語」において、どちらを向いて話をしているかで、その人物の身分や年齢がわかります
の演劇では
「上手(我々からみて右側)」に「身分の高い人」や「年上の人」が座る設定になっていることから
落語においても
「上手」を向いて話している人は、「身分の高い人」 「年上の人」
「下手」を向いて話をしている人は、「身分の低い人」や「年下の人」となるわけです※ひな人形の左大臣右大臣と同じでしょ?
結婚式における “かみしも(上手下手)”
における代表的な結婚式のスタイルは 「神前式」 「キリスト教式」 でして
新郎・新婦の立つ位置は同じ、新郎の左側に新婦(=新婦の右側に新郎)です
我々からみて、左に「新郎」 右に「新婦」 です
が、その理由がそれぞれ違うのです
「神前式」の場合
式場内の神様がいるご神殿からみて
「左が上手」 よって 「新郎」
「右が下手」 よって 「新婦」
日本古来の「左上右下(左上位右下位)」の原則で
我々からみても 「左に新郎」 「右に新婦」になのですが
“かみしも” 上、神様からみて “上手下手” なんですね~(難)
「キリスト教式」の場合
欧米の “かみしも(プロトコル)” にのっとって
「並んだ時に右側に来る方を上位とする」
「右上左下(右上位左下位)」 が原則なので
「新郎」 「新婦」 本人からみて
「右が上手」 よって 「新郎」
「左が下手」 よって 「新婦」
我々からみると、「左に新郎」 「右に新婦」 となるわけです
いかがだったでしょう?
まだまだ “かみしも(上手下手)” に関するお話は
つきませんが、今回はここまでに・・・m(__)m
それよりも、早く
ひな人形を片付けないと!
カバー(画像):「しぶしぶ」さん作(ありがとうございます)
もうすぐひな祭りですね~!
お嬢様をお持ちのご家庭の皆さんは
もう※お飾りは済まされました?
※お飾りのタイミングはあるの?
特にないとのことですが、下記の時期に飾ると良い。とも言われているそうな
1.二十四節気の一つ、立春(節分の翌日)にかけて、飾るのが良いと言われている。節分の豆まきで厄を払われたのでいいそうな
ちなみに今年の立春は2月4日(金)~18日(金)でした!
2.同じく、二十四節気の一つの雨水(うすい)に飾ると良い。と言われている。その時期の暖かさで、雪が溶けて雨水として降りそそぐ日で、昔から農耕の準備を始める目安にされてきたそうな。
また、(雨)水は生命の源でもあり、水の神である**※弥都波能売神(みづはのめのかみ)**は、豊穣をもたらす農耕神でもあり、子宝や安産の神とも信仰されており、雨水の日にひな人形を飾ることは、良縁につながるそうな
ちなみに今年の雨水は2月19日(土)~3月4日(金)なので、前日の3月2日(水)までOKということになるのかな?
※弥都波能売神(みづはのめのかみ)
うちは既にお飾りを済ませましたが
毎年のように、飾り方(人形の配置)に悩まされております(笑)
皆さんはいかがですか?
そこで今回は、私が専門学校で教鞭をとっていた時にも
この話題に関する授業をしたことのある
『ひな人形のお飾り』についてのお話を・・・m(__)m
すべては、かみしも(上手下手)のルールに基づいて
今回のタイトルにした
『※左近の桜』 『※右近の橘』 に代表されるように
ひな飾りの “アイテム名称” と “飾る位置” が逆であるところが多いのです・・・※カバー画像参照願いますm(__)m
ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが
本来このひな飾りは、宮中をイメージしています
そう、の宮中、皇居(時代的には京都御所)です!
正確には、京都御所の紫宸殿の前にある
『左近の桜』 『右近の橘』 ですが
実物も入場し、我々からみて、『左に橘』 『右に桜』が配置されています
その理由は エライ人からみての “上手下手(左側右側)”
そう、紫宸殿内におはします(笑)
『左に桜(左近の桜)』 『右に橘(右近の橘)』 となるわけです
これは、ひな人形の『※左大臣(老人)』 『※右大臣(若者)』 にもあてはまります
挿絵(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
の律令制度時代の下で中央役所に置かれた官職を指す
本来は、太政大臣が一番上の役職だが、適任者がいない場合は空席でも構わないそうで、その次の左大臣が最高役職となり、右大臣 がその補佐的な役目であったといわれている
現在の官職に例えると、左大臣が内閣総理大臣、右大臣が副総理で、官職での順位では、「太政大臣→左大臣→右大臣」であり、左大臣の方が右大臣より役職が上となる
上記官職についた歴史上の有名人として
道鏡(どうきょう)
平清盛(たいらのきよもり)
【右大臣】
たちが、いらっしゃいます
また余談ですがm(__)m、童謡・唱歌で有名な『※うれしいひなまつり』の歌詞(二番)に
『すこし白酒 めされたか 赤いお顔の右大臣』 とありますが・・・
ひな人形の中で、お顔(肌)の色が血行の良い※肌色(スミマセン!今はうすだいだい色ですね!!)の方は、『左大臣(老人)』 と 一部の『仕丁(しちょう・じちょう)』 だけで、あとの皆さんは白肌?(白塗り?)なんですね~※是非、ご自宅のひな人形で確認してください!
ですから、作詞された方が、右に位置する『左大臣(老人)』を『右大臣』と間違えたのでは?という都市伝説もあるそうです
あと、帝の人形を「お内裏様」、妃の人形を「お雛様」と呼ぶのは、この童謡が元となったそうで、実は誤りらしく、一対で「内裏雛(男雛・女雛)」というそうです
※うれしいひなまつり
参考URL:『暮らしを便利にもっと豊かに』より(ありがとうございます!)
※肌色(英会話にも役立つお話!!)
ということで、ひな人形の飾り方は
基本、お内裏様、お雛様目線での “かみしも(上手下手)” を考えると
それ以外の人形の配置も理にかなうようです・・・
二段目、『三人官女』の持ち物と役どころ(序列)
『官女(かんじょ)』とは、天皇・皇后の住まいである内裏(だいり)に仕える女性のことで、平安時代には「女官(にょかん)」と呼ばれていたそうですが、明治時代以降は「女官(じょかん)」という呼び名に統一されたそうな
ですから、『官女(かんじょ)』は正式な呼び方ではなかったようですね~
挿絵(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
・我々から向かって左端の「加えの銚子(ちょうし)・提子(ひさげ)」を持っている官女
加えの銚子(ちょうし)・提子(ひさげ)とは、注ぎ口が付いた小鍋のような形をした金属製の容器のこと
中にお酒を入れ、向かって右端の官女が持つ長柄銚子(ながえちょうし)に移すための道具であり、その役どころから、お内裏様・お雛様側からみて、右側に配置。序列としては3位(一番しもて)
・中央で「三方(さんぽう)」を持っている官女
三方(さんぽう)とは盃を乗せる台のこと
ひな飾りでは、年長のリーダー的存在である官女が持ち、ひな壇でもこの官女のみ座っているケースが多く見られる。役どころの序列としては2位(年功序列では1位)
ちなみに、年長である証拠として、中央の官女だけ眉毛がなくお歯黒の容姿をしており、これは彼女が既婚者であることのしるし。つまり、眉毛があり、口の中も黒くない両端の官女は未婚の女性であることがわかります※是非、ご自宅のひな人形で確認してください!
・我々から向かって右端:「長柄銚子(ながえちょうし)」を持っている官女
長柄銚子(ながえちょうし)は、加えの銚子(ちょうし)・提子(ひさげ)によって移されたお酒を盃に注ぐための道具
3つの道具の中で、お内裏様やお雛様から最も近く酌(本酌)をするため、格が高い役どころとされ、お内裏様・お雛様側からみて、左側に配置。序列は1位(一番かみて)
三段目、『五人囃子(ごにんばやし)』の持ち物と役どころ(序列)
挿絵(画像):「実鈴」さん作(ありがとうございます)
雛飾りでは、お内裏様とお雛様の結婚式の宴をイメージしており
『五人囃子(ごにんばやし)』は、その宴に唄や舞、演奏を披露し、盛り上げる役どころである
通常子供のようにあどけない顔に作られており
本来、貴族等名士の子息で、元服を控えた11歳~16歳くらいの少年がモデルとされている
我々から向かって右から
・謡い(うたい)
・横笛(よこぶえ)
・小鼓(こつづみ)
・大鼓(おおつづみ)
・太鼓(たいこ)
の順で、左へ行くほど音の大きい楽器になっていきます
つまり、一番難しいとされる役どころ、唄や舞(踊り)をする、謡い(歌手)がお内裏様・お雛様からみて左側(かみて)で、序列1位(やはり、ジャイアンじゃ困りますもんね~)
次に、楽器の中でも熟練を要する、横笛、小鼓(手でたたくもの)、大鼓(指革をつけてたたくもの)、太鼓(バチでたたくもの)と順に続きます!
以上、今回(前編)は
『ひな人形のお飾り』、各人形の役どころと序列(かみてしもて)
についてのお話しましたが
次回(後編)は、残りの人形である
『お内裏様』 『お雛様』 『仕丁(しちょう・じちょう)』 の役どころと序列
これには、関東風雛と京(関西)風雛の違いがあることと
日常、何気ないところに “かみしも(上手下手)” の慣習が残っていることについて
お話させていだきます!m(__)m