2ペンスの希望 (original) (raw)

古人の遺した金言は幾つもある。

牧野省三

牧野省三の「一スジ 二ヌケ 三ドウサ」については、何度も書いてきた。が飽きない。汲めども尽きせぬ泉。先の「新世代映画監督」本で内山拓也さんはこんな風に自身の覚悟を語る。

全部壊すために一所懸命準備する。

そうなのだ。一スジ、は全部壊すための入念設計図づくり。綿密な準備・緻密な作りなしの見切り発車・準備不足は避けるべし という戒め。

二ヌケ、はカメラの特性を知れ ということ。

濱口竜介さんは『他なる映画と 1』で「カメラは容赦なくすべてを写してしまう「暴力性」と「断片性」を持つ」と指摘する。さらに『他なる映画と 2』では、細心精密な機械特有の「無関心」とも書いている。(「ある覚書についての覚書ーロベール・ブレッソンの方法 」)さて、そのうえで、

三ドウザ、はすべてを現場に集中せよ という教えだろう。

勝負は撮影現場にある。成果・結果は、ドウサの一回性・不安定性で決まる。濱口本ではコレを「偶然性」と記す。すべての準備を現場に集め、役者のドウサ≒身体性と動線に結集し「正確な偶然」の生起をつぶさに記録せよ、と。

つまり〝現場主義〟のススメ。

事前に周到な準備を整えた上で、カメラの特性を踏まえ、スタッフキャスト全員の理解を深めて、それぞれが持ち場のドウサを全うして撮影の一回性に賭けよ、ドウサは役者にとどまらない。すべてのスタッフのふるまい・アクション・パフォーマンスを含む。これがマキノのおしえではなかろうか。という新釈。さてはて 珍釈??。

頭に乗って、新釈(珍釈)をもうひとつ 「 守 破 離 」。(コレ言い出したのは誰? 千利休世阿弥、いや 宮本武蔵・沢庵和尚の言葉だ、と諸説あるようだが‥誰でもよかろう。金言であることに変わりない。)

:型や技の基本を身につけるのは「楽をする」ため

:自分で考え工夫するのは「自己表現」のため

:コレ即ち自己表現を携えて「世界に出ていく」ため「他者と出会う」ため

ふとそう思った 今日この頃。

荒木重光さん編集の本『恐るべき新世代映画監督たち』を読んだ。

2024.9.13. K&Bパブリッシャーズ

「恐るべき‥」とはこれまた大きく出たもんだ。恐らく ジャン・コクトー恐るべき子供たち』のもじりだろうが‥恐れ入る。

1992年から1999年生まれ 20代半ばから30代前半の年若い日本映画の最若手監督四人にインタビューした本。残念ながらどなたの映画も観ていない。従って「恐るべき」かどうかは未知数、さておく。正直 まだまだ青くて若い。大成するかどうかは今後の精進次第。けど、映画の力を信じ、映画の歴史を学び、先人たちの蓄積に敬意を払う様子が感じられ、好感を持って読んだ。

いずれも身の回り・身近な日常に視点を置きながら、同時代を生きる世界・地球の隅々まで射程を伸ばそうとする姿勢は、頼もしい。

印象に残った発言を二つほど‥

山中瑤子さん「わけのわからないものにばったり邂逅できるのが映画の良さで、自分は映画のそういうところが好きなんです。」

山拓也さん「映したいもの、映ってほしいものは限りなく映ってくれないものなんだという感覚があり、ということは、それは本来映しちゃいけないものなっじゃなかいという考えにも至ります。でも一方で、記録をしていかないと歴史を知ることや繋いでいくこと、わたしたち現代人の学びにならないし、時には言語の壁を超えて国際的に共有することもできなくなってしまう。」

四人のうち三人が、映画祭上映を通じて海外資本の出資を得ているというのも、捨てたものじゃない。。

こじんまり自主映画に縮こまるのでなく、「作家性とエンタメ性と独創性を兼ね備え」(編集者=荒木重光さんによる「まえがき」)グローバルな展開を見据え、産業としての日本映画の再生・賦活を目指しているのなら、得難く有り難いことだ。静かにしっかり見守りたい。

覆面作家舞城王太郎がこんなことを書いているのを読んだ。

「小説、マンガ、実写映画やドラマ、そしてアニメなど、物語にはいろんな表現の方法があって、それぞれに、それじゃないと踏み込めない領域や、見せられない情景や、獲得できないリズムや、飛び込めない世界観というものがあるんじゃないかと考えています。言い換えればそれぞれにそれぞれの味があります。同じ物語でも表現によって味わいの違いが生まれ、上手くいけば膨らみと深みと喜びと楽しみを大きくするはずだと思います。」(太字強調は引用者)

2014年11月7日に日本アニメ(-ター)見本市第1回として配信された短編アニメ『龍の歯医者』に原案を提供し脚本・監督 を務めた際のインタビューでの発言だ。続けてこうある。

「表現方法の選択で、実際的に異なるのは単純にそこに関わる人数と時間で、小説なら一人、マンガなら一人から数人、実写映画やドラマなら登場人物分の役者と必要な分のスタッフが関わりますが、アニメは登場人物の一挙手一投足に大勢の描き手が必要です。登場人物がヨッと手を挙げる動作なら、小説ではそう書くだけ、マンガなら1コマ、実写なら役者とスタッフ揃ってもらって数時間仕事、アニメは絵コンテ描いてレイアウト決めて原画を描いて動画を描いてそれをチェックしてひょっとしたら直して色塗って背景塗って重ねて撮影して何かの失敗や不具合が出たらリテイク取って撮影し直し、という過程に大勢のスタッフが関わり続けます。大変です。た〜〜〜〜〜〜いへんです。いやもうホント、小説でなら「よっ、」のひと言なのに。
でもその大変さを経て表現するアニメにしか獲得できない味わいが確かにあるのです。それを求めて、そしてそれを極めるべくこれからも大勢の人たちが頑張るわけですし、舞城王太郎自身も精進していきたいと思います。」

YouTubeに予告がある。

www.youtube.comココではアニメ重視の発言だが、実写映画だって同様だろう。「小説でなら「よっ、」のひと言」のところ、「映画にしか獲得できない味わい」を産み出すのは「た〜〜〜〜〜〜いへん」だ。映画を観て「原作と違う!」と文句を言う御仁は、どこかカン違いしてる。間違ってる。「表現による味わいの違い」という基本(根本!!)理解が足りない。

なんてったって 表現物は「意味より風味風味こそ 命、風味こそ 醍醐味。コレを忘れて貰っちゃ困る。

大阪九条のミニシアターで、とても気持ちの良い映画を観た。『OKAは手ぶらでやってくる』

ヒトリNGOとして、カンボジアに子供たちの寺子屋を作り続けた男の記録映画だ。この手の主題・題材はともすれば、肩に力が入りすぎ、青筋立てたり声高だったり、映画としての技量のなさをテーマの社会性でかさ上げして誤魔化したり、と出来損ないの舌足らずや饒舌過剰 生煮えの「映画未満・未熟映画」が多々混じる〈要注意物件〉なのだが、今作「映画として」とても良く出来ていると感じ入った。

何といってもタイトルネーミングが秀逸だ。 等身大・自然体だし、OKAって何? 手ぶらってどういうこと?‥とそそられる。これ以上は書かない。

YouTubeに予告編が上がっている。⇒

www.youtube.com‥‥タマ(取材対象=OKA=栗本さん)が良くって、作り手たちに腕があって、それぞれがキチンと仕事をするとこんなに幸せな時空が生まれるのだ‥‥久しぶりに映画館で映画を見る醍醐味を感じた。

栗本さんに注ぐ監督の眼差しの熱量と、適当・適度な距離!その多幸感が、観客である受け手にビンビン伝わってきて映画館を包む。

少し前に観た映画とは雲泥の差。

「一時期昭和のマスコミを賑わせたセンセーショナルな題材を倉庫から引っ張り出し、掘り下げないまま腰の坐らぬ追撮インタビューで無責任にゴロンと投げ出した底の浅い気持ち悪い怪作」とは大違いの快作!だった。太鼓判。

残念ながら今のところ公開予定は関西と名古屋だけみたい。東京では11月30日から12月13日新宿K’sシネマで開かれる「東京ドキュメンタリー映画祭2024」で上映されるようだが‥。キネ旬文化映画のベストテンにでも選ばれて広く公開の機会が増えることを願う。

備忘録。新旧 硬軟 取り交ぜて映画関連本を 五冊ほど読んだ。

原田健一 2024.1.30. 学文社

柴田康太郎 2024.3.31. 春秋社

はらだたけひで 2018.4.20. 未知谷

廣瀬純 2024.9.18. 彩図社

コトブキ ツカサ(寿司)2024.9.1. 日本実業出版社

鶴見俊輔 1959.12.8. 筑摩書房

時間と手間暇をかけた労作もあれば、時流便乗丸出しのやっつけ本もある。なかで、鶴見俊輔の『誤解する権利』が一番刺激的かつ挑発的だった。

あとがきの一節。

正解というのが、投手のほうる球を捕手がうけるというコミュニケーションの形とすれば、誤解は投手と打者とのあいだに成立するコミュニケーションの形で、球をうけられなくて空ぶりする場合と、球の所在をつきとめて別の方角にうごかす場合との双方をふくんでいる。

正解が無意味だと思うのではないが、正解は正解で練習するとして、誤解もさけられない以上、誤解する権利と誤解される権利を積極的に使うことを工夫したい。

それな。貧相な正解より、豊満な誤解に 一票。

神戸映画資料館の貸館事業『TOKYO FAKE DOCUMENNTARY FESTIVAL IN KOBE』に出掛け、フェイクドキュメンタリー映画を観てきた。短編中編 計八本。

どれも面白かった。

どんな映画もすべては作り物、多かれ少なかれフェイクでドキュメンタルなものだ、そう思っている当管理人は、普通に「映画」として向き合って観た。ポイントは二つ。「これまで見たことがない『画:映像』に出会えるか」「主張・批評性は明確明快か」

kobe-eiga.net

どれも 肩に力が入り過ぎず、それでいてやりたいこと・見せたいものがハッキリしていて 気持ち良かった。1963年生まれイメージフォーラム映像研究所卒業生の芹沢洋一郎さんから、最年少 2003年生まれ映画美学校で学ぶ西崎羽美さんまで、皆さんしっかり「文体︰スタイル」を持っていて頼もしい。もちろん好み・好き嫌いはある。が全部が伸び伸び自由で、おもねりはゼロ。デジタル時代になって、短時間・少人数・低コストでフットワークよく映画が作れるようになった利点だろう。映画はまだまだ若い。未開の沃野。可能性アリだと思わせて貰った。

もちろん懸念や疑念は、ある。

「作る」のはよいとして、「誰に」「どんな形で」「どう見せるのか」PDCAサイクル(Plan(計画)Do(実行)Check(評価・測定)Action(改善・対策)をどう創るのか‥‥。健闘を祈りながら見守りたい。

今回は、備忘録。まずはこの写真をご覧あれ。

右の椅子に腰かけた御仁は、ご存じJLG(ジャン=リュック・ゴダール 御大)キャメラの前は、撮影担当のファブリス・アラーニョ。2014年製作の3D映画『Adieu au Langage さらば言語よ (邦題 さらば、愛の言葉よ ) 』の撮影スナップ=宣材。

前に並ぶ主要なキャメラは、ほとんどが日本製Made in Japan 。

ヴィンテン(英)製の三脚の上にメインキャメラCANON EOS 5D MarkⅡを二台つなげた自作の3D撮影装置。その上にクリップで挟まれたSONY MHS-FS3 3D Bloggie HD camera、三脚の脇から延びるマンフロット(伊)製ハイドロスタットアームの先の雲台には二台のGO Pro(米)、腰をかがめたアラーニョの指先には、ミニ三脚に載ったFUJI FILM Fine Pix REAL 3D W3が一台、さらに一番左端手前に同じくFUJI FILM Fine Pix REAL 3D W3がもう一台。七つのキャメラと10のレンズ。

ゴダールの左手にはiPhoneが見える。

(以上の情報は、平倉圭 著『かたちは思考する 芸術制作の分析』【2019.9.26. 東京大学出版会刊 】291頁から得た。その厳密で緻密な解説には感心する。けど、それだけのこと。どんな筆を使っているかは、研究者や学者センセには重要なのかも知れないが、只の観客・受け手としては、表現された物(ブツ)から受ける〝官能〟からどんどん遠ざかっていく不幸を感じてしまった。平倉センセ ご自身「深々と見よ。見ることの根源的不安に沈め。容易に言葉に置き換えるな」と言っておられたのに、さ。)

もういちど繰り返すが、これはあくまで備忘録。それ以上じゃない。平倉さん ゴクロウサマ。