4〕日本天皇・日本民族と中国・朝鮮両民族との2000年戦争。日本脳。心理学。日本民族の祖先。 (original) (raw)

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日本民族は、縄文人(日本土人)の直系子孫として数万年前から自然災害の多い日本列島に住んでいた先住民であった。
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人口
縄文時代は約27万人。
紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ。
弥生時代は約60万人。
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2024年10月9日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「「縄文時代」は、なぜ1万年以上も続いたのか?
画像 : 青森県青森市にある山内丸山遺跡 photoAC はしぞうはしぞう
縄文時代は日本の先史時代の中で、特に長期間にわたり続いた時代として知られる。
始まりは諸説あり、1万6500~2000年前頃から紀元前4世紀頃まで続いたとされ、その期間はおよそ1万年に及ぶという。
このような長期にわたる文化的継続は、世界的にも異例である。
今回は、なぜ縄文時代がこれほど長く続いたのか、その理由について探っていきたい。
縄文時代の基本的な特徴
画像 : 青森県青森市にある山内丸山遺跡 photoAC はしぞうはしぞう
縄文時代は、主に狩猟・採集・漁労を中心とした生活が営まれていた。
縄文土器と呼ばれる独特の装飾を持つ土器が使用され、これが時代名の由来となっている。
考古学的に見れば、縄文土器の形状や装飾の変遷から、「草創期・早期・前期・中期・後期・晩期」の6つの時期に区分される。
これらの時期を通じて、基本的に狩猟採集を主体としながらも、一部の植物が栽培されていた可能性もあるという。
環境の安定と豊富な資源
縄文時代が長く続いた大きな要因として、氷期が終わり地球が温暖化に向かったことによる自然環境の安定と、豊富な自然資源があったことが考えられている。
約1万3000年前、日本列島は豊かな森林や海、河川に恵まれ、シカやイノシシなどの動物や、魚介類、貝類が多く生息していた。
こうした資源の豊富さにより、狩猟・採集・漁労を中心とした生活が成立し、農耕に頼らずとも十分な食料を得ることができたのだ。
画像 : 三内丸山遺跡 wiki c 663highland
また、青森県三内丸山遺跡などでは、クリの栽培が行われていた痕跡が発見されており、農耕とは異なる形での持続可能な食料供給システムが確立されていた可能性が高いという。
このように、安定した自然環境と豊富な資源は、縄文社会の長期的な持続に大きく寄与したと考えられる。
技術の進歩の緩やかさ
縄文時代のもう一つの特徴として、「技術進歩の緩やかさ」が挙げられる。
土器や狩猟具の進化はあったものの、生活の基盤となる技術は基本的に大きな変化を見せず、これが安定をもたらした。
つまり、技術的革新による大規模な社会変動が起こりにくかったのだ。
また、集落内での家族や共同体の絆も強固であり、内部の対立や分裂が比較的少なかったとされている。
このような安定した社会構造も、縄文時代が長期間続いた一因と考えられている。
縄文人の精神文化
画像 : 青森県つがる市木造亀ヶ岡出土 遮光器土偶 public domain
縄文時代の文化を理解するには、「精神文化」も重要である。
土偶や石器といった遺物からは、自然や動物、そして祖先を崇拝する宗教的な精神性が見出されている。
ドイツの人類学者ネリー・ナウマンは、縄文文化のシンボリズムに注目し、特に土偶に「月」や「再生」の象徴が込められていると主張している。
月の満ち欠けや四季の移り変わりは「死と再生」の象徴とされ、これが縄文社会の精神的な柱となっていたと推測されている。
こうした「再生」の思想は、自然との調和や持続的な生活様式を重んじる価値観を生み出し、縄文社会の長期的な安定を支えた要因のひとつとされている。
稲作の伝来で終焉
縄文時代の終焉は、紀元前10世紀頃からの朝鮮半島や中国大陸からの稲作文化の伝来に起因する。
稲作の導入により、狩猟採集生活から農耕社会への移行が進み、人口の増加とともに社会はより複雑化していった。
弥生時代には鉄器や青銅器の使用も広がり、技術的な進化が社会変革の大きな要因となった。
これにより、縄文社会の生活様式は急激に変化し、新たな時代への移行が始まったのである。
おわりに
縄文時代が約1万年以上にわたって続いた理由は、「自然環境の安定」「技術進歩の緩やかさ」「再生思想に支えられた精神文化」が絡み合った結果と言えそうだ。
縄文時代の暮らし方や自然と共に生きる精神性は、現代社会において持続可能な社会を目指すためのヒントとして、改めて注目されている。
参考 :
『入門 縄文時代の考古学』著者:谷口康浩】
縄文時代の古環境、三内丸山遺跡周辺の環境変遷 川幡穂高山本尚史
文 / 草の実堂編集部
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2024年10月8日 MicrosoftStartニュース 中央日報「「韓国は独自核武装を」59→71%…「日本の核武装も賛成」17→35%[韓国安保、国民に尋ねる]
韓国の核武装関連イラスト。[写真 中央DB]
中央日報と東アジア研究院(EAI)の共同企画世論調査の結果、一般国民の10人に7人は韓国が独自に核武装することに対して賛成していることが明らかになった。米国が提供する拡大抑止に対する信頼度は過去1年間で大きく落ちた反面、核武装に対する世論の声は一層高まっている格好だ。あわせて日本の核武装を賛成する世論も相対的に高まった。
◇韓国国民の10人に7人「核武装を」
今回の調査で、回答者の71.4%は「北朝鮮が核を放棄しない場合、韓国は核武装しなければならない」と回答した。以前からも核武装支持世論は半分以上あったが、傾向に変化が生じた。「核武装賛成」と回答した比率は、2022年69.6%だったが昨年韓米両国の北朝鮮に対する拡大抑止強化方案を盛り込んだ「ワシントン宣言」が出されて58.5%に低くなった。だが今年再び2年前の水準まで反騰した。
これは、この1年間で米国が提供する拡大抑止に対する不信が急増(26.2%→47.4%)したこととも一因となっている結果だと解釈することができるとEAIは指摘した。韓米がワシントン宣言以降、「核協議グループ(NCG)」の発足や「韓半島朝鮮半島)核抑制核作戦指針」への署名など顕著な成果をあげたものの、世論はこれを十分に信じることができず、自らの核武装に徐々に傾斜している格好だ。
◇「日本も核武装すべき」2年間で4倍に
注目されるのは日本の核武装を支持する世論も共に高まる傾向にある点だ。「北朝鮮が核を放棄しない場合、日本は核武装するべき」と回答した比率は、2022年には9.1%にすぎなかったが、昨年17.2%まで高まった。今年は34.8%まで上昇した。2年間で4倍近く増加した。これは日本の軍事力強化を警戒する一般的な認識とはやや相反する結果として見ることができる。
国民大多数の認識が、北朝鮮の核・ミサイル脅威が徐々に高度化する中で→米大統領選挙の結果によって「核の傘」が弱まる場合もあることから→韓日が「同伴核武装」を通じて、自らの抑制力を強化しなければならないという結論に至るわけだ。今回の調査で、回答者の72%は「北朝鮮は核を放棄しないだろう」と悲観したが、その一方で82.9%が相変らず「北朝鮮非核化という目標を維持しなければならない」と答えたのもこのような脈絡と見ることができる。不安と不信の中でも非核化という目標は揺らぐことなく追求していかなくてはならないという認識が、結局韓日が手を携えて自己防衛しなくてはならないという判断につながったという解釈が可能だ。
ここには韓国と日本が同じような脅威に直面しているという現実認識が根底にあるとみられるが、同時に日本との安保協力の必要性に共感する国民が相当いるという傍証だと見ることができる。
◇「韓日安保協力」安定的支持
実際「北朝鮮の核・ミサイル脅威に対応して韓日の安保協力が必要」という回答は昨年72%、今年70.8%と、70%台以上を維持した。安保協力の程度に関して、今年は回答者の35.6%が「情報共有が必要」、21.6%は「情報共有だけでなく、共同対応のための政策協議体を新設すべき」と回答した。回答者の5人に1人は、現在の韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)以上の協力が必要だと考えている。
関連するビデオ: 北朝鮮と韓国“核”めぐり異例の応酬 国連総会 (日テレNEWS NNN)
特に回答者の13.6%は「韓日両国の同盟を検討する必要がある」とも答えた。ただし、これに関しては回答者が韓日軍事同盟の現実性と波及効果を具体的に考えずに賛成と回答したのではないかという指摘もあわせて出ている。中央日報とEAIは今回の世論調査とは別に学者や前・現職官僚、ジャーナリストなど専門家102人を対象としたウェブ調査も実施したが、韓日間の同盟検討を支持するという回答は1.0%だけだった。
韓国と日本が核武装をする場合、支払うべき費用やこれによって到来しうる「北東アジア核ドミノ」の可能性も警戒しなければならないシナリオだ。核武装時には韓米同盟と米日同盟の毀損は避けられず、不拡散規範に反すると見なされてイランや北朝鮮が受けているものと同じ過酷な国際制裁の対象にもなりかねない。
専門家の調査でも韓国の核武装を支持するという回答は19.6%にとどまっている。核武装を通じて得る利益よりも損失が大きいと判断している格好だ。
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2022-07-23
☷8〕─1─韓国は武器輸出国家へ。~No.20
2022-08-31
☷8〕─2─【総額1兆円以上】ポーランドが韓国製兵器を爆買いするワケと日本の防衛産業がヤバすぎる。~No.21
2022-12-02
☷8〕─3・A─韓国軍事産業は「西側の兵器工場」。戦争太りする韓国。~No.22
2023-01-17
☷8〕─3・B─韓国産戦闘機 超音速飛行に成功。~No.22
2023-02-05
☷8〕─3・C─韓国の軍国主義政策としての核武装議論。~No.22
2023-10-26
☷8〕─3・D─輸出を含め兵器産業が好調な韓国、衰退する日本。~No.22
2023-11-19
☷8〕─3・E─韓国の防衛産業は今では米国の世界最大の兵器ショーで主役。~No.22
2024-09-03
☷8〕─3・F─韓国が目指す国とは武器輸出国(死の商人)と核兵器保有国。~No.22
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日本では、媚中派エセ保守や反米派・反安保派・反自衛隊のリベラル左派は大学などの孔子学院や日本国内の中国共産党の秘密警察を支援し、日本の国益や日本人の生命財産よりも日中友好を優先している。
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2024年10月7日16:05 YAHOO!JAPANニュース 朝鮮日報日本語版「「中国による侵略の窓口」と指摘され…公州市の高校が孔子学院設立を無期限保留
(写真:朝鮮日報日本語版)
忠清南道公州市の公州永明高等学校(1906年創立)が来年初めに孔子学院を設立する計画だったが、今回これを無期限保留することを決めた。同校が6日に明らかにした。孔子学院は中国政府が自国の言語や文化などのソフトパワーを広めるため世界各国に設立しているが、「中国共産党の体制宣伝機関」「親中派養成基地」などの非難や指摘が相次いでいる。
【写真】「中国の秘密警察」とうわさされた江南の中華料理店の酢豚(ネイバーより)
公州永明高校は今年8月に順天郷大学孔子学院と覚書を交わした。しかしこれに対して生徒や保護者らは「中国の『浸透窓口』である孔子学院をなぜこの学校に設立する必要があるのか」と反発した。「孔子学院の実態を知らせる運動本部」などの反中団体も反対に加勢している。彼らは「柳寛順(ユ・グァンスン)烈士や趙炳玉(チョ・ビョンオク)元内務部(省に相当)長官など多くの独立運動家を送り出した永明高校に孔子学院が設立されることは不適切だ」と指摘している。
公州永明高校のヨ・ヤンヒョン校長は「韓中の言語教育や学術交流など良い趣旨で推進したが、これほど問題が大きくなるとは思わなかった」とした上で、今後について「まずは設立を無期限で保留した上で、学校次元での議論を経て中止も含め検討する予定」と説明した。
孔子学院は中国共産党の元幹部が院長を務めている。米連邦捜査局(FBI)は孔子学院について「米国内における中国スパイの活動拠点」と判断したため、米国では孔子学院追放の動きが強まり、一時は米全土に118校あった孔子学院が現在は10校以下となっている。欧州の主要国やカナダでも同じ動きが続いている。
しかし韓国国内では延世大学、漢陽大学、慶煕大学などの主要大学に加え、仁川国際高校、忠清南道の牙山高校、全羅南道の務安高校など中学・高校にも39の孔子学院がある。今回の公州永明高校による孔子学院設立保留は、計画段階で中断した最初の事例となる。
コ・ユチャン記者
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7月24日 YAHOO!JAPANニュース 朝鮮日報日本語版「釜山港に入港した米空母をドローン撮影、中国人留学生3人を摘発
6月に釜山に入港した米空母をドローンで違法に撮影した中国人が、韓国警察に摘発された。
【Photo】釜山作戦基地に入港中の米原子力空母「セオドア・ルーズベルト」(6月22日)
釜山警察庁は24日、軍事基地および軍事施設保護法違反の容疑で30代から40代の中国人留学生3人を取り調べていることを明らかにした。
韓国警察によると、容疑者らは6月25日に釜山市南区竜湖洞の海軍作戦司令部釜山作戦基地付近の野山でドローンを飛ばし、停泊中の米空母「セオドア・ルーズベルト」(10万トン級)をおよそ5分間撮影した疑いが持たれている。空母セオドア・ルーズベルトは韓国・米国・日本の初の多領域軍事訓練「フリーダム・エッジ」に参加するため、6月22日午前に釜山作戦基地へ入港した。
容疑者らは空母を撮影中、パトロールしていた軍人に捕まった。留学生身分の容疑者らは「好奇心で大型空母を撮影した」と供述していると伝えられている。
警察は、容疑者らが違法に撮影した動画を配信するなど、対共容疑点はないものと把握したが、さらに具体的な撮影理由を調べている。
イ・ガヨン記者
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2024年10月5日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「「驚くほど寿命短めだった?」古代中国皇帝たちが短命だった理由 ※後漢皇帝たちは30歳
画像 : 始皇帝 public domain
古代中国の皇帝
画像 : 始皇帝 public domain
古代中国の皇帝と言えば、豪華で贅沢な生活を思い浮かべる方が多いだろう。
たくさんの家臣と数多くの側室に囲まれ、何不自由ない生活を送っているイメージだ。
栄養面や健康管理にも細心の注意が払われ、常に名医たちが皇帝の健康を見守っていたはずである。しかし、歴史的に見ると意外にも多くの皇帝たちは短命に終わっている。
秦の始皇帝(紀元前221年)から清朝が滅亡するまでの約2000年にわたり、中国には557人ほどの皇帝が即位したとされるが、その平均寿命はおよそ40歳前後に過ぎない。
現代に比べ、医療が未発達だった古代では人々が短命であるのは当然だが、それにしても早死な印象を受ける。
一例を挙げると、後漢の歴代皇帝の寿命にいたっては平均すると30歳ほどである。
後漢皇帝寿命一覧
初代:光武帝 享年64。
2代目:明帝 享年48。
3代目:章帝 享年32。
4代目:和帝 享年28。
5代目:殤帝 享年2。
6代目:安帝 享年32。
7代目:少帝懿 享年20代
8代目:順帝 享年30。
9代目:沖帝 享年3。
10代目:質帝 享年9。
11代目:桓帝 享年37。
12代目:霊帝 享年34。※黄巾の乱の時の皇帝
13代目:少帝弁 享年18。 ※董卓に殺される
14代目:献帝 享年54。 ※曹丕に譲位を迫られる
長く生きたと言えそうなのは、64歳まで生きた初代の光武帝と、54歳まで生きた14代目の献帝、次いで48歳の明帝のみとなる。
民族や王朝が違う全体を見ても、60歳以上まで生きた皇帝はわずか30人程度しかいないのだ。
この短命の背景には、様々な要因が影響していると考えられている。
皇帝たちが短命だった理由
画像 : 中国皇帝イメージ 草の実堂作成
皇帝たちが短命に終わった理由の一つには、後継者争いや側近たちによる権力闘争、さらには反乱などが挙げられる。
皇位継承を巡る陰謀や争いは、命を危険にさらす状況を常に作り出していた。さらに、側室たちも自らの息子を次期皇帝にするため、時には過酷な手段を用いた。これらの宮廷内の対立や暗殺未遂などが、皇帝たちの命を縮める要因となっていた。
また、運動不足も皇帝たちの寿命に悪影響を与えたと考えられる。
過保護な生活が常態化しており、皇帝自身が体を動かす機会は多くなかったであろう。どこに行くにも家臣たちが付き従い、汗を流すような労働をすることもなかったため、体力が衰え、健康状態も悪化しやすかったはずである。
さらに、皇帝たちは政治や国事に日々追われ、多大なストレスを抱えていた。
国家を統治する重圧や国内外の問題に頭を悩ませ、心労が体に影響を与えたと考えられる。これに加えて、暴飲暴食や不規則な生活が、皇帝の体調をさらに悪化させたことも推測されている。
画像 : 不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳画) public domain
また、皇帝たちは「不老不死」を夢見て、さまざまな薬物を服用する者が多かった。
これは不老不死を追究した「道教」による影響が大きく、有名なところでは秦の始皇帝漢の武帝、唐の武則天や明の嘉靖帝などが知られている。
その中には水銀を含む有害な薬もあり、長期間服用することで体内に蓄積し、健康を損ねた可能性が高い。
不老不死を追い求めた結果、かえって命を縮めてしまったのである。
長寿を保った例外「乾隆帝
画像 : 乾隆帝 public domain
しかし、短命の皇帝が多い中でも、長寿を全うした例外も存在する。
例えば、清の乾隆帝(けんりゅうてい)は、89歳まで生きた歴代皇帝の中でも特筆すべき存在である。
彼の長寿の理由としては、いくつかの要因が考えられる。
まず、乾隆帝は健康的な食生活を送っていたことが挙げられる。特に野菜を好み、ナスを頻繁に食べていたという記録が残っている。
ナスには血圧や血糖値を下げる効果があるとされ、健康に良い影響を与えていたと考えられる。
また、乾隆帝は狩猟を好んで行い、運動を日常的に取り入れていたことも長寿に寄与したとされる。
さらに、乾隆帝の母親も86歳という長寿を享受しており、遺伝的な要素もあっただろう。
また、乾隆帝が治めた時代は清朝の最盛期であり、国内外の安定が保たれていたため、他の皇帝と比べて政治的なストレスが少なかったことも、彼の長寿を支えたと考えられる。
おわりに
古代中国の皇帝たちは、華やかな権力の裏で過酷な現実に直面していた。
後継者争いや反乱といった外的要因に加え、運動不足や不規則な生活、不老不死を求めた薬物の使用が、寿命を縮める要因となったのである。
栄光と権力を持つ皇帝という地位は、時にその命すら危険にさらす苛烈なものであったと言えるだろう。
参考 : 『後漢書』『史記』『TVBS健康網 “乾隆皇帝的養生秘密:愛吃茄子”』他
文 / 草の実堂編集部
投稿 「驚くほど寿命短めだった?」古代中国皇帝たちが短命だった理由 ※後漢皇帝たちは30歳 は 草の実堂 に最初に表示されました。
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2024年9月30日 YAHOO!JAPANニュース ピンズバNEWS「吉高由里子も涙目に…大河『光る君へ』よりひどい平安時代の陰湿いじめ 無視、いやみ、汚物まきetcが横行
紫式部こと「まひろ」を演じる吉高由里子 ※画像はNHK大河ドラマ「光る君へ」の公式インスタグラム『@nhk_hikarukimie』より
いよいよクライマックスを迎えているNHK大河ドラマ『光る君へ』。
紫式部こと、まひろ(吉高由里子)は宮仕えを開始し、中宮・彰子(見上愛)の指南役を務めながら、『源氏物語』の執筆に明け暮れる。
■【画像】『光る君へ』中宮・彰子役、見上愛の出産直後の微笑が「聖母すぎる!」■
そこで印象的なのが、同じく中宮に仕える他の女房たちからの嫉妬や陰口、嫌がらせだ。
9月1日に放送された第33回(『式部誕生』)では、まひろが女房として後宮(こうきゅう)入りしたものの、慣れぬ生活のため寝坊してしまう。すると、他の女房に「誰ぞの足でもお揉みになっていたのではないの」と皮肉られて、嘲笑の的になるのだ。
「足を揉むというのは、女房が貴人男性の寝所に侍り(はべり)、男女の関係になることを意味しています」
と言うのは、歴史研究家の跡部蛮(あとべばん)氏。こう続ける。
紫式部が仕えた中宮・彰子には40余人の女性が奉仕していて、その中には家柄の高い“上臈(じょうろう)”と呼ばれる女房達が多くいました。彼女らからしたら、家柄がさほど高くないのに、文学的素養や才能を買われて後宮入りした紫式部は、恰好のいじめの対象だったのでしょう」
女性ばかりの職場に嫉妬はつきもの。実際に紫式部は、『紫式部日記』にこんな体験談を記している。
あるとき、彼女が馬の中将の君という女房と一緒に牛車へ乗り込むと、露骨に「わろき人と乗りたり」(嫌な人と一緒に乗っちゃったわ)」という態度を示されたという。
「牛車には2人ずつ乗り、ある程度までは序列で乗る順番が決まっていましたが、紫式部が乗車したのはその後。つまり、彼女が序列を無視したわけではないんです。ところが、その女房は“私を誰だと思ってるの? 『源氏物語』が宮中で話題になっているからって調子に乗るんじゃないわよ!”という心持ちだったんでしょう」(前出の跡部氏)
■『源氏物語』に描かれた「汚物いじめ」
このほかにも紫式部は他の女房から、陰口を叩かれている。その代表格が左衛門の内侍(ないし)という女房だ。
一条天皇紫式部の博識に感心し、「この人(紫式部)はあの難しい日本紀(『日本書紀』)を読んでいるようだ」と言ったのを聞くと、嫌みたっぷりに「紫式部はとっても学がおありなんですって」と宮中の公卿(くぎょう)らに言い触らし、「日本紀の御局(おつぼね)」というアダ名をつけた。
このように後宮でのいじめは、いわば日常茶飯事。紫式部もこんな強烈ないじめシーンを『源氏物語』に書き記している。
光源氏の母・桐壷の更衣(こうい、妃の一人)はミカドから寵愛(ちょうあい)され、他の后(きさき)たちから嫉妬を買っていた。
桐壺の更衣天皇の御座所へ召される際は、他の后たちの局(部屋)の前を通らないとなりません。そこで彼女らは、桐壺の更衣の通り道に汚物などを撒き散らします。桐壺の更衣に仕える女房たちの衣装の裾が、汚れるにまかせる状況だったと書いているんです」(跡部氏)
宮仕え中、いじめ被害をうけていた紫式部だが、その一方で、いじめに加担したとみられる事件も起きている。
「“五節の舞”というイベントに、一度、女房を引退した左京の君が、のこのこ参加しているのを見て、“知らん顔はできないわ”と反応。女房同士で相談し合い、匿名で嫌みたっぷりな贈り物をするんです」(前同)
その贈り物のひとつが、「櫛(くし)」だ。
「贈られた櫛は両端が合うほどに反り返っていましたが、平安時代、“反った櫛”は女性の盛りを過ぎたことを意味するものでした。式部も状況から見て、この“事件”に加担していたとみていいでしょう」(前出の跡部氏)
現代なら、「オバサンは引っ込んでください」と遠回しに伝えるようなものか。
平安時代の“女の園”恐るべし――。
ピンズバNEWS編集部
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日本人が朝鮮人を蔑視し差別するのには、正当な理由があった。
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2024年9月9日 MicrosoftStartニュース 婦人公論.jp「『光る君へ』で竜星涼さん演じる藤原隆家はのちに日本を守った英雄に…あの道長が苦手とした<闘う貴族>隆家とは何者か【2024年上半期BEST】
関幸彦
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年5月15日)

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花山院に矢を放った伊周・隆家兄弟は「左遷」。左遷先で彼らがどんな扱いを受けたかというと…
源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマでは藤原道長と伊周の権力争いが描かれましたが、伊周の弟・隆家が花山院に矢を放った「長徳の変」をきっかけに、兄弟は力を失っていきます。しかしその隆家、実は日本を救った英雄と言われているのはご存じでしょうか? 道長の全盛期、九州へ異民族が襲来。老人・子供は殺害、壮年男女が捕虜として連れ去られて牛馬は斬食されました。特に対馬壱岐は壊滅状態に…。突如瀕した国家の危機に対応、外敵を撃退したのが隆家だったのです。歴史学者・関幸彦先生の著書『刀伊の入寇』よりその一部を紹介します。

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藤原道長と隆家
そもそも刀伊の入寇とは…
藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬壱岐と北九州沿岸が突如、外敵に襲われた。東アジアの秩序が揺らぐ状況下、中国東北部女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻したのだ。
道長の甥で大宰府在任の藤原隆家は、有力武者を統率して奮闘。刀伊を撃退するも死傷者・拉致被害者は多数に上った。
ーーーーー
刀伊(女真)が来襲した寛仁の時期、京都は藤原道長の時代だった。刀伊の侵攻にさいし、大宰権帥大宰府の次官で、実質上の長官)として迎撃の指揮をとったのは中関白家(道長の兄道隆の家系)の隆家だった。
隆家にとって叔父道長はライバルだった。年齢にして十余歳の差がある。
隆家が九州下向したのは長和3年(1014)のことだった。当時36歳(数え年。以下同)。眼病を患っており、宋人の名医の診察を受ける目的もあった。三条天皇在位中のことで、刀伊の事件はそれから5年後のことだった。
「乱暴者・無鉄砲者」と評されて
「世の中のさがな者」とも評された隆家は、道長が最も苦手とした相手だった。「さがな者」は、漢字を当てるなら「性無者」で、規格からはずれた乱暴者・無鉄砲者というほどの意味だ。
刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(著:関幸彦/中公新書
© 婦人公論.jp
兄の伊周とともに本来は中関白家の嫡流に近い立場とされた。しかし父道隆が長徳元年(995)に死去、その勢力が失速する。
隆家の兄伊周と道長の確執はよく知られており、それが朝廷内部での政治権力の帰趨に影響を与えた。
ちなみに隆家らの母は『百人一首』にも登場する高階貴子で、姉は一条天皇に入内、その寵を得た定子である。
定子に仕えた清少納言の『枕草子』にも隆家のことがしばしば登場する。隆家の規格外の行動については、いろいろとエピソードも少なくない。貴族ながら武勇の人としても知られた。
稀有な「闘う貴族」として
風狂の人花山院との確執も有名だ。
伊周と花山院との間で女性(藤原為光の娘)をめぐるトラブルがあり、兄伊周に与した隆家は院を威嚇、誤射の不祥事を起こしている。
伊周・隆家兄弟はそのため流罪となった。『栄華物語』『大鏡』などにも散見される出来事だった。刀伊事件の十数年前のことである。
刀伊の来襲にさいし、「帥、軍ヲ率ヒ警固所ニ到リ合戦ス」(『小右記』)とあるのも剛直さの表れだった。
貴族たる隆家自身が警固所近辺で戦うことは、稀有のことだった。このような規格外の行動力のためだろうか、後世には隆家を流祖と仰ぐ武士団も少なくない。
闘う姿勢を保持する隆家の行動は、わが国の外交の危機に大いに役立ったようだ。
*本稿は、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』の一部を再編集したものです。
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刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機 (中公新書 2655)

刀伊入寇 藤原隆家の闘い (実業之日本社文庫)

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古代の日本は、難民を無条件で受け入れる移民大国であった。
平安時代鎖国政策で、中国や朝鮮との国交を断ち友好・善隣を拒否し、移民や難民の受け入れを拒絶し、大陸や半島との自由な往来を禁止した。
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歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
古代から、日本は朝鮮や中国の軍事侵略という脅威に晒されていた。
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戦争には、必要な戦争、正しい戦争、正義の戦争、敵を殺して勝たねばならない戦争がある。
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現代日本歴史教育平和教育として、日本の海外の敵、朝廷の国内の敵を討ち滅ぼす戦争を悪として教えないどころか、否定し、歴史の闇に葬っている。
エセ保守やリベラル左派は、人殺しにならない為に敵を殺すぐらいなら敵に殺された方が良いと。
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現代の歴史教育は、天皇の日本統一を否定し、朝敵として滅ぼされ土蜘蛛・鬼として忌み嫌われた「まつろわぬ民」に同情している。
天皇への忠誠心と日本国への愛国心を誓った帰化人の存在を抹殺し、忠誠心と愛国心を拒絶した渡来人を歴史にとどめている。
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592年 渡来人(外国人移民)は第32代崇峻天皇を暗殺した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内戦に発展しなかった。
各地の反天皇反王朝勢力も帰化人の暴動を好機として内乱を起こさなかった為に、日本は分裂を免れた。
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遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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866(貞観8)年 山春永らの対馬侵攻計画。
肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)、藤津郡領葛津貞津、高来郡擬大領大刀主、彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃する計画が発覚したが未遂に終わった。
なお、この対馬襲撃計画に先立つ天安元年(857年)には、対馬島で島内の豪族が300人ほどの兵を率いて対馬守を襲撃する反乱が起きていた。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年) 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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997(長徳3)年 南蛮の入寇。高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。

898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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1093年 「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。
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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2024年10月1日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「ヤマト王権が“惨殺”した「サハリンからの渡来人」とは? 「北海道の利権」をめぐり… 【古代史の真実】
奥尻島
7世紀中ごろ、安倍比羅夫(あべのひらふ)によって粛慎(しゅくしん/みしはせ)なる北方の人々が征伐されたことが『日本書紀』に記されている。それは、北海道在住の人々の権益を守るためとしながらも、その本当の理由は違っていた。いったい、どのような目論見によるものだったのだろうか?
■「鬼」と呼ばれて惨殺された「まつろわぬ民」
かつて、東北の民・蝦夷の頭領・アテルイが、悪路王なる鬼と見なされて恐れられたことがあったことを覚えておられるだろうか?
蝦夷とは、そもそも、東北の地で平和に暮らしていた民であった。それにもかかわらず、「王権にまつろわぬ」との理由で、「荒々しくも情を理解せず、教養や文化に欠ける」野蛮な種族として蔑まれた。そればかりか、大軍を送り込まれて強引に王権の一部に組み込まれてしまったことは、かえすがえすも不運であった。
討伐する側の坂上田村麻呂は英雄視されてその業績が華々しく語り継がれてきたが、討伐された側の民を率いていたアテルイなる御仁は、降伏して自ら出頭してきたにもかかわらず、公卿たちから「野性獣心にして叛服(はんぷく)つねなし」と見なされて惨殺。その理不尽さを声高に叫ぼうにも聞く耳なしとなれば、恨んでも恨みきれなかったに違いない。
その遥か昔から、ヤマト王権が勢力を拡大するに際し、抵抗した人々はおしなべて「土蜘蛛」と称されて蔑まれてきた。彼らもまた、無残にも惨殺されてしまったようである。その記録が、『日本書紀』なる正史に臆面もなく記されているのはなぜか?
それこそ、王権側の支配者層が、彼らを人とも見なさず、まるで悪逆非道の鬼でも退治するかのような扱いで “成敗”していたからである。
前置きが長くなったが、本題に入ろう。今回取り上げるのは、蝦夷征伐に功績を成したとされる坂上田村麻呂から遡ることおよそ1世紀。その頃に活躍した、安倍比羅夫(あべのひらふ)なる御仁にまつわるお話である。
安倍比羅夫は斉明天皇の御代に、3年もの長きにわたって蝦夷征伐に尽力したことで知られているが、彼が平定したのは、蝦夷だけではなかった。
■サハリンからの渡来人を征伐した本当の狙いは?
当時(7世紀中頃)の東北以北の情勢に目を向けてみよう。この頃の東北地方は蝦夷が住するところであったが、その北の北海道は、縄文人の後裔とも言える続縄文人(擦文人)が中南部を中心に暮らしていた。彼らは秋から冬にかけて、鮭や鱒などを採るばかりか、稗や麦、栗などの雑穀を栽培しながら暮らしていたようである。
その同時期に、北海道北東部の沿岸部を拠点としていたのが、粛慎(しゅくしん/みしはせ)人なるサハリンからの渡来人であった。彼らが春から夏の一時期に拠点としていたのが北海道西海岸に浮かぶ奥尻島。ここを拠点として佐渡島の北の御名部という海岸にまで押し寄せて漁をしたということが『日本書紀欽明天皇5年12月の条に記されている。
おそらくは彼らの外見が、目にも荒々しく映ったからだろう。島民たちは、彼らのことを人とは見なさず、「鬼」と称していたというところを気に留めていただきたいのだ。
ちなみに、島民たちはこの時、何ら実害を受けたわけではなかった。その風貌が恐ろしく、近寄りがたかっただけであった。それにもかかわらず、斉明天皇4(658)年、突如、越の国守・安倍比羅夫が粛慎征伐に動き始めた。
戦いは3年にもわたるが、その間、王権側になびいてきた蝦夷の手引きによって粛慎を追い詰め、妻子までも殺害せざるを得ないような状況にまで追い詰めたことも記録されている。
彼らが一体、どの程度の悪逆非道を働いたのか? それはわからない。それでも、比羅夫が彼らを追い詰めた理由は考察できる。
それは、王権側が北海道在住の先住の民に加勢すると見せかけながらも、その実、王権側がこの地域で繰り広げられてきた北方交易を自らの管理下に置きたかったからである。結果として王権側は、ヒグマやカモシカの毛皮、オオワシの尾羽など、さまざまな北方の品々を容易に手に入れることができるようになったのだ。
地元民から「鬼」と恐れられた粛慎人ばかりか、その排除に手を貸した続縄文人蝦夷たちもまた、王権側の目論見にしてやられたということか。
冒頭に記したアテルイが率いた蝦夷も然り、土蜘蛛も然り。最後に記した粛慎人もまた、さしたる落ち度もないまま鬼に仕立て上げられて征伐されてしまった。これが勝ち組(王権側)が語るところの日本の歴史かと思うと、何だか悲しくなってしまうのである。
藤井勝彦
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