頭蓋骨の庭園 (original) (raw)

(…)ミヤマクワガタは深山鍬形と書く。
深山の字から推測できるとおり、高山植物の仲間だ。時制の場合は初夏、六月あたりから紫色の小さな花を房状に数多く咲かせる。栽培下だと階下はもう少しはやく、ちょうどいまの時期からだ。
ここでいう鍬形とは農作業の道具ではなく、日本兜にみられる左右一対の角状の装飾を意味している。一般に、花の蕚の形状がその鍬形に似ているのが名前の由来とされているが、二本の雄蕊を鍬形に喩えたのだという説も聞いたことがあった。
地味な山野草ではあるが、高山植物にしては丈夫で、栽培は比較的むずかしくない。数年前にガーデニング愛好家から問い合わせがあって以来、この季節になると、ポット植えの苗を数株入荷することにしていた。案外売れるものなのだ。
「ちなみに昆虫のほうの深山鍬形も、涼しい高知を好むとされています」
男性はキャップをとって、恥ずかしげに髪をいじりながら、わざわざそんな解説を入れてきた。
「虫に目がないもので、まんまと引っかかってしまいました」
こちらはもとより、引っかけるつもりなどないのだが。

『六色の蛹』所収「赤の追憶」P58

作者紹介

2013年に「友はエスパー」で創元SF短編賞の最終候補。
同年『サーチライトと誘蛾灯』で第10回ミステリーズ新人賞を受賞してデビュー。
『サーチライトと誘蛾灯』で登場した探偵の魞沢泉シリーズ二作目『蝉かえる』では日本推理作家協会賞を受賞。
デイリーポータル記者として東日本大震災直前まで活動。

魞沢泉シリーズ三作目

昆虫好きで全国を歩きまわる性格をした探偵、魞沢泉。
彼が各地で出会う事件の真相を解き明かしながら、事件関係者たちに寄り添い、心の傷と向き合う側面を覗かせるというのが魞沢泉シリーズの特色のひとつ。
過去のシリーズでは各短篇のタイトルに昆虫の名前が入っており、それが事件に関わるような作りになっていたが、本作『六色の蛹』では各短篇のタイトルには「色」が各挿話の印象を深める要素としてタイトルに盛り込まれている。

ミステリ作品にはしばしばタイトルに印象的な「色」の種類が付けられるものがいくつか存在しているが、本作品もまた印象的な読後感にふさわしい彩を与えるようなタイトルになっている。
加えて、この探偵魞沢泉は鮎川哲也が創り出した「亜愛一郎」のようなどこかとぼけたような探偵の系譜の中にある。
凄惨で重苦しい殺人事件のあらましの中で立ち回る姿は各作品にユーモア性を浮かばせながら、真相を見つめる探偵の謎解きが魅力的だった作品です。
本作では個人的にベストだったのは、考古学の発掘調査で発見された白骨遺体の素性を解き明かす「黒いレプリカ」がベスト。
続く「青い音」も佳い短篇でしたが、やはり本作の色が印象的という意味では「赤の追憶」が最も効果的な読後感を呼び覚ます出来。

本作は当然ミステリとしての出来もよく作られていて、関係者の網の中から意外な論理性によって転換する構図の妙味も味わえるというのが一癖あるので、じっくりと謎の濃度を昆虫という小さな生物たちの生態が生み出す知恵を頼りにして、人間の持つ幽けさの滲む抒情もまた感じさせる探偵像が現代ではどのように生きるかを見つめる作品になっていた。
わたし自身は本作から入った読者なので、これから過去シリーズに触れつつ、魞沢泉という探偵とその元に連なる亜愛一郎という探偵たちのとぼけた中にある事件との邂逅には、探偵小説としてどんな意味があったのか味わいたいと思う。

(…) そういうわけで花瓶の比喩は忘れてほしい。代わりに嵐のなかで引きちぎられたバラの木を思いえがいてほしい。枝は庭園じゅうに散乱するが、ただその場に転がっているだけではない。ふたたび根づき、成長しようとするんだけど、それぞれが空間と光を求めて争い合うので前ほど容易じゃない。それでも散乱する枝──枝の大半──は成長し、嵐の十年後か二十年後かには、一本ではなく、たくさんのバラの木がそこに生えているだろう。そのうちの何本かは重度の発育不全に陥るだろうし、どの木をとってみても、庭園全体をその一本だけで独占している場合に比べると、充分な成長をとげられないだろう。だが、それでもバラの木々は、パズル片の単なる集合体などではけっしてない。はるかにそれを上回る存在なのだ。
<割れた花瓶>型治療モデルを<バラの木>の比喩に当てはめることはできない。

マット・ラフ『魂に秩序を』(原題:SET THIS HOUSE IN ORDER)浜野アキオ訳 P240

作者紹介

1963年ニューヨーク生。
1988年”Fool on the Hill”でデビュー。
邦訳に『バッドモンキーズ』(2007)、『ラヴクラフトカントリー』(2016)、HBOでドラマシリーズ化(2020)。

本書『魂に秩序を』にて、ジェイムズ・ティプトリー・Jr賞。

新潮文庫巻末より抜粋

あらすじ

26歳になったアンディ・ゲージは多重人格の<魂>たちを代表するアンドルー・ゲージが誕生してからようやく”誕生”を感じられた。ベンチャー企業”リアリティーファクトリー”で働く彼は自身の魂に同居する他の人格とやりとりしながらも生活を過ごしていた。
そんなある日、混乱するような出来事に遭遇し、殺人犯が交通事故に遭う現場に立ち会い、事故の経緯から「自分が継父を殺したのではないか」と疑いが生じはじめる。
真相を探ろうとするなか、彼の職場に入ってきた別様の多重人格の特性を持つ人物ペニーとともにそれぞれの魂の安住を求めた旅路が描かれる。

内在する家、外なる秩序の逸脱者たち

新潮文庫最長」とこれでもかと種々の文芸ジャンルが並べたてられた帯を纏った本書は、実のところどんな小説だったのか。

1000ページほどの物語に読む前は少したじろぐ人も多い本書だと推察されるけれど、実際に読んでみると、この作品は軽妙な文体で展開する運びたてを重視した作りになっている。読み物としてはペーパーバッグや新聞連載の軽い読み物といった体裁であることを崩さずに書かれている。
マット・ラフという作者の本を読んだのは本書が初めてだったが、本作において本の見た目に反した「軽さ」は入れ替わる人格と相対し、自身の性格が統御することが難しい人物の多面的な面貌をそこにうまく表していたという意味で成功していると思う。

個人的な感想を述べると、この作品は多数の性格を内なる身体に抱えた者を描いた”多重人格者にとっての全体小説”だったのかもしれない。
本書の主人公であるアンディ、そして彼との出会いによって自身ではコントロールができない性格の入れ替わりに苦悩するペニーは、殺人犯の正体を探るべく旅路に赴き、その遍歴の最中にも複数の人格との対話が交わされていく。当然会話の中に一つの人格が宿す言葉の一貫性や態度がそこにはあるわけではない。時に口汚い罵り、汚言を繰り返す人格と対面するのは、対話とはいいがたい意思の交換する姿をそこにもたらしていることだろう。
多重人格を持たない人間にとっては、突如訪れる彼らの性格の入れ替わりの偶然性と突発性に苛まれる姿を物語として読むことは一貫していない行動原理の空白を補うものhが少なく、想像だけではとても複雑なものになりかねない。
しかし、第一部で殺人犯ウォレン・ロッジと邂逅するキング・ストリート駅の描写は、特に謎が浮かび生まれ出る瞬間を多重人格者の目線から描いた場面としては本書の白眉といっても良い。身体を統御する人格の変化に伴って迷妄する現実の一部、そこには目の前で起こり得た出来事を繋げるはずの時間や空間が本来あるべきであった認識を歪ませて別の像へと世界の認識を照射しようとする。
意思に反したかのような、それゆえに混乱の只中にある自身と事件が奇妙なことに交差することの興奮と緊張。それはミステリー小説を読んだときに覚える愉しさを本書は含んでいることの証左だった。

「あなたたちにだって、誰かの命を奪った過去があるはずで、身内を殺されたからといって悲しむ資格なんてない。あなたが誰かを殺したように、あなたの大切な人間も誰かに殺されたに過ぎない──そんなふうにいいたいんでしょうか」
「そのように解釈することはできるでしょう」加賀は言った。

『あなたが誰かを殺した』P172~173

※本記事は『あなたが誰かを殺した』の感想記事になりますので本作の真相に触れます。未読の方はご注意ください。

<本作のあらすじ>

山間部の建てられた別荘。
毎年、お盆の時期になると別荘を所有する人々の間でバーベキューパーティーが行われる。
パーティの参加者は、総合病院を経営している櫻木家、別荘を本宅にして一人暮らしをしている管理人の山之内家、12年前に別荘を購入した栗原家、そしてパーティーの手伝いとして呼ばれた者──。それぞれが内心では辟易している催しを終えた深夜に連続殺人事件が起こる。
別荘の鍵を開けた人物は一体誰なのか。どのようにして別訴の人間たちを次々に襲いかかったのか。アリバイや犯人像が不透明なまま事件は暗雲に覆い隠される。
事件とは別の場所にあるホテルのダイニング・ルームに訪れた男性客は、メニューを食べ終えると別荘の事件の犯人は自分がやったから通報してくれ、とスタッフに告げる。男の言動を訝るスタッフだったが、彼の座っていたテーブルには血塗られたナイフが置かれていた。犯人を自称するこの男の正体は何なのか。沈黙を守る男によって不可解な点がいくつも残される中、事件関係者は独自に「検証会」を立ち上げる。
「検証会」の司会進行役として依頼されたのは、長期休暇中の加賀恭一郎だった。この事件は不可能犯罪なのか、誰が何のために起こしたものなのか。嘘が通用しないとされる探偵加賀恭一郎の推理が展開される。

<作者について>

<分裂する糸口、事件の解釈を推進させる探偵>

本作『あなたが誰かを殺した』では、深夜の別荘で起きた連続殺人事件をホテルにいた男が犯行を自白し警察に出頭するという出来事が鼻緒となって物語の謎が展開してゆく。
自称・犯人の桧川大志は、所持していたナイフに被害者の血痕が付着していたことから犯行を疑われ逮捕されるが、肝心の犯行の詳細については沈黙を貫いたままで事件がどのように起こされたのか判然としない状況となる。
事件の真相を知り得る人物が黙秘を貫くことによって、謎の主軸となっている犯人の殺人方法が覆い隠され続ける。
そもそも事件現場となった別荘から離れた場所にあるホテルでなぜ容疑者は自白したのか。そして、どのようにして別荘での殺人を実行したのかが本作の中で物語を推進させている大きな謎の要因となっている。
本作においてこの謎と向き合うのは、事件の被害者である<検証会>のメンバーである。しかし、そのメンバーのみでは事件の真相や手がかりを結びつけるには至らないため、外部の人間である加賀恭一郎が依頼されて介入するのが筋立てとなっている。
シリーズものとしての探偵であるところの彼は、今回の事件でどのような探偵的な行動を起こしたのだろうか。

まず、加賀恭一郎が本作の別荘の連続殺人事件に介入するにあたっては、検証会の参加者の一人である鷲尾春那から依頼される形で参加した。事件についての真相を警察でなく被害者同士によって探る検証会自体は高塚の発案によって提起されたもので、客観的な意見を聴くために各被害者の家の一員はそれぞれ二名までの同行者を認められるという形で部外者を呼ぶ。
彼女が同じ病院に勤める先輩看護師の金森登紀子に巻き込まれた事件についてのあらましを語るうちに、加賀恭一郎の名前が挙げられる。
長期休暇中の時間を利用して彼女からの依頼を受け検証会の司会役として振舞うことになった加賀は事件の部外者なのだが、彼の知り合いである金森登紀子は被害者の鷲尾春那とは知り合い同士の関係にある。そのため、加賀には直接的に事件と関わるための能動的な理由はなかった、という点は本作がどのようにして「探偵」を導入させたのかという点で注目できる観点である。探偵がどのような経緯で事件と関わりを持つのか、という最初のきっかけに関して、本作ではその理由を探偵自身ではなく探偵の知り合いから発せられているという、ある意味では間接的な動機の発露が描かれている。

こうして被害者の集まりであり、事件の真相を突き止める集まりに参加した加賀恭一郎だが、彼の探偵としての性質を決定づける会話がこの中で行われていることも見落としてはいけないだろう。
加賀恭一郎の探偵としての役割をあえて挙げるとすれば、それは「嘘を見抜く」ということである。
他人の嘘が通用しない人物、とは典型的な探偵像の性質を投影したかのような造形にも思われる。加えて、彼がどのようにして他人の嘘を見抜けるのか、については実のところ本作ではあまり描写がされていない。(多少の会話で説明は付けられてはいるがそれも証明できるに足るものではない)
肝心なのは、彼の探偵としての性質を証明するようなエピソードの挿入に筆が割かれていないことである。
実際のところ。「嘘を見抜く」ということを保証するような挿話よりも、シリーズものとしてこの加賀恭一郎は事件にどのように介入するのかの方にこそミステリ小説を読む上での特徴が表れていると言えるような構造になっている。
先に挙げた<検証会>に参加することで部外者でありながら、急速に事件の深部へと関わり、そして、関係者それぞれに聴取する立場になった彼を成り立たせているのは他でもないこの<検証会>があってこその構造になっているのだ。
探偵が都合よく事件に介入できるような条件、あるいは組織の存在なくしてその役割は成り立たないように思われる。
というのも、本編では事件が発生し、警察に逮捕された容疑者が口を割らないことによって事件が闇に覆われている状況そのものを転換させるために、立ち上げられたのが<検証会>という組織である。
探偵にとっては情報を収集しやすく、尚且つ事件関係者と直接聞き込みをすることができる空間が形作られているという点においては、警察小説としての側面をこの<検証会>が担っている、という側面がある。
かつて法月綸太郎氏は評論の中で「日常の謎」が「警察小説化している」との指摘を行ったことがあるが、本作においてはシリーズもの探偵において、警察小説的な側面、その組織的な構造そのものが影を潜めているということは指摘できる要素であると言えるだろう。<検証会>の横では警察関係者がいるにもかかわらず、被害者たちの会話にはほとんど横やりを入れず、そして事件に関係のある手掛かりについては協力的に提供する、という状況になるのは本作においての特殊な状況を際立たせているといえよう。

ホテルの引き出しに置かれて手紙それ自体が、実は、<検証会>のメンバー全員に送られていたことが発覚した際に動揺するメンバーとそれを冷静に分析する探偵像がせり上がってくることで、事件は後半でのもう一人の存在へと追及の手が伸びていく。

本書を読んでいて気になるのは、やはり「操りの構図」という形式が現代でなおも息づいていること、なのだろうか。
ガジェットや論理のエスカレートによって次第に破綻した事件の様相を描いていく物語がかつてミステリの中の潮流には存在していたが、そうした解明の論理の破綻を演出した果てではなく、堅実な物語を成り立たせるために、謎の意外性を合理的な終着点に落とし込んだ作品として、本作は残酷な殺人者を描き出し、そして計画的な犯行と予想外の出来事によって翻弄される人々の姿を描き出した作品だった。

それなら時間の岸辺とはなんでしょうか。時間の波に攫われるものと、時間がけっして触れないものとの違いは?光の時間と闇の時間を同じ円周上に示すとはどういうことなのか。あるところではとこしえにとどまり鳴りをしずめる時間が、別のところでは怒濤を打って押し寄せるのはなぜか。ひょっとすると、とアウステルリッツは語った。『アウステルリッツ』 鈴木仁子 訳

<2023/08/12>

2023年8月12日。ウクライナ出身の映画監督セルゲイ・ロズニツァ監督の作品が「セルゲイ・ロズニツァ 《戦争と正義》ドキュメンタリー2選」と題されて『破壊の自然史』(2022)/『キエフ裁判』(2022)の2作品が劇場で公開された。
日本で彼の作品がプログラムが組まれて上映されるのはこれで3度目となるが、ここに改めてセルゲイ・ロズニツァ監督『キエフ裁判』を紹介する。

<セルゲイ・ロズニツァ作品年譜>

日本で公開されたセルゲイ・ロズニツァ監督の作品については公式のサニーフィルムに詳細が書かれている。
また、近年では日本語で彼の作品についての論文が発表されている*1
彼の作品について、日本では制作年順に上映されているわけでなく、特集の中で組まれた作品が順不同で選ばれている傾向がある。
以下に日本で劇場公開された作品を挙げる。()内は制作年として記しておく。

・2020年:「セルゲイ・ロズニツァ <群衆>ドキュメンタリー3選」
国葬』(2019)/『粛清裁判』(2018)/『アウステルリッツ』(2016)

・2022年:『ドンバス』(2018)/『バビ・ヤール』(2021)/『ミスター・ランズベルギス』(2021)/『新生ロシア』(2015)/『マイダン』(2014)/『霧の中』(2012)/『ジェントル・クリーチャー』(2017)

・2023年:「セルゲイ・ロズニツァ 《戦争と正義》ドキュメンタリー2選」
『破壊の自然史』(2022)/『キエフ裁判』(2022)

セルゲイ・ロズニツァ<戦争と正義>ドキュメンタリー2選 パンフレット

<作品の位置づけ>

過去に撮影された歴史的な出来事を編集し直して新たに音声や演出を加える手法について、彼自身は「アーカイヴァル・映画(アーカイヴ・ドキュメンタリー)」と呼称している。今回公開された『破壊の自然史』/『キエフ裁判』の2作は、以前公式のインタビューで予告した通り『バビ・ヤール』に続くアーカイヴァル・ドキュメンタリー映画という位置づけになるだろう。
「戦争」という同じ題材を扱ったドキュメンタリー映画として、例えばアラン・レネの『夜と霧』という作品がある。
この作品は戦後の風景をカラーで描き、往時である戦時中の映像ではモノクロ映像を使用して時間的な連続性の断絶を間接的に描写する。1955年にフランスで制作されたこの作品は上映時間わずか32分の短篇ドキュメンタリー映画だが、映画史の中で傑作と評されている。アイヒマン裁判で扱われた映像が作品内に含められていることの意味合いの強さもあるが、戦後の西ドイツでは子供たちへの戦後教育(戦後の問題や人種差別の問題)の一環として上映されてきた経緯もあり、アウシュビッツに代表されるような大量殺戮の実態や存在自体が1950年代に既に風化しかけていた中で上映されたことがその評価の理由として挙げられている。
当時のドイツでは東西の分断、また連合国側が収容所で発見した映像資料が戦後の直後にもし公に公開したらその大量殺戮への加担に関係していたのではないか、という懸念があったために秘匿されてきた背景があったとされている。
しかし、その当時、第二次世界大戦の被害と加担から避けられなかった人々にとって、その対応は結果的に戦後から10年という期間で人々は戦争の歴史や記憶を忘却しかけた世情が形成されたことを物語ってしまう。夥しい人が殺される戦争という現象そのものに「悪」という単純な対立軸さえ見出せたら、それはどれほど簡単に見えることだろうか。実際に起きた出来事の一側面をある意味で「真実」として映そうと試みるドキュメンタリー作品において、その問題は常に問いかけられるだろう。

<主題について──殺戮、破壊、記憶、忘却──>

セルゲイ・ロズニツァ監督の作品は主として第二次世界大戦ウクライナを舞台にしている。
作品では想像することのできない歴史の地層、既に起きてしまった出来事についてを扱い、それを編纂し直した形で観客に届けようとする。
彼の作品は歴史的な映像資料を編集し直した「ドキュメンタリー」という位置づけだが、当然、彼自身の歴史観や立場が作品の中には反映されている。
群衆・大衆の姿に着目しつつそこから現れる忘却された記憶の一面を拾い上げるかのような距離感で映像表現を操作し、第二次世界大戦の戦禍の傷跡と戦争における虐殺、大量殺戮の歴史の記憶を蘇らせるところに、彼なりの戦争に対する立場が表れている。その制作態度には、膨大な映像資料と格闘したであろうことがうかがえるだろう。
群衆の愚かさを描く視線がそのまま現在を生きる観客へ向けられる。そうした当時の時間を想起することには決まって無言の時間を突きつけてくるような言葉だけではない世界の力がある。セルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリー映画では群衆が描かれる一方で、ナレーションは極力排されているというのも特徴だろう。そこには現在の視点から歴史を裁断し直すことの危うさが声の不在として注意深く構成されている。
以上のような要素はあくまでもロズニツァ監督がテーマにしているものの一部分でしかないが、映画を鑑賞する際にはこうした要素から離れることなく、または時に時間を隔てた現代を映しながら人間の営みについてを伝えようとしている。

<『キエフ裁判』──虐殺と犯罪を巡る証言──>

キエフ裁判』(THE KIEV TRIAL)は1946年1月にキエフで行われた、ある裁判を題材にした映像作品である。
裁判の内容は、第二次世界大戦独ソ戦ナチス・ドイツに協力し、ユダヤ人の虐殺及び戦争犯罪の首謀者を対象とした国際軍事裁判だ。
第二次世界大戦の主要な軍事裁判としては「ニュルンベルク裁判」「東京裁判」に関連する出来事の映像として扱われたもので、106分の映像の中でどのように人が虐殺されたのかが被告と証言者の口から数多く挙げられる。
証言の中で、どのようにして人を並べ、次々に射殺したのか──。あるいは、何万もの人々をどんな命令で人を動員しながら虐殺したか。平時に生きる私たちには到底想像することができないことが、淡々とした口調、声色で読み上げられ、映像の中に映し出されていく。

キエフ裁判」ではナチスドイツの戦争犯罪について当時のソビエト連邦の立場からの評決が描かれている。この軍事裁判の評決は、共産党の中央委員会の司法委員会の承認が必要であり、1943年から1947年の期間で行われた。
この裁判では15人の戦争犯罪を犯した将校について、またバビ・ヤールにおける殺戮に関係していた人物が映像に登場する。この裁判での評決により処刑されることになった将校の姿を見るために当時20万人の観衆が集まったとされている。
ディレクターズ・ノート*2で彼自身が記述しているように、本作は『バビ・ヤール』のアーカイブ映像をリサーチしている際に発見した映像資料に基づいて作成された。
彼によれば、本作の映像はモスクワ中央ドキュメンタリースタジオのカメラマンがキエフのスタッフと共に裁判を撮影したものに手を加えて、画像と音声を新たに追加・編集し直したものが作品として反映されている。
映像の終盤、この作品を覆う張りつめた緊張を解放するような場面は現在の独立広場となっている。その処刑場(カリーニン広場)に押し寄せる観衆の姿は裁判の聴衆と重なり、戦争犯罪という事実に「正義」を執行する大衆の一体化した願望を如実に映し出しているかのようだ。
この裁判については芝健介氏が書いているように、わざわざ裁判の姿とそれを傍聴する大衆の姿を撮影することでソビエト側の国際的な立場と政治的なキャンペーンとしての意図が含まれていたという側面がある*3
スターリンによるソビエト指導部はソ連による敗戦国のナチス・ドイツ戦争犯罪を裁くことで国際世論の新たな指示を受けると同時に大衆との戦争観の共有を目的にしているところがあった。
1945年8月に行われたロンドン会議において、国際刑事裁判の方式が確定した段階で「戦争犯罪」に関する犯罪の概念が定められたことへの実質的な戦争責任への処断や対応が求められている状況の中で、ソビエトはこうした第二次世界大戦戦争犯罪を裁定する姿を示す必要があったのだ。
虐殺や差別、そして略奪行為などに関する戦争犯罪への裁定をある程度実行したとはいえ、ソビエトの対応に瑕疵がなかったわけではない。
1941年から1943年にかけて当時のドイツ人の手による戦争犯罪の被害として最も多かったのはソ連の被占領地域と住民であった。
先に挙げた芝氏による指摘では、キエフ裁判をはじめとして、ソビエト側が戦争犯罪人への罪を裁く際の拙速な対応の中では文書記録よりは、被告人による証言と自白に重きが置かれた。人種自体に憎悪と差別を抱くことで国家の運営をしていた巨大な犯罪の実態を時間をかけて分析、検討するよりも拷問を行い自白を強要させて強制的に有罪であることを作り上げていく。その様はセルゲイ・ロズニツァ
『粛清裁判』へとつながっている。
元々が公的な文書記録が残されず証人の発言自体が有力な裁判資料として扱われやすい性質を持つ世界大戦の軍事裁判において、こうした軍事的な手続きによって行われた虐殺事件などは真相の解明や具体的な出来事の検討と証明をするために必要なことよりも犯罪人を裁く手早さこそが「正義」を代補する状況ができやすい。そうした裁判における真相や証明への軽視はこの裁判においても重大な欠陥であるということは批判されている。

キエフ裁判』では、観客に対してあたかも当時の裁判に自分がいるかのような映像の喚起力がある。裁判に被告人が入廷する姿だけでなく、裁判を聴きに来た多くの聴衆が入る姿も映し出している。こうした映像的な演出と思惑は、当時撮影を指示したソビエト指導部ではなく、監督であるセルゲイ・ロズニツァ監督によるものだということが公式のインタビューにより明らかにされている。ロズニツァ監督の作品、しかも裁判を題材にした作品においてはこうした錯覚を促すかのような演出が通底した技法として扱われている。そこには無言のまま裁判の行く末を見届ける「歴史の証人としての聴衆の姿と、ソビエトによる国家的なキャンペーン工作を指示するために集まった大衆の姿が重ね合わせられている。
この作品の証人としても登場するが前年に制作された『バビ・ヤール』の出来事では、ウクライナ側の問題へも焦点を当てている。国家間の揺れ動く中で起こる犯罪の責任追及について、鑑賞しているわたしたちの足元へも近づいているかのような地続きの歴史の姿をそこに抽出している。
前年に制作された『バビ・ヤール』において、キエフを占領したドイツ側がソ連によって逮捕されていた囚人を解放し、スターリンのポスターを破いてナチスを歓迎したウクライナの住人の姿が描かれるが、わたしたちはこうした戦争における占領下の住人としての振舞いと軽率さに対して、批判をするのは容易くとも、実際に起きた場合ははたして対処できるものなのだろうか。
『バビ・ヤール』において、よく言われるようにソ連からナチスへと支持を鞍替えした住人たちに待ち受けるのは、爆発事件により新たな犠牲者が冤罪となって虐殺されるという現実である。
NKVD(ソ連秘密警察)がキエフから撤退する最中に仕掛けた爆弾の存在が遠隔操作によって起爆したこの事件によって、あらぬ疑いを掛けられたユダヤ人市民たちは事件が起きた翌日に出頭命令が出されることになった。その結果、アインザックルッペン(移動殺人部隊)のゾンダーコマンドが警察とウクライナの支援を受けながらバビ・ヤールで33,771人を射殺した。

映像の技法として仕掛けられたこの疑似体験は、歴史において普段のわたしたちが捉える史実への立場と考究を目指した「論理」ではなく、出来事がまず目の前にあり、その現前した状態から発生してゆく不条理への無関心と忘却の性質をあぶり出しながら、観客の眼差しに突きつけてくる。
キエフ裁判』において、多くの観客がおそらく抱くであろう映像的なスペクタクルは、終盤の人が殺される処刑のシーンであること、それ自体もまたロズニツァ監督の編集における技法と操作によるものであるとしても、それは観客と当時戦争犯罪を犯した被告人たちの証言を嘲笑った裁判の聴衆との間にどれほどの違いがあるのだろうか。
処刑場に詰めかける観衆、そして裁判の傍聴席から被告人に対して侮蔑や嘲笑を浮かべた人々の残酷な一面をもこの映画は映し出している。それを踏まえてこの作品と向き合うと、到底鑑賞したとは言えるものでなくなるような、途方もない無力に時おり押し潰されるかのような想いがしてくる。
ソビエト社会主義共和国と占領下のウクライナの風景そのものが映し出す、熱狂した大衆の姿には個人や複数の出来事として分裂して形成されることで成り立つはずの事実の性質が集団の論理によって塗り潰されている様が現れている。
この裁判の終盤において、軍事検察長官は「こうした悲劇を二度と繰り返さず、ファシズムの恐怖から世界を守る」と宣誓する姿が描かれるが、その後にソビエトで待ち受ける大粛清の時代を想像すると、それは被告人の証言と同じくなんとも空虚な響きを持った言葉に映る。
そしてまた、『キエフ裁判』においての本当の被害者たちの証言というのは、あまりにも少ないという事実を忘れてはならないだろう。裁判において、評決を決定するための重要な基準として用いられたのが事件に関係した人物たちの証言となっているが、『バビ・ヤール』においての生還者の口から出される生々しい饒舌でさえある証言以外に被害者側からの証言は登場しない。
被害者となる人々は当時の裁判に入廷することも叶わず、全員が射殺されたのだから証言することなどできない。この映画においての「ナレーションの不在」から裁判の出来事を眺めて私たちの目に映るのは不在を通して映し出される証言者たちの不在の姿であることも、ここに改めて付け加えておきたい。
当然のことながら、商業としての映画は構成に基づいて人々の「観ることの快楽」を味わう芸術表現でもある。娯楽としての映画を鑑賞することに慣れた観客として、この作品から喚起されるものは人間としての在りかたを重く問いかけるものである。

<極私的な覚え書き>

最後に内在的な内容となってしまうが、セルゲイ・ロズニツァ監督の作品について個人的なことを書いておくことにする。
ぼく自身がセルゲイ・ロズニツァ監督の作品を知ったのは、2020年に京都みなみ会館でW・G・ゼーバルトの作品と同一タイトルの『アウステルリッツ』という映画が上映されるという報せがあったことがきっかけだった。
同時期に出町座で「ナチス映画 禁忌と狂熱の映画史」という特集上映が組まれており、そこに当時東京国際大学教授の渋谷哲也氏が解説やレクチャーをしていた際にセルゲイ・ロズニツァ監督の作品紹介があった。
大まかには現代の「悪(いわゆる凡庸な悪)」とは何なのか、そして戦後を生きる私には、いったいどんな問題が受け継がれていて、変遷しているのか──。それらを再び考えるきっかけとして鑑賞していたところがあった。
ぼく個人は父方と母方、両方の祖父母が第二次世界大戦の戦争経験者である。
生前はたまに戦争に関わる話を生で聴いて育ち、そして亡くなる姿を見聞きした。そういう意味では第二次世界大戦の戦争経験者と直接見聞きした経験を持つ世代に位置づけられるだろう。
今でこそアーカイブ技術が発達し、同時にその資料への研究も進められている昨今だが、ぼく個人の立ち位置から見える「戦争」の姿というのは、ひどく具体的であると同時に、どこか抽象的な出来事のように思われる矛盾した歴史的事象という印象が拭えない。
おそらくは精神的に傷を抱え、そして同時に加害者の側面もあったはずの肉親に対しての言葉をどのように繋いでいけばよいか。その葛藤と向き合うこと、軽々しく「戦争」について、自分が語ることへの警戒心が強かったせいで、語る事自体をほぼ禁じていたという経緯がある。それはぼく以降の下の世代にはあまりない感覚だろうと最近はよく思うようになった。
そんな生まれ持った位置から戦後を向き合うためには、自国だけでなく、少し距離をとった場所から戦争を見つめる距離が必要であった。
ロズニツァ監督の作品をいくつか鑑賞してみると、鑑賞後にどんな言葉を紡いでいけるのか、あるいはそもそも「戦争」における証言者なき虐殺の実態についてを目の前にした時にどんな向き合い方をすればよいのか判断に悩むことがしばらく続いている。
だが、時間を経て実感されるのは、途方もない無力の果てに生じる応答の可能性である。
残念ながら、歴史は繰り返される。現代における戦争を想起すると、ロシアによるウクライナへの侵略戦争イスラエルパレスチナの紛争についてまず関心が向けられる。世界中の情報の可視化を目指した現在においてそれは避けることができない事象である。
余談となるが、ぼくが今回『キエフ裁判』を鑑賞した際、上映後の観客の口から「かわいそう」という反応をする観客がいた。今回のキエフにおける歴史的な背景知識を持ち込んでの同情心からくる声色ではなく、まるでテレビ番組でキッチュな悲劇を観たかのように吐き捨てられる「かわいそう」という言葉には、ある種の手軽な相対化の姿があった。鑑賞後に最も安易な「同情」という現代的な態度によって作品との自己との距離を即座に取ろうとする身軽さは、自分自身に向けられた「かわいそう」であると言っているのではないのかというようにさえ聞こえた。観客は処刑場の場面では笑ってさえしたのだから、ある意味ではかつてのフランスのように、消費物として訪れた観客もまた、こうした映画を鑑賞しにやってくる現実というのをぼくはそこで認識した。
もしかしたら、あまりにも悲惨で不条理な出来事を目の前にして為すすべもなくなった時、一部の人は『キエフ裁判』に映し出されたかのように熱狂したり、その場の情感に従うことで現実を見ないことにしているのではないか。その場には現れない「不在」が現前して真相が不条理となって停滞する状況が続く時に、人は不在そのものを更に塗り替えるべく不在を自身の手によって次の不在に挿げ替えるのではないか、と思いさえした。
心理における疑似的な抑圧。それも虐殺を題材とした不条理の空間へと投げ出された観客が、平常な時間間隔を失い、人間の最も抽象的であり身近な時間的な現在性をも狂わせるかのような映像の力能を目の前にしたとき、現代的な価値観を再び機能させることは作品内の直視することのできない出来事を物語っているような気さえした。
だが、こうした現実であってこそ、集合的な経験に対して内的な同情を差し向ける実質的な無関心へと閉ざすものでなく、相対して抱いた葛藤を他者にひらくために懊悩と向き合ったまま言葉に取り組むこともまたできるのではないか。
ぼくにとってロズニツァ監督の作品『キエフ裁判』をめぐって想起するのはW・G・ゼーバルトの言葉である。道義的な責任からくる態度や立場の表明ではなく、あくまで長い沈黙への一つの応答として綴られる言葉。それは存在と不在の狭間に埋められたものを再帰させ得る時間を生成するものとして、作品があり、そして観客たちがいる。そんなことを極私的な覚え書きにぼくはここに書き記すことにしよう。

久しぶりに読書会へ参加しました。

いちおう忘れないうちに備忘録をと思い記事を書いてみることにしました。
読んでいて感じたことを記しているので誤りがあるかもしれません。
そのあたりは予め素人読者の読解、ということで。

《作者について》

1968年生まれ。アイルランドの東部ウィックロー県の農家で育つ。
高校卒業後、渡米。1992年に帰国。
Antarctica(1999年)という短編集でデビュー。
_Los Angels Times_の年間最優秀図書に選出。

他、ウィリアム・トレヴァー賞などを受賞し現在のアイルランド文学の若手作家として知られる。

『青い野を歩く』(Walk The Blue Fields 2007)は二つめの短篇集。
本書の邦訳が刊行された2009年に来日し東京工業大学で_Foster_の朗読を行った。
著者紹介によると現在はアイルランドの海辺の町で犬や馬と暮らしている。

《作品との立ち位置》

刊行元の白水社にある内容紹介では、「アイリッシュ・バラッド」との位置づけがされている。
アイリッシュ・バラッド」に該当する他の作品がどんなものなのかはわからないが、少なくとも作品の惹句としては「名もなき人々の不倫や心の陰影を捉えた生活世界を表現したもの」をそう呼んでいるらしい。

アイルランド文学といえばジェイムズ・ジョイスが浮かぶ。
しかしアイルランド自体について疎いので、今回は素朴に作品世界を通して見えてくるものを楽しんでみることにした。
ただし、海外文学を読んでいると訳のなかで言葉の意味がずれを起こしていたりすることがある。そのため語圏の境界を乗り越えて原文の意味が立ち表れている箇所がないか、というのは気にしながら読んでいった。

最初の印象から言うと、訳者の岩本正恵氏による読みやすい翻訳が文章に染み渡っているので特に躓くような箇所はなかった。
入り口として、本書の作品世界は読みやすい。その意味ではあえて難解な記述によって読者を突き放すような小説の作りをしていない、と言えるだろう。
しかしだからと言って、作品世界を覗いてみると行間にある意味や時間を読み取っていく楽しみが埋め込まれているような感触があり容易には楽しめないような作りが潜んでいるように思われた。

《短篇について》

ここではいくつかの短篇のあらすじを感想と合わせて取り挙げたい。

Ⅰ.別れの贈り物 THE PARTING GIFT

ⅰ‐ⅰ あらすじ

朝日が鏡台の足元に差し込もうとする中で語り手は〈きみ〉に向けて語りかける。階下では家族が荷支度を整え、朝食の準備が行われている。寝室に置かれたパスポート、外では顔見知りの兄弟たちが農機を動かし干し草を梳いていた。出発時刻を待つ人物と、その家族の間にある静寂はどこかすれ違う言葉の空白を生みながら、次第に〈きみ〉の過去が語られていく。

ⅰ‐ⅱ 反復される動作、反転する空間

本編の語り口には反復と反転の性質が潜んでいる。

冒頭では、まだはっきりとしない意識の目覚めを表すように鏡はぼやけており、ガラスに映る人物の姿はどこか霞んでいる。
二人称の語りによる進行で物語の構造は、必然的に読者、語り手、語り手の対象者との距離がそれぞれ隔たりを設けられているのが本作の特徴を為していることがわかる。
最初の章の断絶で、語り手の口からは対象となる〈きみ〉がどこか別の場所へと出発するのだという状況が展開していく。そして母親の動作から、過去の悲劇を抱えていることが間接的に記述される。
後続的に状況が説明されて会話と場面の理由に説明が付けられていく本作において、語りの伝達が読者へ向かうまでの間には語りによって浮かび上がる描写の伝達に遅延が生じている。

行間が空き、二度目の夏の日差しの場面は冒頭のように影はない。だが、直前に語られた父と母の過去に光が当たるとそれまでぼんやりと朝靄に包まれていた家庭内の空間が豹変する。
閉鎖的で暴力的な空間、束縛が明るみになる。自由ではなく、さわやかですらない、そんな場所であることが平凡に見えていた家庭の景色を覆うかのように如実に表れてくる。
本編の舞台となる空間、そして家族の間に交わされる言葉には奥行きが生じている。会話で描写される会話は平面的なやりとりに終始し、会話の応酬にはロマンスや劇的な転調といったものはなく、暗い情感をたたえている。
描写される会話はきわめて平面的なやりとりが前面に出ており、ごく最低限のふるまい、会話の応酬に留まりながら場面は展開する。語られる家庭内不和や暴力、暴行は兆しとなるものそれ自体が語りの中から隠蔽され、明らかにされないものは次第に読み手の中で疑問となって膨れ上がる。
注意深くして読むと、そうした疑問や静かな場面を繋ぐものとして動作の反復や空間の意味が反転することに気が付く。

本編の中では顔をそむける動作が二回ほど書かれている。
まずは一回目の箇所を引用してみよう。

きみは二階に行くが、部屋には戻らない。階段の上に立つ。母と兄が台所で話しはじめるが、話の内容は聞こえない。一羽のスズメが急降下して窓枠に止まり、映っている自分の姿をつつく。くちばしがガラスに当たる。きみはスズメを見つめ、それ以上見ていられなくなったとき、スズメは飛び立つ。 P12

この場面では、家族間で隠されているある出来事を映し出す反復の兆しとしてスズメが窓のガラスを叩く場面が描かれている。
この後に語られる母親の出来事、語り手の知る〈きみ〉が体験したことは、それまでの静寂の意味を一変させるに足る記述だ。

きみがゲートの針金をかけていると、雌の子馬が草地の端まで駆けてきて、フェンスのもたれ、うれしそうに鳴く。紅栗毛で、一本だけ足先が白い。航空券のお金を作るためにこの子馬を売ったが、引き取られるのは明日だ。そういう取り決めだった。きみは子馬を見つめ、顔をそむけるが、ふり返らずにはいられない。きみの目は砂利道をたどり、わだちのあいだに細長くつづく緑をたどり、プロテスタントの時代から残っている御影石の柱を見上げ、その先にいる、最後にひと目きみを見ようと出てきた母親を見る。P18

場面の中で、〈きみ〉は自由を手にする。しかしそのための代償に仔馬はどこかよそへと引き取られてしまう。
この二回目の場面では〈きみ〉が顔をそむけた後に振り返る仕草をし、出立の時が迫ろうとする中での躊躇いが勢いをつけて解き放たれようと描かれる。それは一回目のようにスズメが空から舞い降りてきて窓を叩いてすぐさま飛び去ってしまうものとは違い、悲しみが横たわる地を進んでいく力強さへと場面が伸びやかに続いている。
引用した文のなかではプロテスタントという語が入る。この後に続く記述の中ではさらに父親の言からの宗派の違う子供と比較しつつ自分の子を自慢に思うといった場面が描かれる。アイルランドにおいて多数派とされるカトリックの家庭からみたプロテスタント信徒への差別的な言動を生々しく描くというのも、土地の固有性や宗教性を含んでいる箇所かもしれない。

ⅰ‐ⅲ 感想

個人的に初読で抱いた感想は、暗いなという印象を受けた。また思ったよりしんどい内容である。アイルランドの地方に住む田舎暮らしの家庭で起きた暴力、育児放棄の父親から逃げるために妹をアメリカへ出て行かせる話でもあり救いがあるとかないとかの話ではなくて、どうしてこういう話を書いたのかがやや読後に気になった。この作品が描かれた年に何か事件があった、とか要らぬ勘ぐりをしたくなる。
本作のように、ある種のトラウマ的経験を抱えた個人を語るには代わりとなる人物を設けることで物語に一定の冷たさが宿っているような気がした。ただしそれによって、多少対象への暗示のようにも見えて来る。痛みを抱えた人物が自らの言葉で動き出す記述、そうではなく誰かに語られることによって補われる記述。家族という最小単位で起きたおぞましい出来事なのだが、物語の終わりは開け放たれた窓のように孤独の世界が守られ、締めくくられている。

Ⅱ.青い野を歩く WALK THE BLUE FIELDS

ⅰ‐ⅰ あらすじ

婚礼が執り行われようとしている教会の席。深紅の服を纏った女性たちの間には不審が広がりつつあった。過去を呼び覚ます墓石の間を風は強く吹き通り、4月の空にたなびく雲は千切れて神父の眼差しの中に過去の姿が浮かぶ。新郎新婦の姿を見届けながら神父は胸に秘めた出来事に己自身の信仰が問いただされる。ベールの覆いから真珠の光が現れ、神父は青い野の道を踏み出し始める。

ⅰ‐ⅱ 感想

この短篇はあけすけな日常会話の台詞が辛辣なように思えてしまい、中国人差別のような言動が発せられる場面などは笑えないものがあった。しかし冒頭の厳かな場面とは裏腹な綺麗ごと抜きの世界が描かれることで、神父の隠された過去と孤独は後半になるにつれて広大な自然描写へとつながっていく。「あいつは中国野郎だ。犬を食って茶の糞をしてるのさ!」という嘲笑は、教会の聖性を一気に引きはがして神父の揺らいでいる信仰心と俗性を暴き立てている。そこには神へ身を捧げた男の生涯がささいなひと粒の真珠によって乱されてしまった姿が写し出されている。

Ⅲ.長く苦しい死 THE LONG AND PAINFUL DEATH

ⅰ‐ⅰ あらすじ

深夜午前3時、人気のないアカル島へと続く橋を彼女は渡った。夜道の街灯は静まり返った家々を仄かに照らしている。ドゥゴートへの曲がり角を進みながら目的のベル・ハウスへと向かう道は果てしなく暗闇に開かれている空間だった。執筆の仕事のために訪れた彼女はこの地で自らの作品へ向かおうとする。暖炉には火が燃え立ち、机にはノート辞書と紙と万年筆。2週間の滞在中に執筆をする傍らで訪れる男性との会話、そしてチェーホフの短篇は彼女にどんな変化を齎すか。

ⅰ‐ⅱ 感想

深夜の島に辿りついた女性が道をたどって人気のない村へ向かおうとする場面から始まるところが個人的に北欧ミステリっぽさを感じた作品だった。この短編集の中で一番好きな作品。「作家が執筆しようとする小説」という枠構造がとある箇所から鋭く語りの中から表れ出す箇所は読んでいて少し驚かされた。ある種陰鬱な復讐心を覗かせている部分も含めて蔑視されがちな人々の姿がいかに理不尽な出来事によって虐げられているのかが明るみされている。アイルランドという土地での保守的な要素という側面も描かれており、このような迷惑な人物は性別を抜きにしてどの世界にもいるんだろう。

Ⅴ.森番の娘 THE FORESTER'S DAUGHTER

ⅰ‐ⅰ あらすじ

妻と結婚したが一年で関係が冷めてしまったディーガン。いったい、結婚に何を期待していたのか。妻のマーサは三人の子を育てているが子育てには熱が入らない。彼らの間に分け入るようにしてレトリーバーのジャッジが家族たちの中に入ってくる。移ろいやすい季節のめぐりにある一つの家庭が描かれる。晴れ渡る空とは裏腹に家族たちの夢は終わりを迎えていた。見晴るかす未来もなく、ただ思い出だけが彼らの中に残り、犬は人間たちに皮肉まじりの視線を投げかける。

ⅰ‐ⅱ 感想

流し台でレトリーバーを洗ってしまう場面が笑えてしまう。シンクには夫の上等なティーカップがあるから子供たちが犬を洗っているのを見て妻がいちおう怒るのだけど、ほんとうはどうでもよかったと言いさえする崩壊寸前な家族像が喜劇的ですらあるように思われた。それぞれが本当は孤独なことを求めているくせに、そうする強さがない(裏返せば弱い)から言葉によって別離ができない。この短篇を読んで太宰治の「明るさは滅びの姿であろうか」という言葉が記憶からすり抜けてきた。終盤の状況になってもへそくりなどのことを考えている妻のたくましさ。

Ⅵ.波打ち際で CLOSE TO THE WATER'S EDGE

ⅰ‐ⅰ あらすじ

マサチューセッツ州ケンブリッジ。陽射しが砂浜を白く描き出して青いパラソルが浜辺でくつろいでいる語り手を彩る。押し寄せ返す潮の満ち引きと真昼の太陽があたり一面に広がっている。そんな景色の中、室内では彼の母マーシーとが継父であり共和党支持者のリチャードが言い争う。

ⅰ‐ⅱ 感想

語りの焦点は息子の行動に集中している。一瞬、バナナフィッシュのことが過ぎった。継父や母親との関係が破綻するかもしれない、そういう会話の零れや解れが見える手前で語りは途切れ、物語は締めくくられる。まさしくタイトルにあるような、これから海の中に沈んだり、揺蕩ったりする波打ち際のあわいを生きる大学生の青年がこの短い物語を牽引するという構図は新しくできた継父と自分の母親の元にいる不自由な浜辺からの逃走を予感させている。こちらの場合はまだ健康的で不穏さがない分、幸せだと思う。

《総評》

全体を通して、この短編集に収められている風景の質感は暗さを帯びている。どの作品も物語の起こりには人物の動作や行為が先にあり、その後に説明や人物関係がじわじわと記述されている特徴がある。もちろん一般的な小説の語り口ではあるけれども、この作品においては動作と説明の書き分けが意図的でいて何か意味の方向性が控えているように思われた。
例えば、巻頭を飾る「別れの贈り物」などは日常の会話文がきわめて平面的なやりとりがなぞられていている。会話と行為の間には奥行きを含ませており会話劇に見られる言葉の高揚感、情感を揺さぶられるようなやり取りは、抑えられた文体で書かれていることは明らかだろう。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を思わせる一場面や、風景の様相を主観的に変容させることによって主体と客体の距離のコントラストをよりはっきりと情景に転写する擬人化描写も記述されているが、それは作品の主だった要素とは言えない。改めて作品全体を見渡してみると、短篇の中には心を通わせる人との出会いに満ちたドラマがあるわけでもなく、入り乱れる生死の激しさの過程を描いている訳でもない。ただ、静かな情景の連なりが作品を支えている。この全体を覆う作風、そして物語の運び、登場人物を動かす推進力を担っているのは明らかに日常のこまごまとした描写に比重が寄っている。これは冒頭の作品のみならず、他の短篇にも通底する記述だと思う。そうであるならば、そこには作者がこの短編集に込めたものが密接に結びついているものだというふうに捉えられる。
では、この抑圧的な文体とどこか明るさが見え隠れする作品世界をどう言葉によって捉えるべきだろうか。
浅学な読み手の自分が過剰な読み方をするとしたら、作品を覆うムード(雰囲気、気配)とそれを成り立たせているモード(形式)という抽象的な概念を見立てたくなる。
それぞれの概念に憂愁(メランコリー;物悲しく、気分が沈んでいること)と諷刺という言葉を与えてみると、作品の暗さにも意味が宿り出すような気がしてならない。後者の形式については、他にも色々な叙法が存在している(先に挙げておいた擬人化描写など)ので諷刺はその形式の中の一つだと考えられる。
これらの見立てた概念は車の両輪のようにして作品内で駆動しているという訳ではなくて、登場人物に秘められた想いや行動が持つ意味の奥行きを与えている構造そのものを表している。物語の前景、つまり導入部分には抽象的な物悲しさが霧のように漂っている気配を引き立たせてくれている。

では、この抽象的な概念の見立てを具体的に読解するとどうなるのだろうか。少し遊びとして批評的な観点から提示しておきたい。
まず、前者の作品の雰囲気を担う憂愁(メランコリー)について。

《キャサリンマンスフィールドとの比較》

クレア・キーガン氏の短篇の中では、作家の名前が記憶する限り二人登場する。「長く苦しい死」の中でその一人、チェーホフの名前(p62~p63)がある。この短篇の中では、同時にハインリヒ・ベルの名前も登場するが作品について書かれているのはチェーホフだ。彼の作品が登場するという段になって、読み手としてはまずキャサリンマンスフィールドの姿が思い浮かぶ。
キャサリンマンスフィールドという作家はチェーホフに師事していたという経緯もさることながら、1911年に書かれた短編集ではチェーホフの作品を模倣した習作を書いているという背景がある。その後は『園遊会』などで知られる作家だけども、彼女の作風も人間の心の機微やミクロな生活の情景をみごとに写し出しているという意味でどこかクレア・キーガンさんの作風を思わせるところがある。
ただし同時にテクストを読み解いていくと、本書との対照的な部分が際立って見えてくる。
キャサリンマンスフィールドの場合、人々の生活を描写する視点というのはやや芝居がかっていて激しく感情が揺さぶられたり驚いたりしてみせたりするところに比重がかかっている。それはほとんどわざとらしささえ感じさせるくらいで、代表作である短篇「園遊会」ではパーティを開くために庭で準備をする際に花の手入れをしていた職人たちがふとラベンダーの匂いを確かめるしぐさを目にして感動する場面が描かれる。
こうしたささいな出来事への関心を寄せる登場人物たちの「意識の流れ」、いわゆる内面の声の記述が地の文に差し挟まれることによって動的な視点が点々と飛び回る好奇心旺盛な人物がそこには表れている。キャサリンマンスフィールドの作品世界は快活でやや戯画的な健康さで人間を信じているところがあるが、人を真っ直ぐに捉える記述にはどこか生の切迫感を覚えるところが同時に潜んでいる。それはまるで生き急いでいるかのような息遣いを反映しているように、彼女の文体は感嘆詞がきわめて多い。特にそれが顕著に表れている短編としては「湾の一日」という作品がある。
また、ごくおおざっぱに彼女の作風を捉えると、何か決定的な出来事が起きてしまうまでの過程を描いていると言えるだろう。「園遊会」では庭で華やかな祝宴を開こうとしている中で、とある事件が起こりそのままパーティを開くかどうかという話へと展開していく。明るさをたたえた華やかな冒頭とは裏腹に、物語のその後は未来が暗鬱とする閉じ方がされていて悲劇的な運命を受け入れているような物語の形を成して内に閉じられていることが多い。
対して、クレア・キーガンさんの作品はどうか。
まず、彼女の作品世界というのは、なにか決定的な出来事が起きてしまったあとの世界から物語が出発しているような雰囲気がある。
例えば、目覚めとともに階下で荷支度をしているところから始まり、間接的に過去に悲劇的な事実が記述されていく「別れの贈り物」であったり、婚礼の儀式が行われようとしている4月の空を見上げて、ちぎれた雲の裂け目にどこか暗い情感を忍ばせている神父の姿が描かれる「青い野を歩く」であったり……と言う風に悲しみや憂いから始まっている。そして語りの立ち位置というのは、どこか一定の距離を保ったまま、静けさを維持し続けている。キャサリンマンスフィールドとは対照的に、静的な視点から記述されていく物語は、人間関係の不信感や挫折感、言葉によって明白に意思疎通が行われたりすることのない個々人の抱えた秘密や心理の影をそのままにして、空白地帯を作り上げている日常の時空間を表しているように思われてくる。
ここで興味深いのは、クレア・キーガン氏の場合は挫折や諦めから物語が出発しているけれども、明るさが残っていることだろう。「森番の娘」の破滅の情景には明るさがあり、未来がまだ決定不可能なまま希望が先に続いている。その暗さは寂寥感に終始するものではなくて、物語の終わりには外側の世界へと開かれた形になっている。その意味でも、キャサリンマンスフィールドとクレア・キーガンの二人の作風というのはクローズ・エンドとオープン・エンドの物語の形として対照的に写る。

作品を覆う雰囲気、憂愁(メランコリー)については、以上のようなことがひとまず言えるのではないかと思う。
では、形式はどうか。

〈諷刺と形式〉

クレア・キーガン氏の作品には一見すると物悲しいような雰囲気、メランコリーが漂っていると書いた。しかし、その作品世界に入って読みこんでいくとそこには明るさが残っている。そうした情感の変化をともなう描写を成り立たせている形式の一つとして、諷刺や皮肉の要素があるように思われる。作品内でやや気になった描写について短編集では下ネタや排泄物の描写がほぼ直截に書かれている点はやはり読み落とせない。

例えば、以下のような描写について立ち止まる。

「青い野を歩く」p32
→神父が用を足していると、酔っぱらった新郎側の代表がトイレにやって来て暗に神父を批判する場面。

「森番の娘」p101
→犬のジャッジ視点。庭に出て探検をする場面。人間の視点と犬、動物の視点が交互に行き交いながら一家の生活を描く。人を皮肉に見る犬の視点が描写される。

「クイックン・ツリーの夜」p208。
→死んだ赤ん坊の魂を悼む心の傷を抱えたマーガレットが。地獄の門を想起して、死の恐怖の怯えに目覚めたとき、家の周囲に尿をする場面。

こうしたいくつかの短篇で差し挟まれるスカトロ的な描写は一瞬だけ書かれているのでふっと通り過ぎるように書かれている。しかし、なぜこんな描写を入れる必要があったのか。そういう引っかかりは覚える。その程度には頻度が高い表現だ。
西洋文学においてのこうしたスカトロジーに関する伝統的な手法については、ジェフリー・チョーサーの著作や階級格差の隔たりなく語られる庶民の物語の中から発展していき、社会的には下層に追いやられてしまった人々が上流社会や高尚な文化を批判したり逆照射するための形式として用いられてきたという伝統がある。
人間が生きて行くなかで必要不可欠な行為であるにもかかわらず、それは文明社会においては忌避される習慣として当たり前のように隠される。汚物などの排泄物の描写や表現を扱うことによって、いわばそうした文明社会の規範的価値基準を脅かすことにより高尚な文化に隠された醜悪な側面を明るみに出そうとする、そんな諷刺と抵抗の精神がそこには込められていると解釈の手が伸ばされてきた。

では改めてクレア・キーガンさんの短篇はどうだろうか。

立ち戻って考えてみると「青い野を歩く」では、厳かな婚礼の儀式の裏で愚痴や酔った勢いで汚い言葉を吐く人間の暴力的な性質を表現し、「森番の娘」においては人間ではなく動物の視点から人間社会の不条理や言葉に縛られている人々を皮肉な視点で捉えている(もちろんこれは人間たちの視点でもある)。また、「クイックン・ツリーの夜」では、心身に限界をきたし、田舎の因習と死の恐怖に脅えて人間不信を抱えた女性がそうした行為を通して一時的にでも心理的な安全性を獲得しようとする。
文学の修辞法としてスカトロジーの要素は、人間が取り繕う聖と俗の境界を暴き立てて綺麗ごと抜きの人間の姿をそこにあえて表し、頽廃の影をまとわせながら心の弱さを捉えようとしている。これらの作品世界を覆うメランコリー(物悲しさ)を帯びた情景は、距離を帯びた語り手を通して物語の中心にある沈黙の姿というのを物語り、声や言葉が書き連ねられていく中で束縛や抑圧的な社会への抵抗を示す筆致がそこには表れているのではないか、と思われた。

以上が私なりに本書を読んでいてふと考えてみたくなったことの一部である。浅学な読み方でお恥ずかしい。

青い野を歩く (EXLIBRIS)

年の瀬も押し迫り、特にやることもないので今年読んだ本のベスト10を作ってみた。

正直、選出した作品はどれも甲乙つけがたいものばかりで順不同としたかった。けれど、順位を組み立てることで普段はあまり意識していない作品が含意する領域への興味関心をあえて言葉にして捉えてみることにした。

いまだに自分の中で自己規定のために読むことや私淑するほどの作家・作品というのはない気がするので、ひとまずの関心を明らかにしてみるのも読書の営みの一つだろう。

結論から言えば、今年よかった本ベスト10は以下の通りになった。各作品については後述するので拙い読者の感想をご笑覧いただきたい。

1.W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』訳 鈴木仁子

2.室井光広『詩記列伝序説』

3.ウラジーミル・ナボコフ 『ルージン・ディフェンス 密偵

訳 杉本一直、秋草俊一郎

4.米澤穂信『王とサーカス』

5.西尾維新クビキリサイクル 青色サヴァン戯言遣い

6.アガサ・クリスティー『ポケットにライ麦を』訳 山本やよい

7.麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』

8.呉勝浩『爆弾』

9.ダンテ『神曲』訳 平川祐弘

10.アルベール・カミュ『幸福な死』訳 高畠正明

1.W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』 訳 鈴木仁子

さんざん悩んで、今年のベストはゼーバルトの『アウステルリッツ』になった。

長らく絶版、あるいは入手難の状態が続いていたゼーバルト作品だったが、ここのところ1~2年で刊行元である白水社ゼーバルト・コレクションを精力的に復刊している。再びゼーバルト作品を入手しやすい環境となり、彼の作品への評価が更新される機会が得られたのはひとえに刊行元である白水社の尽力に依るところが大きいだろう。また、来年の2023年には『鄙の宿』の復刊が予定されている。

仮に、ゼーバルトの面白さを3つ挙げろ、と言われたら、ぼくは他の2つの理由を言う前にまず「いい加減なところ」を魅力として形容する。元来、小説は法螺を吹くものである以上、真実を語り得ないものだ。しかしながら虚構の上に真実の意匠を纏わせることができるのは語りが為せる営みだとも言える。彼の作品を読んでいて奇妙に惹きつけられるものは何かと問いかけたときに必ず直面するのは、そうした物語における非本質的な語りの機能だと思われる。変な話だけど、ゼーバルトの良さを率直に捉えようとするときに必要なものはそんなところにあるように思われてならない。

ゼーバルトという作家自体は2015年くらいに書評等で見聞きして興味持って以来、毎年再読している。その程度には惹きつけられているわけだが、個人的には2015年の終わりに、とある場所で写真批評の立ち上げを目の当たりにした影響で読んでいた作品だとも位置付けられる。

だが実際のところ、ゼーバルトの作品は写真だけの要素で括られることはない。確かにゼーバルト作品を特徴付けているものを言葉にしたとき、まず読者は作品内で用いられている様々な写真や図面のことに注目する。しかし、読んでみればわかる通り、これらの素材はあくまでも作品の描写と描写、あるいは時間の狭間を不格好なままで繋ぎ留める郷愁の糸口として用いられているに過ぎない。そしてまたこれらの素材は、物語上でもきわめて曖昧で完璧に関係付けられるものではないことが多いのだ。

人は記憶の中で明確に思い出せる事柄を映像や視覚情報として取り出すときに背景情報を取捨選択している。事物を目にしたときに訪れるフラッシュバック、条件が重なったときに思い出されるいくつかの事柄や人物や時間を正確に取り戻そうとすればするほど、二度と訪れない物事が曖昧な形として蘇る。影として残る出来事の名残りは一見すると写真などに残されている。しかし実際には明るみに出されているそうしたイメージの積み重ねが陰影として私たちの前に無言の問いを投げかける。ゼーバルトの作品を特徴付けているこの図像の使い方には、私たちが普段生きていく中で行ってしまう想起を言葉と図像によって再現しているように思われる。そしてまた疑似的に再現された記憶への異化効果を写真や図面の中に織り込んでゼーバルトは作中の人物たちへ再び焦点が向かうように仕掛けているのだ。物語内の出来事と外部情報として差し挟まれるいくつかの図像。その往復運動が環となって読者の中を通り抜けていく狙いが何を齎しているのか、作品は静かに訴えかけてくる。

写真とフィクションの関係や歴史と記憶といった現実と虚構における横断的な表現(いわゆるパラテクスト)に興味のある人は読んでみてもいいだろう。今回読んだ『アウステルリッツ』もまた、個人の中に秘匿された歴史の忘却を丹念に描きなおした作品だと言えるだろう。

アウステルリッツ』は、なにやら重たげな傷心を抱えた主人公が旅先で建築に詳しい少年と出会うところから始まる。1967年のアントワープ駅で遭遇した二人の人物は、その後幾度かの場所で再会を繰り返していく。冒頭で夜行獣館を訪れた後に語られる駅の建築史は、さながら語り手によって駅の再建をしているかのように細部を辿る。すみずみまで説明がしたい、という衒学的な建築への執着がやがてそこに佇んでいる土地そのものへの歴史へと接続していく語りの快楽がそこにはあるのだ。そして不可解なたどたどしい言語の表現(この場合は間接話法)によって慰めを覚える人物との距離感。

朧げな繋がりが謎を膨らませていく展開が彼らの間に晩冬の憂鬱を運び込む。物語の前景は手記の形式で枠組みが立てられているが後景に見える多層的な時間の重なりは地図の記号のように(あるいは暗号のように)配置されている。そこに意味はあるのかどうか。全てを拾い上げて意味を為そうとすると、不格好な硝子細工の一部であることに気が付く。人は他人の人生を聴き取ることは出来ても、全てを理解することは出来ない。手記の中に綴られる、かつてそこにいた人への追想と諦念が『アウステルリッツ』の中では別離の後でどこかほのかに希望を描いているように思われてならない。だからこそ本書は読む際に時間がかかる。そうして本書はそんな態度に反発するかのように、またあるいは諦めきれないように、こんなことを投げかけてくる。

”(…)_時間などというものはない、あるのはさまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ、と。そして考えれば考えるほど、いまだ生の側にいる私たちは、死者の眼にとって非現実的な、光と大気の加減によってたまさか見えるのみの存在なのではないか、という気がしてくるのです。(『アウステルリッツ』p178)_”

ゼーバルトに関して、直近の大きな話題として起きたことといえば、彼への批判だろう。2021年12月~2022年1月頃より、主に英独語圏で作者ゼーバルトへの倫理観を問う内容の記事が書かれた。ゼーバルトユダヤ人とは何も関係のない人物を作中で「ユダヤ人」として扱い、あたかも迫害の被害者として描写させたことへの批判については当然厳しく指摘するべきだろう。これまで批判的な視座があまり向けられてこなかった箇所への痛烈な眼差しが注がれることで、ゼーバルトという作家と作品の位置も検められるだろう。

この批判の発端となった著書を刊行したCarole Angier氏が出演した回のポットキャスト配信があるのでリンクを紹介しておく。

open.spotify.com

一方では、この批判は当然行われてしかるべきだと思うが、他方で少し離れた非当事者としては、こうした告発記事や本が出現することへのムーヴメントへの距離感も覚えてしまう。もちろん、あくまでも物語として写真を使うにせよ、作者と被写体である実在の人物との間での了解が不足していた点はやはり黙認されるべきではない。これまで英語圏で受け入れられてきた作品(いちおうゼーバルトの『アウステルリッツ』は全米批評家協会賞を受賞している)が、歴史的倫理観を問う矢面に立たされる。なぜ、生前のうちに批判は投げかけられなかったのか。そんな素朴な疑問を抱いてしまうほどの見落としがあることに驚かざるをえなかった。ロラン・バルトの言う「作者の死」ではなく、文字通りの意味で作者が亡くなって以降に行われる批判の事例としても、また歴史を扱った小説についての倫理的な問いかけが為された事例としても個人的に印象に残る事柄だった。

ぼくはゼーバルト作品についての魅力の一つを「いい加減なところ」とあえて形容した。上記の批判が行われた以前と以降ではゼーバルトの作品を読むことの態度は全く違うものがあるだろう。学究の道を歩き丹念に読み込む人々はそれでもゼーバルトの作品に博物学環境学の理路でもって読んだりする。ぼくは拙い読み方しかできないのでそういう拾い上げ方しかできないのだが、歴史のうねりを生きているという自覚を何度も忘れ、意識と意識の狭間で生きながらえていく読者の一人としては本書で描写される蛾の生態のようにまどろみながら飛翔する存在でもありつつ、壁にじっと留まり続ける者でありたいと密かに欲望しているところがある。自然史の中では最古級に位置する彼らは葉陰に潜みつつ、自然の動乱を生き延びるために遠くの蝙蝠の声でさえ聴きとる聴覚を有している。たとえ投影に過ぎないとしても、ある種の怯えにも似た生態で哺乳類とほぼ同じ体温まで高まる彼らの姿の中に、時間を飛び回る者のさほど遠くはない類似した影法師を見たくなる。

作品を読み返すごとに拾い上げ、振り落とされる内容が重たげな憂鬱を饒舌に語り直すことで淡い明るさへと解放していくような奇妙な感覚が癒しにも似た読み味を残してくれるときがある。だからこそゼーバルトの作品には、読者にとっていつも惑乱する読み方へと誘ういくつもの取り留めのない事物の羅列が鑑賞物のように置かれているのかもしれない。批判ありきであってもなお、事物によって想起する快楽と苦痛や不安を見つめる手立てを紡いでいるように思われてならない。

アウステルリッツ(新装版)

2.室井光広『詩記列伝序説』

室井光広『詩記列伝序説』では、<極私的世界劇場>と銘打ったテーマを軸として、日本の周縁に位置する自身=室井光広氏が思い描いた世界文学への随想が書き綴られている。

個人的に室井氏の読み方に対して好感を持つのは、作者と作品を切り分けて解釈をするアカデミズム的な手付きで語ることはせずに、作者と作品の関係は不可分に繋がっているものと見なして作品をあえて捉えるところにある。氏によって語られる無学者としての詩学の探究は、シェイクスピアベケットボルヘスフーコーベンヤミンを召喚していながら軽快さを失わずに語られる。軽率に語られる無根拠な断片の連なりが、次第に意味を為す解釈の入り口まで読み手の興味を案内する。読書案内、といってもいいのだろうか。案内というには不親切なところもあるが、ユーモアを取り入れて多義性や無限を論じようとした彼の読み解き方は自分の不勉強を思い知らされる意味で読み応えがあった。

詩記列伝序説

3.ウラジーミル・ナボコフ 『ルージン・ディフェンス 密偵』訳 杉本一直、秋草俊一郎

実はナボコフ全短篇も読んでしまった。

ナボコフ短編を読んでいて、全体の半分くらいは不倫の話を描いていたが、なぜナボコフはそんなに不倫の話を書こうとしたのか。

これはツイッターでちょっと目にしたことの受け売りで考えたことだが、思うに亡命をしてベルリンへと移り住んだナボコフがこうした短編を描いたことにはやはり理由があったのだと思う。例えば、習作としての試み。または小説において人物関係の崩壊を実験したかった、というもの。各編を読み解けば、こうした思いつきだけの発想はすぐに排斥されるが、個人的にはもう一つの理由から読み解けるんじゃないかと思ったりもする。それは、不倫に象徴されるミニマルな家族単位での関係性の崩壊を書き綴ることで、ナボコフはそれまでの社会通念上の家族像を解体しようと試みたのではないか、ということ。曲がりなりにもロシアの上流階級で育った彼が父親を暗殺され、故郷を後にし、母国語を離れて言語活動を試みなければならなった背景にある、自己同一性の揺らぎと故郷への憧憬は初期の短篇でも容易に拾い上げることができるだろう。その後に書かれていく短編が、妖精やドラゴンといった幻想的な存在を登場させることなく、小説世界に変幻自在の仕掛けを施すことになるまでの間に、通俗的な不倫の描写があることを考えると読み手としてはそんなことを妄想したくなる。

『ルージン・ディフェンス 密偵』を読んで、仕掛けを堪能し、そしてナボコフが描きたいものを最後に見せられてやられた、と言わない読者はいないんじゃないかと思う。この作品は、チェスの才気あふれるルージンが辿る人生を覗き見る読者の眼を冒頭から欺こうとしていることに注意と興奮を覚えざるをえない。

父から子へと「ルージン」という名前が継承され、物語が動き出す中で親から子への祝福が新たな呪いを生んでいく。才能に恵まれた者の祝福されざる拠り所。作中の言葉を借りれば、それは「ルージン」という人物の役割を担う者が引き受ける「ボックス席(ローシュ)」であり「偽り(ローシ)」である。成熟するまでの間に彼が走り抜ける空間と時間の細部は目移りするかのように場面が切り替わる。多感な時期の心理描写を描きつつ、次第に主人公はチェスの世界へと誘われ孤独と策略が取り交わされる網目状の盤面の世界に入り込んでしまう。

第二章において、主人公が数学の世界に魅力を覚える描写があるが、その箇所などは狂気と紙一重の世界の入り口を見事に表している。

”(…)それらはみな学校の問題集にはないものばかりだった。平行線の神秘を教えてくれる例証で、垂直線に沿って斜めの線が滑るように上って行くのを見たとき、彼は歓喜と恐怖の双方を覚えた。垂直線は、あらゆる直線がそうであるように無限で、斜めの線もやはり同様に無限で、垂直線に沿って滑りながらどんどん高くのぼっていくのだが、のぼり続ける運命にあり、軌道から滑り落ちることも許されない。そしてこの二本が交わるべき点は、ルージンの魂といっしょに、無限の道程をひたすら上に向かって連れ去られて行くのだった。しかし彼は、定規の助けをかりて無理やり二本の線を引き離した──つまり、平行になるように新たに直線を引きなおしただけなのだが、そうすると、無限の彼方で斜めの線が軌道から外され、想像もつかない天変地異が、名状しがたい奇跡が起こったように感じ、地上の直線たちが発狂してしまうこの天空で、彼はしばらくのあいだぼう然と立ちつくしたのだった。"

ナボコフ・コレクション ルージン・ディフェンス 密偵

4.米澤穂信『王とサーカス』

ぼくは割と米澤穂信の作り出した探偵の中では太刀洗万智が一番好きかもしれない。

ベルーフ・シリーズ”とも呼ばれる太刀洗万智シリーズの一作『王とサーカス』では、5年間の記者生活に終わりを告げてフリーのジャーナリストとして転身した彼女の姿が描かれる。

記者の職能である他人を都合よく切り取り記事にすることへの逡巡が、取材を行う彼女の信念との間に軋轢を生む。異国ネパールの土地でふいに巻き起こった王宮事件に遭遇した主人公は、取材の名目で事件の調査を開始する。

天職は呼びかけられるものなのか、それとも自ら選択して成るものなのか。かつて誰かが口にした「哲学的意味がありますか?」と訊いてくる人はもういない。だがそんな問いかけが事件の背後で反響し、やがて無言の死体が現れる。日が昇り乾いた空気で満ちたカトマンズの盆地の中で、熱気で蒸せかえるバザールの夜で、水たまりのできたトーキョーロッジの玄関で、彼女は応えようとする。一国を揺るがす動乱の場面が中心にあるが、本作は同じ重量で静寂の時間が辺りを覆っている。静かだ、ということは音がしないという意味ではなく、秩序立った世界の中でも同じように人々の小さな蠢きが囁かれていることを意味している。だから本書の中での静寂とは、そこにある現実が空虚ではないことを明るみにする見えざる呼び声のようだ。「静謐」という言葉では括ることのできない悲劇の影が朝日に照らされた街並みの装いに終始仄めいているのが『王とサーカス』における見えざる通奏低音の正体だとしても、そこに応える語り手は太刀洗万智以外にはいない。

太刀洗万智という探偵は、己の描いた推理の中にはっきりとした理想を作る人物だと思う。取材と共に彼女が思い描く謎への期待は、解決の中で一つの変化を形作る。謎が解かれることへの期待と取材によって人々が描かれ、記者の手により報道されることのうしろめたさ。超然とした探偵ではなく、推理の過程で真相との対峙を検討する探偵に自分はテーマとして惹かれるものがある。

王とサーカス (創元推理文庫)

5.西尾維新クビキリサイクル 青色サヴァン戯言遣い

傑作だと思う。たとえ無気力な人間であっても遊びをやめない理由は存在する。もっと早くに読みたい小説だったと心の底から思ったけど、たぶん思春期では耐えられなかっただろう作品。

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

6.アガサ・クリスティー『ポケットにライ麦を』訳 山本やよい

今年読んだアガサ・クリスティーの作品では『そして誰もいなくなった』がもちろん一番面白かった。でもなぜかランキングには『ポケットにライ麦を』を挙げたい。

クリスティーの作品はこれで5~6冊くらいは読んだが、まだよくわからない。

ポケットにライ麦を〔新訳版〕 (クリスティー文庫)

7.麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』

今年読んだミステリでは衝撃度が高くて一番面白かったかもしれない。『翼ある闇』はもとより、続く『痾』も最高だった。謎は破局のために冬があり、論理のために幻想の夏がある。

夏と冬の奏鳴曲  新装改訂版 (講談社文庫)

8.呉勝浩『爆弾』

今年読んだ新刊ミステリの中で最も軽妙かつサスペンスフルな読み味を与えてくれた作品。

ささいな傷害事件で逮捕された奇妙な人物、スズキタゴサクの人を喰ったような言動と都内に予告された爆弾テロ事件の不可解な接点がノンストップで展開される。本当に爆弾を仕掛けたのは彼なのか、それとも別の誰かなのか。謎は空転をして、事件を膨張させていく。取調室の中で錯綜する手がかり、空ろな人物として強調されすぎてもいる容疑者がややもすれば社会の怨嗟を代弁する。深刻な被害を与える爆弾の威力が言葉の軽薄さに覆い隠されて、謎は分裂し、姿を見失い、都市の中で暗い息を吐いている。

爆弾

9.ダンテ・アルギエリ『神曲』訳 平川祐弘

とても読めたという気がしない。かといってもう読んでない訳でもない。ただ壮大な世界の地獄から天国までを巡り読んできた感覚だけが残るのでこの位置にした。

ベアトリーチェとの再会よりも、ウェルギリウスとの別離の方に神曲の核があるのではないか。というよりダンテはウェルギリウスなしに天国には至れなかったことを想う。

神曲【完全版】

10.アルベール・カミュ『幸福な死』訳 高畠正明

『幸福な死』において主人公のメルソーは、平凡な世界に「否」を突き立てようする。彼の存在はしばしば太陽を象徴させ、底が抜けた明るい精神性を喩えようとするが、実際の彼の思想は街並みに写る陽射しを集めて反射させる硝子のようである。アルジェの港街に生きる彼が見せる内省的な叙述からは、同じ場所を回り続けているような深い心の不安に閉ざされた人物の一端が仄見えているようでもある。

裕福だが身体の自由がきかないザグルーの意志と「時間は金で贖われる」という言葉に半ば隷属する形で受け入れ行動に起こす心理。外に向けられていたはずの「否」が自身を覆い、大きな悲嘆に暮れるはずの男の生涯が根底から覆される瞬間などはなく、ただ空を回る太陽のような気まぐれで留まることのない焦燥が滲んでいるかのように写る。

第二章の「意識された死」においても、強迫神経症めいた内省の葛藤は更にメルソーを支配していく。ドレスデン、ボーツェン、ゲールリッツ、リーグニッツ……と異国の地を列車で横断していく最中に過ぎる幸福への憧憬。それ自体が彼をロマネスクな世界へと枠の中にはめ込む。

幸福な死、とは何か。例えば主人公のメルソーは「世界をのぞむ家」という自閉した空間を求めていくつかの国々を巡る。閉じられた孤独の思想のように思える彼の意思は常に太陽の光に追いかけられているように、留まるところのない解放された姿として描写されている。だからそれは荘厳な建築じみた思想ではなく野放図なところがある。熱に浮かされた一人の男の人生が、幸福を求めて空しい生に対抗している姿がそこにはある。草稿にはメルソーを指して「世界の真の鏡、それが彼です」と書き遺されている。実のところ『幸福な死』の不思議な魅力を放っている箇所は、メルソーの内省ではなく、彼が眼にする街並みの描写にある。だからこそ、本書において再び表題の意味はロマネスクの意匠に不条理な世界の謎を纏って読者に投げかけられる。

幸福な死 (新潮文庫)

総括

戦争と疫病、二つの暗い出来事に板挟みにされていることも少なからず影響しているのか、重たいテーマの作品を好んで読んでいたような気がする。新刊ミステリもそれなりには読んだけど、ランキングを考えるにあたっては特に挙げたいと思えるものも少なかったので、来年はもう少し読みたい。今回はベスト10の形でざっくばらんに作品を挙げたが、そろそろ一作を絞ってどのくらい読めるのか挑んでみてもいいかもしれない。