宮沢賢治の2つの謎 (original) (raw)

宮沢賢治は「風野又三郎」という童話を二つ書いています。最初の作品は1924(大正13)年、『注文の多い料理店』を出版した頃に作られましたが、生前には発表されませんでした。次のような独特な文章で始まります。

どっどどどどうど どどうど どどう、

ああまいざくろも吹きとばせ

すっぱいざくろもふきとばせ

どっどどどどうど どどうど どどう

谷川の岸にある、先生が一人で生徒は二十人の「小さな四角な学校」が舞台です。夏休み明けの9月1日に生徒たちが学校に来ると「おかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机に」座っていたのです。その子は鼠色のマントを着て水晶かガラスでできたすきとおった沓をはいており、顔は熟したりんごのようでした。五年生の嘉助という少年が、「ああ、三年生さ入るのだ」と叫びましたので、ちょうどその位の年恰好だったのでしょう。この学校には3年生だけいなかったのです。ところが、その子は先生には見えず、いつのまにやら消えてしまいます。翌日、また子供たちの前に現われ「風野又三郎」と名乗ります。その子は人間ではなく風の精だったのです。兄の名を尋ねると「風野又三郎。きまってるぢゃないか」と答え、父も叔父も皆同じ名前の集合的な存在であることが示されます。

又三郎はその日から毎日現われ、世界中を飛び回った話や、風の効用や、サイクルホールの話をします。サイクルホールとは竜巻や台風のように回転する風の渦のことで、小さいものは十人くらい、大きなものは千人で作ることもあると言います。その内に子供たちは又三郎の存在に慣れてしまい、「まるで東京からふいに田舎の学校へ移って来た友だちぐらいにしか思われなくなって」しまいます。そして、9月10日、6年生の一郎が夢で又三郎の歌をきいて目覚めると、強風の中にちらっと又三郎が見えました。「さよなら、一郎さん」という声が聞こえ、一郎が「又三郎さん。さよなら」と叫ぶところで物語は終わります。岩手の民間伝承と大気循環の科学的知識が結びついた、いかにも賢治らしいメルヘンです。

花巻農学校の跡地につくられたぎんどろ公園には、「風の又三郎群像」というモニュメントがあります。ガラスのマントを着て飛び立つばかりの又三郎と、六人の子供たちが表わされているそうで、この童話にぴったりの構図です。

もう一つの『風野又三郎』は、賢治が37歳で亡くなる前年の1932(昭和7)年頃に書かれました。次の書き出しで始まります。

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいくゎりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

「ああまいざくろ」が「青いくるみ」に、「すっぱいざくろ」が「すっぱいくゎりん」に変わっています。

谷川の岸の小さな学校という設定は変わりませんが、生徒は全学年に居て総勢38人と少し大所帯になっています。そして、何よりも大きな違いは9月1日の教室に現れたのが風の精ではなく、人間の子供だったことです。しかし、その子は「赤い髪」をして、「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴を」はき、「顔といったらまるで熟したりんごのよう」だったのです。風が急に吹いて教室のガラス戸がガタガタ鳴ったときその子がニヤッと笑ったので、五年生の嘉助が「ああわかった。あいつは風の又三郎だぞ」と叫びます。その後、先生がその子は北海道から父親の仕事であるモリブデンの鉱脈の調査の関係で転校してきた高田三郎であると紹介しますが、皆は又三郎と呼ぶようになります。ここで注目すべきは、賢治が題名の「風野又三郎」はそのままにしながら、本文では「風の又三郎」と表記していることです。そのため、【新】校本全集では「風〔の〕又三郎」という題名にして区別しています。

子供たちは三郎と遊びながら不思議な体験をしていきます。競馬遊びをしていた嘉助が逃げた馬を追ううちに霧の中で迷い、風の又三郎の幻影を見た後助けられたり、皆が専売局の監視人のような怪しげな人物に出会ったりします。三郎は風の精の又三郎のように風の効用を4年生の耕助に説明しますが、質問をしながら相手を矛盾に導くソクラテスのような方法を取ります。この作品では高田三郎は4年生として設定されていますので、風の精よりは少し論理的なようです。五時間目の授業が終わり。皆で川へ行って鬼ごっこをしたとき急に夕立がやってくると、だれともなく「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」と叫び、皆も声をあわせて叫びます。

9月12日になり、一郎は三郎の歌を夢で見て「びっくりして跳ね起き」ます。嘉助と学校に行くと、先生から三郎が転校したことを聞かされます。嘉助が「先生飛んで行ったのですか」と聞くと、「いいえ、おとうさんが会社から電報で呼ばれたのです。・・・。ここのモリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになったためなそうです」と先生は答えます。「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな」と嘉助が叫ぶところでこの物語は終わります。嘉助が「飛んで行った」と言った意味を先生は当然ながら理解していません。風の精同様に、高田三郎の中にいた又三郎は先生には見えていなかったのです。

賢治は花巻農学校退職後に書いたと思われる創作メモの中に、「少年小説」と題して四つの作品名(「ポラーノの広場」「風野又三郎」「銀河ステーション」「グスコーブドリの伝記」)を挙げており、これらはいずれも改作や改稿をしています。中でも「風野又三郎」については、1931(昭和6)年に使っていた手帳に「Mental Sketch revived」と記しています。Mental Sketch は「心象スケッチ」のこと、revivedは「復活された、あるいは再生された」という意味でしょう。賢治は『注文の多い料理店』の広告文の中で、「この童話集の一列は実に作者の心象の一部である」と述べていますので、同じ頃に書かれた最初の「風の又三郎」も心象スケッチに属するのでしょう。2番目の「風野又三郎」も心象スケッチであったならば、わざわざMental Sketch revivedとは書かなかったでしょう。2番目の作品は1番目の作品の書き直しではなく、新しい器の中に再生した物語なのでしょう。風の精である1作目の又三郎が神秘的な存在であるのはもちろんなのですが、2作目の高田三郎の中にも神秘があり、それは子供たちだけにしか見えなかったのです。転校して居なくなった高田三郎は、彼らにとっては風の又三郎そのものだったのです。そして、三郎だけでなく一郎や嘉助や他の子供たちが存在していること自体神秘であり、尊いのだと賢治は言いたかったのではないでしょうか。2つの「風野又三郎」は、2つとも読むことにより賢治の思いが良くわかる作品です。四次稿まである『銀河鉄道の夜』も同様なことが言えるのですが、それは又改めて考えたいと思います。

小学校時代に転校して行って消息が分からない友達を思い出すと、不思議な気がします。私とは別の世界に居て様々な経験を積み、外見的にも精神的にも別人になっているでしょう。それでも、もし再会することができたら、たちまち小学生だったころの気持ちになるでしょう。それは、私たちの心の中にいつまでも変わらない共通の魂があるからだと思うのは、いささか感傷的でしょうか。

出典・参考文献

・『宮沢賢治全集5、7、10』ちくま文庫 筑摩書房

・『宮沢賢治大事典』勉誠出版者、2007

1920(大正9)年、賢治が国柱会に入信した同じ年に、石原莞爾(1889-1949)が入信しています。家出をして国柱会の門をたたいた賢治は素っ気ない応対を受けましたが、エリート軍人であった石原は厚遇されたようです。国柱会日蓮宗の僧侶であった田中智学(1861-1939)が還俗後に、宗門を批判して作った宗教団体です。智学は日蓮の思想に国体思想を結び付け、日蓮宗に帰依した天皇が世界をその徳により支配することで平和が訪れると主張しました。現代の我々から見れば理解しがたい思想ですが、賢治や石原のみならず多くの若者の心をとらえたのです。智学は全世界を一つの家にすることを意味する「八紘一宇」という言葉を唱え、日蓮主義という言葉も作りました。また、演劇の脚本を書いたりして仏教と芸術を結び付ける活動もしました。日蓮主義に基づく活動を、宗教学者の大谷栄一は「日蓮主義運動」と名づけ次のように定義しています。

第二次世界大戦前の日本において、「法華経」にもとづく仏教的な政教一致(法国冥合・王仏冥合や立 正安国)による日本統合(一国同帰)と世界統一(一天四海皆帰妙法)の実現による理想世界(仏国土)の達成をめざして、社会的・政治的な志向性をもって展開された仏教系宗教運動である。

日蓮主義者は、この世とは別に極楽浄土を求めるのではなく、この世界の中に理想郷を作り出そうとしました。賢治が岩手県をイーハトヴという架空の国に見立て理想をめざしたのと同様に、石原は中国の東北部に異なる民族が相和する「五族協和」の理想郷を作ろうとしました。彼のすごい所は、実際に満州国という国を作ってしまったことです。先日亡くなった世界的大指揮者で満州生まれの小澤征爾(1935-2024)の名前は、満州国の生みの親である板垣征四郎の征と、石原莞爾の爾から取って父親が付けた名前だそうです。彼らは当時国民的ヒーローだったのです。しかし、満州国の各民族による共和制をめざした石原の意見は入れられず、日本軍は清国最後の皇帝溥儀を担ぎ出し傀儡政権を作ってしまいました。

1936年の二・二六事件の首謀者の一人西田税や、思想的黒幕とされた北一輝日蓮主義者でした。皮肉なことに事件のとき、石原はクーデターを鎮圧する側に回りました。渋谷には当時陸軍刑務所があり、今は処刑された青年将校たちを悼む慰霊像が建っています。

日蓮主義者には他に、財界人を暗殺した1932(昭和7)年の血盟団事件の首謀者とされる井上日召もいます。日蓮主義者には極右やテロリストばかりのような印象を受けるかもしれませんが、妹尾義郎(1889-1961)のように新興仏教青年同盟を組織し戦争に反対し投獄され、戦後は共産党に入党した人もいます。賢治も社会主義政党労働者農民党(労農党)を支援しました。その活動家の次の様な証言が残っています。

昭和2年の春頃、「労農党の事務所がなくて困っている」と賢治に話したら、「俺がかりてくれる」と言って宮沢町*1の長屋 — 三間に一間半ぐらい ― をかりてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治がだしたと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。(中略)口ぐせのように、「俺には実行力がないが、お前たちは思った通り進め、なんとかタスけてやるから」と言うのだった。その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば「今度は俺がやる」と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて読んで一くぎりした夜おそく「どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない」と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。(川村尚三談、名須川溢男氏採録1967・8・18)

1928年4月10日に労農党に解散命令が出、賢治の羅須地人協会も同年8月には彼の発病により活動を停止します。賢治の晩年には、1931(昭和6)年に満州事変、翌年には血盟団事件と五一五事件、彼が37歳で死んだ1933(昭和8)年にはドイツでヒトラー内閣が誕生しています。賢治の「雨ニモ負ケズ」は、国民に耐乏を促す詩として軍国主義に利用されました。賢治が生きていたら悲しんだことでしょう。もっとも、手帳に書きつけた個人的な祈りの詩を公表することはなかったはずですが…。田中智学自身は血盟団事件を批判しており平和主義者だったようでしたが、日蓮主義を主張することにより軍国主義を助長し、彼の死後日本が悲惨な戦争へと突き進んでいく端緒を作ってしまいました。賢治は終生国柱会の信者でしたが、なぜか遺骨は国柱会の霊廟に入っていません。国柱会に全面的に帰依したわけではなかったのかもしれません。文語詩に「国柱会」という作品があり、次のような部分があります。

台の上桜はなさき

行楽の士女さゞめかん

この館はひえびえとして

泉石をうち繞りたり

大居士は眼をいたみ

はや三月人の見るなく

智応氏はのどをいたづき

巾巻きて廊に按ぜり

家出して上野の国柱会をたずねた頃の思い出を綴ったのでしょう。眼病の大居士(田中智学)には会えず、智学の高弟の山川智応にも相手にされなかった記憶を、晩年の賢治はややシニカルな詩にしています。妹尾義郎も賢治の2年前に国柱会の門をたたきますが相手にされず、社会主義的な仏教運動に進んでいます。国柱会にはやや排他的、エリート主義的なところがあったのかもしれません。

石原莞爾日中戦争や太平洋戦争には反対しました。しかし、その一方1941年の講演では、30年以内に日米最終戦争がおこり、日蓮主義国家日本の勝利により50年後には平和な世界が訪れると予言しました。しかし、実際の50年後には日米経済摩擦に敗れた日本のバブルの崩壊が起っており、何とも皮肉な結果です。今、ウクライナパレスチナばかりでなく世界各地で紛争が起こり、アメリカでは人々の分断が進んでいます。賢治の生きた20世紀前半は戦争の多い時代でした。今日、だんだん時代状況が似てきているような気がしてなりません。

出典・参考文献

・『宮沢賢治全集4』ちくま文庫 筑摩書房 1986

・大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』講談社 2019

・名須川溢男「宮沢賢治について」『岩手史学研究(50)』1967

石原莞爾『最終戦争論』中公文庫 1993

宮沢賢治は1925(大正14)年6月25日に、かつての親友保阪嘉内に宛てた手紙に次のように記しています。

お手紙ありがとうございました。

来春はわたくしも教師をやめて本当の百姓になって働きます。

嘉内の年譜を見ると、彼は同年3月に結婚し5月に新聞社を退社して農業を始め、その後農村改革を進めようとしていたことになっています。ですから、賢治が受け取った手紙には、サラリーマンをやめて百姓を始めるということが書かれていたと思われます。賢治はそれに応えて「自分も百姓になる」と告げたのでしょう。しかし、「お目にもかかりたいのですがお互いもう容易のことでなくなりました」とも書いており、いささか素っ気ない文章です。二人の関係は信仰をめぐって既に破綻していましたが、嘉内の方は賢治の手紙を宝物のように整理保管しており、その友情は変わらず手紙を出していたのでしょう。しかし、賢治の保阪宛の手紙はこれが最後になりました。

賢治は翌1926(大正15)年1月に下根子桜(現在の花巻市桜町)にあった別宅を改装し、農学校を退職後4月から独居自炊の生活を始めました。同年8月には羅須地人協会を設立して、ここで農業や農民芸術の講義やレコードコンサートを開いたりしました。

この家は賢治の祖父喜助が1911(明治45)年に建てたもので、元は生家から2km弱の「雨ニモマケズ」の詩碑があるところにありましたが、今は花巻市郊外の空港のそばにあります。賢治の死後宮沢家はこの家を売却しこの地に移築されたところへ、1969年に花巻農業高校が移転してきたとのことです。農学校の方が賢治の家を追っかけてきたような具合です。現在は高校が管理していて、4月から11月初めまで誰でも見学できます。建物の中に入ると、オルガンが置かれた小さな教室もあります。祖父やトシが病気療養したときには必要のない部屋ですから、1月に行った改装によるものなのでしょう。

この年1月から3月まで、若手社会人向けに行われた短期の講習「国民高等学校」に、賢治は講師のひとりとして参加し「農民芸術」の授業を担当しました。そのときの生徒のノートの内容から、「農民芸術概論」はその授業のために構想したものと推測されます。『農民芸術概論』、『農民芸術概論綱要』、『農民芸術の興隆』の3作品から成りますが、新校本全集の年譜には同年6月の欄に「このころ『農民芸術概論綱要』を書く」とありますので、その頃まとめられたのでしょう。そして、8月に設立された羅須地人協会の「講義案内」にも、「地人芸術概論」という名の項目があります。このことから、地人とは農民のことであることもわかります。

賢治が後に「農学校の4年間がいちばんやり甲斐のある時でした」と手紙に書いた、教師の職をやめてまで始めた営農と羅須地人協会ですから、その思想的根拠と思われる「農民芸術概論」はこのブログが解明をめざす「ある心理学的な仕事」の候補のひとつです。実際、『春と修羅』の「序」の思想につながる言葉がちりばめられています。『綱要』から、一部を抜き出してみましょう。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である

四次感覚は静芸術に流動を容る

無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である

われらのすべての生活を一つの大きな第四次元の芸術に創りあげようではないか

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう

永久の未完成これ完成である

2番目に挙げた「農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である」については、「国民高等学校」の生徒(伊藤清一)のノートには、同じ個所について「農民芸術とは宇宙精神の地人の個性を通ずる具体的な表現である」と書かれています。芸術が人々の心を、宇宙精神を通じて一つにすると賢治は考えたことを示しています。これは、まさに『春と修羅』の「序」の思想です。

「農民芸術概論」には美しい言葉や深遠な思想が散りばめられています。しかし、全体はマニフェストやスローガンのようで、少し押しつけがましいように感じるのは私だけでしょうか。実際、関登久也は伊藤の言葉として「生徒にはなかなか難解だった」と記しています。

賢治の心象スケッチは、「歴史や宗教の位置を全く変換」する『春と修羅』の「序」の思想を実現するための、「或る心理学的な仕事」の準備だと森佐一宛の手紙にありました。「農民芸術概論」は「序」の思想の延長線上にあり、賢治は自らが地人(すなわち農民)として行動しつつ若い人たちを教えました。しかし、その行動は直接的過ぎて「心理学的な仕事」とは言えないように思います。この時期、賢治は近隣の農民への肥料設計相談を始めたり、労農党の活動家への支援をしたり、東京でチェロやタイプライターを習ったり、多忙な生活をしています。しかし、賢治の羅須地人協会の活動は、彼の健康の悪化により、1928(昭和3)年8月に終わります。そして、9月には農学校の教え子、宛に次の言葉を手紙に記しています。

八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります。

「今度は主に書く方へかかります」いうのは、いよいよ「心理学的な仕事」に取り掛かるということでしょうか。その前に、次回は労農党や社会主義との関わりについて検討し、この時期の賢治の活動を日蓮主義の観点から整理したいと思います。

羅須地人協会の建物の案内板には、帽子と外套がかかっています。疲れた賢治がこの家でひっそりと休んでいるような気がしました。

出典・参考文献

・『宮沢賢治 友への手紙』保阪庸夫、小沢俊郎編 筑摩書房 1968

・菊池忠治「農民芸術概論の筆記録について」『宮沢賢治論集』金剛出版 1971

・『宮沢賢治全集9,10』ちくま文庫 筑摩書房 1995

宮沢賢治が「心象スケッチ」と呼んだ詩や童話は、彼がめざした「或る心理学的な仕事」の準備のために記したものでした。そして、その仕事は「歴史や宗教の位置を全く変換」する『春と修羅』の「序」の思想を実現するためのものだと、賢治は2つの手紙で述べています。ですから、「心象スケッチ」の真の目的を解明するには、「序」で賢治が何を言いたかったのかを十分確認する必要があります。ところが、これが難物なのです。梅原猛は『地獄の思想』という本の中で、次のように述べています。

この序は、この詩集のなかにおさめられた多くの詩と同じく、はなはだ難解である。この難解な序は、彼の詩と同じく、未だほとんど正確に読まれていない。

本当に難解で、5月1日のブログでは十分解明できたとはとても言えませんので、いくつかの点を補足したいと思います。

まず、この詩は全体が5つのパート(「連」といいます)に分れており、前半は三つの連で構成されています。しかし、よく読むと奇妙な構成になっています。第2連は「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクをつらね…」というように、普通の序文のようなことを言っています。出版されなかった『春と修羅 第二集』の序文は、「この一巻は/わたくしが岩手県花巻の/農学校につとめて居りました四年のうちの/終わりの二年の手記から集めたものでございます」で始まりますので、同様にこの第2連は冒頭に来るべきだったように思えます。実際、『春と修羅(第一集)』は農学校の4年間の始めの2年の作品が集められているのですから。でも、第2連を冒頭に持ってくると、読み手にとってのインパクトがなくなってしまいます。やはり、

わたくしという現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

と始まると、「なんだこれは!」と惹きつけられます。

次の第3連は、第2連と同じく「これら」という言葉で始まります。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は/宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら/それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが/それらも畢竟こゝろのひとつの風物です/たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで/ある程度まではみんなに共通いたします/(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)

第2連の「これら」は「心象スケッチ」のことを指していましたが、第3連の「これら」は何を指しているのでしょう? これも、第2連が本来冒頭にあったのであり、第3連は第1連を受けて成立しているとすると、読み解くことが出来ます。第1連の「わたくし(人間存在)という現象の背後には実体的な存在はない」という仏教的な思想のことを、「これら」と呼んでいるのです。銀河や修羅や海胆もそれぞれ賢治と同じ様に、「現象の背後に本体はないか」とさがす「本体論」(形而上学)を考えるのですが、それらも心(現象)の中の風物にすぎないのですから、見つかるわけはないと賢治は言っているのです。そして、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という言葉で前半は終わります。

「すべてはわたくしやみんなの心の中の現象である」という唯心論の立場に立つ賢治にとって、「わたくしという現象」とは「心的現象」のことで、これを「心象」と縮めて言ったのだと私は考えています。「序」の前半はこの心象について静的な分析を行ったのですが、後半の第4連ではそこに「時間」という動的な概念が加わります。

けれどもこれら新世代沖積世の/巨大に明るい時間の集積のなかで/正しくうつされた筈のこれらのことばが/わづかその一点にも均しい明暗のうちに/ (あるひは修羅の十億年)/すでにはやくもその組立や質を變じ/しかもわたくしも印刷者も/それを変らないとして感ずることは/傾向としてはあり得ます/けだしわれわれがわれわれの感官や/風景や人物をかんずるやうに/そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに/記録や歴史、あるひは地史といふものも/それのいろいろの論料(データ)といっしょに/(因果の時空的制約のもとに)/われわれがかんじてゐるのに過ぎません

新生代沖積世」とは氷河期が終わって約1万年続く地地質学上の現代のことで、今は「完新世」と呼ばれています。「ただしくうつされた筈のこれらのことば」である心象スケッチも、時間の中では変化していかざるをえないのです。同様のことはすべてについてあてはまり、2,000年前には地動説が信じられ相対性理論素粒子物理学はなかったように、2,000年後には全く新しい科学が発達し、それに基づいた証拠が見いだされるだろうと彼は言うのです。そして、時代とともに世界観自体が変わるということを、「銀河鉄道の夜(第三次稿)」でもブルカニロ博士がジョバンニに詳細に語っています。そして、第4連は次のように続きます。

おそらくこれから二千年もたったころは/それ相當のちがった地質學が流用され/相當した證據もまた次次過去から現出し/みんなは二千年ぐらゐ前には/青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ/新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層/きらびやかな氷窒素のあたりから/すてきな化石を發堀したり/あるひは白堊紀砂岩の層面に/透明な人類の巨大な足跡を/発見するかもしれません」

とても美しい文章です。私はこの文から、地底に設置した巨大なカミオカンデニュートリノを捉え、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士のことを連想しました。その時のニュートリノは、16万光年離れた大マゼラン星雲で起きた超新星爆発で発生したものだったのです。つまり、16万年以上前にその一生を終えた巨大な星の化石(ニュートリノ)が大気圏を貫いて到来し、我々に語りかけたのです。岐阜県神岡鉱山の地下1,000mにあるカミオカンデの跡を発掘した2,000年後の人たちは、それを「透明な人類の巨大な足跡」と讃えるかもしれません。

住まいのあった杉並区にある小柴博士の碑。
手形と「宇宙 人間 素粒子」という言葉が刻まれている。

「序」は第5連の次のことばで終わります。

すべてこれらの命題は

心象や時間それ自身の性質として

第四次延長のなかで主張されます

「これらの命題」とは、前半は静的に、後半は動的に論じられた「心象」についての賢治の思想のことです。それでは「第四次延長」とは何のことでしょうか。『宮沢賢治語彙辞典』を開き「第四次元」の項目を読むと、三次元に時間を加えたものとする説の他に、ベルグソンの「空間の第四方向」や霊的空間、銀河宇宙とは別の宇宙とする説等が記されています。そして、賢治の「農民芸術概論綱要」にある「四次感覚は静芸術に流動を容る」という言葉が紹介されていますが、それは「序」の前半は「心象」の静的な考察、後半はそこに動的な要素である「時間」を導入したものという私の解釈とも符合します。しかし、第5連の「第4次延長」は「時間」そのもののことではありません。試しに第五連の「第4次延長」を「時間」に置き換えてみると「すべてこれらの命題は/心象や時間それ自身の性質として/時間のなかで主張されます」と、意味の通らない文章になってしまいます。ここでの「第4次延長」とは、心象や時間の性質に関連のある言葉でなければならないことがわかります。賢治が実践を尊ぶ日蓮主義者であったことを考えると、「実践」とか「行動」とか「新しい世界」とか、未来へ向かって自分の理想や思想を実現していくことを意味する言葉がふさわしいのでしょう。実存哲学では「投企」というのでしょうが、それでは何とも味気ない文章になってしまいます。やはり、「第四次延長」という以外にはなかったのかもしれません。

ともあれ、賢治はこの「序」を書いた2年後に「この四ヶ年はわたしにとって/実に愉快な明るいものでした」と『春と修羅 第二集』の序に書いた花巻農学校の教師生活をやめ、未来へ向かって自分の理想や思想を実現していく苦難の道を選びました。

ちなみに、冒頭に引用した梅原猛は『春と修羅』の「序」について、「われわれがヨーロッパから学んだ近代的世界観、人間観から、仏教的世界観、人間観への完全なる『変換』を告知する言葉なのである。賢治が『歴史と宗教との変換』とよんだのはそういう意味であろう」と述べています。しかし、「西洋文明の東洋文明への変換」は梅原個人の思想で、いささか我田引水です。西洋の心理学や哲学を学びたいと岩波茂雄に書き、チェロやエスペラント語を習い、相対性理論にも関心を持っていた、西洋好きの賢治の気持ちを無視しているように私には思えます。賢治が言いたかったことは、東洋的とか西洋的とかいった、狭い世界観を超えているのです。

出典・参考文献

・『宮沢賢治語彙辞典』原子朗 筑摩書房 2013

・『地獄の思想』梅原猛 中公新書 1967

・『宮沢賢治全集1』ちくま文庫筑摩書房 1986

宮沢賢治は『春と修羅』を自費出版した翌年、1925年12月20日付で岩波書店の創業者岩波茂雄宛に、次のような書き出しで始まる手紙を出しました。

とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。

岩波書店の創業者だった岩波茂雄と賢治の間に、個人的接点はなかったと思われます。賢治の父政次郎は、岩波が若いころ師と仰いだ浄土真宗の僧侶近角常観と懇意にしていましたが、岩波と宮沢家に関係があったという資料は今のところ存在しないようです。賢治の詩は、一部の詩人たちからは評価されつつありましたが、中央の出版界ではまだ知られていませんでした。そんな、無名の詩人から上記のような手紙を受け取った新進気鋭の出版人岩波茂雄は、さぞびっくりしたことでしょう。見ず知らずの人間から「最近私は異空間についておかしな感じがするのです」と言われたら、「どうぞ他でご相談ください」と言いたくなります。事実全く無視されたようで、岩波書店が2003年に出した『岩波茂雄への手紙』には、岩波が受け取った書簡の差出人一覧がありますが、その中に宮沢賢治の名前はありません。実際、この手紙は1986年になって古書店主の青木正美という人が出版した『古本市場 掘出し奇譚』という本に紹介され、初めて世の人々の知るところとなりました。

青木正美古本市場 掘出し奇譚』

この本で著者の青木氏は入手経路を記載しておらず、宛名も某出版社としていましたが、現在では新校本全集に写真も掲載されており、賢治の書簡の真筆に間違いないようです。しかしなぜ、彼はこのような手紙を出したのでしょうか。

その謎を解く鍵となる倉田百三の書簡(1916.12.20付)が、前記の『岩波茂雄への手紙』に掲載されていました。賢治同様まだ無名だった倉田は、自作の『出家とその弟子』の出版を岩波に依頼する手紙を出し初版は自費出版でしたが、評判となったため岩波書店により増刷されました。賢治は、おそらくこの逸話を知っていて、無名の人間の手紙も読んでくれる出版人としての岩波に手紙を出したのではないでしょうか。しかし、彼の依頼は自作を出版してくれというものではなく、売れ残った『春と修羅』と岩波書店の出版した本とを交換してほしいというものだったのです。賢治の手紙に次のようにあります。

そして本(『春と修羅』)は四百ばかり売れたのかどうなったのかよくわかりません。二百ばかりはたのんで返してもらひました。それは手許に全部あります。わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。

賢治は当時岩波書店が出していた哲学や心理学の本が欲しかったのです。岩波書店は1915年に「哲学叢書」を刊行し、哲学や心理学の本で高い評価を確立していました。1919年には和辻哲郎の『古寺巡礼』、1921年には西田幾多郎の『善の研究』を再販、倉田の『愛と認識としての出発』を出版しいずれもベストセラーになっています。賢治は花巻農学校の教師として当時としては高給を得ており、実家も裕福でしたので本を買う金に困ることはなかったでしょうが、この頃教師を辞めて自立することを考え始めていました。売れ残った200冊の『春と修羅』を目の前にし、読みたいたくさんの高価な本を考えて、このような手紙を書いてしまったのでしょう。

この手紙にはほかにも注目すべき点があります。前段の引用にある「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」とあることです。この部分を素直に読むと、『春と修羅』の心象スケッチは、自分の勉強のためにだけ書いたものだということになります。私は、中学生の頃から『春と修羅』の作品に感動しすごい作品だと思ってきた人間ですので、「おいおい賢治君、心象スケッチは君のお勉強のためのものだったのか」と言いたくなります。けれども賢治はこの10か月前、1925年2月9日付けの森佐一宛の手紙にこう書いています。

これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。わたしはあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした。

二つの手紙を読むとき、この頃賢治の考えていたことが見えてきます。すなわち、「歴史や宗教の位置を全く変換」する『春と修羅』の序の思想を実現するために、『或る心理学的な仕事』をする必要があり、その準備として心象スケッチを書いた。そして、心象スケッチは序の思想をバックボーンとした生活の記録なのだ。しかし、誰も理解してくれなかったので、岩波書店で出版している哲学や心理学の本を勉強し、本格的な『心理学的な仕事』をこれからするつもりなのだ」ということだと思います。

翌年3月末で、賢治は後年の手紙に「農学校の4年間がいちばんやり甲斐のある時でした」と書いた教師の職を辞め、8月には羅須地人協会を立ち上げます。『春と修羅』の序の思想を理解してもらうためには心象スケッチを書くだけでは足りないと考えたのでしょう。日蓮主義は、浄土ではなく現世における救済と仏国土の建設をめざす思想です。賢治は、国柱会の信者(信行員)として実践の道を選んだのです。

ところで、『古本市場 掘出し奇譚』に青木正美氏は次のように記しています。

現在まで未発表だった私蔵の書簡である。宛名は某出版社で、当時はまだ無名詩人にすぎなかった賢治の、こんな虫のよい申し出を出版社が受ける筈もなく、手紙はいつか反古として処分されてしまったのだろう。しかし、その出版社が、賢治の望む二、三冊でも送り、代わりに受け取ったかもしれない『春と修羅』の数冊が、今かりにあったとしたら、どのくらいの金額になっているであろうかと、私は商売柄、想像しないわけにはいかなかった。

私は古書店主ではありませんので、岩波茂雄がこのとき賢治の才能に気が付いていたらどうなったかと考えます。そうなると羅須地人協会もなかったかもしれませんし、ひょっとしたらその後のすばらしい詩や童話は、今とは違ったものになったかもしれません。倉田と賢治の手紙の日付は奇しくも同じ12月20日でしたが、やはり賢治の手紙は埋もれる運命にあったのでしょう。

参考文献・出典

古本市場 掘出し奇譚』青木正美日本古書通信社、1986年。

岩波茂雄への手紙』岩波書店編集部、2003年。

宮沢賢治全集9』ちくま文庫、1995年。

今から100年前の1924年12月に、宮沢賢治は童話集『注文の多い料理店』を出版しました。

注文の多い料理店』の復刻本

春と修羅』は自費出版でしたが、童話集『注文の多い料理店』は、盛岡高等農林学校の1年後輩の及川四郎と近森善一が作った光原社という会社が出版したものです。賢治も含め皆28歳の若者でした。装丁に凝りすぎたため予算超過となり、賢治が1,000冊中の200冊を引き取ったと、現在も盛岡市にある光原社でもらった資料に書いてありました。

光原社のある盛岡市材木町にある賢治像

出版に際し、賢治は次のような自筆の広告文を書いています。

イーハトヴは一つの地名である。 強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスガ辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考へられる。実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である。(中略)この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女期の終り頃から、アドレツセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとつてゐる 。

イーハトーブは賢治が創造した架空の国ですが、既存の国でなく、岩手県という自治体がモデルになっています。「ポラ—ノの広場」の主人公レオーネ・キューストは、モリオー市の博物局の18等官という設定になっていますので、官僚機構はあるようです。イーハトヴには冷害や火山噴火といった自然災害もあれば、税務署長もいれば悪人もいます。ドリームランドといっても理想郷ではありません。「二人の役人」という作品では東北長官や大臣という言葉も出てきますので、ひょっとしたら大きな国の属国なのかもしれません。賢治の童話にはカエルの王様、獅子の大王、西域の王様といった言葉は出てきますが、イーハトヴの人間社会には支配者はいないようです。賢治は生涯日蓮宗の在家団体国柱会の会員でしたが、創立者である田中智学が唱えた日蓮主義に天皇制を結び付けた「国体」観念は、その作品には出てきません。もともと、日蓮は「国」という漢字をあまり使わず、国構えの中に「民」という字を入れた字「囻」をよく使ったそうです。国土の中心にいるのは王様ではなく民衆だということで、賢治も日蓮と同じように考えたのかもしれません。そこが、同じ国柱会に属していた軍人石原莞爾とは異なる点で、いずれよく考えてみたいと思います。

岩手県の名の由来になった鬼の手形のある三ツ石
(賢治の通った盛岡高等農林学校から遠くないところにある)

そして、この本に収められている九つの作品は、口語詩と同じように「心象スケッチ」に位置付けられています。賢治の心の無意識の底からわきあがってきたものですから、「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです」と序文に記しています。

広告文にあるアドレッセンスとは思春期ないし青年期のことです。中心的な読者は12歳から20歳くらいということでしょうか。ですから、幼児が対象ではなく、ある程度批判的に読むことのできる読者を想定していたと思われます。

本の題名にもなった「注文の多い料理店」は、東京から猟に来た若い紳士二人が山奥の「山猫軒」という西洋料理店で、扉ごとに書いてある指示に従い進んでいくと、自分たちが料理されるということに気づいて逃げ出すというお話です。「世の中の言うとおりに成長すると、やがて食べられてしまうぞ」という警告と読むことができるかもしれません。賢治の時代、親友保阪嘉内も弟の清六も徴兵され軍役についています。賢治も健康が許せば徴兵に応じていたことでしょうし、当時の多くの人たちは国を守るためには軍隊は必要と思っていました。しかし、賢治の死んだ1933年にはドイツでヒトラー内閣が誕生し、1937年に起こった盧溝橋事件以降、日本は中国大陸での戦線を広げ太平洋戦争の敗戦に至る泥沼の時代に入っていきます。私の親族にも、空襲で亡くなった者、シベリアに抑留され苦しんだ者もいました。

注文の多い料理店」は、恐怖のあまり「紙くづのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはひっても、もうもとのとほりにはなりませんでした」という言葉で終わります。とても面白いお話なのですが、なんとも不気味な後味が残ります。ミステリーの分野に「イヤミス(嫌な後味のミステリー)」があり、賢治の死後(1947年)ですが、スタンリイ・エリンの「特別料理」という作品があります。グルメたちが集まるレストランで、彼ら垂涎の特別料理が毎年1回出されますが、そのたびに一人づつ消えていく(料理になっちゃった)というお話で、イヤミスの傑作です。しかし、童話である「注文の多い料理店」の方に歴史的なリアリティを感じるのは、私だけでしょうか。

参考文献・出典

宮沢賢治全集8』ちくま文庫

末木文美士『増補 日蓮入門』ちくま学芸文庫

スタンリイ・エリン『特別料理』ハヤカワ文庫

宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭にある「序」には、大正13(1924)1月20日の日付があります。この年の4月20日自費出版されたこの作品集の最後に「序」は全体の総括として記され、次のような言葉で始まります。

わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/ みんなが同時に感ずるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケツチです

初期の電燈の光 国立科学博物館にて撮影

わが国で電燈が普及したのは明治末から大正時代にかけてです。明治29年に生まれた賢治は、幼いころに初めて電燈を見て、おそらく鮮烈な印象をもったことでしょう。この頃の電燈はタングステン電球で、振動に弱く明滅が今より多く感じられたそうです。「序」で賢治は、22か月前に作品「春と修羅」で「修羅」と定義した自己を、「有機交流電燈のひとつの青い照明」と言い換えています。しかも、自分だけでなく「風景やみんな」もいっしょに明滅していると言うのです。彼は5年前の手紙に、「石丸先生も保阪さんもみな私の中に明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る」と書いています。盛岡高等農林学校時代の恩師(石丸文雄)が亡くなったことを、友(保阪嘉内)に知らせる文章です。彼にとって、人は「せはしくせはしく明滅」する現象として捉えられているのです。

人を明滅する存在と捉える彼の思想はどこから来たのでしょうか。私は、前回述べたように、彼が15歳の時に受けた島地大等の「大乗起信論」についての講義の影響があると考えます。「大乗起信論」は大乗仏教とはなにかということを、理論と実践の両面から、唯心論の立場で簡潔に論述した経典で、人間の心を「心真如(しんしんにょ)」と「心生滅(しんしょうめつ)」の二つの部門に分けます。心真如は心の真実のあり方で、仏性とか菩提心ともよばれます。心生滅は泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだりする、まさに明滅しているような我々の現実の心(煩悩)です。そしてその両者は、それぞれ一切のものを包みこむ同じ一つの心の両面で、切り離せない一体のものであるとされています。妹のトシが『自省録』の中で、「大乗の菩提即煩悩の世界」と記していたのもこのことを指していたのでしょう。「序」はさらに次のように続きます。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は/宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら/それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが/それらも畢竟こゝろのひとつの風物です/たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで/ある程度まではみんなに共通いたします/(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/ みんなのおのおののなかのすべてですから)

大乗起信論」は心真如について、言語では表現できないすべてのものの共通の根元(一法界)であるとし、海の水にたとえています。それに対し心生滅は風によって波立つ水面にたとえられています。個々の存在としてあらわれる心生滅は、表面上は多種多様に現れる波のようなものですが、その底にある海はひとつにつながっているのです。賢治のいう「人や銀河や修羅や海胆」が飲食や呼吸をしながら「本体論」を考えるというのは、様々な現象の底にある本当の世界を求め思い悩むということであり、まさに心生滅のありさまです。賢治は心生滅を心の風物として記録(心象スケッチ)することによりその底にある根元、すなわち心真如に至ることができると考えたのではないでしょうか。それが、たとえ言語で表現できないゆえに「虚無」としかいいようがなかったとしても、すべてのものに共通している根元のはずです。そこから、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから」という思想が登場してきます。

賢治と同様ウィリアム・ジェームズに影響を受け、仏教思想をベースに独自の哲学体系を築いた西田幾多郎は、「私と汝」という論文で次のように述べています。

自己は自己自身の底を通して他となるのである。何となれば自己自身の存在の底に他があり、他の存在の底に自己があるからである。私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何らの一般者もない。しかし私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である、私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである。

ちょっと難解な文章です。しかし、私なりに解釈してみましょう。子供の頃の私と今の私では、物質的にも記憶や知識においても全くの別人なのですが、なぜか同じ私です。記憶をすべて失っても私は私であること、生物としての私の体の全構成物質は脳細胞のそれも含め日々変化していることに思い至ると、そこに見出される「私」にはもはや自他の区別はありません。そのあらゆる属性を取り払っても残る「私」という現象は、他の人の「私」と区別できません。私は私の底にある共通の「私」を通じて他者とつながるのです。その自他の区別のない世界を心真如の領域とすると、銀河や修羅や海胆とも一体になれるのかもしれません。

(なお、賢治が西田の著作を読んでいたという資料はありません。しかし、賢治の「林学生」という作品のなかに「天台、ジェームスその他によれば!」ということばがあります。また、賢治の作品に先立って西田の著書『善の研究』に「心象」という語があることから、関心を持っていた可能性はあります。実際、賢治は岩波茂雄宛の書簡(1925.12.20)に、自分の本と「あなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述」と交換してほしいと書いています。岩波書店は1917年の『自覚における直観と反省』以来、西田の著作を出版しています。「私と汝」は『春と修羅』出版以後、1932年の論文ですが、賢治の思想を理解するうえで参考になると思い引用しました。)

賢治は『春と修羅』の「序」については相当自信を持っていたようで、森佐一宛の手紙に「序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」したと記しています。自分の心の中の修羅の怒りに歯ぎしりし、妹の死に慟哭し、心の底から湧き上がる妄想に振り回され、鹿踊りに子供のように感動する賢治の心は、まさに心生滅(煩悩)の姿です。彼の心象スケッチを読むということは、賢治の心を追体験するということです。その言葉を自己の心中の声として読むとき、読み手の心は賢治の心と同化します。彼は徹底して心生滅をスケッチすることにより、その底にある言語で表現できない心真如を、読み手にともに感じて欲しかったのだと考えます。すべての人が共通の根元をもつと考えれば、人は争うことをやめます。私が私自身をいじめたり、殴ったりするのは意味のないことですから。しかし、『春と修羅』を「宗教家やいろいろな人たちに」贈ったのですが誰も理解してくれなかったと、彼は同じ手紙で嘆いています。

賢治は『春と修羅』出版の2年後、花巻農学校を退職し羅須地人協会を設立します。『春と修羅』では人々にわかってもらえなかった「序」の思想を、日蓮主義者らしく社会的実践の中で実現しようとしたのかもしれません。

参考文献・出典

宮沢賢治全集1,9』ちくま文庫

大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳注 岩波文庫

大乗起信論を読む』高崎直道 岩波書店

「私と汝」『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫