「革自連」について (original) (raw)

幸子さんと私──ある母娘の症例 (朝日文庫)

中山千夏『幸子さんと私』*1から。
中山千夏さんは1972年から雑誌『話の特集』に執筆を開始し、『話の特集』の編集長、矢崎泰久*2と知り合う(p.157)。

一九七六年、矢崎の誘いに応じて、革新自由連合(革自連)の発足に参画した(発足は七七年四月)。(略)大の政治嫌いながら、リブのなかで知り合った市河房枝、小沢遼子(当時、浦和市議、べ平連メンバー)などの影響で、差別解消に政治は無視できない、と私は考え始めていた。だから、革自連が、シロウトによる政権を目指さない政治団体、というのは魅力だったが、目前の参議院選挙にかかわる、というのには腰が引けた。けれども、フィクサーとしてきわめて有能な矢崎の説得に、参加を決断した。そのうえ大胆にも、代表として担がれることまで承諾した(ただし、複数代表制を条件にしたが、当初のほかの代表は、矢崎とばばこういち*3だった。
(略)いくらか人権は学んだものの、政治運動について私はまだとても無知だった。発足当時のメンバーには、リベラルな著名人、芸能人、クリエイター、学者文化人はほとんどが名を連ねていた。「首謀者」である矢崎やばば、それに青島幸男とはすでに知り合っていたし、大島渚(映画監督)、俵萌子(評論家)、鈴木武樹(独文学者)、大橋巨泉(テレビタレント)、小田実(作家、べ平連代表)、小室等(シンガーソングライター)、長谷川きよし(同上)、加東康一(芸能ジャーナリスト)など知った名はあった。『話の特集』周辺の和田誠山下勇三(いずれもイラストレーター)、永六輔放送作家、タレント、作詞家)などとは懇意だった。しかし、久野収羽仁五郎、山田宗睦などといった学者は、名も知らなければ仕事も知らなかった。活動家やジャーナリストの面々についても同様だった。(pp.157-158)

(前略)永続的な市民運動と理解して、革自連の活動を始めた。実は、真の「首謀者」は五木寛之(作家)*4竹中労(評論家)*5であり、当初の計画は、だましうちのようにして有名人を多数立候補させ、一挙に参議院保革逆転させる、という乱暴な「革命的計略」であり、矢崎もばばはその路線だった、と知ったのはずいぶんのちのことだ。中山千夏を代表に、というマスコミ狙いの案はその計画の一部だった。(そのあたりは矢崎との共著、小説『湿った火薬』(一九八四年、学陽書房)に詳しい。)(pp.159-160)

(前略)七七年の参院選では、なんとか十人以上の候補を立てて臨んだが、当たり前のように大敗した。それまでの間に、多くのメンバーは脱落していた。「革命的計略は派」は、当然、これにて撤退を考えていた。ところが私は、馬鹿正直に市民運動としての活動を続ける気になっていた。結成当時、共闘を申し込みに行ったある市民運動の一員から、「どうせあなたちタレント文化人のことだ。一発参院選をやったら、すぐ辞めるんでしょ」と謂われたのが、突き刺さっていた。始めた以上、続けなければ、タレントの名折れだ、みたいな気がしていた。結局、矢崎とばばは、私たち市民運動派に引きずられるようにして、革自連の続行を決意することになった。(p.160)

革新自由連合のラスボスが五木寛之竹中労だったというのはこれまで知らなかったのだった。
ところで、中山さんは「日本女性党」(「中ピ連」)を殆ど権力の謀略の産物扱いしている――「テキもさるもの、「日本女性党」(前身は「中ピ連」)といういかがわしい団体を捏造して、人気女性タレントを党首とする革自連との混同、イメージダウンを狙うなど、裏でも表でもさまざまに潰しにかかった」(ibid.)。さて、真相は?