NHK大河ドラマ「光るの君へ」後半の表舞台となる後宮ついて (original) (raw)

図01 内裏(皇居)内の後宮

【2024年8月25日のNHK大河ドラマ「光るの君へ」第32回】
藤原道長(塚本佑)は一条天皇(塩野瑛久)の中宮として娘の彰子(見上愛)を入内させました。
しかし、一条天皇は亡き中宮定子(高畑充希)への思いが消えず彰子に気にかけてくれないことを道長は悩みます。

一条天皇が彰子の暮らす藤壺(飛香 舎、ひぎょうしゃ)に通ってもらう手段として、道長はまひろ(後の紫式部吉高由里子)が書いた源氏物語の始まりの段を贈りました。

道長のもくろみが成功し、一条天皇源氏物語に興味を示したので、まひろは道長の命により中宮彰子付の女房として藤壺へあがり、源氏物語の続きを執筆することになりました。

ということで、これから後宮はドラマの表舞台となるため後宮の概要について調べたことを載せてみました。

後宮について】

平安京における図01 内裏(皇居)と後宮の位置は下部の図02 大内裏の地図、図03 平安京の地図を参照)
後宮は皇后や妃などが起居する奥御殿またはそこに住む皇后・妃・女官などをいいます。

天皇が継嗣を得る大義名分により、正妻の皇后の下に、妃(ひ)は皇女、夫人(ぶにん)は三位以上の娘、嬪(ひん)は五位以上の娘を選ぶという妾(めかけ、側室)の制度を定めました。
律令には側室という名称はなく、妾は当時も一般的に用いられ、天皇の側室についても「妾御息所(めかけみやすんどころ)」と呼ばれました。

しかし、妃は醍醐天皇の頃(920年頃)、夫人は嵯峨天皇の頃(820年頃)、嬪は文武天皇の頃(700年頃)あっただけであまり採用されなかったといいます。

正妻である皇后は古来から慣習として皇女でなければならないとされていました。
しかし、飛鳥時代700年頃、藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人となり、聖武天皇(724年)の生母になったため、皇太后に準ずる「中宮」とする「中宮職」を定めました。

このように側近の公卿の娘が夫人になり、天皇自身が身近で奉仕する官女を寵愛するなど時代ととも妾御息所も変化していきます。
そして、平安時代になると天皇の正妻は皇女でなくても皇后になることができ、中宮天皇の正妻であり、皇后に準ずる地位を得ることになります。

平安京後宮としての皇后や妃などはじめ内侍司以下の官女そして内裏の北側に彼女たちが住む七殿五舎の御殿が配置されました。(図01内裏(皇居)参照)
❶承香 (しょうきょう)殿、➋常寧(じょうねい)殿、
貞観 (じょうがん)殿=御匣(みくしげ)殿、❹麗景(れいけい)殿、
❺宣耀 (せんよう)殿、❻弘徽 (こき)殿、❼登華(とうか)殿、
➀昭陽(しょうよう、梨壺)舎、②淑景(しげい、桐壺)舎、
③飛香 (ひぎょう、藤壺)舎、④凝華 (ぎょうか、梅壺)舎、
⑤襲芳 (しほう、雷鳴壺、かんなりつぼ)舎

女御(にょうご)、更衣(こうい)は平安時代の初めの桓武天皇(781~805)の頃から採用されました。延喜式によると、女御は夫人の下で、待遇は嬪と同様でしたが、しだいに地位がのぼり、摂関・大臣の娘を女御として、それから皇后にあがるようになりました。ただ、女御が大臣の娘の場合、皇子を生んでも権力・後ろだてがないと容易に皇后になれませんでした。

女御は、宣旨を下して補せられ、その上位階を賜ります。人員は幾人と定まっていないので、一時期、女御が多く居たこともありました。
また、女御は宣耀殿、弘徽殿、淑景舎(桐壺)、飛香 舎(藤壺)、凝華舎 (梅壺)などの御殿の名称をつけて宣耀殿女御、桐壺女御などと呼ばれ、また父の私第(私邸)の名称をとって堀河女御、高倉女御などと呼ばれました。
(襲芳舎 (しほうしゃ、雷鳴壺、かんなりつぼ)を除く御殿4舎は丸い形の庭に植えられた花や木の名前が御殿の名称になった)

更衣は天皇の御衣を御召し代えたり、御寝所に仕えるようになり、初めの頃は定員は12名でしたがその後、数名となり、その中に寵愛され、妾御息所(めかけみやすんどころ)になる更衣が出てきました。そして、更衣は女御の次で四位か五位の位階が与えられました。

御息所(みやすんどころ)は天皇が休憩する便殿(御座所)をいいますが、そこに伺候する女御や更衣を妾御息所(めかけみやすんどころ)または御息所また後宮を御息所とも呼ぶようになりました。

藤原道長の娘である「彰子」は、一条天皇の「妾御息所」から中宮へと昇進しました。
御匣殿(みくしげどの)は貞観殿の別名で、ここの御装束裁縫役の官女の長の御匣殿別当を略して御匣殿と呼ぶようになりました。

冷泉天皇の970年頃に公卿の娘が入内し、御匣殿別当になり、女御になったといいます。
内侍所(ないしどころ)は御温殿(うんめいでん)の中の神璽が鎮座された賢所(かしこどころ)のことで、内侍が常に詰めていたことから内侍所と呼ばれるようになりました。

薬子の変(薬子、くすこ:藤原式家 藤原種継の娘)
平城上皇(へいぜいじょうこう)と嵯峨天皇の間に二所朝廷といわれる対立が起こり、810年平城上皇重祚天皇に復位)を目指し挙兵した。平城上皇の寵愛を受けていた妾御息所の尚侍(ないしのかみ) 藤原薬子と兄の仲成が助長するも敗北した。(北家が飛躍しますが858年の掌握まで権力争いは続きます。)

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【用語】
[女房(にょうぼう)] 御匣(みくしげ)殿、尚侍(ないしのかみ)以下、命婦、女蔵人などの総称。
[上臈(じょうろう)] 御匣(みくしげ)殿、尚侍(ないしのかみ)、二位、三位の典侍(ないしのすけ)で禁色(きんじき、赤または青の装束)を許された大臣の娘あるいは孫娘などをいう。
[中臈(ちゅうろう)] 四、五位の女官など
[下臈(げろう)] 摂関家の家司(けいし:役人)の娘、賀茂、日吉神社の家の娘。
[命婦(みょうぶ)] 大宝律令では五位以上のを持っている婦人を内命婦(ないみょうぶ)、五位以上のを持っている官人の妻を外命婦(げみょうぶ)と呼ぶ。
[女蔵人(にょくろうど)] 下臈の女房のことで、御匣殿の御装束や裁縫など種々の御用を務めた。
皇后宮、東宮にも女蔵人がいた。
[采女(うねめ)・女嬬(にょじゅ)] 郡司および諸氏の容姿端麗な娘を選び、朝廷に出仕させた。
上古は天皇の近くに仕えていたが、大宝律令以後女官十二司の下に配し、女嬬とした。

図02 大内裏の地図

図03 平安京の地図

【参考】
1.「知っ得 後宮のすべて」国文学編集部、(株)学燈社、2008・1・10
2.「日本の歴史2 古代国家の成立」直木孝次郎、中央公論社、昭和40年3月15日
3.「日本の歴史3 奈良の都」青木和夫、中央公論社、昭和40年4月15日
4.「日本の歴史4 平安京北山茂夫中央公論社、昭和40年5月15日
5.「日本の歴史5 王朝の貴族」土田直鎮、中央公論社、昭和40年6月15日
6.「いっき学びなおす 日本史 古代・中世・近世 教養編」安藤達朗東洋経済新聞社、2016・3・31
7.「地図でスッと頭に入る平安時代繁田信一昭文社、2021・10・1