意拳浅談 (original) (raw)

意拳放松の力を理解するには、自然界のタコの状態を観察するとよい。また、コブラが攻撃を仕掛ける前の身体にも放松の状態がある。意拳放松の力は突出せず、遒放の力の訓練は身体のあらゆる面に関わる。まず「龍虎二気」の遒放の功がある。

古い世代の人々は「龍虎二気」を「丹田が力を生み、脊椎が力を伝える」と考えたが、この観点はやや局部的である。私はむしろ「龍虎二気」を骨格、筋骨、皮毛、細胞、空間の放松の法と見なしたい。

祖師王薌齋先生は『意拳正軌』で「龍法」を「骨を縮めて出し、勁を放って落とす。縮は即ち発であり、また即ち縮である」と論じ、「虎法」を「手を上げれば鋼锉のようで」「手を下ろせば鉤竿のよう」「伸縮抑揚」「勁は断垂れても意は断たれず、意は断たれてもが神は繋がる」と論じ、「龍虎二気」を「意拳の正軌は、古の勢の老三拳と龍虎二気以外にない。龍虎二気は技であり、三拳は打ちである」「いわゆる枢が環の中にあり、無窮に応じる」と論じている。

伝統武術では脊を「龍」、胯を「虎」とする説がある。私は、「龍虎二気」の基礎的な練習法は「龍」「虎」の骨格の遒放の法だと考える。「龍」の骨格の放松は「開脊」(脊骨を開く)に重点を置き、「虎」の骨格の遒放松は「開胯」(胯骨を開く)に重点を置く。

「上に紐線が結ばれ、下に木が支撑する」「高椅子に座って旗竿に寄りかかるよう」「脊柱が地を支え」「尾骨が砂に垂れる」「天を指し地を描く」「降龍」などの意念活動は、身体の「龍」の骨格の遒放に関わる。「撥水」「開合」「鋼锉」「揉球」「伏虎」などの意念活動は、身体の「虎」の骨格の遒放に関わる。「抱樹」「抱球」「牽掛」「鳥難飛」などの意念活動は、身体の「龍」でもあり「虎」でもある骨格の遒放である。

これらに加えて、全身の他の部位の骨格も放松訓練が必要である。例えば、「肩撑肘横」「三星相応」(肩肘腕)などの意念活動は、身体上半身の間架の骨格の放松に関わる。「三夹両頂」「足は半尺の雪の泥濘を踏む」などの意念活動は、身体下半身の間架の骨格の遒放松に関わる。「五脖争」の意念活動は、首、手首、足首の骨格の放松に関わる。「舌は歯を砕こうとし、歯は筋を断とうとする」「含笑驚蛇」などの意念活動は、顔面だけでなく全身の骨格にも関わる。

「一身に五弓を備える」「前手は石碑を押し、後手は驚いた馬を引く」「手を上げれば鼎を持ち上げ、手を下ろせば煉瓦を分ける」「托嬰」「双手扶雲」「左右推山」「踩提」「提插」「矛盾」などの意念活動は、矛盾争力の骨格に関わる。

「脱肩松腕で腰を束ね、精神意力は糊のよう」「雲端の宝樹が光芒を放つ」「屈すれば必ず挟み、節に当たれば必ず抵抗する」「寸を屈して尺を伸ばす」「風中の旗浪中の魚」「天涯を驚かせ鳥は飛び絶える」「手の握りは提按で、斜めに支撑錯綜し、光芒無限力は鉄のよう」「提頓吞吐沈托分閉」などの意念活動は、全身の間架の骨格の遒放に関わる。

意拳の訓練は骨格だけでなく、筋骨、皮毛、臓腑、細胞、空間などの遒放訓練もある。例えば「筋は勁力を含み骨は神を存す」「骨は縮み筋は伸びる」は筋骨の放松に関わる。「渾身の肌肉は青霄にかかり、毛髪は根根暖風に揺れる」は皮毛の遒放松に関わる。「尿のようで尿でない」「気息平細緩中修」は臓腑の放松に関わる。祖師王薌齋先生の言う「慧眼は細胞系を默察し、狂ったようで酔ったようで迷ったよう、虚霊は独存し悠揚と相依する」および「細胞の道」は、さらに細胞の遒放松の功に関わる。「神動は自ずから相の外にある」「全身虚霊風に随って動き、まるで空気の中を泳ぐよう」「吐納霊源は宇宙に合す」「浩気は天地を包容し広大である」「雷電交加して軽であり重でもある」「無窮にして天地の如く、充実にして太倉の如し」「大気は寰宇を包み、波を揮って朔風を巻く」は空間に関わる。

上述のこれらの訓練は、意拳の局部的な具体的功法と見なすこともできる。身体にこの方面の訓練が不足している人にとっては、局部的な方法であっても、一定期間内に的を絞った具体的な訓練を行うことができる。ただし、一旦習得したら執着して訓練し続けるべきではない。なぜなら、祖師王薌齋先生は局部的な力に反対しているからだ。したがって、聡明な人にとっては、上述の内容を理解するだけで十分である。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より

祖師王薌齋先生の創立した意拳は、站樁を本とし、「大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばず、不動の動こそ、生生として絶えることのない動である」と認識する。意拳の站樁功法は、正に「不動の動」(蠕動とも称する、表面上は見えない運動)の根本的体現である。

意拳の站樁功は二つの大分類に分けられる。第一類は健身桩、養生樁とも称し、拳術訓練においては実際には一種の「換勁樁」である。第二類は技撃樁で、拳術訓練においては実際には一種の「摸勁樁」である。

意拳站樁功の上記二類の功法のうち、第一類の健身樁即ち「換勁樁」が最も重要であり、意拳入門の鍵である。

「換勁樁」は養生健身の意義から言えば、伝統の仏家、道家及び俗家の養生術と同様に、養生健身、病を祓う作用を起こすことができる。しかし「換勁樁」は一般の養生術とは異なり、丹田を意守したり、身体内部の一部位を意守したりする必要はなく、意念で吐納導引を行う必要もなく、更に念仏を唱えたり宇宙の情報を受け取る必要もない。意拳は仏、道、儒、俗、医、武の理論学説及び養生健身術を基礎とし、その精華を取り、糟粕を去り、その精神を昇華させ、意念の仮想訓練を通じて、系統的な体能開発を行い、これによって人体内在の機制を変える。站樁において、「期せずして到り」経絡血脈は自然に通じ、万を超える練功者の実践検証を経て、数十年来偏りを生じたことがなく、各種の慢性病及び疑難雑症に対し、いずれも明らかな療効がある。人体の体内循環機制は、主観的にこれを制御したり人為的に制限したりするよりも、良性的にこれを誘導し開発し、その自身の潜在能量を発揮させるべきである。意拳の意念活動は、正に体外から自身に対して良性誘導を行うもので、例えば站樁時に「渾身の肌肉は青霄に掛かり、毛髪は暖風に揺らぐ」のようにし、また「神を斂めて微雨を聴く」「悠然として水中に宿る」などのようにする。この身外の意念を主とする訓練方法は、祖師王薌齋先生の独創功法である。

站樁を練習する者は、常にこのような体験をする。站樁が真に状態に入ると、時間の流れを感じず、練習を終えて初めて時間が既に長く経過していたことに気付く。これは人の生理循環状態が自然に緩慢になり、亀や蛇の冬眠のようになり、楽しんで時を忘れたためである。国外ではこれを「時計遅延効果」と称する。人が日常生活において、もし体内の新陳代謝のこの種の「時計遅延」状態を維持できれば、自然に老化を遅延させることができる。また、意拳站樁は人体の潜在能力に対して深層開発を行い、強身、健体、益寿延年の目的を達成することができる。

養生樁を技撃の角度から言えば、更に極めて実際的な意義を持つ。一般的に、意拳を初学ぶ若者は、多くは技撃を実際の目的としており、これらの人々は常に自分が若く何の病もないと認識し、自ずから時間を費やして何らかの健身樁を立つ必要はないと考え、たとえ立ったとしても心猿意馬で、お茶を濁すことになる。この心態では自ずから健身樁の妙境に入ることは難しい。意拳健身樁が実際には技撃における「換勁樁」であることを知らない。「換勁」とは、站樁を通じて、人体の一切の拳術の旧力、即ち僵緊注血の力を換えることである。この種の注血の力は常年の体力労働や常年の局部用力習慣に由来する。「換勁樁」の意念内容は、主に各種意念の精神假借を通じて、身体を一回一回できる限り放松させることであり、これは一種の「減力」訓練法と言える。「減力」訓練とは、人体の一切の局部力量を除去し、将来拳術運動にのみ適合する均整協調の本能力を生じさせる基礎を打ち立てることである。「換勁」の基礎の上に、人体の生じる本能力は、大気と相応合する一種の拳術勁力であり、また祖師王薌齋先生の称する「宇宙の力波を借りる」力である。この種の力は「加力」を目的とする西洋訓練で練り出す注血肌肉力とは対立するものである。換勁樁の「減力」訓練は、伝統東洋の「空」「無」思想を基礎として建立されたものである。老子『道徳経』に曰く、「学を為すは日に益し、道を為すは日に損す、之を損し又損して以て無為に至る、無為にして為さざる無し」と。西洋の注血之力訓練法の生じる肌肉力は「学を為すは日に益す」と言え、即ち学びさえすれば目に見える向上があり、肌肉は練れば練るほど粗壮になるが、しかしこれは人為的な小道の力である。意拳の訓練法は則ち「道を為すは日に損す」であり、即ち真の大道を学び、表面上は一日一日劣るように見え、直に何もないかのように練られるまでに至る。しかし、「無為」であってこそ最終的に「為さざる無し」となり、旧力が尽き去ってこそ新力が生じる。意拳の修練過程は、正にこの種の「有為」から徐々に「無為」へと修練し、即ち元来の注血の肌肉の笨力から、注血の力の消失(無為状態)へと修練し、さらに進んで「宇宙の力波を借りる」真力(為さざる無し)を得るに至る過程である。養生樁或いは「換勁樁」を站って注血の力が消失し、「無為」状態に入ると、換勁段階は即ち完成したと言える。

意拳功法修練上最も効果が見えない段階が、「換勁」段階である。多くの人は、この期間、身体が外表上何の進展もないように感じ、元来搏撃において一二人は対処できたのに、この段階では反って打たれるかもしれない。しかし「換勁」段階を過ぎれば、旧力は除かれ新力が生じ、質的変化が起こる。功法修為において、一年で他人の数年に匹敵し、しかも進歩は益々速くなり、元来失ったと思われた時間を取り戻すだけでなく、遥かに他の対手を超越するようになる。

換勁していない者の身には真の力は言うに及ばず、「生米生飯」のようであり、最強でも「半生飯」に過ぎず、武術においてこれを「生熟勁」と称し、この勁はいまだ武学の門に入っていない。もちろん、養生樁の「換勁」は、単に一度放松すれば完成できるものではなく、一連の訓練内容がある。王薌齋先生は1928年著の『意拳正軌』において、特に「樁法換勁」について論じている。祖師王薌齋先生は指摘する。「技撃の妙用を求めるなら、須らく站樁換勁から始めるべきであり、弱を転じて強と為し、拙を化して霊とする。禅学では戒律に始まって後に定慧に詳しくなり、心源に証し、虚空を了悟し、極まった後に道を学ぶ。禅功もそうであり、技撃もまたそのようである」と。祖師王薌齋先生の「弱を転じて強と為す」は肌肉を強壮にするのではなく、その精神を強壮にすることであり、「拙を化して霊と為す」は、更に「樁法換勁」を指し、人体の僵滞笨力を去り、その「虚空を了悟し、極まる」は則ち一種の「無為」の法であり、これを経て換勁した後にして初めて「然る後に方に道を学ぶべきである」となる。

総じて、健身樁(換勁樁)は意拳中最も若者及び健康な人の注意を引き難い初級功法であるが、しかしこれは絶対に跨ぎ越えることのできない根本段階である。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より

総論は形意の各技術の根本である。戦いの道は往々にして武器を用い、素手で敵に立ち向かうことで最後の勝利を得る。つまり武術は軍の命脈である。

武術の種類は非常に多く、流派が分かれ、各々が正しいと主張する。大きく分けると内外の両派の二つになる。外派の長所は腰腿の霊活さ、投技や打撃技、防御や攻撃、跳躍などの技を練習することにすぎず、敵と戦って勝利することはできるが、その欠点は見せかけの技が多すぎ、ただ人の目を惑わすだけで実用的ではない。ただ内家拳法のみが、純粋に先天的な原理に基づき、陰陽、五行、六合、七疾、八要の理論に従って技を完成させる。これこそが根本であり、まず身につけなければならないものだ。

人は気血なくしては生きられず、気血が充実すれば精神も健康で旺盛になる。もし先天の気が不足していれば、後天的に補わなければならない。補う方法は気を充実させ、血を養うことにある。ただし気血を培養するには、まず気を丹田に集中させ、丹田の気を十分にし、その後内部では五臓に運び、外部では四肢に発し、さらに練習を重ねれば、血脈が通じ、筋骨が強くなり、内外が一体となり、手足が協調し、動静に常があり、進退に法則がある。手は虚に発せず、動けば必ず勝ち、心は妄りに動かず、動けば必ず応じる。堂々と現れ、背は満ち、四肢に及び、意のままに従い、心に応じて手に得て、百戦百勝の技を成す。以下、各項目の要点を分けて述べる。

丹田

丹田とは、陽元の本であり、気力の府である。技芸を極めようと思えば必ず丹田を健やかにし、丹田を健やかにしようと思えばなおさら技を練らねばならない。この二つは互いに因果関係にある。我々の道は全て丹田を重要視することを知っているが、先師からは口伝が多く、書き伝えられたものは少ない。後学の者が、その理由を明らかにするのは難しい。私が師から受け継いだことと、20年の経験を簡単に述べる。

技芸を極めようと思えば必ず先に丹田を健やかにすべきというのは、丹田が弱ければ気が充実せず、気が充実しなければ力が足りないからだ。五拳十二形の架勢だけでは、顧法は空虚な城のようであり、打法は弱い軍隊のようなものだ。だから敵と対峙し戦う際、常に腹部に気力が凝縮しているかのように、瞬時に腰から背中、首を通って頭頂まで貫き、目は先鋒となって観察し、心は元帥となって策を練り、あらゆる動きに応じて技を使い、龍や虎、猿や馬、鷹や熊のように変幻自在に動く。一瞬のうちに勝負が決まる。これが丹田が充実した技芸の精である。

丹田を健やかにするには必ず先に技芸を練るべきだと言うのは次のような意味である。ある人曰く、「丹田は先天的なもので、人が本来持っているものだから、自然と内に足り、外を待つ必要ない。ただ養生すれば十分だ。なぜ練る必要があるのか」。私はそうではないと考える。一般に人は色欲に溺れず、腎精を失わず、養生の方法があれば、元気は自然と充実する。このような人は寿命を延ばすことができるだろう。しかし、究極的には丹田の気力を発して絶技とすることはできない。それを絶技にしようと思えば必ず練ることから始めなければならない。練法のは一つは聚であり、もう一つは運である。聚とは、舌頂、歯扣、穀道提、三心併の諸法である。また必ず先にその隔膜を取り除くべきである。心、肝、脾、肺、腎の五臓のように層々と通過し、一つも妨げるものがないようにする。これが八要の中の「五行要順」だ。これを長く行えば後に気は完全に丹田に集まる。

しかし、それを聚であっても運ができなければ、まだ絶技とはならない。必ず丹田に集まった気力を背骨から上へ運び、胸に留め、腹に充たし、臓に満たし、両脇に凝らし、頭頂に至らせるべきである。さらに日頃練習している身体の異常な強さ、手足の異常な活動性を兼ね備え、敵の動きに応じて架勢をすぐに変え、架勢の変化に応じて気力がそれに従ってすぐに到達する。瞬時に千変万化し、言葉では表現できないものがある。これが上手く運用するということである。それを聚の運とは、要するに日頃の技芸の勤勉な練習にある。仙人のように静かに座って丹を練るようなものではない。

昔の芸者は一人で無数の人に立ち向かったが、その丹田の気力がいかに充実していたかは想像に難くない。その理由を究めると、全ては勤勉に技芸を習い、それによって丹田を鍛えることから始まっている。後学の者が「丹田説」をよく理解すれば、武道に入ることができるだろう。

練気篇

武術の道において、形あるものは架勢であり、形なきものは気力である。架勢は気力を運用するためのものである。気力がなければ架勢は無用となる。故に気力は架勢の本質である。しかし、力を充実させようと思えば、必ず先に気を充実させなければならない。故に気はまた力の本質である。芸を演じる者は八要を最も重要なものとする。八要は形意拳術の根本である。内は気を練り、外は勢を表す。五拳十二形、虚実変化、起落鑽翻のいずれも、瞬時も離れることはできない。八要とは何か。一に内提、二に三心要并、三に三意要練、四に五行要順、五に四梢要斉、六に心要静、七に三尖要対、八に眼要毒である。以下に分けて論じる。

内要提とは、谷道を引き締め、その気を上げることである。これは丹田に集まり、さらに丹田に集まった気が背骨を通って頭頂まで到達させ、周りを巡って循環させることだ。即ち譜にいう「谷道を引き締め内中は提を要する」である。

三心要并とは、頂心を下げ、足心を上げ、手心を回すことである。この三つは気を一か所に集める方法である。頂心を下げなければ上の気は丹田に入れない、足心を上げなければ下の気は丹田に収まらない、手心を回さなければ外の気は丹田に縮まない。故に三心を一つにして初めて気が一つに帰する。

三意要練とは、心意、気意、力意の三つが連なって一つになることである。即ち内三合である。この三つは心を主とし、気を元帥とし、力を将とする。気が充実していなければ力は足りず、心に策があっても用いるところがない。故に気意をよく練った後、外は力意を率い、内は心意に応じることができる。三意が連なっても気を最も重要とするということだ。

五行要順とは、外五行は五拳であり、即ち劈、崩、鑽、炮、横である。内五行は五臓であり、即ち心、肝、脾、肺、腎である。外の五行の五拳は変化応用し、各々その順序に従い、規則正しく動く。気力の到達するところに架勢が従い、架勢の至るところに気力が注ぐ。故に気力が充実すれば架勢に用があり、架勢が練れれば気力はますます増す。即ち譜にいう「五行はもともと五つの関門であり、人が守らなくても自然と遮る」である。私が初めて武術を学んだ時、気を運ぶことを学んだ。肩を垂らし、首を立て、歯を合わせ、舌を上顎につけ、内提するなどだ。法の通りに習えば気は徐々に通じ、少しずつ下に形作られるが、また全身に疲労感がある。このようなことを数回繰り返し、その後初めて一度架勢を作ると気はすぐに丹田に達する。これが即ち五行を五関とする説だ。よく前進を習い、遮るものを打破しなければ、気を丹田に集め、気を四肢に運び、気が充実し力が足りた武術家になることはできない。これが五行要順というものであり、順うべき理由である。

四梢要斉とは、舌を上顎につけ、歯を合わせ、手指と足指は掴み、毛穴を引き締めることである。舌を上顎につけ上を向けば津液が上に注ぎ、気血が流通する。両歯を合わせれば気は骨髄を貫く。手指と足指を掴めば気が筋に注ぐ。毛穴を引き締めれば全身の気が集まって固まる。斉というのは即ち毎回架勢を作る時、舌を上顎につけ、歯を合わせ、手指と足指を掴み、毛穴を引き締めることを一度に行い、先後の順序がないということだ。四つのうち一つでも欠点があれば気が散って力が衰え、技を語るに足りなくなるからだ。

心要暇とは、練習する時に心中が慌てず忙しくないことを言う。慌てるのは恐れの意味があり、忙しいのは急ぐ意味がある。一度恐れれば気が衰え、一度急げば気は必ず乱れる。衰えたり乱れたりすれば手足をどうすればよいかわからなくなる。もし日頃の練習の功がなければ内部が虚弱になり、事に遭遇すれば縮こまり、敵に臨めば恐れたり急いだりせざるを得なくなる。そして心に余裕がある者は実際気を練ることと表裏一体である。

三尖要対とは鼻先、手先、足先が相対することだ。手先が鼻先に対していなければ左に偏れば右側の守りが空虚になり、右に偏れば左側の守りが空虚になる。足と鼻についても同様である。また三者が大きく偏っていれば全身の力の使い方が均等でなくなり、必ず団結して一つになることができない。気はそれによって散漫になり、頂心を下げようとしても気は下がりにくく、足心を上げようとしても気は上がりにくく、手心を回そうとしても気は内に縮みにくい。これは自然の理だ。故に三尖が対していなければ、実際に気を練ることに大きな妨げになる。

眼要毒について、目は気を練ることとあまり関係がないように見えるが、毒には敏捷の意味があることを知らなければならない。元気が充実していなければこれを持つことはできない。かつて言われたように、我々の技芸は武人だけが習うべきものではなく、文人も習うべきだ。毎日力を練れば身体を健康にし、気を練れば精神を強くすることができる。丹田に気が凝縮し五臓が伸びれば、この人の精神は必ず霊活で、脳力は必ず充実し、耳や口、鼻などの感覚器官は必ず各々その妙を尽くし、特に目は必ず神光が輝き、人を射るような鋭い眼力を持つ。これは気がそうさせるのではないか。

この弱肉強食の時代、東西の国々が技芸を重視するのは良いことだ。射撃の遠近は全く機の良し悪しにあるが、的中するかどうかは機を扱う者の心力、手力、眼力にある。故に気力が衰えた者は、観測が正確でも射撃の時に心が震え手が揺れて的中できない。これは必ず日頃の勤勉な練習によって筋骨を強健にし、気血を充実させ、内外を一つにすることに頼るべきだ。そうすればその欠点を正すことができる。ある者が言う、「気は内に行き、力は外に現れる。あなたはなぜ気を言って、力を言わないのか」と。答えて言う、「外の人が見れば力は見やすく、我々が練れば気は理解しやすい。また気と力は本来一体で、気が足れば力は自ずと知れる」と。また別の者が言う、「あなたは専ら気力を言って架勢を軽視しているのではないか」と。答えて言う、「架勢を練れば必ず気を充実させようとし、気を練るにはなおさら先に架勢を学ぶべきだ。これは気と架勢の二つが互いに用をなすものだ。しかし、架勢は外に形として現れ、跡を辿ることができるが、気は内に運行し深くて測り難い。故に学ぶ者は常に架勢に注意して気の運行についてはしばしば軽視する。私が架勢の外に独り気力について再三意を致すのはこのためだ!」。

運動筋骨説

形意武術の運動と普通の運動は同じではない。普通の運動の力の使い方は一つの平面で活動するか、あるいは筋肉の一部を動かすだけだ。故に簡単明瞭で理解しやすい。形意武術はそうではない。全身の関節が全て複数の運動軸に沿って回転し、その筋肉の収縮の程度は張りすぎず緩みすぎず、各方面の筋肉を同時に収縮させ緩めないようにし、初めて円満に達成できる。故に進んでは攻め、退いては守り、隙を突かれることもなく、暇を見出されることもない。しかし全身の筋肉は非常に多く、部分に分けて説明しなければ詳細を期すことは難しい。故に順を追って説明すると以下の通りだ。

頭部:

目は前頭筋の収縮によって拡張し、眼孔をそのようにした後、眼輪筋が収縮緊張し、まぶたをしっかりと閉じて静かに見つめ、決して震えることがないようにすべきだ。口は口輪筋を収縮させて内側に向かって口を閉じ、歯はしっかりと合わせ、舌に力を入れて口蓋に貼り付け、わずかに後ろに巻くべきである。このようにすれば頬や顔面、下顎の皮膚は全て緊張する。首は広頸筋の収縮によって首の部分を拡張し、皮膚はさらに首の後ろの深い部分の大小直筋の作用と前述の口の部分の協力により、頭部をまっすぐに保ち、帽状腱膜を前後に緊張させ、さらに両肩を下げる力によって首の部分の面積を広げる。

胴部

肩甲骨は極力下げ、さらに前鋸筋の収縮によって上部の肋骨を引き、胸郭を広げ、同時に大胸筋と僧帽筋が前後に引っ張って肩の部分を固定して動かないようにする。臀部に力を入れて下げ、下腹部の筋肉は骨盤を前下方に引き、大腿筋も力を入れて収縮し外転大腿の勢いを作り、肛門括約筋も肛門を縮小して内上方に向かわせる。腰部は方形腰筋と横隔膜の収縮の力を用いて脊柱下部を反らせ、上半身の重心が骨盤の正中線上に落ちるようにする。

四肢部:

一、上肢の基部は力を入れて内転し、上腕二頭筋上腕三頭筋を平均に収縮させて前後に抵抗し合わせ、肘を体の中心線に向かって捻じり、前腕と上腕が常に90度から170度の角度を成すようにし、また回前円筋の収縮によって腕の部分を側面に立てるようにする。手は深浅指屈筋の収縮により順次各指を曲げ、親指と人差し指で半円形を作り、また親指の付け根と小指の付け根を極めて近づけ、小指も他の指と均等に力を入れるようにする。

二、下肢の大腿内側の内転筋と縫工筋は内側に向かって膝関節を引き、大中小の臀筋も収縮し、大腿が外転の勢を持つようにする。大腿四頭筋大腿二頭筋も同時に収縮し、下腿と大腿が150度の角度を成すようにし、前後平均の姿勢を保持する。下腿前面は後面の腓腹筋と深層のヒラメ筋が伴って収縮し、踵と下腿後面が近づく勢いを持つようにする。後ろの大腿はさらに大腿二頭筋に力を入れて収縮し、また屈趾筋の作用により膝関節が前内方に曲がるようにする。そして両足はともに四方に向かって下に力を入れ、体重が平均に両足の中心に集まるようにする。両足の方向は常に45度の角度を成し、ただし龍形のみ90度の角度を成す。後ろ足の内くるぶしと前足の後ろ踵は必ず一直線上にあるべきだ。これが全身の力の入れ方の大まかな様子である。しかし各部の筋肉は縦横に交差し複雑に入り組んでいて、ほとんど言葉では表現できないものがある。心で悟り神で会得して精妙を極めれば、それはその人次第だ。

六合論

私は前に丹田について語った。丹田が満ちて後に技が精緻になる。さらに練気について詳しく述べた。練気が足りて丹田がますます充実する。これらは皆内に得て外に応じるものだ。六合と七疾は必ず学ばなければならない。七疾はしばらく後で論じる。六合とは、手と脚が合い、肘と膝が合い、肩と腰が合う。これを外三合という。心と意が合し、意と気が合し、気と力が合う。これを内三合という。内外が相関し、これを総称して六合という。譜に言う、「手が去って脚が去らなければ茫然とし、脚が去って手が去らなくても茫然とする」と。また言う、「上の法則は必ず先ず上半身を整えるべきだ。手足が同時に到達して初めて真となる」と。また言う、「手と脚が合わさり多くの力が一つになる」と。また言う、「脚打踩の意を留めてはならない。消息は全て後ろ足の蹴りに頼る」と。これを読んで手足が相関する意味を見るべきである。

おそらく技芸を演じる時、手が一度伸びれば、肩が肘を動かし、肘が手を動かす。脚が一度進めば、腰が膝を動かし、膝が足を動かす。手足や、肘膝や、肩腰や、その各点は皆遥か遠くで相対している。肩肘手は上にあり、腰膝足は下にあり、そして人の身体は、下が最も上の根本となる。これを大樹に例えれば、腿はその根だ。故に腰が一度動けば肩がそれに従い、膝が一度進めば肘がそれに従い、足が一度動けば手がそれに従う。ここにおいて技を演じる時、身体の法則は最も整っていることを貴ぶ。上下がつながって一つとなり、前後左右の平衡が乱れる病がない。これを整っているという。もし「整」の字を達成できれば、真に山を揺るがすのは容易く、岳家の軍を揺るがすのは難しいという勢がある。

しかし四肢の動き、果たして何を主な使い手とするのか。人は皆知っているのはそれが心であることを。心の動きこそが意である。意には去意、来意、攻意、守意の区別がある。これを心に源とし、これを意で動かす。故に言う、「心と意は必ず相合すべきである」と。そうでなければ力にならず、手足は即ち指揮を聞かず、耳目もその聡明さを発揮する所がない。意の発するところを気という。気の使うところは意に任せる。相関し相生する。故に必ず合すべきだと言う。しかし進退の時には、もちろん心意でこれを主宰し、気でこれを行使すると言う。しかし気の表現するものは力である。力を借りて表現するものは四肢である。我々は気に任せることを忌む。特に行動に就いてこれを言う。即ち我々武人が突然の事変に遭っても、むやみに気を使うべきではない。もし頭を失った蝿のように、でたらめに突進すれば、行くところ見るところその心は慌て意は乱れて力を用いる所がなく、手足はその置き所を失い、敵はすきに乗じて入ることができ、必ず敗れることは疑いない。故に心と意が合し、意と気が合し、そして気と力もなお必ず相合すべきである。おそらく合うか合わないかは全く気如何にあるのを見る。

按ずるに気には督促の功があり、力には取捨の能力がある。故に気があって初めて力があるべきだ。武を練る者がもしその気を捨てれば、その力を必要としないのだ。我々武人は丹田を培養し、精を積み鋭気を蓄え、一旦事が起これば、敵に応じて来り、心意が一度動き、手足が相応じ、肩腰が相合し、肘膝がこれに従って到り、そして全身の気が運ばずして自ら運び、集まらずして自ら集まり、内外如一、その六合を成し、一団の凝気、精神が満ち足りて、そびえ立つことは泰山を動かようである。そして身体の法則が既に整って活きていれば、これは全く平日の練習の積み重ねに頼るのであって、ただ交手に就いてこれを言うのではない。

七疾論

七疾とは、眼要疾、手要疾、脚要疾、意要疾、出勢要疾、進退要疾、身法要疾のことである。拳を習う者がこの七疾を備えれば、完全に勝利を制することができる。所謂縦横無尽に動き、目にも止まらぬ速さで、生き生きとした龍や虎のように、人が捉えることができないのは、ただこれだけである。

一、眼要疾。眼は心の苗だ。敵の状況を察して心に伝え、そして敵の変化に応じ、勝利を得て功を成す。しかし、交手の時は瞬時に万変し、眼が速くなければ、その動静を察し、その変化を識別することができず、どうして奇策を出して勝利を制することができようか。譜に言う、「心は元帥であり、眼は先鋒である」と。おそらく心の変動は、等しく眼の速さに頼る。しかし眼の速さは実に技を練る者に必要である。

二、手要疾。手は人の翼である。防御や攻撃は全てこれに頼らないものはない。ただ交手の道は全て速さに頼る。遅い者は負け、速い者は勝つ、これは自然の理だ。故に俗に言う、「眼が明るく手が速ければ、勝ちはあっても負けはない」と。譜に言う、「起手は矢のように、落は風のように、風を追い月を追って止まらない」と。また手法が敏速で、その備えのないところを攻め、その意外なところから取り、その身体が大きく力が強いことを恐れず、一動で即ち敗れることを言う。

三、脚要疾。脚は身体の基である。脚が安定して立てば身体も安定し、脚が前進すれば身体もそれに従う。形意拳では渾身の力が整い、一か所も偏重することはない。脚が進めば身体も進み、直ちに敵の位置を奪えば、相手は自ずと倒れる。譜に言う、「手と脚が合わさり多くの力が一つになる」と。また言う、「脚打踩の意を留めてはいけない。消息は全て後脚の蹴りに頼る。脚で中門を踏み、相手の位置を奪う。そうすれば神手も防ぐことは難しい」と。また言う、「脚七分を打ち、手三分を打つ」と。これによって見れば、脚の速さはさらに手の速さよりも速くあるべきだ。

四、意要疾。意は体の帥である。前に言う目には監察の精があり、手には抜転の能があり、脚には行程の功がある。しかしその遅速緩急は全て意の従うところである。立意が一度速ければ、眼と手足は等しくその要領を得る。故に眼が明らかに秋毫を察するのは、意がそうさせるからである。手が出て空回しないのは、拳の精緻さ、意がそうさせるからである。脚の素早さも、また意がそうさせるのである。そうであれば意が速くないはずがあるだろうか。

五、出勢要疾。内に存するものは意であり、外に現れるものは勢である。意が既に速ければ、出勢はさらに速くなければならない。事変の目前で、必ず勢は意に随って生じ、機に随って変化に応じ、敵をして迅雷急襲に耳を覆うに及ばず、慌てふためいて対応の策がないようにさせ、そうして初めて勝利を制することができる。もし意の変化が非常に速くて勢が足りずにそれに従わなければ、応対が乖離し、その敗れることは必定である。故に意と勢が相合すれば、成功は決定的で、意が速くて勢が緩ければ必ず負けることは疑いない。技を習う者はこれに意を加えないわけにはいかない。

六、進退要疾。この節で言うのは縦横往来進退反側の法則だ。進むべき時は則ち進み、その力を尽くして直前し、退くべき時は則ち退き、その気を統べて回転する。進退の適切さに至っては則ち敵の強弱を察すべきである。強ければ則ちこれを避け智をもって取るべきで、弱ければ則ちこれを攻め力をもって対抗すべきである。要は速やかに進み、速やかに退いて敵人がその隙に乗じることができないようにすることにある。高低随時、縦横因勢というのはこれだ。

七、身法要疾。形意武術中の五行六合七疾八要十二形象などの法則は全て身法を本とする。譜に言う、「身は弩弓のように、拳は矢のように」と。また言う、「上の法則は必ず先ず上半身を整えるべきだ。手足が同時に到達して初めて真となる」と。故に身法は形意拳術の本質だ。腕を揺らし腰を活かし、全身を転じ、身を傾けて進み、前に屈んだり後ろに合わせたり左に歪んだり右に斜めになったりしてはいけない。進めば則ち直出し、退けば則ち直落する。最も必要なのは手と足が合い、肘と膝が合い、肩と腰が合すこと(即ち外三合)で、全身が団結し、上下が一つになるよう努め、進退しても破綻しないようにすることだ。故に必ず速くて散らばらないことを達成し、そうして身法の速さが完成を見る。特に速勝遅負の空理だけではないのだ。

起落鑽翻横竪弁

五拳十二形の起落鑽翻横竖の六字は、学ぶ者が最も混同しやすく、教える者も未だ容易に明白に指示し難い。おそらく一手が瞬時の間に、六字が全て備わるのだ。譜に言う、「起は横にして横を見ず、落は順にして順を見ず」と。また言う、「起に形無く、落に跡無し」と。神のような者の技の巧妙さは跡形もなく、これを受ける者とこれを見る者は共にその理由を知ることができない。しかし学ぶ者に初学の時、どれが起落で、どれが鑽翻で、どれが横竪かを判別させなければ、力を用いる処をどこから着手し、心をどこから理解すべきか。これらの点について教える者は急いでこれを判別すべきだ。

私見では手が一度動くのを起とし、動いて直ちに上に出すのを鑽とし、鑽の後腕がやや捻れるのを横とし、捻れて手の虎口が上を向く時を翻とし、既に虎口が完全に上を向けば則ち竪となる。竪に至れば落に近いが、しかしまた必ずしも遂に落ができるわけではない。或いは敵から離れることがやや遠ければ再び手を前に出してこれを迫る。この前出の時が即ち順となる。譜中の鑽翻横竪起落の外にまた「落順にして順を見ず」の順の字が即ちこれだ。つまり学ぶ者が既に精誠を尽くして神のような者の捉えがたいところがあっても、ただ初学の時は則ち逐条分別して詳細にこれを言うべきではない。譜に言うように、「身を束ねて起き、身を蔵して落ちる」と。これは即ち一身の伸縮変化を言うのだ。「起は風のように、落は矢のように、打ち倒してなお遅きを嫌う」と。またこれは一身と手足と人を打つことを並べて言うのだ。また言う、「鑽翻もない一寸を先とする」と。おそらく敵が既に身に迫り、時機が切迫し、鑽翻する暇もなく且つ歩を変える余裕もなく、且つ何をもってこれを攻めるべきか。曰く、手を直出するにあるのみである。しかし手を直出しても全身の力はまた恐らくは整わないだろう。故に寸歩を先とする。寸歩とは即ち後ろ足が一度踏み前足が直ちに出て、警戒して四肢を起こすことである。このようであれば則ち全身奮い立つ力が全て鑽翻ではない手に注ぎ、敵人は初めて数歩外に仰向けに倒れる。以上は全て順の字の効果である。

樁法

目は前を向いて見て、身は斜めに45度、前腕は約170度、後ろ腕は約110度、両腿は約150度、前脚は直、後ろ脚は斜めに45度、前手は心臓と平行に、後ろ手は臍と平行に、両肩は平とする。

樁法の必要事項:頭頂、項豎、肩垂、抱胯、前膊裏肘、提膝、提肛、手心回縮。

内勁

拳中の内勁とは、人の散乱している外の神気を、拳中の規矩、手足身体の動作によって、順中に逆を用い、丹田の内に縮回させ、丹田の元気と相交わらせ、無から有へ、微から著へ、虚から実へと、皆徐々に積蓄して成すものである。その理は動中に勁を縮め、気を合一させて丹田に帰すことに他ならない。

内勁の修練を宗とし、奇異の形や驚人の式を求めないならば、修習の法は必ず簡約となる。内家の明勁、暗勁、化勁は、気機の充実に従って漸次上達し、公尺の勁から尺の勁へ進み、さらに寸勁分勁へと進み、周身一気となる。これは力を加えずして自ずと顕著になる自然の力である。

気を養う者は竪勁に長け、気が足に沈み、一踏みすれば地力が脊から発し、双手の勁を打つことができる。気を練る者は横勁に長け、内気は丹田を出入りし、手足を貫通し、丹田の勁即ち腰力となり、腰が手足を合一させ、即ち身力となる。

一度搭手すれば身力が一横し、容易に相手の手を破り、滚動して入れば力は大蛇のようになる。これは手力が腰力に抗しきれないためである。横勁の利点は大が小を食うことで、腰が手より太いためである。竪勁の利点は意が先にあることで、竪勁を発することができれば、気が既に足に沈んでいることを示し、一発の銃声があれば地を蹬んで走り出すことができる。気が沈んでいなければ、まず身を沈めて力を蓄えてから走り出す。横勁を用いて勢を破るのは、心に応じ手に従う。竪勁を用いて敵を攻めるのは、勢が爆竹の如くである。万一横勁が阻まれ、強行できない場合は、迂回して円を描いて再び横勁を進めれば、それは又、纏絲勁となる。

谷道を縮めて丹田の気を経て聚練し、一定の能量に達し、谷道を縮めてこの処を通り、後督脉に上行し、この関を過ぎて小周天の運行に達し、体内の陰陽二気が和合し、内勁を産生する。この勁を放出すれば、驚雷のように、威力は無比だが、肝を傷つけることはない。

提肛は腰馬の合一を助け、全身の構造を一体に連ねることができる。同時に馬歩の際に脚部の筋肉を放松させることにも助けとなり、それによって全身は高度の警戒と完備の状態に達する。

入門には先ず外家を修めるのが良い。これは筋骨肌肉の力道勁道の鍛錬を指す。この基礎があれば将来内家に入っても、先ず勁道力気があり、かつ外形が強健で、身手が敏捷であり、基礎を築いた後、なお内功の一法があり、松静の中に養を求める。この時、周身は自然であればあるほど良く、拘束がなければ自然に道に入りやすい。

直接内功に入ることも不可能ではないが、修練者は直線的に成長せず、その関門は甚だ多い。故に古の武を学ぶ者は、内外家を問わず必ず先ず外功技芸を修め、数年後に内功に入り、内功が成熟円融すれば即ち内家となり、もし道心があれば更に道門に参ずる。内家功夫は必ずしも外家の硬功練法を経なければ人を打てないというわけではない。硬功を練らなければ人を打てないと考える者は、皆内家の心法を得ていない者である。

走架

走架では、重心は一脚にのみあり、全ての活動は全て足底の涌泉に導かれ、全身を全て松とする。この時、全身は快適で爽快で、気機は沸き立ち、うまくできれば、時に空山霊雨の中にいるかのようで、脚を踏み出す度に水中を踏むかのようである。

発勁の全ての動力は、足底の涌泉にのみあり、走化して腰胯を帯動し、全身を放松して些かの力も施さない。敵に応じる時、敵が推してくれば、力を足底の涌泉に導き、泥牛入海の如く、拳撃脚踢に応じては、迅速に身を前に寄せ、矢を発するように相手の門戸に突進し、相手の力量がまだ発せられない(まだ根節にある)うちに相手を発放する。

もし相手が守れば、どんな接触面でも、即ちこの接触面を用いて相手を発出する。重心を完全に一脚に置き、左右に旋転し、起落鑽翻し、龍巻風のように、水の渦のように、気は足の涌泉に沈む。重心が左脚にある場合を例にとると、身体は下へ左へと鑽り下がり、これが接地の力であり、身体は右へ上へと向かい、これが吞天の気である。この時、全身の力は足底の涌泉にのみ置かれるため、その苦しさは比べようがなく、非常に功夫を要する。全身が極めて松透しているため、打人、発人は、水や風のように、形も象もなく、招式もなく、相手は何の感覚も招式も見えないまま、風に吹き飛ばされ、水に押し流されるかのようである。

内功の訓練を経た後、走架はもはや外形の規矩を重視せず、内在の気機の鼓蕩の感応を重視する。吸気して丹田に入れ、同時に全神貫注し、気は全身に満ちて走り、気球のように膨らむ。気を蓄えて出さず、神は全身の外側の皮膚が空間の気流や温度と接触するのを感じる。吐気すると身体は体内が萎縮して丹田に向かうのを感じ、気体は各毛穴から漏れ出る。空体で気がまだ入っていない時、体内に万千の気流が体内で乱闖し各部位を探るのを感じる。呼吸を気にせず、注意力を呼吸に置き、その式は必ず空で、主に式が整っていることが重要である。

拳術の驚炸力と穿透力の基礎は全て整勁である。整勁を練る中で力気を長じるが、力気を練るために力気を練るのではない。勁を練るために勁を練れば、勁を拙くしてしまい、このように練り出された勁は大した用途がない。拳を練る時に必死に発勁したり、拳を練るのが猛烈すぎると、自分の身体を傷つけやすい。ただ動き出せば全身にその意があれば、作用するのである。

剛勁と拙力を用いること、迅猛を求めることは別物である。剛勁を練るのも自然に順う必要があり、軽松、和諧の中で技法の要求に従って、徐々に上下内外、完整一気が形成する剛勁を追求する。勁を身に含んで拳を練る感覚を体得し、孫禄堂先生の写真をよく見て、拳中の意と勁をよく体得する。拳を練るには拳理と含義を明らかにしなければならない。さもなければ体操をするのと変わらない。

根勁

内功の最も基本的なものは根勁と放松である。放松の後に根勁を出し、根勁があればさらに放松する。放松にはただ一つの方法があり、それは自信である。自分が得意とすることをすれば放松できる。人は腰腿に力があり、遠くへ跳び、高く跳び、動作が速くなれば、他人が一拳打ってきても、避けるにせよ打つにせよ思いのままで、心情はもちろん緊張しない。一度放松すれば脳を解放し、人は健康になり、思想と心態も変化する。内功は人を沈着にさせ、思考を敏捷にし、闘争に用いれば力量よりもはるかに効果的で、より貴重である。内家功夫の中の「硬碰硬」の招法の秘訣は、必ず根勁を用いることである。衝突時に骨を一転させ、見た目は二人が骨をぶつけ合っているようだが、実は私が小さく相手を打っただけである。骨を一転させれば横向きの来力を縦向きの力に変え、骨格を通して伝わらせる。縦向きに力を受ければ、どんなに大きくても骨は折れない。相手の骨がもし動かなければ、打たれて傷つくだけである。

腿の根は胯にあり、内家の高手は勁路が打通し、外形は動かず、身勢が一沈すれば腿は上がる。根本的に腿を振って加速する必要はなく、力量はなお大きい。最も重要なのは、この種の蹴り脚法は、近くは身の前を蹴り、遠くは丈外を蹴り、どんな距離でも勁を発することができ、人が阻止できないことである。

内勁を理解しない人は腿を発するのに力を用いるのが非常に難しく、力があっても腿が最終的に振り回された時だけで、それ以前に相手が一歩前に出て防げ終わりである。内家の発脚は未だ腿を上げない前に加速の過程を完了している。内家の蹴脚を止めようとする人は、どんなに近くても丁度銃口に突っ込むようなものである。

外家拳の人材は、全て実戦の中で勁路を打通する。実戦時、心は到るが手が到らず、天性腰腿に力のある人は一旦急になれば根勁を見出す。根勁が打通すれば、手の速度と力量は神助を得たかのようで、何をしても心想事成となる。功夫が身に付けば、心中に知らず知らずのうちに豪気が生じ、事に遇い敵に臨めば目は鋭く神は集中し、少しも慌てず、しばしば英雄の挙動がある。

横勁

横勁は一種の全体を捻転させる裹合勁である。起手の時に横があり、入手の時に横があり、身を起こす時に横があり、身を落とす時にも横があり、足を進める時に横があり、足を退く時にも横がある。

周身の横勁は先天の横である。太極では周身の掤勁と称し、内家拳を練れば即ち周身の丹田、即ち周身の太極を得ることができる。体を護り、兼ねて虚実、虚霊の用がある。即ち変じて極めて善く沾粘し、胸腰をもって吞吐し、歩をもって進退し、これ即ち善化善護の功である。

気は動けば強靭であり、相互間の運動を指す。たとえ動かなくても、敵人が快速に打ってきて、身間の架骨棱に触れれば、また鉄骨鉄壁に当たったかのようで、周身また皮革のようである(高者)。もしこの勁を拳掌臂足に用い、敵手に向かえば、少し近づくだけで傷つけることができる。

絶勁は寸勁と称される。抖勁は急剛勁、冷脆勁と称される。絶勁の主な源は亀尾の急激な転抖と丹田の気の集聚吐発にある。抖勁は臀にある。翻浪勁の理は非常に簡単で、波浪が岸を打つ勁力は非常に強いが、その勁源はその表面にはなく、大海の底部の運動に起源し、海洋の中層で活発に転化し、さらに表面に作用する。その理はまさにここにある。寸勁は外家が掌根で人を沈按し、傷つけるだけではなく、柔掌で人を発し、既に周身整勁かつ神気純粋で、身を猛烈に震わせて人を転ばせることができる。

さらに上は即ち分勁となり、功夫の火候がより純粋であるため、微かに震えるだけで猛烈な形は見えず、人を転ばせることがより妙であり、故に沾粘颤と言う。この勁は陰陽返復勁を打ち、その発人は人の双足を同時に地から離させることができる。抖震勁は一度手に触れただけで内勁で相手の手を破り、直接要害を取ることができ、しかも抖勁にはまた防守の機能があり、来力を滑らせて開くことができる。

内家功夫は松柔を本とし、混身の肌肉が一度緊張すればすぐに松となり、十秒のうち九秒は松の状態で、閑庭を歩むようで、戦えば戦うほど勇み、一晩中打っても疲れない。松は非常に練習が難しく、腰胯上の筋肉は、練習が到達していない時は感じることができず、どうやって松とすることができるだろうか。脊椎上には多くの肌肉があり、特に腰の下部と骨盤付近の筋肉は、練習に到達する前は全くその存在を知らず、到達した後に初めてそこも動かすことができるとわかり、しかも力が無限大であることがわかる。内功の力量は全てそれら数箇所の脊椎上から来ている。

人体は大きなばねであり、それはつまりそれら数箇所の脊椎上の肌肉のことを言っている。これらの骨に開合があり、動き出せば、人は胆力を生じ、虎に出会っても一噛みする勇気が出る。龍形は搜骨で、発勁は骨力を講求し、股部つまり腰椎、骨盤上の筋群に丹田はある。中節は力を発することができ、腰胯関節が開合でき、周身の骨格筋経が貫通し、丹田力が周身の各部位に順達でき、内耗がなく、勁路が打通する。

丹田区域の筋肉は腰を捻挫しない限りは、人々は普段その存在を全く感じることができない。しかし練習に到達した後は、人身上のこれらの最も固い関節の中に最強の力量が蔵されていることを体得するだろう。それは原始的な野獣の力、真の本能の力である。虎豹が獲物を追って食べる時のあの驚くべき速度、力量と協調性は、全てこれらの部位から発動される。この種の力量を後ろ盾として、文人学士も沙場で一戦を交える勇気が出る。形意拳は龍虎二気を説き、この龍と虎の最も強いのは脊椎と腰胯であり、身に龍虎の能があれば、胆力がどうして壮大でないことがあろうか。

丹田

丹田発力とは、腹腔隔膜以下、骨盤以上のこの球状空腔が、皮球のように弾力性に富み(筋膜の功)、鋼球のように堅固(骨格の功)になることを指す。故に内家一脈は、まず丹田の開合を重視し、いわゆる「一年で人を打ち殺す」というのは、最初からこの部位を強化訓練するからである。丹田の開合があってこそ、全身の骨節が協調一致して開合し、内開合があってこそ、胸背、四肢の外開合を論じることができ、丹田開合が全身内変を帯動しなければ、如何にしても滔々として絶えることのない翻浪力を作り出すことはできない。もし法を得なければ、勁を腕や脚に掛け、内部に深く入り込むのは容易ではない。

圏内で人を打ち、圏外で人を推す。いわゆる圏内とは、即ち骨盤発力の範囲であり、いわゆる圏外とは、即ち骨盤発力の範囲以外である。力量の究極の源は、即ち骨盤であり、古に腰胯と言うのは只大まかな言い方で、実際には骨盤を指し、即ち骨盤を用いてあなたを打つのである。この部位は、一人の女性でも開胯を理解し、骨盤の収束、開張乃至旋動を用いて発力し、通身の骨格を帯動して出撃すれば、その纖纖たる玉手一掌であなたを打ち殺しても不思議ではない。骨盤の発力は、外表からは見えないので、対手は手足を折られ断たれても、何事かを知らないのである。

成人の骨盤、特に男性の骨盤は、既に硬化し、その構合の隙間の軟骨も既に石灰化し、一つに連なっているので、成年後に太極を学んでも、開胯は容易ではない。二年で開胯できれば、既に速いと言える。骨盤の運動を用いて発力することを学ぶと同時に、脊骨の節々の用力、節々の貫通を学ばねばならず、骨盤で脊骨を帯動し、さらに四肢筋骨の発勁を帯動する。

真の内家発力は、内圧の集中点が腹部にあり、骨盤で下半身を帯動し、腰椎骨節で上半身の運動を帯動して全身の運動を帯動する。肝要なのは腹部の团気で、腰腹筋を均衡に収縮させ、内圧を増大させ、腰椎の内動に強力な内在の支持を提供することである。尾椎の驚乍、骨盤を輪とし脊椎を軸とする発力、腰、腹、股の肌肉が骨盤を搓動し、力量が脊椎に沿って上昇し、両手に伝わる。全体の感覚は、勁力が尾錐或いは裆内から龍巻風のように昇り、両脚の筋が引き締められ、両足が地を掴まざるを得ず、さもなければこの力量に引き上げられてしまう。このように練習を続ければ、力量が大きくなって十趾でもう地を掴めなくなるまで、『神運経』にある飛騰の功、或いは軽功と呼ばれるものが現れる。幽霊のように飄忽とし、野獣のように協調のとれた身法となる。

内家の暗脚とは、この種の力量を開発した後、地に沿って歩めば即ち歩となり、脚が地を離れれば即ち腿となり、力量の源が腰際にあることを指す。そのため前人は手足の打法を互換できた。しかしこの種の用力方式は、身体への総合的要求が極めて高く、まず周身の筋膜(胸背腰腹裆胯)の伸張量、次に骨節間関節囊の靭性強度が、内在の骨格の貫通に達していなければならない。横隔膜は下降し、裆胯は上翻し、腰椎は開き、後倚し、丹田の中空内実を形成し、まるで両胯の間に充分に空気の入った大きな皮球を挟み、この球がまた肋骨を抱いているかのようでなければならない。このようにして初めて骨盤、腰椎の運動に支えがあり、力量が上肩背に至り、四梢を貫き、身法運動が上勁を含むことができる。

招法は人により異なり、実用的でないため、勁を見出し、発勁することを強調し、自然に合致させることで、外形を順調にし、勁が中から来て、内質が中和し、気が自然に生じ、四肢百骸の気質が一に帰し、後天の拙力を排除する。どの門派の真伝の功夫も一気で成し、内勁で成すものであり、これが本質である。応用手法については、完整円融の内勁があれば、簡単な手法でも極めて妙なる手法となる。

規矩に従って操練し、徐々に上下相随、内外合一の先天真勁を見出す。人身の散乱した気を丹田に納め、周身に運び、完整一気となす。身体の中心を活動の起点とし、整体の力量を連貫して運作させ、身体の各部分が全て整体の力量を有し、対手が自分の身体のどの一点に接触しても、整体の力量の反撃を受けるようにする。整勁が自如の水準に練達していない時は、実戦時には拳を練る時の整勁の要領を放棄し、そのまま打つ。

一、形意拳歴代伝承

形意拳は達摩祖師により創始され、名を内経と言う。宋の岳武穆に至り、始めて形意拳の名を得た。即ち『易筋』の作用であり、これを形意という。元、明の両代は書籍が無いため、ほぼ失伝した。明末清初の際、蒲東に馮氏一族があり、中でも馮際可先生の武芸は高名であった。年を経て、終南山にて、岳武穆の拳譜数篇を得て、その精微奥妙を融会し、後に曹継武先生に伝授した。曹先生は康熙の武術試験の三元であり、陝西靖遠の総鎮であり、平生の功夫を人に授けて余年を過ごした。曹先生は山西太谷の戴龍邦先生に伝え、戴は直隷の李洛能先生に伝え、李氏は再び郭雲深、劉奇蘭、白西園、車毅斎、宋世栄諸先生に伝えた。郭は李奎元、許占鰲諸先生に伝え、劉は李存義、耿継善、周明泰諸先生に伝えた。余は李奎元先生を師と待ち、また郭雲深先生に従学し、岳武穆の拳譜を見て、茅塞(迷いが晴れること)を開いた。

二、形意拳演習之要

この拳の性質は、天地自然の理に順い、純に正気を養うを宗旨とし、誠に武業中の文雅である。

無極とは、人が未だ拳術を練らざる先であり、思無く意無く、形無く象無く、我無く他無く、胸中は混混沌沌、一気渾淪で、どこにも意が向かわないことである。この勢は天地自然の道に順うもので、これを無極形式という。

将に動かんとして未だ動かざる時、心中は空空洞洞、一気渾然で、形跡は未だ露われず、その理已に具わる。故にその形象は太極一気である。

太極勢が起点の時、心中は平地に竿を立てるようで、心気は自然に平穏沈静で、また偏移しない。心と意が合い、意と気が合い、気と力が合う。これを内三合という。

両肩は松開し均斉に勁を抽き、両胯の付け根も均斉に勁を抽き、肩と胯は合う。両肘は下に勁を垂れるが露わしてはならず、後ろで曲がる部分は死んではならず、円満にして半月形のようであるべきである。両膝の内側に勁を扣き、露わしてはならず、肘と膝は合う。両足のかかと均しく外に勁を扭り、露わしてはならず、手と足が合う、これを外三合という。

肩は肘を催し、肘は手を催す。腰は胯を催し、胯は膝を催し、膝は足を催す。身は直立し、左右に歪斜してはならない。心気は穏やかに、陰陽は相合し、上下は相連し、内外は一のようで、これを六合といい、三体はここから生じる。

丹書曰く「道は虚無より一気を生じ、一気より陰陽を産む。陰陽は再び合して三体を成し、三体を重ねて万物を生ずる」。万法は皆三体式より出で、この式は入道の門であり、形意拳中の総機関である。

両儀とは、拳中の動静、起落、伸縮、往来の理である。劈拳は、金に属し、一気の起落である。崩拳は、木に属し、一気の伸縮である。鑽拳は、水に属し、一気の曲曲流行で、微に至らないところはない。炮拳は、火に属し、炮が炸裂するようで、一気の開合である。横拳は、土に属し、一気の団聚である。これ久しく練れば、五臓の病は去る。これを人の性に居るという。

龍には搜骨の法が有り、虎は扑食の猛が有る。猴は縦山の霊が有る。熊は浮水の性が有る。之を其の他八形に推せば、各々其の妙が有り、物の性に居る。

人、物の性は既に居り、起落進退、変化は無窮で、これはその智である。中和を得て、体物を遺さない、これはその仁である。内外は一のようで、六合と成る、これはその勇である。三つが既に備われば、動作運用、手足相顧、至大至剛、浩然の気を養う。一を以てこれを貫く、儒家の誠中形外の理と同じである。

形意拳演習の要は、一に塌腰、二に縮肩、三に扣胸、四に頂、五に提、六に横順は清を知る、七に起鑽落翻を明らかにする、である。

塌腰とは、尾閭を上提して、陽気を上昇させる、督脈の理である。縮肩とは、両肩回りに勁を抽くことである。扣胸とは、胸を開き気を順わせ、陰気を下降させる、任脈の理である。頂とは、頭頂、舌頂、手頂のことである。提とは、谷道を内提させることである。横とは、起である。順とは、落である。起とは、鑽である。落とは、翻である。起は去り、落は打つ。起もまた打ち、落もまた打つ。打は起落し、水の翻浪のようであり、これが起落である。

起は伏龍天に登るに似て、落は雷が地を撃つようである。起は形無く、落は踪無く、起意は地を巻く風に似る。身を束ねて起き、身を長くして落ちる。起は矢のようで、落は風のようで、風を追い月を追い放松しない。敵に会っては勝つべく、四梢を全て揃える。往来の起落鑽翻は総じて肘肋を離れず、手心を離れない、一気の流行である。

周身内外は全て真意を用いて運用し、力を用いても有って無いようであり、実にして虚のようである。腹内の気、意は虚霊の神を積蓄する。呼吸は有るようで無いようであり、丹道の功夫の帰炉、沐浴の時の呼吸と同じである。有るようで無い真息は、一神の妙用である。荘子の「真人の呼吸は踵を以て行う」とはこの意である。

用功や練去は間断してはならない。虚に至るまで練り、身にその身無く、心にその心無く、形神が妙を備え、道と合わさる真境である。この時太虚と同体となる。練虚合道し、然不動に至り、感じて遂に通じ、可は無く不可も無い。拳経曰く「霊根を固めて心を動かす者は、武芸である。霊根を養いて心を静かにする者は、修道である」。故に形意拳術は、丹道と合一するものである。

三、動静中和尽其性

形意拳の道は、神気の二つの他にはない。丹道は始終の呼吸にあり、大小周天、以及び還虚の功は、呼吸の変化のみで有る。拳術の道も同じである。文武剛柔、時に随って消息し、中に順って逆を用い、中は順を行き、過ぎず、及ばないこともない、中和の道を用いる。

拳技曰く。「起鑽落翻の未だ発せざるを中と言い、発して皆中節を和という。中は、形意拳の大本である。和は、形意拳の道である。五行合一し、其の中和に致せば、天地に位置し、万物は育つ! 五行帰一と和順を知れば、天地に推せないものはない」。

意とは、人の元性である。天地においては土であり、拳においては横である。横とは、拳中の先天、円満、中和の一気である。形意とは、規矩に従い、自然に順い、外は形式に囚われず、内は神気に逆らわない。外面形式の順は、是れ内中神気の和である。外面形式の正は、内中意気の中であり、即ち内外合して一となる。

先賢曰く「其の一を得れば万事は終える」。

人と比べる場合は、総じて光明正大で、奸心を暗藏してはならない。勝敗は全て道理に益があるかである。彼の剛柔、虚実、巧拙を察しなければならない。

『中庸』曰く『天命を性といい、性に率うを道という』。不動は未だ発しない中であり、動作は三体式の本体で、すでに発すれば和であり、和はすでに発した中である。腹内に気体があり、その大きさはは外に無く、その小ささは内に無い。外の用は、見えずして現れ、動かずして変じ、為さずして成る。

内外合一は、心中の神意が海底に下照し、腹内は静が極って動く。海底の気は、微微として自ら下より上り、神意と相交わり、丹田の中に帰し、周身に運貫し、四肢に暢達し、融融和和となり、上下相連し、手足は自然に相顧み、内外を合して一と為る。

拳術呼吸の調整は、総じて自然に任せ、真意の元神を用い、これを丹田に引き、腹実にして虚であり、有って無いようである。『老子』曰く「綿綿として存するが若し」とは、この意である。即ち拳中内勁の意義である。勁とは、内中神気貫通の気である。

静座して呼吸を調息し、拳術を練って動作を調息する。起落進退はみな規矩に合い、手足動作も和順し、内外の神形は相合する。これを息調という。身体動作を以て旋転し、縦横往来し、停滞はなく、一気が流行し、循環に端は無い。これを停息といい、あるいは脱胎神化という。

拳術の一道は中和を重んじ、中和の外に玄妙はない。故に形意拳の内勁は、中和より生ずる。人の元神、元気は相合し、無から有に、微より現れ、一気の動より、周身に発し、活活潑潑で、有でないものはなく、その通りでない時はない。『中庸』曰く「これを放てば則ち六合に広がり、これを巻けば密に退藏する」。これが拳の内勁である。先賢曰く「拳中を練って至れば、拳に拳無く、意に意無く、無意中にこそ真意がある」、とはこのことである。

形意拳の道は、先ず心中の虚実を以て体と為し、神気相交を以て用と為し、腰を以て主宰と為し、丹田を以て根と為し、三体式を以て基礎と為し、九要の規模を以て、練拳の具と為し、五行十二形を以て拳中の物と為す。故に発出する所の散乱の気を、順中に逆を用いて縮回し、真息を用いて丹田に積む。口中の呼吸は一毫も努力してはならず、純に自然に任ずるべきである。

挺胸、提腹、努気は形意拳の大病である。功夫を練っても、進歩がない時に、通じる者を観れば、俗派自然の魔力に入る。この時功を止めてはならない。明師を求めて道理を説明してもらって、久しく練れば、諸魔尽く去り、拳の全体と大用は明らかにならないことがない。

拳術を練るには固執してはならない。力を求めれば、力に拘わる。気を求むれば、気に拘わる。沈重を求むれば、沈重に縛られる。軽浮を求むれば、神気は軽浮して散じる。形式を順にして練れば、自ずと力は生じる。内が中和であれば、自ずと気は生ずる。神意が丹田に帰すれば、身は自と泰山のように重くなる。神気を合一して虚空と化すれば、自ずと身羽の如く軽くなる。故に固執して求目てはならず、有るようで無く、実のように虚で、忘れはならず助けてはならず、中から外れなければ、思わずして得る。中道のみに従うのである。

四、三歩功夫与道同

形意拳術には、三層の道理、三步の功夫、三種の練法がある。三層の道理は練精化気、練気化神、練神還虚である。三步の功夫は易骨、易筋、洗髄である。三種の練法は明勁、暗勁、化勁である。

易骨とは、拳中の明であり、練精化気の道である。人身に散乱した気を、丹田の内に収納し、偏らず倚らず、和して流さない。九要規矩を用いて鍛錬し、六陽は純全まで練り、剛健に至る。拳中の上下は相連し、手足は相顧み、内外は如一する。ここに至れば拳中の明功は尽き、易骨の力は全うし、練精化気の功もまた終わるのである。

暗勁とは、拳中の柔勁である。即ち練気化神であり、易筋の道である。拳中のの用勁は、形、気、神(神は即ち意である)を合わせる。両手は力を用いて拉回し(内中に縮力有り)、その意は鋼絲を抜くようである。前手を前に推し、後手は拉く、その意は絲棉を撕くようであり、あるいは両手は硬弓を拉くようで、力を用いて拉開する意を要する。両手を外に翻横し、あるいは内側に裹勁がある。拳経に曰く「裹とは、包裹して露わさないことである」。両手を前に推す勁は、車輪のある重物を推すようで、推しても動かない意がある。用勁、手を前に、下に物を押さえるようである。後足は勁を用いて踏み、それは大きな歩幅で水溝を越えるような意である。拳経曰く「脚打踩の意は落空しない」とは、前足である。「消息は全で後脚の踏み込みに頼る」とは、後足である。両足の進退は、明勁は音が聞こえるが、暗勁は音がない。

化勁とは、即ち練神還虚で、洗髄の功夫である。暗勁を至柔至順まで練る。丹経曰く「陰陽は混成し、剛柔は悉く化す、これを丹熟という」。柔劲の終わりは、化勁の始まりである。故に再び向上の功夫を加え、練神還虚を用い、形神が備わり、道と合わさる。拳経では「拳に拳無く、意に意無く、無意の中に真意がある」といい、これを化勁と謂い、練神還虚、洗髄に至る。

拳術を練る者は、成規、成法を守ってこれを応用してはならない。成法とは、初めて門に入る人を教える規矩であり、人の気質を変化し、人の知識を開き、人の心性を明らかにする。後天の気質を取り除き、先天の気に復するものである。すでに虚無に至れば、体無く、用も無い。拳経曰く「静は本体であり、動は作用である。体用は一源である」。体は、行止坐卧、一言一默、道で得られないものはない。用を、可も無く不可も無い。

明暗勁の体用は、周身四肢を松開し、神気を縮回し、丹田に沈む。内外は合わさり一気と成り、再び両目を定めて彼の両目或いは四肢を視る。自己は動かずして、体と為る。形意拳本質の体用を論ずれば、自己を練るを体といい、人と相較する時、応ずるを用という。虚実変化は自ら用いず、彼の発する所の形式によって生じる。彼の剛柔、虚実、巧拙を察しなくてはならない。拳を一生練り、総じて道を以て人に服する。

剛には明剛、暗剛がある。柔に明柔、暗柔がある。

明剛とは、神気がみな外に現れ、手は鋼鉤のようで、気力は骨に透るようで、自己の身体が縛られたようである。暗剛とは、これ動かせば綿のようで、神気が骨髄に透り、心中は触電したようである。

明柔とは、動作に全く気力が無く、身羽のように軽く、神気が全く散乱せず、彼と交手する時、有るようで無いようでもある。暗柔とは、神気に威厳があり、転動は鋼球のようで、手は膠のようで、腕は鋼の糸のようで、人を粘りつけたり絡みつけたりできるものである。

もし道を求める心があるならば、前述の四形式を持つ人に出会ったとき、もしすでに彼の神気に圧倒されないならば、彼と技を競うことができる。しかし、そうでなければ、ただ虚心を持ち、恭敬しく彼に接し、その道を求めるべきである。兵法に「己を知り、彼を知れば、百戦して百勝す」とある。もしこのようにできれば、天下に敵は無いだろう。

孫玉奎『孫禄堂武学思想』人民体育出版社より

現在外部で広まっている意拳は、非常に強い個人的特徴を持つ意拳であり、祖師王薌齋先生の完全な拳学思想の意拳ではない。そのため、我々が拳を学ぶ際には、教師の拳術観点を批判的に受け入れる必要がある。具体的には、毎回の拳術訓練において、一つの站樁、一つの試力、一つの発力など、すべての訓練内容を批判的に見る必要がある。

例えば、站樁をする時、間架をある形に構えた後、この間架をこの形に構えることが本当に合理的かどうか、教師が伝授した間架の角度と精神意念に問題がないかどうか、祖師王薌齋先生の間架と站樁に対する源意は何か、祖師王薌齋先生の「有意」「無意」「有意と無意の間」「無意の意」、これらの問題を訓練の中でどのように制御すべきかを考えなければならない。また、教師が教えたものを疑問視し、さらには否定し、既に知っている訓練を否定した後、どれだけのものが残るのか、残ったものは誤りなのか正しいのか、その誤りと正しさをどのように検証するのか、他派の意拳の知識と対応させるのか、形意拳八卦掌太極拳詠春拳、ボクシング、柔道などの技術と対応させてその正しさを検証するのか、それとも推手や実戦を通じてその正しさを検証するのかを考える必要がある。要するに、本人は意拳の訓練には「一慢二看、三通過」(交通用語)が必要だと考える。慎重に慎重を重ねるべきで、執着して一つの道を突き進むべきではない。

現在、拳を練習する際に心を込めない人がいて、よく「私の教師がどう教えたか、私はそのように練習する」と言う。しかし、教師の下では正しくても、自分の下では全く通用しない可能性があることを知らない。尚雲祥は李存義について拳を学んだが、李存義の練習法とは異なっていた。幸いにも彼は毎日李存義について練習していなかったからこそ、独自のものを練り上げることができた。王薌齋先生は郭雲深老先生に師事したが、郭雲深老先生は早くに亡くなり、王薌齋先生は仕方なく大江南北を歩いて師を訪ね友を訪ねた。王薌齋先生のものと郭雲深老先生のものには大きな違いがある。もし王薌齋先生が一貫して郭雲深老先生に学んでいたら、後に創立した意拳はなかったはずだ。

否定的な思考方式がなければ、意拳は練り上げられない。まず自己を否定し、そして権威を否定する勇気を持つ必要がある。これには自分の教師が教えてくれたものを疑問視し、さらには否定することも含まれる。感情面では感謝し、技術面では独立した思考を持ち、異なる意見を持つ勇気を持つべきだ。教師の貢献に感謝し、また教師が我々に彼のものを否定できるものを教えてくれたことにも感謝すべきだ。一度また一度の否定の後にこそ、蛹から蝶へと変化する可能性がある。祖師王薌齋先生の言葉で私が非常に好きなものがある。即ち「打破円融」であり、しかも一度また一度「打破円融」し、「円融」の「円融」を得るのだ。

意拳を学ぶ過程で、みんな盲人が象を触るようなものなので、それぞれが触れる部位が異なり、感悟も異なる。そのため、みんなの祖師王薌齋先生の拳学に対する解釈も大きく異なることになる。したがって、意拳を学ぶ際には、現在の一家一法に執着すべきではない。

祖師王薌齋先生の拳は自己浄化の拳である。そのため、拳を打つと同時に、自分の身の雑質を徐々に少なくしていく必要がある。常に自分のすべての執着、意図的なものや作為を否定し、教師が我々に伝授したものがどの類のものに属するのか、精神に属するのか、それとも筋骨に属するのか、身内に属するのか、それとも身外に属するのか、陽面の体系に属するのか、それとも陰面の体系に属するのか、分けて求めるものなのか、それとも整体を訓練するものなのか、頓悟の枠組みなのか、それとも漸悟の枠組みなのかを反省する必要がある。訓練がある枠組みに入ると、往々にしてそれに執着してしまう。批判精神がなく、否定意識がなければ、ますます遠ざかり、偏執が現れ、身体の平衡を崩し、強い部分がますます強くなり、弱い部分が永遠に薄弱になってしまう。実際、全身のわずかな進歩も良いことではなく、すべて一種の執着である可能性がある。しかし、世間の人々の多くは進歩したのに逆に弊害があるというこの道理を理解できない。本人は、進歩すれば長所ができるが、長所があれば必ず短所があると考える。これは祖師王薌齋先生の「竹林観」(即ち祖師王薌齋先生の言う「私のこの竹林はすべて茶碗の口のように同じ太さだ」)から外れている。王薌齋先生の「竹林観」は実際には「均整」の概念であり、それは小さな概念でもあり、大きな概念でもある。小さな概念から言っても大きな概念から言っても、身体に長短が現れれば、必ず「均整」ではなく、必ず「渾円」ではない。

具体的に言えば、站樁、試力、発力などすべての運動において、否定的な心態を持って、每一つの動作の合理性を疑問視し、第二回の運動で修正を行う必要がある。第一回の不合理な運動を修正するための第二回の運動においても、依然としてこの第二回の修正の有効性と正確性を疑問視し、そして第三回の運動で再び第二回の運動を否定し、その問題を探し、その問題を解決し、その誤りを改め、さらに第四回の運動で第三回の運動を否定し続け、第五回の運動で第四回の運動を否定し続ける、というように無限に続く。意拳の訓練が否定的に行われないと、「摸勁」は形式的になり、体操のような運動になってしまう。教育には「養成教育」という概念がある。「養成教育」は良い習慣を養成する教育であり、拳術訓練に用いると、訓練の中で誤った習慣を否定することも含まれる。我々は每回の運動で古いものを否定し、新しいものを確立し、常に新しい訓練内容を持つ必要がある。一回また一回が前回の運動内容の繰り返しであれば、教条的な「動力定型」が形成され、執着且つ誤った筋肉記憶が形成される。これは決して祖師王芗斋先生が求めるものではない。我々は身体の筋肉記憶および全身の細胞記憶に絶えず更新される意識を植え付けるべきで、一回動くごとに必ずアップデートする必要がある。それは現在のスマートフォンのアップデート版のようであり、また飛行機が第四世代機から第五世代機、第六世代機……第N世代機へとアップデートするようなものだ。現代社会の発展において、企業の科学研究能力は非常に重要で、製品を絶えずアップデートする能力が必要であり、誰が速くアップデートするかが先進的かを決める。

拳術の発展過程において、拳術の進歩は極めて重要である。自身の訓練は日々更新し、時々刻々更新し、分ごとに更新し、秒ごとに更新する必要がある。しかし、一個人が拳術を更新する能力を持っているかどうかは、その人自身の天分と悟性に関係し、また教育と環境にも関係する。そのため、この面では往々にして人によって異なり、これも成功者がわずか数人しかいない理由である。祖師王芗斋先生は自分を意拳の練習者に過ぎないと言ったが、老先生は拳術の発展において決して革新を止めなかった。

私個人にとって、祖師王薌齋先生とは会う縁がなかったが、祖師王芗斋先生の娘である王玉芳先生が生きていた時には頻繁に会うことができた。彼女は私の恩師であり義母であり、義母の身に依然として祖師王薌齋先生の多くの痕跡を見ることができた。最初の頃、私は毎回彼女が一つの問題について絶えず変化する説明に頭を悩ませたが、後に完全に悟った。義母の身には、祖師王薌齋先生の強烈な革新と変化を求める遺伝子があった。義母は古いものにしがみつく人ではなく、父親の功労簿の上で大きな夢を見る人でもなかった。彼女は祖師王薌齋先生の拳術を基礎に、自ら「十節功」を創造した。彼女も祖師王芗斋先生と同様に拳術の革命者だった。

恩師義母王玉芳先生から啓発を得たにせよ、現代製品の更新から啓発を得たにせよ、拳術の訓練において、否定的な思考方式がなければ、我々は常に練習し常に新しくすることはできず、我々には新しい未来もないだろう。長くこのままでは、最終的に時代に淘汰されてしまうだろう。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より

「方円」の概念は中国伝統文化に由来する。例えば『大戴礼記曾子天円』には曾子の言葉として「もし天が円で地が方ならば、四つの角は覆われないであろう」とある。曾子はさらに「天道は円、地道は方、方は幽で円は明である」と説明している。古人は天地の道から見て、円を天道とし、方を地道とし、円は明るく、方は幽であるとした。

「天は円で、地は方であり、人頭は円で、足は方でこれに応じる」(『黄帝内経』)。『易経』でも「坤」(即ち地)について解釈があり、直、方、正の説がある。即ち「方」は平坦、正直な品質を代表する。

古人は宇宙を「天」と呼び、大地を「地」と呼んだ。「天円地方」は、天地の状態を感悟するために用いられた。宇宙の日月星辰は常に運動しており、周而復始の円のようであり、大地は静止安定しており、方のようである。しかし古人の「天円地方」は単に形状だけではない。ある学者は「天円は天時が六十干支のように周而復始することを指す。地方の方は方位を表す東南西北の四方の観念に由来する。そのため、天円地方は中国古人の時空観念を体現し、宇宙の自然法則を描写している」と考えている。

物体の形状から見ると、円形の物体は不安定な要素を持つため、「動」に喩えることができ、方形の物体は静止と安定の要素を持つため、「静」に喩えることができる。これにより、「円方」は「動静」を代表することもできる。

陰陽の角度から言えば、動は陽、静は陰であるため、「円」は「陽」に喩えることができ、「方」は「陰」に喩えることができる。これにより、「方円」は「陰陽」を代表することもできる。

『太玄・玄摘』には西漢の揚雄の観点がある。「円則機杌、方為吝嗇」、「円」は天を指し、杌杌は不安を指す。「方」は地を指し、「吝嗇」、収斂を指す。その意味は、天円ならば動き、地方ならば静かで、且つ収斂するということである。

また、古人は「天円」を虚空とし、「地方」を実載とした。故に「天円地方」の理念は道家の「有無」と「虚実」の相生の理念とも合致する。

意拳でよく話題にされる「方円」も中国伝統文化の影響を受けており、その「方円」には多くの解釈がありうる。私は「間架」の視点からのみ、自身の見解を簡単に述べる。

「間架」において、「方」は巨視的には「方正」と理解でき、具体的に間架の状態では、「方」は「棱角」のある態勢と見なすことができる。站樁時に意念で球や樹を抱く訓練には、棱角の内容がある。例えば站樁時、肘関節で意念を外に向け、股関節で意念を外に向け、膝関節で意念を外に向けるなど、即ち腕および全身のすべての関節に、意念で支える棱角があるべきで、具体的には各指の骨節にも棱角があるべきである。これらの関節の棱角は「方」と理解できる。そしてこれらすべての関節に対応する内部空間は「円」と見なすことができる。この種の「方円」は「外方内円」と見なすことができる。

站樁時、我々は身体を「陰」面と「陽」面に分けることができる。身体の「陽」面上のどの点も力の「棱角」を持つことができるため、「棱角」は身体の関節部分だけに限定されない。これにより、身体のどの点も「方」になりうる。そして「方」に対応するどの点も「円」になりうる。「方」と「円」は同時に存在し、分けて論じることのできない一つの整体である。

また、我々が身体の「陰」面を用いて相手を攻撃する時、「陰」面も「方」になりうる。このように、「方」は「陽」面に限定されず、身体の「陰」と「陽」面の両方が「方」になりうる。

このように「方」の概念は拡大され、身体の中で技撃に関連する実際の内容を持つものはすべて「方」と見なすことができる。

また、勁力の角度から「方円」を考えることもできる。例えば「方」は「剛」勁、「円」は「柔」勁である。「剛」勁と「柔」勁は、対立しつつ統一されており、同時に存在することも、相互に転換することもできる。これにより、「方円」は「剛柔」の一つの状態でもある。

祖師王薌齋先生は力に方向があることに反対したが、力は棱角を持つことができる。棱角のある力は、回転しても震動しても、相手に傷害を与えることができる。木を切る丸鋸の鋸歯も一つ一つの「棱角」、一つ一つの「方」と見なすことができる。丸鋸が回転する時、木に触れれば即座に切断される。我々は丸鋸を「外方内円」の一種の状態と見なすことができる。丸鋸のこの状態は本人がよく話す「線で点を打つ」状態でもある。「線で点を打つ」の「線」は、一つ一つの「方」の点が形成する「線」であり、先端を出す砍磚頭(または撇磚頭と呼ばれる)のような線状運動の「線」ではない。これら二種の「線」は同じものではない。

前に述べた棱角の「方」勁は、上下、前後、左右の単方向力と同様に、技撃性を持ち、人を傷つけることができる。しかし、それらには明らかな違いがある。即ち一つは出尖せず、一つは出尖する。

「方円」についての論述で、祖師王薌齋先生には「神円力方」の説もある。その「力方」は依然として「剛」および棱角のある力と見なすことができ、技撃の角度から見れば攻撃能力を持つ力である。その「神円」は、円満、包容、包括、充満、遍在であり得る。「神」と「力」は、一つは精神であり、一つは精神の体現である。「神」がなければ「力」はなく、「力」は「神」の外化である。「神」は「力」を主宰し、「力」は「神」を実践する。「神」と「力」は一「円」一「方」で、分けることのできない一つの整体である。「神」は無限であり「力」は有限である。祖師王薌齋先生の言う「神円力方」は、無限をもって有限を成就するものである。

また、私はよく「方円」を運動の形式によって分類している。例えば鉤錬試力、扶按試力、開合試力などの勁力を、よく「方」勁を主とする試力と呼んでいる。摇轆轤試力、磨磨試力などの勁力を、よく「円」勁を主とする試力と呼んでいる。

本人が鉤錬試力、扶按試力などのような力に方向が生じやすい力を「方」勁を主とする試力と呼ぶのは、力に方向があること、勁力が出尖すること、および執着の角度から問題を考えることを避けるためである。

技撃時の「方円」の状態は、「外方内円」であることも、「外円内方」であることもある。「外方内円」は「剛」勁を先とし、「外円内方」は「柔」勁を先とする。それらの用途にはそれぞれ違いがある。一般的に、技撃時に「方」に遇えば「円」とし、「方」は内に隠れる(「方」に遇って「方」とするのは硬く押し合う方法で、芸術性に欠け、また牛の角突きになりやすい)。「円」に遇えば「方」とし、「円」は内に隠れる(「円」に遇って「円」とするのは「柔」をもって「柔」を制する方法で、利かない勁に欠け、また時間を無駄にしやすい)。もちろん、中国伝統文化の「絶対観」に従って問題を考えれば、さらに「方」即ち「円」、「円」即ち「方」、「方円」一体となりうる。即ち相手が「方」であれ「円」であれ、我々は「方円」一体である。主動的な発力であれ、受動的な接発力であれ、我々も「方円」一体である。「方円」一体は「方円」の最高境地である。

張樹新『問道意拳』華齢出版社より