【読書メモ】『宮台真司ダイアローグズ 1』(イプシロン出版企画 2006年) (original) (raw)

宮台真司ダイアローグズ 1

目次

斎藤学あわやのぶこ 子どもたちは自らを語る言葉を失った(『季刊 子ども学』1994年)

・80年代=自意識の混乱、不良/90年代=もっと透明、フラット化、記号的
・女の子=「現実をメディアのように読む」、あるいは「メディアを使って現実を読む」/男の子=メディアは「現実から逃避するため」 女子はメディアと現実を結びつける
・アモルフ=「不定形の」「決まった形を持たない」
・自由が無際限化し、規範が消え去った時代 それに対応できないので、なんとなくメディアのイメージに従う

山崎浩一秋元康 ’93世相座談会 逆襲された「メディアの神話」(『中央公論』1994年1月号)

バブル崩壊土地神話の崩壊
・『オールナイト・フジ』あたりから楽屋ネタが楽屋ネタでなくなった 本音と建前が解体し、建前がなくなった ネタがベタになる
・宮台「言説の55年体制」、右と左、弱者と強者理論
野島伸司ドラマなどの「非日常」もまたすぐに陳腐化し、日常になる 「差異の消費」
・経済の不況が精神の不況になる 貧すれば鈍す いろいろ起こっているけど、なぜこんなに退屈なんだろう?

田原総一朗 郊外のもつ無機的な均質感が、ブルセラや連続幼女殺人事件を生み出した 田原総一朗の「考えるヒント」(『VIEWS』1994年3月2日号)

・「郊外」の成立=規範的な世間の喪失。地縁が消え、人間関係が家族の中で閉ざされる。父性の規範が消える。
・ある種の感受性を備えた人間にとっては、郊外の均質性が持っている所在無さというものは、日本のどこにいても感じられるんです。つまり自分の居場所のなさを感じている。『郊外』というイメージで代表されるような場所は、これはある種、意図して作られたものだと思うんです。その意味で新興の大型団地を歩いていると、ここですごい凶悪な犯罪が起きたとしても、全然不思議じゃないなと直感的に感じます。
・田原『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年 ATG)
・大学1年の時、78年でしたか、突然啓示が訪れた。アングラなんておかしいと。それで全てやめた。一種の転向です。
・で、僕自身はそこからだんだん80年代的なもの、大衆消費カルチャー的なものに自分を適合させていった。要するにMZA(エムザ)有明的なものであったり、ベイエリア的なものであったり。で、また啓示があった。「あれ、これは俺の感じている都市とは違うぞ」と。
・アングラ時代が終わった後のフランス思想的、記号論的な都市の視点、あるいは時代解釈というのは言葉は悪いけど、田舎者が抱く都市幻想だっていう感じがした。そうじゃない、何かの失われたものを埋め合わせるかのように都市に色んなものが出てきはじめているんじゃないかと。それは都市伝説であったり、怪しげな宗教であったり、場合によってはテレクラを通じたコミュニケーションであったり……。

高橋敏夫、島田雅彦 廃墟の遊び(『早稲田文学』1994年5月号)

・新人類的なもの 前哨戦としては77年にはじまっていて、アングラ的なもの、サブカルチャー的なもの、狭義の意味でカウンター・カルチャー的なものが一挙に失墜して、湘南ブームが起る、あるいは「ポパイ」がマニュアル化する、「ギャルズライフ」が創刊される、といろんな変化が生じた。ぼく自身もそれまではアングラ映画青年だったのが、ある日、恥しくなってやめちゃったんです。
・島田=「最後の岩波・朝日文化人」
・差異がないから差異化を求める 基準点となる共同体(共同性)、規範が消えた 自分探し
・彼女たちには、ある種記憶がないだけなんですよ。記憶がない。たとえば80年代の終りに、「なんとかの終焉」ってはやりましたけど、終焉ってことがいえるのは終焉じゃない時代の記憶があって、それとの差異を体験したからいえるわけですよね。つまり、ニヒリズムではない。
・文化のサイクル、同じことの繰り返し、パロディに次ぐパロディ、歴史を知らない世代がネタをベタにしてしまう 居直り すべてが「やおい」になる(「ヤマもオチも意味もない」)

香山リカ オウム真理教と若者(上・下)ゆがんだ鏡 対談編(『朝日新聞(夕刊)』1995年6月7日、8日)

・1980年代のサブカルチャーには二つの終末観があった。一つは、「終わらない日常」という感覚で、主として女の子がコミットした女の子的終末観です。これからは輝かしき革命もおぞましきハルマゲドン(最終戦争)もやって来ない。延々とこの日常が続くなら、その中で戯れて生きるしかないのよ、といったイメージ。コミケットコミックマーケット)が盛り上がり、女の子がどんどん参加するという現象もあった。
・でも、「終わらない日常」というのはきついんですよ。さえないやつは永久にさえないし、もてないやつも永久にもてない。そのきつさがもう一つの終末観を生み出したんだと思う。それは、核戦争後の共同性という終末観です。大友克洋のマンガ「AKIRA」に描かれた、廃虚の中で若者の共同性が復活するというようなイメージ。いわば男の子的な終末観です。「AKIRA」にはオウム的な道具立てが全部ある。新興宗教も、超能力も、薬も、ハルマゲドンもそろっています。90年代に入ると、ブルセラショップやデートクラブか出現する。これは女の子的終末観の勝利宣言だと思います。かつて都市には光とやみがあり、性の売買はやみの世界に属したはずなのに、ブルセラショップやデートクラブが白昼堂々営業し、サラリーマンが仕事中に立ち寄り、学校帰りの女の子たちが制服姿で誘い合わせてやって来る。これぞまさしく「終わらない日常」の完成体であり、現実化ですよ。ところがその直後に地下鉄サリン事件が起こる。女の子的終末観が完成されて閉塞(へいそく)感が高まったときに、男の子的終末観の最後のあがきのようにしてサリンがばらまかれた。「サリンは顔の見えない犯罪だ」と言う人もいましたが、僕には、我々と同世代の顔が浮かんできますね。
・香山 私たちが20代のころは豊かな経済力に裏打ちされたサブカルチャーをただ享受していましたがバブルも崩壊し冷戦構造や国内の55年体制も終わり、下の年代にはそれも許されなくなってハルマゲドンや世紀末という巨大なファンタジーに行き着いたというわけですね。
・80年代初めのニューアカデミズムはすべては浮遊する記号であり等価だというビジョンを私たちに与えてくれました。大学の学問もアングラ芝居も並列なんだと、宗教学者中沢新一さんと麻原教祖が雑誌で対談しているのを見て「最先端の思想を論じる大学の先生と宗教の教祖が話すなんて」とわくわくしたものです。これからとてつもなく新しいことが始まるとさえ思いました。ところがその後の成り行きをみると風穴が開いたと思ったのは幻想でしかなかったらしい。「YMO」は解散するしサブカル雑誌「ビックリハウス」も廃刊。バブル崩壊でスポンサーもいなくなってしまった。たいていの人は、そこで軽い挫折感を味わいながらも、自分の持ち場に戻って大学の先生や精神科医になったりしたわけでしょう。でもオウムは彼らのことをずっと抱え続けていた。そしてその人たちが今ごろになって、突然、表舞台に出てきたわけです。
・倫理と道徳の違い 倫理=一神教的な神のまなざしの前に罪を意識する/道徳=共同体を前にして感じる罪や恥の意識 共同体が近代化に伴って壊れていって、神なき社会から道徳も失われた。
・「父」としての、天皇アメリカ→麻原
・現実とフィクションの区別がつかなくなり、フロンティアや未来の輝きを失った社会の中では、人は自分の方向感覚を失う。その中でも「ダヨネ」の女の子たちは「終わらない日常」を生きる知恵をもっていると思うんです。彼女たちは世界全体を見渡そうと思っていないし、ものごとを善か悪か裁断しようとしない。結論めいたことなんだけど、ものごとの白黒をはっきりさせなければいられないのは、病気だと思うんですよ。ある意味で一神教的な世界の作法でしょ。ぼくらのような一神教的な神のいない世界では、社会はそこそこ薄汚れているし人間もそこそこ薄汚れている。でも、それでも生きていけると思うことが重要なんです。
・僕たちの世代は輝かしさにあこがれた世代だから、輝かしくない自分にうんざりする。でも今の子たちには、一部の売春志向の子を含めて、教科書にのってないような自意識のあり方がある。それはそれで評価したいな。僕がブルセラ論議で言いたかったのもそういうこと。

倉田和夫、鈴木隆、戸川晃子、山田美保子 くちコミとうまく付き合う法 くちコミは、マスコミだ(『月刊アドバタイジング』1995年8月号)

宮崎駿 ボクにとっての高度成長、バブル、戦争……「コンビニだらけの"最低の風景"だって美しく描きたい」(『VIEWS』1995年9月号)

・宮崎 いったい、日本の政治家たちが自分の息子を自衛隊に入れていますか。自分の地盤の跡を継がせるのに必死じゃないですか。冗談じゃねえや、ですよ。
・宮崎 キーワードは「礼儀」。礼儀というのはちょっとこらえるということ。礼儀=「共生のための作法」
・いかに苦しいときこそ「正気」を保つか。

芹沢俊介 オウム後の世界を作るのは誰だ(『サンサーラ』1996年4月号)

・「こちら側は生きるに足るか?」→結論:生きるに足らない。
・「僕はまだハルマゲドンが起こることを信じている」
・新人類世代=ニヒリスト=ロマンチストの裏返し(ロマンを断念した記憶) 団塊ジュニア=総フラット化
・そこで僕はニーチェを思い出したんですよ。ニーチェは簡単にいえば、こういうことをいったわけです。哲学者というのは、毎日を楽しく生きられないような連中で、そういう自分の実存の問題を、いわば世界の問題と取り違える。自分と世界の溝を埋め合わせるために、真理の輝きとか正義や信仰の輝きを持ち出す。これが哲学者だ。哲学者というのは、実存の問題と世界の問題を取り違えているバカにすぎない、弱者にすぎないといった。実存の問題を世界の問題と取り違える奴とは、ロマン主義者の定義そのものです。しかし、そうじゃなくて、この新しい社会のシステムを生きるのに必要な知恵というのがある。それは、ロマンチシズムの成れの果てとしてのニヒリズムということではなく、ロマンチシズムの記憶もないしかつての輝きについての記憶もない、そういう人間たちが、ちょうどスケボーで滑るように都市の中を生きていくということがありうる。それを上の世代、輝きの記憶のある世代がニヒリズムと勘違いした。自分の実存の問題を投影して、彼らも傷つきやすいからこうなっているんだっていうふうにいっては、やっぱりいかんのです。彼らは成熟した近代にはじめから適応して生きているだけで、別に何の断念もない。>>浅田彰の逃走論とだいたい同じ<<
・「大人になれ派」と「子供のままでいいじゃん派」 「大人になれ派」=小林よしのりなど保守系論壇=実は相対性に耐えられない未熟な子供

室生忠 こちら側は生きるに値するか(単行本『対論オウム真理教考』1996年6月再録)

・宮台、村井秀夫、58年度生まれ。55年から高度経済成長、日本住宅公団の最初の団地が出来たのが56年。
・ぼくたちは55年に始まる高度成長と団地化のなかで生まれ育って、小さいときに炊飯器・掃除機・洗濯機・テレビ・自動車・ステレオ・クーラーと家電製品や大型耐久消費財がどんどん家庭内に入り込んでくるプロセスを経験していて、その延長線上で、男の子であればどんなに輝かしいSF的未来が待ち受けているんだろうと待望したし、女の子であればアメリカのファミリードラマふうのどんなに輝かしい郊外家族を営めるんだろうと夢いっぱいだったんですね。ところが現に80年代に入ると、待望していた輝きはどこにも見あたらないわけです。輝かしい世界、輝かしい私はどこにあるんだと、結局「輝き探し」を始めることになる。外にないなら、内側にあるんじゃないか。心の中に磨かれていないダイヤモンドがあるんじゃないかという形で、輝き探しが自己啓発的な「私探し」に結びついていく。そんなこんなで、80年代前半の自分自身の経験から、80年代の表側のきらびやかさと、表には出ていない同世代の煩悶という二重のリアリティに、当時たまたま気づくことになったわけです。
・80年代の2つの「終末観」 「終わりなき日常」『うる星やつら』『めぞん一刻』/「核戦争後の共同性」『風の谷のナウシカ』『北斗の拳』『AKIRA
・倫理と道徳 一神教/共同体 罪のカルチャー/恥のカルチャー(ルース・ベネディクト
・倫理の不在、道徳の失墜→新しい規範「常識」、その担い手はマスメディア
・マインドコントロール、「情報戦」は普通。教師、言論人。
・麻原の強烈なルサンチマン(怨念感情)。
・宮台の主張:「実存の問題」と「社会の問題」ないしは「世界の問題」を分けろ。
・室生:宮台さんが時代のなりゆき的な変化そのものを重視されるのに対して、私は戦後価値観の行き詰まりや「歪み」を重視する。つまり、宮台さんが現世のあり様を是非もないものとして容認されるニュアンスが強いのに対して、私はあってはならない要素が多すぎるとして否認するわけです。その違いは、新・新宗教(オウムを含めた)に走る若者たちの世界観の評価にもつながっていて、私が現代に対して「いたたまれなさ」を痛感する彼らに、むしろ真っ当な人間性を感じるのに対して、宮台さんは反対に、錯誤と脆弱性を感じておられる。
ルース・ベネディクトの日本分析。日本には「罪のカルチャー」はなく「恥のカルチャー」しかない。従って、恥の基準となる対象が変われば、コロコロと振る舞いが変わる。
・ニヒリストというのはロマンチストの変形です。代替可能な世界や代替可能な自分に耐えきれず、あるいは唯一性を求める自分と代替可能な世界との間の溝を埋めるために「真理の輝き」とか「正義の輝き」を求めるロマンチスト、つまりニーチェ的な弱者こそが、思い破れて「断念」してニヒリストになるからなんですね。本当は唯一性を希求しているクセに、斜に構えて「どうせ人生なんてさ」と言っているのがニヒリストです。こういう連中は、唯一の輝きを提示してくれるグルが現れると、まっ先にひれ伏すロマンチストなんですね。そうではなくて、相対主義者には「断念」はない。断念したという記憶もない。相対主義者が「この世界に生きる意味があるか」と問われれば、禅宗ではありませんが「空だ」と言うしかないでしょう。
・室生:さっきもいいましたが、私には、「ブルセラ世代」が心に負担や傷をもっていないとはどうしても思えない。やはり、眠っている部分では、輝きを求めている。しかし、その輝きを実現することの困難性、あるいは輝きを求めること自体の困難性を、前世代より素早く先見してしまっている。それはそのまま、時代の病が進行していることを意味しているわけですが、その結果、彼女たちは自己分裂から身を守るために、本能的に脱力を選ばざるをえない。私は、彼女たちもやはり時代に傷つけられていると、そういう印象をもっています。事実、新・新宗教に入っていく10代の若者の信者数は、決して少なくありません。
・「過渡的な近代」に刻印を押されたがゆえの「再帰的期待外れ」
・近代社会とは「輝く未来のためにいまを我慢せよ」というふうに人を動機づける社会です。いまは我慢しているけれど、我慢したあかつきには、何だか分からないけれど素晴らしい「輝き」が手に入るのだろうといったイメージに向けて、人々を疎外する社会なんです。「輝き」つまり、いまはまだ見ぬ本来性・本源性を追い求める「実感信仰者」たちは、しかし実感というものをどのように想像するのか。子供時代のお祭り騒ぎの興奮、少年期の熱き片思い、大人になって経験したドラッグによって研ぎ澄まされた感覚。そうしたものを、まだ見ぬ本来性の位置に、勝手に重ねているだけじゃないのか。近代社会では、人々はまだ見ぬ「本来性」に向けて押し出される。実感に向けて疎外されるがゆえに、実感から疎外されていると感じるという構造があります。これに比べると伝統社会は、行為や体験の選択肢が過少でしたから、別様の可能性について想像しにくく、したがって頻発する期待外れで離人症的なリアリティの過少に悩むこともない。つまり、実感に向けて疎外されることもなく、実感から疎外されることもなかったのです。
・「意味」を過大評価するな。
・かつての宗教=共同体の祈り 現代の宗教=個人の祈り
・言い換えれば、日常生活の素朴な期待外れを了解するためにバンバン宗教的ツールを使うようなやり方もあれば、科学的認識によって了解可能な部分には徹底して明晰な知識を適用して、最後の最後に追いつめられた端的なものについて――例えばなぜそんな公理や法則がありうるのかについて――ようやく宗教的了解を発動する、アインシュタイン的やり方もあります。要するに、宗教とは、ぼくたちの世界了解のシステムの一部に組み込まれた、了解上の機能を果たす装置なんですね。宗教は、ぼくたちがどんな世界了解のシステムを採用するのかということの相関項だということです。逆にいえば、ぼくたちの世界了解のやり方全体が偶発的であるように、宗教としての機能を果たす了解形式も、偶発的で選択的、つまりいかようにも選びうるわけです。この程度の相対的なものにすぎない宗教に取り込まれるなんぞは馬鹿げている。と、そのように考える明晰な世界了解にも、しかし「端的なもの」が確実に出現することになるというのがシステム理論の結論です。そのような徹底的に追い詰めた場所で、なにがしかの宗教的機能――端的なものを無害化する機能――を果たす了解装置をようやく作動させる。
・「終わりなき日常を生きろ」という言葉が必要なのは、"まったり"生きられるブルセラ女子高生ではありません。記憶なき人々、自意識なくやっていける人々、逆説を適当にやりすごしながら限りなく続く余生を送れる人々には、そういう言葉はまったく必要ない。この言葉は、むしろ「終わりなき日常」を"まったり"と生きられない人間に、"まったり"と生きられないぼくが言っている。「生きられない」人間に「生きろ」と、「生きられない」人間が言っているわけだから、明らかに逆説です。逆説は、「何でもあり」とは違う。
・明晰であろうとすればするほど、このような「世界の混濁」が露わになってきます。そうした世界では、"まったり"、生きてもらうか、他人を巻き込むのであれば、明晰さを徹底して「世界の混濁」に直面してもらう以外にはありません。それが"まったり"と生きられない人々に与えられる「終わりなき日常を生きろ」というメッセージの中身です。

村上龍 女子高生は世代を超え女の人のある種の感受性を刺激した Ryu's倶楽部(『サンデー毎日』1996年11月24日号)

・雑誌『流行観測アクロス』調査 女子高生の7%が援助交際(田舎を含めて)
・村上:考えてみると、おいしい物を食べたり、外国に行ったり、そういうことは大人になってからでもできるんですよね。彼女たちは、今しかできないことを無自覚で探している、とぼくは思った。
・大人を軽蔑している

藤井良樹福島瑞穂香山リカ 「女子高生」という記号(『創』1996年12月号)

・渋谷イメクラ「スーパールーズ」摘発。30人中28人が女子高生。店長22歳、スカウト23歳の女の子。
ダンス甲子園「いまきた加藤」23歳、男子高校生のホモAVのスカウトで逮捕
・「援助交際」伝言ダイヤルルーツとデートクラブルーツ→現在は大半が路上
・福島:女子高生ばかり評論されて、男子高生、買春男の分析がない。
・男性、社会への復讐としての援助交際
・ある種の自己防衛としての距離化、離人症
アイデンティティーというと、西洋では一貫性を目指す。ところが、日本では自分が居場所を持っているかどうかという意味で使われてきているのです。ところが、ピークという子たちは、所属拒否なんです、所属を拒否して家からも離脱して街をふらふらしている。演技=ロールプレイングしているといっても、たまねぎの皮みたいに芯はない。そういう意味でふわふわな状態なのです。このふわふわの状態というのはさっきの言葉でいうと世界を拒絶している状態です。今がピークだというのは、いずれどこかに、それは会社であり、男かもしれないし、家族への所属かもしれないけれど所属してしまうかもしれな い。それは仕方がないにしても、15歳とか16歳の感受性からするとそれは嫌なことで拒絶したい事なのです。今の社会のありかたを前提にして、こんな社会になじんでしまいたくないという。つまり今がピークというのは、かわいいとか、元気とかいうのではなく所属拒否であり、世界拒否のメッセージだとはっきりと感じます。それに比べると、逆に男の子というのはひどく脆弱で、街に出てきても、居場所を探し、所属先を探しているのですね(笑)。
・テレクラ規制→淫行条例

上野千鶴子 援助交際は売春か?(単行本『買売春解体新書』1999年7月 対談は97年)

大塚英志 少女=「使用禁止の身体の持ち主」。戦後47年文部省「純潔教育の通達」以降の女子高生幻想。
林真理子 生産財男/消費財生産財男=学歴、一流企業、高収入、退屈 女にとって結婚が就職 生産財男をキープしておいて、消費財男と遊ぶ
売春防止法にも「わいせつ三法」にも「公序良俗」という言葉が入っている。社会の理想の秩序を乱すからいけない=娘や妻が男の所有物であるような、家父長制的規範
河合隼雄援助交際は魂に悪い」宮台「援助交際は魂にいい」 売春で自尊心が傷つく人もいれば、売春で魂が回復する人もいる 自分の自尊心は何によって変動するか、自分の価値観を知ること
・クオリティの高いセックス、よいセックスをすること
・自己肯定感 承認欲求 絶えず承認欲求を気にしているやつはいけてない 絶えず他人の視線を気にして

金盛浦子 どう対処しますか援助交際(『朝日新聞』(朝刊)1997年1月25日)

・司会 援助交際に向かわせるのは何ですか。
宮台 ふつうに聞けば「お金」と答えるに決まってるんですね。でも、背景はいろいろある。大きいのは家、学校、地域が均一な空間になってしまったことがある。学校で勉強のできない子は、家でも成績のことを言われ、近所の評判も、どこの学校に受かったかになっている。
金盛 勉強が唯一の基準になってしまっているから。
宮台 偏差値で輪切りにされた家、学校、地域では自尊感情が満たされない子は、自分はただの劣等生や優等生ではないと、街に出て変身しようとする。街ではシャネルなど仲間と同じ衣装がいるし、カラオケボックス代やクラブ代がかかる。その居場所代稼ぎでする子や、絶えず買い物をしていないと心のすきまが埋まらなくてする子。また、厳しすきる家や学校なとへのあてつけで、援助交際は悪いと自覚しているからこそ、わざとする子もいる。こうみると、物欲主義の援助交際はどれだけあるのか疑問です。

飯沢耕太郎、唐澤俊一 少女幻想批判序説 少女・13歳(『早稲田文学』1997年7月号)

・63、4年 東京オリンピックくらい『少女ブック』『少女クラブ』→『マーガレット』『フレンド』 ちゃぶ台がテーブルに、割烹着がエプロンに、襖、畳が扉、床に、「美しい」から「かわいい」に
・男は現実逃避、女の子のほうがまだ現実にかかわる プリクラ 化粧
・現実感が希薄 バーチャルと現実が曖昧に
・男の現実とのチューニング力の低さ→虛構にすがる→悪い例が「新しい歴史教科書をつくる会

島田雅彦 今、少年たちに必要なのは「変態教育」だ(『週刊アスキー』1997年8月4日号)

・14歳 中学生という中途半端な期間
ニュータウン 除菌、無害化を徹底した結果、自己免疫疾患に

鈴木隆之 現代流行談義 消費される自己 流行の文化超研究(『木野評論』1998年3月15日号)

・「日本はどうなるんでしょうか」とか「最近の若い奴のニヒリズムを見ていると将来の日本を担う力があるのかどうか不安です」とか。ところがこれがおもしろくて、「24歳・板前」とか「26歳・無職」とかそういう人たちが、この手の悩みを持っているんです。僕のイベントに来る人とか、小林よしのりさんの「ゴーマニズム」の読者のかなりの部分がこういう層だと考えられますね。この人たちは、等身大の領域で悩みうるような濃密な関係性を持っていないと思うんです。無職の「天下国家系」。
・必ずプライベートを入れて書く。
・「マル金マルビ」「根アカ・根クラ」
清野栄一『レイヴ・トラヴェラー: 踊る旅人』(1997年)

岡田斗司夫 岡田斗司夫世紀末・対談 僕らがバトンを受け取る日(単行本『マジメな話』1998年4月)

・宮台のADHD話。
黒沢清『CURE』。酒鬼薔薇事件=自明性の崩壊。
・僕が言いたいことはただひとつなんです。かつては、自己一貫性にこだわることを支えていたような、自明性の地平というのがあった。でもそれは壊れているんですよね。そのときに自己一貫性にこだわろうとする人間は、逆に自分が壊れないと、あるいは異常者にならないと、意味の一貫性を保てなくなったりするわけです。つまり自明の地平があったときには、自己一貫性を保とうとすることは、普通に生きることとそう大差はなかった。でもその地平が壊れてきていて、なおかつ自己一貫性を保とうとすると、これがつまり役所広司演じる刑事なわけですが、そうするとストレスが昂じてむしろ壊れていくんですね。そして、向こう側と言いますか、「人知の及ばぬ犯罪者」のほうへ限りなく近づいていくわけです。僕は、今の社会で一貫性というものにこだわるのは、単に不適応を起こすとか生きにくいというだけではなくて、もっとこわいことを意味するのではないかという気がするんです。
・「サッカー・ダンス・セックス」。フランス語で「アール・ド・ヴィヴル」、人生術という言葉があるんですが、たとえば人生術というのは、ヨーロッパのパーティ・カルチャーを指しているわけですね。これを抽象的に言うと「日常の演劇化」「現実の虚構化」なんですよ。日常というのはつまらないんだ、人はわかり合えないんだという、共通了解があるわけです。普通にしていたら人生はつまらないし、世界は砂をかむような味気なさで満ち溢れている。だから、パーティを開いて得意な料理をふるまう。ワインの好きな人はワインを持ち寄って、うんちくをかたむける。「何をくだらない、意味のないことをやっているんだ」とは、言い合わないんですよ。初めから意味がないんです、はっきり言えば、もう。意味のない現実を生きているんですよ。だけど、そうやって現実をちょっと演劇的に加工することで、俺たちはようやく生きていけるんだよね、といったような優しい共了解があるわけなんですね。一方、日本とか韓国のような新興国は、まだ「意味の病」に取りつかれていて、「だから何になるんだよ」というようなことを言ってしまうじゃないですか。……『関口宏サンデーモーニング』に出たときに「それは享楽、退廃じゃないでしょうか」と関口さんに言われましたけれども(笑)、それは全然違う。むしろ国際常識なんです。
・たとえば失恋の例はわかりやすいんですが、今ですと「自分がこうだったから恋を失ってしまった」と思い、失ってしまった人を取り戻そうとして取り戻せなくていつまでも悩むわけですが、そうではなくて、昔つき合っていた人の楽しい思い出はあると。私自身は「過去は現在する」という言い方をしますが、過去は思い出として、ここに現在するわけですね。思い出はいつでも思い出せる。だから死んだ人もいつでも思い出して、思い出せばそこにいる。こういう感じ方ですね。
・だから僕は、今は何か新しいことが起こっているというよりも、過渡的近代、異常な時代が終わりを遂げて、元の姿というか、本来あるべき生き方を、しかしそれを非常に巨大で目に見えにくいインフラストラクチャーで支えながら、回復しつつあるんだ、という時代認識なんですよね。
・『新世紀のリアル』でも話しましたが、年齢が上であればあるほどハード・ドラッグをやってもOKというシステムにしていくべきだということなんです。成熟社会、つまり固い地面のない流動社会では、年長者ほどきついんですよ。かつての思い出を、現実のものとして生きていくことができないんですね。これは弱者救済ってことなんですけども、僕は本気で主張しています。若いやつはクスリやっちゃだめ。20代になったら、あるいはハイティーンになったらマリファナぐらいはいいだろう、というところから始めて、セロトニン系のドラッグを許容していき、僕ぐらいの年齢になったら、覚醒剤は副作用がありますから、覚醒剤と同等の機能のある副作用の少ないドーパミンロック系のクスリもOK。さらに50代以上になったらヘロイン、アヘン系もOK(笑)っていうふうにやっていいと思いますね。

藤原新也 コミュニケーションが崩壊した時代に……(『SAPIO』1998年4月22日号)

・『東京漂流』(1983年)

藤井誠二 宮台真司に聞く現代教師論 子どもに無用の「心の教育」実は教師のため(『子ども論』1998年5月号)

矢内裕幸 (記事)問い直せ、「自明なものは自明ではない前提によって支えられている」という言論、さえも(『蛍雪時代』1998年6月号)

飯田譲治、上滝徹也 メディアに"ナイフ"殺人の責任はない 特集テレビは殺人を教唆したか?(『GALAC[ぎゃらく]』1998年6月号)

・1997年フジテレビ系「水曜劇場」『ギフト』キムタク主演。バタフライナイフ。

斎藤学 サブカルチャーから見た薬物乱用の急増(『アディクションと家族』1998年6月)

・ええ、(祭りは)死ぬんですよ。無意味で、わけがわからないことやってるんですが、それによって身体性の水準でガスが抜ける。澱がたまったものを掃除できる。そういうことがおそらくあるんでしょうね。そういうガス抜きのメカニズムが、昔は"時間"だったんですよね。1年あるいは何年に1度という形だったのが、近代社会は時間の断続をするとシステムの運行に支障が出るので、空間化するわけです。盛り場と盛り場じゃない場所、ハレの場所とケの場所って分けて、いやになったらハレの場所に行ってまた戻ってくればいい。
・逆に、自然がいっぱいあって、昔からある共同体が残っていそうに見える田舎のほうが、問題をためやすいんですよね。ごく少数の例外を除いては、無礼講的なお祭りをやるところはなくなってきちゃいましたし、かつてのお祭りが空間化することにも失敗してますし。そういうふうに考えると、昔の社会がもっていた、先生がおっしゃるバランサーとかアブソーバーみたいなものをどうやって育てるか、既にあるものを育てる形で残すのかが問題ですね。

斎藤陽子 いまの援助交際は二重市場、"安全なコ"は1回10万円も……斎藤陽子の今夜はサイト〜胸キュンワクワク対談(『週刊宝石』1998年6月4日号)

・そういう人にとって制服って、ある種二重性の象徴なんです。清純なものだから。性的であってはいけないというイメージと、その中身は性的だという二重性。これに、ものすごく興奮するみたいですね。
・東京都売春処罰規定
・これから地域も、社会も、家庭もさらに多様化していかざるをえないからです。そこで、何かに所属して承認を得るという従来の生き方ではなく、自分で社会に乗り出して、他人とのコミュニケーションのなかで試行錯誤しながら自尊心を積み重ねていくという尊厳の持ち方を学んでもらうには、万人を相手にする公教育のプログラムの改革が必要

田中康夫 論壇・AC系・神戸空港(『週刊読書人』1998年6月5日号)

・論壇悪口三昧
・宮台 ブランドでブランドを相対化することを出発点にした田中さんって、その後の17年間を見ると、結局ブランド化できない「強度」を追求してる感じがしますね。
田中 アハハ、最大の誉め言葉だ。でも、俺は変わってないんだけどね。消費社会の申し子だと俺を無視してた連中がみんな右へと動いて行って、気が付いたらステージが暗転して俺は一番左端(笑)。
宮台 80年代の前半は、消費文化の表層性を徹底肯定することで価値転換を試みられたじゃないですか。でも本当の関心は消費にはなかったということですね、端的に言えば。僕は社会学をやってますが、田中さんの方法と僕のやり方はすごく近い感じがします。徹底しすぎるほどの価値相対化によって、最終的に相対化できないものに接近する。
・本質がないバニティ(Vanity、虚栄)/本質があったうえでのディグニティ(Dignity、品位)
・一つは外に存在する輝かしいものと一体化して得られる尊厳。もう一つは自由な試行錯誤の積み重ねで得られる尊厳。外在する尊厳はいつか風化しますが、内在する尊厳は試行錯誤するほど強化される自信です。要は精神的ブランドも物質的ブランドも同じで、自信のない脆弱な連中が、外在する形にこだわるだけじゃないかと。本当にそう思う。邪魔をしてる奴は、親であれ教師であれやっぱりブランド主義者で、人が既に認めてくれた枠組を手放したくない。自分に自信がないんですね。
・たとえば日本って「共同利害」と「共同性」を勘違いするバカばかり。日本だと若い連中が組合運動がウザくて、組合組織率が1割台。でもイギリスやフランスの組織率って6~7割あるわけ。共同性って「全生活時間・全生活空間の共有による共通の体験地平」のことですが、共同性を徹底的に拒絶する個人主義者が、共同利害で連帯できるからですね。田中さんの運動が日本で新しいのは、共同性と無関係に、共同利害による連帯を組織していること。ウエットではなくドライな連帯。
・日本人=欧米的な個人主義者じゃない、同調圧力に負けやすい共同体的存在であるところは、永久に変わらない。でも共同性の範囲はますます小さく流動的になる。→アノミーポピュリズム全体主義
・AC(アダルトチルドレン)=一度も承認されたことがないと思って、自分が承認される居場所を永久に探す人たち。=承認の藁にも縋りたい弱者。
・宮台 枠を越えるだけの初速を与えるのが僕の仕事。そこから先は自己責任で試行錯誤して、いい不倫をして下さいと(笑)。

広末涼子 「宮台さんの言うとおり、"売り"をやる子の気持ち、私も少しはわかります」(『週刊プレイボーイ』1998年10月20日号)

・宮台『世紀末の作法』(1997)

宮崎哲弥 対談"必要"なき時代に「結婚」はどこへいく?(『SPA!』1998年11月11日号)

少子化は本当に悪いことなのか?
・70年代「ニューファミリー」
・人間関係の「直接性」を利用するのが、カルトや自己啓発セミナーの手法です。長時間一緒に閉じ込め膝突き合わせての対話を強い、または指圧や整体のような直接の身体刺戟を使って洗脳する。しかも、いろんなエクササイズを男女でカップリングしてやらせると効果的なのだそうです。

東浩紀 考えなくって、大丈夫!?(『リトルモア』7号 1999年)

・『存在論的、郵便的』(1998年)東27歳
浅田彰が撒き散らしたものを掃除する
・東 考えること自体の快楽
・90年代に入ってからの男の子のマンガでは、戦うことの動機づけが極端に低下しましたよね。どれも理由なく戦っているように見える。つまり、今や読者が、理解可能な動機づけとか物語に納得しなくなったんですね。理解できる形で書かれてしまうと、途端に…。ふざけるな、と。

宮崎哲弥 論壇からみた『噂の真相』のジャーナリズムにおける"位相"(『噂の真相の真相②』1999年4月1日号)

・70年代諧謔文化 『面白半分』『ビックリハウス』『ミュージックマガジン』『突然変異』『SF奇想天外』『ニューセルフ』『ウィークエンドスーパー』
成宮観音 新海誠の嫁
・人畜無害な娯楽/人畜有害な娯楽 さらに「社会に敵対すること」/「人に不快感をもよおさせること」を享受する脱社会的なもの
・反社会か脱社会か
・そう。インターネットとか匿名メディアってのはそういうもので、だからこそ重要なんです。第一に、社会から降りたい連中が、反社会性なんて享受できるはずがない。降りたい連中の溜まり場があるのは、一定ゾーニングされてりゃ悪くないよ。第二に、ダメ連じゃないけど、人に不快感をもよおさせることの中には、今まで思いもよらなかった得体の知れないものが含まれていて、その一部は次代の社会システムを先取りするものかもしれない。反社会性という枠の中からは調達できない試行錯誤や乱数発生装置としての機能を、脱社会的娯楽には期待可能なわけです。第三は、瓢箪からコマというか、東浩紀デリダ的に言えば「郵便の誤配」。誤配された郵便でも誤配と気づかずに全てがうまく回る可能性がある。逆に言えば僕らの社会ってうまく回っているようで、実は得体の知れないものに支えられている部分が多いわけ。そういうのを暴く力は、反社会的な連中よりも、むしろ脱社会的な連中にこそ期待できるでしょ。
・公共の福祉 人権外在説/人権内在説 人権外在説=諸個人の利益の外側に公共の利益という実体がある 人権内在説=他人の権利を侵害しなければ何をしてもOK、侵害回避・共生確保のルールだけが公共性だと考える
・むしろゲロサイトを含めて下の方が面白いし、現にエンタテイメントとして機能してます。下のほうが現実。社会で生きるのがキビシイ連中を取り込める間口の広さを持つからで、実際『文藝春秋』よりも『噂眞』のほうが間口が広い分、面白いんです。問題があるとすれば、上も下も、社会を告発するように見えて単なるガス抜きで終わるケースが多いこと。ガス抜きはシステムの補完物、というか既存システムの部品そのもの。週に一度自己改造セミナーに通ってお風呂に入るみたくリフレッシュして、さあまた今週も仕事頑張るぞみたいな(笑)。メディアの意図と読者の受け取り方がズレてきている。演劇的にいうと、観客席のような安全な居場所を壊すような機能が必要かもしれません。
・システムに外部はあるか?
キング・クリムゾンのファーストとサードの比較 「体制」対「反体制」という図式が通用しなくなった。自らがレッド・ゾーンになること。
・反警察ジャーナリスト寺澤有のやり方 安全地帯なき無根拠な命がけぶりと、現実行動の実効性の双方
・宮台 それこそがスキャンダリズムの本質です。単にシステム補完的かっていうと、そうじゃない。この世の中はグチャグチャになったと見えるけど、警察に代表されるようなとんでもない利権システムは正義面しながら堅固にのさばってるわけで、批判すべき対象は無限にあります。警察のようないわゆる権力ばかりか、学者や芸能人だっていい。彼らのような一定の社会イメージやコミュニケーションの流れを作り出す連中は、いつでも暴露や梯子外しの対象になっていい。そのことで別様な社会イメージの可能性が開かれるからです。これはどんな理想社会が実現したって継続しうる姿勢だよ。それは単なるゲロ系ジャーナリズムと違って、キツい連中にガス抜きを提供すると同時に、終わりなき日常の中で見えなくなってしまいがちな社会的選択肢を、更新・創造する力を持つものです。
宮崎 同感です。安定、凝固しようとするシステムに常に、不意に揺さぶりをかけて、社会全体が閉じてしまわないようにすること。私達も安易に体制化すると容赦なく揺さぶられる。永久革命路線ですね。『噂の真相』よ、終わりなき革命を生きろ!ってことかな、結論は(笑)。

ロバート・フリップ 知性派英国音楽の快感(『週刊ビックコミックスピリッツ』1999年4月5日号)

・「混乱こそ我が墓標」
・宮台 あなたには「ミュージシャンはエネルギーを受信するラジオのようなものだ」という発言がありますが、そのエネルギーは、何処からやってくるのでしょうか?
ロバート ……世界ができる前、この世には何があったんでしょう?この世界は何処にあったんでしょうね?良い音楽の中には、その答えがあるはずです。

島田雅彦 プリミティブな思考から(『國文学』1999年7月号)

・誰かが機能を果たせばいい。たまたま僕にお鉢が回ってきたので仕方なくやってただけの話で、僕としての僕には結局は関係がないわけです。もちろんひとつの機能的な存在に徹するほど世直しに成功したりする。しかし僕自身がそういう状態にいることに飽きたんです。ただ昔は違ったんですよ。「世直しモード」とは機能的な存在になることですから、自分を消すことができる。「自分消し」という意味で楽になると思って、むしろ積極的にコミットしている部分さえあった。それが長く続きすぎて、重荷になってきたというか……。ほら、僕は93年にブルセラ助教授としてデビューしたでしょう。
・デビューしたての人はみんな新人ですし、後から来た人ですから、目立つべきだし、挑戦的に煽情的にやるべきだと思う。ただ、私もそういう作業というのは、ある時期から疲れてきたということもあるし、さっきおっしゃったように、ほかの人がやるんだから僕はやることはない。
★宮台 僕も聖書をよく読むんですよ。それから最近カトリック教会東京教区というところで2回ほど講演をしたり、一昨日は築地本願寺真宗本願寺派の人たちを相手にお話をするということもあったんです。面白いことに、宗教やってる連中の多くは、ちょうど島田さんのおっしゃったのとは反対向きなんです。現実がいったいどうなっているのかまったくわからない、若い人をうまくリクルーティングできないと嘆いている。よく言われることですけど、オウム事件以降、実は神秘主義的な志向が急速に低下して、UFO信じる人間の割合も、超能力信じる人間の割合も、神がいると信じる人間の割合も激減してしまいました。その結果、本来だったら新々宗教に行くはずだった連中が、宗教ではないどこかに吸収されているはずなのだけど、どこに行ったのかわからないと、非常に困惑しているんですよ。その人間たちを、できたら新々宗教ではなくて、新宗教ないし旧宗教である自分たちの側のほうに引き戻したいと思っているんだが、手立てを教えてほしいって……。
・ひとつは、アニメーションが非常に大きな役割を果たしているのは間違いない。…例えば『エヴァンゲリオン』にしても『少女革命ウテナ』にしても、人気アニメの多くが明らかに神学的な、あるいは宗教的な構造を持っていることに異論を唱える人はいないでしょう。宗教をやっている連中が、これから若い連中を取り込もうとして戦う相手は、たぶんアニメーションだったりするのでしょう。その意味では、神秘主義的なものや、神を信じる信じないというレベルでは宗教的なものは退潮したように見えるけれども、ある種の聖なるものへの希求がありえます。単なる非日常というよりも、他のものによって条件づけられない究極のものや端的なもの、すなわち、なぜここに自分がいるのか、世界はあるのかということまで一挙に理解可能にする、世界の内であってなおかつ外であるようなある種の特異点に対する希求のようなものがあります。島田さんも聖書を読まれたからよくおわかりかもしれないけれども……。
ロヨラ『霊操』イエズス会の瞑想マニュアル=世阿弥花伝書
・1993年『完全自殺マニュアル』、1998年「ドクター・キリコの診察室」草壁竜次
小室直樹 長い本を書く前は1週間断食 薬物と同様の効果
ミック・ジャガー「薬物体験も飽きる」
寺山修司のハプニング演劇
・今、青森の街頭演劇の話をされたでしょう。本当に陳腐だと思う。つまり寺山が26、7年前にやったことをただまねしてやってるだけでしょう。これは過去の反復じゃない。単なる模倣とは区別される過去の反復なるものがあるとすれば、寺山が今生きていたら何をやるかを徹底して考え、それを現前させることでしょう。寺山修司が今この時代に「白塗りと輝」をやるでしょうか(笑)。今は、携帯情報ツール、携帯電話やPHSが大流行ですけど、寺山が生きていればたぶんこういうものを使ってやるはずだし、あるいはインターネットなども使うはずです。

鈴木隆之 (上)不戦の根拠は何か(下)コソボから極東へ(『朝日新聞』1999年8月10日、11日号)

・日本は戦後、天皇制的メカニズムを否定したようなしないような妙な感じになった結果、代替的メカニズムを立ち上げることに失敗した。だから共同性を超える正しさという観念を持てず、いまだに公=共同性だとする思想史的非常識が横行する。学生を見ると、成熟社会化で共同性が縮小するにつれ、所属を失って自分のことで精いっぱい。彼らが私的利害を超える正しさに動機づけられにくいのは確かでも、そこで公を持ち出す場合、それが共同性を意味するのか、異者と共生するルールを意味するのかで、話は大違い。脆弱な自意識を再度所属で補完するのか、試行錯誤で鍛えるのかの違いです。

宮崎学 盗聴法、これからガタガタにしてやるでぇ!情念のロビイスト(『リトルモア』10号 1999年)

山本直樹 「妄想力」を欠く性(『論座』1999年12月号)

・投稿写真という世界
・やはり一番衝撃的で、その後もずっと好きなのは『ブルー』以降の作品ですね。それと、これは以前自分の本で言及しましたが、『ありがとう』『世界最後の日々』『学校』『フラグメンツ』にがーっとはまりました。なぜ僕が『ブルー』にはまったのかというと、『ブルー』って、屋上が何度も何度も描かれるじゃないですか。僕、実は屋上フェチなんですよ。ずっと団地住まいで、全国を点々としてたせいがあるんですけど、屋上だけが、真にくつろげる居場所だった時期があるんです。
・僕は中学、高校のときにアマチュア無線やってたんですけど、モービル無線っていうのがあって、それを持って屋上に行きました。「屋上論」っていうエッセーを以前書いたことがあるんですよ。なぜ屋上が心地いいのか。まず一つは、学校、それにニュータウン のような人工的な町は、どこも機能があらかじめ決まってるじゃないですか。教室は学ぶ場所、廊下は歩く場所、校庭はスポーツする場所とか。でもその中で屋上だけが、まったく機能的に空白の場所なんですね。だからそこへ行くと、人は何者でもない自分になれる。自分じゃなくなれるともいえるし、自分に戻れるともいえる。それと、屋上から広がる風景は、全世界を所有できるような気分にさせるけど、でも、どこへも行けないじゃないですか。「どこへも行けそうで、どこへも行けない」というか、「どこへも行けないけど、どこへも行けそう」に思える、両義的な場所なんですね。ところで、僕はピンク映画も大好きなんです。その中でも若松孝二さんの作品がすごく好きなんですが、若松作品には、こういう「どこへも行けない」っていう感覚がすごく強くあって、だからテロルなんだ、だから拳銃なんだ、だから新左翼なんだっていう、そういう感受性なんですよ。
・当時、「どこへも行けそうだけど、どこへも行けない」っていうのは、旧左翼つまり民青的なものや共産党的なものに対する、アンチテーゼでもあったんですよ。結局、民主主義のなかでいろいろやって、どこかに行けるんじゃないかっていう「赤旗まつり」的な思考に対して、絶対どこへも行けやしないんだ、だから、テロルなんだと。だから若松作品には、一発逆転というか、一点突破全面展開というロマンが、まだどこかにあるんです。それが暴力だったり、性だったりする。ピンク映画を始めとした日本のエロス表現には、性を通じてどこかに行けるんじゃないかとか、自分を消せるんじゃないかとか、死の世界に通じるんじゃないかとか、そういうロマンがあるんですが、若松作品はそういう楽天性を表面的には否定しつつも、一発逆転的にやっぱりどこかに行けるかもしれないっていう望みを残してたんです。ところが、山本直樹さんの作品は、それがない。共通性がありながらも、結局どこへも行けないというモチーフを徹底する。そこに僕はひかれてるんだと思う。それを象徴する言葉が、山本作品にあったんです。「夢を見たよ、夢を」って言って、「えっ、どんな夢」と聞くと、「ここよりも素晴らしい世界があるという悪夢」という台詞なんですが。
バブル崩壊後「どこへも行けない」閉塞感。

速水由紀子 これが総括だ!キーワード"マトリックス化現象"で読む99年という時代(『ことし読む本いち押しガイド2000』1999年12月)

・『マトリックス』(1999年) 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995) 『ブレードランナー』(1982) 『未来世紀ブラジル』(1985)
ボードリヤールシミュラークルとシミュレーション』(1981)『透きとおった悪』(1990) シミュレーション仮説
・ある時期から、快楽や恐怖の大半が、メディアを通じて得られるようになった。
・土俗、再中世化、サイバーパンク化、分の足で立つ人
ボードリヤールは真実、嘘という区別はもうない、すべてはシミュラークル(模造品)だと言いました。ただわれわれがシミュラークルの反復にさらされ続けるという退屈に、いつまで耐えられるのかということには疑問があるというふうに言ったわけです。いつかカタストロフが訪れるんじゃないかと。
8/20読了。

◆要約:宮台真司94年~99年の間の対談、鼎談、座談会の記録。主なテーマはブルセラ援助交際、オウム、酒鬼薔薇事件、インターネット。
キーワードはポストモダン=終わりなき相対化、終わりなき日常、「サッカー・ダンス・セックス」、閉塞感、退屈、つまらなさ。
◆感想:なかなか面白かった。90年代という時代が見えてくる。
宮台真司の理論がよくわかった。オウム世代=新人類世代=輝かしい未来を期待していた世代=大きな期待外れから何かすがるものを希求する。
コギャル・援交世代=社会に対しての期待値がそもそも低いので、まったり、楽しく生きていく。
冷戦終結バブル崩壊で完全に大きな物語が消えた。そのことに耐えろ。安易な絶対性により掛かるな。という感じ。

新々宗教に詳しいジャーナリストの室生忠との対談が白眉。意見が対立しスリリング。
室生の考えは、ブルセラ・援交世代は宮台が言うようなまったり、軽やかに生きているのではなく心に傷を持っている。オウム信者たちもたしかに心が弱いが、戦後価値観の行き詰まりや「歪み」を敏感に感じてた人達で、つまりこの社会は拝金主義が行き過ぎていたりおかしいのだからそれを正すべきという主張。
宮台はそれも重々解ったうえで、もうこのポストモダンの世の中には意味なんてないんだから、それを受け入れた上で欧州の「サッカー・ダンス・セックス」を見習って生きるべきと説く。
宮台の「終わりなき日常を生きろ」という意味がわかった。

そして、宮台さんの人生、年表を考えるうえでも興味深かった。
宮台さんは子どもの頃からASDADHDで躁鬱。そして99年に大きな鬱に沈み、沖縄やタイ(?)のビーチで回復し00年の『サイファ』に至るらしい。

自分は「終わりなき日常」を生きられない側。そしてルサンチマンも強いし孤独感も強い。
でもこの本を読んで、安易な救いによりかかることはやめようと思った。