「臨済宗大本山円覚寺」 (original) (raw)
円覚寺。
大河も終わったし、春節前なら比較的空いているのでは、そんな目論見で鎌倉の寺社を訪れた。
円覚寺へは駅から徒歩2~3分の静かな鎌倉の町に総門を構えています。
南は相模湾に面し、三方を山に囲まれた鎌倉は、その山々いくつもの谷筋があり、「谷戸」と呼ばれ、こうした谷に人々は生活を営んでいました、そうした立地が防衛的に有利とされ、頼朝はここに鎌倉幕府を置いたされます。
総門。
左右に「臨済宗大本山円覚寺」の寺標と「北条時宗公御廟所」の石標が建ち、石段の先に総門が聳えています。
総門から境内の眺め。
総門をくぐった境内は、左が拝観受付、右が駐車場になっており、正面には再び石段が現れ、目の前の山門に続く。
鎮座地は六国見山南西の麓に位置し、山名から分かるように六つの國(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)を見渡せるという。
境内はこの総門、山門、弁天堂などへは石段を昇る必要がありますが、主な伽藍の山門から方丈にかけては比較的平坦な参道が続いています。
総門に掲げられる山号額は「瑞鹿山」
瑞鹿山の由来は仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まってきたという逸話からつけられたといわれます。
石段から見上げる山門。
こうして見る山門は天明5年(1785)に再建されたもの。
門は桁行(棟側)三間(柱間)、梁行(妻側)二間の入母屋二層で、柱だけの吹き抜け。
楼上は非公開の十一面観音、十二神将、十六羅漢が祀られていると言います。
正面の軒に唐破風が施され、「円覚興聖禅寺」の扁額の文字は伏見上皇の勅筆によるものとされます。
三門から石畳みの参道を先に進むと見えているのが仏殿。
本尊の宝冠釈迦如来を祀る建物で、現在の姿は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊後、昭和39年(1964)に再建されたもの。
参道左の柏槇の古木は市の天然記念物という。
仏殿の扁額は後光厳天皇(1338~1374)勅筆とされる「火光明宝殿」の額が掛かる。
堂内には宝冠を被った宝冠釈迦如来像が安置されている。
天井を見上げると、再建後に描かれた白龍図の天井画がこちらを見据えている。
倒壊前の仏殿に描かれていたのかは分からない。
選仏場。
仏殿の左に建つ茅葺きの寄棟、屋根の上に箱棟を持つ建物で、名が示す様に仏を選び出す場所という意味を持つ修行僧の坐禅道場のこと。
創建当初の建物は、建武2年()の境内絵図によれば、山門と仏殿の間の左側に裳階付きの大建築として描かれていると言う。
しかし永禄6年の大火で焼失、現在の建物は元禄12年(1699)に伊勢長島城主松平忠充が、江戸の月桂寺・徳雲寺住職一睡碩秀の薦めにより、大蔵経を寄進しそれを所蔵する場所と禅堂を兼ねて建立されたもの。
内部には南北朝時代の薬師如来像が中央に祀られる他、平成15年(2003)には円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観世音菩薩像が安置されています。
堂内の仏像。
中央が南北朝時代のものとされる薬師如来像。
右は大慈大悲観世音菩薩像。
左は解説には記されていなかったが不動明王座像の三体が安置されていた。
仏殿から先に進み方丈方向へ向かうと、正面に見えるのが勅使門。
天保10年(1839)に建立された唐破風門で梁の蟇股や木鼻には手の込んだ彫が施されています。
扉には見事な龍の透彫りが施されています。
上が方丈側から門を見て右側、下が左側のもので、下に波濤、上に雲が描かれ中央に躍動感あふれる龍が施されています。
大方丈。
この方丈前の庭園にも仏殿前で見かけた柏槇の古木が聳え、市の天然記念物に指定を受けています。
訪れた当日は、膨らみ始めていた梅の蕾が一部花開き、春の訪れを告げていました。
方丈の裏には心字池を中心とした庭園がありますが、この時期は彩りには寂しいものがあります。
方丈から少し先に進んだ左にある舎利殿。
山門の額には「萬年山」とある。
舎利殿には、「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られています。
源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものとされ、鎌倉にあった太平寺の仏殿を移築したもの。
この先に入母屋杮葺きで裳階の付く国宝舎利殿がある。
無学祖元禅師をお祀りした開山堂と共に円覚寺随一の幽邃の地とされ、特別拝観期間以外は修行の場故に拝観が規制されている。
佛日庵 円覚寺開基廟。
開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である鎌倉幕府8代執権・北條時宗、その子で鎌倉幕府の9代執権・貞時、孫の鎌倉幕府の14代執権・高時が祀られている。
時宗は、この場所に庵を結び、禅の修行に没頭し精神鍛錬に励んだと伝えられる。
弘安7年(1284)に時宗が亡くなると、その庵の場所に遺体を安置し、お堂を建て開基廟とされた。
現在の建物は江戸時代の文化8年(1811)に改築された茅葺きの寄棟、屋根の上に箱棟がのるもの。
選仏場同様の作りです。
白鹿洞。
開基廟から僅かばかり上に進んだ右側に、岩壁に小さな穴が開いています。
無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まったという逸話の場所、白鹿洞と名付けられています。
ここから白鹿達が続々と集まって来たんだね。
紅梅院。
紅梅院は文和3年(1354)に夢窓疎石の塔所として方外宏遠により開創され、応安元年(1368)には室町幕府2代将軍・足利義詮の遺骨が分骨されていると言う。
境内左に千手観音菩薩を本尊とする本堂があり、こぢんまりとした美しい庭園があります。
山門の山号額は「伝衣山」とある。
庭園の奥に建つ観音堂。
この時期の庭園には、白い綿のような花を付けた樹や、椿、水仙など枯れた冬景色に僅かばかりの彩りを与えてくれていた。
堂内の聖観世音菩薩像。
所々に花が生けられた黄梅院庭園。
如意庵。
円覚寺塔頭寺院の一つで、山門から右に向かった円覚寺境内に鎮座する寺院。
山門から先は一般に公開されていないようです。
門から境内の眺め、山門の額には「如意」とある。
開基は応安3年(1370)頃に上杉憲顕より開創されたと云われ、無礙妙謙の死後に無礙妙謙の塔所として開創されたとされ、本尊は宝冠釈迦如来を祀るそうです。
弁天堂。
山門と仏殿の間から右に進んだところに弁天堂の社頭があり、上に向かって石段が続きます。
この石段の先に国宝の洪鐘があります。
長い石段を上り詰めた先に山の斜面を切り開き境内が作られ、寄棟瓦葺で向拝を持つ弁天堂が鎮座する。
向拝下の扁額は「大弁財天」とある。
江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したと伝えられ、その弁財天を祀るお堂で、北条貞時が洪鐘とあわせてここに弁天堂を建立し、当山の鎮守としたとされます。
国宝洪鐘。
関東で最も大きい洪鐘(高さ259.5㌢)で、円覚寺の開基である北条貞時が、正安3年(1301)に国家安泰を祈願して寄進されたものとされる。
物部国光の鋳造によるもので、刻銘の銘文撰者は当時の円覚寺住持の西澗子曇によるものとされ、梵鐘の池の間には、全周に細かい銘が刻まれています。
境内の片隅に享保4年(1719)の供養塔がひっそりと佇んでいた。
桂昌庵(閻魔堂、十王堂)。
山門左に鎮座する円覚寺塔頭寺院の一つで本尊は矢柄地蔵を祀り、創建時期は定かではないようです。
名が示す様に向拝柱の蟇股には「王」の一文字が入り、堂内には十王の木像が安置されています。
境内右に矢柄地蔵菩薩と閻魔堂の古びた石標が立っています。
開山 / 無学祖元
創建 / 弘安5年(1282)
本尊 / 宝冠釈迦如来
所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内409
参拝日 / 2023/01/17
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