Yondaful Days! (original) (raw)
最近は、「変なミステリ」を脱して、「ジャンルレスな力強いエンタメ」という雰囲気をまとってきたメフィスト賞。前回の『死んだ山田と教室』も気になるタイトルだが、前々回の受賞直後に、これは絶対に面白いはず!と確信したタイトル『ゴリラ裁判の日』。
1年半遅れでやっと読んだ本作は、「ゴリラ」という、何となく剽軽な語感とは裏腹に、「(動物の)権利」という極めて真面目なテーマに対して、爽快に答えてみせ、ジャングルの風を吹かせる物語。
いや、終わってみれば、これは『虎に翼』ならぬ『ゴリラに翼』とさえ言える感動本でした。
こういう風に、大満足な本の感想は、長過ぎて書き終わらないこともある(そして今の自分には全然時間がない)ので、とにかくシンプルに、面白さのポイントを挙げていきます。
構成
ゴリラ裁判の「その日」はクライマックスまで待つと思わせておいて、冒頭からいきなり「ゴリラ裁判」が描かれる。
語り手であるローズ(ゴリラ)は、動物園の柵の中に入ってしまった子ども(人間・4歳)の命を守るためという名目で、夫のオマリ(ゴリラ)を射殺されてしまった。納得できないローズは、動物園側を訴えるが、裁判で訴えは棄却されてしまう。
冒頭の裁判のあと、時間はさかのぼり、アメリカに来る前のカメルーンのジャングルで暮らしていたローズが「喋れる」ようになった経緯が描かれる。
そして、裁判で負けてからも色々な物語があり、時間が経って再び動物園を訴え、ついにクライマックスで「ゴリラ裁判の日」を迎える。
…と、冒頭以外は時系列で描かれる。
冒頭に「ゴリラが人間を訴える」裁判で、「ゴリラが敗訴になる」シーンを持ってくることで、一気に読者の興味を引っ張っていくのが上手い。しかし、それ以上に、直後にジャングルの日々が描かれることで、物語全体の空気感が醸成され、ラストに効果的に繋がっているところが素晴らしい。
ジャングルの日々と特別なグローブ
渡米する前のジャングルの話は、動物学者の監修も入っているということで、リアリティがあり、かつ、とても魅力的だ。
ローズ自身が作中で語っている通り、言葉を知ったゴリラは特別な存在なので、それ以外のゴリラを見下してしまいそうだが、ローズは、ゴリラの仲間が好きなのだ。
そしてローズが気になる雄ゴリラのアイザック。アイザックに対する思いは「恋」以外ではありえない。擬人化した恋ではなく、ゴリラとしての恋が魅力的に描かれていることが、この本の最も重要な部分かもしれない。
ここでリアリティラインが絶妙だと感じるのは、ローズの「言葉」が手話(アメリカ式手話)であること。これが「発声しての会話」なら、ローズが突然変異・唯一無二のスーパーゴリラということになってしまう。
確かに「発声」に苦労する子どもも(もちろん大人も)多いことを考えると、そこのハードルを下げるだけで、現実に一気に近づくし、ローズが「特別」ではない、ということが、裁判の最後に効いてくる。(これは、『虎に翼』で寅子が特別ではないことが強調されるのと似ている)
ローズは、ろう者の人とは異なり、相手の言葉は聴きとることができ、発声だけができない。そこで登場するのが、手話の手の動きを同時通訳的に「発声」に変える特別なグローブ。これで、ローズは、ほとんどの英語話者とコミュニケーションを取ることが出来る。(もちろん、手話ができるだけで大きなインパクトなのだが、物語的にも「発声」することが重要なのだろう)
このあたりのガジェットもギリギリであり得そうで、もしかしたら、現実に動物園にいるゴリラも話せるのでは?と思わされてしまう。
プロレスの日々
カメルーン時代からテレビ好きだったというのが布石になっていたのかもしれないが、裁判で負けたローズが、動物園を離れてすぐプロレスに転向する展開には驚いた。
『あしたのジョー』でのドサ回りにも似るが、再戦に向けたエネルギー充填の期間になっている。WWD(プロレス団体)を率いるギャビンのつてで知った弁護士ダニエルとともに、どん底から2度目の裁判に向けて再び立ち上がる部分は、少年漫画的で燃える流れだ。
クライマックスが、ある意味では「真面目」過ぎるので、ここにプロレスが入ることで、バランスが一気にエンタメ寄りに触れる。しかし、読んでみると、無理矢理入れ込んだという感じは無く、自然に、プロレスラー「クイーン・コング」を楽しめるのは、やっぱり巧いのだろう。
勝訴、そしてラスト
最終弁論でダニエルは、証人として法廷に立った科学者の言質も取りながら、(学習で言葉を扱うことができるのであれば)「ゴリラも人間である」と主張することになる。
これは動物の問題などではありません。人間の自由と尊厳の問題なのです。オマリが殺されたのはオマリが子供を簡単に殺せる力を持っていたから、それだけの理由です。それは例えば人が銃を持っているのと同じことではありませんか。人を殺す力を持っている、それだけの理由で人を殺して良いはずがありません。クリフトン動物園の判断を許すことは、銃を持っている人間は危険だから殺していいという主張を許すことに繋がるのです。
それでは最後に、人間についてもう一度考えてみましょう。あなたが「人間」という言葉を思い浮かべる時に、他の国の人はそこにいますか?自分とは違う肌の色の人は?そして、そこにゴリラはいますか?社会通念をアップデートするのは簡単なことではありません。しかし、今まさに人間という言葉が包括する意味は大きく変わろうとしています。人間とは、ホモサピエンスよりもずっと大きい言葉なのです。オマリは人間でした。この裁判は無実の人間が不当に殺されたケースなのです。
そこにダメ押しとなるのが「たとえ私が貧しくとも」「私は人間である」から始まる、公民権運動を模したローズの言葉。
ここは「今、歴史の瞬間を見ているんだ」と、ぼーっとしてしまうような感覚に陥る、いわば映画の名場面のようだった。
そして、今まさに評決が告げられようとする場面で、読者の期待からすりぬけるように時間が一気に進んで舞台は再びカメルーンのジャングルに。ゴリラとしての生活に戻り、初恋の相手アイザックに再会するラストは、「人権」を勝ち取ったゴリラの話の終わり方としては「敗北」にも映るが、前半のジャングルの描写が素晴らしかったおかげで、全く違和感がない。
裁判には勝った。
だけでなく人権まで勝ち取った。
しかし、ずっと前進し続けることは出来ず、むしろ激しいバックラッシュを産んで後退してしまう20世紀末以降の人類の歴史をなぞるように物語は展開する。初のゴリラ弁護士になり、裁判官になって、まさしく『虎に翼』の道を歩むストーリーもあり得たが、ローズは、寅子のように「ゴリラ全体の将来」を背負わずに、一人の個人として自由に生きることを選ぶ。
このあたりは、まさに今の時代をよくとらえた小説になっている。
「後退」よりも、ジャングルで獲得した「自由」の方を強く感じさせて、明るく終わるのも、やっぱり絶妙なバランスなのだろうと感じた。
実は本当にあったこと
読後に知ったが、小説内でオマリが命を奪われたのとほぼ同じ事件が、2016年にアメリカのシンシナティ動物園で起きていたのだという。
www.bbc.com
なぜ麻酔銃を使わなかったのか?という議論も小説通りで、だからこのリアリティなのだろう、と納得した。
それも含めて、とにかく読みどころが多く、メフィスト賞が自分に合っていることを改めて感じた小説でした。
ボディ・ブローのように効いてくる、という言い方があるが、映画『シビル・ウォー』は、まさにそんな感じで、ダメージが増していくばかり。
そもそも映画と非常に関わりの深いアメリカ大統領選に暗雲が立ち込めているように見える。
ハリスが辛勝(トランプが惜敗)すれば、すわ議事堂乱入の再現か?というのが心配だったが、どうも情勢を見ていると、トランプがそのまま大統領になってしまいそうな雰囲気がある。
あの騒動を起こして、有罪判決も何件も受けて、テレビ討論会では「移民が住民のペットを食べている」という自らの発言への批判に対して、「俺はテレビで見た!」と(小学生のように)言い張る。その様子に大統領としての資質は微塵もないが、それでも人気は固い。
一方、ここに来て中東情勢が大きく変化し、民主党政権の対応があまりにイスラエル寄りなことが、中東出身者の多い激戦州(ミシガン州)でハリス票を減らす大きな理由になっているようだ。
「もしトラ」が実現してしまうと、独裁的なアメリカ大統領に反対する勢力が内戦を引き起こす『シビル・ウォー』そのままの世界が近づいているようにも見えてくる。
それ以外にショックを受けたコンテンツが2つあった。
NHKスペシャル「“正義”はどこに ~ガザ攻撃1年 先鋭化するイスラエル~」
これは本当にショックだった。
ネタニヤフは「ああ」だけど、イスラエルも民主主義国家なのだから、市民レベルでは、犠牲者多数の現状に眉をひそめている人が多いはず。そう素朴な期待をしていたが、ガザ侵攻に非難の声を上げた教師に対する生徒からの仕打ちを見て、その認識を大きく改めた。
「これは明らかな『魔女狩り』だ」。エルサレム在住の公立高校教師メイール・バルヒンさん(62)は2023年10月以降、自らを襲った出来事を、そう振り返った。
イスラエル軍のガザ空爆が始まった直後。犠牲になった子どもらの写真とともに「この狂気を止めるんだ」とSNSに投稿したところ、内容を問題視した教育当局に呼び出され、解雇された。(略)
今年1月に復職した際、バルヒンさんは投稿に反発する生徒らに囲まれた。「後ろからたたかれ『家族を殺すぞ』などと罵声を浴びせられた」。危険を避けるため、授業はリモートにせざるを得なかった。
SNSで反戦を訴えたら逮捕された…高校教師を襲った出来事とイスラエル国内に漂う「空気」の異様さ:東京新聞 TOKYO Web
番組からは、良識あるイスラエル人もいるが、大多数は「非国民は絶対許すまじ」という意見のように映った。
また、昨年の10/7に端を発するイスラエル軍の徹底報復(ジェノサイド)について「パレスチナに非がある」という主張は、歴史的背景を無視すれば成立するかもしれない。しかし、並行して、しれっと進めているヨルダン川西岸地区へ入植地拡大についても、堂々と正当性を主張する市民を見て本当にげんなりした。
イスラエル国民の感覚が、諸外国と大きくズレている理由としてガザの実情が国民には伝わっていないことも大きいようで、このあたりは『シビル・ウォー』がテーマにしていたジャーナリズムの重要性を感じる。
もちろん、イスラエル国民全体がそうだというわけではないだろうが、とても恐ろしい番組だった。
「こんなことのために頑張ってきたのか」覚悟して受け入れた難民の犯罪が増え、“推し国家”の暴挙に戸惑い…ドイツ人が「マジメに考えるのに疲れてしまった」深刻な理由(文春記事)
マライ・メントラインさんは、日本在住のドイツ人で、日本のサブカルチャーにも造詣が深く、Twitterでのポストもいつも楽しみにしている。彼女が週刊文集に寄稿した記事は、ドイツにおける「分裂」の状況がよくわかる内容だった。
記事は、大きく4つに分かれる。
- ロシアによるウクライナ侵攻によって失われたドイツ人の自信
- 移民難民問題の捉え方の大きな変化
- 立場上は、常に「推し」でいる必要があったイスラエルへに対するバックラッシュ
- これらを受けたドイツ国民の選挙での投票行動
文章も非常に巧く、日本人がドイツに抱く興味・関心のツボも熟知して構成されており、全文を引用したいくらいだが、ポイントのみを引く。
まず久しぶりにドイツに帰って感じた「変化」について触れる導入部。
数年前なら「なぜ我々ドイツの正しい方法を他の国は理解しないのだろう」的なパワフル理論を(絶妙に現実を無視しながら)主張していた気がするのだが、今回はむしろ「正直、そのあたりを真面目に考えるのに疲れてきた」という諦念が混じった感触の人が多くて驚いた。
しかしこの空気感の変化、いわゆる「戦後ドイツ」のモラルに想定外の大きな変化が生じている気がするので、本当に“何か”が起きる前に記しておきたい。
ここでの「何か」は最後に明かされるが、その引っ張りも上手だし、「EU的な正しさ」の説明も、自虐も含めて読みやすい。
まずウクライナ関連のまとめ。
「正しいドイツが当たり前に勝利する」という、侵攻当初の自信と願望は打ち砕かれ、ここでの「失敗」はドイツ人の気持ちに大きく影響したようだ。
たとえロシア地上軍がヨーロッパ中心部に侵攻してくる可能性がゼロに近くても、「ヨーロッパの状況を的確にコントロールする力がドイツから失われた」という事実を突きつけられただけで、ドイツ人のセルフイメージと政治軍事的なブランド性は十分に毀損されてしまった。
次に移民と難民について。
マライさんは、移民と難民を切り分け、移民はまあまあ歓迎されているとした上で、難民の問題について、次のようにぶっちゃける。
いささか生々しい話だが、たとえ大量の「難民」を抱えて財政的なロスが出たとしても、「道義的に正しいドイツ」を天下にアピールすることには巨大な政治的意味がある。強国のプライドをお金で買っていると言ってしまうと身も蓋もないけれど、極論的にはそういう構造となる。なのでメルケルが難民の積極的な受け入れを行った時、ドイツ人もある程度の覚悟はできていた。
だがしかし、それは「食客」たちが問題を起こさず生活している前提で成立する論理であり、難民によるテロ的犯罪が増加する現状ではまったく通用しなくなった。
「人権」などの表面的な理由に一切触れずに敢えて「強国のプライドをお金で買っている」という言い方をするところが、現実的にはそうなんだろうなと納得してしまう。
そして、「少し前までは、EU&NATO中心国であるという矜持と驚異的な粘り腰で、戦後のドイツ市民社会が育ててきたモラルを堅持しようと頑張っていた」、そのドイツ人が「疲れてしまった」転機がガザだという。
ナチスの反省からスタートした戦後ドイツの国是は、「常にイスラエル推しでなければならない」という構造にハマっている。
本来であればユダヤ人、イスラエル、ネタニヤフ政権を一体で捉える必然性はまったくないのだが、そうなってしまっている。そんなデリケートな問題に先例のない踏み込み方をして炎上するのは誰も望まないからだ。
このあたりも非常に慎重な言葉遣いで書かれており、糾弾すべきは「ネタニヤフ政権」であり、「イスラエル」でも「ユダヤ人」でもないはずなのに、ドイツでは反ユダヤ主義が幅を利かせるようになる。
結果として生じる分断の構造は、アメリカ大統領選のハリス支持VSトランプ支持と状況が似ている。(理性の基準が極論に侵食され、常識人ほどストレスをためる)
「部分的な事実を含む」フェイクニュースや極論が力を増し、旧来的な理性とされていた基準がどんどん侵食されてしまう。極論主義者が嬉々としてイスラエルを攻撃し、ドイツ的道徳観を身につけた人間ほどストレスをためるという地獄のような情報環境になりつつある。
結果として、選挙での投票先は「主要政党」からどんどん第三極に移るようになり、ポピュリズム政党が躍進する。
そうしてやっと、結びの文で、最初にほのめかしていた「何か」について触れられる。
そんなわけでドイツの「EU脱退」がリアルかつ真剣に議論される展開も、そう未来の絵空事ではないだろう。いずれにせよ、90年代から2000年代前期までの「意識高い系と経済強国っぽさが併存していた」ドイツは、おそらく終わったのだ。それを前提に堂々と思考できる人間だけが、未来を語れるのかもしれない。
こういった世界情勢を考えると、石破さんが掲げて国内外から批判されている「アジア版NATO」の発想はどこから出てくるのか。それを今の日本が提案することの意味は何なのか?と、色々なことに考えが及ぶ。
ドイツ人全体の意識がここ数年で大きく変化したこと以上に、アジア内での日本の立場もここ10~20年で大きく変わってきている。石破さんの発想は、20年前であれば、もしかしたら一考に値する案(実現可能性の低くない夢)だったのかもしれないが、今は誰も望まない。
ということで、少し話はズレたが、いわゆる「もしトラ」が実現して、トランプ大統領が誕生したら、と考えると、アメリカ国内の内戦は勿論、相性面から考えても石破首相による政権運営は(衆院選の結果もあるが)相当に難しくなり、日本社会も大きく「分断」の方向に動くのだろう。(おそらく「高市さんだったら…」という声が大きくなるのでは?)
いや、トランプ大統領再選を確実なものにし、混乱に乗じてさらなる成果を目指すイスラエルがもう一手動く可能性も十分にあり、そんなことが起きたら、全世界的に「一歩手前」まで行ってしまっている気がする。
www.jri.co.jp
wedge.ismedia.jp
衆院選については、今回特に触れていないが、1か月も経たないうちに、日米の選挙が終わり、中東情勢にもまた大きな変化があるかもしれない、ということを考えると、本当に不思議だし、不安だ。なんとかすべてうまく行ってくれないだろうか。
これから読む本
マライ・メントラインさんの本、全然出ていないのですね。どんなものでも良いので是非読みたいです。
先日、最新作『わたしの農継ぎ』を新聞書評欄で知り、高橋久美子(元チャットモンチー)は、絵本書いたり小説書いたりしていたと思ったら、今は農業をやっているんだ!と驚いた。そこで、タイトル的には、その前段の作品だろうということでこの本を読んでみることにした。
ところが、ロハス的生活のすすめ、という内容をイメージし、実際、そのように話が進むと見せかけて、最後の最後にすべてをひっくり返すような、あまりに衝撃的過ぎるオチ。
すべて計算ずくなのか?と思ってしまうほど、本としてはインパクトが強いけれど、現実に起きたことだと考えると、全然笑えない。言葉を失う。
これ、あらすじはどう書いてるんだ?と思ったので、Amazon+ミシマ社のHPをチェック。
「実家の畑を、太陽光パネルにしたくない」
愛媛出身、東京在住。
闘いの狼煙をあげたものの、
立ちはだかる壁の数々!
これぞ、現代日本の課題そのもの…
現実はあまりにもすごかった!ミシマ社創業15周年記念企画
「おまえは東京におるんじゃけん関係なかろわい」by 父
農地は負の遺産と考える父親世代、中・小規模農家の経済的な厳しさ、農地を持っている人しか農地を買えない法律、急増する猿や猪の畑荒らし、子孫を残せない「F1種」の種、体調を悪くする農薬散布、足並みを揃えることを最優先する町の雰囲気…etc.
未来に後悔をしないため、まずは知ること、動くこと。
「変わり者」と言われても、高橋さん家の次女はゆく!
この本は、父親が太陽光パネル業者に一度売ってしまった田んぼを買い戻そうと家族を説得するところから始まる。
読み終えてから見ると、あらすじに書かれる「現実はあまりにもすごかった」は、最後の展開に向けたものかもしれないが、前半でも農地を手に入れるための色んな苦労をしているので、7章まで(最後の「長い追伸」を除くところまで)で、このあらすじだったとしても全く違和感がない。
実際、最終の第7章の最後の項目タイトルが「今日が始まりの日だ」。
読者も、今後に期待しながら読み終え、本を畳もうとしている状況で読む、あとがき替わりの「長い追伸」で、農地の取得が絶望的になった、という話が挟み込まれるとは想像もしていない。
しかも、ただの「買えなくなった」ではない。都会ではなく田舎だからこその地獄を見せつけられてからの「買えなくなった」なので、絶望が深い。
そもそも。農地の売買はハードルが高い。
- 農地の管理をできる人じゃないと買えない(東京在住のまま買えない)
- すでに三反以上持っていないと買えない
- 農地を遊ばせておくことも、駐車場など田畑以外のことで使うのも×
- 借用書なしに他の人が作物を作るのも×
- 最初の一年は、本当に作物を作っているか見回りが来る
結局、高橋久美子は、実家の近くに住んでいる妹の名義で農地を購入することになる(ラストに繋げて言えば、実際にはこの時点では買えていない)のだが、どんなに人数とお金を集めたとしても、部外者は気軽に口出しできない仕組みになっている。
その後、農機具を借りることが難しくなったことから、水田は諦め、サトウキビを作ることになる。
とはいえ、当時は、コロナが流行り出した頃で、その後、感染者数が増えるにしたがって、県をまたいだ移動はできなくなり、高橋久美子も現地に行けなくなる
運よく近くにいたサトウキビ農家の先達に教えてもらいながら育てたサトウキビの9割がサルに食べられるくだりも、農業の大変さがよくわかるし、これ単体でもかなり心が折れるエピソードだった。
F1種や農薬問題、地球温暖化、ジビエなど、農業関連の話題もふんだんだが、苦手にしていた「丁寧な暮らし」感は少し希薄。それは、彼女が、自身と無関係な場所ではなく、そこで育ち、そこに家族がいる場所として「農業」を捉えているからだろう。…という風に思考を辿ると、自分自身もかなり、ゼロから農業を始めようとする人を拒否するような心があることを知る。
さて、「長い追伸」の内容については、ひとことで言えないので省くが、新たな騒動の結果、既にサトウキビを育てていた農地は、「やっぱり買えない」ことになってしまう。さらには「ご近所さん」まで敵に回すことになってしまう、という「田舎は怖い」エピソード付きで。
この流れは嫌過ぎて、実は、この本の出版自体が、都会人の農業へのあこがれを断ち切ることを目的にしていたのでは?と疑ってしまうほど。
問題の「長い追伸」が書かれたのは2021年8月。その後、農地はどうなったのか?については、高橋久美子さんの近作で状況を確認しなくてはならない…
山崎ナオコーラさんの本は比較的多く読んでいて、前作『ミライの源氏物語』にも共感し、出演したラジオ番組も楽しく聴いたので、親しみのある作家と言える。
文学の力を信じていて、文学を通じて世界にモノ申したい、少しでも社会を良くしたい、そういった意気込みを感じて、とても応援したい作家だが、いわば野心作と言えるこの本で、その「野心」は世界に伝わるのだろうか、と考えてしまった。
自分の考える問題点は、ひとことで言うと、山崎ナオコーラさんの姿が透けて見えすぎるということ。
「今、私はこのような社会問題について、こういった問題意識を持っています」というのは、エッセイだったら(もしくは前作のような古典解説なら)良いが、小説の場合、そこが直接的に伝わってきてしまうと、物語に集中できない。
この文章では、具体的に、何が、自分(読者)を物語に入り込ませる上での阻害要因となったのか、小説を引用しながら探ります。
差別のない社会という設定
この本では、繰り返し「昔は差別があったよね」という表現が繰り返し登場する。
「なあ、俺らが小学生のときは、教育は性別で区切られがちで、俺らの性別に属する子どもはほとんどが黒いランドセルを背負っていたよねえ?でも、岩井は赤で、個性を出していたよなあ」
雄大は岩井の背中に話しかけた。
p31
つい10年前くらいまで(オバマが大統領に就任した頃)は、こんな風に過去を振り返るような時代が、すぐそこに近付いているのかと思っていた。
しかし、2024年現在、実感としては、それとは異なる方向に現実は進んでいる(むしろ後退している)。こういった「差別のない、誰もが自分らしく生きることのできる社会の実現」は、選択的夫婦別姓制度の議論(していないが…)だけで何十年も費やしている日本は勿論、バックラッシュの激しい欧米も含めたこの世界の延長上では成立し得ない。
何かしらの特殊要因(大災害による人口減少や、独裁政権による大幅な法改正、技術的なブレイクスルーなど)を想定しなければ到底リアリティはないだろう。
ところが、上の引用部分からも分かる通り、この小説の舞台は、あくまで今から20~30年後くらいの近未来を想定するように描かれていて、2024年の日本と地続きだ。
たとえば村田沙耶香の「トリプル」(3人での交際が普通の世界)や「殺人出産」(10人産めば、1人殺してもいい世界)などのような、かなり特殊な設定(あり得ない世界)を前提にしなければ、受け入れがたいと感じてしまった。
一方、この本のメインの設定である「火星移住」も、それを可能にした技術や法制度はぼんやりしている。設定がフワフワしているせいで、何となく物語も地に足のつかない状態になってしまっている。
ただ、この本のクライマックスが、火星のオリンポス火山の登山であるのは好きだし、タイトルの通り、結局、頂上を目指さず途中で「あきらめる」のも良い。もちろん、そこまで含めて、結局「寓話」的な物語なのだろうが、それなら、もっと無国籍で時代不明な設定にしてほしかった。(ランドセルの登場がベタな現代日本社会を思い起こさせて良くないのかもしれない)
作者の分身のようなキャラクター
そしてキャラクター。
これも登場人物が揃って、論理的、そして何というか「常に正しく」考えてしまうので、感情の起伏が小さいように感じ、小説としても盛り上がりに欠ける場面が連続する。
特に、主人公・雄大と奥さん(弓香)との会話は強烈だった。突然いなくなってしまった妻と、火星のコンビニでの再会という、通常は、感動の再会もしくは、反対に修羅場が想定されるような場面。それなのに、お互いが考えていることを言葉にし終えると、あまり波風立たずに別れる。
「一緒に暮らさなくて良いから茶飲み友達になってほしい」という雄大を断固として拒否する弓香の台詞を引用するので、その一方通行ぶりを感じてほしい。
「いや、嫌いではないよ。私の人生においては、雄大じゃなくて、私が主人公なんだよ。だから、雄大が駄目人間だろうが、嫌な奴だろうが、素敵人間だろうが、好ましい奴だろうが、それはどうでもいいのよ。正直、私はもう、雄大のことを好きとか嫌いとか、そんなことは考えたくない。それよりも、私から見た私自身の姿の方が気になる。結婚当初の若い頃の私は、仕事もうまくいっていたし、結婚式とか親戚付き合いとかも楽しめたし、育児もやりがいあったし、自分で自分を肯定できた。それが、だんだんとそうではなくなってきた。雄大と一緒にいるとき、雄大が私を馬鹿にしているのがヒシヒシと伝わってくるようになった。馬鹿にされるような関係を作ってきたのは私でもあるから、私にも責任がある。とにかく、この関係の中で暮らしていると、私自身も自分を馬鹿にしたり、軽く扱ったりして過ごしてしまう。それがつらいの。もう年齢も年齢だし、自分を大事にしたい。自分を低く見たり、自分を軽い存在だと感じたりしないで、残りの限られた日々を、『私は、私が大好き」と思って、自分を愛して過ごしたい。私のことを、大事な人間だ、って思いたいの。そう思えるようになってから、死にたいの」
確かに、弓香の意見は、言葉としては理解できるが、これを直接言われた雄大は、もっと反論するんじゃないのか。
これに限らず、全体として、登場人物の台詞に、読者の共感(や反感)を生むような重みはあるが、キャラクター同士の対話がないため、山崎ナオコーラさん自身から読者に向けたメッセージのように感じられてしまう。
いわば、ナオコーラさんの意見を登場人物に割り振って、それらを順に聞かされているような気がしてしまう。
今回、タイトルとなっている「あきらめる」ことに、主役の雄大も、準主役の輝(あきら)も活路を見出すが、その場面にも対話は無く、独り言だ。
メッセージ自体には納得できるが、やはりナオコーラさん自身の「気づき」であるように見えてしまう。
「あきらめる」の語源は、明らかにするということだ、と以前に輝が言っていた。
そうだ、明らかにしよう。自分を、明らかに・・・・・・。雄大は足元を見た。
「この川は私です」雄大はひとりごちた。
自分を明らかにするとは、自分がちっぽけな存在だと残念がることではない。大きすぎると自覚することだ。自分の存在は、とても大きい。大きすぎてコントロールできないと、あきらめるのだ。火星も、宇宙も、自分だ。性別や職業で人を差別するのも自分だ。あきらめるのだ。自分は、思っていたより大きかった。でも、少しずつ明らかにしていけば、一歩ずつでも進める。死までは、まだ何年かあるのかもしれない。
輝の方は、特に顕著だ。児童心理司の時田さんへの相談(トラノジョウに暴力を振るってしまったことについての相談)に関連し、専門家(ソーシャルワーカーの石田さん)を目の前にして、思い付きの解決策を語ってしまうのは、読者としても居心地が悪い。(しかも石田さんはスルー)
「・・・・・・あきらめる」
石田さんは、ちょっと考えるような目をした。
「私は、加害をする人間だとあきらめる」
輝は繰り返した。そこで、ユキの姿を思い出した。あの日、あのアパートで初めて対面したユキは、ちゃんとあきらめていた。自分にはトラノジョウに対する十分な育児ができないとあきらめていた。輝もあきらめよう。みんなであきらめて、みんなで育児をしよう。心をあきらめよう。心を制御するのではなく、行動をコントロールしよう。
「あきらめるからこそ、二度と暴力を振るわないことが可能になると思うんです。自分が感情をコントロールできる人間だと驕らずに、考えて考えて、『暴力を振るわない』をします。遠くにいるたくさんの人たちには優しくできない自分を自覚できるようになりたいです。あきらめて、たまたま側にいる人たちに優しくする。今、地球や火星に、救急車に乗っている人や病院に入院している人がたくさんいますよね?大変な病気や怪我で苦しんでいるすべての人たちに私は寄り添えません。今、地球や火星でネグレクトなどの虐待を受けて苦しんでいる子どもたちがたくさんいますよね?私は、そのすべての子どもには寄り添えません。その程度の、悪い人間なんです。人が好きだけれど、コミュニケーションを周囲と円滑に取ることができません。子どもが好きだけれど、大きな愛に満ちているわけではありません。それが、私という人間なんだと思うんです。だんだんと明らかになってきました。自分をあきらめて、たまたま自分の側にいる子どもにまずは向き合う。それから、出会った子どもにも向き合う。さらに、新しい出会いがあったら、ひとりずつ、少しずつ、向き合う。自分だけでできそうになかったら、ちゃんと自覚して、周りに助けを求める。...そうしてみようと思います」
輝は胸を両手で押さえた。
「ええ」石田さんも輝の真似をするように自身の胸を押さえた。
「反省しました」
輝は頭を下げた。
なお、準主役である、輝(あきら)は、最初の登場場面から性別が伏せられたまま話が進む。英語圏だと、最近では、代名詞をhe、sheではなくtheyを使うことがあるというし、意図としては分かる。わかるが、中盤以降まで輝を男性と思い込んで読んでいたので混乱した。このあたりは、読者が試されているのかもしれない。
まとめ
繰り返すが、小説家・山崎ナオコーラさんは好きだし、『あきらめる』のメインのメッセージも嫌いではない。*1
分身ロボットが火星で登山をするというアイデアも大好きだ。
しかし、作者の顔が見えすぎてしまうのは、小説として失敗しているように感じる。ナオコーラさんの小説は、以前読んだときはもっと熱中して入りこめたように思うので、今回が特殊なのか、もしくは、近作が同じ傾向にあるのかもしれない。
その意味では、最近の作品を読んで確かめてみたい。
*1:ただし、社会を変えることにこだわらず=あきらめて、自分の心の方に目を向けよう、というメッセージのように受け取ってしまうと、「生まれた場所で咲きなさい」的な、ある種の自己責任論になってしまう。
アレックス・ガーランド監督『シビル・ウォー』
不思議な映画体験だった。
アメリカの内戦の話だが、結局、内戦が起きた背景や具体的な対立は描かれない。
あるのは、分断と戦争。
そして、音、音、音。
静寂と爆音(本当に爆音。嫌になる爆音)。
不協和音やアンチ・メロディなポストロック。
逆に、エヴァの「あの素晴らしい愛をもう一度」のような、悲惨な場面でのメロディアスなBGM。
ここまで音を意識して観た映画は最近は思い当たらない。(前評判で音が重要と聞かされていた『関心領域』は、何度も言うが、何だかよくわからなかった。)
今回、ドルビーシネマで観たが、600円追加で払って大満足でした。
映画は、基本的に、4人のジャーナリストが主人公のロードムービーで、観客は、彼らと一緒にアメリカの「現状」を見て回る。
ところが最初にガソリンスタンドで出会う「分断」から既に、それが内戦によるものなのかよくわからないし、ジャーナリスト達の態度も独特だ。
吊るされてリンチを受け、今にも殺されそうな2人(リンチしている側とは学生時代は同級生だったというから、地元の知人か)がいるが、主人公たちは、写真を撮ってその場を去るのみ。助けることはしない。
最前線に行った現場では、まさに「従軍」して写真撮影を続ける。こんなに近くで撮るのか…と衝撃を受けたが、思い返せば、確かにドキュメンタリー映画の『マリウポリの20日間』でも、これに近い状況で共同通信の記者がカメラを構えていた。
ただ、この現場でも、「味方」側が、「敵」を処刑する、という観客が確実に嫌な気持ちになる映像が映される。その場面でも、主人公たちジャーナリストは、淡々と、その「死」に、「暴力」にカメラを向ける。
観客側は、凄まじい音に、戦争の「リアル」をこれでもかと感じさせられるが、とにかく混乱する。何と戦っているのかよくわからない。
大きな別荘風邸宅の狙撃手から狙われる場面では、ライフル銃を構える兵士に「敵は誰なんだ?」と聞いて「お前は馬鹿か?」といなされるが、観客側の気持ちとマッチしている。(しかもこのシーンは「きよしこの夜」がBGMに流れる…)
誰もが最も衝撃を受けるだろう場面は、赤サングラスの兵士が登場するシーン。
この場面では実際に2人も仲間を失う。
当然、命を奪われるかもしれないという恐怖が大きいが、赤サングラスからの質問に、どう回答すれば正解なのかわからないまま、1人、2人と問答が続いていくのが本当に怖い。
彼等が処分しようとしている死体の数も尋常ではないし、悪夢を見そうな映像だ。
ロードムービーの終着点はワシントンD.C。
そこでも、今や少数派となった大統領の一派は容赦なく殺される。
大統領が実は…とか、突如第三勢力が現れて…などの「物語」的な展開が一切なく、人々が淡々と殺されるのはショックだった。
この映画が「与太話」ではなく、「リアル」だと受け止められるということは、アメリカ国内で、相手を殺さないと気が済まないくらいの分断が生まれてしまっているということなのだろうか。
もちろん、日本国内でも「分断」と呼ばれる現象はあるとはいえ、こんな映画がリアリティを持って見られるほどお互いが憎み合っているとは思えない。
日本とは次元の違う「分断」に衝撃を受けつつ、鑑賞後に監督のインタビューを読むと、トランプ再選を危惧する発言があった。
確かに、考えると、トランプ支持者による、2021年の連邦議会議事堂襲撃事件は、『シビル・ウォー』と地続きにあるように思える。ただ、この映画からは直接的には「反トランプ」が感じられない。政治的なメッセージもなく、ひたすら暴力が描かれるところが、やはり怖い。
橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』
人種や性別、性的指向などによらず、誰もが「自分らしく」生きられる社会は素晴らしい。
だが、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
「誰もが自分らしく生きられる社会」の実現を目指す「社会正義(ソーシャルジャスティス)」の運動は、キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していき、今日もSNSでは終わりのない罵詈雑言の応酬が続いている──。
わたしたちは天国(ユートピア)と地獄(ディストピア)が一体となったこの「ユーディストピア」をどう生き延びればよいのか。
ベストセラー作家の書き下ろし最新作。
タイトルからは分かりにくいが、この本も「分断」について書かれている。
「社会正義」を求めるキャンセルカルチャーによる分断について分析した本である。
日本では、キャンセルカルチャー批判は、保守的な立場からのリベラル批判と重なることが多いが、著者である橘玲はリベラルを自認する。つまり、リベラルの立場からキャンセルカルチャーを批判した本というのが特徴だ。
冒頭の「はじめに」(副題「リベラル化が生み出した問題をリベラルが解決することはできない」)が、もう少し広い視野で「分断」について語られており分かりやすい。
ここでは「リベラル」は「自分らしく生きたい」という価値観として定義され、リベラル化について、差別的な制度を廃止し、多くの不幸や理不尽な出来事をなくすことができるかもしれない、というプラス面をまず挙げる。
しかし、それによって以下に示すような新たな問題を生み出してもいる。
- リベラル化によって格差が拡大する
- 知識社会に適応する能力にはかなりの個人差があり、社会がゆたかで公平になればなるほど、格差が固定・拡大する。(専制国家では特権層以外の経済格差は縮小する)
- リベラル化によって孤独になる
- 自由意志で選択することで結果に責任を負う。逆に選択しないものには責任を負わない。自己責任と共同体の庇護は対の関係にある。
- リベラル化によって「自分らしさ(アイデンティティ)」が衝突する
- マジョリティとマイノリティのみならずマイノリティ集団同士でも軋轢や衝突が起きる。
このことを踏まえれば、リベラルを自称するひと達の多くが信じている「リベラルな政策によって格差や生きづらさを解消できる」というのは、非常に基本的な勘違いであり、世界認識の誤りである、ということがわかる。
わたしたちは「知識社会化」「グローバル化」「リベラル化」という人類史学的な変化のただなかにいるが、誰もが適応できるわけではなく、以下のような立場が生まれるのは、リベラル化の必然的な帰結である。
- バックラッシュとして生じているのが「反知性主義」「排外主義」「右傾化」で、一般にポピュリズムと呼ばれる。
- リベラル化の波からドロップアウトする典型的な存在が、「非モテ」「インセル」で、そのごく一部は、無差別殺人のような惨劇を生む。
- これらとは別に「誰もが自分らしく生きられる世界」を目指す急進的な社会正義の運動が「キャンセルカルチャー」として機能し、ポピュリズムなどとの大きな摩擦を生むだけでなく、リベラルをも裁こうとする。
これらの現象を『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』そして『世界はなぜ地獄になるのか』の3冊の小学館新書で解き明かしている、という形になるようだ。
これらは複雑に絡み合って分断を大きくしているため、本書『世界はなぜ地獄になるのか』でも、メインとなる「キャンセルカルチャー」以外にも話は及び、より分断が深くなっていくさまを、つまりは、世界が地獄になっていくさまを見せつけられる。
そして、このような事態に対して、橘玲は、対話を通じて世界を良くしていこうと「言わない」ところが誠実だと感じた。そうではなく個々人の対応としては「議論は成立しない」という、この世界のルールに適応していくべき、としている。とても嫌な対応策だが、現実的だ。
それでもわたしたちには、あくまでも議論によって合意を目指す以外の選択肢はない。だが近年のさまざまな社会現象が示しているのは、議論では問題は解決しないばかりか、状況をますます泥沼化させるだけだ、ということだ。なぜなら、イデオロギー対立では、双方ともに相手を「論破」することにしか関心がないから。
さらにやっかいなのは、道徳的な議論には感情がからむことだ。キャンセルカルチャーは、きわめて人間的な現象でもある。なにが正しくて、なにが間違っているかの確固たる基準がないからこそ、双方がより過激に自説を主張するのだ。社会(共同体)が成り立つためには、なんらかの「良識」が必要だ。リベラルな社会では、利害の異なる個人や集団が、それぞれに自分たちの「良識」を主張することができるし、彼ら彼女たちの「多様な正義」は原理的に対等だと考えるほかない。
このようにして、終わりのない罵詈雑言の応酬が始まり、相手への憎悪だけがかきたてられていく。これは人間の本性に深く根差しており、だからこそ解決が難しい。
p131-132
Qアノンの陰謀論を信じるひとたちの奇矯な行動は、ある意味、きわめて合理的だ。仕事も、評判も、プライドもなにもかも失った白人が、かつてあれほどバカにしていた黒人と同じ立場になったことに気づいたとき、「(大学に行かなかった) 自分が悪い」などと思えるわけがない。自分に責任がないとすれば、なんらかの「悪」によって現在の理不尽な状況に追いやられたにちがいない。それは政治の失敗や資本主義の暴走のような「凡庸な悪」ではなく、とてつもない「絶対悪」でなければならない。なぜなら、それと闘う自分が「絶対善」になれるから。(略)
トランプの熱狂的支持者は「白人至上主義者」と呼ばれるが、自分たちは「白人マイノリティ」であり、黒人などを優先する「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)の被害者」だと繰り返し訴えている。自分を「被害者」だと信じている者を「加害者(レイシスト)」として糾弾するとき、両者のあいだにどのような対話が成立するだろうか。
p156
自分の身を守る方法は、リアルでもバーチャル(ネット)でも同じだ。もっとも重要なのは、こういう「極端な人」に絡まれないこと。そのための最低限の原則は、「個人を批判しない」だ。なぜならこのひとたちは、自分が批判されたと思うと、常軌を逸して攻撃的になるから。自分が「被害者」で、なおかつ「正義」だと信じている相手に対しては、ほぼ打つ手はない。
p265
そうなると、エビデンスを呈示できる専門分野では積極的に発言してフォロワーを集め、それ以外の領域では炎上リスクのない投稿(ネコの写真など)にとどめるのがいいかもしれない。
「そんなことでは社会はよくならない」と批判されるかもしれないが、(私を含む) 大半のひとにとって、人生で重要なのは、自分や家族がよりゆたかに、より幸福に暮らせるようになることで、社会正義の実現ではないだろう。キャンセルの標的にされたときの甚大な(取り返しのつかない)損失を考えれば、これがほとんどのひとにとってもっとも合理的な選択になるのではないか。
p266
『シビル・ウォー』で対話は生まれるか
『世界はなぜ地獄になるのか』を踏まえて、映画に話を戻すが、『シビル・ウォー』のガーランド監督は、ライターのISOさんのインタビューで以下のように答えている。
—最後に、この映画を観た観客が社会や政治についてどのような会話をすることを期待しますか?
ガーランド:いい質問ですね。私は観客に会話をしてもらいたいのです。ほとんどの映画はすべての問いと答えが物語のなかに含まれているから、なかなか会話につながりません。
私は日本の政治について詳しく把握していないので同じ状況かはわかりませんが、ヨーロッパやアメリカでは右派と左派の会話は完璧に崩壊しています。だから私は、右派と左派の観客が喧嘩をせずに議論できるような、双方に共通点がある映画をつくりたかった。ただ会話をしてくれること、それがこの映画の答えなのです。
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』アレックス・ガーランド監督が語る「右派と左派が喧嘩せず議論できる映画を」 | CINRA
ここはとても面白い意見だと思う。
『世界はなぜ地獄になるのか』で書かれている通り、「ヨーロッパやアメリカでは右派と左派の会話は完璧に崩壊」していることを認めながら、両者が会話(対話)できるような題材として、この映画が機能してくれることを望んでいるという。
例えば、日本でこの映画を観た保守・リベラルが、その感想から会話を始める、というようなことは生じ得ないように思うし、会話が崩壊している欧米の右派・左派であればなおさら上手く行かないように思ってしまう。
ただ、アメリカ人観客にとって、この映画は絵空事ではなく、2021年の連邦議会議事堂襲撃事件の「すぐその先」と感じられるのだとすれば、「これ以上分断を深めてはいけない」という危機感が、欧米の右派・左派を対話に導くことも可能かもしれない。
…と、わかった風にまとめたが、「すぐその先」の未来で、国内で殺し合いが起きると感じられるほどの緊張感が欧米で続いていることを理解し、改めて怖くなった。
一方、日本は今はそうでなくても今後は…
と書きかけて重要なことに気がついた。
かつて日本国内でも関東大震災における朝鮮人虐殺のような理不尽なことが起きた。いわゆる「日本人」同士ではなく、対「外国人」ということであれば、いつでも惨事が起きる素地が、この国にはあり、2024年の現在においても、(川口のクルド人問題など)これに通じるような状況が今もあるように感じる。
映画で、赤サングラスの兵士が、会話の中で相手が外国人かどうかを見極めようとするさまは、まさに映画『福田村事件』で見た光景。
どう「分断」を乗り越えていくのか。
今後、その視点を持って、色々な作品に触れていきたい。
『世界はなぜ地獄になるのか』補足
橘玲の本は初めてだったが、興味深い事例、内容が満載で、本当に勉強になった。あとで参照しやすいようにキーワードだけ整理しておく。
- 1章 小山田圭吾炎上事件
- 2章 ポリコレと言葉づかい
- 敬語警察
- Blackとwhite(小文字)
- POC(People Of Color)
- LGBTQIA+
- 3章 会田誠キャンセル騒動
- 4章 評判格差社会のステイタスゲーム
- ソシオメーター
- ステイタスを上げる3つの戦略「成功」「支配」「美徳」
- 推しはアイデンティティ融合
- 5章 社会正義の奇妙な理論
- 6章 「大衆の狂気」を生き延びる
- J・K・ローリングとTERF、TRA
- 性的欲望はテストステロンに影響され、男性が女性に比べて60~100倍
- 平等と公平の2つの「社会正義」は両立せず、しばしば対立
- 個人は国家の過去の加害行為に責任を負うべきか、サンデル
いずれの話題も、納得できる裁き方をしているが、特に6章で書かれる「時間資源」とSNS上での「逆差別」の話は、キャンセルカルチャー問題を含むネット言論の大きな特徴をうまく言い当てていると感じた。
人種問題でも、ジェンダー問題でも、歴史問題であっても、議論が分かれるテーマを論じる際には、その経緯や背景、先行する議論、事実関係などを調べるべきだといわれる。これは一見、正論に思えるが、時間資源を考慮しない、まったく役に立たない無意味な主張だ。
正義に関する特定のテーマに精通している者(一般に「活動家(アクティビスト)」と 呼ばれる)は、その問題にほとんどの時間資源を投入している。そうした活動家が、時間資源のきびしい制約に直面しているひとたちに対して「正しい知識をもて」というのは、「自分たちが真理を独占しているのだから、なにも知らない奴は黙っていろ」というマウンティングを婉曲に言い換えただけだ。(略)
このようにして、右か左かにかかわらず、あるテーマに特化した知識をもつ少数の者が特権的な立場を占め、それ以外の多数派を排除する構図ができあがる。SNSでは、マイノリティ(特定の問題に大きな時間資源を投じられるひと)が、マジョリティ (日々の生活の忙しさで、その問題に時間資源を投じられないひと)を抑圧するという「逆差別」が起きているのだ。
これから読む本
『世界はなぜ地獄になるのか』では色々な本からの引用もあり、読みたい本が増えたのでメモ。
また、トランスジェンダー問題については、やはり一冊読まないとだめだ。
既読が2作品で偉そうなことは言えないが、自分にとって澤村伊智は高い信頼を置いている「鉄板」のエンタメ作家。
今回も、タイトルのイメージから想像していた通りのホラー要素に、いかにも澤村伊智らしいエンタメ的仕掛けの数々。
その点ではとても納得の一冊。
ただ、期待していた「突き抜けた怖さ」がなかった。
期待値がマックスだったのは後半パートで、主人公・矢口が、初めて光明が丘のニュータウンに入る場面。タクシーの運転手に「カメラ回しておいた方がいいですよ」とアドバイスされながら道を進むと、中央分離帯に、仮面を被った巨大な藁人形が何体も現れるところ。
この街はヤバい…
その予感は強烈だった。
では、何故この小説が自分にとってヒットしなかったのかをいくつかの要素に分けて考えてみたい。
仕掛け
前半部の救出譚が、実は宗教団体「大地の民」の教祖の自伝に書かれた内容だったというメタな構造(これは好き)の上に、当然のように被せてくる叙述トリック。
ただ、年齢に関する叙述トリックは有名ミステリの傑作があることもあり、ここが、そこまで効果的だったか疑問に感じてしまった。
幕の内弁当的に、エンタメ要素が揃い過ぎていて、それぞれの破壊力が打ち消し合っている感じがした。
オチ(知識)
オチに近い場所で唐突に登戸研究所が出てくる。
これも効果的だったのか疑問だ。
特に、ちょうど読んだばかりの別の小説で、七三一部隊がストーリー上のポイントとして上手く使われていたこともあり、それと比べて少し安易に感じてしまった。また、類似した展開がある『ひぐらしのなく頃に』と比べても『ひぐらし』の方が圧倒的に怖かった。(というのは、自分にとって『ひぐらし』の方が先だったからなのだろうか)
確かに歴史的事実に物語の基礎があることが判明すると、ノンフィクション感が出ることもあり、怖さが増すが、それがありきたりなモチーフだと逆効果になってしまうように思う。(「実際にそんなことがあったのか!」ではなく、「フィクションあるある」と思われてしまう)
オチ(破滅)
終わり方は意外性があって面白いと思う。
宗教団体の意図通りに、世界が終末を迎える、というようなありきたりな終わり方を避け、団体の真意は集団自殺にあり、主人公・矢口にその引き金を引かせようとしていた。
いわば、物語のすべてが、「大地の民」による集団ドッキリだった!
しかしそれを見抜いた矢口が、裏をかいて、誰も死なないラストを迎える。*1
果たして、それでよいのだろうか。みんな生き残って良いのだろうか。(笑)
こういう物語は、もっと犠牲者が出て、読者に嫌な思いを味わわせなくてはいけないのじゃないだろうか…。(笑)
結局何がダメだったのか
グダグダ書いていてわかってきた!
ここまで自分は「パターン(定型)」にハマる/外すのバランスが面白さを決める、というような流れで話を進めてきたが、そこがポイントではなかった。
そうではなく、自分が小説に一番求めているのは、登場人物たちの感情、怒り、悲しみ、悩みがいかに切実なのか、そこに入り込めるか、という部分なのだということがわかった。
そこに特化し、「パターン」を気にしない作品を、2作品*2も直前に読んでいたから、対照的に、登場人物の誰にも、深い部分で人間を感じられなかった本作に不満を感じてしまったのだと思う。
『ぼぎわん』も『キリカ』も、小説の仕掛けや舞台設定、アクションより、とにかく登場人物の魅力が大きかった(本当に嫌な人も出てきた)ことを考えると、ホラー小説の恐怖は、物語の構造よりも、登場人物の実在感に大きく影響されるのではないか。
その意味では、今回、澤村伊智作品に求めるものが明確になって良かった。
今後、比嘉姉妹シリーズなどメインストリームをしっかり辿って澤村伊智の小説の面白さを改めて確かめていきたい。
『虎に翼』が終わった。
今年見た映像作品の中では、最も考えさせられ、心揺さぶられた作品と言えると思う。
戦前から始まった物語の最終回第130話は、主人公・佐田寅子の死後、娘の優未が(寅子と一緒に)平成11年の「男女共同参画社会基本法」施行のニュースをテレビで見るシーンから始まる。(同法が大きな前進なのか、「はて?」案件なのかは視聴者に委ねられている)
平成11年(1999年)なんてつい最近じゃないか!
それこそ、ドラマの中ではなく、まさにこれまで生きてきた日本社会。
ちょうど読んだばかりの本書は、「男女共同参画社会基本法」の少し前、1985年の「男女雇用機会均等法」「労働者派遣法」のあたりから遡って日本社会の変化を俯瞰する。
この終章の文章が全体のまとめとしてもわかりやすく、『虎に翼』にも通じるところがある。長いが引用する。
2019年、東大入学式のスピーチのなかで反響が大きかったのが、フェミニズムの定義についてです。わたしは「フェミニズムは決して女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」と述べましたが、それに対して、そんなフェミニズムの定義は初めて聞いたという反応が、とりわけ男性から寄せられました。というのも、多くの男性のフェミニズム理解は、自分の間尺に合わせたもの、すなわち「男女同権?キミたち、オレたちみたいになりたいわけ?なら女を捨ててかかってこ い!」というものだからです。
ですから、勝ち抜き戦に勝ち抜いた女性を「フェミニスト」の代表のように見る見方も出てきます。フェアな競争に勝ってそれにふさわしい報酬を受け取ることが「男女平等」だと考える女性もいます。これが男女雇用機会均等法にいう「男女平等」の理念です。ですが均等法にいう「機会均等」とは、「紳士服仕立て」のアンフェアなルールであったことはすでに述べました。均等法が登場したとき、若い女性たちに男と同じように競争に参加して、歯を食いしばって勝ち抜けとエールを送るのがフェミニズムであるはずがない、そんなフェミニズムはわたしのフェミニズムではないと思った直感を、思い出します。
ここでいう「弱者が弱者のままで尊重される社会」は、(もちろんドラマ自体のメインテーマである基本的人権にも重なるが)『虎に翼』の要所要所で、寅子が釘を刺される部分と通じる。つまり、寅子のように「勝ち抜き戦で勝ち抜いた女性」ばかりが賞賛され、その努力を、その他の大半にも求めてしまうような社会は失敗している。そういう話はドラマにも何度も出てくる。
時には寅子が直接ダメ出しを受ける場面に、「偉い人」のありがたい話で終わらせない、終わらせてはならない、という脚本の強い意志を感じる。
なお、上野千鶴子は、この両極端のフェミニズムを取り上げたあと、「フェミニズムは百人百様、自己申告概念だから、どちらもOK」とし、あくまで「正しいフェミニズム」などないとするのも流石の振る舞い。
そして、結び。
若い頃「こんな世の中に誰がした?」と大人を責めた上野先生、今になって、あとから来る人たちに同じ言葉で責められたら顔向けできない、と申し訳なく思う。
何もやってこなかったわけではありません。努力もしましたし、闘いもしました。ですが世の中を大きく変えるには、力が及びませんでした。若い人たちには、ごめんなさい、と言わなければなりません。それでも微力ではあったが、非力ではなかった、と思いたい。
介護保険をつくったのは数少ないよいことのひとつでした。DV防止法ができたのも、刑法改正が成り立ったのも、闘いの成果でした。
社会は急には変わりません。この本を読んでいるあなたたちにも、すぐにあとからくる世代が追いつきます。彼らもまたあなたたちに「こんな世の中に誰がした」と詰め寄るでしょう。そのときに「こんな世の中を手渡すことになって、ごめんなさい」と言わずにすむように。わたしたちが先にいる人たちから受け取ってきたバトンを、今度はあなたが受け取る番です。
これも『虎に翼』で出てくる話だ。
ドラマ最終回は、これまでも繰り返し出てきた「雨垂れ」の話が最後の最後にフィーチャーされる。
これも記事があったので、そちらから台詞部分を引用する。
寅子「でも、今変わらなくても、その声がいつか何かを変えるかもしれない」
桂場「君はあれだけ、石を穿つことのできない雨垂れは嫌だと、腹を立ててきただろ」
寅子「未来の人たちのために、自ら雨垂れを選ぶことは、苦ではありません。むしろ至極光栄です」
桂場「それは君が佐田寅子だからだ。君のように血が流れていようとも、その地獄に喜ぶ物好きは、ほんのわずかだ」
山田よね(土居志央梨)「いや、ほんのわずかだろうが、確かにここにいる」
明律大学女子部の面々、玉(羽瀬川なぎ)、轟太一(戸塚純貴)の顔――。
桂場「失敬。撤回する。君のようなご婦人が特別だった時代は、もう、終わったんだな」
桂場が団子を口に運ぶのを遮り、寅子は「はて?」――。「いつだって私のような女はごまんといますよ。ただ時代がそれを許さず、特別にしただけです」。桂場の額に付いていた桜の花びらを取った。
「虎に翼」最終回 穂高への激怒&花束拒否も回収 寅子“自ら”雨垂れ「これが解答…でも不憫」ネット反響(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
上野千鶴子の本を読み、ドラマ最終回を見て、どのような社会問題についても、自分のような世代は、既に「バトンを渡す」側にいるのだということを痛感する。
そして、誰もが、自分たちの時代で成し得なくても「未来の人たちのために、自ら雨垂れを選ぶ」、そうした行動を選択することが出来る。
今後、「何をしても変わらない」とニヒリズムのダークサイドにハマりそうになったら、心の中に住み着いたドラマキャラクター達が語り掛けてくるような気がする。
ドラマの中で何度もそんな場面があったように。
『虎に翼』については、また文章を書きたいと思うが、やっぱり良かったです!
そのほか
仕事、結婚、教育、老後と4つのテーマで書かれた全4章の中では、1985年の雇用機会均等法の問題点に迫った1章(仕事)も勉強になったが、自分の子どもが受験期ということもあり3章(教育)が興味深かった。
この中で、男子校出身者、女子校出身者についてひと通り取り上げる部分がある。
衝撃を受けたのはまず男子大学生(に限らず男性全般)についての記述。
男らしさの特技のひとつは、あらゆる状況を自分に都合よく解釈することです。(略)
東京大学でハラスメント相談所を開設したとき、想定外のことが起きました。制度を設計したときに主として想定したのは、権力勾配を前提にした男性教員と女子学生や女子大学院生との関係でした。ところが実際には、男子学生が女子学生につきまとうストーカー事案が意外なほど多数登場しました。そのため、学内に別途ストーカー対策委員会を立ち上げなければならないほどでした。
このエピソードは、交際経験がないあまりに「僕が選ばれないはずがない」という妄想からストーカー化する男子校出身者の事例が多いという話だが、自分自身は今に至るまでそんなことしなかった(もしくは、していた自覚が無い)ものの、「その気持ちわかる」と思ってしまうし、周囲にもいたかもしれない。(笑…えない)
また、都合の良い解釈は、自分の得意技だ(笑)
このあとの優秀女性分析もよくわかる。ここで言う「ウィークネスフォビア」は、むしろ男の方に当てはまる特性だろう。
偏差値競争を勝ち抜いてきた東大女子のなかには、生まれてこのかた性差別など一度も味わったことがない、と断言する者もいます。偏差値競争は男女平等ですし、男子より成績のいい女子はたくさんいます。(略)
彼女たちは自分が「女だ、男だ」ということにとらわれたくないと感じて、フェミニズムからも距離を置きます。自分を弱者だと思いたくないから、自分を弱者だと言う女に反感を持ちます。「セクハラ被害に遭った」と言い立てるような女を許せないのです。わたしはそれをウィークネスフォビア(弱さ嫌悪)と呼んでいます。エリートであればあるほど、ウィークネスフォビアを持つ傾向があります。自分の弱さを言い募る他人を許せないのは、自分のなかにある弱さを認めたくない、認められないことの現れでしょう。
こういった色々なエピソード含め、時系列的に社会の流れを追いながらも(語りおろしという形で書かれているのかもしれないが)話を聞いているように読める、とても読みやすい一冊だった。
フェミニズムの本も定期的な摂取を心掛けているジャンルなので、今後も読みやすいものから(本当に読みにくい=苦しくなってくる本もあるので)どんどんトライしよう。