ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場 (original) (raw)

別格第二十番札所 福大三 大瀧寺

(ふくだいさん おおたきじ)

住所 美馬市脇町字西大谷674

電話 0883−53−7910

大窪寺から大瀧寺まで

距離 29.7km 標高差 +900m -419m

大窪寺から大瀧寺まで

寺伝によると神亀三年(726)行基が塩江より大滝山に登り、山上に一宇を建立して阿弥陀三尊を安置する。山の麓にある塩江温泉も、天平年間(729〜749)に行基により開湯されたという伝承が残る。延暦十年(791)弘法大師がこの地に入山して求聞持法を修する。これは、大師が著作した出家宣言の書「三教指帰(さんごうしいき)」に記された「求聞持法の修行地、阿国大瀧の獄」が、大滝山であると解されていることによる。弘仁六年(815)弘法大師が四十二才の時に再度山に訪れ、西照大権現の尊像を安置。法華経を一石毎に書き、男女厄流しの秘法を修する。天安二年(858)には理源大師聖宝が入山して高野槙を手植し、男女厄除厄流の大護摩を修法する。大瀧寺住職の墓所の上には高野槇の大木が、境内には「天安二年聖宝尊師大護摩所」と刻まれた石碑がそれぞれあったと伝わるが、今は定かでなない。江戸時代には高松藩徳島藩家老の稲田氏の祈願所となり、西照大権現堂、龍王堂、護摩堂、観音堂、不動堂、弘法大師御影堂、鐘楼堂の堂宇が整備される。また、参道には十八基の鳥居が立ち、東方山中には奥の院熊野十二社大権現があったとされるが、明治十六年に客殿が、明治二十三年に権現堂が焼失する。さらに、昭和四十五年にも寺は火災に見舞われ、本堂兼大師堂以外が全て灰燼に帰する。寺のある大滝山は修験の山であり、吉野川をはさんで屹立する高越山(こうつやま)も同じである。修験の山どうしの両山には以下の伝説が伝わる。昔、大滝山と高越山が争い、怒って石の投げ合いを始めた。大滝山の石が次々と高越山に投げられ、高越山の石も次々と大滝山に投げられる。いつ果てるか分からない争いも、自分の山の岩でないものは自由に出来ないとの定めにより、全ての石を投げ尽くすと自然と争いが收まったという。今、大滝山にある岩は元は全て高越山のもの、高越山の岩は元は全て大滝山のものだという。寺は、徳島県香川県の県境にある大滝山(標高946m)の山頂近くの標高910m付近にあり、別格二十霊場、四国八十八霊場の中で最も高所に位置する。寺は四国八十八箇所総奥之院と呼ばれ、八十八霊場を打ち終えた後に本寺を訪れるお遍路さんもかつては多く見られたという。別格霊場最後の札所であるが、まさかこれほどの山奥にあるとは思わなかった。最後の最後に大ボスの登場である。とは言え道はそれなりに整備されており、時間こそかかるがスーパーカブでは快走コースである。大滝山へは南、北、西の三方向からアクセス出来るので、好きなルートで登り下ればよい。寺はいたって小ぢんまりとしており、八十八霊場のような賑やかさは全く感じられない。別格霊場の代表とも言えるような質素な寺であり、境内もきれいに整えられ清々しい。昔の徒歩のお遍路さんが、八十八霊場を打ち終えこの寺に登ってきたとき、どんな気持ちであったのかとふと考えてしまう。四国遍路の打ち止めとして実にふさわしい寺である。四国別格二十霊場のHPには「現在寺宝としては別にありません」と書かれてあるが、観光客はともかく、お遍路さんにとってはそれで十分だと思う。最後に四国霊場巡りの原点とも云うべき寺に戻れたことに感謝し、筆を置くこととしたい。

御詠歌 霊峰の岩間にひらく法の道 厄をながして衆生ぞすくわる

御本尊 西照大権現

真言 南無西照大権現

第八十八番札所 医王山 大窪寺

(いおうざん おおくぼじ)

住所 さぬき市多和兼割96

電話 0879−56−2278

長尾寺から大窪寺まで

距離 15.1km 標高差 +521m -119m

長尾寺から大窪寺まで

縁起によると、養老元年(717)に行基がこの地を訪れた際、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたのが寺の創建とされる。弘仁六年(816)、唐から帰国した弘法大師が近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で虚空蔵求聞持法を修法し、堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し、本尊とする。また、唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を堂宇に納め、結願の地と定める。寺名は窪地にあることにちなみ、大窪寺と称する。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があり、本尊に水を捧げるために大師が独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝わる。霊水は薬とともに服用すると霊験あらたかとされるが、本尊の薬師如来は薬壺を手にした通常の姿ではなく、法螺貝を持つ。人々の悩みや厄難諸病を吹き払うために持ち替えたとのこと。寺は女性の入山が早くから認められため、「女人高野」として栄える。一時は百以上の堂宇を誇るが、天正の兵火や明治三十三年の火災など幾度となく災禍に見舞われる。高松藩主の庇護や歴代住職の尽力、人々の支援により、都度困難を乗り越えて今に至る。本堂は礼堂、中殿、奥殿(多宝塔)からなり、奥殿には木製薬師如来坐像と三国伝来の鉄錫杖が安置されている。大師堂の地下には四国霊場八十八箇所の小さな本尊が祀られ、八十八箇所のお砂踏みが出来る道場がある。一周すればそれぞれ参拝したのと同じご利益が得られると言われ、他の寺にも同様のものを見かけるが、大窪寺は八十八番目の結願の寺。この道場にて、それぞれの寺を思い浮かべながら廻るのも感慨ひとしお、とガイドブックに書いてあった。「同行二人」を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂(ほうじょうどう)へと奉納するのがお遍路の慣わし。これらの品は毎年春分の日と八月二十日に「柴灯(さいとう)護摩供」の焚き上げで供養される。寺は徳島県の県境に近い矢筈山(782m)の東側中腹、標高450m辺りの大きな窪地の中にある。昔は深山幽谷、天狗が住む胎蔵ヶ峰が背後に屹立する神秘を極めた道場であった。結願のゆるみか行き倒れて死んでいく遍路も多く、付近の草むらには名も知れぬ遍路の墓が埋もれているという。屋島で敗戦した平家の落武者がこの窪を通る際に目印に銭を置いたといい、落武者を弔った塚もある。寺はこうした深山に囲まれるように立ち、境内は細長くやや狭さを感じるが、開放感は十分。結願の記念写真を撮るお遍路さんも多く見られ、笑い声が飛び交うのは結願の寺ならではのこと。秋には境内のカエデやイチョウが綺麗に色づき、賑やかさに彩りを添える。山門を下ると土産物屋軒食堂が軒を並べ、名物「打ち込みうどん」の香りが漂う。根菜類に油あげ、豚肉、ねぎと打ちたての麺を煮込んだ秘伝の味だそうで、土産用もある。昔はそば粉八割の打ち止め蕎麦が名物だったらしい。結願の寺での過ごし方は人それぞれ。山中故に日が暮れるのが早いが、思い残すことなく楽しむのがよい。

御詠歌 南無薬師諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺

御本尊 薬師如来

真言 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

第八十七番札所 補陀洛山 長尾寺

(ほだらくざん ながおじ)

住所 さぬき市長尾西653

電話 0879−52−2041

志度寺から長尾寺まで

距離 6.9km 標高差 ほぼ平坦

志渡寺から長尾寺まで

縁起によると、天平十一年(739)行基がこの地を訪れると道端の楊柳(ようりゅう)に霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造して堂宇を建立、本尊として安置する。その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法、国家安泰と五穀豊穣を祈願する。祈祷の七日目の夜、大師が護符を丘の上から人々に投げ与えたとの伝説があり、これが毎年正月の七日の「大会陽(だいえよう)」の行事として今に伝わる。この日は境内で福餅が投げられ、重さ160kgの大鏡餅を力自慢の若者が競って運ぶ競技が盛大に行われる。天長ニ年(825)唐より帰朝した大師は大日経を一石に一字ずつ書写して供養塔を設立。寺の伽藍を整え真言宗へと改宗する。その後、天正の兵火で堂宇は灰塵に帰すが、慶長年間(1596〜1615)に国主・生駒家によって寺は再興され、寺名を長尾観音寺と称される。天和元年(1681)には藩主松平頼常が堂塔を寄進し、天台宗へと改宗する。元禄六年(1693)には寺領が与えられ、寺名が観音院長尾寺へと改められる。なお、寂本の「四国偏礼霊場記(1689年刊)」には、寺は聖徳太子が創建したとされているが、寺伝にはこうした記録はないようである。寛文十年(1670)に建立された山門は日本三大名門の一つであり、三つ棟木という珍しい工法で造られている。鐘楼門の前に立つ二基の経幢は鎌倉時代の作。元寇の役に出役した将兵の慰霊碑であり、国の重要文化財に指定されている。昭和二十九年に指定されるまでは、門前の馬や牛をつないでいたという。本堂の左脇には静御前の剃髪塚がある。静御前源義経と別れた後、母の磯禅師と共に当寺を訪れ、得度した後に髪を埋めたと伝わる塚である。境内はいたって広く、1haの面積に及ぶという。明治以降、寺が学校や警察、郡役所などの公共施設に供されたというのもうなずける。今は地域コミュニティの場であり、地元から「長尾の観音さん」として親しまれるなどいたって開放的な寺である。この開放感は、四国八十八霊場も残り一つという「心の軽さ」が反映しているような気がする。すれちがうお遍路さんにもどことなく明るい表情が漂う。寺は長尾町の中心にあり、典型的な門前町の様相を示す。楽しかったロードバイクによるお寺巡りもここでお終い。一歩裏手に入り、狭い路地に軒を並べる街並みをロードバイクで散策するのもよい。最後に訪ねた場所として、きっと良い思い出になると思う。

御詠歌 あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名をとなえよ

御本尊 聖観世音菩薩

真言 おん あろりきゃ そわか

第八十六番札所 補陀洛山 志度寺

(ほだらくざん しどじ)

住所 さぬき市志度1102

電話 087-894−0086

八栗寺から志度寺まで

距離 6.4km 標高差 +3m -227m

八栗寺から志渡寺まで

縁起によると、寺の開創は四国霊場の中でも古く、推古天皇三十三年(625)と伝わる。近江国から志度浦へとたどり着いた檜の霊木を凡園子(おおしそのこ)が草庵に持ち帰り、これを刻んで十一面観音像を造り、一間四面の小さな堂を建て祀ったのが寺の始まりとされる。天武天皇十年(681)には藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し、寺を「死度道場」と名付ける。持統天皇七年(693)には不比等の息子、房前が行基とともに堂宇を拡張。寺名を志度寺へと改め、以降寺は学問の道場として栄える。寺は能楽謡曲「海士(あま)」の舞台として知られる。この話は海女の悲しい玉取りの伝説に由来する。藤原鎌足の娘、白光女は唐の高祖皇帝の妃となり、奈良の興福寺への奉納のため三つの宝物を送るが、そのうちの「面向不背の珠」という宝が志度湾で龍神に奪われる。これを取り戻すため、藤原不比等はこの地に住む海女と婚姻し、子をもうける。この海女は、我が子の立身を願い、死を決して龍神の棲む龍宮へ向かう。玉は無事取り戻せたが、龍神に追われ手足を食いちぎられたため、乳房の下を切り玉を隠して浮き上がり、遂に息絶えたという。不比等は薗子尼が建てた堂の傍らに海女の墓を造り、霊を篤く弔う。その後、藤原房前となった海女の子が寺を訪れ、母の供養のために千基の石塔を建立する。そのうち残った二十基余が海女の墓といわれ、寺の駐車場の脇に今も静かに眠っている。房前という名は近くの浜の地名に由来する。その後、弘仁年間(810〜824)に弘法大師が巡錫に訪れ、伽藍の修繕を行う。室町時代には四国管領細川氏が寄進して寺は繁栄するが、戦乱により荒廃。藤原氏末裔の生駒親正が寺を支援して再興を果たす。寛文十年(1671)には高松藩松平頼重が本堂と仁王門を寄進。以来、高松藩松平氏の庇護により寺は発展を続ける。門前町の突き当たりにある仁王門は運慶の力作。全国的にも珍しい三棟造りの堂々とした佇まいで、国の重要文化財に指定されている。閻魔堂に安置されている閻魔大王像は室町時代の中頃、「弥阿」という尼僧が等身大の像を作るように命じて自ら体を採寸させ、彫像後これを蘇生させたと伝わる。閻魔大王の顔は、参拝する人のその時々の心の在りようによって、怖い顔に見えたり優しい顔に見えたりするという。地元出身の実業家により寄進された五重塔は高さ33mで、巨大ワラジが据えられている山門とセットで絵になる光景である。本堂と大師堂は鬱蒼とした木々に覆われ、寺全体が植物園の如く大木・中低木が生い茂る場となっている。寺の裏手には志度湾が広がり、瀬戸内海の波光が美しく輝く。この穏やかな海にかくも恐ろしい伝説が伝わるとは想像できないが、志度寺には「寺の裏は極楽浄土に続いている」との言い伝えがある。霊場は魔界への入口とよく言われるが、水面を覗き込むと思わず引き込まれそうになった。七月十六日は海女の命日だという。この日は年に一度だけ本尊の十一面観音が御開帳されるので、いつか機会を見つけては命日に訪ねてみたいと思う。

御詠歌 いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ

御本尊 十一面観音菩薩

真言 おん まか きゃろにきゃ そわか

第八十五番札所 五剣山 八栗寺

(ごけんざん やくりじ)

住所 高松市牟礼丁牟礼3416

電話 087-845−9603

屋島寺から八栗寺まで

距離 9.7km 標高差 +281m -336m

屋島寺から八栗寺まで

天長六年(829)、若き弘法大師が五剣山に登り虚空蔵求聞持法を修めると、五本の剣が天から振り注ぎ、山の鎮守である蔵王権現が現れる。蔵王権現は「この山は仏教相応の霊地なり」と告げたため、大師はそれらの剣を山中に埋めて鎮護とし、大日如来像を刻んで五剣山と名付ける。当時の山の頂きからは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたため、寺名は八国寺と称したという。 延暦年代(782〜806)、大師は唐に留学する前に再びこの山に登り、入唐求法の成否を占うため八個の焼き栗を植える。無事帰国して大同三年(808)に再び寺を訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹き、生長繁茂していたことから、大師は寺名を八栗寺へと改称する。天正の兵火で堂宇は焼失するが、江戸時代に無辺上人が本堂を再建する。その後、高松藩主の松平頼重が現在の本堂を建立し、大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置する。本堂の横に建つ聖天堂には、木喰以空上人が後水尾天皇皇后から賜った歓喜天が祀られている。商売繁盛や学業成就、縁結びにご利益があると言われ、地元からは「八栗の聖天さん」として親しまれている。本堂後方の中将坊堂に祀られている中将坊は、さぬき三大天狗の一人。中将坊は夜に山から下りてきて、民衆のために良いことをして朝帰ると伝わる。中将坊堂の脇に下駄を奉納し、翌日下駄が汚れていれば中将坊が働いてくれた印だという。納経所から少し降りると展望台があり、お迎え大師の石像が鎮座している。屋島高松市内が一望でき、夜景のスポットとしても有名。寺は屋島の東、源平の古戦場を挟んだ標高375mの五剣山の山腹にある。五剣山は地上から剣を突き上げたような神秘的な様相を示すが、高級墓石材として有名な庵治石(あじいし)の一大産地でもある。寺へはレトロなケーブルカーでも行けるが、地元車は県道八栗原線を登ってくる。道は意外と整備されており、距離も程よい程度なのでスーパーカブでは楽勝なコース。国道まで降りずに並走する地元道を走れば、車も少なく快適だが、登り口を間違えないよう注意が必要。県庁所在地である高松市の寺もこれでお終い。これまでは県内東向きに寺を進んできたが、いよいよ結願を目指して南下することとなる。

御詠歌 煩悩を胸の智火にて八栗をば 修行者ならでたれか知るべき

御本尊 聖観音

真言 おん あろりきゃ そわか

第八十四番札所 南面山 屋島寺

(なんめんざん やしまじ)

住所 高松市屋島東町1808

電話 087-841−9418

一宮寺から屋島寺まで

距離 16.3km 標高差 +322m -76m

一宮寺から屋島寺まで

寺は鑑真により開創されたと伝わる。鑑真は唐の学僧で、朝廷の要請を受け五度にわたって出航したが、暴風や難破で失明。天平勝宝五年(753)に苦難の末鹿児島に漂着する。翌年、東大寺に船で向かう途中、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得し、屋島の北嶺に登る。そして、山の頂に普賢堂を建立し、持参した普賢菩薩像を安置して経典を納める。後に弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立し、屋島寺と称して初代住職に就く。弘仁六年(815)、弘法大師嵯峨天皇の勅願を受けて寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺へと移す。また、十一面千手観音像を彫造して本尊として安置し、蓑山明神を寺の鎮護の神として祀る。以降、大師は寺の中興開山の祖として仰がれる。その後、寺は山岳仏教霊場として隆盛し、天暦年間(947〜57)には明達律師が寺を訪ねて四天王像を奉納する。現在の本尊・十一面千手観音坐像もこの頃に造られたという。寺運は戦乱によって衰退するが、国主生駒家の寺領寄進や歴代藩主の援助により相次いで修築される。明治に入ると廃仏毀釈運動により寺勢は衰退するが、明治三十年に屋島保勝会が結成され寺の復興につとめる。観光を兼ねた屋島登山は日清戦争後から盛んになったといい、これに伴い寺の堂宇も順次整備されることとなる。屋島源平合戦の古戦場として名高く、「那須与一の扇の的」や「義経の弓流し」などの舞台となった場所である。こうした由縁もあり、鎌倉時代の作である寺の梵鐘はいつの頃からか「平家供養の鐘」と呼ばれるようになる。この鐘は、本尊の十一面千手観音坐像や本堂と同様、国の重要文化財に指定されている。境内の池には大師がお経と宝珠を納めたとの伝説が残るが、その後、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから、こちらもいつの頃からか「血の池」と呼ばれるようになったという。本堂の右手にある蓑山大明神の祭神は日本三大名狸に数えられる「屋島太三郎狸」。蓑笠をつけた老人の姿で現れ、弘法大師を案内したと伝わる。四国狸の総大将で、子宝や縁結び、家庭円満にご利益があるという。本堂の左手前には「屋島寺宝物館」があり、本尊や源平盛衰記絵巻物、源氏の白旗、屋島合戦屏風など多彩な寺宝が保存・展示されている。寺は無料の屋島スカイウエイを登り切った終点にあり、巨大な駐車場と目に飛び込んでくる。ドライブウエイもあり、休日には団体バスツアーが続々と押し寄せる。お遍路さんはどちらかと云うと場違いな感じがするが、本堂の前に立つと不思議と心が落ち着き、周囲の喧騒も気にならなくなる。自分と御大師様との世界へとピタリとはまり込んだようであり、これも百を超す霊場を拝んできた成果なのかと妙に感心してしまう。四国霊場巡りも残り僅かとなり、お遍路三昧の週末もそろそろお終い。普段の週末に戻るのかと思うとホッとする反面、何やら一抹の寂しさを感じてしまう。寺からの下りは瀬戸内海を眼下に見ながらのワインディングロードで別名「源平ロマン街道」。霊場巡りの行程の中では、鯖大師本坊から最御崎寺までの海岸ルート、土佐清水市金剛福寺をつなぐ周回コースと並ぶ、スーパーカブの「三大快走路」だと思う。距離が短いのが少々残念だが、瀬戸内ならではの「多島海の風景」を楽しみながら下ることとしたい。

御詠歌 梓弓屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇む武夫

御本尊 十一面千手観音坐像

真言 おん ばさら たらま きりく

第八十三番札所 神毫山 一宮寺

(しんごうざん いちのみやじ)

住所 高松市一宮町607

電話 087-885-2301

香西寺から一宮寺まで

距離 8.9km 標高差 ほぼ平坦

香西寺から一宮寺まで

縁起によると大宝年間(701〜704)、法相宗の祖・義淵(ぎえん)僧正が寺を開基したと伝わる。義淵は奈良仏教の礎を築き、行基東大寺初代別当の良弁僧正を教えたことで知られる高僧である。年号にちなみ寺を大宝院と称する。和同年間(708〜715)、諸国に一宮寺が建立された際、田村神社が讃岐一宮として建立され、寺はその別当となる。その後、行基が堂宇を修築し、寺名を一宮寺へと改める。大同年間(806〜810)に弘法大師が寺を訪れ伽藍を整備。聖観世音菩薩を刻んで本尊とし、真言宗へと改宗する。寺は天正の兵火により灰燼へと帰するが、中興の祖とされる宥勢大徳により再興される。江戸時代に入ると、高松藩主により寺は田村神社別当を解かれることとなり、現在地へと移転する。明治初期の神仏分離よりも200年も前に、本寺では神社との分離が行われたこととなり興味深い。寺の本堂左手には薬師如来を祀る小さな祠がある。「地獄の釜」と呼ばれ、祠の底から地獄の釜の煮えたぎる音が聞こえるという。この祠は、頭を入れると境地が開けるが、悪いことをした者が頭を入れると扉が閉まり、頭が抜けなくなると伝わる。昔、近くに暮らす意地悪のおタネ婆さんが「そんなことはない」と頭に入れると扉が閉まり、ゴーという地獄の釜の音が聞こえ頭が抜けなくなる。怖くなったおタネ婆さんは今までの悪事を謝ると頭がすっと抜け、以来おタネ婆さんは心を入れ替え、人々から慕われるようになったという。境内にはクスノキの大木が本堂と大師堂を覆うように茂り、葉の緑色がとても美しい。山門の両脇にある仁王尊立像は京都の仏師・赤尾右京の作。旅の道中安全を祈願する大わらじが奉納されている。駐車場は山門の反対側にあるので、知らずに入ると本堂の裏から入ることとなる。寺のすぐそばに県立高松南高校があり、自転車登校する生徒たちが走り去る。寺の参拝は地味な高齢者が多いため、それと対照的に若い子の制服姿がみずみずしく見える。どこの寺もそうだが、寺域は霊気の漂う異次元の世界。一歩駐車場に出ると普段の生活の場へと戻る。昭和の時代に「異邦人」という歌が流行ったが、霊場巡りこそ「遍路=異邦人」の孤独とその楽しさとを手軽に味わうことが出来る、最高の旅なのかも知れない。ロードバイクをこぎながら、思わず久保田早紀の歌を口ずさんでしまった。

御詠歌 讃岐一宮の御前に仰ぎきて 神の心を誰かしらゆう

御本尊 聖観音

真言 おん あろりきゃ そわか