無駄に生きるとはどういうことか (original) (raw)

先週近所の福祉センターで上映された「ぼけますから、よろしくお願いします」を観に行った。去年観たものの続編で、アルツハイマーを発症した母親の亡くなるまでの映像記録だ。私ならこのような撮影はご免こうむりたいが、製作者が映像作家である実の娘なのでとことん協力してもらえたのかな。

私も含めてあの場で観ていた観客のほとんどは、程度の差こそあれ近い将来の自分の姿を見ているようで、身につまされる思いになったのではないだろうか。ところがどうしたことか時々笑い声が聞こえてくる。笑うところではないように思うんだが、中にはそうでない人たちもいたようだ。

それはぼけて自分がわからなくなった母親が錯乱するシーンだった。これが喜劇映画で喜劇役者が演じているのならまだわかるが、これはそうではない。あのシーンを見て笑える人の神経はよくわからない。自分とは関係ない別世界の出来事だと思って観ているのかもしれないが、想像力の働かないお気楽な人たちがある意味羨ましい。

有吉佐和子作「恍惚の人」を読んで、人がこのようになるのかとショックを受けたのが21歳の時だった。それから50年たってあの茂造さんの年代に達したわけだが、たしかに物忘れは増えてきた。スーパーに買い物に行って、さて何を買うつもりだったのか?或いは2階へ上がったのはいいが、いったい何をしに来たのか?こんなことは別にめずらしいことではない。ここらあたりまでは誰でも来るらしいが、問題はその先だ。

民生委員になってこの4年間でも、認知症がすすんで施設に入った方も何名かいた。そして認知症の進み方は驚くほど速かった。始めはシャッターを閉め忘れるようになり、開いていることを伝えると自分で閉めていた。それが自分で閉められなくなり、最後には閉めること自体を忘れてしまう。このように普通にできていたことがだんだんできなくなり途方に暮れてしまう姿をみていると、若い頃から知っているだけにつらいものがある。

私の母親は近所の人達と、岡山にあるぼけ封じの寺にお参りに行って、これで大丈夫と冗談を言っていたら、確かにぼけなかったがぼける前にガンで亡くなってしまった。これもぼけ封じの御利益があったといえなくもない。今から思えばぼけずに85歳まで元気に生きたのだから、考えようによっては良かったと言えるのかもしれない。

60年前には市内一番の繁華街の入口に科学教材社というプラモデルの店があって、毎日学校帰りの中学生や高校生が店の中をのぞいていた。プラモデル自体が珍しかったこともあったが、入口の陳列に置いてあった戦艦大和と、当時話題になっていた原子力船サバンナの大きな模型を飽きずに眺めている子供も沢山いた。私もその一人だった。

古本屋で買ってもらった雑誌「丸」に出ていたので写真では知っていたが、精巧に作られた戦艦大和の巨大な立体模型は圧倒的だった。荒波を蹴立てて進む宿毛湾での公試運転中の写真では大和は黒い塊だったが、こんなに格好良くてきれいな船だったのかと驚いた。

語彙不足の小学生に「丸」の記事を完全に理解するのは困難だったが、様々な軍艦の写真を見るうちにその格好良さにハマってしまった。今から思えばこの頃の経験から船に興味を持つようになったのかもしれない。

瀬戸内海航路を走っていた関西汽船の客船「るり丸」「むらさき丸」「くれない丸」「こばると丸」「に志き丸」「こがね丸」。修学旅行でもお世話になったこれらの船は瀬戸内海の貴婦人と呼ばれ、連なる島々を抜けて走るその姿は、ゴツゴツと角ばった今のフェリーなどからは感じるじることがないロマンに溢れていた。

特に「るり丸」の思い出は強烈だった。4歳くらいの時だと思うが、父親が九州出張から帰って来るのを高浜港まで出迎えに行った時のことだった。海は真っ暗で恐ろしかった。汽笛を鳴らしながら沖の方からやって来た大きな船が浮桟橋いっぱいを使って接岸した。今まで見たことも無い見上げるようなその巨大な船がるり丸だっった。

昭和40年に初めて神戸港を見た時、そこに浮かんでいる多くの貨物船が1万トン前後の三島型のきれいな船体だった。こんな船に乗って世界中を回ってみたいと思ったものだ。昭和48年に船乗りになった時にはそのような船は少なくなり、専用船の時代になっていた。オイルタンカー、鉱石運搬船、バルクキャリアー、効率だけを求めて船というよりバケツのようなものになっていた。

最近の巨大客船も巨大コンテナ船も大きいだけで美しさは感じられない。商売でやっているんだから荷物を沢山積めて安くできることが一番だと言われたらそれまでだが、船を見る楽しみはなくなってしまった。

つまらなくなったのは船だけではない。橋もトンネルも建物も道路も効率だけを求めて作られているようだ。その理屈で行くと昔の美しい建物は無駄が多いということになるが、それでは東京駅復元は無駄金だったといえるのだろうか。何事も効率一辺倒ではなく、どこかに無駄を含ませるということで余裕をもって生きていくことができるのではないかということに、一部の人が気が付き始めているのではないだろうか。

型は時代精神の現れだとすれば、この数十年の流れは精神の貧困化と言えるのかもしれない。

もう40年以上前の話だが、当時明治大学の大学院に行っていたT君(としておこう)から嶋田清次郎という作家の話を聞いたことがあった。大正時代のベストセラー作家で「地上」という作品の印税で世界旅行をしたが、その後全く消えてしまった一発屋だと話してくれた。

時々古本屋にでていることがあるというので、いろいろ探し回って池袋東武百貨店の古本市で「第三部静かなる暴風」「第二部地に叛くもの」それぞれ3500円合計7000円を発見した。肝心の第一部がないし、傷んでいてちょっと高いかなとは思ったが、思い切って購入した。第一部もそのうち見つかるだろうと軽く考えていたが、その後見つけることはできなかった。第一部が手に入ったら読もうと、そのまま本棚の奥にしまってそのうちに忘れてしまった。

最近になって何かのコメント欄で「一発屋といえば嶋田清次郎」というコメントを見たことがあった。そう言えば嶋田清次郎て聞いたことがあるなと思い出して本棚の奥の方を探してみるとあの2冊の本がでてきた。出版が大正9年だから104年もたっているのでかなり傷んでいる。ちょっと無理をするとばらばらになりそうだ。

ひょっとしたら今ならkindleにあるんじゃないかと気が付いて調べてみると、予想通り三巻全部揃って売られていた。第一部は青空文庫で無料、二部三部が各々200円、本当に便利な時代になったものだ。当時は昔の本は古本でしか読めなかったのだから仕方がないとはいえ、安月給の身で7000円の出費は痛かった。

早速購入して一気に読んでしまった。ベストセラーだけあって確かに面白いし、20歳でこれだけの文章を書くというのは天才には違いない。これだけ長い小説を一気に読んだのは40年前に読んだ米川正雄訳ドストエフスキー全集以来かもしれない。大正デモクラシーを体現したような雄渾な作風は、大河の流れのように読む者を圧倒してやまない。

ただこの嶋田清次郎という人は精神的に問題があったようで、数々の奇行の末、最後は肺結核で精神病院で亡くなっているようだ。天才とはそういうものかもしれないが、人生トップギアで走らなくてもいいのにと思うのは、凡人の凡人たる所以かもしれない。兎にも角にも40年間引きずって来た人生の宿題を一つやり終えたような清々しい気分になったことは間違いない。

「東の野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」

この柿本人麻呂の歌を小学校6年の国語の教科書で初めて見たとき、先生の説明を聞きながらなんと穏やかな時代なんだろうと感じていた。人口密度も少なく、人々は原始的生活ではあるが、広々とした自然の中でゆったり暮らしていて羨ましいと思った。奈良とか天平とかいうと何となく優雅な響きがして、憧れたものだった。

中学生になって最初の国語の教科書の見開きに、遠方に大和三山を望んだ写真があった。今から思えばおそらく甘樫丘あたりから撮ったものではないかと思うが、満開の桜の向こうに見える畝傍山耳成山、天香具山がきれいだった。奈良に行ってみたいと思うようになった。

奈良大和へ行ったのは、中学2年の春休みに親に頼み込んで行かせてもらったのを皮切りに、その後仕事で行ったのを含めると10回以上になるが、日本人のルーツにも連なる価値ある場所で、興味深いところではあった。しかしその見方は歴史を知るにしたがってロマンあふれる憧れの場所から得体のしれない恐ろしい場所に変わってしまった。

そこは皇位を親兄弟と争い殺し合い、邪魔になれば天皇でも殺すというおよそ日本人の感覚とはかけ離れた権謀術数の世界で、もしもタイムマシンで行ったとすれば、今の日本人では到底生きてはいけないだろう。先の人麻呂の歌にしても決してのどかなものではなく、その底に流れるのは自分の将来を左右するであろう血筋に対する恐れなのかもしれない。

貴族や官吏はまだましな方で、山上憶良貧窮問答歌なんかをみると農民の生活なんかみじめなものだ。結局後世に残る歴史とは社会の上澄みに過ぎないとはいえ、それを毒にも薬にもならない教養として求めている多くの現代人が、大化の改新聖徳太子一族皆殺しも、長屋王一族皆殺しも大津皇子暗殺も崇峻天皇殺しも、自分には関係ない一幕の芝居を見るような気持で面白がっているが、それも困ったものだ。

近い将来、そんな明日の命もわからない時代に生きることはないとは思うがそれはわからない。遠い昔のことだといったところでたかだか1300年程前の話だ。1万年続いた縄文時代に平和に暮らしていた日本人がなぜ殺し合いを始めたのだろうかと考えるとき、渡来人の影響なしには考えられない。ヨーロッパをみてもわかるように、全く違った風土で育った人種が増えると様々な軋轢が生じることは今も同じだ。

古代日本でも多数の渡来人によって国柄が変わってしまったのだろう。恐ろしいことに現代日本でもそれが進みつつあるようだ。いいかげんに気が付かないと皆殺しの世界がそこまでやって来ているのかもしれない。祖先が培ってきたこの穏やかな風土を守るにはどうすればいいのか真剣に考えるべき時がきているのではないだろうか。歴史を知るということは一幕の芝居を楽しむだけでなく、それを通して今を知るということだと思っている。

2022年6月7日から城山登山を始めて、昨日で328回になった。日没45分前に家を出て瀬戸内海に沈む夕日の写真を撮っている。最初の頃、何回か登っているうちに猫がたくさんいるのが気になった。山頂に行くには四つのルートがあり、そのうち二つのルートで多数の猫を確認している。

野犬と違って襲われることはないだろうし、向こうから近寄ってくることも無いのでそれほど気にはならないが、猫嫌いの人にとってはあまりいい気はしないだろう。私自身は猫は苦手なんだが、誰かが捨てていくにしても、その後どうやって生きているのかちょっと興味はあった。

全部の猫が良く肥えていて健康そうなので、ハンティングでもして食料を確保しているのかと思ったが、こんな町の中の小さな山に鼠のような小動物がたくさんいるわけもなし、観光客から貰うにしても観光ゾーン以外にいる猫はどうするんだろうなどと疑問に感じていた。

それからひと月ほどして、曇天のため写真撮影ができないので少し早めに登山をしたときにその疑問は解消した。大きな袋と1Lのペットボトルを抱えた2~3人の女性が「○○ちゃん◇◇ちゃん」と猫に呼びかけていた。そして寄って来た猫にキャットフードと水を与えていた。

それを見て、野良猫を勝手に餌付けするとどんどん繁殖して、城山が猫だらけになるような気がしてちょっと心配になった。なんと無責任なことをしているんだと思ったがこの時は黙って通り過ぎた。しかしその後この人たちと時々話をするようになって、私の認識が全く間違っていたことに気が付いた。

この人たちは単に餌を与えるだけでなく、去勢不妊手術や健康管理まで面倒見ているらしい。確かによくみると耳の先がカットされている猫がいる。これは不妊去勢手術済の印だ。一年365日欠かさず登山して猫たちに餌と水を与えているのだから、猫好きが高じてとはいえ大変な負担であることに変わりはない。

7月12日の土石流以後31日まで登山道通行止めで誰も登れなかった時も、管理のため登る市職員に頼んでいたらしい。頼まれた市職員もさぞや大変だっただろう。私も31日に解除されてすぐに登ってみた。10日に登った時、登山口から少し登ったところに捨てられていた子猫が気になっていた。

道端でないていた子猫の前には2つのお椀があったから、あのグループの誰かがキャットフードと水を与えていたことは間違いないが、お椀はすでに流されてそこにはなかった。あの時、空のお椀の前で訴えるようにないていた子猫はその後の大雨には耐えられなかったに違いない。捨てるのなら途中に捨てずにせめて頂上の観光ゾーンに捨てれば助かったかもしれないとか、あと20年若ければ家に連れて帰ったかもしれないなどと思ったがどうしようもない。誰かが連れて帰ってくれたと思いたい。

13日午後8時頃に駐車場で迎え火を焚いた。女房は高校の同窓会に行っていたので今年は一人だったが、乾燥しているのか或いは要領がよくなったのか、すぐに火がついてよく燃えた。下に紙を敷いて井桁状に折ったおがらを積み上げた後、下の紙に火をつけるんだが、井桁の中心に点火しなければうまく燃えない。例年それがうまくいかず苦労していたが、今年はスーパーのレジから出てくる長いレシートを利用すること解決した。

15cmくらいのレシートを縦方向に折りたたみ、先の方を少し広げてそこに火をつけ、それを井桁の中心に差し込むという単純な方法だが、ごみになって捨てられるだけのレシートも、仏さまを迎えるのに役に立って、一仕事したとさぞや満足していることだろう。そんな馬鹿なことを考えながら火を眺めているといろいろな思い出が蘇ってきた。

初めて迎え火を見たのはもう70年近く前のことで、お盆に遊びに行った母の里だった。そこの伯母が夕方庭先で一人で何かを燃やしていたのを見て、何をしているのかと私もそばにしゃがんで眺めていた。伯母は空へ登る煙を眺めながら、「おじちゃんがこの煙に乗って帰って来るんよ。」と教えてくれた。

ただ、伯父はニューギニアのサルミ付近で戦死したこになっているが、遺骨が返ってきたわけではない。伯母は戦後10年の段階では、ひょっとしたらどこかで生きているのではないかという一縷の望みを持っていたのかもしれない。今もそうだが当時はニューギニアはもっと遥かに遠い彼方だ。たとえ生きていても帰ってくる手段はない。伯母も、たとえ生きていたとしても、現地に溶け込んで生きていくしかないだろうと話していたと、母から聞いたことがある。

走馬灯のようにいろいろなことが浮かんできて、その思い出に浸っているうちに火も消えかけた。今年はナスやキュウリの乗り物を用意してないので、帰ってくるのに少し余分に時間がかかるかもしれないと思い、消えかけた火を消さずにしばらくそのままにしておいた。3年前に亡くなった犬の小太郎も帰ってきていたはずだ。父母小太郎が仲良くこちらへやってくる姿が目に浮かんできて、なんか楽しい気持ちになった。

昭和21年12月21日、マグニチュード8.0の地震が発生し西日本一帯に大きな被害をもたらした。終戦直後のことで今のような手厚い援助も無く、被災した人たちは貧困の中、自力で再興するしかなかった。傾いて住めなくなった家を、伯母は昭和29年に苦労して再建した。その家は天井もない荒壁を塗っただけの粗末な家だったが、小さい子供3人抱えて戦争未亡人となった伯母は本当に強い人だったと、歳をとるにつれて思うようになった。

私も含めてだが、今の時代を生きる我々にその強さが失われてきているのではないだろうか。生きることが当たり前、助けてもらって当たり前、責任はとらないが権利は主張する、社会が悪い、学校が悪い、法律が悪い、そしてもっと悪いことには、そういう人たちを擁護する人たちがいる。生きるのに困らないから、生きるということが軽くなってしまったような気がしている。

昨今話題になっている女子体操選手の飲酒喫煙問題にもその一端が現れているような気がする。未成年であり内規違反でもあるようだ。それなら謹慎か出場停止か当然何らかのペナルティーは受けなくてはならないだろう。ところが今回はペナルティーではなく本人の意思で五輪出場を自粛するというから訳がわからない。

飲酒喫煙など未成年大学生はやっているんだからと擁護する人たちもいるようだが、それは社会的に問題にならなかっただけで、公の問題になった時には当然罰を受けることになる。大学生であったとしても未成年なら許されない。

若い時の一度の過ちを許さない日本の社会が窮屈で生きづらくなっているなどと軽佻浮薄なことを滔々と述べている人もいるようだが、失敗にも許される失敗、許されない失敗がある。たとえば喫煙を親に見つかってこっぴどく叱られてもそれでおわりだが、同じ喫煙でも学校の教師に見つかるとそうはいかない。当然社会のルールが適用されて家庭謹慎とか特別教室で反省文とかになるだろう。これがたった一度の失敗であろうがなかろうが、社会が窮屈とか生きづらいとかいうことと何の関係もない。

選挙権はあるのに飲酒喫煙で処罰はおかしいという人もいたが、法律はそうなっているんだから仕方がない、としかいえない。二男は高校生の時に喫煙で処罰されたが全くおかしいとは思わなかった。19歳も17歳も法律的に未成年には変わりない。ばれなければ若い時の小さな失敗で終わるが、それが公になれば罰をうけるのは当たり前だ。オリンピック代表選手という肩書も法の前では無力のはずだ。そうでないという人たちがいるとしたらあの児島惟謙も草葉の陰で泣いていることだろう。

おそらく日本のサイレントマジョリティーにとってはどうでもいい問題だろうと思う。今更スポーツで国威発揚でもあるまいし、誰もオリンピックに出てくれと頼んだわけでもない。私も含めてだが、今回の件が表ざたになるまで、頑張っているから勝てればいいねくらいの感覚だっただろう。ただ、トップになるまで節制しながらやり遂げたことは偉いとそこは尊敬できる点ではあったが、その部分にケチが付いたのは残念だ。

この件について様々な議論を聞いていて、なんか釈然としない人はたくさんいるのではないだろうか。善悪はコインの裏表みたいなもので、絶対の善、絶対の悪は存在しないとはいえ、正しく真剣に生きるという一つの軸は存在しているはずだ。それが生きる力につながってこそ公正さが保たれているのではないだろうか。最近、社会経験を積み本来社会を律するべき立場に立ったはずの人達に感じられるこの軽さはどうしたことだろう。ほんとうに生きることが軽くなってしまった。