手のひらの話 (original) (raw)

「真の継体天皇陵」と呼ばれている。継体天皇陵として宮内庁の管理する太田茶臼山古墳は、これより西に位置する。築造年代から継体の時代よりも古い古墳であるとわかっている。今ではこの今城塚古墳が年代的にも継体天皇の墓である可能性が高いとされる。f:id:vinhermitage543:20240919034932j:imageこの古墳が注目されるのはなんと言っても埴輪祭祀場の発見である。f:id:vinhermitage543:20240919035352j:image諸説あるが、これは大王の葬礼の様子を埴輪によって再現したものとの考えが魅力的だ。

復元された祭祀場に入ると、水鳥、馬、武人らが並んでいる。f:id:vinhermitage543:20240919040015j:image向あう4人の力士は祭場の門を守っているようだ。門の中には大盾が立てられ、踊るような巫女がいる。f:id:vinhermitage543:20240919040444j:image巫女らの後の神殿では神々の祭が行われているのだろうか。

祭祀場の最も奥まった区画は高床の建物と祭壇だけの静かな空間だ。建物の脇に雄鶏がいる。「常世の長鳴鳥」を思わせる。大王の遺体を安置した「殯(もがり)の宮」だろうか。f:id:vinhermitage543:20240919041149j:image出土した埴輪の一部は隣接する今城塚古代歴史館に展示されている。今城塚から出土した3基の石棺の復元模型もある。北摂地域の他の古墳からの出土品や古墳の変遷の展示もあって非常に興味深い。

とは言え、この日も暑かった。もう少しゆっくり見たかったが、暑熱の中での古墳見学は危険。注意、注意。

近江大津京の遺跡は住宅街にあった。f:id:vinhermitage543:20240906033008j:imagef:id:vinhermitage543:20240906033009j:image遺跡のすぐ横を南北に走る道路は都の中軸線の名残りと言う。今も車が絶え間なく走っている。

その道路の反対側に京阪電車近江神宮前駅がある。ここから瀬田の唐橋を見に行く。近江神宮の近くまで来て神宮に行かないのが私だ。近代に作られた神社には余り興味がない。f:id:vinhermitage543:20240906033801j:image唐橋は俵藤太のムカデ退治で知られる。古代の橋はここより南に架かっていたらしい。壬申の乱の最後の決戦の舞台だ。京阪唐橋駅は終点石山寺駅のひとつ手前、ここまで来て石山寺へ行かないのも私の流儀だ。石山寺へは別の機会に行こう。

次に山科へ移動して、まず天智天皇陵へ行った。f:id:vinhermitage543:20240906034321j:image万葉集』巻2、155歌は、額田王天智天皇を葬った後、人々が去って行く時に詠んだもの。壬申の乱直前の歌かとも言われる。

山科には中臣鎌足の屋敷があった。鎌足は近くに家のあった田辺史大隅に次男の不比等を預けていた。鎌足の屋敷は後に寺となり、山階寺と呼ばれた。藤原氏の氏寺である興福寺の前身だ。f:id:vinhermitage543:20240906035533j:image山階寺の所在地を巡っては諸説あり、ここで決定と言うわけではないが、この山科の地に少年時代の不比等が暮らしていた。

鎌足の長男、定恵は学問僧として唐へわたり、帰国してすぐに死んだ。田辺史氏は渡来系で、朝廷の文書管理や事務を担っていたと思われる。鎌足は長男を僧にし、次男を実務に携わる者の家に預けた。みずからが歩んだ権力闘争の世界から離れた位置に子供達を置いたと見えるのだが、どうだろうか。現実には定恵は早逝し、不比等は政界の頂点に登り詰めるのだが。

日本書紀』に壬申の乱で敗れた大友皇子は「山前(やまさき)」で自害した。古来、山前にも諸説あり、決定はしていないようだが。前後の記述から見ると京都府大山崎が妥当と思われる。

JR山崎駅から急坂を登ると宝積寺がある。f:id:vinhermitage543:20240906041311j:imagef:id:vinhermitage543:20240906041502j:image境内には美しい三重塔がある。江戸時代の絵図には、この寺の山門の前に大友皇子の墓が描かれているが、現地ではわからなかった。この宝積寺の山号が「天王山」である。f:id:vinhermitage543:20240906042219j:image山門の前からは淀川の対岸、枚方の市街地が良く見える。

大山崎町歴史資料館には「大友皇子御陵」と記された絵図が展示されている。f:id:vinhermitage543:20240906042726j:image写真は同資料館発行の「第19回企画展 戦国の茶湯〈利休と秀吉をささえた文化〉」(2011年)より。展示資料はモノクロのものだが、こちらは着色されている。これで見ると、山の登り口東側にあったようだが、今は不明となっているようだ。この絵図については森浩一『敗者の古代史』で知った。この本にも詳しい場所は書かれていない。

この春、『もの言わぬ皇子』で『古事記』と出雲大社の関係にたどり着いた。垂仁天皇の御子ホムチワケは、もの言わぬ皇子であった。御子の母サホビメは反乱を起こした兄とともに滅びた。サホビメとホムチワケの物語は『古事記』の説話の中でも優れた文学となっている。類似の説話は『日本書紀』にあり、おそらくそちらが古いかたちと思われる。誰かが素朴な説話を完成度の高い文学に仕立て上げた。

古代にはもうひとり「もの言わぬ皇子」がいた。中大兄皇子の子、8歳で死んだ建王だ。祖母斉明女帝はその死を悲しみ。耐え難い思いを歌った。そして女帝は孫の旅立ちのために冥界の王、大国主神の社を荘厳したのであった。それが出雲大社である。そして大国主の活躍する出雲神話が整えられた。

同時に、もの言わぬホムチワケ皇子の物語も、ただ白鳥を見てものを言った古い説話から、出雲の大神を拝礼することで言葉を発する物語へと発展させられた。「誰が」書いたのかはわからない。だがそこに斉明女帝の意志が働いていた。

私はその思いに至った。f:id:vinhermitage543:20240830143620j:image

次に物部氏について研究を始めた。

出雲について考えていると、どうしても古代の製鉄について知らなければならない。『古事記』『日本書紀』『風土記』から鉄に関する記述を拾い出すと、多くの場合、物部氏の影がある。

私は、石上神宮物部氏の人物、系譜について調べた。本書は、その研究ノートが始まりだった。従ってその前半は史料の羅列と考察となっている。先が見えない中での記述なので、まとまりのある文章にはならなかった。しかし、調べて行く内にひとりの人物が見えて来た。717年、左大臣として没した石上朝臣麻呂である。おそらくこの人物によって『日本書紀』に記された物部氏の歴史がまとめられたのではないか。そのように今は考えている。

石上麻呂と同時代、彼のやや後を歩んだ者があった。藤原不比等である。不比等と麻呂の関係に注目している。本書の終章では、このふたりとその周辺の人物について考えた。『竹取物語』からふたりの時代を眺めて見た。

私の次の研究は、麻呂と不比等蘇我氏の末裔である石川氏の誰か、もうひとり忍壁皇子の動きを明らかにすることだ。かれらにより『日本書紀』の雄略朝から近江朝に至る記事の大部分がまとめられた、その経緯が見えてくるのではないかと思っている。

本についてのお問い合わせは、

https://hermitage.simdif.com

8月14日、今日の目的は明日香村の万葉文化館にある飛鳥池遺跡の復元模型の見学。

橿原神宮前に着いたが、バスが出るまで時間があったので少し歩くことにした。猛暑の予報だったが午前中はそれほどでもない。歩く内に甘樫丘まで来てしまった。

そこで向原寺を訪ねた。f:id:vinhermitage543:20240815035951j:imageここは蘇我稲目が仏像を安置した向原の家があった場所ではないかと考えられている。後に豊浦寺となり、その遺構が発見されている。申し込めば見学も可能だが今回は省いた。隣の甘樫坐神社から遺構が覗けるのだが、撮影は遠慮した。

寺の横になんば池と書かれた祠がある。小さな堀だが、向原の家を焼いた物部守屋が仏像を捨てた難波の堀江との伝承もある。f:id:vinhermitage543:20240815040718j:imageしかし私は難波の堀江は大阪城北の大川と考えている。守屋が河内を拠点としていたことなどが理由だ。

そのまま予定にはなかった甘樫丘に登ることにした。道々、まむし・スズメバチに注意の看板がある。夏の飛鳥は、深入りは危険。f:id:vinhermitage543:20240815041301j:image甘樫丘から見た畝傍山。後に二上山が見える。f:id:vinhermitage543:20240815041356j:image耳成山。ここに藤原京が広がっていた。f:id:vinhermitage543:20240815041435j:image飛鳥寺。小さく入鹿の首塚が見える(気がする)。

飛鳥川の方に降りて、飛鳥京跡苑池遺跡の休憩所で休む。f:id:vinhermitage543:20240815041852j:imagef:id:vinhermitage543:20240815041856j:image休憩所には苑池遺跡の復元模型や資料が展示されている。他に誰もいないが冷房が効いていてありがたい。そろそろ気温が上がって来た。

万葉文化館手前の酒船石遺跡を見学。f:id:vinhermitage543:20240815042224j:imageパノラマ撮影でわかりにくいが中央やや左奥に亀型石造物。そしてようやく飛鳥池遺跡の見学である。f:id:vinhermitage543:20240815042840j:image万葉文化館のふたつの建物に挟まれた中庭部分に遺跡が復元されている。こちらは鉄、銅などの金属を加工した工房跡。f:id:vinhermitage543:20240815043016j:image工房は七段の溜池に沿って並んでいた。溜池では工房から出た廃棄物を沈殿させている。廃棄物を放出せず、浄水だけを排出する工夫がなされている。f:id:vinhermitage543:20240815043242j:image私が復元模型を覗き込んでいるとボランティアガイドの方が声をかけて下さった。とても丁寧な説明をして下さり勉強になった。感謝します。

地下の展示も楽しかった。図書室の蔵書も充実している。1日過ごせる場所と思った。

直木孝次郎氏の著作の中に、この本に収録されている論文に言及した箇所があった。偶然にも我が家の書棚にあった。そう言えば、20年以上も前、一度読もうとして挫折した覚えがある。発行は昭和34年(1959)。私は昭和天皇の弟の三笠宮氏が歴史研究者であることは聞いていたので、その方が編纂された古代史の論集であると思っていた。この度、改めて手に取ると、副題に「建国と紀元をめぐって」とある。

今は2月11日は「建国記念の日」として祝日であり、それが何の日か考えることもなく休日である。私の記憶では子供の頃、その日をめぐって賛成・反対両派の集会がニュースになっていたが、今はどうなのだろう。続いているのだろうか。

言うまでもなく、2月11日は戦前の「紀元節」である。『日本書紀』に記された神武天皇の即位の日を西暦に換算するとこうなるらしい。もとより『日本書紀』の紀年はそのまま信じられるものではないので、西暦換算の意味はあまりない。ましてやその日を我が国の建国の日とするのは、言わば「神話」である。

さらに『日本書紀』を読めばわかるが、神武天皇は即位したと記されてはいるが、そこから日本国が始まったわけではなく、わずかに奈良盆地を平定したに過ぎない。「神武東征」は神話であって史実ではない。奈良盆地に王権が確立したのは『日本書紀』の日付よりも遥かに後の時代だ。さらにそれより数百年を経て、飛鳥時代の終わりから奈良時代の初め頃に「日本」の国号が成立した。これは私の考えではあるが。f:id:vinhermitage543:20240805032425j:image初めて知った事だが、私の生まれた昭和41年(1966)に祝日法が改正されて2月11日が祝日となり、翌年から休日となった。つまり私が子供の頃に見たニュースは、それから10年以上後のものだろうから、いつまでも賛成、反対をやっていたわけだ。

この本はこの祝日に反対する立場のものだ。当時は「紀元節復活」と言っていた。戦後、占領軍により廃止された紀元節建国記念日として復活させようとの動きが保守派の政治家などから出ていた。歴史学者らには戦前の悪夢が甦っただろう。今も私たちが享受している学問の自由は戦前の日本にはなかった。古代史に関しては、天皇系図に手を出すことはタブーであり、神話の否定は生命の危機であった。これが敗戦により全くの自由となった。

天皇系図は切り張りされ、幾人かの天皇は存在を否定されるなどの極端な議論が流行した。それは戦前の抑圧からの反動でもあった。そこへ紀元節復活の動きが起こり、研究者を震撼させたのである。この本を読むと当時の危機感が伝わる。紀元節の復活と国家による教育の統制が歴史研究への抑圧となることを恐れていた。この本の論者は誰もが戦前を知っている。

この本が出てから65年、当時の学者らが懸念した状態ではない。抑圧は政治によるものだけではないので、ベストの状態ではないかも知れないが、少なくとも市井にあって研究する私たちには十分な自由がある。

2月11日がいったい何の日なのか、考えもしない人が多い気がする。これは他の祝日についても同様だが。

それにしても今の世界はきな臭い。学問の自由を改めて考えたい。