当時、自民党の実力者であって脱税事件で逮捕された金丸信元副総裁ですら、政党交付金について「そんなものを導入したら「泥棒に追い銭」になる」と言って反対していました。(2) (original) (raw)

自衛隊秘密諜報機関』 青桐(あおぎり)の戦士と呼ばれて

阿尾博政 講談社 2009/6/5

<胸に刻まれた諜報任務の重み>

・数週間の教育が終わり、やがて、私が兄貴と呼ぶことになる内島洋班長のもとで仕事をすることになった。内島班は、内島班長、班員の根本、伊藤の3名で構成されていて、当時は、新宿区大久保の住宅地にあった2Kのアパートの一室を事務所としていた。

こうした諜報の拠点は、存在を隠すために、約2、3年ごとに転出をくり返すのだが、ここに私が新米諜報員として加わったのだ。

最初の担当地域は極東ロシアであった。このため、ロシア語を勉強しなければならず、夜間は御茶ノ水にあったニコライ学院に通った。

また、調査の縄張りに新宿区が入っていたことから、暇を見つけては、当時、四谷にあった伊藤忠の子会社であるロシア貿易専門商社「進展貿易」にもよく通ったものだった。

伊藤忠は、元関東軍参謀の瀬島隆三が戦後に勤務した会社で、この瀬島とソ連(現・ロシア)との関係に疑問符がつけられていたことから、私も内偵をしたことがあるのだが、結局、これといった確証は得られなかった。

・秘密諜報員という任務の厳しさを思い知らされたのも、この時期である。

極東ロシアの軍事拠点であるナホトカとハバロフスク白地図を、詳細な地図に作り直す仕事を私が担当することになった。今ならスパイ衛星などのハイテク機器を使うのだろうが、そんな代物などなかった時代だ。地道に見たこと、聞いたことを地図に書き込み、国防に役立てるしかなかったのだ。

・私は、まずナホトカの地図作りから取り掛かった。ナホトカと日本を行き来する木材積み取り船があったので、私は搭乗していた通訳を買収した。そして、通訳が現地へ行こうとするたびにカネを渡し、知りたい情報を仕入れてきてもらった。こうしてナホトカの地図は、ほぼ完璧に仕上がった。

<秘密諜報機関の誕生>

・諜報活動はいわば放任主義で、工作資金についても自由裁量でいくらでも使うことができた。私も湯水のごとく工作資金を使ったが、班長も先輩たちも一言の文句もいわなければ、何の注文をつけずに、ただ部下の行動を静かに見守るといった態度だった。

そこで昔のコネを思い出して、経団連副会長だった植村甲午郎実弟である植村泰二が所長をつとめる「植村経済研究所」の人間として活動を開始した。だが、諜報員として成果を挙げて、先輩に負けてなるものかと努力すればするほど、ある疑問が心のなかで大きく育っていった。それはムサシ機関が得た成果を、米国側がすぐに知るという点だった。

<怪傑ハリマオのモデルと藤原岩市>

・この藤原岩市と山本舜勝は、ともに戦前の陸軍中野学校で教官をつとめ、藤原のほうは太平洋戦争の初期にF機関の機関長として、マレー半島で大活躍をした。戦後、テレビで大人気だった『怪傑ハリマオ』のモデルであり、マレーの虎「ハリマオ」と呼ばれた谷豊を諜報員として育成したのが、この藤原岩市である。

・また、後に調査学校の副校長に就任する山本舜勝のほうだが、彼は私の調査学校時代の教官で、青桐会の先輩と後輩として、友情は長く続い

た。山本は藤原とは対照的な、行動派だった。三島由紀夫と山本舜勝とのことは、『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』(山本舜勝著 講談社)に詳しいので、興味のある方は一読してみるといいだろう。

藤原と山本は、私にとって人生の恩師といえる存在だった。

<秘密諜報員の日常>

・諜報は国防や国益に関わる重要な仕事だが、その内容は案外地味なものだ。上層部から「これをやれ」と命じられたら、「分かりました」と返事をし、任務遂行のため黙々と課題をクリアしていくだけである。ときには命に関わる危険な仕事もあるが、「007」のジェームズ・ボンドのように、さっと銃を抜いて敵を撃ち、危機を脱するようなことなどないのだ。

そして任務が完了したら、せっせと報告書を仕上げ、上司に提出する。ときには、部下数名と徹夜で報告書を書き上げたこともある。基本は、普通のサラリーマンと何ら変わらないのだ。

<国家の秘密は書にあり>

・何もジョームズ・ボンドの真似をしなくても、その国の正規の出版物をよく整理し、比較研究すれば、国の動きは読み取れるのだ。

とくに軍の機関紙である『解放軍報』には、表面的には隠していても、やはり書き手も軍の人間だから、軍人としてのプライドや思いといったものが滲み出た表現の文章がある。その裏を読んでいけば、かなり正確な情報がつかめるものなのだ。

『日米秘密情報機関』

影の軍隊」ムサシ機関長の告白

平城弘通 講談社 2010/9/17

<日米秘密情報機関は生きている>

・「ムサシ機関」とは、陸幕第二部別班、通称「別班」のことを指す。昭和47~48年ごろ、共産党の機関紙「赤旗」によって、秘密謀略組織「影の軍隊」であると大きく宣伝をされ、国会でも追及を受けた組織だ。昭和48年(1973年)に金大中拉致事件が起きたときには、これも「別班」の仕事ではないかということで、また騒がれた。

・私は陸軍士官学校出身の職業軍人として中国大陸で転戦し、昭和26年(1951年)、警察予備隊自衛隊の前身)に入隊した。22年間の自衛官生活のうち、中隊長(第8連隊第3大隊の第12中隊長)、大隊長(第7師団第7戦車大隊長)、連隊長(第7師団第23普通科連隊長)を務めた一時期以外は、大部分を情報将校として仕事にあたってきた。

・そのころは、米ソ冷戦時代で、両陣営の衝突は日本国内に甚大な影響をもたらすことは火を見るより明らかだった。自衛隊で早くからソ連情報を担当した私は、共産主義とは何か、その歴史的事実等に興味を持ち、研究を進めるうち、その非人道的な残酷な史実を突きつけられ、反共の思想を持つに至った。

・今日、非常の事態、たとえば大規模・同時多発テロ北朝鮮の核攻撃、中国軍の南西諸島侵略など、現実の脅威に備えるため、政治家や国民が真剣に考えているのかどうか、誠に心許ない。しかし、情報機関は存在そのものが「秘」であり、いわんや活動の実態については極秘でなければならぬと信じている。

・さらに、三島由紀夫に影響を与えたとされている山本舜勝元陸将補(元自衛隊調査学校副校長)は、平成13年に出版した『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』で、自衛隊の諜報活動の存在を明らかにしている。

加えて近年、「自衛隊 影の部隊」に関する本が、塚本勝一元陸幕ニ部長(『自衛隊の情報戦陸幕第二部長の回想』)や松本重夫調査隊第一科長(『自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』)らによって相次いで出版され、さらに先述の阿尾が『自衛隊秘密諜報機関』を出して、そのなかで本人が別班に所属していたことを公表した。そして、「ムサシ機関」という秘密機関は実在し、機関長は平城一佐だったと暴露してしまったのだ…………。そのため私は、多くのマスコミから電話や手紙による取材攻勢を受け、その対応に苦慮した。

・とくに、その是非は別として、現在は専守防衛を国是とする日本では、情報こそが国家の浮沈を握る。その中心部分を担う「日米秘密情報機関」、いってみれば「自衛隊最強の部隊」が、その後、消滅したとは思えない。私は、現在でも、この「影の軍隊」が日本のどこかに存在し、日々、情報の収集に当たっていると確信している。

明石元二郎大佐は日露戦争全般を通して、ロシア国内の政情不安を画策、日本の勝利に貢献した。そのため、彼の働きを見たドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果をあげた」と賞讃した。また、陸軍参謀本部参謀次長の長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団にも相当する」と評している。

明石のDNAを、自衛隊は、いや日本人は受け継いでいるのだ—―。

<東方二部特別調査班の活躍>

・私が力を入れた東方二部特別調査班(調査隊所属)は、昭和44年3月、編制を完了し、大阪釜ヶ崎を経て山谷に入り訓練を重ね、同年6月から本格的行動に移った。一部を横浜方面に派遣し、主力は山谷を拠点として、さまざまな集会、とくに過激派の集会には必ず潜入させ、各種の貴重な情報を入手させた。ただ、攪乱工作をやるような力はなく、もっぱら情報収集を秘密裡に行う活動だった。

私は武装闘争をいちばん警戒していたから、武器を持っているか、どのくらいの勢力か、リーダーは何をいっているのか、そのようなところに重点を置いて情報を収集した。

三島由紀夫との出会い>

三島事件は、自衛隊史上、最大の汚辱事件>

・私の二部長時代には、文壇では既にノーベル文学賞作家に擬せられる大家であったが、文人としては珍しく防衛に関心のある人物として、三島に好意を持っていた。

・その後、事件の詳細を知るにつけ、私が痛感したことがある。それは、三島の憂国の至情はわかるとしても、あのような内外情勢、とくに警察力で完全に左翼過激勢力を制圧している状況下で、自衛隊が治安出動する大義がない、ということだ。それを、事もあろうに、いままで恩義を受けた自衛隊のなかで総監を監禁し、隊員にクーデターを煽動するとは……。

<二将軍は果たして裏切ったのか>

・だが私は、三島がそれにあきたらず、自ら立案したクーデター計画の実行にのめり込んでいく様子に気づいていた。(中略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが私にはできなかった。(中略)

三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入ったころだった。私はその経緯を詳しくは知らない。(中略)

いずれにせよ二人のジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。(『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝、講談社

<三島には大局観を教えなかったがために>

・以上のような山本舜勝氏の回想記を読んだ私の所感は次のようなものだった。

まず、山本一佐の教育は兵隊ごっこといわれても文句のいえないもの。情報活動の実務、技術は教えているが、情勢判断、大局観を教えていない。とくに、三島の檄文を除いて、この著書のどこにも警察力のことが書かれていない。三島のクーデター計画でも、警察力には触れず、いきなり自衛隊の治安出動を考えているが、自衛隊の出動事態に対する

研究がまったく不足している。

自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』

松本重夫 アスペクト 2008/11

<影の部隊>

・かつてマスコミや革新政党から「影の部隊」あるいは「影の軍隊」と呼ばれ、警戒された組織があった。自衛隊にあって情報収集と分析を専門に行う「調査隊」だ。私は調査隊の編成からかかわった、生みの親の一人である。

・私は陸軍の兵団参謀の一人として、終戦を迎えた。戦後たまたま米国陸軍情報部(CIC)と接点を持ったことから、彼らの「情報理論」の一端に触れることになった。

それはかつて陸軍士官学校の教育にも存在していなかった、優れて緻密な理論体系だった。それを研究すればするほど、私は日本の敗戦の理由の1つは、陸軍のみならず日本の国家すべてが「情報理論」の重要さを軽視したことにあると確信した。残念ながら戦後半世紀以上たった現在も、その状況は変わっていない。

<「葉隠」の真意>

・1945(昭和20)年8月5日、私は宮中に参内して天皇陛下に拝謁を賜り、茶菓と煙草を戴いて、翌6日、陸軍大学の卒業式を迎えた。卒業式終了後、記念写真を撮り昼食の会食となる。そのころに、学生の仲間内で広島に大型爆弾の投下があったという噂を聞いた。その大きさは6トンまたは10トン爆弾かというような情報が流れ、「原爆」という表現は伝わらなかったが、しばらくして、「原子爆弾」という情報が不確定的ながら耳に入り、大変なものが投下されたなと思いつつも、各自、それぞれの任地に向かった。

三島由紀夫事件の隠れた責任者>

・1970(昭和45)年11月25日、作家の三島由紀夫が「盾の会」会員とともに市ヶ谷自衛隊駐屯地、東部方面総監室に立てこもり、割腹自殺を遂げた。私は当時、既に自衛隊を退職し、情報理論と独自の情報人脈を駆使して、民間人の立場で「影の戦争」を闘っていた。

三島事件の陰には調査隊および調査学校関係者がかかわっていたことは、山本舜勝元陸将補が『自衛隊「影の部隊」・三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社刊)という著書で明らかにしている。

私は、山本氏が三島由紀夫を訓練しているということは、それとなく聞いていた。

そのとき私は、「ビール瓶を切るのに、ダイヤの指輪を使うようなことはやめた方がいい」と話した覚えがある。私は、山本氏らの動きは、三島のような芸術家に対してその使いどころを間違えていると思っていた。

・山本氏は、私が幹部学校の研究員(国土戦・戦略情報研究主任)だったときに、調査学校長だった藤原岩市に呼ばれて、調査学校に研究部員として着任してきた。研究テーマは私と同じ、専守防衛を前提としての国土戦つまり遊撃戦(ゲリラ戦)であった。私はその当時、韓国の予備役軍人や一般国民で組織される「郷土予備軍設置法」なども参考にしながら「国土戦論」を練り上げていた。

・山本氏らが調査学校の教官となり、「対心理過程」などの特殊部隊の養成を担当することになった。それが前述したように当初の私の構想とは異なった方向に進んでいたことは気づいていた。結局そのズレが「青桐事件」となり、三島由紀夫に「スパイごっこ」をさせてしまうような事態を招いてしまうことになったのだといわざるを得ない。

・山本氏に三島を紹介したのは藤原岩市である。山本氏によって通常では一般人が触れることのできない「情報部隊の教育」を受けさせ、三島の意識を高揚させることに成功するが、三島がコントロールできなくなると、藤原らは一斉に手を引き、山本氏と三島を孤立させていく。そのあたりの経緯を山本氏の著書から引用してみよう。

《文学界の頂点に立つ人気作家三島由紀夫の存在は、自衛隊にとって願ってもない知的な広告塔であり、利用価値は十分あった》

《しかし三島は、彼らの言いなりになる手駒ではなかった。藤原らジュネラルたちは、『三島が自衛隊の地位を引き上げるために、何も言わずにおとなしく死んでくれる』というだけではすまなくなりそうだということに気づき始めた》

《藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院選挙立候補の準備を進めていた。今にして考えてみれば、参議院議員をめざすということは、部隊を動かす立場を自ら外れることになる。仮にクーデター計画が実行されたとしても、その責を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか》

この山本氏の遺作は、三島由紀夫の死に対して自らのかかわりと責任の所在を明らかにすると同時に、三島を利用しようとした藤原岩市らかつての上官たちの責任を示し、歴史に記録しておきたいという意志が感じられる。

<田中軍団の情報員>

・かつてマスコミが竹下派七奉行として、金丸信元副総理を中心に自民党内で権勢を振るった人物を挙げていた。梶山静六小渕恵三橋本龍太郎羽田孜渡部恒三小沢一郎奥田敬和。この格付けには異論がある。

・この「七奉行」の表現から抜けていて、忘れられている人物に亀岡高夫がいる。彼は金丸のように目立って権力を行使しなかったが、「創政会…経世会」の設立時に、田中角栄の密命を受けて竹下を総裁・総理にする工作を、築地の料亭「桂」において計画推進した主導者の一人である。

・この亀岡高夫と私が陸士53期の同期生でしかも「寝台戦友」であることは既に述べた。しかもGHQCICと協力して活動した「山賊会」のメンバーであり、自衛隊時代そして除隊してから、彼が昭和天皇の葬儀のときに倒れて亡くなるまで、私の戦後の「情報活動」は亀岡とともにあった。

・私は亀岡と顔を見合わせた。「福田は来ていないな……」

福田は都議までしか挨拶に行っていない。下を固めろ。本部に戻ってその情報をもとに、方針を決めた。

「区議会議員と村長、市町村、これを全部やれ。県議は相手にするな」

電話で全国の田中軍団に指令を出した。県議も区議、村長も同じ1票。福田派は県議のところに行って、その下の国民に一番密着している人のところに行っていなかった。県議に行けば下は押さえることができるという、古い考え方だった。それを田中軍団が、ごっそりとさらっていった。

そのように密かに票固めを行っている最中に、福田の方から、国会での本選挙はやめようという申し出があった。田中は「しめた!」とばかりにその申し出を受け、劇的な勝利につながっていった。

この総裁選がいわゆる「田中軍団」のローラー型選挙の嚆矢といわれている。そのきっかけは私と亀岡の地道な調査活動にあったことはあまり知られていない。

<中国情報部の対日情報活動>

・やや古いが、その当時私が入手していた、中国の情報機関に関する情報をもとにこの問題を整理すると、次のような背景がわかった。

1974年当時、中国では国家安全省は誕生してなく、北京市公安局が国内外の情報を収集する機関としては中国最大の組織であり、約1万人ほどいたといわれる。当時の北京市公安局は13の部門に分かれていた。

・それぞれの科の中には、さらに最高レベルの秘密扱いにされていた外国大使館担当班が存在していた。第3処 尾行・視察調査 第4処 海外から送られてくる手紙などの開封作業を担当 (略) 第7処 不穏分子や海外からのスパイ容疑者の尋問

こうした北京市・公安局の活動に対して、日本大使館の防諜意識は信じがたいほど低かったとの情報もある。

29名いたとされる日本大使館に対する盗聴チームのもとには、常に新鮮なデータが集まっていたという(例:ある大使館幹部と、大使館員の妻とのダブル不倫関係まで把握していたほどであるという)。

O-157サリン事件の背景で>

・「対情報」の研究というのは今風にいえば対テロリズムの研究もそこに含まれる。そこではかつての大戦中の各国が行った生物・化学兵器の使用データの分析も行っている。

・資料が特ダネ式に入手されたとすれば、警視庁内の秘密保全のルーズさを示す“恥”となろう。しかし、これはどちらかといえば公安関係者からの意図的なリークに等しい。公安委員長(国務大臣)の責任・罷免に発展してもおかしくないのだが、ほとんどの国民は、この問題に関心を示すことはなかった。現実にはこの国では、こうした問題は機密漏洩対策の向上に役立てられることもなく、いわば政争の道具に利用されただけだ。「スパイ天国日本」という世界の防諜関係者からの汚名の返上は当分できそうにないようだ。

<●●インターネット情報から●●>

(CNN)( 2014/10/16)米紙ニューヨーク・タイムズは16日までに、イラクに駐留している米軍が化学兵器を発見し、一部の米兵がそれにより負傷していたにもかかわらず、米政府が情報を隠ぺいしていたと報じた。

記事によれば2003年以降、マスタードガスや神経ガスとの接触により、米兵17人とイラク人警官7人が負傷。彼らは適切な治療を受けられなかったばかりか、化学兵器で負傷したことを口外しないよう命じられたという。

「2004~11年に、米軍や米軍による訓練を受けたイラク軍部隊は、フセイン政権時代から残る化学兵器に何度も遭遇し、少なくとも6回、負傷者が出た」と同紙は伝えている。

同紙によれば、米軍が発見した化学兵器の数は合わせて5000個ほどに上るという。

「米国は、イラクには大量破壊兵器計画があるに違いないとして戦争を始めた。だが米軍が徐々に見つけ、最終的に被害を受けたものは、欧米との緊密な協力によって築き上げられ、ずっと昔に放棄された大量破壊兵器計画の遺物だった」と同紙は伝えている。

国防総省のカービー報道官は、この報道に関連し、詳細は把握していないと述べる一方で、2000年代半ばから10年もしくは11年までの間に、化学兵器を浴びた米兵は約20人に上ることを認めた。

ニューヨーク・タイムズは政府が情報を隠ぺいしようとした理由について、事故を起こした化学兵器の設計・製造に欧米企業が関与している可能性があったことや、製造時期が1991年以前と古く、フセイン政権末期に大量破壊兵器計画があったとする米政府の説を裏付けるものではなかったからではないかとみている。

<●●インターネット情報から●●>

イラク化学兵器あった~NYタイムズ紙

< 2014** **年10月16日 6:48 >

15日付のアメリカ・ニューヨークタイムズ紙は、イラクフセイン政権時代の化学兵器が見つかっていたと報じた。

それによると、イラク戦争後の2004年から11年にかけて、首都・バグダッド周辺でフセイン政権時代のマスタードガスやサリンなど化学兵器の弾頭5000発以上が見つかったという。弾頭は腐食していたものの、有毒ガスにさらされたアメリカ兵などがケガをしたとしている。アメリカ政府はこれまで、イラク戦争開戦の根拠とした化学兵器を含む大量破壊兵器は見つからなかったとしている。発見を公表しなかった理由について、ニューヨークタイムズは、化学兵器が欧米製だとみられたことなどを挙げている。

これについて国防総省は15日、イラク化学兵器が発見されアメリカ兵約20人が有毒ガスにさらされたことは認めたが、公表しなかった理由については明らかにしなかった。

『メディアと知識人』 清水幾太郎の覇権と忘却

竹内洋 中央公論新社 2012/7/9

<東京が滅茶苦茶になる>

・そのような状況のなか、1970(昭和45)年を迎えることになった。清水は、満を持し、狙いをすましたように「見落とされた変数―1970年代について」を『中央公論』(1970年3月号)に発表する。

・世は未来学が流行っていたが、未来論はインダストリアリズムの反復と延長で、芸がなさすぎる。明るい未来学の潮流に反する問題提起こそ警世の言論となる。未来論に反する問題提起といえば、公害も社会問題となっていたが、これは猫も杓子もいっている。60年安保を闘った者がいまや公害問題に乗り換えている。目新しさはないし、そんな仲間と同じ船にまた乗っても仕方がない。そこで飛びついたのが地震である。アラーミスト(騒々しく警鐘を乱打する人)としての清水がはじまった。意地悪くいってしまえば、そういう見方もできるかもしれない。

地震こそ清水の十八番である。清水は、16歳のとき関東大震災(1923年9月1日)で被災する。死者・行方不明者10万人余。2学期の始業式を終えて、自宅で昼食をとっているときである。激しい振動で二階がつぶれた。落ちた天井を夢中で壊して這いあがった。

・技術革新や経済成長によって自然の馴致がすすんだが、他方で自然の反逆がはじまったことを公害と地震を題材に論じている。清水は「私たち日本人は、遠い昔から今日までー恐らく、遠い未来に至るまでー大地震によって脅かされる民族なのであります」とし、論文の最後に、私たちにできることをつぎのように言っている。

・それは、東京を中心とする関東地方において、道路、河川、工場、交通、住宅、と諸方面に及ぶ公害の除去および防止に必要な根本的諸政策を即時徹底的に実施するということです。(中略)それは、或る意味において一つの革命であります。この革命が達成されなければ、1970年代に、東京は何も彼も滅茶苦茶になり、元も子も失ってしまうでしょう。

<「文春に書くわけがないだろうが!」>

・「見落とされた変数」は、来るべき大地震という警世論の頭出しだったが、翌年、『諸君!』1971(昭和46)年1月号には、「関東大震災がやってくる」というそのものずばりの題名の文章を書く。

<「関東大震災がやってくる」>

・清水は、地震学者河角広(元東大地震研究所長)の関東南部大地震の69年周期説――69±13年――をもとにこういう。関東大震災から69年は1991年である。13年の幅を考えると、1978(昭和53)年もその範囲内ということになる。とすれば、1970年代は関東大震災並の大地震が東京に起こりうるということになる。たしかに、東京都はいろいろな対策を考えているようだが、構想の段階で手をつけていない。そんなことで間に合うか、というものである。しかし、この論文には何の反響もなかった。「関東大震災がやってくる」を書いて2年8ヶ月のちの新しい論文では、これまで地震の危険を指摘した論文を書いたが、反響がなかったことを問題にし、こういう。

・・・私は、右肩上がりでの文章(「関東大震災がやってくる」論文――引用者)のゼロックス・コピーを作り、多くの国会議員に読んで貰おうとしました。けれども、私が会った国会議員たちの態度は、多くの編集者の態度より、もっと冷たいものでした。「地震は票になりませんよ。」

・1975(昭和50)年には、関東大震災の被災者の手記を集めた『手記 関東大震災』(新評論)の監修もおこなっている。清水の東京大震災の予言ははずれたが、「関東大震災がやってくる」から24年後、阪神淡路大震災が起きる。さらにその16年後の東日本大震災。清水は、地震は「遠い昔から今日まで――恐らく、遠い未来に至るまで」の日本の運命と言い添えていた。日本のような豊かな国が大地震のための「革命的」方策をとらないで大地震の到来を黙って待っているのか、といまから40年も前に警鐘を鳴らしていたのだ。

<論壇への愛想づかしと「核の選択」>

・「核の選択――日本よ 国家たれ」の内容はつぎのようなものである。第一部「日本よ 国家たれ」では、こういう。日本国憲法第九条で軍隊を放棄したことは日本が国家でないことを宣言したに等しい。しかし、国際社会は法律や道徳がない状態で、軍事力がなければ立ちゆかない。共産主義イデオロギーを掲げ、核兵器によって脅威をあたえるソ連膨張主義がいちじるしくなった反面、アメリカの軍事力が相対的に低下している。したがって、いまこそ日本が軍事力によって海上輸送路の安全をはからなければ、日本の存続は危うくなる。最初の被爆国日本こそ「真先に核兵器を製造し所有する特権を有している」と主張し、核兵器保有を日本の経済力にみあう軍事力として採用することが強調されている。

・第二部「日本が持つべき防衛力」は、軍事科学研究会の名で、日本は独自に核戦略を立てるべきだとして、日本が攻撃される場合のいくつかのシナリオが提起され、空母部隊の新設など具体的な提言がなされている。最後に国防費をGNP(国民総生産)の0.9%(1980年)から3%にする(世界各国の平均は6%)ことなどが提言されている。この論文は、主題と副題を入れ替え、1980年9月に『日本よ国家たれ――核の選択』(文藝春秋)として出版される。

論文が掲載されると、『諸君!』編集部に寄せ有られて賛否両論の投書数は記録破りになり、翌月号に投書特集が組まれるほどだった。

『未来を透視する』(ジョー・マクモニーグルFBI超能力捜査官

ソフトバンク・クリエイティブ)2006/12/21

<気象変動>

・来るべき気象変動により、2008年からこの台風の発生回数は増えていくと私は、予想している。とくに2011年は過去に例を見ない台風ラッシュとなり、大規模な暴風雨が吹き荒れる深刻な年になるとの透視結果が出ている。この台風ラッシュは、2012年にずれこむかもしれないが、可能性は低い。嵐の増加を促す地球の温暖化は、現在も急速に進行中だからである。

・2010年から2014年にかけて、また、2026年から2035年にかけて、平均降雨量は年々560~710ミリメートルずつ増加する。現在から2010年にかけて、また、2015年から2025年にかけては、380~530ミリメートルずつ減少する。現在から2010年にかけて、また、2015年から2025年にかけて、平均降雪量は300~550ミリメートルずつ増加する。

<日本の自然災害>

<2010年、長野で大きな地震が起きる>

・透視結果を見てもうろたえず、注意程度にとらえてほしい。ただし、最悪の事態に備えておいて、何も起こらないことを願おう。こと天災に関しては、透視は間違っているほうがありがたい。

<今後、日本で発生する大地震

2007 高槻市 震度6弱

2008 年 伊勢崎市 震度6弱

2010 長野市 震度7

2012 伊丹市 震度6弱

2018 年 東京都 震度6弱

2020 市川市 震度6弱

2037 鈴鹿市 震度7

・噴火や地震にともなって海底では地盤の隆起や沈降が起きる。そして、膨大な量の海水が突然動きだし、衝撃波となって陸地の海外線へと進行する。

・遠洋ではあまり目立つ動きではないが、浅瀬に入ると、衝撃波は巨大な津波となって陸地を襲い、都市部などを徹底的に破壊してしまう(波の高さはときには30メートル以上になることもある)。

・内陸へと押し寄せる力がピークに達すると、今度は海に戻り始め、残された街の残骸を一切合財引きずりこんでいく。警告もなしに、突然襲ってくれば被害はとりわけ甚大となる。

・幸い日本には、優良な早期警戒システムがあるのだが、海底地震が発生して警報が発令されてから、津波が押し寄せる時間は、残念ながらどんどん短くなっている。

<日本を襲う津波

2008 年夏 11メートル

2010 年晩夏 13メートル

2018 年秋 11メートル

2025 年夏 17メートル

2038 年初夏 15メートル

2067 年夏 21メートル

・日本は津波による大きな被害を受けるだろう(なお、波の高さが10メートル以上に及ぶものだけに限定している)。北海道の北部沿岸の都市部は特に津波に弱い。徳島市和歌山市浜松市鈴鹿市新潟市石巻市も同様である。このほかにも津波に無防備な小都市は数多くある。

<土地>

・気象変動とともに、日本の土地問題は悪化しはじめる。沿岸部での海面上昇と、暴風雨の際に発生する大波によって、低地の村落と小都市の生活が脅かされるようになる。堤防や防壁といった手段は効力を発揮しないため、2012年から2015年のあたりまでに多くの人が転居を余儀なくされるだろう。

<●●インターネット情報から●●>

「人文研究見聞録」から引用

五重塔の塑像の謎>

法隆寺五重塔には、仏教における説話をテーマにした塑像が安置されています。

その中の「釈迦入滅のシーン」があります。これはガンダーラの釈迦涅槃図と比較しても大分異なる、日本独自のものとなっています。

そして、法隆寺の塑像群の中にいる「トカゲのような容姿をした人物」が混じっており、近年 ネット上で注目を浴びています。

問題の像は、塑像の○の部分にいます(実物では見にくいので、法隆寺の塑像のポストカードで検証しました)。

これらの像は侍者像(じしゃぞう)と呼ばれ、それぞれ馬頭形(ばとうぎょう)、鳥頭形(ちょうとうぎょう)、鼠頭形(そとうぎょう)と名付けられています。しかし、どう見ても「トカゲ」ですよね?

なお、この像がネットで注目を浴びている理由は、イラクのウバイド遺跡から発見された「爬虫類人レプティリアン)の像」と酷似しているためなのです。

爬虫類人レプティリアン)」とは、世界中の神話や伝承などに登場するヒト型の爬虫類のことであり、最近ではデイビット・アイク氏の著書を中心に、様々な陰謀論に登場する「人ならざる者」のことです。

もちろん「日本神話」の中にも それとなく登場しています(龍や蛇に変身する神や人物が数多く登場する)。

また、この像は、飛鳥の石造物の一つである「猿石(女)」や、同じ明日香村の飛鳥坐神社にある「塞の神」に形が酷似しています(トカゲに似たの奇妙な像は奈良県に多いみたいです)。

また、この「トカゲ人間」以外にも、以下の通りの「人ならざる者」が含まれていることが挙げられます。

  1. は「多肢多面を持つ人物の像」です。これは、いわゆる「阿修羅」を彷彿とさせる像ですが、実は『日本書紀』に「両面宿儺(りょうめんすくな)」という名の「人ならざる者」が登場しています。『日本書紀』には挿絵はありませんが、この像は そこに記される特徴と著しく一致します。

<両面宿儺(りょうめんすくな)>

仁徳天皇65年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺(すくな)という。

一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵(かかと)が無かった。

力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。

  1. 尻尾が蛇となっている人物の像

②は「尻尾が蛇となっている人物の像」です。日本には尻尾が蛇となっている「鵺(ぬえ)」という妖怪が存在します。これは古くは『古事記』に登場しており、『平家物語』にて その特徴が詳しく描かれています。その鵺の特徴は、この像の人物と一致しています。

  1. 顔が龍となっている人物の像
  2. は「顔が龍となっている人物の像」です。「日本神話」には「和爾(わに)」と呼ばれる人々が数多く登場し、かつ、海幸山幸に登場する山幸彦(ホオリ)に嫁いだトヨタマビメの正体も、実は「八尋和爾」もしくは「龍」だったとされています。また、仏教の経典である「法華経」の中にも「八大竜王」という龍族が登場しており、仏法の守護神とされています。③の仏像は、これらにちなむ人物なのでしょうか?

このように法隆寺五重塔に安置される塑像には「人ならざる者」が複数含まれています。なお、これらは奈良時代のものとされているため、飛鳥時代に亡くなっている太子との関係は不明です。

また、オリジナルと思われるガンダーラの釈迦涅槃図とは著しく異なっており、どのような意図を以って上記の「人ならざる者」を追加したのかはわかりません。なぜ作者はこのような仏像を参列させたのでしょうか?

もしかすると、これらの像は釈迦入滅の際に人間に混じって「人ならざる者」も参列していた、つまり「人ならざる者は存在している」ということを示唆しているのかもしれません。信じるか信じないかはあなた次第です。

『成功していた日本の原爆実験』――隠蔽された核開発史

ロバート・ウィルコックス(著)、 矢野義昭(翻訳) 勉誠出版 2019/8/1

<CIA機密調査が、日本の核開発はとん挫したという定説を覆す>

・1945年8月12日早朝、北朝鮮興南沖にて海上爆発に成功していた

海上核爆発特有の雲の発生を日本人仕官が証言、傍証多々

・資源は主に北朝鮮で採掘精錬、興南(コウナン)はアジア最大の軍需工場

・爆発数時間後、ソ連軍侵攻占領、科学技術者たちを拉致拷問

・戦後、ソ連、中国、北朝鮮の核開発の拠点になった興南

・占領下の尋問・調査での日本人科学者たちの証言は事実を隠蔽

<「原子爆弾」を第2次世界大戦中に日本が製造し、「核実験」にさえ成功していた>

・本書によれば、日本の核爆弾の開発は、これまで言われてきた水準よりも、はるかに前進しており、大戦終結直前の8月12日に、北朝鮮興南で核実験にも成功していたとしている。

・国際社会で平和を守るには、まず力のバランスを維持し回復しなければならない。力のバランスが失われたときに、いったん領土が奪われれば、外交交渉では奪還できないのが現実である。北方領土返還交渉、竹島問題などは、その好例である。

このような現実を直視するならば、核の惨害を招かないための、最も確実な道は日本自らの核抑止力の強化に他ならないことは明らかである。

<訳者による本書の新しい知見の要約>

<1 日本の大戦中の核開発をめぐる従来の定説とウィルコックスの新説>

・日本は第2次世界大戦核開発に取り組んではいたが、理化学研究所仁科芳雄博士を中心とする陸軍の「ニ」号計画がとん挫し、1945年2月(本書では同年5月とみている)で終結したとするのが、従来の定説である。

・その背景には、当時の我が国の、技術的困難、原材料の不足、空襲による施設装備の被害、資金の不足などの諸事情があったとみられている。

しかし、本当にそうだったか疑問を呈する新説を裏付ける、米国の機密資料が近年、続々と公開されるようになっている。

新説をまとめた代表的な書物が、ロバート・K・ウィルコックスによる『日本の秘密戦争』である。

本書執筆のきっかけとなったのは、ウィルコックスが、スネルという著名なジャーナリストが書き残した、「ワカバヤシ」と称する元海軍士官のインタビュー記事の内容であった。

スネルは、日本人士官から1946年夏以前に聞き取ったとする、以下の証言から「1945年8月12日に北朝鮮興南で日本が核爆発実験に成功していた」と主張した。

その主張を、米国公文書館などの秘密解除された文書や関係者へのインタビューなどの、自らの調査結果に基づき、裏付けたのがロバート・K・ウィルコックスであった。

調査結果をまとめた1978年に、ロバート・K・ウィルコックスの『日本の秘密戦争』の初版が出版された。しかし、以下のスネルの記事と同様に長年、「作り話」とされ、米国でも日本でも本格的な追跡調査はされてこなかった。

・その内容は実に驚くべきものである。翻訳者である私自身、翻訳を始める前は半信半疑だった。しかしほぼ翻訳を終えた現在では、日本が大戦末期の1945年8月12日に核実験に成功していたことは、ほぼ間違いのない歴史的事実と言えるのではないかとの見方に立つに至った。

<2 スネルが主張した、日本による1945年8月12日の核実験の成功を示す証言>

・日本人が、降伏する直前に、原子爆弾を開発し成功裏に爆破試験を行っていたというものであった。その計画は朝鮮半島の北部の興南(「コウナン」と朝鮮名「フンナム」の日本名で呼ばれた)か、その近くで進められていた。その兵器が使用されるかもしれなかった、その前に戦争は終わったが、造られた工場設備はソ連の手に落ちた。

・スネルが記述している、士官の語った内容とは、以下のようなものであった。

興南の山中の洞くつで人々は、時間と競争しながら、日本側が原爆につけた名前である「原子爆弾」の最終的な組み立て作業を行った。それは日本時間で1945年8月10日のことであり、広島で原爆の閃光が光ったわずか4日後、日本の降伏の5日前であった。

北方では、ロシア人の群れが満州になだれ込んでいた。その日の真夜中過ぎ、日本のトラックの車列が洞窟の入口の歩哨線を通過した。トラックは谷を越えて眠りについている村を過ぎていった。冷え込んだ夜明け前に、日本人の科学者と技術者たちは、興南の船に「原子爆弾」を搭載した。

・日本がある、東の方が明るくなり、ますます輝きを増した。その瞬間、海の向こうに太陽はのぞかせていたものの、爆発的閃光が投錨地に照り輝き、溶接工用の眼鏡をかけていた観測者が盲目になった。火球の直径は1000ヤードと見積もられた。様々の色をした蒸気雲が天空に立ち上り、成層圏にまで達するきのこ雲になった。

・「原子爆弾」のその瞬間の輝きは、東に昇ってきた太陽と同じ程度だった。日本は、広島や長崎も褪せるほどの大異変である、原爆の完璧かつ成功裏の実験を成し遂げていたのだ」。

爆弾は日本海軍によりカミカゼ機に使うために開発されたと、士官は通訳を通じて、スネルに語った。米軍が日本の海岸に上陸したら米軍に対して特攻機から投下する予定だった。

「しかし、時間切れになった」とスネルは報告し、以下のように付加している。「観測者たちは急いで水上から興南に戻った。ロシア陸軍の部隊は数時間の距離に迫り、『神々の黄昏』が最終的な意味合いで始まった。技術者と科学者たちは機械を壊し書類を燃やし、完成した「原子爆弾」を破壊した。ロシア軍の1隊が興南に来るのがあまりに速かったため、科学者たちは逃げのびることができなかった」。

<3 ウィルコックスの著書第3版を主とする、スネル証言を実証する確認事項>

  1. 初版での情報

・独潜水艦U-234による1120ポンドの酸化ウランの日本輸送が試みられたが、ドイツの敗戦に伴い同艦は米国に投稿し、失敗した。酸化ウランは行方不明になった。

・戦前から野口遵の努力により、北朝鮮東岸の産業複合地帯建設がすすめられ、朝鮮の水力発電量は350万KWに達し、中心地興南では戦時中、豊富な電力を使いジェット燃料の製造が行われた。

・1945年11月末に興南近くの咸興平原で日ソ両軍が激戦した。しかし、その細部は北進できなかった米軍には確認できなかった。

・1947年6月の米軍報告によれば、興南で日本の新兵器開発計画NZ計画に関連し、ソ連人と田村という日本人科学者が秘密施設で高電圧アークを使い活動していた。その生産物はソ連の潜水艦で密かにソ連に定期的に輸送された。

(2)第2版と第3版の神器情報

・1950年11月『ニューズ・ウィーク』:興南ソ連占領地域で、厳重に警護されたウラニウム鉱石処理プラントを確認した。朝鮮戦争時の米軍の爆撃を免れ、ロシアの原爆にそれまで核燃料を供給していた。ただし、在朝鮮第10軍団司令部は否定している。

GHQ司令部のOSS(CIAの前身)将校から、「日本人たちは彼らの持っていたウランの品位が悪かったため、ドイツから良質のウランが到着するのを待っていた」と聞いた。

・1953年2月、興南にある元の日本の産業地帯の拠点へのB29による偵察飛行任務に就いていた大佐の証言:「日本人たちは興南の拠点で原子爆弾を開発し、ある種の装置を造り、それを爆発させたとの情報を得た」。

・百科事典『第2次世界大戦』:日本陸軍は「800㎏の酸化ウランを上海に保有していた。朝鮮にも保有し、1944年に独の潜水艦により配送を受けた」。

・ラモナ報告:日本の核研究の中心地は広島だった。そのことが核攻撃の第1目標として広島を選んだ、トルーマンの決定要因だったかもしれない。

(3)元CIA分析官トニー・トルバの証言

北朝鮮は中露が日本の核努力から利益を得ていたことを知っている。中露は戦争末期に、日本人が採掘したウランやトリウムの鉱石を押収し、日本人が破壊に失敗した核計画の拠点から核の秘密や機械設備を略奪した。中露とも自力で核開発をしたと称しているため、それが暴露されるのは不都合だった。

・トルバが上下院議員宛に出した調査結果の要約・日本人たちは大戦中に核計画を進めていた。大半は興南で進められていた。興南を占領していたソ連人たちは、日本人やドイツ人の科学者たちを使い、それらの施設を運営していた。

(4)ドワイト・R・ライダーの証言

・スネルの報告について、ヘールは「日本人たちは爆弾を製造し、それを実験したと思う」と肯定した。

・「日本人たちの第2次世界大戦中の核兵器計画が、小規模で失敗に終わったとされている公式的な説明は、全くの見当違いだ」、「理研はウランの精錬に深くかかわり、興南水力発電はウラン変換装置を稼働させるに十分だったし、興南にはウラン、トリウムなどの資源が豊富にあった」

・荒勝文策により1942年にウラン濃縮について提案がされ、遠心分離機は1944年に日本で製造された。遠心分離機では米国より進んでいた。

清津だけでも、ウラン濃縮、精錬、原子炉建設などに必要な電力。資源、設備と能力を持っていた。清津には日本本土で開発製造された、ウランの分離塔5基が送られたが、そのうち1基でも届いていれば、それを量産し清津の能力はさらに高められただろう。

・ライダーは、中国人が1950年の終わりに参戦し、米軍を攻撃し始めた主な理由は、日本人たちが朝鮮半島北東部に残した核計画とその他の資産を獲得するためだったと確信するようになった。それが、中共軍が、6000名の犠牲を出しながら長津貯水湖全域で米軍と激闘を繰り広げ、そこを制圧するまで興南に進撃しなかった理由だった。

・1950年10月に韓国軍が調査を命じられた、古土里の地下洞窟内の地下武器庫についての報告によれば、興南から内陸に約8マイル入った丘陵地帯にその洞窟がある。

撮られた写真には「4エーカーの地下武器工場」との表題が付けられ、武器、弾薬、爆薬と地下の道具店がある「巨大な隠し場所」だった。

・日本人は核施設の破壊に成功せず、ソ連に占領され、核開発に利用された。その理由は、ソ連が日本の興南での核実験を含む、核開発について事前に情報を得ていて、それを利用するために急襲し破壊直前に奪取したからであろう。

<4 検証結果の意義(以下は訳者の見解)>

〇日本が第2次大戦中に核開発を進め、興南の沖合の小島で1945年8月12日に核実験にも成功していたことは、各種資料、特に米政府内部で秘密文書に基づき調査していたトルバとライダーの発言からも明らかであり、信ぴょう性は高いと判断される。

・日本の科学者、学会は、国内では戦時協力者として非難され、占領軍に戦犯として逮捕されることを恐れたとみられるが、核協力の過去を隠ぺいしようとした。しかし科学技術者が戦時に協力するのは当然のことであり、むしろ他国では誇るべきこととされる。

・激しい空襲と物資の欠乏する中、これだけの研究開発努力を続け、実績を上げた日本の科学者、技術者、産業界は再評価されるべきである。特に、坂彦の黒鉛減速型原子炉が稼働していれば、短期間にプルトニウム139を抽出し核爆弾の燃料にできたであろう。

容共主義者ルーズベルトソ連への対日参戦要請には、ソ連による日本の北朝鮮での核実験阻止への期待もあったのではないかとみられる。その代償として、ルーズベルト北方四島に米軍を進駐させずソ連北方四島侵略を黙認した可能性がある。

ソ連は8月9日の長崎への原爆投下前日に対日宣戦を布告し、投下と同時に対日侵略を開始し、興南に向け一挙に急進撃した。ソ連は、核実験阻止には失敗したが破壊前の核インフラの奪取には成功した。

・なお、日本海軍は核開発力を持ち、終戦直前でも海軍首脳は抗戦継続論だったと米軍機密文書では報告されている。核実験がもし成功していたなら、緊急電で東京に打電されていたはずである。

・日本の核開発の潜在能力は現在でも高い。2004年に米国科学者連盟は、日本なら核実験なしでも、「1年以内に」核兵器保有できるとの見積を出している。最新の米国の専門家の見解では、「日本なら数日で可能」とも言われている。

日本には、核恫喝を受けても、それに屈することなく「対応策」がとれる潜在力がある。

・中ソ朝の核開発は日本が北朝鮮に残した遺産と日独の科学技術者の協力の成果だった。彼らはその事実を公開したくはなかった。もし公開すれば、自国独裁政権の威信低下を招いたであろう。

・いま米政府の秘密が解除されるのは、日本の核開発黙認のシグナルかもしれない。

1990年代以降の中期の核戦力増強により、2006年頃には米国の核戦力バランスの圧倒的優位が失われたとの認識が表れている。

例えば2006年の全米科学者連盟と米国国家資源防衛会議による共同報告では、中国が対米先制核攻撃に成功すれば、米国の被害は4千万人に上り、それに対する米国の核報復による中国の被害は2600万人にとどまるとの被害見積りが公表されている。

・日本に対し核の傘の提供を保証することは、米国の望まない対中朝核戦争に米国が巻き込まれるおそれを高めることになった。

そのリスクを回避するには、体制と価値観を共有する日本の核保有を黙認し、独自の核抑止力を持たせ中朝に対する対日侵攻への抑止力を強化するのが、米国の国益上有利と、米国指導層は2006年頃に判断したのではないかとみられる。

圧倒的な人口格差のあるアラブ諸国イスラエルの間の中東戦争の再燃を抑止するため、1970年代に米国がイスラエルの核保有を黙認した背景に、類似している。

<野口による興南の産業基盤建設>

・すでに産業複合地帯を「ウラニウム爆弾」製造支援のために使うことについても、日本として必要があるとの話が出ていた。

・連合国の奇襲部隊はその後すぐに、原子爆弾製造を助けるために使われることを恐れて、ナチの重水素製造を死力を尽くして阻止することになった。いまやドイツの戦争中の同盟国だった日本も、アジアでそれを製造していた。しかも連合国はそのことを知らなかった。

<アルカサール・デ・ベラスコのスパイ活動をめぐる回想>

・伝言は簡素なものであった。「カレーに来い。議論したい重要なことがある。」それは真珠湾の直後であり、受け手は、ロンドン駐在スペイン大使館の大使館付き報道官であり、英国における最良のスパイの1人であった。アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコであった。

・彼はスペインの枢軸国寄りのファランヘ党の結党時からの党員で、アブベール・ベルリン情報学校の卒業生であり、マドリードから1940年の秋にロンドンに送られた。それはいわゆる中立のスペインが、英国に対してドイツを助けるとの秘密協定が結ばれた後であった。

・彼は白人至上主義者であり、計算づくの反ユダヤ主義者であり、占星術信者でもあった。彼は、世界は彼自身もその一員である、転生で再生した超人というエリートによる支配を、運命づけられていると決めつけていた。彼らにとり主な障害となるのは、ユダヤ人であった(奇妙なことだが、彼の信ずるところによれば、一部のユダヤ人たちは、転生を通じて解脱しあるいは罪業に対する懲罰を経て超人の仲間となる。それが、ユダヤ人たちが常に権力を得ているかのように見える理由だと、彼は説明している)。全知の神の示すところによれば、惑星は闘争に向かっていた。アーリア人の救世主である土星と黒魔術は、彼の信仰の標語となっていた。

・1934年に彼は、ファランヘ党のために活動していたが、ウィルヘルム・オーバービールという名のドイツ人と会った。彼は、ナチ党の青少年組織であるヒットラー・ユーゲントの指導者であり、アブベールの公式の要員でもあった。オーバービールは、総統の内々の仲間の一員であり、心底からのオカルト主義者であった。「ウィリアムの中に、私は必要としていた知識のすべてを見出した」と、アルカサール・デ・ベラスコは書いている。「我々は、エデンの園の蛇のように邪悪な者たち(ユダヤ人たち)、彼らがどのようにして世界を隷従させようとしているかについて語り合った」。

<本格化し始めた日本海軍と荒勝研究室の爆弾計画>

理研の計画に資金を提供していた陸軍だけが、ウラニウム爆弾に関心を持っていた軍種ではなかった。日本海軍は、陸軍よりもむしろ長期にわたり、核物理学の発展を追跡していた。

・1939年に、カリフォルニアで原子力によりタービンが動いているとのうわさが流れた。その噂は本当ではなかったが、大騒ぎを巻き起こした。海軍は核燃料に関心を持った。海軍の艦艇は核燃料により、無限に航行できるようになるかもしれなかった。その後、1940年か1941年の初めに、村田勉海軍中尉は、米国の「超爆弾」に対する警告を発しているドイツの技術雑誌の記事を翻訳した。その翻訳は広く回覧された。米国によるウラニウムの輸出停止と突然の核研究に関する沈黙を受けて、海軍は遂に行動することを余儀なくされた。1941年の夏か秋に海軍は、浅田が講義をしていた研究所の、海軍大尉であり科学者でもあった。伊藤庸二に対し、爆弾と燃料の実現の可能性について調査するように命じた。

レーダーについてドイツで学んでいて帰国したばかりだった電子工学の専門家の伊藤は、大変な敬意を払われていた。

・嵯峨根は伊藤に、ウラニウム資源を探し始めるように忠告しているようにすら思われた。「日本は、予備報告とは反対に、本土では1発分の爆弾や燃料として必要な量すら得ることができないが、米国はおそらくできるであろう」。伊藤は次に、もう1人の東京大学教授の日野壽一に相談したが、彼も本質的には同じことを答えた。海軍少佐の佐々木清恭は、電気研究部門の長だったが、彼は核爆弾と燃料の調査に送り込まれた。

・彼らはその報告書では爆弾については言及しなかったが、伊藤の言によれば、それは彼の上司の提督たちが、彼らの主な関心事項を秘密にすることを望んだためであった。もちろん、それは爆弾のことだったと伊藤は書いている。

・浅田は、米国がおそらくウラニウム爆弾を製造できるとみられる以上、日本も他ならぬ自衛という目的のためにそれを試みるべきであると述べた。

・爆弾の製造に伴う問題について議論された。菊池は十分なウラニウムが得られるかどうかが困難な問題だと指摘した。中性子核分裂生成物とどのようにして原子核が分裂するかについて研究していた菊池は、十分なウラニウムを見つけ出すのが困難だろうと指摘した。仁科は、(疑いもなく飯盛が朝鮮から持ち帰った)5~6(several)トンのウラニウム鉱石を自分は理研に持っており、他にも確保の可能性もあると述べた。

・ドイツについては、西欧の核物理学では秀でていた「ユダヤ人の科学者たち」をすべて駆逐していたため、おそらく爆弾を製造することはできないだろうという点では、意見は一致していた。しかし彼ら科学者たちの大半は米国に行ってしまったため、米国は原子爆弾開発にとり最善の立場にあった。

・委員会の結論を要約して伊藤は次のように述べている。「明らかに原子爆弾を製造することは可能であるに違いなかった。問題は、米国や英国が本当にこの戦争に間に合うように核爆弾の製造ができるのか、日本が彼らに先んじて核爆弾の製造ができるのか否かという点であった。………審議の全般的な見解は、米国にとってすら、戦争の間に原子力の利用を実現するのは、おそらく困難であろうというものであった」。

・委員会でさえ慎重に選ばれていたが、海軍の中でも最も力のあった艦政本部は、物理学会の一員ではなく、仁科にも劣らない資格を持つある科学者に、ウラニウム爆弾計画のための秘密資金を振り向けていた。

その科学者とは、荒勝文策だった。荒勝は、原子の莫大なエネルギーについて理論化したアルバート・アインシュタインの個人的友人であり、その生徒でもあった。アインシュタインのフランクリン・D・ルーズベルトに対する書簡により、ルーズベルト大統領は米国の計画を開始することを決心した。荒勝は仁科と同様に、日本の原子爆弾計画にとり重要な人物となっていた。事実、荒勝は、戦争末期には、仁科に替わり原子爆弾製造の中心的役割を担うようになり、彼は日本にとり、戦争間にその後は仁科よりも重要になっていった。

1890年に生まれ1918年に京都大学を卒業した荒勝は、1926年にベルリン大学に物理学を学ぶため赴き、そこでアインシュタインの下で学んだ。

<アルカサール・デ・ベラスコによる対英米スパイ活動>

・彼は、スペイン国境から100キロメートルほどのモン・ド・マルサンという町の近くにある、南仏のナチの飛行場から飛んできた。彼は最初に、旧友と会い指令を受けるために、アブベールの司令部に立ち寄った。彼の上司は次いで、日本大使館に、ある高級幹部と合わせるために彼を送った。

・1904~05年の日露戦争以来、日本はスパイ活動への努力を強化していた。1935年までには日本は世界で最も広範なスパイ網を持っていた。

・1944年の始まりの直後、フランコは、明らかに戦争の流れが連合国側に有利になってきたことから、枢軸国側のスペイン内外における活動に対して締め付けを強め始めた。

・アルカサール・デ・ベラスコは突然姿をくらました。「私(ベラスコ)はそれ以来、どこでも、スパイの指導者として責められるようになった。彼らは今でも私についてのファイルを持っている。それは彼らにスペインで私を攻撃する材料を与えた」。

「TO」の残党、まだ発見されていない数人の外交官たちは、アルゼンチンに移転しホアン・ペロンのアルゼンチンでの輪になった。「ペロンは日本人に良くし、彼らのために大金を与えた」。金銭は戦後私(ベラスコ)が権力を得る上で助けになった。

弱小化したスぺインのスパイの輪は、それ以降何の成果も生まなかった。

・1944年7月4日にベラスコはドイツに向けて去った。いくつかの彼に関するFBI文書が、情報公開法に基づいて私に解除されたが、その文書によると、彼はロシア戦線でドイツ側に立ちスぺイン軍の部隊として戦っていたとのことである。1960年にベラスコは本を書き、その中で、戦後すぐに彼はナチの戦犯、マーチン・ボルマンを潜水艦でアルゼンチンまで案内したと書いている。彼の本『余燼(aftermath)』では、最近の情報専門家ラディスタス・ファラーゴは、ベラスコとボルマンの話は本当だと信じていると書いている。

1945年が近づく頃には、アルカサール・デ・ベラスコと「TO」は活動しなくなり、日本はおそらく、マンハッタン計画の末期段階と、広島と長崎を壊滅させることになる米国の原子爆弾開発の情報は、何も得られなくなった。

『スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体』

嵌められた日本と世界を支配する見えざる帝国

高橋五郎 学研 2006/7

<ウラン型原子爆弾

・1945年8月6日、日本の広島上空で、人類史上初めてのウラン型原子爆弾が炸裂した。アメリカが第2次世界大戦を終結させるため、極秘マンハッタン・プロジェクトによって開発したとされる原爆だが、はたして、それは歴史的「真実」なのか、第2次世界大戦中、旧日本のスパイ組織TO機関に属しながら、ナチス・ドイツやイタリア、イギリスなど、欧米各国の2重、3重スパイとして工作をしてきた男、アンヘル・アルカッサル・デ・ベラスコはいう。広島原爆はナチス・ドイツが開発したものだ、と!!

<日本は沖縄を天皇の財宝「金の百合」で買い取った>

ここにふたつの情報がある。

ひとつは、ベルリン発ニューヨーク経由広島行き――ナチスの原爆が投下された。この奇妙な情報の発信人はナチスの元スパイ。発信は1982年。

そしてもうひとつは、フィリピン発ワシントン経由沖縄行き――日本は沖縄を天皇の財宝「金の百合」で買い取った。情報の発信人はアメリカの報道作家たち。発信は2003年。

このふたつの情報をさらに確かめたい方はさておき、時間を節約したい方は、この本を閉じるようにお勧めする。もちろん、これらは偽情報ではない。突飛で愚劣きわまる情報にも思えるが、無視はできない。発信の時期は20年の差があるが、その意図に関していえば、差はまったくない。

<世界的秘密結社フリーメーソン

・「フリーメーソンディアーナ(ダイアナ)、ミネルバ、イシス(セミラミス)を崇拝する古代神秘主義から派生したものだ。中世の石工組合から始まったというのは俗説であり、十字軍時代の聖地エルサレム(マルタ)に生まれた聖堂騎士団こそが、その真の起源である。わが聖堂騎士団は、エルサレム聖ヨハネ騎士団とともに、新たに秘儀参入者の組織を作り上げた。以来、われわれのロッジは、聖ヨハネ・ロッジと呼ばれるようになった」

・結社にはなんでもある。思想、宗教、学術そして政治もある。だが経済はない。なぜなら、世界経済の仕組みそのものが結社の発明品だからだ。結社は発明の秘密部品を除く応用編のみを世界中に解放している、それが 市場原理などと呼ばれるマネーのカラクリだ。

聡明な結社はその経済原理つまり、両建て作成による戦争事業(ゲーム)の発明者であることを世界の人々に知らせてはいない。結社の社是でいう「知識はむやみに語るべからず」だからだ。

・結社のメンバーには、だれもがよく知る歴史上の人物たちが山ほどいる。たとえば、コロンブスの航海支援者でヴェネチアの貴族メディチ家から資金援助を受けて活動したレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。スコットランドイングランドの両国王ジェームズ1世(メーソン)のために、欽定英訳聖書を翻訳監修したフランシスコ派の修道士で、科学者フランシス・ベーコンもメーソンだ。薔薇十字会のグランドマスターで、後にルネ・デカルトの世界観を補強したアイザック・ニュートンもメンバーである。

・彼らは、秘教信仰(古代の太陽崇拝カルト)とその儀式をエネルギー源にしている。

また、悪魔主義結社とも呼ばれる「地獄の業火クラブ」の中心人物であり、イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ建国の父として、100ドル紙幣の顔でも知られるベンジャミン・フランクリンもメーソンだ。「自然淘汰による適者保存説」のチャールズ・ダーウィンの祖父エラスムスダーウィンとその一族で、優れた血液を理想として人種の純粋性を提唱したトーマス・マルサス。秘教的知識を授けるイエズス会修道士院で教育を受けた哲学者ルネ・デカルト。空想科学小説家として『地底探検』でも知られるジュール・ベルヌキリスト教カソリックプロテスタントに分派化させたマルティン・ルターなどなど、後に「人種差別の提唱者」とか「近代科学や哲学の父」などと呼ばれる「知の探究者たち」の多くが、結社を支えたメンバーたちなのである。

古代ギリシア神秘主義結社「ピュタゴラス派」の流れを汲み、アドルフ・ヒトラーが全身全霊でのめり込んだ「神智学協会」もそうだ。手を掲げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ、あの動作の元祖で古代ドルイド教(信者には悪魔主義者といわれる英国首相ウィンストン・チャーチル卿や詩人イェイツがいる)を分派として支配する団体「黄金の夜明け」もそうだ。

これらの団体に連なる一派で、古代エジプトの女神イシスを崇拝する「マグダラのマリア(物見の塔の聖マリアと呼ばれる)」は、フリーメーソンを語るうえでは欠かせない一派とされている。

・結社に連なる騎士団の数は数えきれない。各団体の多くは、古代フェニキアアーリア人の太陽の象徴スワティカを祭祀に活用した。パワーを得るために性的儀式を催す魔術師が設立した「東方騎士団」。プロテスタント系の「聖ヨハネ騎士団」と金融組織を介して結ばれているカソリック系の「マルタ騎士団」。「テュートン騎士団」に連なる「黒騎士団」や「プロシア女王騎士団」。秘教黒魔術儀式を基本にしたオカルト教の「コンコルド団」や性的秘儀を共有する「第1、第2徳義団」などがある。

こうした多くの騎士団が、フリーメーソン結社の分派または中枢として連なっている。徳義団は、後年、ナチス党を誕生させる諸団体の一翼を担ったことで知られている。

・近代の物理学者アルバート・アインシュタイン博士や、アフリカの鉱山を支配するオッペンハイマー一族も結社員だ。彼らは民主党ウッドロー・ウィルソン米大統領の地位に担ぎ上げたメンバーでもある。ケンブリッジやオクスフォード大のエリート学生たちや貴族の血流を備えた青年たちをリクルートして、「007」に育てあげた英国情報機関の生みの親、ジョン・ディー博士一家もメンバーとして知られている。

シェークスピア作品の真の作者と噂されるフランシス・ベーコンらが所属したのが「薔薇十字会」だ。後にアドルフ・ヒトラーの名前で知られることとなるドイツ労働党員、シックルグリュバー青年を支援して反ユダヤ、反マルクス主義、ゲルマン支配を教義に打ちだした「トゥーレ協会」や「ブリル・ソサイエティ」などは、実はこのナチス原爆の背景を語るうえで欠かせない組織であり、人物たちである。

結社ファミリーには離合集散もある。メンバーたちは永久的断絶も意に介さない厳しい掟に縛られている。結社の目的に反旗を翻して滅亡させられた国家や一族と結社メンバーだったナポレオン一族があげられる。

・同じように、薔薇十字会のメンバーで300年間ロシアを支配したロマノフ王朝も、結社の手で破滅させられた一族である。イタリアのハプスブルグ家も、ドイツのホーヘンシュタフェン一族も、みな結社の目的遂行に逆らって滅亡の憂き目にあったとされている。

・結社のルールは、その目的・理想の原理に反するメンバーの行動を許さない。なぜならそれは神のルールであり、悪魔の掟だからである。

現代イタリアの結社「P2」やベラスコの次男フェルナンドが仕えるスペインの結社「オプスディ=神の仕業」も欧州メーソン結社に連なる下部組織だ。エリザベス2世女王を冠に掲げる、“大英帝国”の基盤も結社が支えている。同時にイギリス王室も結社を支えている。そして、欧州全域の王室(かつての王室も含む)と貴族の大半が、伝統的に結社のメンバーに連なっている。当然、欧米以外の諸国の王侯貴族たちも例外ではない。

<広島原爆はナチス製だった!!>

<完成前から決まっていた日本への原爆投下>

・これから記すのは、1982年のとある日の午後、スペインはマドリード旧市街にあるマヨール広場のカフェテラスでベラスコと交わした、ナチス原爆に関する対話のすべてである。会話の流れを重視する意味で、以下、問答形式で表記し、その都度、細かい部分を説明していくことにしたい。

Q :「広島に落とされた原爆は、本当にナチス製なのか。アメリカ軍がナチス製の原爆を転用した、ということか」

A :「そういうことだ。実際のところ、アメリカの原爆は未完成だったのだ。それで、ドイツ軍の原爆を使って日本に投下したのだ」

いきなり、核心を突く内容で始まったが、この荒唐無稽な話をどう受け止めて、どう解釈すればいいのか。その糸口として、以下の実話を紹介しておこう。この実話からは原爆開発に関わる歴史定説の謎めいた部分が透けて見えてくるからだ。

戦後のある時期、アメリカ政府は第2次世界大戦の資料の一部を公開した。戦時下の大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが、原爆の投下先を日本に決めた暫定委員会の会議資料だ。

<秘密結社の戦争事業>

Q :「ドイツの原爆をアメリカに渡したのか」

A :「そのとおりだ」

原爆の投下先を決めたフランクリン・ルーズベルト大統領は、任期中(1945年4月)に生涯の幕を閉じた。後任のトルーマン大統領はその4か月後、日本で原爆を炸裂させて核時代の幕を開けた。これにより、日本人は自国政府の「正義」よりも遥かに大きな「正義」の存在を、身をもって知らされたのである。

核時代の幕開けを行ったアメリカ大統領たちの行動は、もちろん結社の意向に基づいたものだ。しかし、結社の世界に住むベラスコ親子から見たアメリカ大統領の実像は、国を代表してはいても絶対的な権力者ではない。

大統領はさらに上位に位置する結社のために奉仕する僕にすぎない。結社は功罪半ばする欧米史の背景でありつづけ、今もその構図に変わりはない。大統領は結社の舞台で踊る、いわば操り人形にすぎないのである。

かつてイギリスから北米大陸に移住、アメリカ独立宣言に署名した56人のうち50名はこの秘密結社社員たちだった。大統領は結社員たちが選んで世界に掲げる「表看板」、すなわちアメリカ大統領のみならず、イギリスの首相もまた、秘密結社メンバーたちが選んだ単なる代理人のひとりなのである。

<秘密結社の行動原理>

・では、秘密結社の行動原理とはどんなものなのか。

ひと言でいえば、それは戦争である。戦争は、現状を打破して理想とする社会と富を手にする、最適の方法だと結社は信じてきた。結社は第三者間に対立関係を作りだし、争う両者に戦費を融資する。戦争で荒廃した両国に復興資金を融資して面倒をみる。融資を受けた国々は借金漬け、つまり債務国になる。結社は融資主の権限から債権国をイメージどおりに仕立てあげて、民族の方向性を指図する。

・こうした議会の批判にも結社は動ぜず、反論もしない。世界をたったひとつの「国家」にまとめ上げる成果は口先からは生まれない、と結社は固く信じているからだ。世界は強く優れて選ばれた民族の血脈のみを重んじる、選民たちのためにのみある、と発想することこそが結社の鉄則だからだ。結社には議会からの中傷や批判に傾ける暇はない、と考えている。

結社メンバーの頭の中には、高度な科学知識がたっぷり溜め込まれている。その根底はユダヤキリスト教を中心とした古代からの神話に拠っている。結社員たちは神学世界につきものの神秘主義的秘儀に通じているが、結社が施す秘教の伝授や錬金術の類いは、常に世間の興味と批判を集め、瑕疵を伴ってしまう。

だが、「魔女狩り」「オカルティスト」といった、世間の批判や罵声など、所詮、結社員の耳には届かない。人々の平和と安寧を祈念する結社は、人の棲むところに何が起きようとも、いつもスマートにそうした難題を乗り越えてきた、とする自負があるからだ。

・民主主義を金科玉条に掲げる結社は、まず投票で選ばれ、かつ結社の理想に従う個人政治家や政党勢力にのみ資金援助する。その逆に、秘密結社の意に反する人物に対しては独裁者の烙印を押し、金欠病と混乱を進呈する。最後には内戦や戦争に追い込み、独裁者国家の戦費を枯渇させてしまう。こうした手法こそ、結社が古くから磨き上げてきた絶対的な手法、つまり古典的な行動原理なのである。

・結社は分割闘争管理方式で、第2次世界大戦時のヒトラールーズベルトの双方を投票箱から選び、双方を敵対させて両国に戦費支援を続けた。というわけだから、核兵器ナチス原爆)の開発製造国がドイツであれアメリカであれ、その所有権など、戦う両国に戦争資金を融資する結社にとっては、どうでもいいことだ。つまり原爆は戦争事業主である結社の私物なのだ。

結社メンバーたちが、ナチス原爆を連合軍に渡して、投下させても不思議はないのである。戦争という名の敵対関係は、結社が描いたシナリオで演じられている。ベラスコはこうした事実を指して「そういうことだ」と断言しているのである。もはや、一般常識や戦争観、それに敵対関係の認識からでは、とてもナチス原爆を理解するのは不可能だ、というのは以上のような理由なのである。

<想像を絶する“新型兵器”の開発>

・ベラスコに対する日本側の任命権者は外相の東郷茂徳。新設の「内閣情報部」の設置発案者は海軍次官山本五十六、ならびに山本の忠実な部下の光延東洋中佐、外務省の須磨弥吉郎。陸海の既存情報機関とは別途の対連合軍スパイ機関として内閣情報部と「TO」を結びつけ、その情報機関長をベラスコに委嘱。日本国内は海軍大将野村吉三郎。ドイツ国内では、駐ドイツ大使の大島浩大将。スペインの窓口は、在スペイン公使の須磨弥吉郎(連絡役は一等書記官・三浦文夫)がベラスコからの情報受け取り人として発足した。

<利口な生き物たち>

・「国家とは、抽象概念が作りだした記号のひとつにすぎない。つかみどころのない形而上のその国家を、戦争の真犯人呼ばわりしてどうする。世間にはもっと、利口な生き物がいる。彼らは国家と呼ばれる架空世界を隠れ蓑に、その架空国家と国民の頭の中にある微妙な隙間を巧みに利用し、戦争を勃発させる。私益を国益だと人々に思い込ませることに長けた生き物たちこそが、戦争の真犯人なのだ」

ベラスコのこの口癖は、自身が利口な生き物たちの一員であることを問わず語りしている。たとえばこれまで、世界の高名な知識人たちが著した戦争分析論や、歴史研究家たちが作り上げた「定説」を、世間は信じてきた。歴史観や世界観などと呼ばれるそうした「神話」の大半は、ベラスコの仲間である利口な生き物たちが、意図して投げ込んだ腐肉を食した知識人の成果にすぎないというわけだ。

<日本の対米情報機関TOの本当の掌握者は結社だった!>

・その夜、イギリス情報部MI-6に追われたベラスコは、スペイン北部ガリシア地方の漁村からUボートに乗船、ドイツのハンブルク港に逃亡、翌年の1945年3月上旬から、ヒトラーの側近として地下官邸付き情報員ドクトール・ゴメスの名で、官邸勤務を1か月間続けている。そして、ベルリン陥落2週間前の4月21日に地下官邸を脱出、スイスの難民収容所に逃げ込んだ、とベラスコはいう。

・地下官邸でヒトラー総統に付き添った側近たちは、厳選された上級情報将校、衛兵、通信係、女性秘書たちだった。彼ら官邸要員を選んだ(ヒトラーの最期を目撃させる人々を選抜した)のはマルティン・ボルマン副官だ。ボルマンはドイツ第三帝国最後の地下官邸をヒトラーに代わって仕切った人物だ。彼は「4月30日のヒトラー自殺」を細工して官邸を去っている。

ソ連軍に占領されて、官邸がもぬけの殻になってからほぼ3か月後の7月16日、アメリカの原爆実験(トリニティ原爆)が成功。その情報とテニアン島ナチス原爆が運ばれた情報を、ベラスコは在米TOの情報網から受け取っていたのである。

・ベラスコによれば、愛人エヴァ・ブラウンとともに見つかったヒトラーの遺体は、ヒトラーとよく似た従兄弟だったという。

度忘れではない詭弁は、過去の企みを隠すためだ。ベラスコが44年7月以降のアメリカ原爆動向を把握できたのは、TO機関(の在米情報員たち)のお陰だった。しかも、その活動資金は日本が賄っていた。

TO機関の在米情報活動は、日本と提携する以前から続いていた。その既存の組織を、日本政府はTOを自前の情報組織と錯覚して“買わされた”のである 。稼働中の中古品を新品だとして投資させられたようなものだ。

ところが、日本の投資は同時に、日本の情報を結社に逆流させることにもなる。金を払わせて情報を奪いとる。日本を手玉にとったその“いかさま”を、過去のこととはいえ日本人の筆者に知られたくない。それがベラスコに詭弁を弄させた理由なのだろう。

だが、詭弁でかわそうとするのも無理はない。日本政府はTOが結社の情報機関だと知ってか知らずか、TOの活動に巨額の資金を投じていたからだ。

・むしろ、問題なのは内閣情報部を設けた日本政府だ。いってしまえば、日本政府(内閣情報部)は、国民の巨額の税金と日本の命運を左右する戦争政策上の秘密情報を、TOを窓口に、まさに“のし”をつけて敵側に進呈していたも同然だったからだ。

トルーマンにもスターリンにもなかった決定権>

・ドイツでは5月7日の無条件降伏を待たず、新ナチス復興計画が始まっていた。ベラスコはドイツが降伏したその年の暮れから、新復興計画に動員されている。新ナチスは潜水艦(Uボート)で、ドイツの優れた頭脳と血統を続々と南米に移動させていた。ドイツ海軍は終戦時に、百数十隻のUボートと25万人の乗員の消息を見失ったとされている。

これは戦後ドイツ政府の戸籍調査が算出した数字だそうだが、復興計画のために欧州から南米大陸へと、頻繁にUボートで往復輸送が繰り返されている規模からも、役所の発表した数字は絵空事ではなさそうだ。新ナチス復興計画の主はいうまでもない。ヒトラーを世に送りだした結社だ。

欧州沿岸から南米沿岸までのおよそ3000マイル、往復18日間の航海に要する潜水艦の輸送コストは膨大。

・ベラスコは1946年5月7日午前5時、ヒトラーの「後見人」であるボルマンを南米に送り届けるために、その潜水艦で南米に出向いている。

その2年前の1944年、ノルマンディー作戦が開始されたその日の深夜に、スペイン北西部ガリシア地方の漁村の沖合から、潜水艦でドイツのハンブルグ港に向かって脱出して以来の長い航海だ。南米アルゼンチンのラ・プラタ河口付近で、ボルマンとベラスコは下船。ボルマンと別れたベラスコは、単身空路マドリードに戻っている。ヒトラー・ドイツの敗戦後を見据えて、戦時中から着々と進められてきていた計画である。

・新ナチス復興の足がかりとして南米が選ばれた理由は、南極に近いからだ。南極には学術世界が知らない、古代からの特殊な空間がある、とする結社の歴史観と深い想像力が関係している。

ここで、前述のフリーメーソンの由来とメンバーの顔ぶれを思い起こしていただきたい。いわば、空想SF科学世界に造詣の深い賢人たちの間では、南極と北極には巨大な未知の地下空間世界が存在すると語られてきている。

・空想作品の大家ジュール・ベルヌは、先述したようにフリーメーソンの高位階者だった人物だ。ベルヌはヒトラーナチスの神智学協会「黄金の夜明け」東方騎士団にも深く関わった人物とされている。その代表的作品『地底探検』は、地球の空洞に住む高度な文明をもつ人々の世界を、SF形式で紹介したものだ。

そうしたことから考えると、新ナチス復興の本拠地として、南極を選んだ理由がわからないでもない。

・第2次世界大戦直後の1947年、南極探検に臨んだ米海軍の伝説的人物、海軍准将リチャード・バードはいう。

「われわれは苦い現実を認めなくてはならない。次の戦争では恐るべき飛行体から攻撃を受けるだろう。南極には進んだ文明と優れた先端技術をもつ人々が存在する。彼らはナチスSSとともに活動している」

・バードの発言は、空母と4000名の兵士を率いて南極に向かい、8週間の航海の後、多くの犠牲者を出して帰還した際のものなのだが、南極でバードたちに何が起こったのかは、第2次世界大戦が残した謎のひとつとされている。バード准将のいう飛行物体とは、連合軍が呼んでいた「フー・ファイター」、つまり、あの「ヴリル型戦闘機(俗にいうUFO)」のことだろう。

バードが南極探査に臨んだそのほぼ9年間の1938年、ドイツの南極探検隊が山や湖があり、氷に覆われていない60万平方キロメートルの土地を発見、その地をドイツ領土としてヒトラーが宣言していた。そしてニュー・スワビアと名づけ、そこに巨大なナチスの軍事基地を建設したといわれる。

バード准将の探査任務は、その巨大基地を偵察(攻撃)するためだったのだ。偵察時期が戦時下でもあったことから、旧ナチス軍と交戦、そのあげく、バードのアメリカ海軍は新型兵器で反撃されて惨憺たる敗北を喫した。その苦い戦闘探検をバードが報告したのである。

・ベラスコは1952年10月10日、新ナチスの手配で南極のこの巨大基地を単身訪れている。訪問目的はヒトラー(総統に似た別人だったとベラスコはいう)に届け物をするためだった。

・その訪問前の1946年には、地下官邸で別れたボルマンと再会してマドリードの自宅に匿った後、潜水艦で南米へ送り届けている。そして翌年6月6日には、これも自宅に匿っていたアイヒマンをスペイン、バラハス空港から南米に逃亡させている。

・「そのソファで、ふたりとも寝起きしていました。とても静かな人々でした」

ベラスコ夫人のコンチータは、ボルマンとアイヒマンがそれぞれベラスコの自宅で過ごしたときの印象を、そう語った。

ナチスの大物戦犯を、追跡中のユダヤ人グループの追尾をかわし、あるいは追跡グループから意図的に見逃がされて、ボルマンは潜水艦で、アイヒマンマドリード空港から、ベラスコはそれぞれ逃亡させている。その後、彼らは南極の巨大基地に向かったが、そのときも彼はCIA(OSSが改組された)の支援、つまり南米大陸内までの安全確保を取りつけている。それが、ベラスコの背後にいる結社の力なのである。

ベラスコが背負ってきた危なく重い役割は、そのまま結社のベラスコに対する信任の厚さを物語るのだろう。

・戦後、ボルマンと同じようにベラスコに匿われて、南米に逃亡したナチスの高官アドルフ・アイヒマン。だが、1960年5月、アルゼンチン内でモサドイスラエルの情報機関)に捕らえられ、イスラエルで裁判を受けた。イスラエルでただひとり、死刑になった人物である。

<結社は最終目標を達成するまで決して諦めない!>

Q:「ナチス原爆説を証明する人物は、だれかほかにいるか」

A:「ノーだ」

・そこで、再び結社の歴史を大まかに振り返りながら、ベラスコのNOの背後に隠れている人々を探ってみよう。

イギリスの結社メンバーはかつて植民地支配に着手、でき上がった植民地のひとつが現在のアメリカ合衆国だ。先述したが、北米大陸は13世紀のイギリス王室とバチカンを握手させた、結社メンバーたちの会社が経営を始めた植民地である。

その後、植民地経営会社は500年余りの歳月を経て、北米大陸の各地に次々とコミュニティを誕生させ、単独の行政区分で運営されていた各州を統合して、合衆国として独立させた。会社は植民地経営の方式を、さらに北米大陸以外の大陸や島嶼にももち込んだ。そのうえで、それらの植民地をまとめて、ひとつの世界政府を樹立させる最終目的が結社にはある。

結社の最終目的は至福千年王国を目指している。つまりワン・ワールド=世界連邦政府の実現を悲願としていることで知られているのである。そのために世界に「秩序」を呼びかけ、国連創設に苦心してきた。そうした結社に対抗する、知識力と資金力とリーダー・シップを発揮する勢力は、現世界のどこにもない。21世紀の現在も、結社の理想は失われていないのだ。

・加えて、結社と価値観で対立する勢力を、力づくで屈服させようとする手法も歓迎されにくい。何しろ、結社の手法は相手国の内部に対立抗争の火種を投げ込んだり、潜在的な敵対国同士の抗争を顕在化させて争わせる両建て闘争管理方式だから、そのやり方が結社の哲学を台なしにしてしまう。つまり、結社の過度の“思いやり”が、皮肉にもそれまで眠っている相手を、抵抗勢力として目覚めさせてしまうのである。

それでも知力と腕力こそが人類を至福に招く、と信じる結社はひるまない。20世紀初頭、結社の理想に反発したわけでもないドイツ、イタリアそして日本を相手に、結社は闘争管理方式をもち込んだ。いや、戦争を勃発させたといい換えよう。

目的は、ソ連共産主義諸国との架空対決を演出するためだ。その仕掛けはひとまず成功して、第2次世界大戦の勃発につながった。この戦争で、ソ連をあたかも米英に比肩するかのような大国にのし上げた。むろん、架空にすぎない見せかけの大国なのだ。

・第2次世界大戦の終結を踏み台にして、結社は幻の超大国ソ連と米英西側同盟国軍団との間に、「冷戦対決」の構造を作り上げた。つまり、対決による闘争管理方式で、世界を東西2分割してまとめる戦略を成功させたのである。

米ソ両大国と東西両陣営の納税者は、互いに手強い相手国の攻撃に備える必要性から、政府の軍事支出に異義を唱えることをやめた。結社は狙いどおり、東西対決の仕組みを提供して国民に税金を吐きださせ、軍需産業に利益をもたらす結社得意のバビロニア錬金術を遺憾なく発揮したが、好事魔多しで結社の錬金術を非難する国々をも、また多く生みだしたのである。

米ソ対決の闘争管理方式で大儲けした結社は、今度は米ソの対立関係を終焉させ、用ずみの仇役ソ連共産主義体制を崩壊させ、今度は民主主義国ロシアに改造した。日本政府の指導者たちは明治維新の遥か以前から、自国の運命を結社の西欧世界に委ねてきた。その錯覚ぶりを浮上させたのが、第2次世界大戦だった。

<「金の百合」を巡って交わされた日米の秘密同盟>

・彼らの忠誠心を米英戦勝国に捧げさせるため、結社は1946年、戦争犯罪人を裁くという建前で東京裁判を形式的に用意した。表向きには戦犯を積極的、かつ公正に裁く場に見せかけ、その舞台裏を「金の百合」の一部で裁判費用を賄った。

・だが、結社は天皇に戦争の罪を問うつもりなど最初からなかったのである。「金の百合」の持ち主には利用価値がある。裁判では、結社の対共産主義対策に非協力的な人物を選びだし、戦争遂行責任者に罪ありとして軍人25人に有罪判決を下し、うち7人を死刑にした。スケープゴートである。海軍関係では、指導者ふたりが死刑を免れ、終身禁固刑ですんだ(TO情報と連携した功績が大きかったからである)。本来なら、処罰対象になる他の軍人とその協力者たちを、刑務所から解放して形の執行を猶予し、共産主義者と対決させるために再活用したのである。結社、つまり占領軍は東京裁判を通して、昨日の敵である日本の戦争指導者を活用した。その舞台として裁判は設定されたのだ。

<これ以上、話すことはない………>

Q:「私は自身の常識を疑わざるを得なくなるが?」

A:「それはお前の勝手だ。私は世界連邦政府主義者だ。どこの民族も愛するし、疑いもする。文句はあるまい」

ここで録音テープは切れた。対話はもうこれで十分だろう。

『教科書には載せられない日本軍の秘密組織』

日本軍の謎検証委員会 彩図社 2016/7/21

<東機関>

マンハッタン計画を探った外務省の秘密組織>

<中立国を拠点とする諜報機関

・こうした事態に対処するため、日本の外務省はある抜け道を使った。中立国に特別機関を置き、情報収集の拠点にしたのである。特に右派勢力が牛耳るスペインは中立国の中でも日本とドイツには協力的であり、外務省は在スペイン公使・須磨弥吉郎へ、この国に諜報機関を設立することを命じた。こうして1941年12月22日に誕生したのが「東機関(TO機関)」だ。

須磨が組織設立時に協力を要請したのは、スペイン人のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコである。元々闘牛士であったが、28歳のときに右派勢力に反発して逮捕。反逆罪で死刑となるところを、釈放を条件にスペイン政府のスパイとなった人物であった。

・このうち、ワシントン近辺のスパイはアメリカの目を集中させるための囮で、本命は西海岸の大都市だったという。大規模な人員派遣はできず、スパイ網が完成したのは開戦半年後の1942年半ば頃だった。

マンハッタン計画の情報の流出>

・日本がベラスコに求めたのは、兵器の開発・生産状況の推移や国民生活の様子、そして各軍港での艦隊動向の調査である。中でも重視されたのは軍港の監視で、太平洋方面へ出撃する艦隊や輸送船団の情報は、スペイン人のスパイにより外務省へ逐一流された。

しかし、アメリカ国内から通信を送ると、連合軍に察知される恐れがある。そのため、入手した情報は特異な方法で送られていた。判明している手段は、まずスパイ自らが中立国のメキシコへ一旦逃れ、大西洋で待機中の工作船へと移り、そこからスペインの本部へ送信するというものだ。

・これらの手段は実に効果的で、軍港の様子を常時発信したのみならず、重要作戦の機密すら入手していたのである。

例えば、ミッドウェ-防衛に参加予定の空母が出港したこと、ガナルカナル島へ近日中に大規模攻勢が掛けられ、アメリカは不退転の覚悟で臨むことなど。そして最も注目すべきは、マンハッタン計画の詳細すら掴んでいたことだ。原爆開発を看破したのは青年スパイのロヘリオとレアンドロだといわれ、ベラスコのスパイ網は想像以上に強固だったと見られる。

しかし、ベラスコが尽力したにもかかわらず、当の日本は機関の報告をほとんど無視していた。

・日本軍が東機関を重視しなかったのは、本土やアジア方面の機関を優先したことや、軍内部の情報軽視が大きいとされている。そして、組織はアメリカ諜報組織によるスパイ暗殺や拠点襲撃によって、1944年に破滅する結果となったのだった。

『スパイ大事典』

ノーマン・ポルマー、トーマス・B・アレン

論創社 2017/7/6

<ゲーレン、ラインハルト (1902-1979)>

・第2次世界大戦中、ドイツ参謀本部の東部(ロシア)戦線における情報活動を監督し、戦後は西ドイツの対外情報機関BND(連邦情報庁)の長官を務めた人物。

・その後44年12月1日に准将へ昇進しているが、司令官を経験せずに将官となったのは他に数名しかいない。部下の参謀はソビエト軍の兵力や意図に関しておおむね現実的な評価を行なったが、ナチス指導者とりわけアドルフ・ヒトラーは情報評価に根本的な不信感を抱いていたため、それらが活用されることはほとんどなかった(ヒトラーの出席する会議において、ハインツ・グデーリアン大将がゲーレンのもたらしたソビエト軍関連の情報を提示した際、ヒトラーは怒り狂い、ゲーレンは気の狂った精神薄弱者に違いないと喚き立てた)。45年4月9日にヒトラーがゲーレンを更迭したのも、彼がもたらしたソビエト軍の兵力及び意図に関する情報が原因だった。

・しかしゲーレンはすでに自分自身の将来を考えていた。ソビエト軍関係の情報ファイルやロシアの航空写真といった膨大な資料をドラム缶50個の中に密封した上、将来に備えて複数の場所に埋める。第3帝国の滅亡が迫る中、ゲーレンと主だった部下はハインリヒ・ヒムラーによる暗殺を恐れ、潜伏生活に入った。

1945年5月上旬の終戦後、ゲーレンは—―主な部下と情報ファイルを伴って—―5月22日アメリカ軍へ部下6名と共にワシントンへ移送され、アメリカ軍の高級情報将校と会談する。その後1年近くアメリカにとどまり、ゲーレン機関を組織すべく46年7月に船でドイツへ帰国した。この組織の目的は、ソビエト占領地域でアメリカがゲーレンのスパイ網を活用するにあたって手を貸すことだった。

1956年、ゲーレンの組織はBNDとなり、ゲーレン自身が長官に就任した。

ゲシュタポ

・秘密国家警察(Geheime Staatspolizei)の略称。ドイツ国内及び占領地域でナチスに敵対する者を容赦なく取り締まり、その他の国々では諜報活動や破壊工作を行なう傍ら強制収容所を運営した。

・1939年10月、ヒムラーがドイツ民族性強化国家委員に任命され、新たに併合されたポーランドの統治を委ねられたのを受け、ハインリヒ・ミューラーが後任のゲシュタポ長官に就任する。ミューラーは戦時中におけるゲシュタポの悪名高き活動を指揮し、「ユダヤ人問題の最終的解決」において主要な役割を演じるも、敗戦間際の1945年5月1日にベルリンの総統地下壕で目撃されたのを最後に行方不明となる。そのため、最後まで残ったナチ支配下の地域を連合国が蹂躙した際、ゲシュタポを指揮する人間は不在だったことになる。

<有末精三(ありすえせいぞう) (1895-1992)>

・第2次世界大戦の大半を通じて日本軍による諜報活動の責任者を務めた陸軍軍人。

参謀総長の副官の1人がある会合に加わり、日米両軍が激戦を繰り広げていたガダルカナル島での勝利を祈願するため、明治神宮に参拝してきたことを告げた。すると同席していた有末は「ガダルカナル島とはどこか?」と訊いたというのである。

上記の著者たちは、日本陸軍の主たる関心が太平洋地域ではなくアジア大陸にあることを強調するためこのエピソードを記したというが、1942年8月に有末が参謀本部第2部(諜報担当)部長に就任した時の状況がまさにそうだった。なお彼は45年8月の終戦までこの職を務めている。

・1945年8月6日に広島へ原爆が投下された翌日、有末は徹底的に破壊された市街地に急行して生き残った将校に会い、大惨事の直接的な情報を入手した。後に総理大臣から指名を受け、8月28日に厚木飛行場へ着陸したダグラス・マッカーサー元帥の先遣隊を公式に出迎えている。その際、有末はアメリカ陸軍の将校をテントに案内し、オレンジパンチを差し出したという。なおもアメリカ人たちが躊躇していると、有末はグラスを取り上げ自ら飲み干したと伝えられている。

終戦後、有末は極東及びソビエト連邦に関する自らの知識を、マッカーサーの諜報スタッフに加わる取引道具として活用した。そしてチャールズ・A・ウィロビー少将と緊密な関係を維持しつつ、日本軍の元情報将校による「歴史研究チーム」を組織、マッカーサーの参謀を側面支援したのだった。

玄洋社(BlackOcean Society)>

・日本の影響力を拡大し、中国、挑戦、満州、そしてロシアから情報を入手すべく1881年に結成された秘密結社。国外のアセットを通じて日本に外国情報をもたらした最初の組織である。

玄洋社という名前は九州と韓国を隔てる玄界灘からとられた。裕福な福岡藩士の家に生まれた平岡浩太郎によって1881年に結成されたが、指導者としては頭山満が最も有名である。

玄洋社は「皇室を敬載すべし」を社則にした国家主義者の集団だが、G・R・ストリーは日本社会の研究書の中で「テロ組織でありまたスパイ養成学校でもあった」としている。19世紀末にはこのような組織が合同して東亜同文会を発足させ、上海にスパイ養成所を設立した。

玄洋社の諜報活動において中国は特別なターゲットだった。また事実上政府の一部門として活動しており、日本陸軍にも情報を提供している。さらに頭山は漢口に玄洋社支部を設け、中国陸軍に対する諜報活動も行った。

玄洋社は情報収集の手段として一貫して性を用いており、日本、中国、そして朝鮮に売春宿を設立して中国の他の秘密結社の会計官や将校を惹きつけ、彼らから重要な情報を引き出した。こうした売春と脅迫を通じ、玄洋社は情報だけでなく運営資金も入手している。

玄洋社の関係組織である天祐侠は朝鮮におけるスパイ活動を行ない、また朝鮮の弱体化を狙った計画の一環として政府転覆を企み、結果的に後の韓国併合につながった。

<サイキック情報>

・テレパシー(ESP)もしくは心霊能力の活用など、超常的手段で入手されたと思しき情報のこと。アメリカ国防情報局(DIA)は10年以上にわたり、推定2000万ドルをかけてサイキック情報の入手を試みた。スターゲイトというコードネームが与えられたこの計画は1980年代に始められ、DIAなどの情報機関が心霊専門家(「透視能力者」と呼ばれていた)を雇用していたことを当局が認めてプログラムを中止する1995年まで続けられた。

・スターゲート計画はCIAに引き継がれ、外部専門家による検証がなされたが、直後の95年中頃に中止された。

・透視能力者の1人として、1978年にスターゲート計画(当時はグリルフレイムと呼ばれていた)へ配属されたアメリカ陸軍准尉、ジョセフ・マクモニーグルの名が挙げられる。マクモニーグルによると、彼をはじめとする遠視能力者は通常の手段で得られた情報を補完するために用いられたという。またCIA、NSA、統合参謀本部、麻薬取締局、シークレットサービス、入国管理局、そして沿岸警備隊といった政府機関がサイキック情報を求めたとのことである。

ジェームズ・ボンド

イアン・フレミングによる大ヒットスパイ小説と、それを基にして製作された映画シリーズの主人公。大胆不敵なポンドは別名エージェント007といい、00から始まるコードネームは殺しのライセンスを与えられたことを指す。

ストーリーは空想に満ちているが、現実を思わせる箇所もある。頻繁に適役となったスメルシは実在のソビエト情報組織であり、ブルガリアの作家A・グリャーシは(伝えられるところではKGBの委託を受けて)スメルシ及びソビエトに対する負のイメージを払拭すべく、ボンドを敵役とした小説を書いた。

<杉田一次(すぎたいちじ) (1904-1993)>

・第2次世界大戦の主要な戦闘に参加し、降伏にも立ち会った日本陸軍の情報士官。

真珠湾攻撃を1ヵ月後に控えた1941年11月、中佐として第25軍に配属され、マレー及びシンガポール作戦に携わる。この作戦中にバイク事故で重傷を負うも、痛みをこらえつつ職務を続け、42年2月にはシンガポール守備軍司令官A・E・パーシバル中将との降伏交渉を補佐し、通訳も務めた。

・その後はガナルカナルに赴き、ジャングル戦の苦境と飢えを耐え抜く。日本はこのガナルカナルで陸上戦における初の敗北を喫したが、杉田は兵士13000名の撤収計画を立案した。撤退後は東京での参謀任務に戻る一方、大敗に終わった日本軍のインパール作戦を督戦するため東南アジアに赴いている。

・1945年9月2日、東京湾に浮かぶアメリカ戦艦ミズーリの艦上で日本が降伏文書に署名した際、杉田は日本側代表団の一員だった。テーブルの向こうには、3年前に杉田が降伏会場のテーブルまでエスコートし、日本の捕虜収容所から解放されたばかりのパーシバル将軍の姿もあった(降伏調印式当時、杉田は大本営参謀だった)。

・戦後収監されるも47年5月に釈放される。その後陸上自衛隊入りし、1960年3月から62年3月まで陸上幕僚長を務めた。

<スタシンスキー、ボグダン 1931->

・毒性の粉末による暗殺の訓練を受けたKGBの暗殺者。

ウクライナ生まれのスタシンスキーは19歳からソビエト情報機関で働き始め、入省早々の1957年、西ドイツで暮らすウクライナ国家主義者のリーダー、レフ・レベトの殺害を命じられた。

スタシンスキーは青酸カプセルを装填した特殊な拳銃を使い、顔面にガスを噴射することになっていた。カプセルがぶつかった衝撃で青酸が放出されるというわけである。青酸を吸い込んだ犠牲者は心臓発作を起こして死に至る。またスタシンスキーには銃撃直前に服用する解毒剤が与えられた。

1957年10月12日、レベトは待ち伏せ攻撃を受けて殺害された。

・スタシンスキーの次なる任務は、亡命しているもう1人のウクライナ人指導者、ステファン・バンデラの殺害だった。今度は銃身が2本の拳銃を与えられ、ターゲットだけでなくバンデラのボディーガードの顔面にも毒性の酸化物を撃ち込むよう命じられた。

・1959年10月15日に殺害を成功させている。

・1959年12月、それまでの功績に対して赤旗勲章が授与され、同時に新たな任務も与えられた。1941年にウクライナ共和国の首相を務め、同じく西ドイツに住んでいたラオスラフ・ステツコフの殺害である。

この頃、スタシンスキーは東ドイツ人女性と結婚していたが、彼女は夫の職業に恐れおののいた。夫妻は悔悟と罪の意識、そして不安を抱き、1961年8月12日にベルリンでアメリカ当局に亡命を申請した。スタシンスキーは裁判にかけられ、自らの「成果」を自白する。判決は禁固8年だったが、1966年末に極秘で釈放され、アメリカへと連れられた。その後の人生については知られていない。

<聖書におけるスパイ>

・聖書にはスパイについての言及がいくつか存在する。ユダヤ人がモーゼ5書あるいはトーラーと呼ぶ旧約聖書を繙くと、まず冒頭の創世記でスパイに関する最初の言及がなされており、また出エジプト記においてはモーゼとヨシュアがスパイマスターとして描かれている。そして新約聖書に目を移せば、ローマ人がユダを内通者として用い、キリストを裏切らせている。

・聖書における最初のスパイ行為は創世記42:9で述べられている。エジプトの宰相としてファラオに次ぐ地位にあったヨセフが、自分の正体を認識していない兄弟たちに面と向かってこう尋ねる。「汝らはどこから来たのか」兄弟たちが「食糧を買いにカナンの地から」と答えると、ヨセフは「汝らは間諜である。この国の弱さを見るために来たのだ」と言った。「この国の弱さ」とは、エジプトで最も豊かな地域とされた北東部の国境周辺を指している。この地域に足を踏み入れた他国の人間はスパイと疑われるのが自然だった。

・記録に残る最初の諜報任務は民数記第13章に記されている。「そして主は言われた。『あなたの人を遣わし、わたしがイスラエルの子に与えるカナンの地を探らせないさい。その父祖の部族から、それぞれ彼らの司たる人々を選んで遣わしなさい』」

モーゼは12の部族のそれぞれから1人ずつ選び出した。

・だがモーゼによる諜報活動は現代のスパイマスターをも悩ませる問題を生み出した。エージェントがそれぞれ異なる情報を持って帰還したのである。カナンの地には巨人が住んでいると言って侵攻に強く反対する者もいた。そして12名のスパイのうち2人だけが侵攻に賛成する。住民の強さに関する報告に恐れをなしたユダヤ人はパニックに陥った。かくして神は彼らを懲らしめるため、「汝らがその土地を探した日数にちなんで」40年にわたり、約束の地からユダヤ人を締め出したのである。

・侵攻を支持した2人のうち、カレブは神から「私のしもべ」と呼ばれ、スパイの中で彼だけが40年を生き延びて約束の地に入り、さらにはヘブロンの街と周囲の丘陵地帯を与えられた(民数記14:24)。

・聖書におけるもう1つの諜報任務は失敗に終わっている。カナン人の王アラデはモーゼのスパイを幾人か捕らえ、拘留の上尋問を行なった。しかしイスラエル人がカナンの都市を占領するにあたっていずれも釈放されたようである(民数記21:1.3)。

・モーゼの死後、ヨシュアユダヤ人の指導者となってスパイ活動を引き継ぐ。彼は2人のスパイに「行って、エリコとその周辺を探りなさい」(ヨシュア記2:1)と命じた。世界で2番目に古い職業に就いたこの2人は、世界で最も古い職業に就く女、娼婦ラハブの家にかくまわれる。エリコの王は情報提供者からそれを聞き、スパイたちを裏切るようラハブに命じる。だが彼女は、イスラエルのスパイが自宅にいたことは認めたものの、彼らはすでに出発し、街の門が閉じられる前に出てしまったと言い張った。国王の手先が慌てて追跡に向かおうとする一方、ラハブはスパイたちを屋根に乗せ亜麻の茎で隠したのである。

・多かれ少なかれ大衆社会に属するアマチュアによって実行されたモーゼの作戦は、指導層内部におけるモーゼの地位低下という結果をもたらし、かつ大衆の自信喪失につながったのみならず、国家に長期的かつ深刻な害をなした。一方、プロによって秘密裡に実施されたヨシュアの作戦は、国家的目標の達成という結果につながっている。

新約聖書では、ユダを内通者として用いたことが、ローマ植民地における諜報活動の典型的な例を示している。支配者が地元住民を諜報任務に用いたのは、彼らだけが大衆に溶け込むのに必要な言語及び社交能力を持っていたからである。またもう1つの諜報活動がパウロによって記されていて、「偽の兄弟が秘かにやってきて、わたしたちがイエス・キリストにあって持っている自由を探り、我々を奴隷にしようとした」(ガラテヤ人への手紙2:4)と謎めいた言及がなされている。

<ダンカン、ヘレン 1897-1956>

・降霊術の集いで軍事機密をばらしたとされる降霊術師。その内容は、戦死したイギリス兵が最も近しい親族に話しかけてきたものだった。結果として1944年3月、彼女は中央刑事裁判所において、1735年制定の魔術法違反で裁かれた。なお、機密情報を漏らす恐れがあったため、審理は非公開で行われた。

・兵士の遺族を騙したとして、2名のイギリス海軍士官がダンカンを詐欺で訴えたのを受けて行なわれた捜査の結果、Dデイ(ノルマンディー上陸作戦の決行日)関連の機密を守ることに懸命だったインテリジェンス・オフィサーを仰天させる出来事が明るみに出た。イギリス海軍の主要基地があるポーツマスでダンカンが主催した降霊術の集いにおいて、母親が息子の死を知るより早く、死んだ息子を彼女の前に出現させようとしたのである。その水兵は、1941年11月25日に戦艦バーラムが地中海で魚雷攻撃を受けて撃沈された際、犠牲になった862名の乗組員の1人だった。降霊術の集いは撃沈が公表される前に行なわれたのである。

・ダンカンは口の軽い水兵からその知らせを聞いたのだと、捜査関係者は判断した。そして1944年3月にポーツマスが侵攻作戦参加艦隊の主要基地に選ばれた際、Dデイ関連の秘密を知るダンカンが、降霊術の集いを通じてそれを広めてしまうのではないかと、イギリスのインテリジェンス・オフィサーは恐れた。これが裁判の理由だったとされる。

・ダンカンと3名の参加者は、「魔術を行使あるいは活用する」振りをし、「ヘレン・ダンカンを媒介として死者の魂を現世に蘇らせようとした」容疑で起訴された。ダンカンには禁固9ヵ月の形が下され、1944年6月6日のDデイまで「死者の声」は沈黙させられた。その後同年9月22日に釈放されている。

ダンカンはスコットランドのカレンダーに生まれ、幼い頃から霊界との媒介者としての素質が見られたという。その後イギリス各地で降霊術の集いを催して生計を立てる。集いでは死者の魂が姿を見せ、遺族に語りかけたり触れたりしたらしい。やがて、降霊術を行なう各地の教会や個人の集会で神の使いを務めるようになったとのことである。

イギリスの新聞は彼女を「最後の魔女」と呼んだ。

『天国の住民が教えてくれること』

ポール・ミーク 新紀元社 2005/1

<プロのミディアム(霊媒)>

・私は物心つかないうちから常に霊界とともに生きてきた。プロのミディアム(霊媒)となって、25年以上経つ。霊界のために仕事ができて光栄だと思う一方、私は、この仕事に大きな責任を感じる。

・私の目的は、霊界とのコンタクトによって、愛する人と死別して悲しんでいる人を慰めること、苦境に立つ人を元気づけることだ。

・私は、英国スピリチュアリスト協会のミディアム(霊媒)の試験に合格したのち、ミディアム(霊媒)としてだけではなく、オランダでオペラ歌手として働いた。

・死後の世界である霊界のことや霊的な真理について、霊界とのコンタクトを、実例を挙げながら、分かりやすく説明しようとした。

・イギリスでは、スピリチュアリスト教会が至る所にあります。普通の教会と同じように自由に誰でも参加できます。

・プロのミディアム(霊媒)の本として、ドイツでベストセラー、ロングセラーとなった。

・イギリスだけでなく、アメリカにも大勢の優れたミディアム(霊媒)がいます。そして、もちろん日本にも。

<スピリチュアリスト教会> 死後の生命存在を実証するために、ミディアム(霊媒)が死者たちとコンタクトをとり、メッセージをもらう集会をする教会。

<英国スピリチュアリスト協会(SAGB)>

・SAGBと呼ばれる英国で有名な団体。130年の歴史がある。前身はメアリールボーン・スピリチュアリスト協会という、12人の知識人によってはじめられた。その中にはシャーロック・ホームズの生みの親であるアーサー・コナンドイル卿もいる。ミディアム養成のための様々なクラスもある。

<著者の子供時代に病気の時の死後体験でみた霊界>

<カラフルなインディアンの訪問者>

・何日もの間、私は隔離されて、病院の小さな部屋にいた。毎日、医者たちが回診に来た。

・薬は眠りを誘うものだったに違いない。なぜなら、私は、眠ってばかりのようだったからだ。そして、切れ目なしに夢を見ていたのか、霊視だったのか、今となっては確かではないのだが、各国の子供たちが大勢でベッドのまわりで、踊ったり遊んだりするのを何回も眺めたことを覚えている。他にもたくさんの訪問者があった。その中に何年か前、バイオリンを習えなかった時に慰めてくれた“真っ白な衣装を着た女性”もいた。

ほぼ毎日ある訪問者の中に“カラフルなインディアン”がいた。彼は来ると決まって私を寝かしつけてくれた。眠くならないときには、半分眠っているような夢心地になった。

<霊界には夜がないし、眠る必要がない。>

・ そこには夜のようなものがない。私達は、眠る必要がないのだから、休息や細胞組織の再生を必要とする物質の身体がないのだ。それに、ここ地上にいるとき時は違って、太陽や月に支配されて生きているのではないから、時間に制限されない。

・ 魂の集団全体が霊界で完全に揃うまで待つのである。地上は多くの魂にとって最大の学校であるが、霊界でも魂は学び向上するための無数のチャンスがあるというのだ。

<あなたが人生を選ぶ>

・ もっと高次元の進歩を遂げた魂のことを、私達は、霊的な教師と呼んでいる。霊的な教師は、悟りを開く準備が整い、進歩を熱望する者たちをいつでも助け、指導する用意がある。喜んで未熟な魂たちの手助けをして、さらに道案内してくれるのだ。霊界の生活は大部分の魂にとってこの上もなく心地よいものである。霊的な進歩という点から、そこで多くのことを得ることができる。

・ しかし、霊界であまりに長く過ごさず、この世に転生する例外的なケースもある。この世でのほうがある特殊なレッスンのために都合がいいというケースだ。戦争や災害で魂がこの世でのレッスンを完了しなかったということもある。

・まず、生まれ変わる、つまり転生するのは自分の選択で、私達の自由な意思である。ある期間を霊界で過ごしたあと、私達は、自分の限界に気づき、もっと進化したいと思うようになる。その時、より高い界層からの指導と霊的な教師の手助けによって、この世での新しい人生を計画するのだ。そして、霊界の潮流から押し出され、この世に戻ってくる。

<霊界を思い出すことが重要>

・死と再生の循環にも終わりがある。この世で必要なことをすべて体験し、習得したときに、自由のきかない肉体をまとうことをもはや望まず、霊界にいる状態に満足したとき、その時こそが、霊界のより高い界層を昇るときである。霊界には豊富な知識や知恵を得ることができる界層が数多くある。

<前世は知らないほうがいい>

・ 人の魂は、みな進化と発展の途中であるということを理解して欲しい。私達は、みな過去において生き延びるためにあらゆる手段を使って戦ったのだ。だから、「私達がこの世に生まれる際に過去のあらゆる記憶は、自動的に消去される」という宇宙の法則は、ありがたいものである。体験したことを全部覚えていれば、いたたまれない人もいるだろう。

<輪廻転生>

<人生という舞台>

・新しい人生が地上で始まるとき、私達の魂は、新しい肉体に宿る。新しい脳、初めて抱く感情・・・。新しい身体は、明らかに前世の身体とは何の関係もなく、新しい脳も前世の脳と何の関係もない。生まれる前に霊界で過ごした時の記憶もない。

・ 例外として、前世のぼんやりした記憶や出来事のかすかな部分を思い出す人々もいる。子供の中にはそういった事を話す人もいるが、地上での年月が経過するにつれ、そういう記憶も薄れて、はっきりしなくなる。この情報や記憶力は、魂から来るのでしょう。意識や潜在意識から来るのではない。

<霊界で過ごす時間>

・ 「魂は、次にこの世に生まれるまで霊界でどのくらいの時間を過ごすのか?」は、よくある質問だ。それぞれのケース(それぞれの魂)で違っており、決まった期間というものはない。

・ 私達は、みな「カルマに基づく魂の集団」家族と呼んでもよい集団とつながっていることを改めて理解してほしい。私達は、偶然この世に生まれるわけではなく、魂の成長のために生まれるのだ。

・ 霊界には時間が存在しないという事実から私達が、霊界で実際に次の生まれ変わりまでどれくらい時間があるのかの答えを出すことは、困難だが、一般的には地上の時間で、約150年から200年、霊界で過ごすと言っていいだろう。

・ この世では、日数や季節で、春夏秋冬で時間を数える。しかし、霊界にあるのは光のみ、多くのスピリチュアリストが、霊界をサマーランド(常夏の地)と呼ぶのはこの事実による。

『天国の住民が教えてくれること』

ポール・ミーク 新紀元社 2005/1

<霊界には7つの界層がある>

・霊界には7つの主要な階層があり、各々はさらにいくつかの階層に分れていて、お互いに重なり合ったり、複雑に混じり合っている。そのほかに、人が死によって肉体を捨てアストラル体になった時、霊界に適応するまで休息するための階層もある。

<第一の界層>、最下層では波動は極度に低く、私たちが普通考えるような生命と言うようなものは、存在しない。邪悪の思考が渦巻く、光の届かない世界。地獄のようなという形容が当てはまるだろう。

<第二の界層>、この世で他者を苦しめ続けた人間は、この界層に行く。向上するには、多くの転生を繰り返す必要がある。それにはこの世の年月で数千年もかかることがある(だが、どんな魂にも進化のチャンスがあることを忘れないでほしい)。

<第三の界層>、第三と第四の界層は、この世を鏡に映し出したような所だ。私達の大部分が死後そこに住むことになるだろう。そこには、山、川、谷、海もあり、私達がこの世で美しいと思ったものは何でもある。

物欲で生きた人たちは、大体において、第三の界層に行く 。この世で頑張って働き、人生を楽しんだ。他者に危害を加えたわけではないが、他者のために特別いいことをしたわけでもない。つまり、平均的な人たちだ。また、他者のことは考慮せず、少し自己中心的だった人や、霊的なことなど考える余裕さえなく、お金やものを所有することしか頭になかった人もそこに住む。自分たちの上に高い階層があることを気づこうともせず、自分の枠の中しか知らない。周囲も似たような考えの人たちばかりだ。だが、多くの魂がこの界層内で進化を遂げる。中には、一つ上の界層に昇るものもいるが、一般的には、この世への転生の計画を立て、実行することを目下の目標とする。

<第四の界層>は、第三の界層よりも美しく明るい。ここにいる人は、霊的にさらに進歩している。学びや進歩を自ら求める。この界層の中ほどにいる人は自分の限度に気づいているので、高い界層から降りてきた霊たちは彼らのために喜んで手を貸す。

<第五の界層>は、まさしく楽園と呼ぶにふさわしいところだ。何もかもが、美しく光り輝いている。完璧さを目指して努力した人や、霊的に高度に進化した心優しい人もここに住む。美術や芸術など、霊感を使って技を極めた人たちもこの界層にいるが、彼らは自分たちの仲間と一緒にいる。

幼児や赤ん坊は、ここで天使に相当する霊たちが、面倒を見る。この霊界の住民は、自ら波動を低い波動に調整することによって、下の界層にいる家族や友達を訪問できる。

この界層の上のほうには指導霊や教師の役割のある霊が住み、第六の界層から降りてきた師から教えを受ける。霊的に極めて進化した人も死後そこへ行くが、普通、そこに達した人は、もうこの世に生まれ変らない。彼らはそこで学び、教える目的で下の界層を訪れたり、霊的に向上したいと願うこの世の人たちを指導したり、助けたりする。地球の年月で、千年かそれ以上、そこで過ごす者もいる。

そして、この界層で、最上部で次の界層に昇る準備ができたものは、二度目の死を体験する。単に横になり心地よい眠りに入るのだ。非常に繊細で明るく輝いていたアストラル体をそこに脱ぎ捨てる。

<第六の界層>で、彼らは、自らを愛する。そのとき、彼らは、エーテル体と呼ばれる。私達の目にはまぶしい光でたとえようもないほど美しく明るい姿になっている。この界層にいるものは、天使のような存在で、その高貴な美しさをどう形容したらよいかわからない。

<第七の界層>は、神そのものである。そこには個々もなく、神の意識と完全に一体となる。霊がそこに到達するのに、どれだけ時間がかかるのか私には見当もつかない。

<4階建ての家>

・人は4階建ての家に住んでいるようなものだと私はよく思っている。しかし、大勢の人が地下室で暮らし、自分たちの上により明るくて暖かで素敵な部屋が4階もあることに気づいていない。

この人々にとっては上の4階は存在していないのである。存在を知っている者がいても、閉まっているので入れない。彼らは階段をまだ見つけ出していないのである。地下室と1階の両方に満足して住んでいる人もいる。人生を送るうちに、上のほうからもれている小さな光を見つけるかもしれない。

一旦霊的に目覚めさえしたら、ドアは開かれ、錠ははずされる。ドアは再び閉められるかもしれないが、鍵がかかることはないのだ。ということは、そっと押せばいつでも開くのである。

・あなたの家の鍵、全部の階の鍵は、あなたの中にある。外の世界に見つかるのではない。内面の世界に入って初めて自分の真実の霊的本質がわかるのだ。自分の家の階上にある部屋のドアを開けて、光を入れることによって、私たちは本当の意味で光の中で生きることができるのである。

『人生に無駄はない』 私のスピリチュアル・ライフ

江原啓之 新潮社 2008/2/27

<20周年の節目>

・私はごくごく普通の人間なのです。しかし、2000年を境に私が世間から注目されるようになって以来、残念ながら私自身の霊的能力ばかりがクローズアップされてしまっているように思います。

・「たましいのふるさとから、この現世に旅に来て、そしてやがて迎える死も。ふるさとへの里帰りに過ぎない。そして人生の名所とは経験と感動である」と、そう一貫してお話ししてきたのです。

・ですから、生きとし生ける誰もが、この目的のために生まれてきたのであって、特別な人など存在しあにのです。また逆をいえば、すべての人が、より高い人格を目指す特別な人とも言えるかもしれません。

・私はこれまでの人生の中で一度だけ、未熟ながら自らの守護霊に助言を求めたことがありました。

「この苦境を乗り越えるために、道を示してください」と。

しかし、返事は「それではぬしの人生ではなくなる」というひとことでした。

・このような経緯の中で私が目覚めたことは、人間は霊的世界の操り人形ではないということ。そして、人生と言う旅のなかで、その名所である経験と感動を味わい尽くして有意義に生きることが大切であるということです。

このような「生きることの真理」こそ霊的真理であり、スピリチュアリズムであるのです。

<人にもまれて育ちました>

<「愚者の道」を歩み来て>

・私のこれまでの人生をふり返ると、それはひとことで言って「愚者の道」でした。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉があります。

賢者は先人たちが踏んだ道から人生の真理を悟ることができる。しかし愚者にはそれができず、自分自身が身をもって一つひとつ経験し、そこで得る感動をもとに学ぶという方法でしか人生の真理に到達しえない。そういった意味の言葉です。

<十代で世間の風にさらされる>

<人生を教えてくれた下町>

<恩師に恵まれ続けて>

・人生はなにごとも努力で切り開いていくものですが、私の人生のなかで、これだけは自分の努力の成果だけではなさそうだな、と思うことがあります。それは、つねにいい先生に恵まれてきたということです。

・しかし私が訪ねた霊能力者たちの多くはいかがわしい人ばかりでした。どの人も十分やそこらの面会時間で「先祖供養が足りない」などと当たり障りのないことを言っては高額のお金を要求するだけ。

お金も尽きかけて、この人で最期かというタイミングで、T先生という現在の私の活動の基礎を作ってくれた恩師に出会えたことはほんとうに幸いでした。

・T先生に出会えなければ、いまの私はいないと断言できます。その後出会ったS先生もすばらしい霊能力者で、その後イギリスへスピリチュアリズムを学びに行ったのも、ふたりの先生の勧めでした。ふたりは異口同音に、「これからの霊能力者は拝み屋で終わってはいけない。アカデミックに心霊の世界を人々に説けるよう、スピリチュアリズムをしっかりと学びなさい」と強く勧めてくれたのです。

<出会う人の幅は自分自身の幅>

・人との出会いはつねに「波長の法則」の結果であり、みずからの波長が引きよせています。たとえば現在あなたをとりまく人たちは、どの人もあなた自身の映し鏡で、あなたとまったく波長の同じ人たちなのです。

・すべての事象には「光」と「闇」があります。光があれば必ず闇があります。闇の暗さを知るからこそ光のありがたさがわかります。数々のすばらしい先生たちとの出会いは、孤独という闇のなかに輝く光のようでした。

<経験と感動がすべて>

・本書では、私自身の人生を例にしながら、「人生に無駄はない」ことをくり返しお伝えしていきたいと思います。あなたは読みながら、あなた自身のこれまでの人生にもひとつも無駄はなかったと気づくでしょう。

そして今後の人生に対しても「自分の学びにとって無駄なことはなにひとつ起きないはず」と確信できるかもしれません。そうなればきっと、なにがあっても受けいれていけるでしょう。それは、つまり「大人のたましい」への成長が約束されたようなものだからです。

<これからが本番です>

<後進を育てたい>

・これから本腰を入れていきたい仕事のひとつに、まずスピリチュアル・カウンセラーやスピリチュアル・ヒーラーの養成があります。つまり「後進の育成」ということで、これに関してはすでに少しづつ始めています。

私の究極の理想は「霊能力者撲滅」であると、何度も書いてきました。スピリチュアル・カウンセリングやスピリチュアル・ヒーリングなどなくても、一人ひとりが霊的真理に目覚め、その「人生の地図」にしたがって自立して生きていければ一番いいのです。しかし現実は、この理想からはほど遠いでしょう。

スピリチュアリズムを福祉に生かしたい>

・ふたつめに私が目指しているのは、福祉の世界です。福祉の世界、とりわけ「ターミナルケア」。「緩和ケア」といった分野にスピリチュアリズムを生かす道を作りたいと思っています。

ターミナルケア終末医療とも言い、回復の見込みのない末期の患者さんたちに施す、肉体的、精神的苦痛の緩和を目的とした医療のことです。

・具体的には、まず患者さんたちに、霊的視点からの「デス・エデュケーション(死の準備教育)」をしたいのです。死は怖いことでもないし無に帰すことでもない、懐かしいふるさとへの里帰りだということを知って安堵していただきたいのです。そして最後の一日、最後の一秒までいのちを輝かせて生きてほしい。

<内観こそ人生>

・「この世のすべては偶然ではなく必然」と私はよく言いますが、それは人の運命は定められているという意味ではなく、「因・縁・果」といういわゆる因果律をさすもの。今生または過去世をも含めて、自分自身が何かしらの種を蒔いた結果として、現在の状況があるのです。つまり、自分自身がいかなる種を蒔いたのか、その原因を過去にさかのぼって顧みるのです。

・大切なのは、何かのせいにすることではなく、自分自身の未熟さを反省する裁量に置き換え、自分自身をより成長させるための、たましいの肥やしにすることなのです。

そのこと自体が、悪しき種を刈り取り、よき種を蒔くことにもなるのです。

そして、大切なのは「絶対にポジティブに受け取ること」です。なぜならば、この世に起きるすべてのことはみな意味のあることであり、いたずらに不幸に陥れる出来事はないからです。すべては成長のために起こっているのです。

江原啓之 本音発言』

江原啓之 講談社 2007/10/19

<スピリチュアル基礎用語>

(あの世)

死後の世界。この世との境にある幽現界を経て、幽界、霊界、神界へ移行する。

(カルマ)

因果律、業ともいう。自分の行動は善いことも悪しきこともいつか自分に返ってくることを意味する。

グリーフケア

家族や身近な人を亡くして悲しむ人(遺族)の心の痛みを癒す作業。江原の場合、亡くなった人のメッセージを伝えることによって悲しみを和らげる。

(幸福)

スピリチュアリズムにおける幸福とは、出世や収入などの物質的な成功ではなく、霊的真理によってたましいが浄化され、失う恐怖をなくすことを指す。

(シッティング)

霊能者が霊媒となり、霊的世界とコンタクトを取り、相談者から話を聞く前に一方的に相談者の属性や身の回りのことを言い当てていくこと。

(宿命と運命)

国籍や性別、家族など生涯変えることのできない人生の要素が宿命。それに対し、運命は自分の努力や周囲の協力で変えることのできる要素を指す。

(守護霊)

現世に生きる人間を見守っている霊的存在。

スピリチュアリズム

死後の世界や霊の存在を前提とした世界観および思想体系。スピリチュアリズムの真理(霊的真理)に基づいてカウンセリングを行うのがスピリチュアル・カウンセラー。

(大我と小我)

見返りを求めずひたすら他者に与えようとする考え方が大我で、自分のことを最優先する考え方が小我。

(たましい)

すべての人間の中に宿る霊魂のこと。スピリチュアリズムでは肉体はたましいの乗り物にすぎないと考えられる。

(波長)

たましいが生み出す想念のエネルギーを指す。波長には高低があり、偶然ではなく必然だと考えられている。

(物質中心主義的価値観)

すべての判断基準をお金やモノなどの物質に置いてしまう考え方、価値観。霊的価値観の対極にあるもの。時に物質主義的価値観、物質的価値観と省略して使われる。

(未浄化霊)

この世に未練や執着を残しているため、死後もあの世に帰れずにさまよっているたましいのこと。未浄化霊が生きている人間のたましいに撮り憑くことを「憑依」という。

(類魂(グループ・ソウル))

霊的世界におけるたましいの集合体。誰もが類魂の一部であり、類魂の全体の進化向上を目指している。

(霊界通信)

守護霊と交信することにより、メッセージを受け取ること。相談者などにとって、その必要がある場合のみ。メッセージがもたらされる。守護霊のメッセージから得られる教訓を広く「霊訓」と呼ぶ。

スピリチュアリズム8つの法則>

1. (霊魂の法則)自分が霊的な存在であることを意識して生きること。

2. (階層の法則)肉体の死後、たましいは現世でいかに成長したかによって、それに応じた階層へと向かう。肉体を捨て「幽体」となると、最初は現世と幽界の中間地点である「幽現界」へ向かい、そこから「幽界」へ進み、やがて幽体をも脱ぎ捨て光となって「霊界」へと上昇する。死後の世界は明るい天国のような層から暗い地獄のような層まで幾重にも分かれており、現世での成長に応じて移行する層が変わる。

3. (波長の法則)一言で言えば「類は友を呼ぶ」、波長の高いたましいはポジティブな出会いを引き寄せ、波長の低いたましいはネガティブな出会いを引き寄せる。みずからの魂を向上させることで波長を高めれば、志の高い仲間と出会うことができる。逆に魂の錬磨を怠ると、周囲にやる気のない人間が集まってしまう。

4. (守護の法則)自分を見守ってくれる守護霊の存在を信じて生きること。依存してはいけないが、守護霊はどんなに苦しい試練の中にある時も、大きな愛で見守ってくれている。守護霊は役割によって4つに分けられる。生前から死後まで見守る中心的存在の「主護霊」、職業や才能を指導する「指導霊」、数年先までをコーディネイトする「支配霊」、これらを手伝う「補助霊」がいる。

5. (類魂の法則)どのたましいも、帰るべき故郷として類魂(グループ・ソウル)を持っている。類魂をコップの水にたとえるなら、それぞれのたましいは一滴の水。現世での修行を終えたたましいは霊界に戻り、グループ・ソウルに混じり合う。すべての経験が類魂全体の叡智となり、それぞれのたましいが純化することでコップ全体の透明度を上げることを目指している。

6. (因果の法則)自分のまいた種は、自分で刈り取らなければならない。自分の行動は必ず自分に返ってくる。自分がネガティブな想念を持っていれば、やがてネガティブな結果がもたらされる。自分が誰かを嫌うと、相手もまた自分を嫌うという現象はこのため、逆に、人に親切にすればいつか自分に返ってくるという「正のカルマ」もある。

1. (運命の法則)運命とは変えられないものではなく、自分の力で作り上げていくもの、たましいを磨く努力によって人生を切り拓くことができる。一方、国籍や性別など自分の力では変えられないのが宿命、ケーキにたとえるなら、宿命がスポンジで運命がクリーム。スポンジの特性に合わせてクリームでデコレーションするように、どんな宿命であろうと、自分の努力で運命を拓けば人生を輝かせることができる。

2. (幸福の法則)これまで挙げた7つの法則は欠けることなく実践すれば、霊的真理によって幸せを得ることができる。お金や出世などの物質主義的な成功を求めるのではなく、試練を克服しながら愛を学び、たましいを向上させることにより、「失う恐怖」から自由になることができる。それこそが、スピリチュアリズムにおける真の幸せを意味する。

『続 スピリチュアリズム入門』

高級霊訓が明かす霊的心理のエッセンス&霊的成長の道

(心の道場)

<宇宙人の存在とその様子>

<異次元の物質世界>

高級霊の霊界通信は、宇宙に関する驚くような事実を明らかにしています。それは同じ物質世界でありながら、物質の状態が異なる別の物質世界(宇宙)があるということです。目に見える宇宙と目に見えない宇宙が存在している、次元の異なるさまざまな宇宙が重複して存在している、という宇宙像を描いています。

・こうした霊界通信が明らかにしている異次元の物質世界は幽界(最下層の霊的世界)と似ているように思われますが、そこは霊的世界ではありません。どこまでも物質次元に属する世界なのです。そうした異次元の物質世界が天体を取り囲むようにして存在し、そこに地球人とは肉体の次元を異にする人間(宇宙人)が住んでいると言うのです。

・太陽系のそれぞれの惑星にもこうした異次元の物質世界が展開していて、人間的存在(惑星人)が住んでいると霊界通信では述べています。そして、異次元木星には地球よりずっと進化した人間が存在し、異次元火星には最も進化の遅れた人間が存在しているということです。私たちの地球は、火星に次いで二番目に進化の遅れた惑星であると言われます。

・無数の異次元宇宙(そのどれもが物質次元の世界であって霊的世界ではない)があって、それらが重層して存在していると考えられます。

・異次元木星や異次元火星などを中心とした異次元宇宙が存在しているということです。その異次元惑星は私たちの地球人からは認識できません。

・宇宙人の進化の階段は第1レベルから第10レベルまであり、地球は第1レベルで、現在地球は、第2レベルへと上昇進化しているところだから、将来の地球人は、その潜在意識の心の力の10分の2を活用できるようになります。それは、DNAをもう1条活性化することが必要です。

スピリチュアリズム入門』

スピリチュアリズムが明かす霊現象のメカニズム&素晴らしい死後の世界 (心の道場)

<シルバー・バーチ霊の語る霊界の美しさ>

・「あなた方は、まだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えば、どこへでも行ける。考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追及したいことにいくらでも専念できる。お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。

その楽しさは、あなた方には分かっていただけません、肉体に閉じ込められた者には、美しさの本当の姿を見ることができません、霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方は、ご存じない。

・すでに死んで霊界にいる者の方が、生命の実相についてはるかに多くを知っています。住民の心には真の生きる喜びがみなぎり、適材適所の仕事に忙しく携わり、奉仕の精神にあふれ、互いに己の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

・ここは光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。この世界に来て芸術家は、地上で求めていた夢をことごとく実現させることができます。

・金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは、弱者に救いの手を差し伸べる力がある、という意味だからです。失業などというものもありません。スラムもありません。利己主義もありません。宗派も経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それがすべてです。

地上のいかなる天才画家といえども霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵の具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で書き表すことはできないでしょう。

・あなた方は、地上の大自然の美を見て感嘆されますが、その美しさも霊の世界の美しさに比べれば、至ってお粗末な色あせた摸作程度でしかありません。地上の誰ひとり見たことのないような花があり色彩があります。小鳥もいれば植物もあり、小川もあり山もありますが、どれ一つとして地上のそれとは比較にならないほど、きれいです。そのうちあなた方も、その美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時、あなた方は、霊になっているわけですが、その霊になった時こそ、真の意味で生きているのです」

『賤民の異神と芸能』

谷川健一 河出書房新社 2009/6/9

<宿神と魔多羅神>

秦河勝を祀るといわれている大酒(大避)神社は広隆寺の守護神の役割をもっており、実は地主神にほかならなかった。地主神は敬意を払われないときは、障礙神として妨碍するおそろしい神であった。この場合秦河勝は宿神であり、大避神社の地主神としての魔多羅神と一体化した「大荒神」であったと考えることができる。シュク神は在来の土地の神として荒神の側面を備えている。荒神は外来の悪霊の侵入を防ぐと共に、自分の占める土地を主張し、自分を共敬しないものに対しは敵対者、すなわち障礙神としてふるまう。魔多羅神は芸能神としてしての宿神であり、また荒神としての宿神であったと思われるのである。

<魔多羅神 障礙と祝福の地主神>

<魔多羅神の微笑>

・上方には北斗七星が描かれている。魔多羅神が猿楽の鼓打ちに似た格好をし、二童子も笹と茗荷を持って舞うことは、魔多羅神が芸能神であったことを推測させるに足る。

<魔多羅神の神秘>

・魔多羅神の正体は明らかではない。本田安次は『神楽』の中で出雲の鰐淵寺について「天台の寺であるだけに、常行堂に魔多羅神をまつっているが、その信仰は今も固く、常行堂は常の日も、調査団から希望が出ても、扉を開けることもしない。魔多羅神の名を口にのぼすことさえも恐れられていたようである」と云っている。このように魔多羅神が恐れられるのは、それが障礙神の一面をもつからである。障礙というのは、人に幸福を与えるのではなく、障りや災いをもたらす神ということである。

<障礙神から福神へ>

比叡山の魔多羅神と同類とされる大黒天もダキニ天も人の精気を奪って死にいたらしめる「奪精鬼」とされている。とはいえ、これらの神は障礙神としての否定的な機能を発揮することがあっても、その神通力のゆえに、転じて福神に変るという道筋をたどる。この不思議な逆転の役まわりを演ずるのは、魔多羅神も同様である。障礙神のもつ負のエネルギーを利用して、修業を妨げる天魔や天狗などを除去する立場に転換する。つまり、魔多羅神は、自分に不敬があれば、人間の往生を障礙する神であるが、一方では往生を引導するという両面をもつ神である。

・これまでの一般的な見解と異なる魔多羅神の本質がここには語られているが、折口の論点をいくつかを抽出してみる。

一 魔陀(多)羅神は、土地の精霊であり、地主神である。

二 土地の精霊は最初は人びとに反抗するが、やがて祝福するような姿勢に変わる。

太秦広隆寺で、魔陀(多)羅神は土地の先住者であった。それが牛祭のときは、寺の仏を祝福しにやってくる。

四 大和猿楽でも、翁が春日の大宮、若宮へ祝福しにやってくる。翁はあとでは位の高い神という印象を受ける伝説を作りあげているが、それは変化した形であり、翁ももとは地主神とか土地の精霊にほかならなかった。

『日本人の心のふるさと(かんながら)と近代の霊魂学(スピリチュアリズム)』

(近藤千雄)(コスモス・ライブラリー) 2006/3

<サマー・ランド、ブルー・アイランド>

・ 言って見れば、「因果律による審判が行なわれるわけであるが、皆が皆、素直に更正するわけではないから、三つの階層に収まることになる。

・ しかし、ここは、まだ虚構の世界で、死後の世界ではあっても、実相の世界ではないことが、肝心なところで、死ねば地獄か極楽へ行くとか、無で帰するというものではない。当分は、地上時代そのままの意識と姿で生活を続ける。驚くことに、自分が死んだことすら気づかず、地上時代と同じ感覚のまま生活している者がいるほどである。信じられないことであるが、それほど、幽体と幽界がうまくマッチしているということであろう。

・ (コナン・ドイルが死後まとめて送ってきた死後の階層の実相)

「幽界」

・ 1、邪悪で、自己中心的な欲望しか持たない。

・ 2、邪悪性はないが低級な煩悩から抜け切れない者が集まっている。

・ 3、何事も思うがままに、叶えられる世界(サマー・ランド、ブルー・アイランド、極楽)

「第二の死」。無意識状況を体験して霊界に入る。

1、 知的な理解の世界。

2、 直感的な悟りの世界。

3、 形体なき存在への変化。神界へ上がる資質の不足な者は、再生する。

再生への手続きが行なわれ、他の者は、神界へ行く

1、 宇宙の造化活動への参加と活動

2、 宇宙的存在としての普遍的愛の活動

3、 ニルバーナ、涅槃(ねはん)

それ以上は、(超越界)で、人間的な理知では知りえない。

<「幽界では障害者はいない」>

・さて、幽体は肉体の成長と共に大きくなり、肉体の細胞の一つ一つに浸透している。幽体はさきに説明した通り、基本的には感情の媒体であるから、感情の持ち方が肉体に反応し、その逆、すなわち健康状態が幽体に影響することにもなる。これからますます、盛んになると予想される臓器移植の関係も、いずれはこの事実と直面することになると推察されるが、ここでは深入りしない。

・死によって、幽体が肉体から抜け出ると、ちょうど地上に誕生したときのあの肉の魂のような身体が、2、3年で一人前の体型を整えて地上生活が営めるようになるのと同じで、幽体も徐々に幽界の環境に応じた体型と機能を整えて、幽界生活を営むことができるようになる。

・地上時代との一番の大きな違いは、肉体の障害が全て消えてしまうことで、眼が見えなかった人は、自由になり、知能に障害のあった人は、正常に復する。そうした障害と不自由さがカルマと呼ばれている因果律によるものだっただけに、そのカルマの試練に耐え抜いた今、それがさまざまな幸せとなって報われる。

・その一方では、その正反対の報いを受ける者もいるであろう。他人に精神的苦痛を与えた人、殺人や障害の罪を犯した人は、言うに及ばず、いけないこととは知りつつ間違った生き方を続けた人。学者であれば、面子や名声をかばって、真実を真実として認めなかった人、宗教家であれば、間違いであることを知りつつ、もっともらしい、教説を説いてきた人。こうした人々は、その過ちに応じた報いを精神的苦痛の形で受けることになるという。こうした、いわば地上生活の清算は、さきに掲げた死後の界層の図にある中間境において行われる。

<幽界>

・ 物質的身体に宿って、生活する場が物質界であるのと同じ原理で、幽質の身体に宿って生活する場は、幽界となる。身体が幽質の半物質で構成されているように、環境も同じ波動の半物質体で構成されていて、地上の人間が地球環境を実感を、持って認識しているように、幽界で生活する者はその環境を実感を持って認識している。

・決して地上の人間が想像しがちなように実態のない、フワフワとした取り止めのない世界ではないことを知っていただきたい。中には死んだことに気がつかない者がいるほど、地上生活と同じ主観と客観の生活が営まれているのである。

・そのことが、なかなか信じられないのは、実は今生活している地上界を構成している「物質」そのものについての理解ができていないからに過ぎない。最新の物理学が教えるところによれば、我々が、実感があるかに感じている物的環境は、究極的には「波動」で構成されているという、これはもはや常識といってよいほど、知られていることであるが、ではなぜ実態があるのに感じられないのか。

・それは、環境と身体が同じ波動でできあがっていて、五感によって、その存在が認識できる仕組みになっているからである。般若心経にいう「色即是空、空即是色」とは、このことであろう。ただ、認識できる範囲にも限界があり、その範囲外の波動は、認識できないから、幽界や霊界は存在しないのと同じことになる。

<死後の界層>

<四魂説>

・人間の自我の本体が<霊>であることは、すでに述べた。その霊的存在が地球という物質世界で生活を営むための媒体として授かるのが、物的霊体、俗に言う肉体である。これまでの人間科学は、肉体的欲望はもとより、人間の人間たる所以である精神的活動もすべてその肉体、具体的に言えば、脳の機能の反映であるというのが、基本的概念であった。それが、スピリチュアリズムによって、完全に覆され、肉体以外に三つの媒体があって霊がそれらを駆使して生活している。脳はそのネットワークに過ぎないことが判明した。

・ 四魂説というのがそれであるが、論理的な帰結として、肉体の活動の場として、物質界が存在するように、眼に見えない他の三つの身体にもそれぞれの活動の場があるはずだということになる。そして、それを明解に解いた霊界通信が入手されている。

<●●インターネット情報から●●>

『ブルーアイランド』

エステル・ステッド ハート出版 1992/11

<ブルーアイランドの建物>

・霊界というと、非現実的で夢のような世界を想像なさるに違いありません。が、そうではなく、みなさんが外国に行くのとまったく同じなのです。地上と同じように実体があるのです。おまけに、比較にならないくらい興味のつきない世界です。

やがて私たちは大きなドームのような建物の前に来ました。中を覗いてみると、ここも素敵なブルーで彩られていました。地上で見かける建物と変わらないのですが、その美しさが違うのです。

・そこにしばらく滞在して、それから軽い食事を取りました。私が地上でよく食べていたものに似ている感じがしました。ただし、肉類は見当たりませんでした。

奇異に思えたのは、食事は必ずしも取る必要がないように思えたことです。目の前に置いてあるのですが、どうやらそれは必要性からではなくて、地上の習慣の名残にすぎなかったようです。

・父の説明によれば、あの建物は一種の休養施設で、地上からの新来者がよく集まるところだそうです。地上界の生活条件に近いものがいろいろと揃っていて、外観も地上の建物に似ているので、よく使用されるということです。同じ目的をもった建物は他にもたくさんあります。別の用途を兼ね備えたものもあります。

・それらの外観は一つ一つ異なり、似たものはありません。要するに“大きなビル”と考えればよろしい。博物館や美術館、あるいは巨大なホテルを想像されてもよろしい。だいたいそんなものに近いと思ってください。おとぎ話に出てくる夢のような宮殿を想像してはいけません。きわめて地上的で、変わったところは一つもありません。

・このブルーアイランドにはそうした建物が実にたくさんあるのです。というのも、この世界の第1の目的は、地上を去ってやってくる者が地上の縁者との別離を悲しんだり、無念に思ったり、後悔したりする気持ちを鎮めることにあり、当分の間は本人が一番やりたいと思うこと、気晴らしになることを、存分にやらせることになっているのです。

・元気づけるために、あらゆる種類のアトラクションが用意されています。地上時代に好きだったことなら何でも――精神的なものでも身体的なものでも――死後も引き続いて楽しむことができます。目的はただ一つ――精神的視野を一定のレベルまで高めるためです。

書物を通じての勉強、音楽の実習、各種のスポーツ、‥‥何でもできます。乗馬もできますし、海で泳ぐこともできます。狩りのような生命を奪うスポーツは別として、どんなスポーツ競技でも楽しむことができるのです。もっとも、こちらでは地上で言う“殺す”ということは不可能です。狩りと同じようなことをしようと思えばできないことはありませんが、この場合は“死”は単なる“みせかけ”にすぎないことになります。

・そうした建物は新来者の好みの多様性に応じて用意されているわけです。こちらでは疲労するということがありませんから、思う存分それぞれに楽しむことができます。が、やがてそればっかりの生活に不満を抱き始めます。そして、他に何かを求め始めます。興味が少しずつ薄らいでいくのです。

それと違って、たとえば音楽に打ち込んだ人生を送った者は、こちらへ来てからその才能が飛躍的に伸びて、ますます興味が深まります。その理由は、音楽というのは本来霊界のものだからです。ブルーアイランドに設置されている音楽施設で学べば、才能も知識も、地上では信じられないほど伸びます。

・さらには“本の虫”もいます。地上では失われてしまっている記録が、こちらでは何でも存在します。それがみな手に入るのです。ビジネスひとすじに生きた者にも、その才能を生かす場が用意されています。

これには理由があります。こちらへ来たばかりの者は、多かれ少なかれ悲しみや無念の情を抱いております。それが時として魂の障害となって進歩を遅らせます。そこで、とりあえず悲しみや無念の情が消えるまで、当人がやりたいと思うことが何でも好きなだけやれるようにとの、神の配慮があるのです。それが実は進歩への地固めなのです。

が、純粋に地上界に属する趣味は、やがて衰え始めます。一種の反動であり、それがゆっくり進行します。こちらでも物事は段階的に進行し、決して魔法のように一気に変化することはありません。

・その反動が出始めると、興味が次第に精神的なものへと移っていきます。もともと精神的なものに興味を抱いていた人は、引き続きその興味を維持し、拡大し、能力が飛躍的に伸びます。地上的な性格の趣味しか持たなかった人にも、いずれは変化の時期が訪れます。

このように、ブルーアイランドにいる間は、多かれ少なかれ地上生活との関連性が残っています。最初は、ただ面白いこと、愉快なことによって自分を忘れているだけですが、やがて霊的向上のための純化作用が始まります。

『天国への手紙』

江原啓之 集英社 2007/3/20

<「たましい」の行方>

<臨終~舞台の幕が降りるとき>

・臨終のとき、すなわち死に臨む最期のときに、意識がはっきりしていて「さようなら」が言えるケースはほとんどないでしょう。亡くなり方にもよりますが、少し昏睡状態になってから、ということが多いと思います。

前述しましたが、人間の肉体には、幽体と霊体というスピリチュアルなエネルギー体が重なっています。幽体は精神であり、霊体は私たちの本質である魂です。

・臨終の昏睡状態のときは、肉体から幽体と霊体が少しずつ離れつつある状態です。たましいが、ふるさとである「あの世」へと帰り始めているのです。

ですから、意識が半ばもろうとしながらも、「さっき、死んだお母さんが会いに来たよ」などとつぶやくようになるのです。

・臨終のときには、ふるさとからお迎えが必ず来ます。すでにあちらの世界に帰っていった愛する人、よく知っている人が迎えに来てくれるのです。

私たちが現世を生きている間、見守ってくれたガーディアン・スピリット(守護霊)は姿をあらわしません。その姿に私たちはなじみがないので、わからないからです。あちらの世界へ順応しやすくするには、誰が行けばもっとも効果的かと考えて、私たちのよく知っている懐かしい人が迎えに来てくれるようになっています。

昏睡状態になることも、知っている人が迎えに来てくれることも、すべて旅立ちをスム―ズにするためです。死というひとつの喚問をラクに通過させる方法について、あちらの世界では、実によく考えてくれているのです。

<スピリチュアル・ワールドの階層図>

・ここで、スピリチュアル・ワールドの階層について、かんたんに説明しておきましょう。

私たちが生きている現世は、「現界」です。人が亡くなると、先ほど述べたように、たましいは「幽現界」へ行きます。ここは、現界と重なり合うように存在するスピリチュアルな世界です。

たましいは幽現界にしばらくとどまり、自分の死を受け入れて、現世への執着を断ちます。これができないと、未浄化霊としていつまでもここにいることになります。

・自分の死を受け入れて、執着を断ったたましいが次に行くのは「幽界」です。

ここはとても広く、さまざまな階層(ステージ)に分かれています。この世にとてもよく似た下層部から、天国のように美しい上層部(サマーランド)までを含みます。

幽界のどの階層に行くかは、生きている間のたましいのレベルによって違います。

たとえば、人を妬んで悪口を言ったり、足を引っ張ったりするのが日常茶飯だった人は、同じような人ばかりが集まる下層部に行きます。

そこには、仏教で「地獄にある」といわれているような針山や血の池などはありません。

けれど、低いレベルのたましいばかりが集まっているので、まさしく「地獄」といえるでしょう。その周辺はどんよりと曇っています。

・反対に、人のために尽くし、霊格の向上に努めてきた人は、明るく美しい上層部に行きます。いわゆる「サマーランド」と呼ばれる、とてもさわやかなところです。

そこを抜けると、「霊界」に行きます。ここが、私たちのガーディアン・スピリット(守護霊)などの高級霊がいる世界であり、たましいのふるさとなのです。

・その上には、神の領域である「神界」が広がります。

私たちは、なかなか神界へは行けません。そこまで霊格を向上させられる人はほとんどいないのです。多くのたましいは、霊界で自分を見つめ直し、再びたましいの修行を求めて現世へと再生をくり返します。

「現界→幽現界→幽界→霊界→神界」と高まっていくスピリチュアル・ワールドの階層を、頭に入れておいてください。

<幽現界~現世に最後の別れを告げるところ>

・ラストシーンを終えて舞台袖に戻った役者は、しばらく客席の反応を見つめます。芝居が終わったことを確認するのです。

それと同様に、亡くなった人は「幽現界」にしばらくとどまり、現世に別れを告げます。自分のお通夜やお葬式を見たりして、死へのイニシエーション(通過儀礼)を行うのです。

・そこではっきり自分の死を自覚し、縁のあったいろいろな人に「お別れ」を告げに行きます。

自分と絆のある人が亡くなったとき、フッと「虫の知らせ」が来ることがあるでしょう。なんとなくその人のことを思い出したり、ラップ音(物理現象としての音ではなく、スピリチュアルな現象による音)が鳴ることもあります。それは、亡くなった人からのお別れのメッセージなのです。

・仏教では「四十九日」という区切りをつけますが、だいたいそれぐらいの期間、たましいは幽現界にとどまります。

とどまる期間は人それぞれです。とどまらずさっさと幽界に行く人は、ほとんどいません。必ず何か気になることがあるからです。たとえば、会社の机の整理から、相続財産の行方、飼っている猫のエサの時間、口座引き落としの日の銀行残高など、些細なことにいたるまで心配ごとや執着はたくさんあるのです。

自分がもう死んだということを自覚して、現世への執着や未練が断ち切れないと、次なる「幽界」へは行けません。すると、幽現界にとどまったまま、未浄化霊となって「さまよう」ことになります。

・自分の死を受け入れて、執着や未練を断ったたましいは、幽現界にあまり長くとどまらず、次のステージである幽界へと進むことができるのです。

<幽界~心象風景がそのままあらわれるところ>

・「幽現界」を抜け出たたましいの多くは、まず「幽界」の下層部あたりに行きます。

前述しましたが、幽界はさまざまな階層(ステージ)に分かれていきます。最下層部には地獄のように暗くてどんよりとした世界があり、上層部はサマーランドと呼ばれる天国のように明るくのどかな世界が広がっているのです。

・地獄といっても、閻魔大王がいるわけではありません。底意地が悪く、ケチで、自己顕示欲の強い人たちばかりが集まっているのです。俗世中の俗世といえるでしょう。ある意味で現世よりも俗世です。現世にも「闇の世界」は存在しますが、表面化はしていません。

現世の闇の部分がすべて表面化しているのが、幽界の下層部だと考えてください。

・反対に、サマーランドは、人が理想として思い描く天国に近いといえるでしょう。心の美しい人たちばかりがのんびりと集う、光に満ち溢れた世界です。

二つの中間にも、さまざまなステージがあります。そのなかのどのステージに行くかは、生きていたときのその人の心の在り方によって決まります。生きていたときの心の状態とまったく同じところに平行移動するのです。

<「浄化」のシステム>

・幽界の最上部に行っても、まだ真っ白ではありません。完全に浄化してはいないのです。

幽界の最上部まで進んだたましいは、あらたな気づきを経て、「霊界」に進みます。

そこで今度は幽体を脱ぎ捨て、霊体だけになるのです。これは「第二の死」と呼ばれます。

・あるとき突然、意識改革されるように感じるときがあるでしょう。それは、思念の連鎖がもたらす改革なのです。

つまり、現世に生きる私たちと、亡くなって幽界に行った人々のたましいは、互いに切磋琢磨しているのです。

<霊界~「グループ・ソウル」への帰還>

・たましいの在り方が、小我から大我へ移っていくのです。

小我とは、自分の幸せや快楽だけを考える、身勝手で小さな心。大我とは、自分以外の人や全世界の幸せを願う大きな心です。

たしかに最上層部(サマーランド)に行くと幸せです。なぜ幸せかというと、自分も周囲も大我に目覚めているからです。

<再生~再びたましいの旅へ>

・大我に目覚めたたましいは、グループ・ソウルに溶けこみ、そのなかから再び新たな経験と感動を求めて、現界に再生します。

・守護霊とは、現界を生きるたましいを常に見守り続ける高級霊のことをいいますが、再生を果たした自分と、それを見守る守護霊は、同じグループ・ソウルの一員です。ですから、守護霊は、二人羽織のように、自分が現界で生きているかのような気持ちで、たましいの旅路を見守っているわけです。

守護霊は高級霊ではありますが、それは霊界にいるからで、実は現界に再生してきた私たちと同じ人格です。

・グループ・ソウルの一滴として現界に再び生まれ出て、守護霊に見守られながら、自分自身の本質をさらけ出し、さまざまな経験と感動を積んでいく。それによって、霊格を向上させていく。これが私たちのたましいが現世へと再生をくり返す目的なのです。

このようにして、私たちは長い時間をかけ、何度も再生をくり返します。現世における死は、たましいの終わりを告げるものでは決してありません。たましいは、永遠なのです。

『あの世の存在に活かされる生き方』

パット・クビス&マーク・メイシー 徳間書店 1999/7

<新しい世界で生きるということ>

・霊たちのほとんどは、自分たちがこの新しい場所に「渡ってきた」ことを理解しているのですが、ここにどうやってたどり着いたのかを思い出せる者はいませんでした。

「この新しい場所」とは、地球が所属する太陽系にはないマルドゥクという星のことです。この惑星はひとつの太陽の周りを公転していて、そのほかにさらに二つの太陽に照らされています。ここは決して真っ暗になることはありません マルドゥクの円周は約12万7000キロメートルで、ここには地球の月よりも大きな月があります。エターナティ川という名の、最深1万7000キロメートル、いちばん広いところで幅3700キロメートルになる大河が惑星全体をぐるりと囲んで流れていて、この川のほとりには600憶もの人々が暮らしています。

・この星の風景は絶えず変遷しているわけではなく、なかにはまったく変わらないものもあります。また、街があり、学校や大学もあります。

今日、アストラル界についてのこのような描写は珍しいものではなく、多くの人々が臨死体験や体外離脱を経験し、そのときのようすを個人的に家族や親しい友人に話したり、あるいは記事や本、講義などで公に発表しています。

<低次のアストラル界 地獄や煉獄という概念のもととなった世界>

・低次のアストラル界は暗く、陰惨な世界です。一部の人々は死後、自分が持つ低振動の思考や行動によってこの世界に引き寄せられます。この領域は物理的世界の近くに存在し、混沌としています。霊界には時間も、空間も、引力もなく、この低次の世界に陥った存在たちは、混沌とした状態のなかで生きることになります。そしてときには、地球の時間で言えば数年から数世紀もの間、この困惑に満ちた現実のなかで暮らすのです。なかには自分が死んだことに気づいていない者さえいます。

・アストラル界下層にいる霊たちの多くは、地球上の種々の問題を引き起こす原因となります。彼らはテレパシーで地球上の人間と交信ができ、心の弱い人たちが悪い行いをするようにささやくのです。その人たちはそれぞれが自分自身の思考だと思い込んでしまいます。たとえば、死んだアルコール中毒患者、麻薬常用者、殺人者、またその他の凶悪犯罪人の霊は、地球上の自分と似たような性質を持った人間や意志の弱い人間に引き寄せられ、かつて自分たちが働いてきた悪事へと誘い込もうとします。このような否定的な心的存在たちは、とりついた人間の否定的な思考や態度、行動を煽り立てます。

<アストラル界中層>

・私たちのほとんどが地球での教育―私たちの人格や忍耐力を向上させるための試練を与えてくれる学校―の後のリハビリテーションを行うための快適な領域です。

タイムストリームや他のITC研究者グループから地球に送られてくるメッセージや画像はすべて、このアストラル界中層からのものです。彼らは、地球上のものに似たコンサートホール、博物館、病院、学校、家などについて描写しています。そしてその周りには、木や花、山々、野原、河川などの自然があり、このような景色は地球のものと似ていますが、ただただ息をのむほどに美しいということです。

第三界とは、わたしたちがさらに高次の世界に進むか、それとも経験を積むために再び地球に生まれ変わるかを決めるまで過ごす、一時的な場所です。

<さらに高次のアストラル界>

・さらに高次のアストラル界は、キリスト教徒が「天国」、スピリチュアリストが「常夏の国」と呼んでいる素晴らしい場所です。他界におけるITC実験の研究仲間の多くはこの高次の世界に暮らしていて、ITC(トランスコミュニケーション)の活動に参加するために自分の振動数を下げて第三界に「降りて」くるのです。

・心因界は、世俗的な欲望や葛藤とは無縁の神聖な霊感の領域です。ここにいる存在たちはテレパシーを使ってメッセージを送り、地球上の多くの芸術家や発明家にひらめきを与えています。心因界の振動を持つ「光の存在」たちは、インスピレーションや手引きを与えてITCのプロジェクトを援助しています。

<天国と地獄>

・ほとんどの人によって天国だと考えられている世界は、アストラル界高層にあります。神秘家や霊能者はこの世界を「常夏の国」と呼んでいます。

この常夏の国では、人々は私たちと同じように暮らし、その姿は若かったころのように見えます。ここには素晴らしい大学やデザインセンター、きれいな花や植物が茂る美しい風景があり、まさに天国を思わせる鳥たち、犬猫などの動物のほかに、こちら側の世界には見られない種類の動物たちがいます。またこの世には存在しない色がたくさんあり、初めてこのアストラル世界を訪れた人たちはそのまばゆさに目がくらんでしまうほどです。

・医者であり、リッチモンド全科診療専門学校の前学長だったジョージ・リッチ-博士は、1943年にアストラル界を訪ねる経験をしました。リッチーは巨大な半球形の建物に案内され、そこで存在たちが何かの製造作業をしているところを見ましたが、当時はそれが何かわかりませんでした。それがわかったのは十数年後で、ライフ誌に掲載された米国第2の原子力潜水艦の写真が、何年も前に彼が見た、アストラル界の存在たちが造っていたのと同じものだったのです。

・他界から通信してくる者たちは、多くのアイデアはまずアストラル界で生まれ、それが現世の発明家に与えられると告げています。発明家が研究開発に一心不乱に取り組んでいるとき、彼らはしばしば自分にテレパシーを送ってくる目に見えない仲間とともに作業をしていることが多いのです。発明家の多くは、まるで見えない何者かが自分の傍らにいるようだと言っています。

多くの発明家たちが、貴重な情報を夢のなかで受け取ったという経験を語っています。他界の科学者たちにとって、人間が夢を見ている間というのは通信にもってこいの時間なのです。

・わたし(パット・クビス)はカリフォルニア州のコスタ・メサにあるオレンジコースト大学で教授として23年間教えていましたが、実はアストラル界の大学でも教壇に立っていたのです。わたしは自分をよく知る友人に向かってときおり、「こんなに疲れているわけよね。一日中ここのキャンパスで働いて、それからアストラル界でもやっているんだから」と冗談を言ったものでした。興味深いことは、アストラル界の大学のキャンパスは、あらゆる点においてコスタ・メサの大学と同じくらい「現実的」であったことです。ただ、アストラル界のキャンパスの構内と建物は地上のものとはまったく異なっていて、オレンジコーストよりもずっと大きなものでした。

・地球と常夏の国のいちばん大きなちがいは、常夏の国に住む人々は互いに異なった文化背景を持っているにもかかわらず、みんなが平和と調和のなかで暮らしているということです。実際、この平和と調和に対する理解が、インドの神秘主義者たちが「デイヴァシャウン」と呼んだ第四界、つまりアストラル界高層に進むための必要条件となっているのです。

・魂がアストラル界を離れて心因界に進む準備ができると、アストラル体に死が訪れ、進歩をふり返るための休息期間に入ります。しかしながら前にも書いたように、魂は別の選択肢として、再び地上に生まれて物理的世界でさらに経験を積むこともできます。

『河童・天狗・神かくし』

松谷みよ子)(立風書房)1985

<山の神などによる神隠し>

・ある時、この部落の小さい女の子がふっとかき消すようにいなくなった。部落総出で探してみても、いっこうに手がかりはない。幾日かたって、また、ふっと現われた。その現われ方がまた不思議なことだった。この部落のはずれの薬師堂の梁の上に、その女の子はちょこんと坐っていたんだ。村の衆は、あれは薬師様にさらわれたんじゃっていった。 (長野県)

岩手県和賀郡和賀町横川目。私が15歳の頃(昭和10年前後)の事件である。大雨で村の中央を流れている尻平が氾濫した。その日、私の部落の幼児(5,6歳)が見えなくなったという騒ぎが出た。消防団も出たりして、部落総出で探しまわったが、夜中になってもわかりませんでした。きっと川に落ちて流されたに違いないというので、川下を探しまわった。ところが、朝になってその幼児が川向うの山の中で無事で発見された。これはどう考えても不思議な話でした。その川には、丸木橋一本かかっているだけで、当日の大雨の氾濫で大人でも渡ることができない状態でした。

・長野県上伊那郡。浦の新三郎猟師といえば、山の神様となれ親しんだ逸話の持ち主として知られています。明治の初年のこと、新三郎は金子勢五郎猟師と連れだって仙丈岳へ猟に出かけましたが、二人は途中の小屋で単独行動をとることにきめ、別れ別れになりました。それから1週間、新三郎猟師は、杳として消息を絶ってしまいました。村人に依頼して山中を捜索してもらいましたところ、勢五郎と別れた小屋に戻っているところを発見されました。新三郎の話では、小屋を出てしばらく行くと、立派な婦人が現われて手招きするのに出会いました。誘われるままについて行くと、苺などの実る場所へ連れて行かれ、たらふくごちそうになりました。こんなわけで、山にいる間は、ついぞ空腹を感じなかったという話でした。村人はその女性を山神であるとみていますが、山神男性説をとるこの地方にも、こうした観方のあることはおもしろいことです。

出典:松山義雄著『山国の神と人』(未来社

和歌山県西むろ郡上三栖。紀州西むろ郡上三栖の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還って来たが、其間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻って居たと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂に残っていると謂うので、出させて見るに皆紫の葉であった。今から90年ほど前の事である。又同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝て居るのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて、摂津の西ノ宮に行き、盆の13日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだと謂った。是は六十何年前のことで、共に宇井可道翁の璞屋随筆の中に載せられてあるという。

・昭和二十年頃の話。私の家の近くの男の子(小六年)が昼間、にわとりをいじめたから神かくしにあって大騒ぎとなりました。井戸のそばにしゃがんでいたそうなのに、家人にはその姿が見えず、子供には家人の姿が見えるけど声が出なかったそうです。二昼夜、その状態だったそうですから神かくしに違いないと、父母が言っていました。(青森県

『人はなぜ生まれ いかに生きるのか』

自分のための「霊学」のすすめ

江原啓之 ハート出版 2001/10/25

<彷徨の日々>

<いつ、どこでも霊がみえてきた!>

・学校や人の集まるところには、よく霊が集まると言いますが、この

警備員時代に私が体験した心霊現象は枚挙にいとまがないほどです。そのうちのいくつかを御紹介しましょう。

・ある夜、私がこの警備室で待機していると、ガラス面に私とは違う人が座っているのが映っています。何度も横目で確かめてみたのですが、確かに違う人です。私は思いきって横を向き見定めました。

映っていたのは同じ警備員の制服を着た60歳くらいの男の人です。目が会うとまもなく、その人の姿はさっと消えました。

後日、古株の警備員に聞くと、蒼ざめた顔で「それはあの警備室で、座ったまま死んでいたSさんだよ」と教えてくれました。

・これもまた、同じ警備室での目撃談です。その日は夜に入って雨が降り出しました。雨の落ちる外の光景をぼんやり眺めていると、蒼白い光に照らされるように、若い学生らしい男が傘もささずに立っています。様子がおかしいと心配になった私は、事情を聞こうと外に出ました。

すると、その若い学生は悲しげな顔を見せながら消えていきました。

翌日、このことを話すと、ちょうど同じ場所で飛び下り自殺があったといいます。また、その日が奇しくもその学生の命日でした。

・周囲の人たちは、私が完全に精神病に侵されたか、おかしな宗教にでも入ったと思ったことでしょう。

このような体験が続くなか、一年ほどの期間で、私はいつ、どこでも霊が見えるようになっていきました。

・実生活でも受難のときでした。心霊現象のたびに寝込んでしまうのです。こういうありさまですから、警備の仕事も休みがちになります。当然、預金も底をつき、そうでなくてもお金のかかる大学を、私は退めざるをえなくなってしまいました。

シルバーバーチの霊訓>

・それには、世の中には決して偶然はないということが書かれており、私は自分の今までの人生に起こったことの意義が、この本を読み進むうちに理解できるようになっていきました。

すべての出来事には目的があり、また自分はその目的を達成すべく生まれてきたことを初めて悟りました。再生のこと。因果律のこと。初めてすべてが理解でき、涙をこらえることができませんでした。

・私の意識は変わっていきました。私は改めて、天地不変の法則を見つめ直しました。

これも、死後は個性を永遠に存続し、再生を繰り返し、霊性の進化向上を目的とし生きるという、神界・霊界の法則です。

<この世の「使命」を求めて>

<滝行で霊体質がプラスに転じた!>

・道は定まったとはいえ、本当の自分の進むべき方向を見定めるには多くの時間がかかりました。

私は寺坂先生のすすめもあり、私自身の同じ修験道に進むことにしました。「今の日本では、残念ながら霊能者という職業は社会的に認められていませんからね。法律の面からも自分を守らなくてはいけませんよ。しっかりとした自分の職業を持っているのといないのとでは、社会的信用が違います」

寺坂先生は、霊能者を今までの神秘的なだけの存在から、アカデミックな存在にまで向上させたいとお考えでした。

・そこで、ある寺に通いながら、寺坂先生と共に歩むことにしました。私は毎日、寺での修行をこなしながら、(財)日本心霊科学協会の精神統一会や、師の主宰する清玲会などに通いました。

そして、生業のために警備員のアルバイトを続け、今思えば感心するほどのハードな日々でした。

・夏の日も冬の日も毎日のように山に出かけて行きました。アルバイトと心霊研究、霊能開発、そして滝行の日々です。私はこの滝行によって憑依体質を克服できたのです。

ずっと悩まされていたこの霊体質をマイナスからプラスへと転化できたのです。私は背後霊たちと一体になれるようになっていきました。

<ひもじさと孤独に泣きながら……>

・霊能が向上するそんな素晴らしい日々のなかにも不安はありました。それはやはり経済面や現世においての立場でした。

成人になってからも定職がなく、今で言うフリーターの傍ら、滝行と心霊研究という、なかなか人には理解されないことをやっているのです。

他人から見れば、ずいぶん自堕落な生活に見えたのでしょう。よく周囲の人たちから注意を受けました。かつての私の友人、同級生などのなかにも、私の生き方を批判し、見下し、哀れむものも現われました。

「親もなく、独りぼっちで暮らしているから、あんな人間になったのさ」

「あんなのを常識馬鹿の成れの果てというんだ」

背中を向けて去って行く友人、知人も一人や二人ではありませんでした。

・その言葉を信じて、霊能者としての相談を始めた途端、私はとんでもないことになったと気がつきました。その男は定職を持たない人で、私を商品として一攫千金を狙っていたのでした。

確かに部屋は提供していただいたものの、お金は一銭も頂けません。そのうちに預金も底を尽き、地獄のような日々が続きました。

・守護霊というものを理解していない人たちはよく、「なぜ霊能者なのに守護霊が助けてくれなかったのでしょうか?」と私に尋ねます。

しかし、守護霊は魔法使いではありません。私たちの願いをいつも聞いてくれるわけではないのです。いわば、私たちの教育係なのです。

・この方も私の背後にいる昌清霊のことを教えてくださいました。

「あなたの背後には立派な僧侶がいらっしゃる。この方が、あなたを導いている。あなたの今後の指導も計画しておられるね」

<「この世の神」に教えられる>

・私は以前に、神職の最低の資格は取得しておりましたので、スムーズにことが進みました。とはいえその当時、私にはまったく預金がありませんでした。

・ここで私は一日三役をする決心をしました。昼、神社の神主。夜、大学生。深夜、心霊相談の霊能者。この生活を2年間続けたのです。しかし、睡眠時間もろくにとれないような、こんな生活が長く続けられるわけがありません。よくダウンして宮司にもお叱りを受けました。

・現在、日本の心霊レベルは、欧米諸国に比べると50年は遅れていると言われております。私はそれを確かめるために、また研究と学習のために、毎年スピリチュアリズム心霊主義思想)発祥の国、イギリスに行っております。

イギリスの霊能者たちは、まさに技術者として確固たる地位を築きつつあります。特にヒーリングについてはその認知度は高く、イギリス全土の約1500病院によってヒーラーは受け入れられており、いつでも希望すればヒーリングを受けることができます。

また、職業的ヒーラーも約9000人いると言われています。この国には心霊に関する団体、組合のほか、心霊学校まであり、心霊王国ともいえるアカデミックな研究がされています。

イギリスでは、日本のように現世利益の色濃い心霊相談などあまりなく、霊能者は死後の世界を証明するデモンストレーターの役割が強いのです。

こと心霊に関する限り、日本は困ります。霊能者についても霊界の道具ではなく神だと思っている方も多いのです。そして、一宗一派にこだわり、我欲の限りをつくしている人がいかに多いか。

・特に死の恐怖、死別の悲しみ、人生に不幸を感じるという人間最大の三つの苦から救われることはありません。

・人間は魂の価値観を持たなければ、物質主義的価値観・利己主義、すなわち不幸の生活原理しか出てこないのです。

<心霊は、非科学ではなく、未科学なのだ>

<人はみな「落ちこぼれ天使」>

<本当の「神」の姿>

・自然霊とは、この世に肉体を持ったことのない霊を言います。童話や伝承でおなじみのフェアリー(妖精)や天狗、龍神や稲荷なども、この自然霊に含まれます。

これらは決して架空の存在ではなく、霊の世界には確かに存在しているのです。そして、霊能者である私は、このような自然霊を日常でもよく見かけます。また、当然のことですが、洋の東西を問わず存在しているのです。実は私たちのおおもとは、このような自然霊のなかから現れたというのが、心霊科学の常識となっています。

神や仏とは、このような自然霊のなかでも、最高位のエネルギーや霊格を持つものということです。

<「生き神様」というものの正体は、多くの場合、低級霊の仕業です>

・ですから、天照大神であろうと、観音であろうとゴッドであろうと、それは同一の神のエネルギー、最高の自然霊につけられた名前にほかならないのです。

神と交信することは人々の夢でした。それゆえ神と通信できる、または神が降りるという霊能者もたくさんおります。

しかし、私たち人間の力では神と通信することは不可能ですし、どんな霊能者であっても人間に神が降りることはありえません。

まれに、高い波動を持つ霊が現れることもありますが、この場合でも神そのものが降りたわけではなく、代理程度の霊が現れたにすぎません。

<人はみな「落ちこぼれた天使」>

・魂は、永遠の霊性の進化を続ける旅人であります。人間世界を第一の修行の場として、肉体の死を通過した後、幽界、霊界、神界と進んでいきます。しかし、同時に、神もまた永遠の進化向上を目指す愛の光なのです。

・その意味では、私たちは実は無限の大我を目指す未熟な神でもあるのです。この世のすべての人々は神という神性を肉体で覆った神なのです。

<人は誰もみな、おちこぼれた天使であり、神なのです>

<守護霊の愛に見守られて>

<私たちと共に歩む守護霊>

・この守護霊(背後霊)を一つの霊だと思っている方が多いのですが、これは間違いです。簡単に説明しますと、その守護霊たちの中心となって働いている守護霊(ガーディアン・スピリット)、指導霊(ガイド・スピリット)、支配霊(コントロール・スピリット)、その他の補助霊(ヘルパー・スピリット)と大きく4つに分けられます。これらの霊を総称し、背後霊、守護霊と呼ぶわけです。あなたは、このような霊団と共に人生を送っているわけです。

私は毎日、心霊相談に携わっているわけですが、この守護霊についても誤解が多く見られます。

<守護霊を構成する4つの霊>

○守護霊(ガーディアン・スピリット) 私たちの守護霊の中心的役割を果たしている霊魂です。統計的に見ると、4百年から7百年前に他界した先祖の霊魂がこの守護霊であることが多いようです。

○指導霊(ガイド・スピリット) 私たちの趣味や職業を指導している霊魂です。

○支配霊(コントロール・スピリット) 支配霊とは霊能者の心霊実験や交霊会で、霊界側のすべてを統括し、支配する高級霊であるといわれます。この支配霊は、私たちの十年程先もすべて見通すことができるようです。人生はすべて偶然や奇遇な出会いと思っている方も多いようですが、実はこの支配霊たちが私たちの人生と運命をコーディネイトしているのです。

○補助霊(ヘルパー・スピリット)私たちの守護霊、指導霊、支配霊のほかに、この三役の霊を手伝う補助霊という存在があります。

・私たちには、このような霊的な家族が存在するのです。この霊的家族を「グループ・ソウル(類魂)」と呼びます。

<英国心霊事情>

・よく言われることですが、どの国にもまして英国国民の霊に対する感情は非常にナチュラルで、その認識度も非常に高いものです。みなさんも英国に旅行したりすると、「霊の出るパブ」や「霊の出るホテル」、あるいは幽霊の出る名所めぐりツアーなどのあまりの多さにちょっとびっくりするかもしれません。

しかも、結構大まじめに取り組んでいます。すでに社会を構成する一部分と言ってもいいかもしれません。英国は文字どおり、スピリチュアリズムの本場でもあるのです。

それを証明しているのが、王室とスピリチュアリズムの密なつながりでしょう。

・私が知る限り、この国の人の霊魂観はとても興味深いものです。キリスト教徒でありながら、霊魂の存在を認める人が非常に多いのです。

先程も述べましたが、ホテルやパブばかりでなく、国の名所であるハンプトンコートパレスやロンドン塔さえ、幽霊の出ることが売り物になっています。また、幽霊の出る場所を巡るゴーストツアーのようなものも、なかなかの人気で、私も参加してみましたが、ガイドの知識も豊富で驚かされました。専門用語が頻繁に使用され、聞くほうもそれをしっかり理解しているようでした。

ですから、霊が出た話などは実に日常的で、誰に聞いても一つや二つは霊の出る場所は知っているし、霊現象を体験したという人もたくさんいます。

<英国には浮遊霊、地縛霊が多い>

・私たち霊能者がまず強く感じること、それは英国には日本と比べて格段に浮遊霊と地縛霊が多いということです。また、この国の霊は著しく実在感が強いのです。

『霊の探求』 (近代スピリチュアリズムと宗教学)

(津城寛文) (春秋社) 2005/10

<「霊の探求」>

・近代スピリチュアリズムの最初にして最大の体系化はフランス人で英語の筆名を名乗るアラン・カルデックの「霊の書」によってなされた。その後のイギリスのステイントン・モーゼスの「霊訓」やジェラルディーン・カミンズの「不滅の道」などと並んで、スピリチュアリズム思想を代表するものとされるが、時代的にはカルデックがかなり早い。

・その後、社会的事件として、無視できない状況を受けて「ノーベル賞クラス」と強調される少なからぬ高名な学者たちを交えて、この現象の真偽や価値をめぐってスピリチュアリズムと神霊研究の違いは、前者が死後生存と「霊界通信」を前提とするのに対して、後者は、それらを(自然)科学的に説明、あるいは証明しようとしたところにある。したがって、心霊研究にかかわった人々の中には、スピリチュアリズムの前提となる現象に肯定的な人々と、それに否定的な人々が共存していた。

『前世あなたは誰だったのか』

(心を癒す)究極のヒーリング)

(平池来耶)(PHP文庫) 2005/9

<あなたの肉体は何重にもなっている>

・あなたの肉体も実は、スピリチュアルな存在です。前にも述べましたが、肉体だけでは、人間として存在できません。構成元素などの価値を計算すると、あなたは数百円程度の値段しかつかないのですから。

あなたは、まず肉体としてのボディを持っています。それはあなたにも自覚できます。見ることもできれば、触ることもできます。高さや冷たさなど、感覚としていつでも感じることができます。

・でも、その三次元の肉体に重なって、それよりはやや波動が細かな、エーテル体という体が存在します。これは、世に言う「気」の体です。三次元の肉体より波長が微細になります。

さらに、アストラル体(感情体)、メンタル体(精神体)、コーザル体(原因体)と、ボディの次元はたかまっていきます 。ここまで、感じることができるようになれば、スピリチュアル・ワールドからのメッセージも受け取れるようになり、大いなる源へ帰っていく旅も、ずいぶん効率的になるのです。

『前世あなたは誰だったのか』

(心を癒す)究極のヒーリング)

(平池来耶)(PHP文庫) 2005/9

<スピリチュアル・ワールドに本当のあなたがいる>

・あなたが、今世」、生まれる前に中間世で達成しようと決めてきたことや、カルマのバランスをとるための大切なこと、それらを知る深いところにある自己・・・・それが魂意識(ハイアーセルフ)と超意識(スピリチュアルな世界を認識し、変性している意識)と呼ばれている意識。

・これらの意識は、あなたの一番の物知りの部分であるといえます。そして、この自己はあなたのことを何でも理解しているので、あなたにとってガイドのような役目を果たすのです。時には、洞察力と理解力を伴って、過去世の記憶に案内することもあります。あなたは、魂意識と超意識によって過去生で経験してきたすべてのことや感情を認識することができるでしょう。