無重力植物園 (original) (raw)
※本稿は、眞鍋せいらの修士学位論文「イギリスの反核兵器運動『グリーナム・コモン女性平和キャンプ』における『キーニング』(哀歌)の意味」(2022年)の概要と本文を一部修正・編集の上、本人によって公開するものです。
- 概要
- 序章
- 第1章 アイルランドにおけるキーニングの伝統と女性平和キャンプにおける受容
- 第2章 非言語的コミュニケーションとしてのキーニング
- 第3章 追悼という政治的行為
- 終章 グリーナム・コモン女性平和キャンプへの新たなまなざしと社会運動の地平
- 引用・参考文献
- 図版リスト
概要
イギリスで 1981 年から 2000 年にかけて続いた⼥性たちによる反核兵器運動「グリーナム・コモン⼥性平和キャンプ」において、戦術のひとつとして使⽤されたのが「キーニング」と呼ばれる哀歌の伝統のひとつである。本来アイルランドの⼥性たちによって担われる葬送儀礼であったキーニングが、いかなる経緯でイギリスの運動に受容・流⽤されるようになったのかは判然としないが、その受容のされ⽅の意味をフェミニズム的視点、またポストコロニアルな視点で解き明かすのが本稿の⽬的である。
そのためには、⼆つの切り⼝が有効だと考えられる。ひとつは⾮⾔語性、もうひとつは追悼という⾏為の持つ政治性である。まず⾮⾔語性については、元来アイルランド語で歌われていたキーニングが、イギリスの⼥性平和キャンプでは⾔語性のない「呻き声」として認識されて使⽤されたことを踏まえ、そこにイギリスからアイルランドへのコロニアルな視点がありえたこと、しかし同時にそれが既存の⾔語/⾮⾔語、男性/⼥性という権⼒関係を転覆させる可能性のあったものであることを述べる。また、⾮⾔語的コミュニケーションとしてのキーニングの利⽤が、⾔語の持つ「証⾔不可能性」を超えるひとつの術であった可能性も提⽰する。
追悼の政治性については、まず追悼という⾏為の社会性・政治性を確認したのち、追悼がかえりみられない「亡霊」を再び「現実化」する役割があるとして、世界各地の追悼と結びついた社会運動を概観する。それらの運動は、⼥性というジェンダーと無縁ではない。今回は特に、暴⼒の犠牲となった⼦供たちを悼む⺟親たちが主体となった運動を取り上げ、グリーナム・コモンの事例、そして⽇本における社会運動の特殊性も浮かび上がらせる。
最後に、追悼の⼀環として、今・ここに⽣者であり他者として存在しているわたしたちは、いかに暴⼒のような〈出来事〉の犠牲者であり主体であった存在を記憶しうるのか、いかなる社会運動の地平がありうるのか、と問う。記憶する⽅法のひとつが「死者の名前を呼ぶ」ことである。では⼥性平和キャンプの参加者たちは、キーニングを通じて、そのことをどこまで意識していたのか。反核兵器運動として、広島・⻑崎の被爆者にはどのような視線を投げかけていたのか。イギリスの⽩⼈⼥性が中⼼となっていた⼥性平和キャンプは、第⼆波フェミニズムの価値観のアップデートとともに、オリエンタリズムを内包していたという批判にも直⾯しなければならないだろう。
序章
〈はじめに・研究背景〉
イギリスで1981年から2000年にかけて続いた女性たちによる反核兵器運動「グリーナム・コモン女性平和キャンプ」(Greenham Common Women’s Peace Camp、以下女性平和キャンプ、またはキャンプ)において、戦術のひとつとして使用されたのが「キーニング」*1(keening)と呼ばれる哀歌(英語では'elegy'。死者を悼む歌)の伝統のひとつである。女性平和キャンプにおいて女性たちは、メッセージを記した横断幕作りや公共の場でのダイ・イン*2('die-in'。死を象徴する身体表現によるデモンストレーション)に加え、歌や踊り、動物の着ぐるみを着ての基地への侵入など、多岐にわたる方法で、イギリス南部バークシャーのニューベリー、ロンドンからは西へ約80キロに位置するグリーナム・コモン米軍基地への核ミサイル配備反対を訴えた。そのうちのひとつが、本来はアイルランドの女性たちによって担われてきた伝統、キーニングであった。キーニングとは、詳しい定義は後述するが、通夜や葬式の際に死者を悼んで女性たちによって歌われた吟詠である。
(図1:グリーナム・コモンを示すイギリスの地図)
キャンプの参加者たちがキーニングを戦術として用いていたことを知ったのは、動画サイトYouTubeで「Greenham Common」と検索し、一本の動画に辿り着いたときのことだった。「Grandmothers Keen」(祖母たちは呻く)という名の、どのような経緯で作られたのかわからないアカウントが投稿したこの動画は、女性平和キャンプの参加者と思われる女性たちがロンドンの国会議事堂前でキーニングをしている様子を写している。黒い服に身を包んだ女性たちは警官に付き添われながら列をなし、何より悲しげで苦しげな、呻き声とも叫び声とも言えない息の長い声を上げている。見たところ政治的なスローガンを叫ぶこともしていないし、横断幕も見当たらない。政治といえば演説やシュプレヒコールやデモ行進を想像しがちだったわたしの中に、いったい言語的なプロセスを経ていないように見えるこの行為が政治的になりうるのだろうか、という疑問が生じた。たった40秒の短い、しかも情報のごく限られた動画ではあったが、これが非言語的かつ政治的なパフォーマンスであるとするならどのような意味を持ち得たのか、なぜ行われたのか、そもそもキーニングとは何なのか、などの疑問を抱くには充分すぎるほど印象の強い映像だった。
(図2:国会議事堂前でキーニングをしている様子)
もうひとつ彼女たちの映像を見て受けた印象は、死との大きな関連であった。彼女たちが黒衣に身を包んでいたことも大きいが、それ以上に彼女たちの声はイギリス、アイルランドに伝わる「バンシー」(アイルランド語でBean Sídhe、英語ではBansheeと表記する)という妖精の伝承のことを想起させた。バンシーはアイルランド語で「妖精の女」を意味し、泣き叫ぶこと(keening)で旧家の者の死を予言する。キャンプの女性たちがバンシーのように、誰かの死を悼んで泣き叫んでいるのだとすれば、彼女たちはそれをいかにして政治的なメッセージと結びつけようとしたのか。
この論文では、女性平和キャンプにおけるキーニングが提示する以上のような二つの側面——その非言語性と追悼するという行為——が、それぞれどのように社会運動の戦術のひとつとして用いられ、また効果を発したのかということについて考えてみたい。「それぞれ」と述べたが、それらはおそらくむしろ密接に関わりあっているだろう。そしてそれらの文脈は、キーニングが、男性性に対してマイノリティ性を帯びているとされる女性たちによって担われてきたことと無関係ではない。また同時に、本来アイルランドに伝わる風習であったキーニングが、アイルランドの旧宗主国であるイギリスの女性たちによって翻案されたことを踏まえれば、それはポストコロニアルな視線に立った分析を逃れえない。これらの視座に立ちつつ、まずはどのような経緯でキーニングが女性平和キャンプの運動に流用され、どのように再文脈化されたのかに焦点をあてる必要がある。
〈グリーナム・コモン女性平和キャンプの沿革と概要〉
ここでグリーナム・コモン女性平和キャンプの概要を述べておこう。グリーナム・コモン女性平和キャンプは冷戦さなかの1981年9月に始まり、2000年まで続いた女性たちによる反核兵器運動である。それに先んじて1979年12月、NATO(北大西洋条約機構)はヨーロッパ五カ国に、米国の巡航ミサイル他を配備する決定を下していた。その決定にはイギリス南部の米軍基地、グリーナム・コモンも含まれ、核弾頭を搭載した地上発射型巡航ミサイル97基の配備が決定していた(この際に生産中であった巡航ミサイルは4,000基あり、そのうち464基がヨーロッパに配備予定であった)。それぞれ広島に落とされた原爆の15倍の威力があったとされる。核戦力を強化する方針はそれのみにとどまらず、英国政府は最新鋭のトライデント型潜水艦発射核ミサイルシステムを導入するとも発表していた。
そのような情勢下での81年8月、イギリス西部の南ウェールズの女性たちにより「地上の命を守る女たちの平和行進(Women for Life on Earth Peace March)」が実行される。計画はウェールズの中心カーディフからイングランドのグリーナム・コモンまで、10日間で歩くというものだった。この時点では参加者には男性もいた。主催者は他の平和団体とも連絡を取り(中には当時反核兵器運動として主力だった「核軍縮キャンペーン」(Campaign for Nuclear Disarmament、以下CND)も含まれていた)からも協力を取り付けたが、一方、マスメディアからの注目は集まらない。そこで、グリーナム・コモンに到着した女性たちの数人が、サフラジェット(女性参政権運動の参加者たち。詳しくは次節注で後述)に倣って自らの身体を基地のフェンスに鎖で縛りつけるというアクションを行った。それでも当初はメディアの取材は限られていたが、鎖のアクションに参加する女性たちを見守るようにキャンプが張られ、協議の末キャンプを持続させることが決定した。そしてキャンプは、 1982年2月の決定で完全に「女性のみ」で運用され、男性は昼間の訪問のみ歓迎されることとなった。しかしこの決定は、キャンプを財政的に支援していたCNDの男性メンバーや、キャンプの一部の女性たちから批判され、結果キャンプを去った女性もいたという。
参加者が増え、基地の周囲にキャンプが張られるようになると、複数ある基地の入り口ごとに虹の色から名前がつけられ、それぞれ異なった特性とアイデンティティを持つようになった。小松(2021)はWelch(2010)[*3](#f-0b2b435b "小松は引用としてWelch, Christina, "Spirituality and Social Change at Greenham Common Peace Camp," Feminist Theology, 18(2): 230-248. を記述しているが、その号のFeminist Theologyには同名の論文はなく、おそらくこれはWelch, Christina, 2010, "The Spirituality of, and at, Greenham Common Peace Camp," Feminist Theology, 18(2): 230-248.の誤記であろう。")を参照しながら次のように説明している。
ターコイズ・ゲートにはニューエイジとビーガンの人々が、グリーンゲートにはレズビアンやスピリチュアリティに関心のある女性たち、バイオレットゲートには、既成宗教とのつながりを持つ、身なりの良い女性たち、オレンジゲートには年配の女性や子供たち、イエローゲートにはペイガンの女性たち、といったように、それぞれの特徴あるグループが出来上がっていった。ただし、厳格な境界ができていたわけではなく、クウェーカー教徒はオレンジゲートやブルーゲートを行き来したり、カトリック教徒がどこかのゲートで聖体拝領をしたり、またスピリチュアリティに関心のない女性がグリーンゲートにいることもあったという。(小松 2021: 25)
〈はじめに・研究背景〉で述べたように、キャンプの女性たちはさまざまなユニークな方法で核ミサイル配備に反対した。彼女らの戦術とキャンプの概要は河西(2022)によって簡潔にまとめられている(「戦術」の意味については第2章2節で述べる)。「たとえば1982年8月27日には、基地の中から外が見えにくくしようと、基地正面の鉄条網に毛糸を編み付けてしまった。10月5日には基地内の下水管敷設作業を阻止するため、溝に横たわり、毛糸で編んだ蜘蛛の巣をかけてブルドーザーの前に寝転んだ」(河西2022: 289)。そして12月12日には「基地を抱きしめよう」作戦として三万人の女性たちが人間の鎖で基地を取り囲み、それは翌日の「基地を封鎖しよう」作戦に繋がった。1982年の大晦日には、参加者たちは「ついに基地内に侵入し、新年を格納庫の上で輪になって踊りながら迎えた」(2022: 289)。1983年11月14日には予定を前倒ししてミサイルが格納庫に運び込まれるが、それによって抗議の声はより大きくなり、参加者たちの結束も強まったようだ。翌年には女性平和キャンプの知名度はノーベル平和賞候補に推薦されるほどであったが、同時に警察の締め付けは厳しくなり、キャンプの参加者の入れ替わりも激しくなる。そして1987年12月8日、アメリカとソ連がINF(中距離核戦力)全廃条約に調印、3年以内にグリーナム・コモンの核ミサイルも廃棄されることが決定したことにより、女性平和キャンプの役割はひと段落を迎える。しかし基地が公有地になった2000年まで、キャンプに止まり続けた参加者もいた(2022: 289-90)。
(図3:女性平和キャンプの参加者たち*4)
(図4 :女性平和キャンプの参加者たち*5)
本稿では、長期にわたるキャンプ全体の分析をすることは主眼としない。キャンプにおいてキーニングの行われた記録が明確に残っているのは、1981年と1982年、加えて1984年という最初期であるため、取り上げる時期もそのようにごく限られる。
〈ラディカル・フェミニズム*6から読むグリーナム・コモン女性平和キャンプの活動〉
女性平和キャンプに話を戻すと、キャンプ自体がイギリスにおける女性の運動史の中でどのような位置付けになりうるのかという問題が浮上する。自らもキャンプに参加したLiddington は、「グリーナムの女性による平和運動は、あたかも忽然と生まれたかのように見えるが、英国の歴史を調べればわかるように、女性による平和運動は、ハーグで国際女性会議が開かれた1915年までさかのぼることができる」と述べている(1989=1996: 7)。著書_The Road to Greenham Common_(邦題『魔女とミサイル——イギリス女性平和運動史』)でLiddingtonは、1915年よりさらにさかのぼる1820年以降の女性平和運動を概説しているのだが、と同時に、それらの運動は内紛を繰り返したこともあり影が薄く、また同時に女性による平和運動が軽視されてきたことも原因として、「グリーナムの女性は、そうした過去の女性の平和運動を知らなかった」(1989=1996 : 7)と述べる。
しかし同時に、グリーナム・コモン女性平和キャンプの参加者たちがサフラジェットの戦術からインスパイアされ、シンボルカラーの緑、白、紫*7を積極的に運動に取り入れたように(クック・カーク1984: 118)、そこには英国のフェミニズム運動の潮流がある。Liddingtonは英国のフェミニズムを歴史的に「母性主義フェミニズム」「同権フェミニズム」「急進的フェミニズム」に大別し、女性平和キャンプは三つ目の「急進的フェミニズム」の影響を受けていると記述する。
三つ目の急進的フェミニズムは、男性暴力に重点を置いている。アメリカの著名な作家、シャーロット・バーキンズ・ギルマンが、『男がつくった世界』の中で、男性的資質が極端に現れたものが戦争だと述べているように、このフェミニズムは男性的資質を暴力と見ている。この流れの形跡をたどるのは難しいのだが、70年後に男性を拒否して女性だけの分離主義をとったグリーナムの平和運動にも、この考え方がはっきり見える。このフェミニズムは、家庭内における男性暴力と性的暴力を軍国主義の暴力に結びつけたが、男性に対する個人攻撃や、女性自身の軍国主義との共謀を認識しそこなったことで、一般の支持を失い、苦い論争を巻き起こした。(Liddington 1989=1996: 11)
この「急進的フェミニズム」(radical feminism)は、英語圏のフェミニズムの歴史においては1960年代から80年代に盛んであった「第二波フェミニズム」*8のうちのひとつとして捉えられることが多い(北村 2020)。すなわち、女性参政権運動を指す第一波フェミニズム(「サフラジェット」*9の存在に代表される)ののちに現れた、「政治参加のみならず、中絶や性暴力などの性や生殖をめぐる問題、賃金の不平等など労働における差別、家庭内暴力など、より広い問題を扱い、それまでは個人的なこととして公的に議論されなかった不平等についても着目するようになった」(北村2020: 49)フェミニズムである。
しかしLiddingtonが指摘しているとおり、ラディカル・フェミニズムには、ジェンダーを生得的で男女の二元論的なものとして捉え、本質主義に陥ってしまったという批判もある。そのような「シス女性のためのフェミニズム」からこぼれおち、排除されたのは、たとえばトランスジェンダー女性やノンバイナリーの人々であった。藤高和輝は「インターセクショナル・フェミニズムから/へ」(2020)の中でこう指摘している。「そして、以下で強調したいのは次の点である。それは、例えば『第二波フェミニズム』(あるいは一般に『フェミニズム』)を『トランス排除的ラディカル・フェミニズム』に還元しないことの重要性である」(藤高2020: 42)。この藤高の警鐘は、現代の英語圏の中でもイギリスでのトランスジェンダー排除言説の強さ(Faye 2021=2022)を鑑みると、非常に示唆的であり重要だ。グリーナム・コモン女性平和キャンプは、それがフェミニズム運動としても平和運動としても象徴的な役割を果たしたからこそ、今後上記のようなインターセクショナル*10な視点からの批判にも対峙していかなければならないだろう。
〈先行研究〉
グリーナム・コモン女性平和キャンプとキーニングの関連について言及した研究は数少ない。特に、キーニングをアイルランドとイギリスという旧植民地/旧宗主国というポストコロニアルな関係の中に位置付けた研究は英語圏でもほとんど見当たらない。しかし、ここには理由がある。
「キーニング」(Keening)の動詞形‘keen’とは、オックスフォード英語辞典によれば、「アイルランド風に死者への嘆きを声に出す、泣き叫び悼む」ことを指す。しかしここで留意しておきたいのは、哀歌の伝統自体は、古代ギリシャ・ローマほか世界各地でその記述が見られるものだということだ。実際にLaware(2004)は、女性平和キャンプでのキーニングの使用と意義を分析してはいるものの、キーニングをアイルランドの伝統としては必ずしも位置付けておらず、Caraveli-Chaves(1980)を引用しつつ、むしろ古代ギリシャの伝統からの影響ないしはさらに普遍的な表現方法であるように論を展開している。
一方で、グリーナム・コモン女性平和キャンプはしばしばそのスピリチュアリズムとともに論じられ(Liddington 1989=1996、小松 2020)、それはケルト文化、つまりイギリスやアイルランドの古い伝統からの強い影響を受けていると指摘されてきた(Bolton 2020)。Delapはキーニングを、「ケルト文化にその根を持つが、同時に古代ギリシャとローマにもさかのぼる哀歌」としている(Delap 2020: 320)。結局、女性平和キャンプのキーニングが古代ギリシャとローマから直接アイディアを得たものなのか、それともケルト文化からの翻訳であるのかは判然としない。しかしLiddingtonらが指摘するような、キャンプにおいて使用された他のモチーフ——魔女や女神や樹木崇拝——がケルト文化の影響下にあることを考えると、キーニングもまたアイルランドないしケルト文化から輸入されたものと考えるのはそれほど不自然ではないと思われる。
アイルランドのキーニングに限らず、追悼の行為そのものが持つ社会的意義、ないし社会運動との関連については、先行研究でもしばしば言及されてきた。たとえば、真鍋祐子は『増補 光州事件で読む現代韓国』の中で、死者とのつながりを重視する伝統的な巫俗(シャーマニズム)文化が「政治的な抵抗運動(レジスタンス)の力の源泉」であったことを記述している(真鍋2010: 64)。しかし、キーニングの研究自体は、後述する大野光子などを除いて日本国内ではほとんど行われておらず、またアイルランド・イギリス・アメリカを中心とする海外の研究においても、文学と歴史学のフィールドが主なフィールドであり、追悼と社会運動という視点からの分析は目立たない(ただし、LeviとBurkeの論争に顕著なように、そもそもキーニングを長らく男性が占有してきた大文字の「文学」として捉えるか、女性たちによる口承のパフォーマンスとして捉えるかという点には議論がある)。同じく、女性平和キャンプについての手記や論文においても、キーニングについての記述は少ない。LawareやDelapが女性平和キャンプにおけるキーニングとその役割に言及しているのは稀有な例と言えよう。
〈イギリス・アイルランド関係概説〉
ここで非常に簡単にではあるが、イギリスとアイルランドの関係についてポストコロニアルな視点から概観しておきたい。佐久間孝正は、『在日コリアンと在英アイリッシュ』(2011)の中で、英愛関係の歴史を三つの段階に分けて整理している。すなわち、イングランド国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89)によるアイルランド侵出から宗教改革まで、次にヘンリー八世(Henry Ⅷ, 1491-1547)による宗教改革からクロムウェルのアイルランド侵略、そして1801年の「アイルランド合同法」(Acts of Union)から現代までである。
第一の時期の特徴は、イングランド人またはウェールズ人といった、ブリテン島からの入植者のゲール化(アイルランド化)である。かれらは次第にイングランドよりアイルランドにアイデンティティを寄せるようになったため、それに業を煮やしたイングランドは1366年にキルケニー法(Statutes of Kilkenny)を制定する。「これを境にイギリス人によるゲール語の使用は禁止され、イギリスの直轄地ともいえるダブリン周辺のイングリッシュ・ペイル内(ダブリンを含む約20マイルの英語使用圏)では、アイルランド人であってもゲール語*11が禁止された。また両民族の結婚も禁止され、植民地住民は厳しい統制下に置かれた」(佐久間 2011: 14)。
第三の時期は、1801年のアイルランド合同法以降だ。合同法成立の背景には、イギリスの宿年のライバルであるフランスの存在がある。イギリスの両隣であり、カトリック国家であるフランスとアイルランドが接近することを恐れたイギリスは、アイルランドとの「合同」に踏み切る。しかしそれはイギリス・アイルランド間の不平等な関係を温存、また強化させるもので、19世紀中の人口だけを例にしても、ヨーロッパの他国とは対照的に、アイルランドの人口は半分程度にまで激減した。土地を奪われたアイルランド農民がイギリスやアメリカに移住を余儀なくされたこと、そして1845年から49年のジャガイモ飢饉が主な理由であった。飢饉では100万人ほどが餓死したとされるが、これはイーグルトン(1995=1997)や栩木(2012: 164)、そして大野(1998: 147)が紹介しているように、イギリス帝国による人災であるとの見方も多い。そもそもジャガイモがアイルランドの主食になったのは、イングランドの植民地支配の中で「10分の1税」がアイルランド全体に課されたことで、「農民は、生産した小麦、大麦、カラス麦などのほとんどすべてを、現金収入を得るために売ってしま」ったことが大きな原因なのだが(茂木 1996: 193-94)、イーグルトンによれば、比較的栽培の容易なジャガイモは、イギリスの官僚たちにとってはそのままアイルランド人の怠惰を表すものであり、「大飢饉は、馬鈴薯に対する神の憤りを示す徴候であり、アイルランド人がこのような野卑な食物からもう少し文明的なものへ移行する絶好の機会と考えられるものであった」(イーグルトン 1995=1997: 39-40)。
そしてこのジャガイモ飢饉をはじめとする人口減少は、アイルランド語の話者数を著しく減少させた。社会言語学者である嶋田珠巳(2016)は、「アイルランドにおける言語交代はイングランドによる植民地支配に端を発するもの」であるとしながらも、それだけではすべてを説明することはできず、大飢饉や、さらには学校での英語による実施といった「後押し」もあるとしている(2016: 66)。キーニングという口承の文化に関連して言えば、大飢饉に苦しんだひとびとは家族がアイルランドからアメリカなどに渡る前夜にも、二度と再会が叶わない「死出の旅」への送別として、「アメリカン・ウェイク」(wakeは「通夜」の意)を行ったらしい(中本 1983: 47)。アメリカン・ウェイクで歌われたのは多くがエミグラント・バラッド(Emigrant Ballad、「移住者の歌」)と呼ばれるようなものであったらしいが、初期には泣き女も呼ばれた(中本1983: 47)とあるので、キーニングが行われた可能性は大いにある(アメリカン・ウェイク以外のアイルランドにおけるキーニングの伝統は、第1章1節で詳述する)*12。
アイルランドの人口が減り続けるにつれ、イギリス帝国からの独立の声は高まっていった。独立運動にはアイルランド系アメリカ人の経済的・政治的な支援もあった。そして第一次世界大戦(1914~1919)の最中の1916年4月26日、ダブリンで独立派勢力が蜂起する。「イースター蜂起(Easter Rising)」である。
だが、蜂起自体はイギリス軍の圧倒的な武力に加え、市民の協力も得られずに失敗してしまう。しかしその後、蜂起の指導者たちが二週間足らずの間に次々と処刑されてしまったことが、市民の激しい抗議を呼ぶ。これがさらに、独立戦争の機運を高めることとなった。
付け足しになるが、先述したエミグラント・バラッドを紹介した茂木健(1996)は、アイルランドの歴史を象徴するバラッド群としてもうひとつ、レベル・ソング(Rebel Song、「反逆の歌」)を挙げている。これはイギリス植民地時代に歌われた、独立を支持する反イギリスの内容を持つ歌たちの総称であるが、自由国成立前後の内戦時や現在に至るまで、リパブリカン側に愛唱されているという。
〈論文の構成〉
第1章「アイルランドにおけるキーニングの伝統と女性平和キャンプにおける受容」では、まず〈1節 周縁化された女性たちの伝統的儀式から政治的パフォーマンスへ〉で、アイルランドにおけるキーニングの伝統がどのようなものであり、どのように受け止められてきたのかを概観したのち、〈2節 女性平和キャンプにおける受容①: 「地上の命を守る女たちの平和行進」直後〉と〈3節 女性平和キャンプにおける受容②: 1982年「キーニング・アクション」〉で女性平和キャンプがどのようにキーニングを戦術として用いたのかを歴史的資料から振り返ってみる。
第2章「非言語的コミュニケーションとしてのキーニング」と第3章「追悼という政治的行為」ではキャンプにおけるキーニングの役割を、それぞれ「非言語性」と「追悼」というキーワードから分析する。まず第2章では〈1節 証言不可能性とキーニング〉で、女性平和キャンプにおけるキーニングの非言語性がどのような目的をもって戦術として利用されたのかを振り返りつつ、その意味を考察する。〈2節 「戦術」としてのキーニング〉では、セルトーの「戦術」(Certeau 1980=2021)の議論を下敷きに、権力に対してキーニングがいかに「戦術」として機能しえたのかを分析する。〈3節 核兵器への不安を具現化する〉では、精神科医による「不安」についての議論を補助線にしながら、女性平和キャンプの参加者たちが抱えていた精神不安とそれを共有することの意味について考える。
第3章の〈1節 追悼の政治性と「亡霊」の「現実化」〉では、バトラーの「可傷性」と「亡霊」(Butler 2004=2007)の議論を基軸にしつつ、追悼するという行為がいかに政治的でありうるかを検討する。そののち、〈2節 追悼する母たち——日本と海外の事例から〉で、女性平和キャンプによるキーニング以外の「追悼する母たち」の社会運動の事例を取り上げながら、フェミニズムの視点による運動分析と、日本の社会運動の特殊性を概観する。そして〈3節 記憶と「死者の名前を呼ぶ」こと〉では、第2章で取り上げた「証言不可能性」に社会運動はどう向き合いうるのかを考察しながら、その可能性のひとつとして「死者の名前を呼ぶ」ことを提示し、さらにグリーナム・コモン女性平和キャンプにおけるキーニングがオリエンタリズム(Said 1978=1993)を内包していたのではないかという批判を展開する。
そして終章「グリーナム・コモン女性平和キャンプへの新たなまなざしと社会運動の地平」では、第3章の女性平和キャンプ批判を踏まえて、日本の今後の社会運動にも通じうる視点を提示する。巻末に引用・参考文献、図版リストを記す。
第1章 アイルランドにおけるキーニングの伝統と女性平和キャンプにおける受容
〈1節 周縁化された女性たちの伝統的儀式から政治的パフォーマンスへ〉
女性平和キャンプにおけるキーニングについての論考の前にまず、アイルランドの伝統的な風習であったキーニングについて見てみよう。キーニングの定義としては先述のオックスフォード英語辞書のものがあるが、さらに詳細に「アイルランド風の死者への嘆き」を定義するなら、「アイルランドにおいて少なくとも7世紀から20世紀初頭まで伝わっていた、詩的な哀悼歌かつ宗教的な追悼の伝統」(Brady 2017: 59)とすることができる。キーニングは通夜において、主に女性たち(遺族、またはキーニングをするために雇用された女性たち)によって行われ、詩と歌の中間に位置付けられる即興の作品で、言い換えればアイルランド語によって歌詞がついたものであった。In Ireland Long Ago(Danaher 1962)には、次のような通夜の風習と詩がキーニングの例として紹介されている(訳は中本誠一による)。
雇う泣き女は四名で遺体を置いたベッドかテーブルの上に一人、足元に一人ついてキャンドルを見守る。両サイドに一名ずつつく。[中略]アイルランド各地でいつも聞くのは死者への慟哭の歌(Caoine)である。遺体のすぐ前に立って死を悲しみ死者を覚めさせる。そして親族の人達、泣き女がコーラスする。代表的歌の一つは次の様な歌である。(アイルランド語で歌う。)
父よ、あなたは私達を残して オッホン*13
何故私達を後に残したのです オッホン
私達が何をしたというのです オッホン
それであなたは逝ったのです オッホン
あなたはとても物持ちでした オッホン
どうして私達を残したのです オッホン
(全員)オッホン オッホン オラゴン オー
腕ぶしは強く オッホン
歩みは軽やか オッホン
手先き[ママ]は器用 オッホン
あなた無しではとても貧しい オッホン
何故私達を後に残したのです オッホン
私達が何をしたというのです オッホン
オッホン オッホン オラゴン オー(Danaher 1962: 174=中本1983: 45-46)
文学者の大野光子は、このような通夜とキーニングの伝統をフェミニズム的な文脈に置き、「女性同士の連帯の確認」と再解釈する。通夜というのは、日常で家父長制やカトリック教会といった権威に抑圧された女性たちにとっては貴重な「息抜き」の機会であり、キーニングは「異教的な霊鎮めの儀式でもある可能性がある」(大野1998: 127)。
大野がキーニングを女性同士の連帯と結びつけて考える背景には、キーニングが歴史的にも異端として周縁化され、その伝統が抑圧されてきたこともあるだろう。キーニングは、それがイングランドからは辺境とされたアイルランドの伝統であるだけでなく、キリスト教以前の風俗を色濃く残すこと、また女性によって主に行われることを理由に、しばしばイングランド人入植者やアイルランド国内主流派のカトリック教会から蔑視され、敵視されてきた(池田2014: 87)。また、歌詞の内容についても、「死者の賛美に終始するとは限らず、家族への暴力を露呈することも珍しくなかった。死者を貶めるような発言は教会の聖職者には問題視され、哀歌の伝統が異教的とみなされる一因となった」(池田2014: 88)。池田が指摘するように、キーニングがしばしば死者によるドメスティック・バイオレンスを告発する場になりえたことも、キーニングとフェミニズムの親和性の高さの理由のひとつだろう。同時に、女性たちによる批判や糾弾を逃れたいカトリック教会の聖職者のような者は、大声や手拍子、棺を拳で叩く音とともに行われるキーニングを、彼女たちの「狂気」を証明するものとして利用した(Burke 1993: 167)
先述したように、キーニング自体はアイルランド語で歌われる、歌詞のついたものであった。しかし強調しておかなくてはならないのは、それらの歌詞はアイルランド語を解さないイギリスのひとびとにとっては意味をなさず、時にキーニングは単なる「呻き声」「叫び声」として解釈されたことである。そしてそのゆえに、キーニング(ないしアイルランド語)がイギリス人や教会への批判を表すツールになりえたことは想像に難くない。実際Conradは、「キーニングはアイルランド語のコミュニティのみがアクセスすることのできる批判を表現するのに効果的な方法であった」と述べている(Conrad 2008: 43)。
このような側面も背景として、20世紀になりイギリス帝国からのアイルランド独立の気運が高まると、キーニングは独立運動家たちの間で、植民地主義の犠牲となった息子たちを悼む母なるアイルランドによる行為として再表象されることになる。アイルランド文芸復興運動の中心的存在であった、ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)、パトリック・ピアス(Pádraic Pearse)、モード・ゴン・マクブライド(Maud Gonne MacBride)、イザベラ・オーガスタ・グレゴリー(Isabella Augusta Gregory)といった文学者や社会運動家たちは、それぞれ自身の作品に「キーニング・ウーマン」のモチーフを登場させ*14、愛国心を触発した(Conrad 2008:39、McNulty 2010)。特にイェイツによる戯曲『キャサリーン・ニー・フーリハン』(1904)は有名である。かれらが「キーニング・ウーマン」のモチーフを愛国心と結びつけたことは、先にConradやBurkeが指摘したような、キーニングが英語ではなくアイルランド語で行われるものである、という性質そのものが含む政治性とも呼応しているだろう。帝国からの独立運動の中、キーニングは愛国心と結びつき、女性たちは非文明的で非理性的な存在から、祖国のために涙し、国民を鼓舞する母なる存在として再表象されたのである。しかしキーニングの伝統は、やはり非文明的とされ、1950年ごろにはついえてしまったようだ(BBC Radio 4, 2016)*15。
〈2節 女性平和キャンプにおける受容①: 「地上の命を守る女たちの平和行進」直後〉
では、そのようなアイルランドのキーニングは、いかにしてイギリスの女性平和キャンプに取り入れられたのか。繰り返しになるが、キーニングが女性平和キャンプで使われた記録自体は、女性平和キャンプのごく初期に限られる。そのためまずは女性平和キャンプの概要と沿革を再度振り返りつつ、キーニングの受容を振り返ってみたい。
1981年夏、イギリスのウェールズに住むアン・ペティット(Ann Pettitt)という女性が、「地上の命を守る女たちの平和行進(Women for Life on Earth Peace March)」を計画する。ペティットは左派的な信条の両親の元に育ったが、両親の属する社会主義的サークルや50年代生まれのCNDには退屈を感じていた。その後土地占拠運動の中のロンドンで追い立てに抵抗したり、フェミニズム運動に携わったりするが、幻滅し、ウェールズに転居。エコロジー運動に興味を持つなか、1980年ごろから近所のカーマーゼンで「カーマーゼン反核キャンペーン」(CANC)を立ち上げる。翌年初めまで、CANCの活動は地元議員へのロビイングが主であったらしい。そんな中、ある日目に止まったのが、女性たちによるコペンハーゲンからパリへの平和行進の記事であった。ペティットはこれに触発され、「地上の命を守る女たちの平和行進・1981」を計画する。
「地上の命を守る女たちの平和行進」は、Liddington(1989=1996)によれば、「行進の目的は、普通の女性たちを、台所の流しや、毎日の決まりきった暮らしから引き離すこと」(1989=1996: 249)であり、「フェミニズムの理論にはほとんど関心を持たず、広範囲の女性に発言させたいと考えていたが、男性を排除するつもりはなかった」という「現実主義」(250)的なものだった。ここには人気のない場所を通る行進にとっては、男性の協力が必要不可欠であったという理由もある。同時に、ペティットらは「なぜ女性なのか?」という問いに、次のように答えている。
それは母性主義と男女同権の両方の主張を重視したもので、新聞には、こう発表されている。女性の仕事の多くは人の世話と出産と子育てであり、「女性たちは、子供たちに不毛の大地と緩慢な死ではなく、未来を残すことに特別な責任を感じている」。また、学校や社会的なサービスの予算軽減は女性を苦しめるものなのに、女性たちはそうした決定に参加しておらず、「私たちの生活の支配権は特定の少数派に握られている」(Liddington 1989=1996: 251)
1981年8月27日、行進は36人の女性と4人の男性、3人の子どもたちで出発した。ペティットらは行く先でメディアに連絡を取るが、黙殺される。そこで参加者の間から、サフラジェットにならい、自らの身体をグリーナム・コモン米軍基地のフェンスに鎖で縛りつけたらどうかという提案があった。出発してから9日後、基地にたどり着いた一行のうち4人の女性がそのように決行したが、大きなニュースにはならない。そして二日の逡巡と協議ののち、女性たちはそのままグリーナム・コモンに滞在することを決め、平和キャンプが生まれた。
女性平和キャンプにおいてキーニングが最初に行われたのは、この平和行進の最後、鎖で身体を縛りつけるアクションの直後であるようである。おそらく「地上の命を守る女たちの平和行進」に参加した43人の中ではなく、現地で合流した別の女性たちのグループから起こっている。「平和行進」に最年少で参加していたジェイン・バートン(Jayne Burton)はこう回想している。
数分後黒服をまとった女性たちの小さなグループが現れて「キーン」[原文:keen]しはじめました。
彼女たちは、決して大人になることのできない子どもたちを悼んでいるのだと書いてある垂れ幕を持っていました。
これが私が初めて「キーニング」を聴いた時でしたが、彼女たちがこれは「泣き叫ぶこと」[wailing]であり「追悼すること」[lamenting]——深い悲嘆と怒りの感情を表す方法——であると教えてくれた時、何かが私の中で弾けて私も彼女たちに加わりました。それは癒しのようであり、基地が示しているものへの私の悲嘆とフラストレーションを声に出して悲しむことでした。
メリッサというアメリカ人の女性が私の隣でひざまずいていました。私の中深くからその音が響いてくるにつれて、私の耳にはブーンという音が聞こえ、きっと卒倒すると思いました——でも代わりに涙が流れただけでした。メリッサも泣いていて私たちは抱きしめ合いました。私にとって、それは行進と鎖につなげるアクションのすべての体験の完成形のようでした。実際、それは私のそれまでの人生の完成形だったのです。(Harford and Hopkins 1984: 15、注と下線は眞鍋による)
「黒服をまとった女性たちの小さなグループ」がどの場所にルーツを持ち、どのような経緯でアクションに参加したのかは判然としない。しかしここでバートンが追想しているようなキーニングは「叫び声」(wailing)であり、歌詞がついていなかったものだろうと想像できる。いわば、キーニングは女性平和キャンプのごく初期に、すでに非言語の性質を持つものとして受容されていたのだ。またそれは明確に喪に服する行為と結びついており、なおかつ核兵器によって未来を奪われる子どもたちへの追悼(広島、長崎など過去の被爆者を悼むことが主眼なのではなく)であったことはあらためて記しておく必要があるだろう。この非言語性という特質については第2章で、追悼という行動と身体が持つ意味については第3章で後述したい。
〈3節 女性平和キャンプにおける受容②: 1982年「キーニング・アクション」〉
女性平和キャンプの参加者たちの手記において、次にキーニングの記述が見られるのは翌1982年1月18日のことだ。女性たちは黒い服を着てロンドンの国会議事堂前広場に赴き、腕を組んで歩きながらキーニングを行った。「キーニング・アクション」と呼ばれるこのデモンストレーションは、年初めに初登院する議員たちに向けて行われたものであった。〈研究背景〉で述べた、わたしが目にした動画は、この時のものだったと推察できる(動画のページには1984年の映像という注釈がついているが、1984年に国会議事堂前でキーニング・アクションが行われたという記録はなく、おそらく動画の映像も1982年のものだと思われる)。参加者の手記にはこのような記述がある。
1982年1月18日、クリスマス休暇を終えた政治家たちが議会にもどってきた日、私たちは下院へ行って、哀歌を歌いました。新年の新しい議会が始まるまさにその時に、「もうたくさんよ!結構よ!」といいたかったわけ。泣きながら歌を歌うことは伝統的に女たちがやってきましたが、いまでは死者を悼う[ママ]こととされています。そして、論争したり、事実や何のためにという理由などをならべたてないでも、つまり言葉を使わないでも、どう感じたかという気持ちを表現できます。[中略]だって、ただ議会へ行って、外で横断幕を掲げるだけでは無視されるだけですが、歌を歌うと、その声は建物に響きわたります。ただ大声でスローガンを叫ぶだけだと、政治家を頑なにするだけ。政治家は何度も多くの人々のスローガンを聞いていますし、大声で叫ぶだけでは政治家の心を動かすことは決してできないでしょう。(クック・カーク1983=1984: 117-18)
この「言葉を使わないでも」という記述が表しているとおり、キーニング・アクションでもキーニングは再び言語を伴わない「呻き声」として認識・使用されているし、このことは映像の様子とも一致する。
また付記しておきたいのは、「その声は建物に響きわた」るという箇所が示す、(歌)声と、ある場所を占有するという抵抗の身ぶりの関連だ。Ripoll(2005=2011)は、近代国家と資本主義・帝国主義の発展についてマルクスを参照しながら、権力による空間の領有(イギリスにおける「囲い込み」(enclosure)運動など)こそが人々を「プロレタリアート」として資本主義的権力構造に編入させるプロセスだと解説し、またその空間の領有に異議を申し立てる抵抗の身ぶりについて触れている。言い換えれば、近代的な権力はある空間を(公共化・私有化を問わず)占有しようとする力であり、そこから人々を引き離そう、または閉じ込めようとする権力である。これをキーニング・アクションの目的に応用させれば、キーニング・アクションは国会議事堂と議事堂前広場という権力により占有された場に(歌)声で侵入するという身体的な抵抗であった、ということができよう。
このことについては第2章2節でもう少し検討するが、Delap(2020)が紹介しているキーニングのもうひとつの例も、空間の占有への異議申し立てであるということができよう。Delapによれば、女性平和キャンプの参加者たちは1984年にも、Rio Tinto Zinc炭鉱会社の年次会議においてキーニングを行っている。これは同社がオーストラリア、パナマ、ナミビアで現地のコミュニティを脅かしていることに対する抗議であった。女性たちは、役員の全員が男性で白人であるという敵意に満ちた場でも、キーニングを妨害と抵抗の道具として使用したのである(Delap 2020: 322)。同じようなことは女性平和キャンプを取材したドキュメンタリー_Carry Greenham Home_(監督: Richardson and Kidron 1983)の中でも見られる。参加者たちを排除しようとする警察官との交渉の場で、警察官の言葉に対して彼女たちはブーイングのようにキーニングを使うのである。
以上、アイルランドの伝統的なキーニングを概観した上で、グリーナム・コモン女性平和キャンプでキーニングが使用された例を見てきた。次章では、女性平和キャンプにおいて改変されたキーニングの特質、その非言語性に焦点を当て、それが何を意味しうるのか検討する。
第2章 非言語的コミュニケーションとしてのキーニング
〈1節 証言不可能性とキーニング〉
繰り返してきたとおり、女性平和キャンプにおけるキーニングの特徴を語る際、言及しなくてはならないのがその非言語性だ。第1章1節で見たように、元来アイルランド語の「詩」として歌詞がついたものであったキーニングは、アイルランド語を理解しない人々によって歌詞のついていない「呻き声」「叫び声」として認識され、女性平和キャンプの戦術としてもこの非言語的な「声」が採用されることとなった。ここには、旧宗主国の人々による旧植民地の文化への、ある種コロニアルなふるまいを見ることもできよう。イギリスのキャンプの女性たちはアイルランド語への理解がなかったために、キーニングを翻訳し損なったという批判もできるかもしれない。必ずしもキーニングに限った議論ではないが、実際にDelapは女性平和キャンプがさまざまな文化(ネイティブ・アメリカンやアボリジニなど)からイコンを借用したことについて、「白人特権を形成する窃盗」という議論もあるだろうとごく簡単に述べている(Delap 2020: 320)。
しかし、女性平和キャンプにおいて借用されたキーニングは、むしろその非言語性のゆえに社会運動内で象徴的な役割を果たしたとも言える。1982年のキーニング・アクションに参加した女性の手記からは、彼女らがどのような目的でこの非言語的コミュニケーションを利用していたかを知ることができる。
泣きながら歌を歌うことは伝統的に女たちがやってきましたが、いまでは死者を悼う[ママ]こととされています。
そして、論争したり、事実や何のためにという理由などをならべたてないでも、つまり言葉を使わないでも、どう感じたかという気持ちを表現できます。
[中略]だって、ただ議会へ行って、外で横断幕を掲げるだけでは無視されるだけですが、歌を歌うと、その声は建物に響きわたります。ただ大声でスローガンを叫ぶだけだと、政治家を頑なにするだけ。政治家は何度も多くの人々のスローガンを聞いていますし、
大声で叫ぶだけでは政治家の心を動かすことは決してできないでしょう。
(クック・カーク1983=1984: 117-18 下線部は眞鍋による。以下引用も同様)
手記からも読み取れるとおり、彼女らにとってキーニングはその非言語性によって重要であった。政治家にアピールするためには、論争やスローガンでない、キーニングのような非言語的コミュニケーション(とされるもの)を政治的に利用することが必要であると彼女たちは考えたのである。
この非言語性は、女性平和キャンプの主眼が「反核兵器」という、人類への大量殺戮に対しての抗議であったことと同一線上にあるとも言えるだろう。核戦争への恐怖は彼女たちにとっては未経験であると同時に、およそ言葉にできないほどの恐怖をもたらすものであり、一方で政治家たちが言語によって並べ立てる核の必要性は不信感をもたらすものでしかなかった。クックとカークは、「核のような問題に対処するためには、抽象的なことばを具体的なものに、非人間的なことばを人間的なことばに変えることが重要です」(1983=1984: 27)と述べる。
しかし私たちは核兵器が実際にどのような効果をもたらすかについてではなく、抽象的な"核弾頭"と言う言葉で現実をごまかされてしまいます。たとえば、政府は「二重鍵管理」とか、いかに「巡航ミサイルがソ連のSS20に対する回答」かなど、婉曲的な議論ばかりをしているので、
奇妙なことに、何百万もの人びとの死について語っているのだという現実感覚が薄れていきます。
(1983=1984: 28)
このように「死(とくに大量の死)について語る」こと、いま俎上にある社会問題は人間の生死に関わる問題であるということを今一度思い起こさせることは、非言語的な営みになりうる。時として、大きな恐怖やとまどいといった感情と体験は、言語として表象できる範疇を超え、流暢な語りから置いていかれるからである。この証言不可能性はすでに何度も文学者や哲学者によって指摘されてきた。たとえば作家の徐京植は、アウシュヴィッツのようなジェノサイドについて「理解可能性、表象可能性の限界を超えた出来事」と形容する(2014: 222)。岡真理は『記憶/物語』の中で、戦争や暴力を描き出そうとしたさまざまなテクストを取り上げながら、〈出来事〉の「表象不可能性」について指摘する(2000: 75)。徐や岡が言語の証言不可能性を指摘しているとするなら、女性平和キャンプのキーニング戦術は非言語の可能性を利用していると捉えることができるだろう。
しかし同時に、この証言不可能性の論を単純に女性平和キャンプにおけるキーニングに当てはめることには注意しなければならない。女性平和キャンプで使用されたキーニングが、第1章2節で述べたような「大人になることのできない子どもたち」を悼んでのものならば、それは徐にとってのアウシュビッツのような「過去の死者たち」ではなく「未来の死者たち」を見すえての行為であって、死者の名前を言葉として呼ぶことはそもそも不可能だ。そこには、穿った見方をすれば、広島や長崎の「過去の死者たち」を意識はしていてもかれらの名前は呼ばないという、ある意味では西洋から東洋への視線の不在があるかもしれない(このことは第3章3節で深く掘り下げる)。
とはいえ、「言葉を使わない」というこの戦術は、やや使い古された議論でもあるが、言語/非言語、中心/周縁、男性/女性といった権力関係とその転覆の試みと無関係ではないだろう。続く2節では、セルトーの「戦略/戦術」論も交えて、キーニングを非言語の「戦術」として捉え直してみたい。
〈2節 「戦術」としてのキーニング〉
宗教学者でありイエズス会司祭であったミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau)は、『日常的実践のポイエティーク』(1980=2021)のなかで、権力が用意して使用するものとしての「戦略」(stratégies)と、それに対比して被支配者がそれを押し付けられたうえで「なんとかやっていく」('faire avec'。英語の'do with' 'deal with'にあたる)という「戦術」(tactiques)の概念を紹介している。少し長いが引用してみよう。
いいかえれば、_こうした知の先行条件として権力がある_のであり、権力はたんに知の結果や属性ではないのである。権力が知を可能にし、いやおうなくその特性を規定してしまうのだ。知は権力のなかで生産されるのである。こうした戦略にたいして[中略]わたしが_戦術_とよぶのは、自分のもの〔固有のもの〕をもたないことを特徴とする、計算された行動のことである。ここからが外部と決定できるような境界づけなどまったくできないわけだから、戦術には自律の条件がそなわっていない。戦術にそなわる場所はもっぱら他者の場所だけである。したがって戦術は、自分にとって疎遠な[ルビ:エトランジェ]力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地のうえでなんとかやっていかざるをえない。戦術には、身をひき、先を見越しつつ、身構えながら、自分で依って立つということができないのである。(Certeau 1980=2021: 120-21 斜体とルビ、〔〕内注釈は引用元による)
戦術が手にいれたものは、保存がきかないのである。こうした非−場所性のおかげで融通がきくのはたしかだが、一瞬さしだされた可能性をのがさずつかむためには、時のいたずらに従わねばならない。[中略]戦術は密猟をやるのだ。意表をつくのである。ここぞと思えばまたあちらという具合にやっていく。戦術とは奇略である。(121-22)
ここでセルトーが言う戦術をキーニングに応用するには、まず戦略/戦術と相似形をなす、言語/非言語もしくは中心/周縁の言語、そしてジェンダーの権力関係について確認しておかなければならないだろう。田中克彦は『ことばと国家』(1981)のなかで、欧州におけるラテン語と日本における漢文を例に出しながら、言語のもつ権力性とジェンダーについてこう述べている。
人口の半分以上を占める女と子供は、読み書きと政治の世界からはじめから閉め出されていたために、かれらは生れながらに自然に話していたことば、すなわち母語以外のことばを知るはずはなかったのである。
日本にシナ[ママ]古典語、すなわち漢文が入ってきたときも同じ状況が生じた。ごく一部の、外国語(シナ語)をよくするエリート官僚、文化官僚のほかは、いっさいの文字を知らず、ただただヤマトのことばを話していたのである。[中略]民族の言語を、それとは知らずに執拗に維持し滅亡からまもっているのは、学問のあるさかしらな文筆の人ではなくて、無学な女と子供なのであった。(田中1981: 33)
田中が説明するように、ラテン語や漢文といった権力の中枢にアクセスするための言語や、いわゆる(「母語」との対をなす)「国語」「父のことば」*16は、男性によって占有されてきた。そして教育のある女性がそれらを使用することは、男性の領域を侵犯することであり、知識や教養の「盗み」だと捉えられてきた(トリン1989=1995: 30)。このように考えたとき、元来アイルランド語で歌われていたはずのキーニングが言語を伴わないものとして呻吟されるようになったことは、既成の権力関係を利用した、女性たちによるひとつの抵抗でもありえたということができるかもしれない。すなわち、伝統的には英語/アイルランド語という権力関係のもとにあり従属的な立場であったキーニングを、イギリスの女性たちは言語/非言語という相似の権力関係において再び従属的な立場として翻訳し、かつ、さらに重要なことには、非言語の言語に対する優位性を主張したのである。たしかに女性平和キャンプの参加者たちは、アイルランド語を解さないゆえにキーニングを脱言語化してしまったが、それは言語/非言語、そして男性/女性という枠組みの平等ではない関係において、ひとつの転覆と抵抗の身ぶりという役割を果たしえたのではないか。
しかし同時に、イギリスの女性平和キャンプがキーニングを「戦術」として利用したことはひとつの「流用」であったとも言えるし、ポストコロニアルな視点で見れば、それは支配者による被支配者の文化の簒奪であると指摘することもできよう。その背景には「被支配者の言語であるから、意味などわからなくても問題ない」という意識があったかもしれない。
このような議論を経た今、キャンプ参加者によるキーニングは、まさにセルトーの呼ぶ「戦術」だと言うことができる。それは権力の予想しうるような、たとえばスローガンやシュプレヒコールを連呼するといった方法でなく、国会議事堂前広場という、セルトーの言葉を借りれば「自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地」において権力を侵犯し、「なんとかやっていく」「奇略」なのだ。第1章3節で紹介した、1984年のRio Tinto Zinc炭鉱会社の年次会議でのキーニングについても同じことが言えるだろう。彼女たちによる戦術の使用は、Ripollの言う「空間の占有への異議申し立て」と言いかえることもできる。権力によって行使される戦略、その空間の占有への異議申し立て。それは必ずしも体系化された言語や言説である必要はない。なによりそれらは「語られてはならない」(Certeau 1980=2021: 432)ものの存在を示してしまう声(noise)なのである。
そしてそれは、基地のフェンスに毛糸を結びつける、動物の着ぐるみを着て基地内に侵入しダンスを踊るといった、キャンプの参加者の他の戦術にも通じる。「基地を抱きしめよう」といって人間の鎖を形成したり、フェンスを毛糸で編み込んだりすることは、キーニングと同じく非言語的な営みであり、一見なんの政治性もない無力なこと、またはふざけたことのように見えるかもしれない。しかしそうした「ふざけた」行為こそ、基地や国会議事堂といった権力の示威的な存在を嘲笑し、転覆を試みることにもつながるのだ。
しかしそれでもなお、キャンプ参加者の他の戦術と比べて、キーニングの特殊性はある。キーニングは非言語でありながら、やはり沈黙を乱すノイズである。毛糸や人間の鎖は無視することができるが、キーニングは耳を完全に塞いでしまわない限り、他者の世界にもたやすく闖入し、平和を撹乱する。それは生者の世界においては本来聞こえてはならないはずの、死者の存在を生者に痛烈に記憶させるノイズなのだ。『日常的実践のポイエティーク』の中の「名づけえぬもの」のなかで、セルトーは病院に収容されている瀕死の病人を例にしながら、次のように述べる。
瀕死の病人があると、病院のスタッフたちは、患者を病室に置きざりにしたまま、ひきこもってしまう。「医師と看護師の逃避症候群」だ。そうして自分たちはひきさがりながら、患者を病室に留置しておくのだが、その時の言葉づかいそのものが早くも生者を死者にしている。「休息_が必要ですから……。_眠らせて_おきましょう。」瀕死の者は_静かにして、安らかに_横たわっていなければ_ならない_のだ。こうして瀕死の病人がひとり病室に置きざりにされるという事態は、手当がどうだとか安静がどうだとかいう問題を超えて、周囲の者たちが、臨終の苦しみや絶望や苦悩の発話行為を耐え忍べない_ということを示している。それは、_語られては_ならないのだ。[中略]もし仮に[眞鍋注:「わたしは死んでゆく」という]禁じられたことば[ルビ:パロール]が発せられるようなことでもあれば、病院あげての闘いが裏切られてしまうだろう。(1980=2021: 432-33 傍点とルビは引用元による)
この、「臨終の苦しみや絶望や苦悩の発話行為を耐え忍べない」生者の世界において、いわば禁句となっている「死」を語ることにこそ、キーニングの特殊性がある。追悼することがいかに政治的でありうるかは第3章に記述するが、死を否応なく意識させる点ではキーニングは毛糸をフェンスに編み込んだり人間の鎖を形成したりする他の行動とは大きく違っていた、と言うことができるだろう。*17
〈3節 核兵器への不安を具現化する〉
第3章に移る前に、本章1節と関連して、グリーナム・コモン女性平和キャンプに参加した女性たちがキャンプへ参加する動機の一因となった「核兵器の悪夢と不安」について述べておきたい。この不安こそが女性たちを「地上の命を守る女たちの平和行進」や平和キャンプ参加に駆り立てたことは、クック・カークも紹介している。そしてそのような不安は個人レベルのものではなく、特に子供を持つ女性たちに広く共通しており、またその共通を女性たちが「自分ひとりだけではなかった」と自覚することがキャンプの活動へとつながった。キャンプが設置される以前の1980年の出来事について、クックはこう述べている。
核兵器の脅威と核戦争が起きるかもしれないという思いが、私(著者のアリス)を何年もおびやかし苦しめてきました。このことについて語りあおうとしましたが、多くの男たちは悪い夢だとばかり笑いとばし、最後はそれについて男たちと話すのはむだだと思いしらされました。けれども、女たちなら私と同じように感じているはずだと思い、英国の有名な月刊女性情報誌『スペア・リブ』に広告をのせ、核戦争の夢をみた女の人は連絡がほしいと書いてみました。その広告をのせた80年の夏、核戦争の悪夢を綴った女たちの手紙を次から次へと受け取りました。[中略]私は、核の不安が広がっていることが、人びとの生活に及びもつかぬ影響を与えている、と強く感じました。こうした不安は夢に現れたり、考え方や人生設計をおびやかし、そして絶望やペシミズムさえもはるかにしのぐものになっているのです。(クック・カーク1983=1984: 22)
核ホロコースト(核による全滅)の悪夢をくりかえしみた人が、一体何人いるかわかりませんが、それを意識的にとらえ返せば、積極的な行動へと変わるすごいエネルギーを秘めている感情の現れ、といえないでしょうか。私に寄せられた手紙に共通してみられる特徴は、どの女たちも、同じように恐怖を感じている女たちがいるとは夢にも思わず、孤独な恐怖にうちひしがれていることでした。(24)
クック・カークは他にも、核兵器の存在により不安を感じたり悪夢を見たりした女性たちの手記を数多く引用しているが、それらはしばしば男性たちによって「笑いとば」され、結果女性たちは「孤独な恐怖にうちひしがれている」。そこには、彼女たちの不安を「女性特有のヒステリー」「異常」と捉える女性差別的な視線もあった。また、保守的な政治家たちによる、「見当違いな不安は払拭すべき」といった発言もそれらの視線を後押ししていた(39-40)。
このような構図は、たとえば福島第一原子力発電所の事故とそれに付随する放射能汚染について、多くの母親を含むひとびとが感じた不安と、その不安への向き合い方について、精神科医の岩井圭司が述べていることと相似形をなすように思われる(岩井 2018)。岩井は、不安には「原因」があったとしても、不安とはそもそも合理的な根拠を欠いているものであるので、合理的な反証を示したところで解消されるものではないとした上で、政府や科学者による「原発事故被災者の不安の払しょく」を目指すという言説は、むしろ当事者のレジリエンスを損なう結果になっているのではないかと指摘する。
もとより不安には根拠が乏しい。そうであるにもかかわらず、「その不安には根拠がない」と言われた不安な被災者は、不安を口にすることを禁じられたように感じ、次第に言葉を失っていく。こうして"サバルタン"が生まれる。げに、"不安バッシング”は、不安に駆られた人のレジリエンスを損なうのである。(岩井2018: 173)
グリーナム・コモン女性平和キャンプの参加者たちは、不安を口にすることを笑い飛ばされはしたが、雑誌の広告と手紙というメディアによって不安の共通性を見出し、「積極的な行動」(クック・カーク 1983=1984: 24)へと進むことができた。彼女たちは岩井、そして岩井が引用したスピヴァクの言葉を借りれば、「サバルタン」になりえたかもしれないが、サバルタンに止まることはなかったのである。そのために必要だったのは、メディアを基盤にした(「女性」という)コミュニティの存在であり、またサフラジェットをはじめとしたフェミニズム運動や、CNDの平和運動といった社会運動の土壌であったのだろう。
このことを踏まえてキーニングの非言語性を捉え直すと、それは「不安」の具現化であったと言えるかもしれない。それは言語的・論理的に説明できるものではなく、心の揺れであり、感情である。イギリスの女性たちが感じた不安、そして見た悪夢をそのままに表現するひとつの方法として、非言語化されたキーニングは適していたのかもしれない。
第3章 追悼という政治的行為
〈1節 追悼の政治性と「亡霊」の「現実化」〉
死者を追悼するという行為は、果たして政治的になりうるのだろうか。わたし自身の話をすれば、追悼ないし葬儀といった場面をわたしは、現在まできわめて個人的なものとして認識していた。友人や血縁者を失うということは、わたし自身に深い喪失感を与えるものではあったし、それらを友人関係や親族のなかで共有してケアしあうということはあったものの、それ以外のコミュニティに広く喧伝して共に追悼の感情を持つという実感はなかった。
しかし、わたし個人が死に社会性を感じることがなかったとはいえ、葬儀はそもそも死を社会化するプロセスである。日本の場合だけを見ても、死の後に最初に行われる「通夜」は、肉親や親族などの内輪でその名の通り夜通し遺体を見守ることであり、今日から明日、生者から死者へと境界を超える(超えさせる)という象徴的な意味があった。通夜以前には、まだ遺体が息を吹き返す可能性もあるとされたのである(これはアイルランドでも類似の意味があったようだ)*18。その後の「告別式」で死者は、知人や近隣住民などより広い関係とコミュニティの列席の中、かれらに「別れを告げ」、野辺送り、または火葬場へと向かう。これは日常空間である家を出発し、墓地というあの世の領域へ向かう過程でその死者の死を周囲に知らせる、「死の社会化」という意味がある。星野哲(2016)は、日本の葬送儀礼を例に取り、いわゆる「村八分」にされたひとびとでも葬儀は共同体全体で行われたことを紹介しながら、「野辺送りや埋蔵・埋葬などが共同体の大切な役割であった」と述べる(2016: 17-18)。
同じく、死とそれに付随する悲しみ、喪失感、そして行為としての追悼は個人的な範疇を超えて、充分すぎるほどに政治的になりうる。古代ギリシアのソフォクレスの戯曲『アンティゴネー』では、主人公の王女アンティゴネーは反逆者として処刑された兄の埋葬を行ったがために、叔父である王クレオーンに処罰される。
『アンティゴネー』の物語を引用しつつ、後述するような2001年9月11日以降のアメリカ合衆国の状況を念頭に置いて、ジュディス・バトラー(Judith Butler)は「可傷性」(「傷つきやすさ」、vulnerability)と死にまつわる議論を展開した(2004=2007)。「人が人間であるかぎり捨て去ることのできない、他者に対する原初的な傷つきやすさ」(「可傷性」)を前提とし、それにもかかわらず「ある種の悲しみが国家を挙げて承認され増幅される一方で、他の喪失は考えられることも悲しまれることもないのはなぜなのだろうか?」(2004=2007: 8)「いったい生きるに値する生と悲しみに値する死は、どのようにして決まるのだろうか?」(8-9)と問うたのである。「国家を挙げて承認され増幅される」「ある種の悲しみ」とは、先述した表現を再度使えば「死の社会化」の次の段階、その社会化された死にさらなる象徴的な意味を与え、次なる社会化を目論むということだ。そしてその「次なる社会化」には、バトラーが問いかけるように、何らかの恣意的な力が働いている。
最近のグローバルな暴力に照らして私に取りついて離れない問いがある。誰が人間としてみなされているのか?誰の生が〈生〉と見なされているのか?そして究極的には、何が生をして悲しまれるに値するものとなるのか?私たちはそれぞれ場所も歴史も異なるが——それでも「私たち」という言い方をしてかまわないのではないかと思うのだが——、それは私たちのすべてがだれかを失うことがどういうことか、なんらかの認識を持っているからだ。失うことで私たち皆はかろうじて「私たち」となる。[中略]このことが意味するのは、私たちのそれぞれが、自分の身体の社会的可傷性のために、ある面では政治的な存在でありうるということだ。(2004=2007: 48-49)
バトラーによれば、死は、わたしたちそれぞれが共通して持っている「可傷性」のゆえに、政治的になりうるし、わたしたち自身も政治的な存在になりうる。繰り返しになるが、バトラーが執筆時に念頭に置いていたのは、2001年9月11日の同時多発テロ以降のアメリカにおける一連の出来事だった。アメリカの国家とメディアは同時多発テロの犠牲者、イラク戦争に従軍したアメリカ軍の兵士、アメリカのジャーナリストの死を追悼しながら、一方で「アメリカ合州国[ママ]が起こした戦争の犠牲者の死を悼む記事はない」(2004=2007: 72)。「[眞鍋注:アメリカ人ジャーナリストの死を悼む]死亡広告は悲しみの可能性をおおやけに流通させる手段として機能しているのだ。[中略]そのような手段によって、ある特定の生が、おおやけに悲しむことのできる生として国民が自己を承認するための象徴となり、他の生がそうなることができない、という差別が生み出される」(72)とバトラーは言う。そしてその「差別」こそ、イラク、アフガニスタン、アメリカの同盟国であるイスラエル軍の作戦の犠牲になったパレスチナの人々の「生の非人間化」(74)、言い換えれば「次なる社会化」がされない死なのである。
またバトラーは、「私が言っているのは、人間とは見なされない人間、すなわち人間の範疇から誰かが除外されることによって限定されている人間概念のことだけではない。すでにある存在観念のなかに除外されている者たちを入れればよいという問題ではなくて、その存在論そのもののレヴェルで反抗を試みること、そこでさまざまな問いを立てることが重要なのだ」(70)とも言う。それは「現実とは何か?誰の生が現実か?[中略]いま現実とされていない者たちは、ある意味ですでに非現実化の暴力をこうむっている。それなら、暴力と『非現実的』と見なされる生との関係はどうなっているのか?暴力がそのような非現実をもたらすのか?そうした非現実性のもとで、暴力というものは生ずるのか?」(70)といった問いの立て方である。そしてバトラーは、これらの「非現実化」された生は、「永久に亡霊の状態でいる」(71)とする。「テロに対する戦争」は、このような「亡霊」としての敵の存在によって正当化されることになるのだ。
このような「非現実化」された「亡霊」を、逆方向に巻き戻して「現実化」する過程とは、どのようなものなのだろうか。次節では、イギリスにとどまらない追悼する母親たちによる社会運動を事例として、ジェンダー、フェミニズムの視点から捉え直してみたい。
〈2節 追悼する母たち——日本と海外の事例から〉
追悼の政治性は、女性というジェンダーと無縁ではない。バトラー(2004=2007)とドゥルシラ・コーネル(2003)を引用しつつ、松浦由美子は「追悼する『母』たち——胎児とフェミニズムの行方」(2007)でこう述べる。
追悼をめぐるこの権力の問題は、フェミニズムの政治と深く関わっている。女性的なるものは国家の建設とその維持のために常に意味づけられ、名付けられ、形象を与えられてきたのであり、女性たちは、死者の追悼という一見非政治的な行為を通じて、その形象と同一化してきたのだ。(松浦2007: 72-73)
善き女性は、正しい対象を哀悼するがゆえにこそ、善き国民を悪しき敵に対して闘わせる〈わたしたち/かれら〉の分割を再強化するのだ。そのために、哀悼という行為そのものと、それが女性という想像された形姿にいかにして結びつけられているかは、政治的に重要なこととなる。だからこそ、他者——「敵」——を公的に哀悼することは、まさに、恐ろしいナショナリスト的な攻撃の名の下に行われている女性の心的ファンタジーの配置にとっての転覆要因となりうるのだ。(コーネル2003: 136)
暴力の対象としての「敵」または「亡霊」の存在をまずは「現実化」し、そしてさらに、それを存在する/した人間の生として追悼することは、ぼんやりとした敵の像を扇動して暴力を正当化することそのものへの抵抗となる。それは、国家による「善き女性」の表象、ナショナリスティックなジェンダー観への抵抗と無関係ではない。引用でコーネルが想定していたのは、バトラーと同じく同時多発テロ以降のアメリカだが、第1章で触れた独立運動下のアイルランドにおける「キーニング・ウーマン」の表象を思い出そう。それまで「非文明的」とされていたキーニングをするアイルランドの母たちは、独立運動に身を投じて死亡した息子たちを哀悼することで、ナショナリズム・愛国心のイコンとして顕彰されたのだった。二元論的なジェンダー観においては実戦に向かうことのない「銃後」である女性たちは、息子である兵士たちを追悼する役割を国家によって担わされたのである。
しかし同時に、追悼という行為は、それが大きく感情に訴えかける行為であるがゆえに、たとえ自国の兵士を哀悼する行為であっても、ナショナリズムにとっては諸刃の剣となってきた。追悼は反戦の気運に繋がるからである。川口恵美子は、日本の「戦争未亡人」をテーマに調査を行い、「夫に『名誉の戦死』をされた戦時中の未亡人は、夫の戦死公報を受け取っても悲しみに泣き暮れることは許されなかった。『皇国の妻』には、出征する兵士の後顧の憂い断ち、ひいては国民に厭戦気分を起こさせないように重要な役割が課せられていた」(川口 1996: 44)と述べる。
だからこそ、ナショナリズムにとって追悼という行為は、あくまで目の行き届く装置の一部分でなければならない。いわば追悼の対象と強度、そして作り上げた装置をコントロールすることで、はじめて国家による死の「次なる社会化」が可能となるのだ。その装置の象徴が、帝国日本における靖国神社であろう。
そして日本の場合、母たちは巧妙にその装置に組み込まれてしまった。旧日本軍の従軍「慰安婦」問題など、戦争と女性について関心を寄せ続けてきたフェミニスト・アーティストの嶋田美子は、母親という切り口で社会運動をまなざすとき、日本の場合にまずイメージされるのは「靖国の母」と「キャラメルママ」であると語った。嶋田によれば、彼女たちは「どっちも息子を想うようでいて、実際には息子を通して獲得される『権威』(東大、天皇制)に近づく方便」(2021)*19なのである。別の投稿で、嶋田は「靖国の母」についてこのようにも語る。
一昨日東大授業*20でインドネシアの生徒が、東南アジアやラテンアメリカ、シリアにおける「子供をなくした母たちの体を張った抵抗運動」を含む女性の身体的抵抗の歴史のプレゼンをしました。その時思ったのは「靖国の母」、そして「辺野古で抵抗する沖縄戦経験者の女性たち」でした。日本の母親たちは、戦後の「母親平和運動」——かなり欺瞞的な——はあったにしろ、「記憶し、泣き叫ぶ抵抗の身体」を靖国に、国家に奪われてしまった(または委ねてしまった)のではないかと思います。「岸壁の母」「靖国の母」は息子の死を悼むにせよ、その死が国家によって「祀られる」ことによって安寧を得、一人の母として、女として、自分の子がなぜ死なねばならなかったのかと追及するのをやめ、一人の人間として考え抜くのをやめ、国家の一員として「安全」に暮らせることに自分の子供の死の意味があったと自らを納得させてしまっています。それに対して辺野古で抵抗する女性たち(死んでいったものたちの母たち)は「自分の子供を死なせたもの」に対して自らの身体をかけた抵抗を続けています。*21
インドネシアからの留学生が紹介したという、東南アジアやラテンアメリカ、シリアにおける「子供をなくした母たちの体を張った抵抗運動」や、嶋田の例示する辺野古の母たちがそうであるように、その枠を超越する追悼は「亡霊」を「現実化」する力となり、抵抗の身ぶりとなる。言い換えれば「記憶し、泣き叫ぶ抵抗の身体」がそれほどまでに力強いからこそ、権力はそれを支配し簒奪しようとするのだ。日本の「靖国の母」「岸壁の母」はその簒奪の成功例といえよう。
日本の例と対照的な、母親たちによる「亡霊」の「現実化」の他の例を挙げよう。林みどり(2009)は、1970年代独裁政治下のアルゼンチンで生み出された1万人から3万人とも言われる「強制失踪者」と、かれらの母親が主体になって結成された「五月広場の母たち」という軍政を弾劾する運動について述べている。「五月広場の母たち」は、14人の母親たちが1977年4月に「白いスカーフをトレードマークにし、拡大した家族の写真でラッピングした身体で、アルゼンチンの最も中心的でフォーマルな場所に出現し、国家的モニュメントを包囲」(86)したことが始まりである。そしてかれらは「民政移管後の86年には、人権侵害の加害者に対する恩赦法が出されたことに抗議して、不気味な真白い仮面をかぶって行列した」(86)。林はこう続ける。
強制的に失踪させられ行方を知らされず、埋葬することも弔うことも許されないままにおかれている不在の存在を、また彼ら/彼女らを不在へと追いやっておきながら、恩赦法の傘の下に匿名の一市民としてのうのうと暮らしている加害者を、それら数千、数万の影法師や仮面によって現前させ、もって街路を占拠したのである。都市を数多のコロス[眞鍋注:古代ギリシアの合唱歌、また合唱隊]が行き交う劇場に変えたのだ。(林2009: 86)
「五月広場の母たち」運動は強制失踪させられたひとりひとりの存在を思い起こさせると同時に、「ドメスティックな要求を公共の場にもたらす」(林2009: 85)という点で、第1章で述べたRipollの「空間の占有への異議申し立て」でもあり、国会議事堂前広場でのキーニング・アクションを想起させる。言い換えれば、キーニング・アクションもまた「都市を数多のコロスが行き交う劇場」に変えてしまう過程であったとも言えよう。
「五月広場の母たち」の行動原理は、アルゼンチン国内だけで共有されていたわけではない。1994年にはかれらは韓国に招聘され、韓国民主化運動の中で殺害されたり、政治的意図を持って自死したりしたひとびとの遺族団体(「全国民主化運動遺家族協議会」、1986年に発足)と交流している(真鍋1997: 256)*22。「全国民主化運動遺家族協議会」(略称「遺家協」)は、民主化及び民衆の生存権保障と、「民主の祭壇の犠牲となった」「冤魂を慰撫」することを目的とした団体である(真鍋1997: 254)。真鍋祐子は引用元の中で、1980年6月に焼身自死を遂げた金鍾泰の母親・許斗測(調査当時61歳)にインタビューしている。当時22歳だった金鍾泰は、1980年5月の光州事件の真相をソウルの市民に伝えようと、「糾弾のビラを撒いて梨花女子大前のロータリーで焼身自殺を遂げた」(263)のであった。許斗測はこのように語る。
「私たちが[真鍋祐子注:遺家協で]話し合ってみると、全員がそうなの。私自身も年齢からして既成世代、何もわからず、独裁者からやれといわれた通りに、その通りに鵜呑みにしながら生きて来たものだから、それが根を下ろしてしまって、つまり我々の子供たちの世代、その世代にまでつながってきたんじゃないか?だから子供たちは死ななきゃならなかったんだ、と。本当に罪悪感を感じて、私なんかの場合、そんな話をしょっちゅうしたもんだった。この既成世代が誤ってたばかりに、本当に花のような、立派な、惜しい子たちを死なせてしまった。皆……本当に後悔を……あまりに大きな罪を犯したって。……我が子を失くして世の中に出てみると、この若者たちはあまりに立派すぎて。この世の中をよく変えようと、命はたった一つなのに、それを捨てて、自分から死んでいって……この子たちに恥ずかしくて、そういった意味で、若い人たちがデモをするときに、私たちが出て行って、先頭に立って、催涙弾を撃つな!この子たちは、誇らしくて立派な若者だ。殺すんならまず我々から殺せ!『徹天之怨讐』(=不倶戴天の敵)よ、罪人である我々からまず殺しなさい!私たち母親はこう叫んで闘って……腹を痛めて生んだ我が子はすでに死んでしまったけれど、すくすくと育ってるこの若者たちが、まるで自分の本当の子供みたいで」。「他人の子だなんて気は、ひとつもしない。志を知れば、どれほどに誇らしい子供たちか。この子たちを見ていると、どうしてこんなにも可愛いのかしら?」(真鍋1997: 275-76)
許斗測の言葉は、子供という存在を通じて運動に参加することになった母親たちの告白、吐露として、わたしたちの胸に迫る。それはとてもまとめ得る感情ではないかもしれないが、印象的なのは彼女の子供世代への責任と罪の意識、そしてもはや自分の子だけに向けられているのではない愛情と情熱だ。それは「息子を通して獲得される『権威』(東大、天皇制)に近づく方便」(嶋田 2021)」であった「靖国の母」とははっきりと一線を画すものであろう。
最後に取り上げたいのは香港の例だ。2019年に提出された、容疑者の身柄を中国本土等に引き渡すことができるという逃亡犯条例改正案に反対して、多くの市民が抗議に参加した。6月には6万人の母親たちが黒い服を着て、「私たちの子供を撃つな」などと書かれたプラカードを手に抗議した*23。
アルゼンチン、韓国、香港、そして「東南アジアやラテンアメリカ、シリア」(嶋田美子 2019)の母親たちによる運動は、イギリスの女性平和キャンプに参加した母親たちとも共振して、社会運動のひとつの象徴的な側面を明らかにしているように思われる。女性平和キャンプの参加者たちによるキーニングは、政治家たちによって「見当違いな不安」として一掃されてしまう、未来の核兵器使用による死者の存在を「現実化」し、追悼する。いわば名のない「亡霊」たちの存在を思い起こさせようとしたのだ。そしてその際によすがとなったのは、バトラーの言葉を借りれば、わたしたちの「可傷性」である*24。
同時に、こうして世界中の母親たちの社会運動を見ていくと、日本の特殊性も浮かび上がってくるようだ。なぜ嶋田美子が指摘するように、日本の場合は「靖国の母」「キャラメルママ」が代表的な存在としてイメージされるのか。その点については今回詳細に論じることはできないが、以降の関心としたい。
一方、「五月広場の母たち」などの運動と女性平和キャンプのキーニング・アクションが全く同じ構図であると言い切ることもできない。アルゼンチンや韓国の母親の運動が記憶しようとするのはあくまで現実に存在している(またはしていた)彼女たちの子供たちであり、キーニングが捧げられているのは未来の、未だ存在していない死者たちだ。次節ではその違いを、記憶と「死者の名前を呼ぶ」ことを切り口に考えてみたい。
〈3節 記憶と「死者の名前を呼ぶ」こと〉
女性平和キャンプの参加者たちによるキーニングが、その非言語性という特性のゆえに、言語のもつ表象の限界(証言不可能性)を超えて作用しえたことは、第2章で述べた。そしてまた、核の使用によって殺害される死者を追悼することが核兵器使用への政治的な抵抗の身ぶりになることも、本章1節で述べた。
しかしキーニングにまつわる証言不可能性についての議論と、追悼と政治性についての議論をここで終えてしまうのは、いささか早計と言えるだろう。加えて本稿はまだ、女性平和キャンプにおけるキーニングの特殊性のひとつである未来に向けられた時間軸の問題——それは元来、「決して大人になることのできない子供たち」(Harford and Hopkins 1984: 15)を追悼する目的であったということ——を充分に検討していない。そしてそれは、ある記憶をいかにして他者と分有するかということ、未来に起こるかもしれない出来事をいかにして現在と同一線上のものとして想像し、行動するかという問題と不可分ではない。
そもそも、証言不可能性という、限りなく堅固に思われる事象を前にして、わたしたちは語ることを諦めざるを得ないのだろうか。それはいわば証言不可能性に甘んじて、出来事の分有を放棄していることにはならないのだろうか。カロリン・エムケは、『なぜならそれは言葉にできるから——証言することと正義について』(2013=2019)の中で、暴力の経験を「描写できないもの」「語り得ぬもの」として片付けてしまうことについて、こう反駁している。
本書では、語ることの障壁を突き止める一方で、まさにその障壁を——他者と力を合わせることで——克服可能なものだと主張したい。[中略]この二重性は、現代社会において当然のように信じられているふたつのテーゼへの疑念を表明するものだ。第一に、目撃者がプロであれ素人であれ、目撃証言をすることは簡単だというテーゼ。[中略]そして第二に、上記のテーゼの対極にあるともいえる、「描写できないもの」「語り得ぬもの」があるというテーゼ。すなわち、ある種の犯罪、ある種の経験は、語ることが不可能であり、語ってはならないという姿勢だ。この「語り得ぬもの」というテーゼには常に一種の解釈学上の怠惰があるように思われ、それが私を苛立たせる。だがそれを別にしても、このテーゼにおいて私をなにより戦慄させるのは、それが不正と暴力を不可避的に神聖化するという点だ。「描写できないもの」は、見通すこともできないままだ。どれほど不完全で断片的であろうと、体験を言葉にすることが許されないならば、そして、言葉にとらえる試みもなされないならば、被害者は永遠に自身の体験を抱えて孤独なままだ。(2013=2019: 17-18)
「語り得ぬもの」があるという姿勢を無条件に受け入れてはならないのは、エムケの言うようにそれが「不正と暴力」の「神聖化」につながるからでもあるが、同時に、「死者の希望を消さないため」(高橋1996: 29)でもある。高橋哲哉はこう述べる。
死者に代わっての証言は、この意味ではつねに「不可能な証言」なのです。「証言不可能なものの証言」なのです。しかも、死者のためにこそ証言は最も必要とされるのです。死者に代わって証言すること、記憶を伝えること、記憶を受け取ることは、厳密に言えばつねに不可能ですが、それでも放棄できません。なぜでしょうか?それは死者の希望を消さないためだと思います。死者の希望を世界に存在させ、それにチャンスを与えるためだと思います。死者の希望とは何でしょう?「苦しみ」と「不正」の証言を求める死者の希望とは、おそらく、まずは殺人者の法的・政治的・倫理的責任を問うこと、そしてその証言と記憶を、人間が人間に及ぼす「苦しみ」と「不正」を批判し克服していく出発点にすることではないでしょうか?人間が人間に及ぼす暴力を批判し克服していく出発点にすることではないでしょうか?(1996: 29)
証言不可能性の議論について、エムケや高橋と立場を同じくする岡真理(2000)もまた、「表象不可能性」についてそれを認めながらも、なお試みられなければならない表象について、こう語っている。
しかし、それでもなお——あるいは、そうであるからこそ——語りえない〈出来事〉は、語られなければならない。〈出来事〉の記憶が他者と分有されるために。そして、そのためには、〈出来事〉の記憶は、他者によって語られねばならない。自らは語り得ない、その者たちに代わって。(2000: 76)
だが、それは、語り得ない者たちに代わって、その〈出来事〉をいかようにも表象してよい、ということでは断じて、ない。言葉では語り得ないはずのその〈出来事〉について語ろうとする私たちが、「語りうる者」として振る舞うとしたら、その瞬間に私たちは〈出来事〉を裏切ることになるだろう。表象不可能な〈出来事〉を表象すること、語り得ない〈出来事〉について語ること、それは何よりもまず、〈出来事〉のその語り得なさこそを証すものではなくてはならないのではないか。だが、そのような語りとは、いかにしたら可能だろうか。(2000: 77)
「だが、そのような語りとは、いかにしたら可能だろうか」——岡たちが提示するこの問いは、追悼するという行為、そしてグリーナム・コモン女性平和キャンプをはじめとした社会運動全般の存続のうえで、最重要の問いと言ってもいいかもしれない。
しかし同時に、女性平和キャンプの特殊性も存在する。女性平和キャンプは反核兵器運動であったが、広島や長崎の被爆者、つまり〈出来事〉の当事者が主体の運動ではなかった。確かにキャンプの参加者が広島の大会に参加したり、日本人の女性がキャンプを訪れたりと、人的交流はあった(グリーナムの女たち1992: 32)。しかしあくまで女性平和キャンプの視点、少なくともキーニングという戦術に関して言えば、その視点は未来に向けられていたのであり、直接的に過去を記憶することではなかった。
また、このような疑問も浮上する。高橋によれば、「『苦しみ』と『不正』の証言を求める死者の希望とは、おそらく、まずは殺人者の法的・政治的・倫理的責任を問うこと」から始まる(1996: 29)。その殺人者——女性平和キャンプが目指すものの場合は、おそらく、原子爆弾を投下する決定を下したアメリカ合衆国と連合国——を、連合国の一部であったイギリスに暮らす女性たちは、どの程度意識していたのだろうか。
岡が問いかける「そのような語り」の可能性のひとつには、犠牲者などの〈出来事〉の主体の「名前を呼ぶ」ことが挙げられるだろう。バトラーの言う「亡霊」の「現実化」、それはかれらを人間として記憶するプロセスだ。そして、そのような記憶の過程においてよすがとなりうるものが、犠牲者の名前である。死者の名前を呼ぶことは、かれらの存在を証言し、追悼することにつながる。そしてそれは、既にみたように、極めて政治的なふるまいになりうるのだ*25。
たとえば、2022年の沖縄では、「平和の礎」に記されている名前を10日ほどかけて全て読み上げる集いが計画された。「平和の礎」には、沖縄戦などで亡くなったひとびと24万1632人の名前が刻まれている。この集いは、その前年に計画された、シベリア抑留の犠牲者の名前を46時間半かけて読み上げるプロジェクトから着想を得たものだという*26。また真鍋祐子(2021)は、2014年のセウォル号惨事追悼のイコンとして、SNSで拡散された画像を紹介している(図5)。「『名前を呼びます』というタイトルの下にある、中央にセウォル号惨事を象徴する黄色いリボンが描かれた正方形は、亡くなった高校生たちひとりひとりの名前で構成されている。その下には『決して忘れない、その日・・・ひとりひとりの名前を呼びます』と書かれている」(真鍋2021: 102)。
(図5:セウォル号惨事の犠牲者を追悼する目的の画像)
記憶と「死者の名前を呼ぶ」ことについて、真鍋は、作家・姜信子を引用してこう述べる。
この世に祝福を受けて生まれ落ち、祈りとともに名を与えられたはずの者たちが、その名も身もチリヂリバラバラにされて名無し身無しになって魂だけがさまよっている。その魂の声を聴いてしまったからには、せめて彼らの名無しの生の記憶を拾い集め、語りつぎ歌いついでいかねばならないのではないか。(姜2015: 128)
それは出来事の名称や死者数でひとくくりされる没個性的な事項としてではなく、まずひとりひとりの「名無し」の名前を取り戻し、「身無し」となった死のいきさつに光を当て、そして「なぜ?」を問いつづけることである。「せめて彼ら名無しの生の記憶を拾い集め、語りつぎ歌いついで」いくことは、「表象不可能な記憶」を記憶することであり、それは名もなき死者たちの「名誉回復」をかけたささやかな抵抗の意志にほかならない。(真鍋2021: 97-98)
「名無し」「身無し」になった「魂」とは、1節で述べた「次なる社会化」のなされない死、「考えられることも悲しまれることもない」(バトラー 2004=2007: 8)喪失であり、まさにバトラーの表現する「亡霊」の状態と言い換えることもできるだろう。このように「魂」「亡霊」を「現実化」させること、かれらの名前を呼ぶことによってかれらの存在自体を思い起こし、かれらの声に耳を傾けること、そのように運動を展開するとき、真鍋の表現を借りれば、社会運動はもはや今生きている「私」を主語にするものではなく、「死者」を主体とするものになる。真鍋は、1948年の大韓民国政府樹立前後のイデオロギー内戦に始まり、1980年の光州事件、近年ではセウォル号惨事の遺族運動に至る、韓国現代史を貫く「グリーフ・ワーク共同体」「記憶と哀悼の様式」(2021: 102)についてこう概説する。
活動家たちの運動の主語は「私」ではなく「死者」である。権力の不義と暴力に憤り、異議を申し立てるのは「私」ではなく、それによって命を踏み躙られたひとりひとりの「死者」なのである。[中略]歴史の闇に葬られたさまざまな出来事を掘り起こしては、ひとりひとり死者たちの名を突き止め、記録し、哀悼する営みが時代と空間を超えて敷衍された。歴史を学びながら死者たちが「なぜ殺されなくてはならなかったか」を問い続ける作業は、既存の国家構造に対抗する歴史意識の定立をもたらし、それを軸とした分厚い「グリーフ・ワーク共同体」を生成してきた。それは死者を 「おぼえていること」に倦まなかった多様な属性の他者たちが、時代と空間を超えて、ただ共苦共感で結びついた疑似的な共同体である。(2021: 102-103)
だが、死者の「名前を呼ぶこと」ないしかれらを「おぼえていること」について、果たして女性平和キャンプはいかほど自覚的であっただろうか。資料では、広島と長崎における核兵器使用の結果の人体への影響を周知するリーフレットの存在が記録されている(クック・カーク1983=1984)が、広島と長崎の犠牲者の名前は不思議なほどに出てこない。たしかに、キャンプの初期を中心として、広島・長崎の犠牲者を悼む動きはあったようだ。たとえば1982年の8月6日には、キャンプの女性たちは広島の犠牲者10万人を思い出そうと、ニューベリーの戦没者記念碑の前に10万個の石を置こうとした。8月9日には千羽鶴を折った。しかしこれらの運動はニューベリーの地元住民の反感を買い、また千羽鶴の運動を知らされなかったと怒ってキャンプを出て行った女性もいたという(グリーナムの女たち1992: 15)。それらの運動を経ても、広島と長崎の被爆者のひとりの名前も出てこないというのは、却って不自然なように思える。まるで被爆者がいまだキャンプの参加者にとっては「亡霊」であるかのように、かれらの姿はぼんやりとしていて、遠い昔の出来事のことのようである。
この、日本の被爆者に対するある種曖昧な態度は、戦勝国イギリスにおける旧敵国としての日本、および日本人へのイメージも作用しているかもしれない。花井晶子(2011)は、イギリスの保守系新聞 _The Times_を資料に、1975年から2005年まで10年ごとの日本人についての報道を調査した。花井の調査によると、イギリスにおける日本人表象でキーワードとなるのは「残酷さ」(cluety)である。1975年に日本赤軍派がマレーシアで起こしたテロ事件は、当時極左による政治運動は世界的な動きであったにも関わらず、日本人の「非情さ」「冷酷さ」と結びつけて語られた(2011: 75)。そして女性平和キャンプが活動している最中の1985年以降には、8月のVJ Day(対日戦勝記念日)が近づくと同時に、第二次世界大戦中の連合軍捕虜に対する日本人兵士の残虐さが頻繁に語られるようになる(75)。これは1975年にはあまり見られなかった傾向であり、それを花井はこう分析する。
1985年産業国家としての日本の地位は不動のものとなり、投資国としても世界一の座を占めるに至った。ともにかつてはイギリスが保持していた地位である。日本から学ぶことが提唱されるようになった一方で、他方では、すでに消滅していた若者の政治運動に代わり、戦争に関する記事が再登場することによって、〈残酷な日本人〉イメージが継承されている。(花井2011: 75)
そしてこのような傾向は、原爆投下は必要であったという言説とともに現れる。ここで引用されているのは、元々BBCで放映された二人のイギリス人の捕虜のインタビュー記事であるが、二人は原爆の残虐さに対しては立場を微妙に異にしながらも、結局は「必要」であったという結論に達している(75-76)。
エドワード・サイード(Edward W. Said)は_Orientalism_(1978)の中で、西洋(オクシデント)による東洋(オリエント)へのまなざしを鋭く分析しているが、花井もそう位置付けるように(2011: 81)、イギリスにおける日本と日本人の表象はまさにオリエンタリズムの一種であろう。もちろん、_The Times_は伝統的に右派の新聞であり、女性平和キャンプの参加者のような層が購読していたとは考えにくい。しかしこのような露骨なものとは言えないにしても、オリエンタリズムからキャンプの参加者たちはどれほど距離を取り得たのだろうか*27。
日本のフェミニズム運動を研究するウルリケ・ヴェール(Ulrike Wöhr)は、1980年代初頭のごく早い時期にグリーナム・コモン女性平和キャンプに触発され、1983年にはキャンプを訪れた日本人女性の記録を読み解きながら、「グリーナム・コモンは、設立一年目にして、すでに日本の女性たちにとって心の故郷(spiritual home)のような存在になっていた」(2016: 54)としつつ、一方で、グリーナム・コモン女性平和キャンプが被爆者を含めた日本の平和運動にはさほど興味を抱いていなかったという、視線の非対称性を指摘している。
グリーナムの主人公や歴史家にとって、日本の女性の平和運動は、その逆よりもはるかに刺激的ではなかったようだ。私は、ヨーロッパの女性平和運動、特にグリーナムの歴史学に対する、この非対称性に光を当てる助けとなる二つのアプローチを提案したい。第一に、「白人多数派の女性運動」としてのこれらの運動の人種的政治性を歴史的に分析すること、第二に、これらの運動が、原爆によって死んだ人々や苦しんだ人々を犠牲者に仕立て上げ、広島と長崎を利用する可能性のある方法に貢献したかもしれないことを検証することである。(Wöhr 2016: 69)
グリーナム・コモン女性平和キャンプを初めとする運動が「原爆によって死んだ人々や苦しんだ人々を犠牲者に仕立て上げ」たかもしれない、別の表現をすれば運動が被爆者を「亡霊」のままに留めてきたかもしれないというアプローチ方法をとることは、非常に困難であろうと同時に、必要不可欠だろう。なぜキャンプの参加者たちは被爆者の名前を叫ばなかったのか。死者の名前を「おぼえてい」ようとしなかったのか。おそらく、恣意的な目的があってのことではないだろう。しかし恣意的でないからこそ、そこには無意識的な視線の不在が存在するだろうし、そのことは欧米の戦勝国/アジアの敗戦国という構図と無関係ではないかもしれない。
女性平和キャンプにおけるキーニングに関して言えば、それは非言語的な方法を使用したという意味でも、また追悼という方法の意味でもきわめて政治的には有効で、先鋭的なアプローチになりえた。しかし同時に、それはオリエンタリズムのまなざしを介した、アイルランドという旧植民地の文化の流用であり、また日本の被爆者に対する視線の不在があるという批判もできよう。彼女たちがもし、広島と長崎への原爆投下の犠牲者の名前を「おぼえてい」たなら、そこには別の形のキーニングと運動があったかもしれない。すなわち、時間軸と国境を越えた連帯の一形態、という可能性である。
終章 グリーナム・コモン女性平和キャンプへの新たなまなざしと社会運動の地平
以上、グリーナム・コモン女性平和キャンプで戦術として使用されたキーニングを通じて、その意味を分析してきた。「現在、英国のどの地域共同体に行っても、1982~84年の激動の時期に、グリーナム・コモンの平和キャンプに係わったという女性がいる」とLiddington (1989=1996: 244)が言うように、女性平和キャンプはイギリス、ないしヨーロッパの反核兵器運動、フェミニズム運動として非常に規模の大きな、息の長い運動であった。キャンプ設立から40周年となる2021年には、ブライアー・マーチ(Briar March)監督による_Mothers of the Revolution_(「革命の母たち」)というドキュメンタリー映画もイギリスで公開され、いまだに女性平和キャンプが女性たちにとって象徴的な意味を持ち続けていることがわかる。今回はキーニングの意味という限定を前提にしたものの、女性平和キャンプ自体についての研究はさまざまな切り口が考えられ、網羅できたとは思わない。アイルランドのキーニングがいかに女性平和キャンプに輸入されたかという点ひとつとっても、今回のような文献調査だけでは不十分であったと考えている。社会学的、あるいは歴史学的なキャンプ参加者へのインタビュー調査が必要だろう。
しかし同時に、女性平和キャンプについての今後の研究は常に、あるデリケートな視点を持ち続けることが必要とされるだろう。すなわち、第二波フェミニズム、そしてオリエンタリズムへの反省も含めた眼差しである。清水晶子(2022)は、1980年代終わりから90年代にかけて起こった第三波フェミニズムの特徴のひとつをこう説明している。
第二波を引き継ぎつつ、人種やセクシュアリティ、ポスト植民地主義などの問題の重要性を踏まえ、ダイバーシティやインターセクショナリティという観点が強調されたこと。つまり、女性をひとまとまりにして考えるのではなく、性別以外の属性に基づく女性たちの間の差異や多様性により一層の注意を払おう、という方向性です。(清水 2022: 20)
そしてこのような第三波フェミニズムによる第二波への批判の視点は、序章で紹介した女性平和キャンプとラディカル・フェミニズムへのLiddingtonの指摘にも当てはまる。
三つ目の急進的フェミニズムは、男性暴力に重点を置いている。[中略]この流れの形跡をたどるのは難しいのだが、70年後に男性を拒否して女性だけの分離主義をとったグリーナムの平和運動にも、この考え方がはっきり見える。このフェミニズムは、家庭内における男性暴力と性的暴力を軍国主義の暴力に結びつけたが、男性に対する個人攻撃や、女性自身の軍国主義との共謀を認識しそこなったことで、一般の支持を失い、苦い論争を巻き起こした。(Liddington 1989=1996: 11)
このような指摘を視野に入れるとき、社会運動として象徴的な女性平和キャンプへの眼差しは変化してくる。第三波以降のフェミニズムを生きているわたしたちは、たとえば、次のような疑問を持つだろう。
女性平和キャンプには有色人種の参加者はどの程度いたのか?
内訳はともかくとしても、キャンプはどの程度まで反人種主義の意識を持っていたのか?反植民地主義、階級や文化資本については?
どれほどまでにトランスジェンダー女性の存在が、女性として認識されていたのか?
ノンバイナリーやジェンダーフルイド、クエスチョニングなどのひとびとは、キャンプに参加できたのだろうか?
もっとも、これら全てについて女性平和キャンプが全く無自覚であったと決めつけてしまうのはあまりに乱暴だ。実際、資料には日本人や黒人の参加者、アイルランド出身の参加者もいたことが書かれているし(グリーナムの女たち1992: 86)、階級問題に関してもイエロー・ゲートでの参加者が「私たちは農村の女です……。中産階級の運動ではありません……」(1992: 38-39)と説明するなど、自覚的であった様子がうかがえる。また、今回はキャンプが設置されてからごく初期の時期を取り上げたが、第三波フェミニズムとされる時代は1980年代後半なので、それに呼応するようにしてキャンプのありようが変化していったことも充分考えられるだろう(実際、キャンプ参加者のサラは、『グリーナムの女たちの闘い』(1992: 37)の中で、1987年にキャンプの分裂があったことを証言している。原因はキャンプへの「左翼勢力の介入」と説明されているが、詳しくはわからない)。だが、第3章3節で取り上げたヴェールの批判のように、キャンプへの二つのアプローチ——「白人多数派の女性運動」としてのキャンプの人種的政治性への分析と、キャンプを含める運動が、「原爆によって死んだ人々や苦しんだ人々を犠牲者に仕立て上げ、広島と長崎を利用する可能性のある方法に貢献したかもしれないことを検証すること」(Wöhr 2016: 69)——はやはり必要であろう。
同時に、今回グリーナム・コモン女性平和キャンプにおけるキーニングの意味を分析することで、その非言語性だけでなく、追悼という行為の持つ政治性について吟味できたことは、今後の日本における社会運動の戦術を考える上でも多少示唆的になりえたのではないかと思う。女性平和キャンプのユニークで多岐にわたる戦術は、アカデミックな理論の構築や言語によるアピールといったいわば「硬派」な政治運動や社会運動のみを想像していたわたし自身の頭の中にも、風穴を開けてくれたように感じている。また、本稿ではキャンプにおけるキーニングが「未来の」死者を悼んでいることについて、死者の名前を呼んでいないとやや批判的な見方をしたが、そもそも追悼という行為を政治化していくふるまいの存在は、日本の社会運動を分析していく上でのひとつの視点にもなるのではないか。
奇しくも本稿執筆に入る直前の2022年夏から秋にかけて、日本では安倍晋三元首相が銃撃され、一般的な葬儀が行われたのち、さらに国葬が執り行われた。法的根拠と政府による充分な説明がない中での国葬決定はSNS上でも大きな批判を呼んだが、その中に、「安倍元首相より、安倍政権下での公文書改ざんに関わり自死した赤木俊夫さんを悼むべきだ」という声を見かけた。その声はその後あまり市民権を得ることはなかったように思われる。しかし、であるとすれば、それはどのような理由によってなのか。日本の社会運動の固有性もあるのだろうか。今回戦術としてのキーニングに引きつけて考える中、このような新たな疑問も浮かんできた。
戦術がセルトーの言うように奇略であり、「ここぞと思えばまたあちらという具合にやっていく」(1980=2021: 122)ものであるなら、社会運動のやり方もまた意表をつくものであり、そこには固有の文脈に則した、無限の地平と可能性があるはずだ。核兵器という強大な脅威に対して、女性平和キャンプの参加者たちはまさに、その機転とユーモアをもって社会運動の新たな地平を切り拓いたと言えるのかもしれない。
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図版リスト
図5:SNSで拡散されたため出典不明。
こんにちは。眞鍋せいらです。
あらためまして、自己紹介とポートフォリオ、いまお受けできるお仕事です。
自己紹介
1996年生まれ。立教大学文学部文学科英米文学専修を卒業。作家ヴァージニア・ウルフの評論『三ギニー』についての卒業論文でTN賞(最優秀賞)を受賞。東京大学大学院学際情報学府修士課程に進学、その後「イギリスの反核兵器運動『グリーナム・コモン女性平和キャンプ』における『キーニング』(哀歌)の意味」で修士号を取得。
大学院在学中から現在まで、フェミニスト文芸サークル「夏のカノープス」の一員、また個人として、短歌、評論、詩などを発表しています。
フェミニズム、クィア・スタディーズ、ポストコロニアリズムにとくに関心があります。
ポートフォリオ
論文
・差異あるものとの対話 : ヴァージニア・ウルフ『三ギニー』論
・イギリスの反核兵器運動『グリーナム・コモン女性平和キャンプ』における『キーニング』(哀歌)の意味
主な評論
・より活発な批評のために一ーファンによる 『ヒプノシスマイク』試論
(2022年『夏のカノープス vol.1』)
・天皇制批判、そして現代社会への希望としての『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』
(2024年)
主な短歌作品
・連作「水ぎわへ」(第65回短歌研究新人賞予選通過)
・「ぽつぽつと思い出語る友といて面会室の外に遠雷」(2022年度角川全国短歌大会 佐々木幸綱選〈秀逸〉)
・連作「陸の潮騒」(第66回短歌研究新人賞佳作)
・連作「渾天すらも」(2024年)
・連作「葡萄の海」(第67回短歌研究新人賞予選通過)
詩
・2020年度 口語詩句奨学生 選抜
・「お茶のお客」(『月刊 ココア共和国』2020年10月号)
・「ある言語で書かれた世界さいごの詩」(『月刊 ココア共和国』2020年11月号)
小説
・「水族館の人魚」(2024年)
エッセイ
(『POSSE』41号、2019年)
企画、脚本、演出
・「眠られぬ九月の夜よ」
(初演:シバイバ社会派短編演劇祭『SEED for the Future vol.1』、2024年6月25日〜30日 築地本願寺ブディストホール
再演:2024年9月8日 ブックハウスカフェ2階ギャラリーひふみ)
いまお受けできるお仕事
・短歌(一首から連作まで)を詠む
・詩を書く
・短編小説を書く
・短編演劇の脚本を書く
・評論を書く
・エッセイを書く
・翻訳(英語から日本語、またはその逆。人文社会系の論文や小説、詩など)
・トーク、講演(たとえば、イギリスの社会運動、ポストコロニアリズムについてなど)
・英語個人レッスン(中学レベルから大学院レベルまで対応します)
英語は、2017年時点でTOEIC940点、英検準一級保持です。
いまとくにやりたいこと!
イギリスの社会運動(おもに戦後のもの)についての概説的な本を書きたいです。労働運動、フェミニズム、アンチレイシズム、クィアスタディーズ、社会福祉の運動にまたがるものを。
または、イギリスのアンチレイシズムやポストコロニアルの詩をどんどん訳して、訳詩集にしたいと思っています。フェミニズムの詩も!
パレスチナのチャリティーイベントや、ポエトリー・リーディングもやりたいです。
あとはなにより、どんどん文芸作品を書きたいです!
最後になりましたが、ここまで読んでくださったかた、ありがとうございます。
ご連絡はX(@biscuitfortess)のDMか、seira.manabe◯gmail.comまで。(◯を@に変換してください)
※この文章は、映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(古賀豪監督 2023年、東映)を、近代日本社会批判、とりわけ天皇制批判として読もうとしたものです。あくまで一視聴者による批評の試みであり、監督や公式の見解と一致しているわけではありません。また、本作のネタバレを多分に含みます。何より、できるだけ原作に即して論じようとするものではありますが、2024年1月現在本作のDVDなどは発売されていないため、細かなセリフや話の筋に関しては記憶違いがあると思われます。その点をご考慮の上お読みください。
反戦映画として、また戦後資本主義批判として
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下、ゲ謎)は、公開当初から、わたしのSNSのタイムラインを騒がせていた。とりわけ左派や左翼、リベラルを自認する人々から、「これは反戦映画であり、戦後日本の資本主義批判である」との評判だった。そんな中、一見政治には関心のなさそうな知人からも「面白いから見に行ったほうがいい、今度特典第二弾が配布されるから」との熱い推薦を受け、わたし自身も鑑賞するに至った。
結論として、ゲ謎がエンタメとして高い完成度であるのはもちろん、左派からの好評はもっともであると感じた。主人公の水木(言うまでもなく本作の原作者、水木しげると同じ名を持つ)は、原作者と同じく、従軍し南方で「玉砕」を命じられた経験があり、本作の舞台となった昭和31年(1956年)においても、PSTDに苦しめられている。死んだ水木の戦友たちは、冒頭で鬼太郎の父(通称・ゲゲ郎)が指摘する通り、水木に取り憑いている。作中では所々に、水木の戦場での記憶がフィルムのように挟み込まれる。
そして、ゲ謎は戦後日本の資本主義/企業社会批判でもある。水木は、軍隊でのトラウマ体験や上官からの理不尽な暴力、そして戦争を指揮した指導部が戦後も権力の座についていることなどの経験から、「戦場も故郷も関係ない。弱い者はいつも食い物にされて馬鹿を見る」と信じ、マッチョな昭和の「モーレツ社員」になる。かれは「帝国血液銀行」で頭角を表し、重役の座を狙う。本作では一瞬ではあるが、おそらく水木の職場の血液銀行であろうビル内で売血のために列をなす、きらびやかとは程遠い人々の列が描かれる。
水木は社長の密命を受け、与えられれば無類の効果を発揮するという特殊な精血剤「M」の手がかりを求め、龍賀一族の里・哭倉村へと向かう。「M」こそ、日清、日露、そして太平洋戦争で日本軍が躍進した秘訣であり、それは戦後復興を目指す今こそ必要とされているのだった。「M」の使用目的について「やはり軍隊向けですか」と問う水木に、社長は答える。「企業の戦士たちだよ、水木くん。戦争は今も続いているのだ」。
このことは、劇場版パンフレットによれば、古賀監督も意図的に描いている。監督は、舞台になった昭和30年代について、自分から提案したと答えた上で、この時代を「戦後体制から高度経済成長期に移り変わる時代です。日本は戦後の焼け野原から40年でバブルを迎え、世界一豊かな国になりましたが、それからさらに40年で子どもや女性の貧困率、自殺率は世界でもワーストレベルの国になってしまいました。なぜそうなってしまったのか。その問いかけは、水木先生が鬼太郎を生み出したことのテーマ性と通ずるものがあるのではと思ったんです」と語っている。実際、作中では龍賀家の跡取りである幼い男の子・時弥と、水木とゲゲ郎の二人の大人が語り合う場面がある。「そのうち東京に世界一高い電波塔ができる。いつか日本は世界一豊かになって、病気も貧困もなくなる」と時弥に語る水木に、ゲゲ郎は「それはおためごかし」「進歩を望まない人々もいる」と指摘しながらも、「時ちゃんたち子どもが真剣に願えば、そのような未来も来るかもしれんの」と希望を語る。
しかし、「なぜ高度経済成長期から40年経った今、日本は貧しくなってしまったのか」という監督の問題意識を映すように、哭倉村で水木が知ったM、そしてそれを生産する龍賀一族の秘密は、おぞましいものだった。水木はそれを知り、嘔吐しながら言う。「俺はこんな一族に憧れていたのか」「自分が恥ずかしい」。そう、今まで見てきたように、ゲ謎が傑出しているのは、単なる反戦映画だからではない。それが現代まで続く、戦後日本のありよう——戦前・戦中の精神を受け継いだ水木のようなマッチョな企業戦士たちに支えられ、一方で「働けない」弱者を虐げ、搾取してきた社会——を批判しているからである。
天皇制批判としての「ゲ謎」
さて、これらの強いメッセージ性に加え、ゲ謎の魅力のひとつとしてわたしが指摘したいのは、「この作品は天皇制を批判しているのではないか」という点である。もちろん、ゲ謎が戦争と戦後日本を批判しているのであれば、戦後も連綿と続く天皇制の批判をすることも、安易であり自然に思えるかもしれない。しかし実際はそうではない。左派的な思想やリベラルな意見を持つ人々が、天皇制批判には踏み込めない・あえて踏み込まないといった例は多分にある(中には、安倍晋三に代表される自民党政権と対比して、平成天皇こそリベラルであったとする向きすらある)。もちろん、古賀監督はじめスタッフの側に、このセンシティブな問題についてどのような意見があるのか、我々には知るべくもない。できるのは作品を元とした批評のみである。
ゲ謎が天皇制批判でありうるというのは、どのようなことか。取り上げるべきは、物語の最後である、「穴倉」の底のシーンである。そこで水木とゲゲ郎は、時弥の体を秘術で乗っ取った、死んだはずの龍賀一族の当主・時貞と対面する。時貞こそ、「M」を通じて日清、日露戦争の日本の勝利を導いた立役者であり、絶大な権力を有していた人物だ。時貞は、自分は日本の将来のため、「不甲斐ない若者たち」に代わってまだまだ日本を率いていくという使命を持っており、そのために時弥や他の一族を利用したのだと自慢げに語る。時貞の野望は、時貞の長女・乙米の言葉からもわかる。「この日本をあの屈辱的な敗戦から立ち直らせ、再び世界一の強国にするのがお父様の夢」「そのために死ねることを名誉に思いなさい」と乙米は言い放つ。そしてその乙米の姿は、水木によって、「玉砕」を命じながら自分だけ生き残ろうとした上官の姿と重ね合わされる。有り体に言ってしまえば、時貞は、戦後も天皇の座に留まった昭和天皇とオーバーラップするのである。
しかし、時貞が昭和天皇を思わせるのは、以上のことからだけではない。「穴蔵」のシーンで印象的なのは、時貞が愛でる「妖樹血桜」だ。桜は言うまでもなく日本の国花であり、未だに愛されると同時に、軍国主義の象徴でもあった。話が逸れるようだが、闇の中に赤く浮かび上がる血桜は、水木しげると同時代を生きた画家・富山妙子の作品を思わせる。当時の満州に生まれた富山は、戦後も一貫して日本の帝国主義を糾弾し続けた。例えば『きつね物語・桜と菊の幻影に』(1998年シリーズワーク)などは、そのおどろおどろしくも幻想的な雰囲気と相まって、ゲ謎の最終シーンを思い起こさせはしないか。(富山妙子については、公式H Pなどを参照。https://tomiyamataeko.org)
血桜の最終シーンに戻ろう。その名の通り、血桜は他者の血を養分として、その色を赤く染める。そして今作、その養分とされているのは、ゲゲ郎と同じく幽霊族の生き残りである、ゲゲ郎の妻(鬼太郎の母)なのである。血桜は幽霊族の血を吸うことで美しく咲き、時貞の目を楽しませる。ここでわたしたちは、時貞が昭和天皇の隠喩であると同じく、ゲゲ郎とその妻たち幽霊族がなんのメタファーであるかについても、考察しなければならないだろう。
「幽霊族」と「人間」——近代的レイシズム(人種差別)の構図
幽霊族は、もともと人間より古くから存在していた民族であり、人間によって狩られたことでその数を減らしていったとされる。そして、物語を追うごとに、龍賀一族の権力の源である血液製剤「M」は、幽霊族の血が原料であることが明かされる。龍賀一族は幽霊族を捕らえ、その血をまた捕らえた人間に輸血することで彼らを「生ける屍」にし、Mを作り出す。まさに幽霊族や、一部の人間の「生き血を啜る」ことで富を得ていたのである。その幽霊族の最後の生き残りが、ゲゲ郎とその妻なのだ。
この時、ゲゲ郎たち幽霊族は、日本帝国主義の犠牲となった旧植民地の人々、また侵略された人々の姿と重なる。作中での「人間」が表すマジョリティの大和民族に差別されてきたマイノリティである。彼らはレイシズムの犠牲者なのだ。
ここで重要なのは、近代のレイシズムにおいて、マジョリティの目的はマイノリティを根絶やしにすることにはない、という点である。もちろん差別は殺戮に帰結する。歴史的な事例を引くなら、関東大震災時の朝鮮人を標的にした虐殺や、ナチスのホロコーストがそうであるように、マイノリティはことあるごとに、人種差別暴力の犠牲になってきた。しかし、近代の帝国主義/植民地主義において、より重要なのは、マイノリティを支配下におきながら、富の源泉として搾取しつづける、ということなのである。マイノリティを完全に殺してしまっては意味がないのだ。かれらを生かさず殺さず、搾り取れるだけ搾り取らねばならない——ちょうど龍賀が「M」を精製し、また血桜の養分とし続けるように。
ゲゲ郎、そしてその妻の間に幽霊族の子供(鬼太郎)が生まれることを知った時貞は、「おぞましい化け物め」と言いながら、歓喜する。二人に「子どもを作りなさい」と命じた乙米と同じく、幽霊族の血が絶えずにいることは、龍賀にとって喜ばしいことだからである。時貞は「やや子は我がものぞ」と欣喜雀躍するが、これは全ての臣民——そこには大日本帝国の植民地の人間も含まれている——が、天皇の「赤子」とされたことと重なるのだ。
ゲゲ郎は血桜の枝に手足を取られ、そこに攻撃を受けて血が滲む。画面中心に捕らえられたゲゲ郎の血が、白い桜を背景にして同心円上に広がっていく。そこに日の丸のイメージを見たわたしは、さすがに穿ちすぎだろうか。
「マジョリティ日本人」としての水木
先日、ゲ謎の感想をSNSで見ていたわたしは、こんなコメントに出会った。「水木は格好良く描かれているけれども、戦後社会に順応できていたように、やはりマジョリティの日本人男性なんだな」というようなコメントである。その点、わたしも深く同意する。前述のとおり、水木は従軍経験があり戦後企業戦士となった、ある種ステレオタイプの日本人男性だ。作品では描かれないが、水木の従軍体験が指しているのは、一兵卒とはいえかれもまた戦争の加害者でありえたし、おそらくそうであった(人を殺した経験がある)ということだ(一方、茶番とはいえ沙代を殺すふりができない弱さも彼は持っている)。そして戦後、「帝国血液銀行」で順調に出世していたことからも、水木は必ずしもマイノリティ側ではなかったと言えるだろう。
しかしだからこそ、時貞との対決シーンでの水木の役割は大きい。ゲゲ郎というマイノリティ表象に全てを負わせることなく、龍賀と、それが表す日本社会での「勝利」に憧れていた自らとの訣別として、水木は血塗れで時貞に斧を振るう。
ところで、「わしに与するなら会社を持たせてやろう」「御殿に住め」などと甘言で誘う時貞に対して、水木の「あんたつまんねえな」という返答は、やはり象徴的なものとしてSNSですでに話題になっていた。しかし個人的には、壊したら「国が滅ぶ」とされた時貞の髑髏を斧で壊した水木の、「ツケは払わねえとなあ」の言葉がより印象的だと思う。戦後も続く日本の植民地主義を、マジョリティ日本人である水木が叩き壊し、「ツケは払わねえとなあ」と笑いとばす。水木にやや肩入れして言えば、日本社会の恩恵をもっとも受けてきたマジョリティの一員として、その責任を引き受けたのだ。痛快なシーンであったように思う。
それでも次世代に希望を託す——左派的なニヒリズムの向こうにあるもの
時貞を倒した後、ゲゲ郎は、やはり「国が滅ぶ」ことを危惧して、殺されたものたちの恨みを一身に引き受けようとする。そしてそのようなゲゲ郎を、当然水木は引き止める。「やらせとけ!お前が犠牲になることはねえんだ!」というセリフは、非常に水木らしいものだ。ところが、ゲゲ郎は、生まれてくる息子のため、次世代のためにと、恨みの依代となることを選ぶ。
ゲ謎がわたしにとってもっとも魅力的なのは、この点である。個人的な印象の話になるが、とにもかくにも左派的な心情をもち、日本の将来を憂いていると、「こんな国はもう滅びるしかないんじゃないか」「その方がいっそいいのではないか」というような、ニヒリズムに陥ることがまま、ある。しかし、それは何も知らずに生まれてくる次世代に対して、あまりに無責任というものだ。「次世代のため」「子孫のため」というと、とかく右派的な運動や思想に巻き込まれてしまうケースも多いと感じているが、ゲ謎は、非常に誠実に、次の世代のために自らの世代の責任を果たせと語りかけてくる。血縁だけでいえば加害者の側であるはずの沙代や時弥といった子供たちも含めて、そして何より鬼太郎が象徴するように、本作の次世代へのまなざしは強く、あたたかい。
ゲ謎は、マジョリティの象徴であった水木が迷いながらも、墓場から生まれた鬼太郎を強く抱きしめるシーンで終わる。鬼太郎が社会にとって「災い」となるかもしれない、という、いわば社会的な大義よりも、水木は目の前の命を守ることを決断するのだ。ここにわたしは、現代日本社会への非常に先鋭的な批判と同居する、希望を見るのである。
本稿は、文芸同人誌『夏のカノープス vol.1』(夏のカノープス編集部編、2022年)に掲載された「より活発な批評のために——ファンによる『ヒプノシスマイク』試論」(眞鍋せいら)を一部修正したものです。このたび、編集部の許諾を得て、執筆者本人により公開いたします。
(以下本文)
注意:本文中と文末脚注に引用として、女性やトランスジェンダーへの差別発言があります。また、作品のネタバレを含みます。
いつかは書かなければならないのだろうと思っていた。約一年半前から熱をあげている、『ヒプノシスマイク』についてである。ヒプノシスマイク(以下、ヒプマイ)とは、二〇一七年からCD、動画配信、ライブ、コミック、アニメ、舞台などのメディアで展開されている「様々な楽曲を声優が演じながらラップすることにより、音楽を軸に各キャラクターのストーリーが展開していく」「音楽原作キャラクターラッププロジェクト」[i]のことだ。二〇二二年四月現在での最新アルバム、「キズアトがキズナとなる」(二〇二二年三月十六日発売)は、Billboard Japanアルバム・セールス・チャート(二〇二二年三月十四日〜二〇日)によれば初動3日間で29,399枚を売り上げ、2位を獲得した(当週の売上は37,871枚にまで上った)[ii]。二〇一九年時点で「日本商品化権大賞」審査員特別賞を受賞し、経済効果は100億円を超えたという、人気のプロジェクトだ[iii]。
かくいうわたしも「キズアトがキズナとなる」のCDを予約し、Apple Musicでもダウンロードしたひとりである。ヒプマイにはまったのは比較的最近だが、昨年二月の「ヒプノシスマイク—Division Rap Battle—6th LIVE 《2nd D.R.B》」も、それに続く「7th LIVE《SUMMIT OF DIVISIONS》」の配信も手に汗を握りながら見たし、今年の年始早々の3DCGライブにも行った。ちなみに一番応援しているのはシブヤ・ディビジョンなので、去年のセカンド・ディビジョン・ラップバトルでシブヤが優勝した時は本当に嬉しかった(ディビジョンとバトルに関しては後述する)。また二次創作が好きなこともあり、ほぼ毎日イラスト投稿サイトpixivでヒプマイ関連の作品を検索するといった日々が続いている。
ここまで好きなのを自覚しながら、わたしは大声で「ヒプマイが好きです」と言うのを躊躇わずにはいられない。また、好きなものは分析したり批評したりしたいという欲求をいつもなら抑えられないのだが、ヒプマイに関しては一年以上、まとまった文章にすることを避け続けてきた。なぜなら、しばしば指摘されているようなヒプマイの女性嫌悪や同性愛嫌悪、トランスジェンダー差別の表現にわたし自身少なからずダメージを受け、目を逸らそうとしてきたからだ。批判したいのに好き、でも差別的な面は見過ごせない、いっそ追うのをやめたほうがいいと思いつつ惹かれてしまう……そういった思いに引き裂かれ、なんとかこの思いを言語化したいと周囲にも話しつつ、できないでいた。今回、夏のカノープスの編集部に背中を押され、フェミニズム批評を用いながら、なんとかヒプマイについて語ろうとしはじめている。
なお、前述もしたが、本稿はシブヤ・ディビジョンのファンによるものということもあり、最後はシブヤのキャラクターに重きを置いた文章になる。そしてテクストとしてはCDのドラマトラックとコミカライズを用いたが、アニメやゲームなどカバーできなかった資料も数多い。その点を差し引いて読んでいただければと思う。
◆『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定とミソジニー/ホモフォビア
最初に、ヒプマイの設定をおさらいしておこう。物語の始まりは第三次世界大戦が終わり混乱した世界。なおも争いをやめない(男性の)権力者たちに対し、女性たちはクーデターを起こし、西暦を改め「H歴」の支配者となる。H歴では武力は根絶され、「争いは武力ではなく人の精神に干渉する特殊なマイク」=「ヒプノシスマイク」にとって代わる。ヒプノシスマイクは交感神経、副交感神経に作用することで、人にダメージを与えることができるというものだ。そこで、人々はラップという攻撃力の高い言葉を、ヒプノシスマイクを通じて操ることで優劣を決するようになる。
権力を握った「言の葉党」の女性たちは「中王区」という高い壁で囲まれたエリアに住んでおり、男性は中王区以外の「ディビジョン」という区画で暮らさざるをえない。各ディビジョンにはそれぞれ代表のMCグループがおり、彼らがバトルをして勝敗を決めることで、ディビジョンの領土が割り当てられる。男性は中王区に基本入ることはできず、また女性の10倍の税金を課せられている。
ちなみに、ヒプマイがプロジェクトとして発表された二〇一七年当時の公式サイトにおける説明には次のような文言があった(現在は変更)[iv]。
野蛮な男性に変[ママ]わり、女性が覇権を握ることになる。中王区と呼ばれる、男性を完全排除した区画で政は行われるようになった。そこで新たな法が制定された。その名もH法案。人を殺傷するすべての武器の製造禁止、及び既存の武器の廃棄。しかし、それだけでは愚かな男性の争いは根絶されない。なので、争いは銃ではなく人の精神に干渉する特殊な【ヒプノシスマイク】にとって変わった。
このように、ヒプマイの世界は明確に、人間を「男性」と「女性」に分ける考え方、つまり性別二元論(ジェンダー・バイナリー・セオリー)に基づいている。その上で(現在削除された文言ではあるものの)男性たちは「野蛮」「愚かな」と表現され、H歴では社会システムとしても女性が優位であることが強調される。いわば女性中心主義の「女尊男卑」社会だ。そして、そのような社会のあり方に対し、ヒプマイの男性キャラクターたちは程度の差こそあれそれぞれ不満を抱いていて、ラップバトルを通じて「世界を変えよう」とする。中王区、ないし女性たちによっていわば仕組まれたバトルの場ではあるものの、それを自分たちの目的のために彼らは捉え直し、バトルに臨むのである。
と、以上がヒプマイのストーリーの基本的な枠組みだ。批判したい点はこの時点で二つある。男女二元論的なキャラクターの描き方、そして「女尊男卑」設定の意図の不明さだ。一つ目は後述するとして、ここでは「女尊男卑」という設定の不明さについて述べよう。
巣矢倫理子は、WEB記事「『ヒプノシスマイク』の『女尊男卑』設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない」の中で、Netflixの映画『軽い男じゃないのよ』に触れ、男女に期待されている社会的な役割を逆に(この場合は男性が性別を理由に仕事の案を却下されたり、「男性なのに」子供を持たないことに驚かれたりするように)描くことで、男性中心的で女性差別的な社会を批判的に描き出すという手法を紹介している。巣矢はその上で、ヒプマイの「女尊男卑」設定をこう批判する。[v]
一方、『ヒプノシスマイク』の社会で「女尊男卑」として挙げられている具体的な内容は、主に二つある。一つは男性が女性の10倍課税されること、もう一つは女性だけが集住して政治を行い、男性がそこから放逐されていることである。それ以外は特に説明がなく、例えば勤務医・正社員のキャラクターやその男性上司も出てくるし、職業の不自由などは描写されない。男性の医者に対して女性の看護師、というジェンダーステレオタイプな描写も登場するし、丁寧な言葉遣いをする女性の給仕係に対し、タメ口で応答する男性客、という構図も現実と変わらない。現在のジェンダーバイアスについて深く考えて反転させた内容であるとは思えない(巣矢 二〇一八)。
また、この点については、高井くららも「男性が差別されている世界だが(中略)参政権や税金が十倍であること以外にどのようにその差別が表出しているのか」と指摘する[vi]。高井は、執筆当時はヒプマイが発表された当初だったため、これから明かされる情報も多いだろうとしつつ、「不明な点や辻褄が合わない点」が数多くあるとしている(高井 二〇一八)。
正直、この点はわたしがヒプマイを知り始めた時にも抱いた感想だ。主要なキャラクターであるシンジュク・ディビジョン「麻天狼」のリーダー・神宮寺寂雷(じんぐうじ・じゃくらい)は総合病院勤務の医者で、天才医と目されている。看護師(女性として描かれることが多い)からの信頼も厚い。ちなみに彼をライバルと見なす医師も男性だ。寂雷はナゴヤ・ディビジョン「Bad Ass Temple」の天国獄(あまぐに・ひとや)と同級生だったのだが、獄も元医師志望の弁護士で、彼の事務所の受付スタッフは女性である。彼らが医師や弁護士の資格を取得したのはH歴以前の男性優位の社会でのことだったという点を考慮する必要はあるかもしれないが、H歴3年においてもジェンダーギャップ指数ランキングは低いような気がしてならない。
そして、主に初期のヒプマイには、この曖昧な「女尊男卑」という設定の中で直接的なミソジニー発言やトランスジェンダーへの差別発言が見られる[vii]。例えば、主要な登場人物であるイケブクロ・ディビジョンの山田二郎の相談相手として、安僧祇潤(あそうぎ・うるみ)というクィアに見えるキャラクター[viii]を登場させておきながら、彼の兄であり本作の主人公的な立ち位置を担う山田一郎にはトランスジェンダー女性への差別発言をさせる(このセリフはコミカライズ版では差別的でないものに変更されている[ix])。また、言の葉党によるクーデターが発表された直後には、女性へのヘイトスピーチ・ヘイトクライムの描写もある(それをのちのシブヤ・ディビジョンの飴村乱数(あめむら・らむだ)が助けるという筋書きになっている[x])。しかし、それらの差別に対して、男性キャラクターはおろか中王区の女性キャラクターたちも、またヒプマイの公式見解としても、「差別は許されない」とは言ってくれない。巣矢が指摘するように、これらの差別は「女尊男卑の世界での出来事だから」という「免罪符」のもとに、いっそうグロテスクな面をただ露悪的に曝け出している。むしろ、男性優位であり女性差別的な風潮の強く残る「西暦」において、その女性差別に加担していると言われても仕方がないのではないだろうか。
◆中王区のフェミニズムとバイナリーな世界観への批判
巣矢はヒプマイを、「かっこいい男性キャラが、ヒップホップというカウンターカルチャーを背負って社会に反旗を翻す様子を、『女性向けコンテンツとして』描きたい」という作品であるとし、「それ自体は魅力的な試み」であると述べる。ヒップホップがシスヘテロ男性を中心に担われてきた文化であったことを考えれば[xi]、確かにヒプマイは多くの女性ファンを獲得し、ヒップホップの間口を広げたとも言えるのだろう。わたしも、元々ヒップホップとはまるで縁がなかった人間だが、ヒプマイに楽曲を提供している有名ラッパーを入り口に、少しずつ興味を持ち始めている。
女性のラッパーが活躍していることもヒプマイを通じて知った。中王区の曲「Femme Fatale」の歌詞は女性ラッパーReolによって提供され、Youtubeでは500万回を超えて再生されるなど、ヒプマイの曲の中でも人気の楽曲だ。Youtubeのコメント欄でも彼女らの「強さ」に好意的であったり、女性としてエンパワメントされた、というような書き込みが多い[xii]。わたし自身、力強く挑発的な歌詞とリズムには聴くたびに惹きつけられる。
先ほど、ヒプマイの「女尊男卑」の世界観が詳細に練られたものとは言えないと述べた。しかし一方で、H歴以前の西暦における女性差別の様相や、政権に就く以前の中王区のフェミニズム描写はかなり切実でリアルだ。その例が、中王区のトップである東方天乙統女(とうほうてん・おとめ)と、ナンバーツーである勘解由小路無花果(かでのこうじ・いちじく)の過去を描いたエピソードだ。詳細を見ていこう(なお、以下は公式ガイドブックの初回限定CDに収録された中王区Drama Track「流転は篠突く雨ですら流せない」「山雨来らんと欲して風楼に満つ」のネタバレを多分に含むので注意してほしい)[xiii]。
もともと、テレビ局でアナウンサー兼記者であった無花果は、汚職や不正が蔓延る政治に疑問を持ち、権力を疑問視する取材をしていた。しかし同業の記者にさえ「女がそんな事件嗅ぎ回ってんじゃねえ」と差別発言とともに手を引くように言われ、しまいには権力側に妹を誘拐・殺害されてしまう。殺害した政治家側の人間もまた「女のくせに」という発言をしており、H歴以前の西暦では政治的腐敗だけでなくフェミサイド(女性を標的とした殺人)も頻繁だったと考えることができる。
その無花果に救いの手を差し伸べるのが東方天乙統女、という構図なのだが、財閥の一族に生まれた乙統女もまた、女性差別に苦しめられてきた。家父長的な父親と、女性差別や格差はおろか、戦争状態にある世界情勢に対しても「男性に任せておけばよい」と無関心な母親。成長した乙統女は、思わず母親に対して「管理職に就く女性の割合は、9パーセントに届きません。そして何より、この国のトップにいまだ女性が就いた事がないというのが、男性優位が根強く残っている証拠です」「ご自分が生きる国のことに、無関心でどうするんですか」と詰め寄る。ちなみに二〇二一年時点、日本における女性の管理職の割合は8.9パーセント[xiv]。乙統女の指摘する状況そのままにある西暦を生きるわれわれにとって、乙統女の訴えは胸を打つ(そして結局、彼女の訴えは「無関心でも世界は回るものですよ」と一蹴されてしまう)。
同時に乙統女は、父親による、性差別と結託した資本主義的な思考にも苦しめられる。乙統女の意向と関係なく乙統女の結婚を決めた父親は、反発する彼女に対し、「決める権利というものは、自立している者の特権だ。私の金で生きているお前に、その権利はない」と言い放ち、出て行こうとする乙統女にさらに「お前が生まれてから今日までかかった金を全て返してもらおう」「(自分で働くなどと)できもしないことを言うな」と乙統女に暴力をふるう。
しかし、乙統女の結婚相手となる飛鳥帝(あすか・みかど)は、乙統女の父親とは違い進歩的な男性であった。女性の政治参画を支持し、「いつか一緒に、この国の政ができるといいですね」と話す帝は、乙統女による女性のみの政党「言の葉党」の設立にも携わる。しかし段々と、帝は乙統女の父親と結託して不正に加担するようになり、最後には「女のくせに」と乙統女に差別発言を放ってしまう。
家父長制を体現したような乙統女の父とは違い、進歩的な考えをもつ帝すらも内面化していた女性差別。乙統女、そして無花果の直面してきた状況は「過去のもの」などではなく、まさに今・ここ、現代の日本において暴力的に、かつカジュアルに日々行われているものだ。これらのエピソードを踏まえれば、中王区的なフェミニズムのヴィジョン(女性だけが暮らすことのできるエリアがあり、政治に参画できる)や「Femme Fatale」の「最後に笑うのは乙女」という歌詞が、わたしたちにいっそう魅力的にアピールするのも無理はない。
しかし、やはり中王区のフェミニズムは批判されなければならない。繰り返しになるが、それは男女二元論であり、本質主義に基づいている。そこではXジェンダーやジェンダーフルイド、トランスジェンダーなどの人々の存在は透明化されている。のみならず、「男は野蛮で争うようにできている」という乙統女の言葉は差別的だ(不思議なことに、ヒプマイは女性の性役割の固定化には先述のように比較的懐疑的な見解も見せるのに、男性の役割の固定化に対しては無頓着だ。例えば、先述の神宮寺寂雷は「麻天狼」を結成する際、伊弉冉一二三(いざなみ・ひふみ)と観音坂独歩(かんのんざか・どっぽ)を「君らも男ならラップできるだろう?」と言って勧誘する[xv])。
同様に、乙統女が無花果に投げかける「(男性に虐げられた過去が)女性ならありますよね」という発言にも注意をしなければならない。それは性差別の被害者としての共通の経験を想起させ、当時の無花果にとっては確かにエンパワメントとして作用したかもしれない。しかし、それは同時に、フェミニズムが直面してきたはずの「『女性』とは誰を指すのか?」という問題を無視してしまう。清水晶子は、トランスジェンダー女性への差別とインターセクショナリティに言及しながら、こう述べる。
あの女性と、この女性とは、必ずしも同じ女性ではない、ということ。しばしば「女性なら誰でもわかる/経験したことがある」などと言及される経験は、しかし、必ずしもあらゆる女性にとっての経験ではない、ということ。きわめて当たり前のことだが、女性がみな同じ一つの何かを共有しているわけではない、ということ。
フェミニズムは何度も何度も繰り返しこの問題に突き当たり、そこにつまづき、そしてそのことを通じてより豊かなものになってきた。フェミニズムが目指すのは、第一には、女性の権利と尊厳とが男性のそれと同等に尊重される社会の実現である、といえるだろう。しかし、そのときの〈女性〉とはどの女性なのか、誰を指すのか。そのように問われることを通じて、フェミニズムは、自らが想定してきた〈女性〉とは異なる出自や経歴、感情や技能をもつ〈女性〉がありうること、異なる身体の形状や使い方をし、異なるかたちで社会との経験を結ぶ〈女性〉がありうること、すなわち、女性の生の経験と可能性はフェミニズム自身が想定してきたものよりもはるかに多彩であることを学んできたのである(清水、2021)(傍点は清水による)[xvi]。
これに倣うなら、中王区の言うフェミニズムに対して、このような問いを立てることが可能なはずだ。言の葉党に入党し、中王区に居住できるのは、シス女性(生まれた時に割り当てられた性別と自認する性別が同じである女性)だけなのか?戸籍上(戸籍というものがH歴にまだあればだが)の女性だけなのか?国籍が外国であったり、一定の所得がなかったり、障害があったり、「ヒプノシスマイク」で流暢に言葉を操ることができない女性はどうなのか?中王区のフェミニズム、ひいてはヒプマイで描かれるバイナリーな男女の世界には、現時点ではこれらの問いが設定されていない。「同じ女性/男性だからわかる」という言説は、ナイーヴであるだけでなく、「同じ」ではない他者を想定しない、排他的な言説だ。
しかし同時に、期待もある。中王区のホープであると同時に、上流階級出身の乙統女とは異なり過酷な生活環境で育った碧棺合歓(あおひつぎ・ねむ)や、言の葉党員でありながら無花果と対立し暗躍する邪答院仄仄(けいとういん・ほのぼの)は、中王区やヒプマイにおける女性たちが決して一枚岩でないことを代表するキャラクターだ。特に合歓は、そもそも兄・碧棺左馬刻(あおひつぎ・さまとき)の暴力的な言動に懐疑的であったところをヒプノシスマイクによる洗脳を受け、言の葉党に入党したという経緯があるため、洗脳が解けかけている今後、どのように中王区、ならびに家父長的な兄と対峙していくのかが注目される。
言い換えるなら、いま、ヒプマイに必要なキャラクター像の一つは、中王区のイデオロギーに収斂されない、より多面的な視野をもったフェミニストではないだろうか。例えば、中王区の「壁の外」で生活し、権力に抗する主要男性キャラクターたちと連帯していく女性キャラクターだ。
巣矢は、二〇一八年の記事で、ヒプマイの女性たちは「敵」「モブ」「敵のモブ」の三種類としてしか登場しないとしている。巣矢の記事執筆時から比べれば、その後より多くの女性キャラクターが登場したが、基本的に彼女たちは男性キャラクターから敵意を向けられるか、意に介されないかどちらかだ。そしてそのような種類の登場人物にしか、女性を主とするヒプマイのファンは自分を重ね合わせることができない。その様相を、巣矢は「悲しい立場」と呼んだ。
しかし求められているのは、新たな女性キャラクター像だけではない。彼女を敵としてしか見ないのではなく、「仲間」として認識してくれる男性キャラクターでもある。言うなれば、中王区の「壁の外」の女性の存在を認識させてくれる視線の存在だ。そしてその希望を、わたしはシブヤ・ディビジョンのリーダー、飴村乱数というキャラクターに見出しているのだが、それは次の項目で述べよう。
◆飴村乱数に希望を見る——「壁の外」の女性たちへの呼びかけ
シブヤ・ディビジョン代表(チーム名は「Fling Posse」)は、飴村乱数(あめむら・らむだ)、夢野幻太郎(ゆめの・げんたろう)、有栖川帝統(ありすがわ・だいす)の三人からなるチームだ。第一回のラップバトルでは初戦でシンジュク代表「麻天狼」に敗れたものの、昨年第二回のラップバトルでは初戦・決勝を勝ち抜き、優勝した。彼らについて書こうとすると、どうも動揺して落ち着いた記述ができないのだが、今回はできるだけ順を追ってその魅力を語ってみようと思う。
彼らの魅力の一端は、ホモソーシャルな風潮が強いヒプマイの世界において、比較的とはいえそのような性格から距離をとっている点だ。リーダーである飴村乱数は「非常に女性にモテるが特定の相手は作らない」というキャラクターである。個人的に言えば、ヒプマイを知った当初はこの設定が苦手だった。いわゆる「黄色い声」で乱数を応援する女性たちの描写はステレオタイプ的で、見ていて痛々しいように感じられたし、そもそも異性愛を批判なく描いているようにも思えた。
ところが、楽曲を聞いていくにつれて、乱数と女性の関係は必ずしも異性愛的な「モテる(=恋愛や性愛対象である)」といった関係でないのではないかと思うようになった。例えば、乱数は「Hoodstar+」という曲で、「惚れた腫れたはプレタポルテ/いやいや僕はオートクチュールです」と歌う。これはいささか飛躍して言えば、彼は「惚れた腫れた」という「既成の」異性愛的な関係以外を見据えている、ということにならないだろうか。
彼が「オートクチュール」と歌う関係は、第一にはストーリーを追うごとに深まる幻太郎と帝統との三人の関係だろう。と同時に、「シブヤ」に暮らす人々との仲間意識ではないかとも思われる。楽曲における乱数やFling Posseのパートでは、女性たちを主としたファンへの呼びかけが多い。「Survival of the Illest+」では、Fling Posseのパートには「Ladies bringin' party over here」「Ladies takin' party over there」のコールが入る[xvii]。また最新の「キズアトがキズナとなる」では、乱数は「君にも響くといいな/We areシブヤ/ヴィクトリーラン」「一緒に歩こうよ」と歌う[xviii]。
そして、「キズアトがキズナとなる」と同時に発表された、各ディビジョンのリーダーによる楽曲「UNITED EMCEEZ-ENTER THE HEXAGON」での乱数のパートは一層印象的だった[xix]。ヒプマイの物語を追う上での最大の危惧は、男性キャラクターたちが「対中王区」として結束していく中で、女性キャラクターへの敵意やミソジニーをエスカレートさせるのではないかという点だ。そしてこの曲こそ、今までお互いに敵対していた男性キャラクターたちの団結を象徴する曲だった。しかしその中で、乱数のパートの歌詞は「見せてよGirls gone wild/ブレーキなんてもう無い/幕開けるNew Era/一緒に作り上げてこうよYou and I」というものだった。
これこそ、中王区の「壁の外」にも女性たちがいることを意識させてくれる一節では無いだろうか。彼の歌う「Girls」は共に中王区に向かって反抗してくれると同時に、未来を「一緒に作り上げて」いく存在なのだ。正直、巣矢の言うように「敵」「モブ」「モブの敵」にしか自身を重ね合わせることができなかった一ファンの女性としては、ようやく報われた気持ちがした。彼の想定する「オートクチュール」な関係は、Fling Posseの男性キャラクター三人という、ややもすればホモソーシャルに終わる狭義の仲間だけではなく、つねにシブヤのファンや中王区に同調しない女性たちを含んでいるのである。
◆おわりに
以上、人気コンテンツ『ヒプノシスマイク』について、フェミニズムを援用しながら批評を試みてきた。実は本稿の当初の目的の一つは、ヒプマイに惹かれてやまないわたし自身と向き合うことだった。フェミニストを自認するわたしが、どうして問題も多いヒプマイというジャンルを好きなのか。この先どのようにヒプマイと付き合っていったらいいのか。その答えの片鱗を探すことだった。
正直、目的が達成できたとは思わない。批評を試みるので精一杯で、自身がなぜこのコンテンツを好きなのか、充分に言語化できた気はしない。それでも痛感したのは、さらに批評が必要だということだ。
本稿を執筆するきっかけの一つともなり、ヒプマイというコンテンツを理解しようとする上で非常に大きな影響を受けたのが、何度も引用している巣矢倫理子の文章だ。巣矢は、コンテンツを批判されると楽しんでいる気持ちに水を差された気持ちになる、といったコメントに対して、こう返す。
『ヒプノシスマイク』のジェンダーについて一切問題ないと考える人や議論を避ける人を「悪」だとは言わない。作品に救われること自体は決して「間違い」ではない。ただ、「議論する」ことも「議論を無視する」ことも、それぞれ一つの政治的立場なのだという認識は必要だ。
ここでいう政治とは、狭義の政治――例えば、ニュースサイトの「政治」カテゴリで語られている話題――ではなく、広義の政治――人間集団における意思決定のための全ての営み――である(巣矢、2018)。
ヒプマイを知りはじめて魅力に取り憑かれるとともに、そのホモソーシャルな雰囲気に疑問を感じていたころ、ネット上で出会ったのがこの文章だった。コンテンツを「推す」と言うのは、無批判に楽しむことのみを指すのではない。批判をするという向き合い方もあるということ、そして批判をしないという態度もまた「政治的」であるということを力強く述べるこの文章があったからこそ、わたしは半ば安心してヒプマイを批判し、コンテンツを楽しんでこられたのだとも思う。
わたしの文章が巣矢の文章のように広まることはなくとも、どこかでまたヒプマイに惹かれている誰かのもとに届き、さらなる批評と批判を呼び、ヒプマイがより配慮されたコンテンツになる遠因となることを、一人のファンとして願ってやまない。
引用・参考文献
[i] 公式ホームページより。二〇二二年四月三十日最終閲覧(https://hypnosismic.com/about/)。
[ii]「【ビルボード】TWICE『#TWICE4』初週7万枚を売り上げてアルバム・セールス首位」二〇二二年三月二十一日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://news.yahoo.co.jp/articles/1745a3b3a8ed280e56fde835b9ab3947509d610d)。
[iii]「ヒプマイ、経済効果100億円超 『日本商品化権大賞』各部門賞発表でワンピース、DBなど」二〇二〇年一月二十三日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://www.oricon.co.jp/news/2153742/full/)。
[iv] 現在は変更されているため、引用は「『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない」二〇一八年八月三日更新、二〇二二年五月一日最終閲覧(https://wezz-y.com/archives/57096)による。
[v] 巣矢、二〇一八年。
[vi] 高井くらら、二〇一八年「韻(ライム)で書き換えるビジョン 『ヒプノシスマイク』における言葉と暴力においての試論」『エクリヲ vol.9』、二七三―八三頁。
[vii] 巣矢も指摘しているように、作品中には「てめーら俺の前で『だって』とか『けど』、なんてカマ野郎みてえなセリフ吐いてんじゃねえよ」(「Drama track1」、『ヒプノシスマイク Buster Bros!!! Generation』、KING RECORDS、KICM-3331、二〇一七年)
「クソ女どもに尻尾ふらなきゃなんねぇとか虫唾が走るな」「カビの生えた話はそこらにいるクソ女の(規制音)にでもぶちこんどけ」(「Drama Track[Know your Enemy side B.B VS M.T.C.]」、『ヒプノシスマイク Buster Bros!!! VS MAD TRIGGER CREW』、KING RECORDS、KICA-3272、二〇一八年)といったセリフが見られる。
[viii] 潤がどのような性自認やセクシュアリティを持つのか、作品内では言及されない。ただ、潤の服装や話し方はいわゆる女性的なものだが、声優は男性(三宅健太氏)が演じている。
[ix] 文末注ⅴを参照。「俺の前で『だって』とか『けど』なんてヌルい台詞吐いてンじゃねーよ!」に変更。EVIL LINE RECORDS・蟹江鉄史・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク—Division Rap Battle—side B.B&M.T.C 1』、講談社、二〇一九年。
[x] EVIL LINE RECORDS・鴉月ルイ・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク —Before The Battle—The Dirty Dawg 01』、講談社、二〇一九年。
[xi] ヒップホップのミソジニーやホモフォビアに関しては、巣矢も指摘しているほか、長谷川町蔵・大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング、二〇一一年)でも言及されている。
[xii] Channelヒプノシスマイク「ヒプノシスマイク 『Femme Fatale』Music Video」二〇一一年十一月二十五日投稿、二〇二二年四月二〇日最終アクセス(https://www.youtube.com/watch?v=T1h-ykyfqFA)。
[xiii] 「流転は篠突く雨ですら流せない」「山雨来らんと欲して風楼に満つ」、『ヒプノシスマイク —Division Rap Battle—Official Guide Book』初回限定版CD、KING RECORDS、二〇二〇年。
[xiv]「女性管理職の平均割合、過去最高も8.9%にとどまる」、PR TIMES、二〇二一年八月十六日更新、二〇二二年四月二十九日最終閲覧(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000334.000043465.html)。
[xv] EVIL LINE RECORDS・城キイコ・百瀬祐一郎『ヒプノシスマイク —Division Rap Battle—side F.P&M 1』、一迅社、二〇一九年。
[xvi] 清水晶子、二〇二一年、「『同じ女性』ではないことの希望——フェミニズムとインターセクショナリティ」岩渕功一編著『多様性との対話 ダイバーシティ推進が見えなくするもの』青弓社、一四五―一六四頁。
[xvii] Channelヒプノシスマイク「ゲームアプリ『ヒプノシスマイク -Alternative Rap Battle-』OP曲『Survival of the Illest +』」二〇二一年六月十八日投稿、二〇二二年五月一日最終アクセス(https://www.youtube.com/watch?v=ShgdTo_cdC0)。
[xviii] 「キズアトがキズナとなる」『キズアトがキズナとなる』、KING RECORDS、KICA-3294、二〇二二年。
[xix] 同上。
長いこと、文章を書かないでいた。このブログもほったらかしだったし、修論も、こっそりつけている紙の日記も書いていない。制限字数にも満たないTwitterの呟きがせいぜいだった。
とくに理由があったわけでもない。強いていうなら秋からはじめたアルバイトをこのあいだ辞めて(半分以上クビになったようなものだ)、修論は提出できずふたたび休学し、まあいろいろと限界だったのかもしれない。この期間、なんだかずっと焦っていた。
焦っていた、というのがいちばん的確だ。わたしはもうすぐ26歳になるのだが、勝手に「この年齢ならこうなっていなくては」というのを持ち出して、ずっと焦っている。修士課程くらい出ていなくては、就職くらいしていなくては、恋人くらいいなくては、自分のセクシュアリティを理解していなくては。等々。
そんなに自分に呪いをかけなくてもいいよ、と自分でも思うし、そう言ってくれる人間も周囲にいるのだが(本当に足を向けて寝られません)、彼らにはありがとうと言いつつ、内心、でもあなたは修論も出してるし就職もしたことあるし恋人やパートナーもいるじゃないですか、とこうなってしまう。非常にまずいのだ(ちなみに、これは去年ひとに言われて自覚したのだが、わたしは「だれかとパートナーになりたい」という願望が強いらしい。別に恋愛でも友情でもその他でも構わないけれど、モノアモリー的関係とか、「親友」とかに弱い。さいきんは阿佐ヶ谷姉妹にすら「いいなあお互いがいて」と嫉妬している)。
阿佐ヶ谷姉妹への感情も含めて、それはわたし自身のやっかみだと100パーセント理解しているのだけど、どうしたらいいのか皆目検討がつかない。30代になったら楽になるみたいなことを時々聞くが、それまでこの苦しみは続くのだとしたら、そこまで生きのびる自信もあまりない。なんとかしてパートナーを見つけたりして、「こうなっていなくては」をクリアすればいいのかもしれないけれど、それは根本的な解決にはならない気がする。
たぶん、解けてしまえば簡単な呪いなのだろう。でもまだ解けない。明日には解けるかなあ、と思いながら、わたしは26歳になってゆく。
最近暗いニュースばかりで、いよいようつがひどくなってきた。早朝覚醒はしなくなったが、このタイミングで生理までやってきて過眠がひどい。感染拡大は止まらず外に飲みにも行けないし、相変わらず論文執筆は進まない。
しかし悪いことばかり考えていても何にもならぬ。少しばかり生産的(!)なことをしようと考えて、というか単に空腹になったので、深夜にラーメンを作るのに最近はまり出した。大したラーメンではない、サッポロ一番の塩らーめんだ。
マルちゃん正麺かと思っていたら違った。しかしまあどちらでもこだわりはない。
ラーメンは奥が深い、というが、わたしの作るラーメンはそんなものとはほど遠く、ほんとうにシンプルな素ラーメンだ。ネギも何も足さず、麺の上に乗っているのは付属の切りごまだけ。この切りごまがおいしい。ややもすれば単なる塩味になってしまうスープに、優しさと風味を与えてくれる。それをずるずる、外では出さないような大きな音をさせて啜る。
考えてみれば、安価で手頃なインスタントラーメンはいつも、少しだけ特別な食べ物だった。食べすぎれば体にあまり良くないせいか、家族はあまりわたしにインスタントラーメンを食べさせなかったように思う。ましてや深夜になど、考えるまでもないことだ。
しかし大人になった今、実家暮らしという制約はあるが、わたしは好きなだけラーメンを食べることができる。しかも野菜も何も乗せないで、思いっきり不健康に。そうそう、とわたしは思う。留学中、一人暮らしをしていた頃もこうしてたんだった。大きなどんぶりが手に入らなかったので、鍋から食べていたっけ。外国暮らしはとても大変だったけど、日本のともだちが送ってくれたラーメンを啜るひとときは、どこか安心して幸せだった。
こんなことを思いながらラーメンを啜るとき、なんとなく啜るという行為に一生懸命になってしまって、悲しいことや不安を少しだけ忘れられる。喉まで詰まった悲しみも、塩辛いスープで打ち消してしまえるような気がする。インスタントラーメン一杯を食べて一日を終えることができれば、人生オールオッケーという気さえする。
明日まで生きよう、と深夜に思う。今夜は死なないで。だって司法解剖をされて、胃からラーメンがたくさん出てきたら、ちょっと笑えるじゃないか。
むかし、短歌をはじめたばかりのころ、「アイドルの歌をバックに聴きながら生きているからラーメン啜る」という歌を詠んだ。今いるのはラーメン屋でもないし、アイドルの歌は聴こえてこないが、そこにあるのはいつもよりにぎやかな静寂だ。生きよ、深夜にラーメンを啜れ、そう格言のようにつぶやいて、少し愉快になる。
注意:自死に関する内容があります。
眠れない夜、君のせいだよ、という、アニメ「キテレツ大百科」の歌がずっと頭を駆けめぐる、そんな真夜中である。ただしわたしの場合は、恋人とキスをしたからドキドキしているのではなくて、単に眠れないだけだ。どうせなら、もう少し今の自分にふさわしい歌詞を思い浮かべたい。できたら静けさに満ちた、短い詩を。
そこで思い出したのが、ラングストン・ヒューズ(Langston Hughes)の“Suicide’s Note”だった。たった3行の、ごく短い詩である。ヒューズについては、(真夜中で目もしぱしぱするので)詳しくは書かないが、1902年生まれのアフリカ系アメリカ人の詩人で、ハーレム・ルネサンスという20年代の芸術運動をリードした、有名な詩人だ。
“Suicide’s Note”
The calm,
Cool face of the river
Asked me for a kiss.
「自死の書き置き」
静かな、
冷たい川の水面に
キスしてくれと頼まれたので。(拙訳)
この作品、“Suicide's Note”を知ったのは大学の学部生のとき、英文学のゼミでのことだった。あるヒューズの詩を取り扱った際、教授が関連本としてヒューズの訳本をクラスに見せてくれた(訳本はかなり出ているが、どの本だったか忘れてしまった)。渡された本をぱらぱらとめくっていた時、ひときわ目を引いたのがこの詩だ。ひとつは、その短さのゆえに。もうひとつは、その直前、友人を自死で失っていたがゆえに。
わたしの友人は、ヒューズの歌ったように「川の水面に」キスして死んだのではなかったが、わたしが少なからず動揺したのは、あまりにヒューズの描く死の描写がうつくしかったからだろう。不謹慎ともされる自死をここまでうつくしく捉えてしまう感性と、その表現は、わたしにとって衝撃だった。
あまりに静かな、冷たい、繊細な死の表現。わたしは急いで本文をノートの隅にメモした。今思えば、それが、死んだ友人からの書き置きそのもののように感じたからかもしれない。彼女は、誰にも、何も残さなかったから。
さて、暗い話がしたいのではない。わたしは眠りたいのだ。この上鬱々としたいわけでも、これを読んでいるあなたを鬱々とさせたいわけでもない。ただ、ハムレットが言うように「死とは眠り」であり、両者が近いものであるなら、眠ろうとしているいま、わたしはほんの少しだけ死に近づくことになる。そのときにヒューズの詩を思い出す。静かな、冷たい水の面を、わたしは唇に感じるような気がする。
出典:https://www.poetryfoundation.org/poems/147906/suicide39s-note
(2021/7/4最終アクセス)
https://www.poetryfoundation.org/poets/langston-hughes
(2021/7/4最終アクセス)