5〗人口爆発時代。軍国日本の深刻な食糧危機。宇宙と人類の誕生。日本の自然災害。地球温暖化。 (original) (raw)

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2023年10月17日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「ネアンデルタール人は なぜ絶滅したのか 「言葉を話し、現生人類と交雑していた?」
古代文明
ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、約4万年前に絶滅したヒト科の絶滅系統である。
前編では、彼らは何者だったのか、何を食べていたのか、そして食人の習慣があったことを解説した。
今回の後編では、ネアンデルタール人の文化や言語、現生人類との交配について掘り下げていきたい。
目次 [非表示]
ネアンデルタール人の文化は、どのようなものだったのか?
ネアンデルタール人は、言葉を話したのか?
人類とネアンデルタール人は、交雑していたのか?
ネアンデルタールDNAの影響とは
ネアンデルタール人は、なぜ絶滅したのか?
さいごに

ネアンデルタール人の文化は、どのようなものだったのか?
ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか
画像 : たネアンデルタール人の狩猟者 wiki c Trougnouf
ネアンデルタール人は、石や木、骨などの自然素材を加工する技術に長けていた。
彼らは石の割れ方をよく理解しており、時間をかけてさまざまな石器を作る方法をみつけた。
また、白樺(しらかば)のタールという、現存する最古の合成素材を作り、接着剤や道具の柄として使用していたことが、いくつかの遺跡から明らかになっている。
さらに骨に彫刻をしたり、貝殻やワシの爪に鉱物を塗ったりしていたようだ。
一部の研究者は、ネアンデルタール人イベリア半島の洞窟の壁に絵を描いていたと主張しており、2021年の研究によると、「Cueva de Ardales」という遺跡では、顔料の塊も発見されている。
しかし、これらの顔料が絵画と化学的に一致するかどうかは、まだ証明されていない。
ネアンデルタール人は、言葉を話したのか?
ネアンデルタール人は なぜ絶滅したのか
画像: 現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較写真 CC BY-SA 2.0 DEED
研究者たちは、ネアンデルタール人が声でコミュニケーションを取っていたことは概ね同意しているが、彼らに言語があったかどうかは依然として論争の的となっている。
2021年のある研究によると、ネアンデルタール人の内耳の構造は、彼らにとって何らかの形の言語が日常生活で重要であったことを示唆しており、おそらく私たちと同じような範囲の音を出すことができたと考えられている。
ただし、彼らの言語の存在を直接裏付ける証拠はない。ネアンデルタール人の文字記録は残されておらず、声帯も保存されていない。つまり、彼らの言語がどのような音に聞こえたのか、どれほど複雑であったのかはわからないのだ。
直接的な証拠がないにもかかわらず、ほとんどの研究者は「ネアンデルタール人は言葉を話していた」と考えている。
彼らには現代人と同じような声の構造があり、複雑な社会グループで生活しており、複雑な考えを伝える方法が必要だったからだ。
2023年に発表された研究によると、ネアンデルタール人は、私たちや私たちの近縁種であるチンパンジーと同じように、社会的相互作用において認識できるジェスチャーを使用していた可能性もあるという。
遺伝子研究によると、ネアンデルタール人も、人間の言語能力に重要な役割を果たす「FOXP2遺伝子」を持っていたことがわかった。
ネアンデルタール人は なぜ絶滅したのか
画像 : FOXP2 PDBに登録されている構造 wiki c SWISS-MODEL
FOXP2遺伝子は、音声の生成や理解、運動の制御など、言語能力に必要なさまざまな機能を調節していると考えられており、ヒト、チンパンジー、ゴリラなどの霊長類に存在する。
しかし、彼らのFOXP2遺伝子は、私たちのものとはわずかに異なった働きをしていたようだ。
そのため、2019年の研究レビューによると、ネアンデルタール人の言語の複雑さについては、まだ明確な結論を出すことはできないという。
人類とネアンデルタール人は、交雑していたのか?
2010年の研究により、「ネアンデルタール人が現代人の祖先と交雑していた」ことが、DNAの証拠から初めて示された。
2014年の研究では、元のネアンデルタール人ゲノムの最大50%が現代人全員に広がっている可能性が示されている。サハラ砂漠以南のアフリカ系ではない人々では、最新の分析によると、DNAのおよそ1%から2.4%がネアンデルタール人由来であることが示唆されている。
2020年の研究では、サハラ砂漠以南のアフリカ系の人々にもわずかな量のDNAが発見されたが、これはユーラシア大陸からアフリカ大陸に人類が移住した際に、ネアンデルタール人由来のDNAが混ざり合ったと考えられている。
なお、異なる遺伝子を持つ個体同士の交配を「交雑」と呼び、ゲノムとは、生物が持つ遺伝情報の総称である。
現代人のネアンデルタール人由来の遺伝子は、約5万5千年〜6万年前に起こった交配から来ていると考えられている。
しかし、ホモ・サピエンスの化石のDNAから、交配はそれよりも後の約4万年から4万5千年前、ネアンデルタール人が絶滅する直前にも行われていたことがわかっている。
さらに、より古いネアンデルタール人の化石から得られた遺伝子データによれば、ホモ・サピエンスとの交配は10万年から20万年前に、何度も起こっていたようだが、その時代の交配は現代人の祖先を残さなかったようだ。
つまり「1回目の交配は現代人の祖先を残さなかったが、2回目と3回目の交配から現代人の祖先が生まれた」と考えられているということだ。
ネアンデルタールDNAの影響とは
ネアンデルタール人は なぜ絶滅したのか
画像 : ネアンデルタール人の老人と子供の復元 wiki c Wolfgang Sauber
彼らから受け継いだ遺伝子が、私たちにどのように影響を与えているのかも明らかになってきている。
ネアンデルタール人由来の遺伝子の中には、私たちの免疫力を強くするものがたくさんあったのだ。
これは、彼らが30万年以上にわたってユーラシア大陸の病原体に耐性をつけてきたため、初めてこの大陸に足を踏み入れたホモ・サピエンス(現代人の祖先)にとって役に立ったと考えられている。
さらに、他のネアンデルタール人由来の遺伝子には、生殖を促進し、流産を防ぐ効果があるようだ。
また、ある研究では、ネアンデルタール遺伝子変異を持つ人は脳の形がわずかに長く、より浅くなる傾向があることがわかったが、この違いは、脳の機能に大きな影響を与えるほどではないという。
しかし、ネアンデルタール人由来の遺伝子の中には、古代には有益だったかもしれないが、現代では悪影響を与えるものもあるとされている。
例えば、あるネアンデルタール遺伝子変異は、現代人をより痛みに敏感にし、老化を早める可能性がある。
2023年の研究では、ネアンデルタール人のDNAが「バイキング病」、つまりデュプイトレン拘縮と強く関連していることが判明し、2014年の研究では、クローン病やその他の自己免疫疾患と関連していることが明らかになった。
このように、ネアンデルタール人由来の遺伝子の影響は、必ずしも一様ではない。
例えば、あるネアンデルタール遺伝子変異は、COVID-19で重症化するリスクを高めたが、別のネアンデルタール遺伝子は、COVID-19の重症化から守った。
この分野の研究はまだ初期段階だが、彼らの遺伝子がCOVID-19感染症に対するリスクにどのように影響を与えているのかを理解することができれば、COVID-19の予防や治療にも役立つ可能性がある。
今後、ネアンデルタール人由来の遺伝子の研究が進むことで、現代人の健康について、より深く理解することができるようになるだろう。
ネアンデルタール人は、なぜ絶滅したのか?
画像: ネアンデルタール人女性 by Bacon Cph CC BY 2.5
現代人のDNAに遺伝子が残っているにもかかわらず、ネアンデルタール人は約4万年前に独自の人類種として姿を消した。
その理由は、まだ完全には解明されていない。
有力な仮説としては、気候変動が挙げられている。
絶滅までの1万年間に急激な気候変動があり、環境と食料に大きな影響があったことが発見されている。しかし、ネアンデルタール人は過去にも不安定な気候や、極端な環境を生き抜いてきている。
また、我々の祖先であるホモ・サピエンスユーラシア大陸に到達したとき、ネアンデルタール人と生息地や獲物を奪い合ったという説もある。
しかし、より最近の研究によると、ホモ・サピエンスの初期の集団は少なくとも10万年前にはユーラシア大陸に存在し、6万年前にはオーストラリアに到達していたことが明らかになっている。
さらに「現生人類とネアンデルタール人との間に争いがあった」という考古学的証拠も見つかっていない。
多くの要因が考えられるが、ネアンデルタール人は比較的小規模で孤立した共同体を形成していたため、行動範囲を広げた結果として、さまざまな課題に直面していた可能性が高い。
そのため、ネアンデルタール人は緩やかに絶滅するリスクが高まっていき、衰退していったのだろう。
これは、ネアンデルタール人の絶滅が、特定の単一の原因によるものではないということだ。
さいごに
ネアンデルタール人の研究は年々進んでいるが、まだ多くのことが明確にはわかっていない。
今後のさらなる研究により、多くの疑問が明らかになっていくことを期待したい。
参考 : Neanderthals: Our extinct human relatives | Live Science
関連記事 : ネアンデルタール人 ~絶滅した人類の親戚 「食人の風習があった」
lolonao
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フィリピン在住の50代IoTエンジニア&ライター。
antiX Linuxを愛用中。頻繁に起こる日常のトラブルに奮闘中。二女の父だがフィリピン人妻とは別居中。趣味はプチDIYとAIや暗号資産、マイクロコントローラを含むIT業界ワッチング。
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有能な学生は、ブラックな官僚を嫌い、才能を正当に評価する外資系企業に就職している。
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2024年10月8日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「英誌が憂う「日本の官僚の凋落」と「霞が関のブラック度」
暗雲垂れ込める国会議事堂 Photo: Getty Images
かつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや憧れの職業ではなくなった。その過酷な労働環境から「ブラック霞が関」とも呼ばれ、若く優秀な人材がスタートアップ企業へ流出していると、英誌「エコノミスト」が報じる。
【画像】英誌が憂う「日本の官僚の凋落」と「霞が関のブラック度」
日本の官僚は「冬の時代」を迎えている
「おれたちは国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃないんだ」
小説『官僚たちの夏』の主人公、風越信吾は誇り高くそう言う。通商産業省(現・経済産業省)の官僚である風越は、階級がわずかに高いだけの政治家である大臣に対し、挨拶のために立ち上がることを拒んだ。
1975年に出版されたこの小説は、戦後の高度経済成長期、名門大学の卒業生がこぞって一流官庁の仕事を求めた時代に、日本の官僚がいかに権力を持っていたかを物語っている。当時の高級官僚は、エリート銀行員に匹敵するステータスと権力を有し、日本の国家機構を動かしていた。
しかし、このようにかつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや冬の時代を迎えている。優秀な人材が過酷な労働条件から逃れ、より良い機会と柔軟性を求めて霞が関を去っているのだ。
「キャリア官僚」と呼ばれるエリートのうち、採用後10年未満の退職者数は2年連続で過去最多を記録した。キャリア官僚の採用試験の志願者数は、2012年から2023年に30%減少。試験合格者における東京大学の卒業生の割合は、2000年の32%から2024年は10%未満にまで減った。
今日の優秀な若者たちは、霞が関を目指すよりもスタートアップ企業での仕事を選んでいる。
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10月8日19:00 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「英誌の報道「日本の霞が関から若く優秀な人材が流出している」
暗雲垂れ込める国会議事堂 Photo: Getty Images
かつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや憧れの職業ではなくなった。その過酷な労働環境から「ブラック霞が関」とも呼ばれ、若く優秀な人材がスタートアップ企業へ流出していると、英誌「エコノミスト」が報じる。
【画像】英誌の報道「日本の霞が関から若く優秀な人材が流出している」
日本の官僚は「冬の時代」を迎えている
「おれたちは国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃないんだ」
小説『官僚たちの夏』の主人公、風越信吾は誇り高くそう言う。通商産業省(現・経済産業省)の官僚である風越は、階級がわずかに高いだけの政治家である大臣に対し、挨拶のために立ち上がることを拒んだ。
1975年に出版されたこの小説は、戦後の高度経済成長期、名門大学の卒業生がこぞって一流官庁の仕事を求めた時代に、日本の官僚がいかに権力を持っていたかを物語っている。当時の高級官僚は、エリート銀行員に匹敵するステータスと権力を有し、日本の国家機構を動かしていた。
しかし、このようにかつて強大な権力を握っていた日本の官僚は、いまや冬の時代を迎えている。優秀な人材が過酷な労働条件から逃れ、より良い機会と柔軟性を求めて霞が関を去っているのだ。
「キャリア官僚」と呼ばれるエリートのうち、採用後10年未満の退職者数は2年連続で過去最多を記録した。キャリア官僚の採用試験の志願者数は、2012年から2023年に30%減少。試験合格者における東京大学の卒業生の割合は、2000年の32%から2024年は10%未満にまで減った。
今日の優秀な若者たちは、霞が関を目指すよりもスタートアップ企業での仕事を選んでいる。
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10月8日 YAHOO!JAPANニュース Forbes JAPAN「「日本を呪縛する学歴の不条理」、東大こそは諸悪の根源? 話題書を読む
『「反・東大」の思想史』 (尾原宏之著、新潮選書) が静かに売れている。
アマゾンの同書ページに掲載された紹介文は以下のとおりだ。
「『東大こそは諸悪の根源!』──批判者たちの大義名分とは? 国家のエリート養成機関として設立された『東大』。最高学府の一極集中に対し、昂然と反旗を翻した教育者・思想家がいた。慶應義塾、早稲田、京大、一橋、同志社法律学校や大正自由教育を源流とする私立大学、さらには労働運動家、右翼まで……彼らが掲げた『反・東大』の論理とは? 『学力』とは何かを問う異形の思想史」。
そして帯には、「日本を呪縛する学歴の不条理」と記されている。
同書はいったいどんな本なのか。本書から、「ある京大法学部1年生の『仮面浪人で東大法学部に合格』およびその後の顛末」について書かれた125~127ページを以下、転載でお届けする。
■大正の「仮面浪人」事件
1921(大正10)年の春、京大法学部の1年生、杉之原舜一が東大法学部を受験し、見事合格した。現代風にいえば「仮面浪人」に成功したことになる。
今日では、さまざまな理由から「仮面浪人」となる大学生は大勢いるので、珍しい話に聞こえないかもしれない。だが杉之原の合格は、東大と京大、そして願書を取り次いだ第一高等学校の間のトラブルに発展し、新聞沙汰となった。京大法学部教授会が在校生の東大受験を問題視し、杉之原を放校処分にしてしまったからである。
杉之原は京大を辞めようとしていたわけだから、放校それ自体はさほど困らないように見える。問題は、京大が放校処分にした学生を、同じ帝国大学である東大が受け入れるわけにはいかないという点にあった。
京大の処分を受け、東大法学部は杉之原の入学を取り消した。杉之原は、京大から追い出され、東大から受け入れを拒絶されて行き場を失ってしまったのである。『読売新聞』は「虻蜂取らずになつたのみか学界からは永遠に死刑の宣告を受けたと云ふ奇怪極まる話」としてこの事件を取り上げた(6月8・14日)。
日本の左翼運動史において、杉之原舜一は多少知られた人物である。のちに民法学者となり、九州帝国大学法文学部の助教授に着任するも内紛で職を追われ(九大事件)、その後マルクス主義者となって非合法時代の日本共産党に入党した。家屋資金局の責任者として活動するも、やがて「スパイM」に売られて治安維持法違反で入獄する。戦後は学界に復帰して法政大学法学部長、北大法文学部教授を歴任した。北大在職中に再び共産党に入党、レッド・パージの中で大学を去り、参議院議員への立候補(落選)を経て、長く弁護士として活動した。その自伝のタイトル『波瀾萬丈』を地で行く生涯である。
杉之原は一高出身で、多くの同級生と同じように東大を目指していた。ところが病気(結核)のため卒業後に入試を受けられず、当時無試験で入学できた京大法学部に籍だけ置いて東京で療養することになった。1年後、「合格してから京大に退学の手続きをすればよい」という東大事務の言葉を信じて受験に挑み合格したわけだが、京大側は在校生の他校受験を許さず、放校処分にしたのである。
京大の鈴木信太郎学生監は、「他の学校の入学試験を受ける如き軽佻浮薄の行為は学生の本分に違背する」と処分理由を説明し、願書を取り次いだ一高、受験を許可した東大の責任を指摘した(前掲『読売新聞』)。
行き場を失った杉之原は、東大法学部教授の末弘厳太郎吉野作造、そして京大法学部長に就任したばかりの佐々木惣一のところに押しかけ、助力を求めた。末弘も吉野も佐々木も同情的だった。末弘や佐々木はこの事件をきっかけに杉之原に目をかけるようになり、とくに末弘は杉之原が研究者として身を立てる際に親身に世話をした。
吉野作造の「急変」
問題は吉野である。当初は処分取り消しを求めて京大法学部長の佐々木に談判した吉野だったが、佐々木との面会以降、態度を急変させた。吉野は杉之原に再会するなり、「君、これは、今年はむずかしい。1年間がまんしろ」と説得したという(『波瀾萬丈』)。要するに、東大入学は諦めろということである。前出の『読売新聞』は、東大法学部における「入学取消の主唱者」は実は吉野であるという説を紹介している。
杉之原はこの時、「大正デモクラシー」の旗手である吉野に対する尊敬の念が一気に吹き飛ぶのを感じた。吉野が態度を急変させたことが悪いのではない。問題は、その説得のやり方である。吉野は「1年くらい学校がおくれても大したことはない。私も1年、東大を出るのがおくれているが、いまでは官等、勲位など高等学校同期のものとかわりがない」と杉之原を慰めたという。
この吉野の言葉が、杉之原にはショックだった。民本主義者として知られた吉野が、実は官等や勲位の上下を気にしていたことがわかったからである。この日以来、杉之原は吉野に寄りつかなくなった(杉之原前掲書)。
八方塞がりとなった杉之原は、「もう官学に愛想が尽きましたから早稲田大学の政治科へでも入れて頂きたいと思つてゐます」と新聞に語った(前掲『読売新聞』)。これは末弘が早稲田の中村萬吉教授に杉之原を紹介したことによる。
ちょうど杉之原が早稲田入学の決意を固めた頃、事態は大きく動いた。京大法学部長の佐々木が、来年復学願を出せば受理すると末弘に伝えてきたのである。最初からそこを落としどころにしていたのか、新聞沙汰になったので慌てて事態の収拾を図ったのかは定かでない。早稲田の中村教授も「京大へいけるなら、そのほうがよい」と杉之原を諭し、念願の東大入学は叶わなかったものの、京大に復学できることになった(杉之原前掲書)。
京大生の東大(再)受験が決して珍しくなかったことは、杉之原自身の談話や、一高の谷山初七郎教授の談話からも明らかである。杉之原は、ほかの京大生も東大を受験しているのに、不合格者は軽い処分で済み、合格した自分だけが放校になるのは不公平だ、と佐々木に抗議した。杉之原がのちに「京大の東大への対抗意識というか、感情的なものがあったことはいなめない」と回想したように、見せしめとして処分された感がある。
一高の谷山は、この年から急に京大の他大受験に対する取締が厳格になったことを指摘しているが、それは京大当局の強い危機意識によるものだろう。実は、当初杉之原を支援していた吉野が佐々木との面談後に態度を急変させたのは、「学生が皆東京を望んで転校すると云ふ事になれば京都の大学も困る」という、京大側の事情を呑み込んでのことだった(前掲『読売新聞』)。
『「反・東大」の思想史 』(新潮選書、尾原宏之著)
Forbes JAPAN 編集部
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ザイム真理教

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2024年10月7日 YAHOO!JAPANニュース THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン)「日本「バブル崩壊」の裏に隠された大蔵省と日銀の失態…“常識では考えられない”政策の末路【森永卓郎の見解】
1990年初頭、バブル崩壊からの10年は長期不況と景気後退が続いたため「失われた10年」と呼ばれています。バブルが崩壊してから、10年ものあいだ日本経済が回復しなかったのはなぜなのでしょうか。森永卓郎氏の著書『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』(三五館シンシャ発行、フォレスト出版発売)より、バブル発生から崩壊後の流れを詳しくみていきましょう。
バブルはこうして発生した
プラザ合意による超円高が訪れた後、日本経済は深刻な景気後退に突入した。政府と日銀は景気悪化を食い止めるため、大きな財政出動と大胆な金融緩和を重ねる大規模経済対策に打って出た。
まず財政政策を見ると、公共事業費(実質公的固定資本形成)の伸びは、1986年が3.9%、1987年が5.1%、1988年が5.5%、1989年は▲0.4%となっている。高いといえば高いのだが、とてつもなく大きいというわけではない。
一方、日銀は、それまで5.0%だった公定歩合を1986年1月に4.5%に引き下げた。その後、同年3月に4.0%、同年4月に3.5%、同年11月に3.0%と急激な引き下げを行ない、1987年2月に2.5%の最低水準まで引き下げた。急激な金融緩和によって、円高不況に対抗しようとしたのだ。
そのなかで、日経平均株価は1985年末に1万3,113円だったのが、1986年末に1万8,701円、1987年末に2万1,564円、1988年末に3万159円、1989年末に3万8,915円と、株価は4年間で約3倍に値上がりした。
不動産価格も急騰した。全用途平均の市街地価格指数(2010年3月末=100)は、1985年に159.4だったのが、1990年には46%高の233.3となり、翌1991年には257.5と最高値となった。
世間では、財政出動と日銀の金融緩和がバブルをもたらしたと言われていて、私もそうだと思っていたのだが、財政出動の規模はたいしたものではないし、公定歩合も2.5%まで下げただけだ。それでバブルになってしまうなら、近年のゼロ金利政策はもっと大きなバブルを引き起こしているはずだ。
私はバブルを引き起こした最大の原因は日銀の「窓口指導」だったと考えている。日銀は、それぞれの銀行ごとに貸出の伸び率の上限を指示する「窓口指導」をずっと行なってきた。バブル期には、表向き1980年代後半には廃止されたことになっていたが、それが存続していたことを私は知っていた。
というのも、私が勤めていたシンクタンクが銀行の子会社で、私が入社したころは、研究員の多くが銀行からの出向者だったからだ。そして、バブル期の窓口指導がとてつもない圧力を銀行に与えていたことが最近になって次々と明らかになってきた。
たとえば、『最後の頭取─北海道拓殖銀行破綻20年後の真実』(河谷禎昌著、ダイヤモンド社、2019年)で、「バブル期には、日銀の窓口指導で各行に前期比3割増といった大きな貸出枠が与えられた」と河谷元頭取は証言している。
貸出枠の伸び率は銀行によって大きく異なる。統計があるわけではないが、私が聞いた話では、少なくとも1割増程度の枠は各行に与えられていたようだ。
銀行は、日銀から与えられた貸出枠は必ず消化しなければならない。そうしないと翌年の貸出枠を減らされてしまうからだ。役所が獲得した予算を必ず消化しようとするのと同じ行動原理だ。
ところが、世の中は円高不況の嵐が吹き荒れていて、新たな資金需要はほとんどない。本来、銀行は不動産や株式の投機にカネを貸すことを許されていないのだが、そんなことは貸出の稟議書を書くときにうまく誤魔化せばよい。結果的に、銀行は投機に手を貸す形で、融資を拡大させていった。そのことがバブル発生の最大の要因になったのだ。
しかもこの投機資金への融資はしばらくはうまくいった。株価や地価が急騰したことで、十分なリターンを獲得したからだ。
しかし、バブルは必ず弾ける。暴落は1990年の年初から始まった。
バブル崩壊…10年間で“5分の1”に暴落した地価
市場最高値となった1989年12月末の日経平均株価は3万8,915円だった。以降、1年ごとに年末の株価を見ると、1990年は2万3,848円、1991年は2万2,983円、1992年は1万6,924円と、株価は「つるべ落とし」で下がっていった。誰の目にもバブル崩壊は明らかだった。
本来ならバブル崩壊を財政金融政策で緩和しなければならない。ところが、ここでじつに不思議なことが起きたのだ。
不動産向け融資の伸び率を金融機関の総貸出の伸び率以下に抑えるように大蔵省が指導する「総量規制」を導入したのは1990年3月27日で、バブルが崩壊してから3カ月も経ってからだった。
しかもこの総量規制が解除されたのは翌1991年の12月だった。バブルを抑制するために導入するのならともかく、バブル崩壊後にこんな指導をしたら、バブル崩壊後の谷を深くするに決まっている。実際、不動産の価格、とくに大都市商業地の地価は、バブル解消を通り越して、はるか深い谷(逆バブル)に沈み込んでいった。
逆噴射をしたのは日銀も同じだ。バブル崩壊後の1990年3月20日、日銀は公定歩合をそれまでの4.25%から5.25%に引き上げている。さらに1990年8月30日に公定歩合を6.0%まで引き上げた。
さすがに公定歩合は6.0%をピークに1991年7月1日に5.5%に引き下げ、その後1995年9月8日に0.5%となるまで、段階的に引き下げている。ただ、バブル崩壊後1年以上にわたって逆噴射を続けたことは事実だ。
それどころか、資金供給の面ではもっと恐ろしいことが起きている。日銀が自由にコントロールできる資金供給量をマネタリーベース(現金+日銀当座預金)と呼ぶ。
そのマネタリーベースの対前年伸び率を各年の12月の数字で見ていくと、1989年が12.6%だったのに対して、1990年は6.6%、1991年は▲2.8%、1992年は1.4%、1993年は3.7%、1994年は4.0%、1995年は6.1%となっている。
つまり、バブル崩壊の後、資金供給という面からいうと、日銀は少なくとも5年にわたって金融引き締めに走ったことになる。
なぜ、大蔵省と日銀は、常識では考えられない引き締めをバブル崩壊後も続けたのか。その理由は、正直言って、よくわからない。財務省と日銀が罹患している「引き締め病」のためか、アメリカからの圧力に屈したのか、明確な証拠はどこにもない。
ただ、はっきりしていることは、「市街地価格指数」で見ると、6大都市圏の商業地の地価は、1990年から2000年にかけての10年間で、5分の1に大暴落した。そして、戦後の日本経済を支えてきた「株式の持ち合い」と「不動産担保金融」が崩壊に向かったのだ。
森永 卓郎
経済アナリスト
獨協大学経済学部 教授
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白米神話が生んだ悲劇。
日清戦争の戦死戦傷死は1万6,000人以上、病死(脚気)は4,000人以上。
日露戦争の戦死戦傷死は5万5,000人以上、病死(脚気)は2万7,000人以上。
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2024年10月6日 MicrosoftStartニュース COURRIER JAPON「江戸時代に庶民にも行き渡った「白米」はある災いをもたらした | 五代将軍綱吉も患った
江戸時代には、成人は米を1日当たり五合も食べていたという。純白米は庶民にも少しずつ行き渡るが、それはとある病の原因にもなった。
ダンジョン飯』から学ぶ 伝統的な食事はどう生まれるのか?
※本記事は『江戸の食空間――屋台から日本料理へ』(大久保洋子)の抜粋です。
白米と江戸わずらい
当時の成人の一日当たりの米の量は、五合とされていた。副食がご飯を食べるためのものとして発展し、ご飯とおかずというパターンが日本食の基本になるのも、こんな状況下で生まれている。
とくに江戸では庶民層にも白米が普及し、上下の身分を越えて口にすることができた。玄米よりも精白米にしたものがおいしいことがわかると、精白度を高くして食事にもちいたので、五代将軍綱吉(在職1680~1709年)はついに脚気になっている。
多田鉄之助『たべもの日本史』(1972年、新人物往来社)によれば、それは綱吉が将軍になる以前、館林(現・群馬県)にいたころの話であるが、江戸市中一般でも精米の技術が進み、いわゆる白米が上流階級に好まれ、1691年(元禄四)に脚気が出始めたという。
江戸中期以降、江戸市中の町人たちも脚気で死亡することが多く、「江戸患い」といわれた。綱吉の脚気御典医の見立でかなりいい加減ではあるが、転地療養となり、練馬に別荘を建てて養生したところ回復したという。その際に尾張藩から尾州大根の種をおくられ、練馬の桜台に植えたのが練馬大根の発祥という。(続く)
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ウィキペディア
脚気(英語: beriberi)とは、ビタミン欠乏症の1つであり、重度で慢性的なビタミンB1チアミン)の欠乏により、心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。軽度の場合は、チアミン欠乏症と呼ばれる。

日本における歴史
詳細は「日本の脚気史」を参照
日本でいつから脚気が起こるようになったか定かではないが、すでに『日本書紀』に脚気の症状の記述が見られる。平安時代には、天皇や公卿を中心に白米食が広がり、脚気が発生した。江戸時代の元禄年間には、江戸において一般の武士や町人にも白米食が普及して脚気が流行し、享保年間には大阪、京都にも広がり、天保以後は地方都市でも流行した。
明治に入ってからも、脚気の流行は続いた。例えば、1870年から翌年にかけて脚気が多発しだした。陸海軍での脚気発症率は特に高かった。海軍は兵食改革を実施して脚気を撲滅した。陸軍でも白米食の代わりに麦飯とすることで脚気対策をしたが、戦時兵食を白米食にしたため、戦時には脚気惨害を招いた。
1923年には脚気死亡者数のピークに達し約2万7千人となった。1925年に脚気の原因がビタミンB不足と確定したものの、脚気は無くならなかった。1937年に勃発した日中戦争の前まで、脚気死亡者数は年間1万人から2万人で推移した。しかし、日中戦争が始まると食糧用の米が不足したために、脚気死亡者数は6千人台まで減った。
第二次世界大戦後は、栄養改善政策による栄養状態の改善や保健薬としてのビタミン剤の普及などにより、脚気死亡者数は減少していった。1956年には1000人を下回り957人、1965年に100人を下回り92人、1970年には20人と特殊希少疾患以下となり、脚気は消滅状態となった。
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日本の脚気史では、脚気の流行が国家的問題となった明治時代から、脚気死亡者数が1千人を下回った1950年代後半までの日本における脚気の歴史を中心に記述する。
概説
脚気は主食を白米とし副食が貧素な食事によるビタミンB1欠乏が原因であったが、ビタミンを知らない時代には、普通の食事で病気になるとは想像もできなかった。
日本で脚気がいつから発生していたのかは定かではないが、すでに『日本書紀』に同じ症状の病の記述がある。
江戸時代、元禄年間には江戸で白米食が普及し一般の武士や町人にも脚気の流行が見られ、「江戸煩(エドワズラヒ)」と称された。享保年間には、大阪、京都でも流行し「腫病(シユビヤウ)」と呼ばれた。文化、文政には中国地方や九州にも広がった。天保以後は、全国の地方都市でも流行が見られた。

古代
いつから日本で脚気が発生していたのかは、はっきりしていない。しかし、『日本書紀』や『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されている。平安時代になると白米食が上層階級に広まり、天皇や公卿を中心に脚気が発生した。
江戸時代
江戸時代、元禄年間には江戸で白米食が普及しており、一般の武士や町人にも脚気の流行が見られ、「江戸煩(エドワズラヒ)」と称された。享保年間には、大阪、京都でも脚気が流行し「腫病(シユビヤウ)」と呼ばれた。文化、文政には中国地方や九州にも広がった。天保以後は、全国の地方都市でも流行が見られた。
享保期の医家 香月牛山は『牛山活套』において、仕官している人や商人が江戸へ行くと足や膝がだるくなり俗に江戸煩いというが故郷に帰る途中で箱根山を越えると自然に治る、といったことを書いている。江戸を離れると治るのは白米食ではなくなるためであった。
米食の普及に呼応して米食偏重、副食軽視の風潮が生じた。 『守貞漫稿』によれば江戸町人の平均的な食事は「朝は飯と味噌汁、昼は冷飯に野菜または魚、夕は飯の茶漬けに香の物」であり、江戸の木綿問屋長谷川では奉公人は「朝は冷飯に味噌汁、昼夜ともに一菜が多く、月6回の精進日には香の物だけ」であった。
江戸時代(特に中期以降)の脚気治療においては、「飲食の禁戒を守らなければ薬効なし」というほど食養生が重視された。例えば、林一鳥や竹越元通は、素食、赤小豆食、麦の煮汁、減塩、水制限などを行った。やがて、「脚気には小豆めし、麦めし」が世間の常識となり、明治へ受け継がれていった。
明治時代
明治時代には、1870年(明治3年)以降から脚気が流行った。東京、大阪、京都を中心に、その他の大・中都市、鎮台所在地、港町にまで及んだ。上層階級よりも中・下層階級に多発し、死亡率も高かった。国民の脚気死亡者数は、1900年(明治33年)に6,500人、1909年(明治42年)には15,085人に上った。ただし当時は、乳児脚気があまり知られておらず大きく見落とされていたので、それを加味すると毎年1万人 - 3万人が死亡していたと推測される。
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農林水産省
脚気の発生
(ア)「脚気」の症状は・・・
全身の倦怠感
食欲不振
手足のしびれ、足のむくみ… など
脚気になると末梢神経や中枢神経が冒され、足元がおぼつかなくなったりするほか、重症化すると心不全を起こして死に至ることもあります。
通常、人の膝の下をたたくと足がはね上がりますが(膝蓋腱反射[しつがいけんはんしゃ])、反応しない場合は、脚気の疑いがあります。
明治時代に大流行した脚気は、長い間原因が解明されず、大正時代には結核と並んで2大国民病と言われるほどになりました。
(イ)江戸時代の食生活~「江戸わずらい」の発生
江戸時代、それまで主に玄米を食べていた江戸の人々にも白米食が広がりました。以前は、白米は身分の高い人しか食べられないものだったのです。
ところが、その頃から奇妙な病が流行り始めました。白米を食べる習慣は都市部から広がり、地方ではまだまだ玄米食が中心だった当時、江戸を訪れた地方の大名や武士に、足元がおぼつかなくなったり、寝込んでしまったりと、体調が悪くなることが多くなりました。そんな人たちも故郷に帰るとケロリと治ってしまうことが多かったため、この病は「江戸わずらい」と呼ばれました。当時の明確なデータはありませんが、亡くなる人も少なくなかったと思われます。
のちにわかったことですが、これはビタミンB1不足が招いた「脚気」という病気が原因でした。胚芽部分に多いビタミンB1は、精米で取り除かれてしまうため、白米にするとわずかしか残りません。当時の人々は一汁一菜が基本で、ご飯を大量にとり、おかずの量も数も少なかったこともビタミンB1不足の原因となっていました。
(ウ)明治初期の食生活~都市部での肉食の始まりと変わらない農村部の食事
肉食の始まり
天武天皇が675年に出した肉食禁止令に始まり、将軍綱吉が生類憐みの令を出すなど、日本では何度も肉食を禁止されたため、江戸時代に肉を食べるのは一般的ではありませんでした。
明治に入り、政府は肉食が奨励し、畜産業にも力を入れるようになりました。そんな中、牛肉とネギを味噌や醤油で味付けした料理「牛鍋」を出す牛鍋屋が大流行。しかし、この頃肉料理を食べられるのは上流階級や知識人、都市の一部の人に限られていました。
仮名垣魯文(かながきろぶん)が書いた「牛店雑談 安愚楽鍋(うしやぞうだん あぐらなべ)」の挿絵。
「牛鍋屋」を訪れる人の様子など、当時の世相が描かれています。
国立国会図書館デジタルコレクションより)
主食は「かて飯」
江戸時代の食事は、ご飯に味噌汁、漬け物という質素な食事が普通で、主食の占める割合が非常に大きかったと言われています。明治になると主食としては白米が普及し始めますが、当初は都市部が中心で、地方の人々はお米に麦や野菜、雑穀、芋、海藻などを加えた「かて飯」を食べていました。また、相変わらず副食は乏しかったようです。
14都市の主食の比率
「第二次農務統計表(明治14[1881]年)より作成
都市部では、米の比率が高く、6都市で100%の割合を占めています。
地方では米が100%のところはなく、芋や麦、雑穀の比率が高いという結果が出ています。
(エ)明治3年、「脚気」の大流行~脚気が国民病に
原因不明の病気に苦しむ
明治3(1870)年以降、東京などの都市部や陸軍があった港町から「脚気」が流行り始めました。「人口動態統計」や「死因統計」から、乳児まで含めると毎年1~3万人の人が亡くなったと推測されます。
明治10(1877)年の西南戦争でも、「脚気」患者が多発。その原因や治療法を探るため、翌年には、府立脚気病院が設立されました。しかし、この病院ははっきりとした成果を出すことなく、すぐに幕を閉じることになりました。
軍隊で蔓延
当時、経験的に「脚気」が食事で改善することは一部で知られており、皇族も脚気にかかりましたが、漢方医の提唱する麦飯を食事に取り入れ、克服したと言われています。
しかし、明確な科学的根拠が示されることはなく、治療法は確立されていませんでした。特に明治になって誕生した軍隊では、多くの兵士が同じ食事をとることもあり、大勢の脚気患者が発生。亡くなる兵士も多く、大問題となっていきました。
脚気死亡患者は、明治末期から大正時代にかけてもっとも多くなっています。
グラフ出典/糸川嘉則・山下政三監修「アリナミン物語」(武田薬品工業ヘルスケアカンパニー、1998年)
(オ)白米中心の食事が「脚気」を拡大
西洋に対抗するための国造り
江戸時代末期、日本は鎖国を解き、世界への扉を開きました。そして明治政府は西洋諸国に対抗するため、「富国強兵」と「殖産興業」政策を推し進めていきました。
農村の若者が兵隊に
徴兵されたのは多くが農家の若者でした。彼らにとって、軍隊での最大の魅力は1日6合の白米を食べさせてもらえることでした。
白飯摂取量の比較
平成17年に厚生労働省農林水産省によって決定された「食事バランスガイド」の基本形において、主食をご飯のみで補おうとした場合の適量から算出。
ところが、白米が食事の大部分を占め、副食が乏しいこの食事スタイルこそが、ビタミンB1不足を招き、軍隊内に「脚気」の患者を増やすことになってしまったのです。「江戸わずらい」と呼ばれるように都市部に多かったこの病気は、この頃から全国に広がり、国民病となっていったのです。
殖産興業~繊維産業の発展
近代的国家を目指す明治政府は、欧米の生産技術や制度を導入し、鉱工業や鉄道、電信等の事業を主導していきました。中でも象徴的なのが官営富岡製糸場です。先進的な器械を使って生糸の生産量を大幅に増やし、輸出量を拡大しました。ここでは全国から集まった工女たちが働き、やがて地元に戻って技術を広めることに貢献しました。こうして製糸業は全国に広がり、1890年代、繊維産業の輸出に占める割合は50%以上になりました。
給食制度の始まり…脚気になる工女も
当時の記録によると、富岡製糸場では、朝、昼、夜の3食が提供されていたそうです。これが働く人を対象とした初めての給食制度だと言われています。白米を中心とした給食は、当時としては恵まれていたと言えますが、田舎で雑穀を食べていた工女たちに脚気の症状をもたらすというマイナス面もありました。
広がる桑畑と食生活の変化
最盛期には、農家の4割が養蚕を営んでいました。製糸業が盛んになるに従って、蚕の餌となる桑の葉が必要になり、それまでビタミンB1の補給源だった雑穀畑が次々と桑畑に変わっていきました。また、経済の発展により、農家の人々も貨幣収入が得られるようになり、白米を食べる習慣が広がっていきました。
これらの要因により、都市に多かった「脚気」が国全体に広がってしまったのです。
明治から大正時代にかけて、桑の作付面積拡大に反比例して、ひえ・あわ等の雑穀の面積は縮小していった。
「日本村落史 講座-生活III、食生活」(野本京子、1991年)より作成
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元気通信
【2005年10月号】日本のごはん文化と江戸煩い(わずらい)
最近はスーパーマーケットやお米屋さんでも、白米以外の穀物をよく目にします。
玄米や麦、粟(アワ)などの栄養価の高さが注目されていますが、長い間、日本には「白米至上主義」ともいうべき考え方が根付いていました。
それは江戸時代にまで遡ります。
今回のテーマはズバリ「ご飯」。日本人、とりわけ江戸時代の人々がご飯に対してどんなイメージを持ち、食してきたのか。雑学を交えてご紹介します。
お江戸の食卓はビタミンB1不足!
長い間、日本の庶民の「ご飯」は玄米が中心で、白米は身分の高い人しか食べられませんでした。
状況が変わったのは江戸時代。流通システムの発展によって、江戸の庶民の食卓に白米が現れ始めました。「江戸には仕事もあって、なにより白米が食える!」として、地方から人が集まりはじめます。江戸の人口増加の最たる理由は白米、とまで言い切る学者筋もいるほどです。ちなみに「一日三食」の習慣も、玄米などに比べて消化されやすい(=腹持ちが悪い)白米の普及によって生まれたという説もあります。
しかしここで、奇妙な問題が持ち上がりました。江戸を訪れた地方の侍や大名を中心に、江戸に行くと体調が悪くなる、足元がおぼつかなくなる、怒りっぽくなる、場合によっては寝込んでしまう者が続出。侍たちが故郷へ帰るとケロリと治ったことから「江戸煩い」と呼ばれる病が流行りました。
明治に入って解明されたのですが、この病は「脚気(かっけ)」。つまりビタミンB1欠乏症です。胚芽部分に含まれるビタミンB1をそぎ落としてしまう白米中心の食事が原因でした。江戸を離れると麦や穀物、野菜などを中心とした食生活に戻るため、自然と回復したわけです。ちなみに100g中のビタミンB1含有量は、白米がおよそ0.1gなのに対し、玄米は0.5g、米ぬかに至っては2.5gもあります。
江戸煩いに悩まされた有名人といえば、「生類憐れみの令」で有名な五代目将軍綱吉。従三位だった時代に江戸煩いにかかり、占い師の指示によって練馬に御殿をつくり、転地しました。さらに「素足で土を踏むように」という主治医の指示が出たため、畑を作りました。
生母は尾張から大根の種を取寄せて撒き、畑仕事が珍しかった綱吉は日々畑に出向いたそうです。出来た大根などの新鮮な野菜を食べて回復した綱吉は練馬の地を出ていきましたが、大根畑だけは残りました。それが「練馬大根」のルーツといわれています。
もうひとり、面白い「ごはん」のエピソードを持つ将軍は、三代目将軍家光。幼い頃から偏食で体が弱く、食欲不振に陥りやすい家光のために、献立を考えた人がいました。それが乳母の春日局です。白米ではなく、菜飯、湯取(水気多めで炊いたのち、水洗いして再び蒸した飯)、茶飯、粟飯、麦飯、小豆飯、引き割り飯(臼でひいた麦をまぜた飯)の7種を混ぜたご飯が食卓に上りました。ビタミンB1だけでなく食物繊維も多く含まれていますので、消化が遅い、つまりゆっくりと時間をかけて栄養が吸収される、理に叶ったご飯だったといえます。これが四代目将軍家綱から4種になり、幕末まで続いたそうです。
このように穀物のパワーは、今になって発見されたわけではなく、古くから注目されていたんですね。ぜひ皆さんも江戸時代の教訓を活かし、穀物をバランス良くとるようにしてみてください。
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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ネアンデルタール人は、血縁の小家族主義で小規模な集団「家族」を形成し人口を激減させた。
ホモサピエンスは、宗教と政治の大家族主義で大規模な集団「国」を形成し人口を激増させた。
ネアンデルタール人は家族運命共同体で絶滅し、ホモサピエンスは国家運命共同体で生き残ってきた。
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多様性・共生を、ホモサピエンスは持っていたが、ネアンデルタール人は持っていなかった。
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2024年10月4日 MicrosoftStartニュース BUSINESS INSIDER JAPAN「ネアンデルタール人絶滅の理由は「孤立」「小規模な集団」かもしれない
ネアンデルタール人は4万年前に絶滅した。その謎を解く鍵が次々と発見されている。
ネアンデルタール人の最後の生き残りの1人から、彼らの絶滅の謎を解く手がかりが発見された。
そのネアンデルタール人の歯からとったDNAの配列を解析することで、これまで知られていなかった系統の集団が存在していたことが分かった。
DNAは近親交配の痕跡を示しており、それがネアンデルタール人が絶滅した一因となった可能性がある。
ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか。科学者たちはその大きな謎の解明に一歩近づいたようだ。
ネアンデルタール人は、我々現生人類に最も近い親類にあたる。しかし約4万年前、不思議なことに彼らは姿を消してしまった。
最近の研究で、最後のネアンデルタール人の1人から抽出されたDNAを分析したところ、現生人類が現在も繁栄を続ける一方で、なぜ彼らが絶滅したのかを解明する手がかりが見つかった。
最後のネアンデルタール人の謎
ネアンデルタール人の歯を持つ考古学者のリュドヴィック・スリマック。
何万年も前、現在のフランス南東部にネアンデルタール人が住んでいた。その1人の遺骨が2015年に発見された。遺骨の主はトーリンと名付けられ、彼がいつの時代に生きていたのかについて、科学者たちの間で論争が巻き起こった。考古学者は5万年前から4万2000年前の間だと推定したが、遺伝学者はDNA分析の結果から10万年前の遺骨だと主張した。
この違いについて解明するために、7年にわたって調査が行われた。遺伝学者はネアンデルタール人のDNAを世界各地から集め、それらをトーリンのDNAと比較したところ、彼が生きていた時代は10万年前ではなく、5万年前だったと考えるようになった。
この研究をまとめた論文がCell Genomicsに掲載された。筆頭著者のリュドヴィック・スリマック(Ludovic Slimak)はBusiness Insiderにこう語っている。
「この時点で、遺伝学者たちはツールを調整し、これまでのネアンデルタール人に関する知識を一新することにした」
つまり、ネアンデルタール人が単一の均質な集団であったという従来の考えを見直したのだ。
トーリンのDNAは、彼の年齢に近い他のネアンデルタール人とは大きく異なっていたため、彼はまったく新しいネアンデルタール人の系統に属していたはずだと研究チームは考えた。そしてトーリンの祖先の系統は、10万3000年前に分岐したと推定した。
このことによって、トーリンの骨よりもDNAの分析結果の方が、はるかに古い年代を示したことが説明された。彼のDNAは10万年以上前に生きていたネアンデルタール人のものに似ているが、彼自身はその5万年後の時代に生きていたことが最新の研究で示されたのだ。
何がこの遺伝的分岐を引き起こしたのだろうか。トーリンが属していた集団は、他のネアンデルタール人から分岐した後、トーリンが死ぬ頃まで、他の集団との接触がほとんど、あるいはまったくない孤立したコミュニティだったのではないか。つまり、このコミュニティでは5万年以上にわたって内部のメンバーだけで交配し、他のネアンデルタール人の集団とは異なる独自の系統を生み出したのではないかと研究者たちは考えている。
これほど長い間孤立したコミュニティでは、必然的に近親交配が起こるだろう。実際、トーリンのDNAからその証拠が見つかった。
コミュニティが孤立していたことは、トーリンが最後のネアンデルタール人の1人であったことの説明にもなる。近親交配によって遺伝的多様性が失われ、集団が病気や有害な突然変異、環境変化に対する脆弱性を高めることにつながったのだろう。
孤立した1つのコミュニティだけでネアンデルタール人全体を代表させることはできないが、この種が絶滅した理由の解明につながる重要な行動を示すことはできる。
「彼らは信じられないほどすっかり姿を消してしまった。人類最後の大絶滅だ」とスリマックは述べた。
孤立を選んだから絶滅したのかもしれない
スミソニアン自然史博物館に展示されているネアンデルタール人の骨格。何千年もの間にネアンデルタール人の体格がどう変わったのかを示している。
トーリンのコミュニティが孤立していたのは、地理的な理由ではない。彼らは孤立することを選んだのだとスリマックは言う。
「人類は境界、つまり社会的な境界に直面している」
トーリンのコミュニティは、フランスの中央高地で暮らしていたが、そこから歩いて数週間のところに他のネアンデルタール人も暮らしていたことが、研究で明らかになっている。
もしトーリンのコミュニティが、隣人であるネアンデルタール人を無視したのだとすれば、そうやって孤立したことが、遺伝的なことだけでなく、文化的・社会的なことにも影響を与えたという。
「これは、彼らがどのような集団だったのか、最終的になぜ、そしてどのようにして姿を消し、絶滅していったのかを理解する上で、非常に重要で中心的な観点だ」
トーリンのコミュニティは、孤立することで何万年にもわたってうまく機能してきたかもしれないが、最後には運が尽きてしまった。
「彼らの小さな社会的ネットワークは自ら崩壊し、静かに消え去った」とスリマックは述べた。
現生人類が生き長らえたのは、巨大な社会的ネットワークのおかげかもしれない
クロアチアのクラピナ・ネアンデルタール博物館では、洞窟で暮らしていたネアンデルタール人家族の様子を展示している。
ネアンデルタール人の間で、このような孤立主義的な行動がどれほど普遍的であったのかはわからない。だが暮らしていた地域の資源が足りなければ、彼らは自分たちの集団を守るために、より内向的になっていっただろう。
「競争の激しい環境の場合、集団は閉じた社会を維持するという考えは、それほどおかしなことではないはずだ」と、ビクトリア大学で旧石器時代について研究する考古学者、エイプリル・ノウェル(April Nowell)は述べている。彼女は今回の研究には参加していない。
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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の自然破壊は、目の前にある身近な里山で起きている。
自然破壊が、自然災害を甚大な天災にしている。
現代の日本人は、自然を愛し、自然を護り、自然を大事にしている、はウソである。
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2024年10月1日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「スズメが絶滅危惧種に? 里山の鳥、チョウが急速に減少
里山で個体数が減少しているスズメ=「モニタリングサイト1000」の調査に参加した佐藤良平さん提供
環境省と日本自然保護協会は1日、国内各地で動植物の状況を定点観測した結果、里山に生息する鳥類の15%、チョウ類の33%で個体数が年3・5%以上のペースで減っているとの報告書を公表した。この減少ペースが長期間続けば、スズメなどの身近な鳥やチョウが環境省レッドリスト絶滅危惧種の判定基準を満たす可能性があるという。
【写真まとめ】里山で個体数が減少している鳥やチョウ
環境省などは2003年度から、全国のボランティアの協力を得て、国内1000カ所で生態系の変化を調査する事業「モニタリングサイト1000」を継続している。今回の報告書では22年度までの調査結果をまとめた。
報告書によると、身近な鳥やチョウの減少が特に顕著で、スズメは年3・6%、日本の固有種のセグロセキレイは8・6%のペースで減っていた。オオムラサキの減少率は年10・4%とさらに深刻だった。農地や湿地などの開けた環境を好んで普段よく目にする種が減少していたという。
環境省によると、地球温暖化で生存に適した気温ではなくなったことや、管理されなくなった里山が増えて生息環境が変わったことなどが背景にあるとみられる。
調査に助言などをする専門家委員の石井実・大阪府立大名誉教授(昆虫生態学)は「深刻な結果だ。全国規模で里山の自然環境が変貌している」と話す。
里山以外でも気候変動の影響とみられる変化が表れている。全国的に南方系のチョウが増加し、暖かい気候を好む樹木が増えた。アカガエルの産卵日が10年で5~10日早まり、サンゴ礁では夏の高水温が原因とみられる白化現象が頻繁にみられるようになった。
湿地の減少など環境悪化による影響も深刻だという。シギやチドリなど内陸の湿地や沿岸域に生息する鳥類が10年間で半減し、島しょ部ではカモメ類が大きく個体数を減らしたことが分かった。
日本自然保護協会は調査結果を受け、生物多様性の回復に向け、モニタリング体制の強化とともに、地域で環境保全を進めるために「官民の支援の充実が求められる」などとする提言を公表した。【山口智
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10月1日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「日本のスズメの減少率が絶滅危惧種レベルという危うさ…全国1000カ所で20年間、研究者と市民が調査した結果
スズメ(写真:古屋正善氏)
スズメなど身近に見られる生きものがどんどん減っている――。環境省生物多様性センターと環境NGO、研究者、市民らが全国約1000カ所で2003年から続ける生態系のモニタリング調査のまとめが1日公表された。
【画像】スズメのほかに減少率が絶滅危惧種レベルなのは?
8つの分野で植生、鳥類、哺乳類、淡水魚、底生生物、藻類、サンゴ礁など広範な生きものを調べた。20年間続けて初めて明らかになった異変もある。私たちが慣れ親しんできた鳥やチョウは見られなくなってしまうのか。
■農地や草地の鳥が急減
この調査の正式名称は「モニタリングサイト1000」(通称「モニ1000」)。生物多様性保全施策に活用するために、研究者や市民の協力を得て環境省が行ってきた。2024年4月時点で、参加者は研究者、市民調査員あわせて5120人。膨大なデータや報告書は5年に1度、まとめて公表される。前回は2019年11月に公表された。
今回のまとめで注目されるのは「里地調査」。2005~2022年度の18年間に合計325カ所で約5700人が調査にあたった。かつては、国土の約4割を占める里地(里地里山とも呼ばれる)の調査は不可能と言われた。そのほとんどが私有地だからだ。調査を受託した日本自然保護協会が全国にめぐらすネットワークを通じて調査が可能になった。
「里地調査」では、出現頻度の高い鳥類106種の個体数を記録したところ、このうちスズメやツグミを含む16種は、1年あたりの減少率が環境省レッドリストの「絶滅危惧IB類」「絶滅危惧II類」に匹敵する値を示した。
こうした調査と同時に、研究グループによる解析も行われた。農業・食品産業技術総合研究機構(つくば市)の片山直樹主任研究員らの研究グループは、2009~2020年に得られた「モニ1000」のデータから47種類の鳥を選んで3つのグループに分け、記録個体数の変化を比較した。
その結果、農地、草地、湿地など開けた場所を繁殖期に利用するグループ(カルガモカワセミ、スズメ、セグロセキレイハクセキレイ、ヒバリ、ムクドリの7種)が、森林の鳥(21種)と里山の鳥(19種)に比べ、減少率が高かった。この7種の鳥は、気温上昇が顕著になった2015年以降に急減したという。
また、里地調査では、記録されたチョウ類181種のうち、出現頻度が低い種を除いた103種の33%に当たる34種の記録個体数も急減していた。
■森のウグイスの減少はニホンジカの影響か
チュン、チュンと鳴きながらチョコチョコ動き回るスズメは大都市にもいるが、水田や草地が広がる里地では電線に群がる風景が見られたものだ。当たり前だった景色が変わっているのだろうか。
「ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ」。低山でも高原でも春先から夏にかけて、ウグイスのオスによるさえずりが聞こえる。声は聞こえども姿は見えずで、姿は見えないことが多い。それもそのはずで、ウグイスは藪の中にいることが多い。
森林・草原調査では、ニホンジカが生息する森林でウグイスが減少していることがわかった。森林の下藪がニホンジカに食べられてしまうと、居場所がなくなってしまうかららしい。シカが多い調査地点の中には、ウグイスがまったく記録されなくなってしまった場所もあるという。
「モニ1000」のうち、沿岸域の139カ所で行われた「シギ・チドリ調査」では、市民調査員が、シギ・チドリ類の種類の数と個体数を春、秋、冬にカウントし、分析した。今回のとりまとめで扱った最新の2022年のデータの最大個体数を前回とりまとめ時の2017年データと比較すると、春と冬は約30%、秋は約20%減少していた。
2003年からの「モニ1000」の準備段階に行われた調査を含め、2000年のデータと比較すると、減少率は約50~60%に達した。
■湿地の減少は人間にとってもリスク
減少が目立つのは、砂浜に生息するシロチドリやミユビシギ、干潟に生息するハマシギメダイチドリ、水田で見られるタシギなど。シギ・チドリ類が減少し続けるのはなぜか。とりまとめ報告書は、湿地の減少とともに湿地にいてエサになるゴカイ、貝類、昆虫などが減っていることを挙げている。
認定NPO法人・バードリサーチによると、シギ・チドリ類の多くは、繁殖地であるロシアやアラスカと越冬地の東アジアやオーストラリアを行き来する渡り鳥。バードリサーチの理事兼研究員の守屋年史(もりや・としふみ)さんは「シギ・チドリ類は世界的に非常に危機的な状況にあります」と指摘する。
しかも、シギ・チドリ類の減少の背景にある湿地の減少は、人間にとって将来のリスクを増す現象だ。
守屋さんは「国際的に湿地を保全するラムサール条約の定義では、湿地には砂浜、干潟、マングローブ林、水田も含まれます。湿地には炭素を吸収・固定し、豪雨時にはスポンジのように水を貯える遊水・保水機能があります。いったん掘り返したり埋めたりするともとに戻すのは難しい。湿地の減少は長期的には食料を確保できなくなることや頻発する豪雨災害などの被害を減らせないという問題につながる。このままでは、鳥類どころかたくさん人が死ぬ事態にもなりかねません」と警鐘を鳴らしている。
■里地里山で生きものが減っている理由
今回注目された里地里山における生きものの減少について、モニ1000の結果とりまとめに検討委員として関わった大阪府立大学名誉教授の石井実さんは、水田生態系の変化に着目する。
もちろん、里地里山の変貌は化石燃料や化学肥料の登場により、1950年代に始まっている。里山の木々は薪炭に、落ち葉は堆肥に、草地の草は田畑の作業に必要な牛馬のエサになり、水田の数倍の面積の里山林が水田稲作を支えた。その里山林の価値が1950年代以降下がり、里山は荒れた。
農業の方法も大きく変わった。「水田をずっと一年中維持するのではなく、稲があるときだけ水を入れる。お風呂みたいな感じで使うときだけ水を入れる形になった。昔はメダカが泳いだ水路がなくなり、パイプラインができて蛇口をひねると水が出る。冬は土だけになり、水田は乾田化した。ニホンアカガエルは冬に山から降りてきて水田に産卵したものですが、乾田では卵を産めません。また、苗を植える段階で、農薬を苗の体に浸透させてしまう新しいタイプの農薬を使うようになった。水生昆虫はそれで減ってしまう」(石井さん)
スズメなどの鳥が減っている背景には、農業の変化もある。エサとなる昆虫などの減少に影響されたと考えられる。シギ・チドリの減少は、砂浜、干潟、水田を含む「湿地」の減少が主な要因だ。生物多様性を維持・保全するには、産業や土地利用のあり方という人間社会の基本を考え直さなくてはならない。
河野 博子 :ジャーナリスト
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明治期に北海道へ移住した人々は、未開地の蝦夷地を日本領として切り開く為の開拓民ではなく、武器を取ってロシアの軍事侵略から日本を守る為の戦う開拓民=屯田兵であった。
現代の歴史教育は、如何なる戦争も否定する立場から、開拓と戦争を目的とした屯田兵を否定している。
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蝗害は、自然災害の一つである。
大陸での蝗害は、宗教的解釈として「悪魔の所業」とされている。(映画『エクソシスト』)
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2024年9月30日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「300数十億匹分の卵と幼虫を焼き殺して埋めた…150年前に実際に起きた人類とある虫との壮絶な命がけの戦い
手稲山口のバッタ塚の石碑 - 撮影=鵜飼秀徳
来年2025年は北海道の開拓開始から150年の節目の年。政府は1875(明治8)年、ロシアの南下政策に対応するため、国防と営農を両立させる「屯田兵」を配置。未開の地を進む彼らを苦しめたのはマラリアコレラに加え、寒冷・大雪などの過酷な環境だけではなかった――。
【写真】手稲山口のバッタ塚。バッタを埋めて畝にした痕跡として、柵が波打っている
■150年前に実際に起きた人類とある虫との壮絶な命がけの戦い
来年2025(令和7)年は、「屯田兵」による北海道の開拓が本格的に始まって150年の節目にあたる。その開拓使の苦難を伝える存在が、道内に残されている。「バッタ塚」と呼ばれる、奇妙な昆虫の墓である。
バッタ塚は北海道開拓史時代、トノサマバッタの大量発生によって、農作物が甚大な被害を受けたことを物語る歴史遺産だ。だが長年、風雪にさらされ、その存在はいずれ消えゆく運命にある。筆者は現地を訪れ、林の中に眠るバッタ塚を確認。当時の蝗害(こうがい)の記録とともにレポートする。
札幌市街から道東に向けて車を走らせること3時間余り。富良野にも近い新得町新内の林道を歩き回る。探し回ること1時間。笹藪に埋もれるようにして土饅頭の塚がいくつも出現した。確認しただけで20基ほど。これが150年近く前、大量のバッタを退治して埋葬した、人類とバッタの戦いの痕跡である。
バッタ塚の説明に入る前に、北海道開拓の歴史を紹介しよう。
北海道への移住と開拓は1869(明治2)に開拓使が置かれて以降、本格的に進められていく。政府は1875(明治8)年、ロシアの南下政策にも対応するため、国防と営農を両立させる「屯田兵」を配置した。彼らは、寒冷・大雪などの過酷な環境に加え、マラリアコレラの流行などに苦しめられながらも、未開の地に挑んだ。
北海道を訪れれば、地名に「北広島」「福井」「岐阜」「熊本」など、本州の地域名が多いことに気づくことだろう。これは、入植者たちが遠く離れた故郷を想って、名前をつけたからである。北の大地には毎年数万人単位で入植し、明治30年頃には、北海道の人口は100万人を超えたと言われている。
開拓者を苦しめたのがバッタであった。記録上、蝗害の記述の最初は1870(明治3)年。だが、かの地が蝦夷地と呼ばれていた江戸時代以前も、頻繁に蝗害が発生していたと考えられる。アイヌの人々によって、バッタの被害が語り継がれていた。
特に、明治初期に起きた十勝地方の蝗害はひどいものだった。
『十勝開拓史年表』(加藤公夫編)によれば、十勝における蝗害は1879(明治12)年6月、池田(中川郡池田町)の利別川河口流域におけるトノサマバッタ大発生がきっかけであった。原因は、この年の冬から春にかけて、大雪と大雨が続き、地表が凍結したこと。その結果、シカが笹を食べることができずに大量餓死した。利別川はシカの死骸で汚染され、またシカが減ったことで草が生い茂り、トノサマバッタの大発生につながった可能性がある。
当時の開拓使札幌勧業係が記した記録がある。
「現地の公務員や民間人はバッタの生態の知識はまったくなかった。茫然自失として何もできず、惨事を眺めているだけだった。バッタの襲来によって、青々とした風景があっという間に赤土の荒野と化した。バッタは穀物を好み、それらを食べ尽くすと他の植物へも食い荒らした。紙や布も噛み砕いた。交尾するまでの1~2週間までが激しい群飛の期間で、1分間に650メートルほど移動する。全く手のつけようがない」(筆者意訳)
これをきっかけにして翌1880(明治13)年以降、5年間にわたって十勝地方でトノサマバッタによる被害が続く。バッタは日高山脈を超えて石狩、日高、胆振、後志、渡島、北見、釧路などに飛来。蝗害は全道へと広がっていった。バッタの大群が太陽光を遮り、日食のように辺りが暗くなったとの記述も残る。
蝗害被害を伝える図は1880(明治13)年に作成されたものだが、各地の河川に沿ってバッタが産卵地を設け、そこを中心にして蝗害が広がっている様子が窺える。
■土中に産みつけられるトノサマバッタの卵を掘り起こして焼き殺した
バッタの生態についても触れておこう。特にバッタとイナゴは混同しやすい。バッタとは「直翅目(ちょくしもく)バッタ科(蝗虫科)」に属し、その総称を指す。トノサマバッタもその一種である。イナゴはバッタの仲間であり、直翅目バッタ科イナゴ属の昆虫を指す。
明確な違いは、喉元の突起の有無だ。イナゴの喉のあたりには小さな突起状のものがあるが、バッタにはない。イナゴは古くから食用とされてきた歴史があり、特にコバネイナゴが佃煮などに利用されてきた。
蝗害を引き起こすのは、主にトノサマバッタやハネナガフキバッタ、サバクトビバッタ、などの一部のバッタ類。通常、バッタは緑色の体をした「孤独相」と呼ばれる状態で、単独で行動する。だが、バッタの個体密度が高くなると、「群生相」に変化する。すると①体色が黒っぽくなって、羽が伸びる②食欲旺盛になる③飛翔能力が高まり④繁殖のスピードも増す――などの変異をもたらす。
ひとたび、蝗害が発生すると農作物被害を引き起こすだけではなく、食糧不足や水不足を招き、人々を飢餓状態に陥らせることもある。水不足を招くのはバッタの死骸が井戸や川に入り、水を腐らせるからである。
この明治初期の蝗害のピークは、1883(明治16)年から1885(明治18)年にかけて。東京から農商務省の役人が調査と対策のために、たびたび現地を視察した。
開拓民にとっては恐怖でしかないバッタの襲来は、1885(明治18)年の長雨によって、ようやく終息する。羽が濡れたバッタが飛べなくなり、地面に折り重なって共喰いを始めたのだ。
明治新政府は本州への飛蝗を食い止めるため、そして開拓者の意欲や希望を失わせないために、駆除のための資金5万円(現在の貨幣価値にすれば、およそ1億円)を拠出。この時に、米国やヨーロッパ、中近東で実施されていた防除法を参考にしたという。
こうして、作られたのがバッタ塚である。バッタ塚は、土中に産みつけられるトノサマバッタの卵を掘り起こして焼き殺し、その表面に土を被せて半球状にし、固く押し固めたもの。幼虫や成虫も捕らえて埋めた。
1874(明治15)年と1875(明治16)年の2年間で掘り出されたトノサマバッタの卵の容量は1339m3、幼虫で400m3に達したという。バッタの数に換算すると300数十億匹に相当すると言われているから、驚愕の数である。ここ新得ではおよそ100坪ごとに1~2カ所、作られた。 1966(昭和41)年に新得町が実施した調査によると、約5ヘクタールの土地に高さ1メートル、直径4~5メートルの塚が70カ所以上確認された。新得町では2012(平成24)年に指定文化財に登録し、保全に務めている。しかし、現在では完全に森に飲まれてしまっている。年々、雪や雨に侵食されている様子が窺える。定期的に下草を刈って整備しなければ、その存在は完全に忘れ去られてしまうだろう。
■世界各地で脅威が続く蝗害…日本も無関係ではない
当時は道内各地にバッタ塚が作られたという。だが、開拓が進むにつれて畑に置き換わり、現存するのはここ新得町と札幌市の手稲山口のバッタ塚くらいである。
新得町のバッタ塚は、夏期は草生す林道を探し回らなければならず、冬期は雪に埋もれてしまうので発見が困難である。
手稲山口のバッタ塚は札幌市街地からも近く、駐車場や散策路も整備されているので行きやすい。こちらは、1883(明治16)の大発生時に札幌区の付近8kmの地域で掘り集めた大量の卵を、砂地に列状に並べ、各列の上に砂を25cmほどかけて作られた。当時は100条ほどあったと推測される。昭和42年(1967年)に一部が発見され、1978(昭和53)年に札幌市指定史跡となった。
さて、1885(明治18)年には終息した明治の蝗害騒動であるが、再び十勝地方にバッタが大規模発生するのが1938(昭和13)年のこと。この年は国家総動員法が公布され、北海道では軍用馬の育成が実施されるなど戦時色が濃くなっていた時期にあたる。6月19日、十勝平野の西部、芽室地方においてトノサマバッタが大発生した。534人が出動し、駆除にあたった。
1940(昭和15)年10月にはハネナガフキバッタが十勝平野北部の本別地方で大発生し、現地民を苦しめたとの記録がある。
世界に目を転じれば、蝗害の歴史は人類史とも重なる。紀元前13世紀頃の旧約聖書には、サバクトビバッタがエジプトを襲った様子が記されている。また、紀元前700年頃のアッシリアの遺跡には、蝗害の深刻さを示唆する壁画が残されている。3世紀の小アジアでは、聖バルバラにまつわる蝗害の伝説が残されている。
現代の蝗害の例では、2005(平成17)年に中国で、トノサマバッタによる大規模な蝗害が発生した。2019(令和元)年には、パキスタンサバクトビバッタが大量発生し、被害面積は1800万ヘクタールにも及んでいる。コロナ禍に入る直前の2020(令和2)年2月には、東アフリカを中心にサバクトビバッタが大量発生。ソマリア政府は国家非常事態を宣言した。この蝗害は、アフリカだけでなく中東やアジア20カ国以上にまで広がり、日本への飛来の可能性も考えられた。
現在も世界各地で蝗害の脅威は続いている。いや、気候変動の影響でバッタの大発生はますます増えていくことだろう。干ばつの後に大雨が降ると、歴史的な大発生をもたらすことが指摘されている。
バッタ塚の遺跡群は、北海道開拓期における開拓民の困難な生活と、大自然に対峙する彼らの強靭な精神を伝える貴重な文化財であると同時に、気候変動への警鐘を鳴らす大切な存在といえる。

鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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