千葉旅②香取神宮と出雲国譲り (original) (raw)
香取神宮は千葉県香取市にある、下総国一宮です、全国にある香取神社の総本社です。
茨城県の鹿島神宮(カシマジングウ)、息栖神社(イキスジンジャ)と並んで東国3社と呼ばれています。徳川家康による利根川つけかえ工事で江戸から千葉にアクセスしやすくなった事で、お伊勢参りと並んで庶民から人気だったようです。
とくに香取神宮、鹿島神宮は都から遠く離れた関東にありながら「神宮」という神社の中の最高の位となっています。
神宮といえば伊勢神宮や明治神宮、宇佐神宮がそうであるように皇室の祖先や皇族と縁の深い神が祭神として祀られています。
それでは、香取神宮と皇室はどんな関係があるのでしょうか。
経津主神と出雲の国譲り
主催神の経津主神(フツヌシノカミ)は、『日本書紀』に登場する「出雲の国譲り」で活躍した神様です。
その昔、出雲の国を大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)が治めていました。 しかし高天原(天神々の国)を治めていた神々はその様子を見て「葦原中国(アシハラノナカツクニ)は我が子孫が統治するべき」と思うようになりました。
高天原の神々は会議を開き、最初の交渉役として天穂日命(アメノホヒノミコト)が使者として選ばれる事になりました。しかし、出雲に派遣されたアメノホヒは大国主を尊敬し、出雲に仕える事になってしまいます。
アメノホヒの子孫は菅原氏です。
次に選ばれたのが、天若日子(アメノワカヒコ)です。しかし、アメノワカヒコも出雲へ行ったきり帰ってくる事はありませんでした。高天原の神々はキジを飛ばして偵察させてみると、アメノワカヒコは大国主の一族の娘と結婚していたのです。
2回の交渉に失敗した高天原の神々は武勇に優れた神である経津主神(フツヌシノカミ)を派遣する事に決めました。そこにタケミカヅチが勇み進んで「なぜフツヌシだけが丈夫(マスラオ)で、私は丈夫ではないのだ」と申し出ました。その言葉がとても勇ましかったため、フツヌシノカミにタケミカヅチノカミを副えて葦原中国に派遣することにしました。(古事記だとフツヌシノカミの代わりにタケミカヅチノカミと天鳥船神アメノトリフネノカミが副将として派遣)
二人の神は出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜)に降り立つと、剣を抜き逆さまにして柄を下にして突き立て、その剣の切っ先の上にあぐらを組んで座りました。
出雲を治めるオオクニヌシに対して「この国は我が子が治めるべきとアマテラス様がおっしゃっているがどう思うか?」と尋ねました。オオクニヌシは自分の息子の事代主神(コトシロヌシ)にも意見を聞いてほしいと答えました。
美保の海に魚を取りに出掛けていた事代主をフツヌシノカミが連れ帰り国譲りを迫りました。コトシロヌシは「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」と答えました。
しかしオオクニヌシのもう一人の息子である建御名方神(タケミナカタ)はこれに反対し、千引石(ちびきのいわ)を持ち上げながらやって来て、「コソコソと話し合いするよりも、力競べをしようではないか」とタケミカヅチの手を掴みました。
タケミカヅチは手をつららに変えて、さらに剣に変化させた後に逆に、タケミナカタの手を掴むと、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げまきた。タケミナカタは恐れて科野国の州羽(長野県諏訪市)まで逃げ出してしまいます。これが後の諏訪大社です。
オオクニヌシは「二人の息子が従うのなら、私もこの国を高天原の神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、アマテラス御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私の180柱の子神たちは、長男の事代主神に従って天津神に背かないでしょう」と語り、オオクニヌシために出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に宮殿が建てられました。
これが出雲大社になったと言われています。
各地に残る経津主神の伝承
出雲の国譲りを成功させた二人の神は恩賞として関東の土地を与えられ、タケミカヅチノカミは鹿島へ、フツヌシノカミは香取へやって来たと言われています。
二神がやってきた関東にはすでに縄文文化を営む人々が住んでいました。元々いた人々(国津神)と海を渡ってやってきた天津神が戦った記録は記紀の「国津神との戦い」として描かれています。
星の神を崇める縄文文化の人々の戦い↓
香取の地で先住民を平定したフツヌシノカミは、現在の利根川流域の地で国作りを行いました。なお、香取は1000年前まで海でした。
フツヌシノカミがやってきた時代も広大な海だったと考えられます。
香取神宮の創建は神武天皇の時代?
時は流れて初代神武天皇が大和へ東征した時代、フツヌシノカミはタカケミカヅチノカミと共に武術の神として祀られ、利根川を挟んで南側に香取神宮、北側に鹿島神宮が設置されたと伝えられています。
フツヌシノカミとタケミカヅチノカミのニ神は対で祀られる事が多いと言われます。例えば奈良の**春日大社**でもフツヌシノカミとカケミカヅチノカミが祀られています。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したからです。
また、宮城県塩竈市にある**鹽竈神社**でもフツヌシノカミ、タケミカヅチノカミが塩筒老翁(シオツチノオジ)とともに祀られています。これはフツヌシノカミとタケミカヅチノカミが東北を平定した際にシオツチノオジがニ神を導いた事が由来と言われています。
日本書紀と古事記異なる経津主神の活躍
日本書紀ではフツヌシノカミの副将としてタケミカヅチノカミが派遣されていました。一方古事記にはフツヌシノカミは登場していません。二つの歴史書で内容が異なる理由を考察していきたいと思います。
『日本書紀』で出雲平定の命を受けたのは経津主神でしたが、武甕槌神(タケミカヅチ)が進み出て、「経津主神だけが大夫(ますらお、雄々しく立派な男の事)で、私は大夫ではないというのか」と抗議したので経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国を平定させることにしたとあります。
『古事記』では経津主神が登場しません。思金神(オモイカネ)が天尾羽張神(アメノオハバリ)もしくはその子の建御雷神(タケミカヅチ)を派遣するべきだと天照大御神に進言します。天尾羽張神が建御雷神のほうが適任だと答えたため、建御雷神が天鳥船神(アメノトリフネ)を副えて葦原中国へ向かいました。
また、建御雷之男神の別名は豊布都神(とよふつのかみ)であるとされ、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載されています。
このように政府編纂の歴史書である日本書紀と古事記の記載は一致しません。それでは平定された側はどのように記録しているのでしょうか。
『出雲国造神賀詞』では、高御魂命(タカミムスビ)が皇御孫命に地上の支配権を与えた時、出雲臣の遠祖・天穂比命(アメノホヒ)が国土を観察し、再び天に戻って地上の様子を報告して、自分の子の天夷鳥命に布都怒志命(経津主神)を副えて派遣したと伝えています。
このように出雲側の記録からはタケミカヅチノカミが登場しません。
藤原氏と武甕槌神
上記から後の時代になってタケミカヅチノカミのエピソードが加えられたのではないか。という説があります。
タケミカヅチノカミを加えてメリットのある人物といえば、「藤原氏(中臣氏)」が浮かび上がります。なぜならタケミカヅチノカミは藤原氏の氏神として祀られているからです。
例えば平城京が作られた710年には藤原不比等(ふじわらのふひと)が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に移して祀り、平城京を守護するための春日大社を創建しています。
また、『常陸国風土記』では大化五年(649年)に大乙上(だいおつじょう)の中臣□子(□は欠字)と大乙下(だいおつげ)の中臣部兎子が神郡を置いたという記述があります。
中臣氏(藤原氏)が力を持ったきっかけである「大化の改新」を機に常陸国と中臣氏の関係性がうかがえるのです。
中大兄皇子に協力して時の権力者である蘇我氏を倒した中臣鎌足は一族の正当性を高め権威付けを行うために、日本の創世神話の中に氏神であるタケミカヅチを登場させたのではないでしょうか。
実際に大化の改新でそれ以前の日本の歴史が記された書物は失われてしまったと言われています。
『日本書紀』の記録によれば、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変において蘇我蝦夷は私邸に火を放って自害した際に、蝦夷の私邸に保管されていた 『天皇記』『国記』といった歴史書が焼かれて失われたとされています。
『国記』が焼かれたと聞いて先代の系譜が失われた事を幸いにと、出自を偽る者が現れ始めたころ、船史恵尺という人物が焼かれかけた『国記』を運び出し、中大兄皇子に奉ったとされています。
しかし、『国記』『天皇記』はいずれも現代には伝わっておらず、その後に作られた『古事記』『日本書紀』がどれほど事実が反映されているのかは誰にもわかりません。
まとめ
今回は香取神宮に祀られるフツヌシノカミが活躍した出雲の国譲り神話について考えてきました。古事記と日本書紀において活躍した神が異なる点については、中臣鎌足やその子藤原不比等が、日本書紀では副将として、古事記では大将としてタケミカヅチノカミを登場させた可能性もあります。その結果、出雲の国譲りで活躍したフツヌシノカミは古事記には、いっさい登場しない存在となってしまったのではいでしょうか。
つづく!