54とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
53 ← 54 → 55 | |
---|---|
素因数分解 | 2×33 |
二進法 | 110110 |
三進法 | 2000 |
四進法 | 312 |
五進法 | 204 |
六進法 | 130 |
七進法 | 105 |
八進法 | 66 |
十二進法 | 46 |
十六進法 | 36 |
二十進法 | 2E |
二十四進法 | 26 |
三十六進法 | 1I |
ローマ数字 | LIV |
漢数字 | 五十四 |
大字 | 五拾四 |
算木 | ![]() ![]() |
54(五十四、ごじゅうよん、ごじゅうし、いそよん、いそじあまりよつ)は、自然数、また整数において、53の次で55の前の数である。
性質
- 54 は合成数であり、約数は 1, 2, 3, 6, 9, 18, 27, 54 である。
- 542 + 1 = 2917 であり、_n_2 + 1 の形で素数を生む13番目の数である。1つ前は40、次は56。
- 1/54 = 0.0185… (下線部は循環節で長さは3)
- 九九では6の段で6 × 9 = 54 (ろっくごじゅうし)、9の段で9 × 6 = 54 (くろくごじゅうし)と2通りの表し方がある。
- 54 = 12 + 22 + 72 = 22 + 52 + 52 = 32 + 32 + 62
- 3つの平方数の和3通りで表せる最小の数である。次は66。(オンライン整数列大辞典の数列 A025323)
- 3つの平方数の和 n 通りで表せる最小の数である。1つ前の2通りは27、次の4通りは129。(オンライン整数列大辞典の数列 A025414)
- 54 = 12 + 22 + 72
* 異なる3つの平方数の和1通りで表せる15番目の数である。1つ前は53、次は56。(オンライン整数列大辞典の数列 A025339)
* n = 2 のときの 1_n_ + 2_n_ + 7_n_ の値とみたとき1つ前は10、次は352。(オンライン整数列大辞典の数列 A074503)
- 八進数では 54 = 8 × 6 + 6 = 66(8) と回文数になる13番目の数である。1つ前は45、次は63。(オンライン整数列大辞典の数列 A029803)
- 24番目のハーシャッド数である。1つ前は50、次は60。
- 54 = 22 + 32 + 42 + 52
- 約数の和が54になる数は2個ある。(34, 53) 約数の和2個で表せる5番目の数である。1つ前は32、次は56。
- 54 = 2 × 33
- n = 3 のときの 2_n_ n の値とみたとき1つ前は8、次は512。(オンライン整数列大辞典の数列 A013499)
- 2_i_ × 3_j_ (i ≧ 1, j ≧ 1) で表せる7番目の数である。1つ前は48、次は72。(オンライン整数列大辞典の数列 A033845)
- n = 3 のときの 2_n_3 の値とみたとき1つ前は16、次は128。(オンライン整数列大辞典の数列 A033431)
- n = 3 のときの 2 × 3_n_ の値とみたとき1つ前は18、次は162。(オンライン整数列大辞典の数列 A008776)
- 54 = 33 + 33
* 2つの正の数の立方数の和で表せる6番目の数である。1つ前は35、次は65。(オンライン整数列大辞典の数列 A003325)
* n = 3 のときの 3_n_ + _n_3 の値とみたとき1つ前は17、次は145。(オンライン整数列大辞典の数列 A001585) - 54 = 6 × 32
* n = 3 のときの 6_n_2 の値とみたとき1つ前は24、次は96。(オンライン整数列大辞典の数列 A033581)
- sin 54°= 1/2φ (ただしφは黄金数)(オンライン整数列大辞典の数列 A019863)
その他 54 に関連すること
- ジョーカーを含めたトランプの最大枚数は54枚。
- パーラーシャーの数
- 原子番号 54 の元素はキセノン (Xe)。
- 年始から数えて54日目は2月23日。
- 第54代天皇は仁明天皇である。
- 日本の第54代内閣総理大臣は鳩山一郎である。
- 大相撲の第54代横綱は輪島大士である。
- 第54代ローマ教皇はフェリクス4世(在位:526年7月12日~530年9月22日)である。
- 源氏物語は全編が五十四帖より成っている。
- 易占の六十四卦で第54番目の卦は、雷沢帰妹。
- クルアーンにおける第54番目のスーラは月である。
- 3×3のルービックキューブの面は54個 (9×6=54) ある。
- 国鉄キハ54形気動車は、国鉄製造の一般型気動車である。
- その他の固有名詞・作品名など
関連項目
- 0 - 10 - 20 - 30 - 40 - 50 - 60 - 70 - 80 - 90 - 100
- 51 - 52 - 53 - 54 - 55 - 56 - 57 - 58 - 59
- 紀元前54年 - 西暦54年 - 1954年 - 昭和54年
- 名数一覧
- 5月4日
2桁までの自然数
(0) | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
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10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 |
40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 |
50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 |
60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 |
70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 |
80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89 |
90 | 91 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 97 | 98 | 99 |
太字で表した数は素数である。 |
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デモ行進する北京大学の学生
天安門広場にて
五・四運動(ごしうんどう)は、中華民国において、1915年の日本による対華21カ条要求の内容不満により1919年に発生した抗日、反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動。北京から全国に広がったが、5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五四愛国運動、五・四運動、5・4運動とも表記される。抗日・反帝国主義だけではなく反封建主義の側面もあった。
背景
世界的ナショナリズムの高揚とロシア革命
近代とは帝国主義という嵐が席巻して世界を一つにした時代であり、アヘン戦争以来、中国も列強からの侵略にさらされた結果、その近代の嵐に巻き込まれ世界の一つに組み込まれるようになった。しかしやがてそうした帝国主義に風穴をあけるような事件が世界各地で起き、中国もそれに大きな影響を受けた。それがロシア革命(1917年)、ウッドロウ・ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)、三・一運動(1919年)である[注釈 1]。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。
抗日気運の醸成と新文化運動
政治的背景は2つある。まず対華21カ条要求受諾が挙げられる。第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣により袁世凱政権に対華21カ条要求が出され、袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求の最後通牒を受けた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。
次の政治的背景には中国軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは中国における様々な利権であった。1918年5月には「**日支共同防敵軍事協定**」が結ばれ、日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととした。これら軍閥と日本との癒着は、中国民衆の激しい反発を呼び起こし、抗日感情を非常に高める結果となった。
文化的な背景として、まず新文化運動・白話文運動を挙げることができる。これらの運動は1910年代に起こってきた啓蒙運動で、陳独秀・李大釗・呉虞・胡適・魯迅・周作人などが運動のオピニオンリーダーであった。彼等は『新青年』や『毎週評論』といった雑誌を創刊し、それによって新思想を鼓吹した。すなわち全面的な西欧化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革などがその内容である。この運動を経た後だったからこそ、五四運動は抗日感情が高まっていながら、義和団の乱のような剥き出しの暴力性・宗教性をその性格としなかったのである。狭義には五四運動に含まれない「背景」ではあるが、両者は密接に関連している事から、広義に文化的「側面」としてこれらも五四運動に包含し五四新文化運動と呼称する場合もある。
経緯
パリ講和反対デモ
大戦が終結し、パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、その少し前に朝鮮で起きた三・一独立運動天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をした。デモ隊はさらに曹汝霖宅を襲撃して放火したり、たまたま居合わせた駐日公使章宗祥に暴行して重傷を負わせるなど、暴徒化した。
中国政府の反応と運動の広がり
袁の後継者である北京の軍閥政権は学生を多数逮捕し、事態の収拾に努めたが、北京の学生はゼネラル・ストライキを敢行、亡国の危機と反帝国主義を訴え、各地の学生もこれに呼応して全国的な抗日・反帝運動に発展した。労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、6月10日には最終的に学生を釈放せざるをえなくなった。また、6月28日に中国政府はヴェルサイユ条約調印を最終的に拒否した。
またこの運動は、その広がりの過程において日貨排斥運動へと性質を変え、アメリカ等でも華僑等の誘導による不買運動がみられた。
影響と評価
影響
袁世凱によって地位を追われ、日本に亡命後、広州で護法運動を展開していた孫文が五四運動を期に、自信を取り戻したといわれている。やがて彼は1923年にはソ連の援助を受け、反帝国主義・資本節制・土地改革を主張するようになる。
評価
五四運動は、中国共産党と中国国民党[1]に高く評価されてきた。中国国内の研究蓄積は他国の追随を許さない。しかし、政治イデオロギーに縛られ硬直した部分があるのも事実である。大陸では、五四運動をナショナリズムが真に大衆化した転機として捉え、中国現代史の起点をここに置いている。すなわちストライキやボイコットといった運動手法を積極的に利用した五四運動に高い評価を与えているのである。これは、1921年、中国共産党が五四運動の影響から誕生したことも大きく関係している。こうした中国共産党的歴史観を革命史観ともいうが、この史観は、一時期の日本にも多大な影響を与えた。現在ではこうした革命史観をいかに乗り越えるのかというのが、今日、五四運動研究において自覚的に求められているテーマである。以下に紹介する近年における日本の歴史学界における論争は、その乗り越え方をめぐる論争とも言える。
日本では五四運動について、1980年代以降1990年代初頭の間に盛んに研究されてきた。しかしその評価については大きく二つに分けられる。主な論争点の一つは、五四運動の担い手は誰かという点である。狭間直樹たち京都大学人文科学研究所を中心とする研究者たちは労働者階層に運動推進の主要な役割を振り、上海三罷闘争には反帝国主義的性格があったと論じたが、これに対し野沢豊や笠原十九司ら中央大学人文科学研究所グループはこの運動は富裕層が主体であって、山東利権回収運動の一部を形成するものだとした。さらにその運動の性格は抗日・反安徽派というものに過ぎないという主張を展開した。両者は中央大学で直接会って論戦を交わしたが、未だ明確な決着は得られていない。
また、日本政府はヴェルサイユ条約調印5日前の6月23日に緊急勅令を発布し、ドイツ、オーストリア、ハンガリー及びトルコの国・個人・法人に属する財産の日本政府による接収の手続を明文化したため、それら諸国が五四運動を支持したこともありうる[注釈 2]。
五四運動は儒教に代表される旧道徳・旧文化の打破、人道主義、文学改革、後の簡体字の制定につながる文字改革などこれらの主張をおこなう新文化運動と連動している点も重要な要素である。
脚注
注釈
- ^ 「三・一運動の影響は、東アジアに広がった。特に一九一五年の対華二十一カ条要求以来、日本の侵略に危機感を抱いていた多くの中国人、学生にとって三・一運動の与えた衝撃は大きかった」(宮田節子「三・一運動について」、『歴史と地理』522号、1999、p13)
- ^ 当該勅令は帝国議会が承諾せず、翌年3月25日、大日本帝国憲法第8条2項に基づき効力停止の勅令が発布された[2]。
出典
参考文献
- 狭間直樹他『五四運動の研究』第1函〜第3函、同朋舎、1982〜1985
- 丸山松幸『五四運動―その思想史』紀伊国屋書店、1969年
- 野沢豊・田中正俊編『講座 中国近現代史』4、東京大学出版会、1978年
- 中央大学人文科学研究所編『五・四運動史像の再検討』中央大学出版部、1986
- 斎藤道彦『五・四運動の虚像と実像』中央大学出版部、1992