南山剳記 (original) (raw)

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第1回~伯父さんと音楽の話をする今回の登場人物

……この文章を書いている私である。
伯父さん……母方の叔母の夫で音楽にとても詳しい人。小澤征爾をマエストロと尊敬している。
**小澤征爾**……有名な指揮者。いわゆる〈世界のオザワ〉。先日、亡くなった。
**村上春樹**……有名な小説家。音楽に詳しすぎて小澤も閉口するほど。
**カラヤン**……小澤が「先生」と呼ぶ指揮者。いわゆる〈帝王カラヤン〉。
**ミュンシュ**……小澤が頼み込んで指導を受けた指揮者。カラヤンとチョットあった人。
南澤玉繭……私の高校の先輩で、音楽家でもある。
がぁごん……今度、イタリアへ留学するオペラ歌手。肉が大好き。
オンセン……高校の音楽教諭。私がいろいろと世話になった人。
カール・ムラカワート……私の同級生。カラヤンを崇拝していた。
ヤノさん……私の同級生。古楽派を嫌っていた。
中村博……私の高校の先輩で数学者。ジョルダン閉曲線定理の完全定式化に貢献。
三澤さん……新国立劇場の合唱指揮者。私に指揮者のアレコレを話してくれた。
**バーンスタイン**……指揮者。小澤の師匠の一人。
グールド……ピアニスト。かなりイッちゃってた。
**チェリビダッケ**……ベルリン・フィルを追い出された、これまたイッちゃった指揮者。

Ⅰ.

指揮者の小澤征爾氏が亡くなった。88歳という。クラシック音楽の世界で、「日本人初のナニナニ」という称号を彼ほど多く冠せられた人もいないだろう。アジア人のクラシック音楽家のために道を切り拓いた人だとも言われている。ちなみに、長野県の名誉県民第1号も彼だった。
さて、小澤氏が亡くなった4日後、伯父さんから連絡があった。伯父さんは大変な趣味人で、音楽はもちろん、芸術全般に造詣が深く、おまけにグルメときている通人で、周囲にクラシック好きな人がいないからと言って、少しは話のわかりそうな私に連絡をくれたものらしい。曰く、「マエストロ小澤(小澤の前には必ずエストロをつけなければ大変なことになってしまいかねない勢いである!)の功績は、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任したことで、これは日本人がヤンキースの監督になる以上の偉業である」。
マーラーは「ウィーンの歌劇場の監督は、音楽の世界ではいちばん頂上にいる」と言ったらしい。監督職を得るために、ユダヤ教からキリスト教に改宗までしていると、村上春樹が書いている。それを聞いた小澤は「へえ、そうなんだ」と応じている*1。どっちがウィーンに住んでいたんだかわかりゃしない。

Ⅱ.

なるほど、小澤征爾の活躍はよく知られているが、私には意外なほどピンとこないものである。海外で活躍する日本人として、大谷翔平のほうがピンとくるのはなぜだろう? それも小澤征爾といえば、松本で開催される〈サイトウ・キネン・フェスティバル松本〉(もとい、今の〈セイジ・オザワ・松本フェスティバル〉)の創設者であり、長野五輪の開会式で《第九》を振った人物である。どうして、長野県民の私がなじみを感じないのか、自分でも不思議だ。
一つには、いわゆる〈サイトウ・キネン〉は松本の音楽祭であり、今に至るまで同市とライバル関係にある長野市民からすると、何かケッタクソ悪いものを感じるからかもしれない。いささか話が脱線していけないが、そのあたりの事情を説明しよう。
2020年の七夕の日、南澤玉繭先生(高校の先輩である)の紹介で、当時、オックスフォード大学の特別研究員をしていた一青年と会った。彼は松本の進学校(トンボ高校といわれている)の出身で、いまだもって長野にある私の母校(トンビの高校とかタカ高とかいわれている)とはライバル関係にあることを告白し、「長野駅に降り立つとアウェー感が凄まじい」と白状した。それはこっちも同様で、松本に足を踏み入れると、妙な緊張感が走るのはなぜだろう? 明治以来、県庁の場所をめぐって醜い争いを続けてきた両市である。トンボ高校を出た田中康夫(敬称略)なンかが知事になったときは大変だった。が、反・田中で次の知事になった村井サンもトンボ高校だったから始末が悪かった(何の始末か知らないけれど)。もっとも、今では東京出身の阿部知事が長期政権を築き、トンビもトンボもバックミラーの彼方へと消え去った。
かくして長野県知事の座から陥落して久しいトンビ高校は、他県に触手を伸ばすことになった。結句、かしこくも天子様の都に乗り出して、東京都知事の座に収まる者もあらわれた。五輪を招致した猪瀬直樹である。まったく奇妙な話だが、過去に日本国内で開催された4度の五輪のうち、長野(1998)と東京(2020)の2回はトンビ高校OBが招致した五輪だったのである。そして、2回とも後に残されたのは不可解なカネの問題だった。ともあれ、長野と松本の関係はそんなものだ。
なお、件の松本の研究者は実に誠実な人で、著書を出す前に「意見が欲しい」と論文を送ってくれた。一読して感想を送ると、チャンと本の最後にお礼が述べられていた。今時、あれだけ謙虚な人もめずらしい。松本にも見上げた人がいたものである。今はたまにテレビに出ているが、本音では研究に専念したいようである。

Ⅲ.

さて、私が当のトンビ高校に在学していた頃、日本の高校生はまだ反米の真ッ最中で、アメリカにホームステイをしてきたという同級生などは「アメリカナイズされやがって」と白眼視されたものだ。わけのわからん戦争をしたり、沖縄やどこかに基地をアレしやがってと、みんな相当に憤慨していた。今では考えられない話だが、高1の夏休みに北朝鮮研究をやらかして、スッカリ、影響を受けてしまった同級生もいた。かと思えば、米国エネルギー省のプログラムに選抜され、高校を休学して1年ほどアメリカに留学していた先輩もいたから一様ではないけれど、海外に対する憧れのようなものは総じて低かったのではなかろうか。村上春樹との対談で、小澤は「最近は海外に行こうと思えばわりと簡単に行けるけれども、行かないという人が増えてきた」*2という趣旨のことを言っているけれど、まあ、海外に学ぶことなどなくなっていたような時期でもあった。なにしろ自国語で世界最高水準の科学教育が受けられる稀有の国である。私たちの頃はまだそんな感じだった。今では状況も一変し、海外の人が日本から学ぶことなどほとんどなくなってしまった。来てもらっても教えられることがない。かつて同僚だったフランス人が、職場のコピーが故障したのを見て、「日本のテクノロギー〔フランス語、ママ〕も落ちたものだね」と言っていたが、あれは冗談ではなく本気だったのだろうと思う。
では、私たちより上の世代はどうだったか? やはり、西洋に対する根強いコンプレックスがあったらしい。高1の頃、トンビ高校の卒業生で、史上最年少で国立大学の教授になったという触れ込みの数学者が講演に来た。いや、教授になったのはずいぶんと前の話で、その時はもう50歳になろうという頃ではなかったかと思う。後にジョルダン閉曲線定理の完全定式化への貢献で知られることになる中村八束博士である。それから18年後、ひょんなことから、中村博士と再会した私は、今に至るまで博士の茶飲み友だちをしているが、博士はつねづね「西洋人が構築した現在の科学は論理的に矛盾している」と言って、とりわけアプリオリな前提に依存する相対性理論を疑問視していた。「私なら別の理論を提案できる」と自信を見せておられたが*3、無念にも病に倒れられた。科学史における日本人の業績の少ないことをいつも悔しがっておられた。西洋に対する強烈な対抗意識があったのである。ビットコインが出たときに「あれを作ったのは日本人のような名前の人でね。ナカモト氏っていって、日本人で唯一、世界で名前の知れてる可能性があるとしたらこの人だけだよ。これは貨幣が革命を起こして、国境を超えちゃったんですよ」*4と喜んでおられた。もっとも、仮想通貨とはいっても、所詮はリアルマネーに紐づけられた金融商品の一種で、国債とリンクして負債をもとに膨張する借金まみれのマネーから人類を解き放つには至りそうにない。
では、西洋に追いつくにはどうすればいいのか? 先人たちは考えた。そこで思いついたのが「西洋に追いつくために肉を食え」という肉食信仰である。東北大学で美術史を学んだ知人が、イタリアへ留学する前に教授から「肉を食え」と言われたというから、この信仰は健在であったらしい。何を馬鹿なことをと、そのマッチョ思想を鼻で笑ったそうだが、今はもうそれどころじゃない。食べていくために海外に出稼ぎに行かなくてはならないと言われているくらいだから、若い人は大変だ。
反対に、円安のおかげで訪日外国人の数は大幅に増えた。日本に音楽を聴きに来る人がどれだけいるのかはわからないが、かつて『グラモフォン』のオーケストラランキング(2008)に、日本のオケとして唯一〈サイトウ・キネン〉(それもまさかの臨時オケ)が20位以内にランクインするという珍事があった。こんなランキングはまったくアテにならないが、ヨーロッパの専門家たちが認めたのだからと驚いた人もあっただろう。もっとも、何人かの審査員の平均点で算出しているものだろうから、まったく根拠なしとはしない。そもそも、全楽団の演奏を生で聴くだけの時間も資力もない私のような者が何を言っても蚊帳の外である。

Ⅳ.

ところで、今度イタリアへ留学する予定のオペラ歌手がいる。『がぁごん、イタリアへ行く*5で書いた、がぁごん氏である。オペラよりも人や動物のモノマネのほうがうまいという、奇才の人と私は見ている。資金を貯めるために某観光地の高級焼肉店でバイトをしているが、そこの賄い飯が焼肉で、もう、大喜びしているそうだ。やはり海外で戦うためには、肉が欠かせないのかも知れない。ちなみに、お客はみな中国や台湾の観光客で、日本人などまったくお呼びではないらしい。これは音楽も同様で、日本のアジアにおける音楽的地位はすでに中国や韓国に取って代わられたと見る音大関係者もいる。私は国際ナントカコンクールとかナントカ賞の権威を大して信ずるものではないので、ナントカ賞入賞者のCDなんぞ生まれたこの方、一度も買ったことはないが、音楽界の発展のためには、こういう競争も欠かせないものらしい。ここでも中韓の勢いには当たるべからざるものがある。
しかし、クラシック音楽の将来はあまり明るいとは言えない。ヨーロッパの市場が衰退してからは、アジアに活路を見出すようになった。大相撲のような話で、ハワイやモンゴルの人が横綱になってもいいように、クラシックにもアジア出身のリーダーが出てきてもよさそうな状況ではある。もっとも、CDを出してもメチャクチャに売れるわけではないから、各楽団とも今ではネット配信に力を入れている由である。名芸の大内教授などは、実業団オーケストラ対抗戦や、難曲の速弾き対決など、音楽をスポーツのように競技化して点数を競う大会の開催を提唱している*6。よく言えばフィギュアスケートの技術点・芸術点のようなものらしい。もっとも、小澤を教えたミュンシュは、機械とスポーツが支配する客観主義に断固反対していた*7。私もそう思う。たぶん、玉繭先生も同じだと思う。そして、古きよきものは、そのままの形で自然に滅ぶのがいいと思っている。われわれは〈消滅〉を受け入れる勇気をもつべきだ。そして、別の何かが生まれてくるのを待てばいい。
とにかく、オモロイことの一つもやらなければ、クラシックは絶滅する。なるほど、ダンスの〈Dリーグ〉のようなリーグ戦などは面白いかもしれない。クラッシック音楽を人気スポーツのように発展させるという意味では一理あると思う。要するに、人々の関心を集め、競技人口を増やすということだ。ンな馬鹿なと思われるかもしれないが、事態は切迫している。近年、音大の懐を支えていた女子学生がサッパリ入学してくれなくなったのである。定員割れなどということになったら補助金ももらえなくなる。ヤバいので、定員を減らした上で、修了したところで何にもなりゃしない大学院進学を勧めて、なるたけ多くの学生数を確保しようと工面しているアリサマだという*8。就職を希望する学生はヒエラルキーの最下層に置かれ、誰かがコンクールで賞を取ると大騒ぎ、それに騙されてみんな「自分も賞を取れる」と錯覚、結果、卒業生のその後の人生は厳しいものとなるのだという。「ひとりの受賞者は、1000人の屍の上に立っているようなもの」*9という。
もっとも、大量の学生を抱えて自身の研究領域をアピールしようというのは、音大に限らず、大学一般に見られるアブない発想らしい。ずいぶんと前に中村博士から聞いた。問題は博士課程にまで拡大していて、ポスドク問題の一因をなしているという。

オーバードクター(OD)問題は相変わらずで、ますますひどくなっているんじゃないかな。結局、××〔アブないので伏字とさせていただく〕みたいなところがODを臨時で雇うんだよね。研究業績をあげないと三年くらいでクビになっちゃって、一見、就職したように見えるけど安定していないんですよ。臨時でも研究者になれるだけで御の字。どの研究をやれば就職に有利かということを学生も知らないし、文科省も悟らせないようにしている。一つには、学生をもつほどに利益が出せるというのと、学生をもてば自分の研究領域をアピールできるということがあるんですよ。学生をただで人足として使えるので、企業の依頼研究も安く請けられたりするわけです。先生方は学生にドクターをとらせて××のようなところに入らせて自慢するが、3年くらいで放り出されるので、ODがどんどん増える。そういう先生や学生は権威を求めるんだね。研究の90%は地味なんだけど、それだと一流雑誌に採用されないから派手なことをやりたがるんだね。それで文科省がだまされる。ていうか、進んでだまされたがってるみたいだね。文科省が特別予算を与えたからこれこれの業績が出ましたと威張れるからね。*10

すでに2014年にそんなことが言われていたのである。今はどうであろうか。私もこの件に関心を失ってしまったので、詳しく調べていない。ちなみに、博士は横着な人で、国立大学を退官したのをいいことに「なんで高いお金を払ってまで子どもを大学に行かせようとするのかね」と、大学教育そのものをほとんど全否定していた。それで日本初のネット大学構想に動き出すのだが、もちろん、認可は下りなかった。まあ、資本主義などというのは冗費をかさませてGDPと称しているタワゴトみたいな経済システムであるから仕方がないが、韓国あたりでは問題の所在に気づいたらしい。教育に費やした資金が現実にはペイしなくなっていることを知るべきだ。

Ⅴ.

音大教育の問題は、海外ではずいぶん昔から問題になっていた。クラシック音楽は衰退する一方で、クラシックを前提とした音楽教育が時代遅れのシロモノになりつつあることに危機感を抱いた音大側も、演奏技術は二の次で、どうにかして音楽で食うための〈生き方〉教育にシフトを始めた。もはや、音楽家はただ楽器が弾けさえすればよいという時代ではなくなってしまったのだ。このことはすでによそで書いたから全てはくりかえさないが、事情を知らない人のためにいささか触れておこう。ブランドン大学、レイクヘッド大学、ウィルフレッド・ローリアー大学の音楽学部長を歴任したグレン・カールーザース教授は、次のように書いている。

世界は急速かつ劇的に変化しています。かつて正しいと思われていたことが、今では誤りということが多々あります。音楽大学のカリキュラムもしかりです。今や音楽大学を卒業した演奏家が、チケットを購入してくれた聴衆を前にクラシック音楽を熱演している姿は、もはや想像できないからです。クラシック音楽のひとつの分野だけの専門家である(これは19世紀の産物です)という時代は、よほど特殊な場合を除いて、もう終わってしまったのです。例えば、リサイタルをするにしても、ビジネス感覚、柔軟なレパートリー、そして聴衆とステージとの相互交流を促すコミュニケーション力が求められています。*11

これらのことは、ヨーロッパではすでに20世紀後半から論じられていた問題である。たとえば、ジョン・H・ミュラー「音楽と教育——社会学的アプローチ」(N・B・ヘンリー編『音楽教育の基本的概念』所収)の指摘を挙げておく。これは80年代初頭に邦訳されているから、書かれたのは70年代かも知れない。音楽家がドップリとロマン主義的夢想に浸っておられる時代は疾うに過ぎ去ったのである。
そんな話を玉繭先生にしたところ、彼女は得心したらしく、「カナダの音大でまったく練習する音が聞こえてこなかったのはそういうわけだったのか」と仰っていた。たぶん、娘の進学先を考えて各地の音大を見学していたときのことだろうと思う。玉繭先生自身、すぐれた音楽的な才能の持ち主で、ドイツのどこぞの都市の式典曲を作曲し、副賞としてもらったピアノをポンと母校に寄付するほどの御仁で、その才能は娘に引き継がれた。しかし、玉繭先生は音大教育の問題点もまた敏感に察知していた。音楽はたしかに素晴らしいものだが、音楽家として大成するか否かということよりも、音大生にはどうにかして社会を生き延びてほしいというのが、玉繭先生の願いであった。

Ⅵ.

さて、話は小澤である。すでに書いたように、私は彼の事績についてさほど詳しいわけではないけれど、世界的な指揮者であることはよく知っている。しかし、実のところ、伯父さんから小澤が振ったボストン交響楽団のCDをもらうまで、小澤征爾の指揮になる演奏など聴いたこともなかった。というより、指揮者などほとんど誰でもよかった。私は本質的に作曲する側の人間であって、演奏家ではない。作品の価値は楽曲そのものに存するという考え方が強かったためだ。だから、若いころの聴き方は乱暴で、音さえ聴こえれば何でもよかった。金がないからCDも買えないし、レコードだけはたくさんあったが、音質のいいスピーカもなければ、コンポもアンプもこれといったものは何もない(それらは半分壊れていた)。
家にはクラシック全集があった。父が何かの付き合いで買わされた(?)ものらしい。CBS/SONYから出た『世界クラシック音楽大系』という100枚組のレコード盤で、80年代の前半に出たやつだ。どういうわけか、小澤征爾のオの字もない。たぶん、契約の関係だろう、〈帝王〉カラヤンも出てこない。小澤の師匠筋としては、バーンスタインミュンシュが登場する。それより上の世代ではワルターも入っている。かなり貴重な全集である。メータはいてもアバドはいない。ブーレーズやセルも出ててくる。日本人では中村紘子、海野義雄、堤剛がフィーチャーされている。中村と堤は〈子供のための音楽教室〉で小澤の同期だった。小澤のように齋藤センセーにブン殴られたかどうかは定かではない。海野サンのほうは小澤の〈N響事件〉のときのコンマスだった人だ。のちに〈藝大事件〉の張本人にもなった。真偽のほどは知らないが、藝大の楽器購入をめぐる受託収賄事件であった。さすがに犯罪はマズいけれど、音大と楽器メーカーの関係というのは、医療ドラマにおける大病院と製薬会社のようなもので、私も音大関係者から芳しくない噂を聞いたことがある。
とにかくクラシックのレコードだけは売るほどはあった。しかし、肝心のプレイヤーは、私が高校に上がる頃には壊れかけていたし、とにかく音質がひどかった。レコードはテープに録音して何度も聴いた。しかし、録音する側がラジカセではしょうがない。本当の本当にラジカセで、テープからテープへのダビングすらできない。カセットデッキが一つしかついていないようなシロモノだ。ちょうどその頃、CDというものが普及し始めた。弟がほしがって、ようやくにして家にCDラジカセというものが来た。音質はよくなかった。友人の家でダビングしたテープを聴いてわかった。なるほど、機械によっても録音品質が変わるのだと理解した。なるべく上等な音質で聴きたいとは思ったが、そういう次第であったから、演奏のよしあしなどわかるはずもない。ただ、指揮者の解釈の差というのはわかる。だから、リヒターのバッハとピノックのバッハが明確に違うというのはわかったし、同じ《ブランデンブルク協奏曲》でも音に違いがあるということはわかる。この頃に使っていた2代目のCDラジカセは、音質が多少向上していたからだ。
この頃になるとカラヤンも聴いた。モーツァルトの《レクイエム》だ。中学時代から、私の定番はリリングだった。レコードから無理やりに録った、雑音交じりのそれだ。後に古楽に転じた人だが、当時はまだモダンでやっていた。バッハの専門家として知られる人だが、《ロ短調ミサ曲》の第8曲で、フランス風の装飾音を用いた〈不均等奏法〉を過大に適用して物議を醸した人物でもあった*12カラヤンの《モツレク》を貸してくれたのは高校の同級生(カール・ムラカワートと呼ばれる歯科医の息子であった)で、「クラシックのハイライトだけを聴くのは邪道」というポリシーの持ち主だった。なので、弟子のジュスマイヤーが補った後半部分も含めて、全部録音して、全部聴いた。「なんと言っても、やっぱりカラヤンでしょ」と彼は言っていたが、私には少し大味すぎた。どうしてこんなに弦が厚くて不自然に均質なのだろうか、そして、なぜこんなにテンポが速いのか、と。カラヤンといえば商業主義の権化のように悪く言う人がいるが、当時の私にそんな知識はない。カラヤンと聞けば何でも反発をあらわにするという風潮が音楽通のあいだでは久しく続いたらしいが、そういうわけではない。評論家の玉木氏などは「一点の濁りもない美しすぎる響きは、精神性の欠如を思わせもする」「演奏自体に特記すべき特徴があるわけでもない彼の指揮は、あるいは近い将来「過去の人」として、消え去る運命にあるのかも……」*13と印象を述べている。美しすぎても文句を言われるのだからたまったもんじゃない。
カラヤンにまつわる逸話をもう一つ。高校の世界史教諭(この人も母校のOBで、東大で学生運動をやったせいで田舎でくすぶる人生を送る羽目に陥った由の噂があった)だったろうか、奇妙なことを言っていた。曰く「西夏の都である「カラ・ホト」の「カラ」は、指揮者の「カラヤン」の「カラ」と同じ「黒い」という意味をもっている」というのである。長らく真偽を確かめずにいたが、今はウィキペディアという便利なものがあって、カラヤンの「カラ」はテュルク語で「黒」の意味ではないかという。なるほど、カラ・ホトは〈黒城〉と訳される。だが、テュルク語(突厥語)ではなくモンゴル語だ。モンゴル帝国の首都だったカラコルムの「カラ」と同義である。突厥と蒙古の語彙にどんな関係があるのかはわからないが、これ以上、立ち入るのはよしておく。近くで話されていたタタール語やウイグル語は突厥語族であるから、モンゴル語やタングートと互いに共通するものがあるのかも知れない。いずれにしても、世界史の教師が引き合いに出す程度にカラヤンは有名だった。

Ⅶ.

ところで、高校で音楽の授業を選択していたわけでもないのに、私は音楽教諭と親しかった。別のところに詳しく書いたからくりかえさないが*14私は音楽教諭と親しみを込めて彼のことを〈オンセン〉(音楽の先生)と呼んでいた。音楽研究室に出入りして、よくクラシックの話をした。たまに作曲も見てくれた。私がバロック的な主題を示して、これをフーガ風に展開したいと言うと、彼は「初学のうちは主題を同じ調に模倣してはどうか」という。フーガは主題を五度上に移して応答するのが通例である。それはむずかしいから、いわば同度のカノンにしたらどうかというわけである。そういう親切な先生であった。
さて、私がムラカワート氏から借りたカラヤンの《モツレク》について「リリングより一分早く終わった」と愚痴を漏らすと、オンセンはうなずいてこう言った。「それはまあ、カラヤンに古典派以前の音楽を求めてもしょうがないからね」。
そう、オンセン古楽派だったのだ。ピノックの《ブラ協》をコピーしてくれたのはオンセンで、そのほかにも、私が自宅のレコードをもっていくと、オンセンは快くテープに落としてくれたものだ。グールドのピアノによる《ゴルトベルク変奏曲》の1981年盤、ミシェル・コルボ指揮のフォーレ《レクイエム》もそうだ。フォーレが好きだと思われたのか、《フォーレク》(フォーレの《レクイエム》を私たちは勝手にそう呼んでいた)の別盤もコピーしてくれた。あの頃は、ママチャリの籠にレコードを詰め込んで高校まで行って、オンセンに録音を頼むということがままあった。彼も忙しいので、なかなかすぐにやってはくれなかったが。
もう一人、ヤノさんという同級生(北朝鮮研究をやらかした彼)がいた。ピアノが弾けた。彼はまったくのモダン主義者で、ピノックの《ブラ協》に明らかな拒絶反応を示していた。曰く、チェンバロがチャンチャンうるさいというのである。リヒターのインテンポで厳格な演奏がイイという。《ゴルトベルク変奏曲》に至っては、「ピアノで弾く曲じゃない」と頭から否定していた。そのくせ私が楽器屋の店先で遊び半分に《ゴルトベルク》の最初のアリアを弾くと(それも勝手にアレンジしたやつ)、変に食ついていくる。本当は好きなんじゃないのかと疑いたくなる。
まあ、彼の言いたいことも多少はわかる。レオンハルトヒストリカルな演奏ばかり聴いていると、モダン・チェンバロでチンチンとお通夜みたいに弾くリヒター盤の音が妙に心地よく感じられることもある。《音楽の捧げもの》のいくつかのチェンバロ独奏を聴いてそう思う。
その後、大人になってから、ネットの音源でカラヤンベルリン・フィルによるラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》を聴いた。ネット民は「ピアコンなのにピアノはどこへ行った?」と大騒ぎになっていた。私もそう思った。まさにこの感じは《モツレク》のそれだ。ソリストとの調和を無視してドップリな世界に入り込むのは、どうもカラヤンの特徴らしい。カラヤンに教わった小澤自身がそう言っている。村上春樹の本に、彼がカラヤンとグールドが競演したベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第3番》をもってきて、小澤に聴かせる下りがある(この人はいつもそうやって小澤にレコードを聴かせまくるのである)。カラヤンベルリン・フィルを暴走させるわ、グールドはグールドで自分の演奏を始めるわで、あちこちで音がズレてしまう。非正規のライブ録音とはいえ、ムチャクチャな話だが、聞くだに面白そうなレコードである。悪い感じはしないものの、さすがに小澤も「独奏者が弾いているところは、だいたいにおいてオーケストラのほうが合わせてあげないといけないんだけど……」「カラヤン先生の方には、グールドの音楽に器用に合わせようというつもりは、まったくない」と困惑している。「協奏曲でこれだけソリストのことを考えないで、シンフォニーとして堂々と演奏できる人って、まずいないですよ」だそうである。グールドがカナダ人で、ドイツ語圏に生まれたカラヤンとの相違が大きな原因かも知れないとも述べていた*15。もっとも、同じライブ録音を高く評価している人もいる。オケのダイナミックレンジセーブが完璧で、ピアノのタッチを生かしているという*16。本当に同じレコードについて述べているのか、正直よくわからない。
グールドがバースタインと組んだ時の逸話はあまりに有名だ。曲はブラームスの《ピアノ協奏曲第1番》だった。バーンスタインは、グールドとは解釈が合わず、折り合いがつかなかったことをあらかじめ聴衆に説明してから演奏に臨んだ。結果、信じがたいほどスローテンポな演奏となり、小うるさいショーンバーグから酷評された。テンポを遅くするのはグールドの提案だった。バーンスタインは4分の6拍子を6拍で振らされた。普通は2拍で振るところである(カラヤンの《モルダウ》(8分の6拍子)、40小節あたりを見よ)。6拍で振るということは、めっちゃ刻むか、遅くするかのいずれかということだ。だいたい、グールドは協奏曲が嫌いだった。「ベートーヴェンブラームスのような大作曲家は、協奏曲の不合理性に直感的に気づいていた」という趣旨のことさえ言っている。この一件がグールドがコンサートから引退した一因ではないかという人もいるが、その前から始めていた《フーガの技法》のオルガン録音で肩を痛めたのが原因ではないかという人もいる。*17
一方、小澤から頼み込んで指揮を教えてもらったシャルル・ミュンシュは「ソリストとの共演においては、すべからく指揮者はソリストの後をついていくしかない」と言っている。器楽奏者でも歌手でも同様である(もっとも、彼はコンサート指揮者で、オペラは振らなかったが)。独奏者の伴奏をする場合、指揮者と独奏者の間には平穏な協力関係が必要だが容易ではない。話し合いでうまくいくことはめったにない。もし息が合わなければ、指揮者は感情に逆らって独奏者の後についていくしかない。指揮者が独奏者を抑えたり引っ張ったりしようとすると、ひどい結果になる、と*18
ゲーテがワイマールの劇場監督だった時の話である。指揮者と歌手がもめるという事件があった。クビにされたのは指揮者の方だったと、ミュンシュは書いている。チェリビダタッケもコンサートしか振らなかった。楽団員を容赦なく怒鳴りつける彼のような人が、もしオペラなんかに手を出したら、首がいくつあっても足りなかったろう。カラヤンでさえヒトラーの前で《マイスタージンガー》を振った時、主演歌手がミスったのを自分のせいにされている。と言うのは、その歌手がヒトラーのお気に入りで、結句、責任を全部、カラヤンが被らされたということらしい。ミスの理由は、カラヤンが暗譜で指揮したせいだとされた。面白いことにミュンシュは「私は記憶力の最高の軽業師がとても耐え難い誤りを犯すのを見たことがある。伴奏を暗譜で指揮するのはとりわけ全く無用だと思う。すべての独奏者(ソリスト)や最高の名人(ヴィルトゥオーゾ)たちがそれをあまり望んでいないと私は確信している」*19と書いている。カラヤンのことを言いたかったのかもしれないが、もしかするとトスカニーニかも知れない。ミュンシュトスカニーニのもとで演奏した経験があるし、トスカニーニもまたオペラであっても暗譜で振れる指揮者だったからだ。しかし、こっちは明らかにカラヤンを意識して書いたのではないかと思われる文章もある。引いておく。

多かれ少なかれ〈人目をひく〉指揮者のことをどうしてわざわざ話す必要があろう。指揮者というものは聴衆に見世物を提供するために存在するのではない。その名に値する指揮者は、感ずることをうまく形に表わすのに忙しすぎて、恰好のいい自分の横顔とか姿勢とかが自分の背後に坐っている人々に及ぼすかもしれぬ効果など気にかけていられない。指揮者はいつも、楽員たちがなすべきことを正確に知るように自分が何をするかを正確に知っていなければならない。*20

断っておくが、私は別にカラヤンを否定するものではない。その理由は別のところで書いたが*21、改めて簡単に触れておく。カラヤン嫌いという人はもちろんいる。チェリビダッケに師事したファゴット奏者・エーデルマンに言わせると、こんな感じである。曰く、カラヤンというのは念入りにリハをするが、コンサートではオケにまったく注意を払わず、瞑目して、俳優のような美しい動作をつくることに注力していたが、これらはオケに指示を与えることを意図したものではなかった、と*22。結果、カラヤンはプレイバック・レコーディングをフル活用して、映像と音楽を別撮りして、あたかもライブで演奏しているかのように見せかけたMVを制作、それをガチの映像だと信じ込んでいる人がいるというのである。しかし、そんなことはポップスの世界ではアタリマエ、ライブとCDが別物だというのは制作側からしたら常識なのである。それを知らない聴衆がライブを聴いて「うそやん、下手やん」と騒ぐのは筋違いだと、ジョージ・マーティン卿(ビートルズのプロデューサー)が暴露している。
けれど、これには別の意味合いもある。トラックダウンされ、レコードとして世に出たものは、ときにライブよりも演奏として優れたものになるため、これを模範演奏として後世の指揮者たちが〈レコ勉〉に励むことになる。なお、指揮者の三澤洋史氏も書評『小川榮太郎フルトヴェングラーカラヤン」』において、〈レコ勉〉する側の立場から、カラヤンの録音について、次のように述べられている。「カラヤンは、自分が録音する時には、自分のレコードで人が勉強し易いように、意図的に演奏していたに違いない。しかも極上の音で!」*23
ちなみに、マウチェリによると、カラヤンがときどきリズムを刻んでいないのは確かだが、それでいてオケがちゃんとアンサンブルを整えて演奏するように見守っているというのである! これは誰にでもできる芸当ではない。マウチェリは68歳にしてようやく似たようなことができたと思ったという。27歳のときにやっていたら、オケはすぐに止まっていただろう、と*24。普通は反対で、拍さえ刻んでくれれば指揮者が合図を出し忘れても、演奏者はチャンと入るところで入ってくれる。ともあれ、カラヤンは演奏そっちのけでドップリ自己陶酔していたわけではない、というわけだ。
最後に、小澤征爾のレコーディング風景について少しだけ。小澤がマーラーの《2番》を録音したときのエピソードが、『ボストン』誌で音楽記事を連載していたヴィーゲランドの著書に出ている。ひたすらテイクを聴いて、録り直しができない時は編集でつないで修正した。音が外れたり、ピツィカートが鳴らなかったり……、トランペットがBフラットを一音飛ばしても別のテイクがあるから大丈夫……ほとんど悪夢だ*25。これはしんどい作業だったと思う。複数のテイクを聴き比べるのは意外とむずかしい。いっそ、第三者にやってもらった方がスッキリする場合もある。実際、あの修羅場でどうやったら満足のいくミキシングができたのか、不可解としか言いようがないが、自分なりの決定盤が出せたことで、彼は自信を深めたらしい。かつてN響が、試みに自分たちのテイクを継ぎ接ぎして作った録音が、実際の演奏よりもえらくよくできていて驚いたという逸話を聞きかじったことがあるが、それなら成果は十分である。

Ⅷ.

さて、マトモな音楽教育を受けた人であれば、楽曲を指揮するのに際して、スコアを読み込んでおくのが筋といえば筋である。小澤征爾村上春樹と対談する時も、マーラーを聴きながら譜面をめくっていたし、師匠のミュンシュは、スコアを片手にコンサート会場に足を運んでいた。しかし、これは技術的制約のためではないかという指摘がある。クラシック音楽が確立された時代に、たまたま作品を記録する手段が楽譜(規範的楽譜)しかなかったというだけで、実際に鳴り響く音よりも、作品として視覚的な音楽表記が重視されたというにすぎないというわけである*26。もっと言えば、コンピュータでシミュレーションできれば、曲の構造はもっと明快に分析できる。
小澤征爾はスコアを読むのが大好きな人だった。ウィーンにいた頃、彼の部屋にはピアノがなかった。そこでオペラ座にある彼のオフィスに行って、夜中までピアノを弾いていたという。カーネギー・ホールの指揮者室にグランド・ピアノが置いてあったことを懐かしく思い出したという。以前、三澤氏から、ウィーンの楽友協会の指揮者室を訪れ、そこにあったベーゼンドルファーを見て感動した話を聞いたことがある。そんなわけで、指揮者というのは、ときどきピアノで和音を鳴らしながら、スコアから響きを読み取ってゆく。ところが、実際にオケを鳴らしたらサッパリわからなくなることがある、という。鍵盤を押さえながら、静的に譜面を理解している分にはよいが、実際に演奏が流れてしまうと、どこをやっているのかわからなくなるというのである。そりゃまあ、相手が難解なベルクのオペラだったから無理もない。さすがの小澤も大慌てしたらしい*27。もう、わかんないときはやンなッちゃうらしい。でも、コンピュータがあれば、そんな心配はいらない。譜面を読むどころか、自分で音符を打ち込んで、さらにパートごとに鳴らすこともできる。もっとも、大曲ともなればそれだけで時間終了、指揮も演奏もできない、などということになりかねないかもしれないけれど。
しかし、この件は深刻な問題を孕んでいる。先に出た指揮者の三澤氏には自作のミュージカルや音楽劇もある。話が作曲に及んだとき、三澤先生は《フィナーレ》というソフトを使っていると教えてくれた。自分で音符を打ち込んで、それを物理音源で鳴らして聴くこともできる。実際のオケに指示してやらせるよりも、「自分の思った通りに作り込めるからすごいよ」という。でも、これ以上やると、生身の人間がいらなくなりそうな気がしてやめた、という。コンピュータは、生オケよりずっとよくいうことを聞く。人間はミスをする。他人の考えなど理解できるはずもない。ボス響でも小澤の考え方と衝突する楽団員はいた。実際、トンでもない職場である。挙句、コンマスは辞め、自分が首席に任命したトランペットのチャーリーときたら、やたらヴィブラートをつけやがる。クビにしようとしたら裁判を起こされた。勝ったのはチャーリーの方だった。他の団員だってわかったもんじゃない。自分の方がセイジより音楽がわかっていると自信をもっている者が大半だったという*28
指揮者だけでなく、演奏家も相当のストレスを抱えている。欧米ではそのことがすでに80年代には問題化していた。音楽家の4分の1が極度の緊張状態にあり、疾患化していたという。特に金管奏者が多い*29。玉繭先生から聞いた〈肛門が破れて困っているテノール歌手〉の話というのがある。緊張のあまり酒を飲みすぎて、公演になるといつも尻にできた粉瘤が破裂して、歌うたびに尻の穴が破れるというのである。もう、気の毒というほかない*30。なぜか本番で管がつまったのか、ただでさえ音が外れやすいのに、破裂音ばかり出して困惑しているホルン奏者もいれば、なかなか楽屋から出てこないソリストもいる。オケはもう壇上に勢ぞろいしているのに、なぜか楽屋にこもって一人で音を合わせている(そういえば楽屋で音を出すなと怒った指揮者がどこかにいた)。
そこへいくと、機械は作曲者や指揮者の理念と直結している。実際、ホールで演奏する前に全てがその場でわかってしまう。もちろん、理念的なものと生演奏は異なる。作曲者の意図を越えた何かが超出される可能性は常に孕まれている。しかし、作者の理念を絶対とするのであれば(ベルリオーズワーグナーならそう考えたかもしれない)、人間の演奏など、理想から乖離した劣悪な模造品にすぎない。まさに、パロールエクリチュールの関係だ。ある人が、「結局、人が演奏したほうがいいのか、コンピュータのほうがいいのか」と、明確な結論を聞き出そうとしたが、三澤氏は答えなかった。そう単純な問題ではないからだ。
ただ、指揮者が意図を伝える上で、相手が人間か機械かというのは大きな問題で、テンポや音量、ベロシティ(強弱)などはコンピュータを使えば、定量的に細かく設定することができ、きわめて具体的に作曲家のイメージを数字に置き換えることができる。テンポならBPMを1ごとに変化させられるし、ベロシティにおける入力可能なパラメータは一般的に1~100である。物理音源のアタックも変化させることができる。ただ、音符と違って、一度設定してしまうと途中で変えることができないことが多いので、金管楽器のアタック感を場面ごとに変えようとしてもむずかしいのかも知れない。一応、エンベロープ(ADSR)で生楽器の音量変化を模しているので、何もしなくても、それらしい音にはなっているが、たとえば、ワーグナーの《ローエングリン》第3幕前奏曲の16小節目からあらわれるホルンの強奏などはちょっと再現できない(もっとも、その前後もフォルテシモなのだが、打楽器以外はトゥッティなので、そこまでホルンの音色が目立つものでもないからよしとしよう)。少なくとも、MIDIなどを使う場合はそうなるだろうが、今は生演奏をサンプリングしたものが無料で出回っているから、これでトラックを作っておけば楽団員が〈レコ勉〉するには十分であろう。特に初演の時は、圧倒的に便利になる。作曲者が「これ、聴いておいてくれ」とオケと指揮者とデモを渡しておけば、絶対に「ああ、なるほど」となる。ミュンシュは「初演の時はできれば作曲者に立ち会ってもらえ」と言っていた。ショスタコーヴィチが《交響曲第10番》を書いたとき、ムラヴィンスキーは事前にショスタコーヴィチと話し合い、原譜の修整さえ提案している。ここだけの話、指揮者はたまにスコアを書き換えてしまう。そうした習慣を排除してオリジナルに回帰しようとしたアバドのような指揮者もいないわけではないが。
実のところ、それぞれのオケにはそれぞれの音というものがあるし、それぞれの楽曲に適した音の出し方というものもある。しかし、将来、もしAIがそうした演奏上の個性を具えるようになったらどうであろうか? それでもなお人間が演奏すべきなのか? 人間がする〈労働〉として演奏も作曲も、すべて消滅してしまうのだろうか?
この予感は正しいと思う。そのうち音楽もAIとボカロで事足りるようになり、人間はアブジェクトされるに違いない。少なくとも、その重要度は大きく低減することだろう。今や将棋の名人がAIの二番煎じに見えるのと同じことだ。人間がAIに稽古をつけてもらっているようでは、先は知れている。AIでできることを人間が時間をかけて成就したところで大して尊敬はされないだろう。以前、中村先生がある画家に対して、「こんな絵はコンピューターでもかける」と言って顰蹙を買ったことがあったが、あれも先を見通した発言であったと思う。今ではAIの手を借りた創作物が大量に出回りつつある。最初は使用をためらっていても、もし一度でもAIの助けを借りてしまえば、もうおしまいだろうと思う。
かつて私は、〈労働〉の終焉とともに芸術も終わると予言したことがある。ある種の芸術家たちはただの器用な人に成り下がってしまうであろう、と。芸術は思いのほか脆弱な分野で、AIの侵襲に持ちこたえられないもののように私には思われる。AI映画なるものが出てくるに至っては、いよいよ人間の先も見えたというもので、そのうち、人間が指示を出す必要もなくなるだろう。一昨年から理研では小室哲哉氏のAIバージョンを創るという面白い研究に取り組んでいる*31。もともとカードを組み合わせるようにして楽曲を作り出してきた人なので、頭の中がAI的だった。そういう意味では、演奏家より先に作曲家の方が淘汰されるものと思われる。機械の方が優れているのに、どうして血反吐を吐いてまで音楽を作らなくてはならないのか? 人間同士の競争なら勝てる見込みもある。だが、疲れ知らずの機械と戦うのはあまりに無謀だ。〈労働〉として、完全にペイしない。
ある芸術家は「たとえ他人から顧みられなくとも、作品を創る意味は残り続ける」と言った。なるほどと思った。まったくその通りで、何かを創作するという楽しみは人間のために残されるであろう。それを金に換えようとか、それで名誉を得ようとか、そのような邪念を離れて、ディレッタンティズムに回帰するためには、ぜひとも〈労働〉の終焉が必要なのである。かつてウィーン・フィルはプロの音楽家の入会を禁じていた。「アマチュア」の語源はラテン語の「アマトール」、すなわち「愛好家」「愛する人」である。「フィルハーモニー」の「フィル」もまた「愛する」の意味だ。

Ⅸ.

〈労働〉としての音楽の終焉——それは、バタイユ風に言えば〈労働〉によって自らを〈人間〉として記号化(最近では「進化としての〈自己家畜化〉」だと指摘する人もいる)してきた人類史の大転換点〔Zeitenwende〕の一徴表である。もっとも、それが救いを意味するのか、それとも破滅を意味するのか、誰にもわからない。人類の〈飼い主〉が自分自身からAIに変わるだけのことかもしれない。
2016年のことである。東京で開催された《アート・ハッカソン》の受賞者展と、長野の公立美術館で開催された企画展のために『〈存在〉の恐怖——〈人間〉を棄却する快楽』という論考を書いた。アーティストから依頼されたものだ。人間は、その〈人間的なもの〉を棄却(アブジェクシオン)することによって、自らを脱記号化する——そういう論旨であったかと思う。そして、そのような脱記号化のプロセスは、AIに代表される新技術によって促進されるであろう、と。今にして思えば、音楽におけるその嚆矢は、あるいはカラヤンだったのかも知れない。
カラヤンは最新の技術にいつでも真っ先に飛びついた。生演奏ではなく、作り込まれたフェイク映像を、範例として遺す道を選んだ。それを堕落と呼ぶ人もいる。ライブ録音ですらリハーサルの音を継ぎ接ぎして、ミスの少ない箇所だけを集めてレコード(CD)が完成する——そうして作られたものは、空気感のない録音になるという*32。それはそうなのかも知れないが、もはや、そんなことを言っている場合ではない。その基準をクリアできるのは、ほとんどチェリビダッケただ一人ということになりかねない。彼は聴衆の存在しない音楽を認めなかった。生の現場に演奏家と聴衆が会して音楽に参加しなければ、音楽の求めるものを感得することができないと考えていた。今、世に出回っている彼のライブ盤は、彼の死後に解禁されたものだ。マウチェリに言わせると、録音で聴くチェリビダッケは大して印象的なものではないという。「しかしながら、実際にコンサートを聴いた人々は、人生を変えるような演奏だったと言うのだ」*33とマウチェリ。褒めているのかけなしているのかは定かじゃない。
断っておくが、私は別に生演奏でオケが間違えようが、ナニしようが、別に構わない。それはそれで面白いと思う。ミュンシュもオケの失敗を咎めだてするなと言った。しかし、レコーディングとなると話は別だ。やはり、コンサートが一つの〈体験〉であるのに対して、レコードは作品としての〈モノ〉ということになるのかも知れない。20年ほど前の話だ。教え子のお母上から「先生へのお礼です」といって図書券をドッサリもらったことがある。私はそれでフルトヴェングラーの《リング》全曲を買った。戦前の貴重な録音をCD化したものだ。ところが、あまりに音がひどすぎて、最初の数分を聴いただけでやめた。こういうのはある程度チャンとしてくれないとストレスがひどい。音質とか演奏とか、ナンだとか。なので、エンジニアの技術は大変重要だ。トラックダウンもマスタリングも。チェリビダッケはそれが気に入らなかったらしい。音楽はホール全体で響く。その残響時間でテンポが決まる。近くにマイクを置いて音を録るのは矛盾しているというわけだ。機械を通すと音がゆがむという見解ではミュンシュとも共通していた(もっとも、ミュンシュは録音の意義を理解していたし、〈レコ勉〉に役立つと考えていた)。録音の話は長くなるから、ここではよしておく。後にしよう。

Ⅹ.

さて、音楽におけるカラヤン的な方向とチェリビダッケ的な方向があることを見てきた。クラシック音楽のダイナミックレンジは、あらゆる音楽ジャンルの中で最も幅広いものであり、録音ではうまく伝わらないのも確かなことだと思う。これはそもそも論だが、もし、そのためにぜひとも生演奏を聴かなくてはならないとすれば、コンサートの聴衆はむしろ増えなくてはおかしい。おそらく、現実にはそうはなっていない。ポップスの方は、しばらくは安心できそうだ。フェスで体験すべきは、音の繊細さよりも熱気とか臨場感ということになるだろう。たとえ音がよく聞こえても、アーティストのパフォーマンスが見えなかったと言って怒る人もいる。「それじゃライブに行っても無意味じゃないですか」というわけだ。まあ、わからなくもない。
だいたい、巨大オーケストラはコスパが悪い。おまけにレパートリーは何百年前の音楽だ。プログラムの柔軟化はオケの課題で、これには音楽社会学的な研究もある。まあ、わが国でいえば歌舞伎のような話だ。しかし、いずれAIがマニュピレーターとしての機能を完備して、また会場もホールでなく仮想空間内というようなことになるであろうから、もはや話はトンでもない方向に進んでいくことだろう。ユートピアなのかディストピアなのかはわからない。
音大自身が学生の演奏能力を二の次と考えている以上、もはや人間に曲芸的な演奏能力を求めるような考え方は時代遅れのものとなるに違いない。そうなったら、アマチュアと変わらない。しかし、近い将来、この世からプロのオーケストラが一掃されたとして、私たちはアマオケの何を聴こうというのだろう? プロの演奏能力を期待しないとすれば、何を目当てにホールに通うのだろう?
音楽に限って言えば、たいがいのプロは期待通りの音を出す。その予定調和の上に築かれた安心感は、エドマンド・バークの定式からすれば〈美的〉なものだ。いわば微笑んだら微笑み返してくれる社交場の貴婦人のようなものだ。〈真理〉とはそのようなものではないとニーチェは言った。一方で圧倒的な力能で聴衆に畏怖を生ぜしめるマエストロは、〈美〉というよりは〈崇高〉に属する存在である。美的な圏域を突き破って、われわれを真理の高みへと連れ去る存在——そこに待ち受けているのは、私的な親密さというよりは、普遍的で絶対的な価値とされるナニかだ。たぶん人は、そういう凡庸さを裏切って日常を切り裂く〈深淵〉を、巨匠と呼ばれる指揮者に求めるのだろう。
だが、アマチュアはそうではない。聴き手の「どうか間違えないで弾いてほしい」という、ある種の願いの中に包まれて、彼らは弾く。アマチュアの聴衆は、だいたいが地域の人だったり、オケの関係者だったりするからだ。それが思いもしない優れた演奏で、聴衆の予想を裏切ることがある。私も若い頃は「アマなんて」と思っていた。何しろベルリン・フィルに一曲書いてやろうというトンでもない人間である。国内のオケなんかもとより眼中にない。あまりに傲岸不遜なので、みんなビビった。しかし、それは完全に誤った考えであった。
何年か前、思うところあって、母校のオーケストラの定期演奏会に足を運んでみた。トンビ高校の管弦楽班(いろいろあって、われわれの地域では部活動を班活動といった)のそれだ。全国高等学校オーケストラフェスタに第1回から出場している、その筋では知られた高校オケで、メインはブラームスの《交響曲第1番》だった。当然、「ヴァイオリンなんて初めて触りました」というような生徒もいる。1年練習しただけでどの程度弾けるのかと思っていたら、トンでもない演奏で涙が出るほど驚いた。吹奏楽班、合唱班も登壇して、演奏も進行も非の打ちどころのないもので、あたかも舞台上から黄金の光が放たれているかのように見えた。こんなことがあるのかと茫然となったのを覚えている。コンミスとフルートだったろうか、ものすごい存在感を放射していた。母校の後輩ながら、何者かと思った。
その後、コロナを挟んで数年が経ち、最近では生徒の確保も大変で、今年の第2ヴァイオリンは全員、未経験者で編成されていた。定期演奏会まで、相当に苦心したものと思う。弦楽器を弾いたことのある中学生を確保するのはむずかしい。今年は市内の中学の室内楽部が《全国こども音楽コンクール》の中学校合奏第一部門で文部科学大臣賞(つまりは第1位)を受賞したこともあって、そこから優秀な弦奏者が入部してくれるのではないかという期待があるわけだが、どうも音楽教室筋の話によると、そこから経験者が何人かは来てくれるとか、来てくれたとか、そんなことらしい。そうした次第であるから、管楽器に比べて、弦の出来は一定しない。強奏のときはいい。反対に交響曲の緩徐楽章などは厳しい。こう書くと、結局はテクニックの問題のように聞こえていけないが、せいぜい模範的なプロの演奏を聴こうというのとは少し違う。
マウチェリも学生オケ(イェール交響楽団)でマーラーの《3番》を振った経験を書いている。オケの中には誰一人として《3番》をミスなく弾ける者はいなかった。しかし、2300人のクラスメイトが聴衆となってコンサートに参加して互いに支え合うことで、マーラーの音楽的意図が完全に実現されたというのである。それこそが「原初の祝祭」で、聴衆のいない音楽は存在意義を失うと、彼は書いている*34チェリビダッケもまたニューヨークでカーティス音楽学校の学生オケを振ったが、それを聴いたジョン・ロックウェルは「ニューヨークで過去25年間に聴いた演奏の中で最高のもの」と絶賛した由である*35。いろいろ間違っていたに違いないが、それでよかったのである。演奏する側も、思いっきりブチキレてほしい。
してみると、プロとかアマとか、そこはどうでもいいのかも知れない。自分の興味あるオケを聴きに行けばいい。できれば、思い入れをもてそうなところがいい。伯父さんにとってそれは、小澤征爾が率いたボストン交響楽団だったのだろう。1999年5月9日のボス響アジア・ツアーを名古屋市民会館の大ホールで聴いている。1階20列目の1番だから、2番扉に近い左隅の席だろう。曲目はベートーヴェンの《レオノーレ》序曲第3番、ベルリオーズの《ロメオとジュリエット》もバルトークの《管弦楽のための協奏曲》で、私が聴きたいと思うのは、断然、バルトークである。もっとも、高校の時にオンセンか誰かからもらったチケットで聴いたバルトークは、まったく理解できなかった。どこかに「弦楽器をオモチャにしている」と酷評を書いた記憶があるが、その後、考えを改めた。所詮は高校生のタワゴトである。何も理解できなかったということそれ自体が、今となっては興味深い体験である。
なお、伯父さんは1993年のウィーン・フィルの客演も同じホールで聴いている。その時は同じような列の右端近くだった。曲目は入れ替えだったから、何を聴いたのかは定かではないが、問題のベルクも入っていた。何を聴きたいかと問われれば、断然、ベルクだ。2001年の小澤征爾音楽塾の《コジ・フアン・トゥッテ》は愛知県芸術劇場である。伯父さんは小澤の指揮を生で3回、見たことになる。ずいぶん感激したにちがいない。小澤・ボス響のCDを何枚か送ってくれた。

*

今の脳状態で、一日で書けるのはせいぜいこれぐらいだ。読むほうもいい加減にウンザリするだろうから、続きは次回にしよう。

〈2024年5月14日〉

前頭側頭自閉軒全集抄⑪
藪雨女[1]

藪雨女(『旭山玉繭洞妖怪図彙』より)

昔、長高てふ弓道班に、チャリにて流鏑馬しける女子二員ありけり。
介添ひきつれて矢道に乗り入れ、顧問大ひにうろたへぬ。
わけを聞くに
「妖怪・藪雨坊(ヤブサメンボー)の仕業なれば、身命惜しまずするなり」
とぞ答へける。
さても危なき女なるかなと人ぞ言ひける。

平成のはじめ頃のことであろうか、長高弓道班に、
「藪雨女(やぶさめ)」
という妖怪が出た、という。
よりによって、弓道場の矢道にケッタ[2]で乗り入れ、的を射ようとしたので、驚いた顧問から大目玉を食ったとの由である。もちろん、県弓連にでも知られたら一大事である。
さて、この藪雨女、一応、補助役として共犯の女子一名がついていたようだが、基本的には一人でケッタに乗り、それで弓を引いたというからトンでもねえ。曰く、
「一人でこいで矢を放ちます。命がけです。妖怪のせいですから、仕方ありません」[3]
だそうである。当時、明圓黌主先生もこれを見たりしが、
「反省しない女どもかな」
と、呆れた果てた由という。

一説に、女子生徒に取り憑いたこの妖怪は、
「藪雨坊」
といって、これが背中に取り憑くと。ケッタにまたがって矢を放ちたくなるという。按ずるに、「ズルビン」や「まゐ子」の同類であろう。このとき取り憑かれたのは玉繭先生だったというから、どうやら「弓教え」とは異類の妖怪のようである。

ところで、問題の弓道場、ヒョンなことから世間の注目を浴びることとなった。NHKでやっていたアニメ『ツルネ ―風舞高校弓道部―』に登場する弓道場のモデルになったのが、ここだというのである。もっとも、舞台となったのは現在の弓道場であって、妖怪が棲んでいた頃の古い弓道場は、今とはまったく別の、キャンパスの北西の隅にあった。今の弓道場は、平成5年(1993)に校舎が改築された際、図書館跡に建設されたものである。なお、図書館ができる前は奉安殿であった。

アニメのモデルになったという現在の弓道場(2020年撮影)

さて、妖怪が巣食うくらいであるから、弓道班の歴史は長い。旧制中学時代には「弓道部」といって、明治38年(1905)の創立である。当時は寄宿舎食堂の東に弓道場があったというが[4]、まだ校舎が西長野にあった頃の話だ。昭和15年(1940)に校舎が現在地に移転した後のことはよくわからない。生徒は校旗を先頭に四列縦隊をもって上野ヶ丘を出て金鵄ヶ台の新校舎に入城したとの次第である。
昭和16年(1942)には校友会が改組されて、
「報国団」
になった。名前の通り、尽忠報国のための組織である。そこに「鍛錬部」というのが置かれて、「弓道部」は「弓道班」となった。今でもクラブ活動のことを「班」というのは、ここに起源するのであろう。他県の人が驚くゆえんである。
さて、そうこうしているうちに敗戦となり、弓矢も記録も焼却処分に付され、さしもの妖怪も退散したものと思われたが、昭和35年(1960)、キャンパス北の空地に、不用となった下駄箱を並べて射場とし、砂を盛っただけの垜(あづち)をこしらえて、弓道場を再建したというのである[5]。さすがに気の毒だということになり、昭和42年(1967)にチャンとした弓道場が新設された。弓道班のOB会である「弦声会」が所有していた旧校長宅を道場に改築したという。旧制中学時代の地図と比較するに、私が在校していた頃の弓道場というのはこれであったと考えて間違いないようであるが、どうであろうか。
なお、当時の弓道場を作ったのは、なンと、玉繭先生の伯父の池田氏であったという話[6]がある。校史には生徒が土方をやったという話しか出てこないが、どういうことであろうか。ちなみにこの池田氏、甲冑の修復などを業とされていたが、案の定、コッチにも妖怪が出た。川中島あたりで死んぢまッた人のアレかも知れねえが、取り憑かれた人もいたという。

さて、歴史と伝統ある長高弓道班、藪雨女が出た頃の成績はどうであったかというと、平成2年(1990)の3月には、全国大会の決勝リーグに進出している。7月にはインターハイにも出ているから、なかなか強かった。私が在学していた平成6年(1994)にも近県大会で男女とも優勝しているから、存外立派である。[7]
しかし、県弓連が聞いたらまた怒られそうな件が、もう一つあった。どこで聞いたか定かな話ぢゃねえからアレだが、一応、書いておく。
じつは本校の文化祭には、
「ファイヤーストーム」
という、バンカラ時代から続く行事があって、要は、高々と木を組んで火をつけて騒ぐという、ただそれだけのものだが、なンと、その点火方式が弓道班の火矢だったというのである。もっとも、令和になっても、ここらの高校では弓道班が火矢をしていることが発覚、堂々とテレビ取材にも答えている。過去には消防署に届け出るのを忘れて大目玉という事件もあったようだが、してみると、このことは一応、黙認されているもののようである。
もっとも、これとは別に、本校には世に知られた
「ファイヤーストーム事件」
というのがあって、祭りを盛り上げようとした生徒が、火の粉を浴びで亡くなるという痛ましいこともあった。昭和56年(1981)のことである。[8]

じつは藪雨坊、こういうことが起こらないように、見守る妖怪なのかもしれない。だとすると、玉繭先生は自分の意志で流鏑馬をしたことになるが、今となっては真相は藪の中である。

〈2023年5月26日〉

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月24日図。

[2] 愛知県を中心に、自転車のことを「ケッタ」という。仲由一郎氏の教示によると、長崎県の一部でも使われているとの由である。なお、和歌山県那智勝浦町で中学生をつかまえて「ケッタ」について問うたところ「知りません」との返答を得たと、『今橋日記』(『自閉軒日録』の一部なり)1998年5月1日条に見えたり。数時間後、三重県の某町で同じ質問をしたところ、この語が通じたことを記憶しているが、『日記』には見えず。

[3] 南澤玉繭メール(自閉軒宛、2023年5月25日付)に見えたり。「顧問はマジギレ、部長はオコ」との由である。女子らは「あんなことであんなに怒っちゃって」だそうである。

[4] 長野高校八十年史刊行会『長野高校八十年史』、長野高等学校同窓会、1980年、684頁。

[5] 長野高校八十年史刊行会、同書、831頁。

[6] 『自閉軒日録』、2023年3月24日条に「弓道班のことを聞く。葉子、流鏑馬で叱られるという。自転車で矢道に乗り入れて射るという。愉快。なお、旧校舎の弓道場は、葉子の伯父の池田氏が造ったものという。甲冑の修復などをする人であったらしく、詳しくは失念したが、例によって甲冑にナニか憑いていたとかいないとか、そんな話もあったやに思う」と見えたり。

[7] 長野高校同窓会百年史編集委員会『長野高校百年史』、長野高等学校同窓会、1999年、501~2頁。

[8] 長野高校同窓会百年史編集委員会、同書、504頁。

前頭側頭自閉軒全集抄⑩
弓教え

弓教え(『旭山玉繭洞妖怪図語彙』より)

武州に美女木てふ所あり。
鎌倉の右大将、奥州を攻め玉ひし時、ここに屯し玉ひけり。
夢に八幡大菩薩の立ち玉ひて、御告し玉ひけるとかや。
のち鶴岡八幡、領家なりしとき、飛射騎とて流鏑馬しけるとか云ふぞ。
ここに一つの霊ありて、木に登りて流鏑馬を見たりしが、
東下りせし官女のために横領せられて信濃国へと逐電しぬ。
已後は土民に弓を教へて暮らしぬ。
美女には憎みて教へざるとか云ふぞ。
この事、林大学頭の一書に見えたり。[1]

「弓教え」
という妖怪がいる。
その名の通り、人に弓を教える霊である。
『旭山玉繭洞妖怪図彙』によると、文治五年(1189)、奥州合戦の際に当地に入った源頼朝の夢枕に八幡神が現れてお告げをしたというので、一社を建てて、この地を鶴岡八幡宮に寄進した、という。この笹目八幡社に長い参道があって、そこで流鏑馬が行なわれたため、流鏑馬をあらわす
「飛射騎(びしゃき)」
が転じて、
「美女木」
になったと、ものの本に出ているようである。[2]
しかし、弓書を徴するに「飛射騎」なる語は管見にして見当たらず、当を得たものとも思えない。

それはともかくも、この〈弓教え〉、八幡サンの社叢に住んでいたものらしい。流鏑馬を観覧するのを楽しみながら暮らしていたようだ。そこへあるとき、都から官女の一団が流れてきて、スッカリ定着してしまった。〈弓教え〉は住みにくくなったのか、八幡サンとゆかりのある信州善光寺の辺へ逃げてしまったという。
この話は林大学頭(述斎)のまとめた『新編武蔵風土記稿』(1830)に出ているという。曰く、

美女木村はもと上笹目と云ひしが、後今の村名となりし謂れは、
古へ京師より故ありて美麗の官女数人、當所に来り居りしことあり、
其頃近村のもの當村をさして美女来とのみ呼しにより、
いつとなく村名の如くなり(…)。[3]

という。
つまり、美女が来たから、
「美女来」
という地名が起こったという説明である。
何とも言えない話で、当の述斎も、
「いとおぼつかなき説なれど暫く傳のままを記しおけり」
と、書いている。
この述斎、とにかく本を作るのが好きで、『佚存叢書(いっそんそうしょ)』(1809)なンてのは、本家中国でも高く評価されている。大陸で亡失した古典を集めた遺文集である。他にもいろいろなことを調べて後世に遺した。『徳川実紀』なンてのは有名だ。
ともあれ、都から高貴の女人が下向したというような話はチラホラあって、信州でいえば、京から官女が流されてきたという〈鬼女紅葉伝説〉の鬼無里とか、南朝宗良親王に仕えた女官が尼になって親王の菩提を弔ったという「尼堂(あまんど)」という地名が、岡谷の柴宮付近(東堀区)に残っている。近くには「御所」という地名もある。[4]

柴宮(東堀正八幡宮=長野県岡谷市長地柴宮)
宗良親王の御在所を仮に柴で葺いたので柴宮という。

柴宮の境内はすっかり御柱に占拠されている。さすが諏訪地方である。

ところで、流鏑馬にまつわる地名のことは別にあって、『新編武蔵風土記稿』には
「藪サメ」
という小名が紹介されている。

古ヘ村内八幡へ奉納の流鏑馬ありし所なり。
因て此唱あり。故に元は流鏑馬と書きしといへり。

この「八幡」が笹目八幡で、今の美女木八幡神社である。してみると、ヤブサメという地名に「飛射騎」という適当なアテ字をつけたこともあったのかもしれない。
なお、「八幡社」の項には頼朝の話も出ている。頼朝が奥州下向の際に云々とあって、先に見た話と同じものだ。古くは八月十五日の祭礼に流鏑馬の興行があったというが、今は廃せりと云う。
なお、述斎の本は頼朝のことを、
「右大将頼朝」
と書いているが、頼朝が右大将に任じられたのは奥州合戦の後で、それも十日かそこらで辞任している。だが、頼朝といえば「右大将」「右幕下」で、だいたい、「幕府」ってのも征夷大将軍ではなくて、もとは右大将の府だ。和田秀松博士は、幕府は近衛大将唐名だと書いている[5]。もっとも、語義に照らすと、征夷大将軍の府といったほうがふさわしい。『漢書』「李広伝」の註に、

晋灼曰く、将軍の職、征行に常のところ無し。所在に治を為す。故に幕府と言うなり云々。師古曰く、幕府は軍幕を以て義と為す。古字通じて単に用うるのみ。軍旅には常の居止なし。故に帳幕を以てこれを言う。

と、ある。当の和田博士が引いている。

さて、この〈弓教え〉、最終的には信州に住み着いた。俺も会ったことがある。いつ会ったのか調査してみたが、詳しくはわからない。なんせ日記があまりに膨大で、どこに何の記事が出ているか、検索をかけても見つけられねえ。2002年から数年間のどこかだと思う。
話はこうだ。
ある日、弓道場で弓を引いていると、後ろから誰かがやってきて、右肩を叩いてきやがった。右の肩根を沈めよという意味だろうと思って、そうした。
矢はチャンと離れて、的に正中した。誰か先生が叩いたんだろうと思って振り向くと、誰もいねえ。廊下にいた人に聞いても、知らないと言う。
按ずるに、〈弓教え〉の仕業であろう。じゃなきゃ、歴代弓士の霊か、弓の神サン[6]か何かだろう。ともあれ、神棚に一礼してお礼を言っておいた。
だが、この〈弓教え〉、官女に遺恨あるものと見え、美人には弓を教えない。一緒に弓を引いていた玉繭先生[7]が〈弓教え〉に会わなかったのには、そういう理由があったのである。
なお、絵を見ると、〈弓教え〉は射手の後ろから狙いを見ているが、上位者の矢乗りは、頼まれない限りは見ないのが礼儀[8]だ。気をつけな。

〈2023年5月20日

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月20日図。

[2] 岩井茂『さいたま地名考』、さきたま出版会、1998年、46~47頁。

[3] 『新編武蔵風土記稿』巻之百十五、足立郡巻二十一、内務省地理局、1884年、22頁。

[4]岡谷市史』上巻、岡谷市、1973年、505頁。なお、鬼無里にも「内裏屋敷」の地名あり、楠氏など南朝遺臣の姓があることはいささか注目される。なお、近隣の飯綱町(旧・三水村)に芋川氏あり、楠木氏の裔とも云う。本姓・藤原氏、のち、楠公の曽孫・正秀を養子に迎えて再興したと云う。中村八束博士は芋川氏の流れで、武田氏滅亡後、天正壬午のときに上杉氏に従った親正の兄弟である正保の子孫と云う。なお、『甲斐国誌』には、大月に「御所」という地名があり、高貴な女性が悲嘆にくれて住んでいたという。按ずるに武田氏に滅ぼされた笠原清繁の妻を小山田氏が妾婦として置いた地ではないかと云う。

[5] 和田秀松『官職要解』(訂正増補)、明治書院、1910年、283頁。

[6] 『自閉軒日録』2005年10月20日条に、大久保秀雄範士の講話として、弓矢八幡大菩薩を云うと見えたり。

[7] たとえば、自閉軒と南澤玉繭は、2002年6月28日の射会で立を組んでいる。玉繭が大前であった。『日録』同日条に見えたり。

[8] 長野県弓道連盟指導部『弓道における一般的注意事項』(2002年)に「上位者の矢乗り(狙い)を見ることは遠慮する。依頼された場合は別である」とある。

前頭側頭自閉軒全集抄⑨
まゐこ奇譚

まゐ子(『旭山玉繭洞妖怪図彙』より)

昔、武蔵国は戸田てふ所にマヰ子てふ者ありけり。
日頃、木の下にて遊びけるに、さみしき余りに
人にチョッカイして咳をさすとか云々。
人が構はず横臥せば、益々構って咳させ候。
村人困りて仏に苦情申しき。
仏怒りてマヰ子・眷属を調伏し玉ふこと、経に見へたり。
今、其の木を美女木と云ひ、マヰ子住みたるとか云ふぞ。[1]

埼玉に
「美女木」
というところがある。
去る3日、その美女木から姪が来た。
美女木というだけあって美人である(5歳)。
この姪、両親も理解できない不思議のところがあって、ときどき大人にもわからぬようなことを言う。なぜかはわからないが、私の部屋に入り浸っている。

さて、姪が来て2日もすると、何やら急に喉が痛くなり、その後、数日もすると、夜も寝られぬほど咳きこむようになった[2]。治ったと思うと、余計にひどくなる。眠ると休まるどころか悪化するからいけねえ。
そこで、人に勧められて近所の内科に行くと、
「じゃあ、レントゲンと血液検査させてもらっていいかい?」
ッてことになった。
「正直に言うよ」
この言い方は、医者が死期の迫った人に何か告知するときの口上だ。
「レントゲンだけど、肺に影は映ってないのよ」
ッて、なんなんだよ、死ぬんじゃねえのかよ。
「だけど、血液検査してみたら炎症が起きてる反応が出てるのよ」
見てみると、確かにCRPの値が高けえ。
で、その血液をさらに検査会社に回して、何の病魔が取り憑いてンのか、調べてもらうことになった。

CRP(C-リアクティブプロテイン
基準値は0.30mg/dL。炎症状態で上昇するため、細菌・ウイルス感染症などが疑われる指標。

その4日後、結果を聞きに行くと、
「検査の結果なんですが」
と、医者はクイズの正解を発表するみたいに言いやがる。
「なんと、まゐ子プラズ魔肺炎でしたー」
「えー、マジかー」
「そうなんですよ」
そんな子どもがかかるやつ、どこから来やがったんだ。まあ、美女木からだろうな。姪もコホン、コホンとやってたよ。
「新型コロ助やインフルエン蔵の勢いに押されて影を潜めてるんだけど、まゐ子や百日咳もまだまだしつこく隠れてるんだよ、ウン」
そういう次第で、抗生物質を数日分もらって、しばらく飲んだ。
玉繭先生からも薬草が届いたので、煎じて飲んだ。さらに梅干を胸に当てて寝ると、咳にイイって言う。それをまゐ子が喜ぶのか嫌がるのかわからねえが、玉繭子はそれで治ッちまうらしい。

マイコプラズマ抗体半定量PA法)
1gMクラスの抗体の測定値。発症後1週間目で上昇するため、マイコプラズマ肺炎への感染がわかるという仕組み。基準値は40倍未満。

ところで、『旭山玉繭洞妖怪図彙』によると、このまゐ子、人にかまってもらいたさに、そこらの人に取り憑いて咳をさせるというので、仏が怒って調伏したと経に書いてある、という。妄説と思って侮る人もあるが、チャンと経に出てる。
宋の施護が訳した
『仏説一切如来真実摂大乗現証三昧大教王経』
ッて経がある。
これはいわゆる『金剛頂経』の30巻本で、唐の不空三蔵が訳した3巻本は、その最初のパートだけだったというので、
『初会金剛頂経
などという。日本で『金剛頂経』と言ったら、普通はコレだ。
で、その30巻本の巻第十『降三世曼拏羅廣大儀軌分第六之二』に、こんな話がある
「時に金剛手大菩薩、亦た鉤召一切瘧疾等鬼の大明を説いて曰く」
金剛手菩薩という人が、一切の〈瘧疾〉等の鬼を召喚する呪文を説いて言った。呪文の方は長げえから割愛する。なお、〈瘧疾〉ッてのはマラリアのことだが、他にもいろんな病気たちがやって来た。
「是の大明を説く時、彼の瘧疾等諸持病鬼、鉤召に悉く須彌山頂外の曼拏羅に来たる。周匝して住す」
この調子だと話が終わらねえから簡単に言うと、病気たちの言うには、
「菩薩様、手前どもは人の精気を吸って露命をつなぐ者にございます。それをやめよと仰せられては、手前どもは立ち行きませぬ」
そこで菩薩は
「清淨自業智印大明」
ッていうありがたい呪文を唱えて、印を結んで病気たちに見せた。そして、
「是の如き印契を随応に顯示し已(おわん)ぬ。汝諸瘧疾等鬼、速かに当に馳散すべし。もし然らざる者は必ず其の命を壊すべし」
と言うと、病気たちは教勅をかしこんで、それぞれの本処に帰ったという。
〈随応〉とは〈随類応同〉であろうから、病気たちの種族に応じて教化したという意味だ。呪文の名前からして、彼らのもつ業を浄める方法を教えてやったものらしい。
「話を聞いたらとっとと去るがよい、じゃないと北斗神拳でアベシだぞ」
と、脅しを加えたので、病気たちは逃げ帰った。自分で呼んでおいて勝手なものである。ともあれ、あとは病気たちが教わった通りに真言を唱え、印を結べば、問題は解決である。病気たちも人に迷惑かけずに生きられるって寸法だ。
しかし、どうもまゐ子は言うことを聞かなかったらしい。菩薩の目を盗んで、姪にくっつき、俺んちまで来やがった。

しかし、ふと考えた。
まゐ子の潜伏期間は2、3週間だ。
だとすると、まゐ子を連れてきたのは、姪じゃねえ。
まゐ子は美女木だけじゃねえ、どこにでも潜んでいる。
医者も言ってるよ。
そして、今日もどこかで、誰かにかまってもらいたくて、行旅人が来るのを待っている。

〈2023年5月17日〉

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月17日図に見えたり。

[2] 『自閉軒日録』、2023年5月5日条ほかに見えたり。

前頭側頭自閉軒全集抄⑧
この世とあの世をつなぐ橋[1]

「この世とあの世をつなぐ橋」
ッてのがある。
何処かは言えない。阿呆が押し寄せて、大挙してあの世に行かれても、あの世の人が迷惑するだけだ。
だが、うまくしたもので、俺なンかは何度通っても不思議と異変がない。なぜかというと、ありがたい阿弥陀の九字明を三遍、唱えて渡っているからだ。
覚鑁(かくばん)に『五輪(ごりん)九字明秘密釈(くじみょうひみつしゃく)』てのがある。九字明というのは、
「オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・カ・ラ・ウン」
の九字だ。早い話が阿弥陀真言である。
ところが、俺は訛って、
「オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・キャ・ラ・ウン」
と言っていた。
日本で梵語を読むとき、
「中天音」
南天音」
という二つの流儀がある。前者は中天竺の発音とされ、真言宗での読み方だ。後者は南天竺での発音で、天台宗の読み方である。言ってみれば方言のちがいだ。だが当時、本当にインドの発音がそのように分かれていたのかどうか、ちょっと定かな話ではない。いわゆる悉曇(しったん)梵音というのは、現代の梵音とは非常に異なっているというから、アテにならない。[2]
ところで、特に台密で重視される経に、
「蘇悉地羯囉経」
というのがある。
「ソシツジカラキョウ
と、読む。
東密のほうでは
「ソシツジキャラキョウ」
と、読む。
漢訳したのは中天竺出身の善無畏(ぜんむい)三蔵で、梵では「Susiddhi(スシッディ)kāra(カーラ) Sūtra(スートラ)」といい、意味は「妙成就・作業・経」ということになる。真言を成就させるためのキマリゴトがイロイロ書いてある。面白れぇから読んでみるといい。諸本によって内容はちょっと相違する。
さて、これで何となくわかったと思うが、俺が「カ」を「キャ」と訛っているのは、中天音のせいということになる[3]。何となく言いやすいからだ。

開山興教大師像(覚鑁)=照光寺(長野県岡谷市

だが、ちょっと待て。本当に阿弥陀さんの真言をそんなふうに訛って大丈夫なのか?
ふと気になって、還梵したやつを見てみた。するとどうも、
「oṃ(オーン) amṛta(アムリタ)-teje(テジェ) hara(ハラ) hūṃ(フーン)」
だという。
「カ」でも「キャ」でも何でもねえ。
「ハ」ぢゃねえか。
この際、どちかってえと「カ」のほうが近いから、「キャ」はやめた。
それはいいんだが、日本でいう経ってのは漢文だから、これをどう読むかというのにも流儀があった。漢文訓読法も東密台密では異なっていて、ヲコト点の付け方も違う。微妙に意味も変わってくる。加点法にも西墓点、池上阿闍梨点、東大寺点、浄光房点などいろいろあって、宗派ごとに伝承があった。これは近世儒学でも一緒で、テキストの訓点をどうするかは先生ごとで異なっていたからややこしかった。

何にしても、阿弥陀さんのおかげで、俺は今日も無事に生きている。
まさに、
「三塗の黒闇ひらくなり」[4]
云々だよ。
ナマンダーツ、ナマンダーツ、ナマンダーツ。

〈2023年3月3日〉

[1] この話、自閉軒メール(南澤玉繭宛、2023年3月3日付)に見えたり。

[2] 渡邊英明『悉曇梵語初學者の為めに (二)』(『密教研究』巻五二号、密教研究会)、1934年、71頁。

[3] 渡邊、同書84頁に「迦字を、カとキャと両様に発音するので、中にはकはカと発音すべきものにて、キャと発音す可きものでないと云ふ先匠もあるが、カの拗音はキャと呼ばる可きものにて、直拗二音の関係からすれば、何れにてもよいのである。而し此の事は悉曇の相承に於て、南天は直音、中天は拗音などの相異もあれば、其の人の相承如何に依つて又自ら云々するものである」とある。

[4]正信念仏偈』のオマケについている『浄土和讃』の一節。

前頭側頭自閉軒全集抄⑦
ズルビン奇談

最近、世にも奇妙な事件が出来した信濃国

山深い信州のどん詰まりに、かつて芋井草堂と呼ばれた一宇の寺がある。百済から来た仏を祀ったことから、
百済寺
ともいった。今の善光寺である。
その西之門といわれるあたりに、齋藤下総守、惣太夫[1]という神官がある。善光寺の鎮守社の神主である。かつて中村博[2]と齋藤神官家を訪れて昔の話を聞いた。齋藤神主の申されるには、自分祖先は、水内郡司の金刺氏で、善光寺を開いた本田善光を庇護して西の一室を与え、阿弥陀如来を祀らせたところ、軒を貸して母屋を取られる始末となり、神領はまったく寺に横領されたと云う。
善光寺はウチの土地」
が、この神主の口癖である。
この阿弥陀さん、難波の堀江に捨てられていたところを本田に無理矢理くっついて、はるばる信濃の山奥までやってきて、そこで寺に収まった。後に信玄公が甲府にお遷し申し、さらに信長めが岐阜に遷し、太閤は方広寺の本尊にしたが、夢枕に如来が現れ
信濃に返せ~」
と言うので、恐れて戻そうとしたが、間に合わずに死んだ。してみると、阿弥陀さんを動かした連中は、みな滅んだので、阿弥陀さんの祟りと恐れられた。
ところで、善光寺に兄部坊(このこんぼう)という一坊がある。そこの若麻績住職[3]は、中村先生とは高校の同級生で、よく昔話を聞いたと云う。中村先生からのまた聞きだから、いささか歴史に合わないようなところもあるが、話してやろう。
なんでも、この若麻績一族、本願上人と一緒に阿弥陀さんにくっついて行く先々で暮らしていたが、阿弥陀さんを長野に戻そうッて話になったとき、甲府から兄部坊が阿弥陀さんを背負って、長野まで夜逃げしてきたッて云う。これを按ずるに、また阿弥陀さんが取り憑いたのであろう。まったく、人の背中に乗り移るのが好きな仏である。
この善光寺阿弥陀よりもっと有名な仏がいる。名前を、
「ズルビン」
という。
このズルビン、最近、肥後国の人の背中に乗り移って、本堂から脱出を企てた。人々は、慌てふためいて大騒ぎとなった。三百年来なかったことである。
すわ一大事ということで、奉行所の役人も出動して、松本かそこらでお縄にした。その人が言うには、
「こんなものがあるから祟りが起きる、だから埋めようとした」
という。
不届き千万ということでお白州に引き出されるところであったが、ズルビンのそそのかしということにされ、不起訴になった。
かくしてズルビンはもとの本堂に連れ戻され、今日も誰かの背中に乗り移ろうと善男善女の訪れを待っている。

〈2023年4月30日〉

[1] 西之門齋藤家、齋藤安彦宮司。なお、明治時代に齋藤安幸がまとめた『齋藤神主家年中行事録』に「自分祖先ハ不詳ト雖モ、往古諏訪伊那より数社ノ神職、建御名方富命彦別神社ニ奉仕ニテ、其神社ト善光寺仏堂ト混淆シテ、仏威益々盛ニ相成、終ニ神社ノ地ヲ横領セラレ、社家ノ私共ハ旧領ト相成、当時中衆十五坊ト申者ナリ。自分一家ノミニテハ旧来ノ職ヲ相守、惣太夫ト称呼致候」とある。2010年1月20日中村博士夫妻とともに安彦氏と会い、談論した。博士の妻は齋藤家の係累である。博士が会話を録音した音声データが残っているが、雑音が多く、聴き取るのはむずかしい。

[2] 中村八束理学博士(信州大学名誉教授)。自閉軒の茶飲み仲間。

[3] 若麻績千冬氏とされる。兄部(このこうべ)とは堂童子の上座をいう。自閉軒メール(中村八束宛、2009年6月10日付)等に阿弥陀さんの夜逃げ一件のことが出ているが、若麻績氏の話とどれほど整合するのか、確証はない。

前頭側頭自閉軒全集鈔⑥
半過擬古[1]

左が半過岩鼻、右が塩尻岩鼻(長野県上田市)

険なるかな、半過(はんが)の岩、千曲南岸に屹立す。
懸崖峭絶四十丈、崖下に巨窟二穴あり。
嘗て小鸇(しょうせん)、巣を営みて子孫殷殷たり。
今や鳥飛の絶へんとするや悲しき。
黒雲山上に翻り好雨まさに降らんと欲す。
下土に水ふらせ、物を潤して殆ど声なし。
而して信陽に春の闌(たけなわ)は過ぎぬ。

半過岩鼻、上田市にあり。断崖絶壁、120メートル、太古は千曲北岸の塩尻岩鼻なる斜面急峻の崖谷と一続きの河床であったものが、千曲川に侵食され、今の奇観を呈するに至る。半過は石英角閃石斌岩(ひんがん)、マグマが上昇してできた半深成岩の岩体で、柱状節理が発達し、巨大なノッチあり。チョウゲンボウが営巣す。近年見ること稀なりと云う。塩尻岩鼻にはグリーンタフが露出、いわゆる内村層に属す。
〈2023年4月7日〉

[1] 『自閉軒日録』2023年4月7日条に同文あり。