ハニワと土偶の近代(東京国立近代美術館)・ポーラミュージアムアネックス・ヴェネツィア室内合奏団 (original) (raw)
美術館の建物は石橋正二郎が建設して寄贈した。設計は谷口吉郎。
9月28日に谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館を訪れた時のブログ
企画展「ハニワと土偶の近代」
出品作品リスト
https://www.momat.go.jp/wp-content/uploads/2024/10/560-list-J_E.pdf
戦後、岡本太郎やイサム・ノグチによって、それまで考古学の資料として扱われていた出土遺物の美的な価値が「発見」され、「芸術」とみなされる様になった。
ハニワと土偶は、出土品を克明に描いた明治時代のスケッチからマンガまで、幅広い時代とジャンルに広がる。
この展覧会は美術を中心に、文化史の舞台に躍り出た「出土モチーフ」の系譜を、明治時代から現代にかけて追いかけつつ、ハニワや土器、土偶に向けられた視線の変遷を探る。
過去の回想に留まらず、これから起こり得ることの示唆にも繋がる。古(いにしえ)から未来が掘り出される。
展覧会タイトルが「土偶とハニワの近代」という製作時代順ではなく、「ハニワと土偶の近代」となっているのは理由がある。それは近代においてはハニワ・ブームが先んじて起こり、その後を追いかけるように土偶(縄文)ブームがやってくるという傾向がみられるため。
「埴輪」ではなく「ハニワ」という表記になっていることにも当然理由があると思われるが、ホームページやプレスリリース等には記載されていなかった。
個人的には、一般的な「埴輪」よりも広い意味を表すために「ハニワ」が用いられていると思った。
序章 好古と考古 ―愛好か、学問か
「古(いにしえ)を好む」―古物を蒐集し、記録し、その魅力を伝える「古物愛好」は近代以前も存在し、江戸時代後期には「好古家」と呼ばれた。一方、明治の初めに西洋のお雇い外国人たちによって「考古学」がもたらされた。
《東京国立近代美術館遺跡出土品》
この美術館の地中から出土した縄文土器と弥生土器のかけら。1979年から行われた地下収蔵庫の建設に伴う発掘調査で見つかった。
原弘《現代の眼:日本美術史から》
蓑虫山人《陸奥全国古陶之図》
蓑虫山人は放浪の画家とも呼ばれ、全国を放浪して遺物を発掘していた。この図は想像上の風景だが、蓑虫山人は自らの手で博物館を作ることを夢見ていたので、実現していたら、このような展示室になっていたかもしれない。
五姓田義松《埴輪スケッチ(『丹青雑集』より)》
埴輪製造を司る土師部の祖・野見宿禰が埴輪を製作中。
垂仁天皇の時代、王族が亡くなると、そのお供として生きた人を墓に埋葬する風習があったと伝わる。野見宿禰は人の代わりに土でできた人形、つまり埴輪を墓に立てることを進言したことで、埴輪などの土器の製作を司る土師部の祖になったと言われる。野見宿禰は相撲の神様でもあるため、絵馬の形をしている。
1章 「日本」を掘りおこす ―神話と戦争と
近代国家形成において、ハニワは「万世一系」の歴史の象徴となり、特別な意味を持つようになった。
1-1 考証と復古
明治維新後に開国した日本では自分たちの国はどんな国であるのかアイデンティティを示すための歴史画が多く描かれた。
日本神話の場面を絵に描くためには、古代の人々がどのような恰好や生活をしていたのか確かめなければならない。布や紙からなる遺物は腐食してしまうため、形に残らない。そこで時代考証の資料として用いられたのが埴輪。
都路華香《埴輪》
この作品が描かれる少し前の1912年に明治天皇が崩御され、伏見桃山陵が京都に作られた。彫刻家の吉田白嶺によって副葬品の埴輪が作られ、千数百年も途絶えていた埴輪づくりの様子が連日報道された。
《『日英博覧會記念出版 代表的日本』第2巻第11号グラヒック特別増刊》
《御大喪儀絵葉書「伏見桃山御陵」》
明治天皇の伏見桃山陵、昭憲皇太后の伏見桃山東陵、御陵鎮護の4体のハニワ、乃木希典の騎馬像がセット。
二世 五姓田芳柳《圓形古墳図》
帝室博物館の考古陳列室のために描かれた古墳図。遺跡の現状を伝えて理解を助ける展示パネルの役割。
杉山寿栄男《上古時代男子図》
杉山寿栄男《上古時代女子図》
1-2 紀元2600年
1940年は最初の天皇とされる神武天皇が即位して、日本という国が建てられてから2,600年にあたるとされる年。日中戦争が行われていた当時、中国から仏教が伝来するより前の時代に作られた埴輪は、日本のシンボルであると捉えられた。
和辻哲郎は「ただ穴を開けたにに過ぎない埴輪の目の美しさについて、仏教伝来以前の日本人の心である」と称えた。
高村光太郎は「武人埴輪の単純素朴な表情を戦地で戦う兵士のようだ」と称賛した。
日名子実三《第7回明治神宮体育大会メダル》
土師部の祖・野見宿禰は相撲の神様のためスポーツとハニワは縁が深い。
《紀元二千六百年奉祝 日本書展》
1-3 モダニストたちのハニワ愛好
矢橋六郎《発掘》
小野里利信《はにわの人》
埴輪をモチーフにした抽象絵画。
小野里利信《朱と黄の丸》
1-4 神話と戦争と
高村光太郎《日本美の源泉》
高村光太郎は日本文学報国会の詩部会長となり、戦争賛美詩を手掛けていた。
「われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取った美への満足であり、いかにも清らかである」
後藤清一《玉》1944年
1944年の戦時特別文展出品作。出品には、国風の精華を讃するもの、戦争を主題とするもの、戦意高揚に資するものという課題があった。タイトルの「玉」は神武天皇の母である玉依姫を想起させる。
蕗谷虹児《天兵神助》
構図は十字架降架後のキリストをマリアが抱くピエタ像のよう。
野間清六編、坂本万七撮影、高村光太郎序《埴輪美》
高村光太郎による序文「その面貌は大陸や南方で戦っているわれらの兵士の面貌と少しも変わっていない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有」している。
桑原喜八郎《埴輪の部屋》
ガラスケースの中に2体の埴輪「挂甲の武人」と「短甲の武人」が描かれていることから、帝室博物館(現在の東京国立博物館)であるとわかる。
2章 「伝統」を掘りおこす ―「縄文」か「弥生」か
1950年代は日本中の「土」が掘りおこされた時代。敗戦で焼け野原になり、その復興と開発のためにあらゆる場所が発掘現場となった。
考古学は戦時中までは神話を裏付けるものを考えられていた。戦後に人々を戦争に向かわせた神話による歴史教育が否定されると、考古学は実証的かつ科学的に歴史を示すものとして脚光を浴びた。敗戦によって歴史を失った日本にとって、土の中からでてきた確かなモノが、歴史を紡ぎなおす拠り所となった。
2-1 「歴史」の修復
稲田三郎《埴輪》
稲田は1951年から54年にかけて集中的にハニワを描いているが、具象からキュビスム風の抽象へと次第に変化している。
榎戸庄衛《出土》
近代絵画の父であるセザンヌは「自然を円筒、円錐、球として扱う」と述べたが、ハニワは円筒、円錐、球からなるため、キュビスムと相性が良い。
後藤清一《玉》1949年
同じ作者によって1944年に作られた《玉》が1章にあった。戦時中に作られた《玉》は女人埴輪の装束をまとっていたが、戦後に作られた当作品は裸体像。金属が使えるようになったため、乾漆像からブロンズ像にも変わっている。
顔立ちは似ているが、目は空洞ではない。イメージの源泉は戦後の日本で人気のあった古代エジプトやメソポタミアなど古代オリエントにあると言われている。
佐藤忠良《たつろう》
森山朝光《陽に浴びて》
2-2 クラシック=モダン
斎藤清《埴輪(婦人)》
斎藤清《ハニワ》
埴輪をモチーフにしたキュビスムの作品。手前には栃木県真岡市亀山出土の「胡座の男子」と「帽子を被る男子」、背後には足だけが覗く大きな埴輪が並び、東京国立博物館だとわかる。
2-3 現代の眼
1952年に開館した国立近代美術館は、1954年より古美術だけの展覧会である「現代の眼」というシリーズをスタートさせた。過去の美術を現代の眼で見直し、新しい美を引き出すことが狙い。
展覧会の会場ディスプレイを担当したのは国立近代美術館を設計した谷口吉郎。展示の目玉は埴輪群像のインスタレーションだった。
原弘《現代の眼:日本美術史から》
最初の展覧会「現代の眼:日本美術史から」のポスター。
原弘《日本の彫刻:上代(埴輪・金銅仏・伎楽面)と現代》
原弘《現代の眼:原始美術から》
三岸節子《盾を持った武士》
戦後になると、それまでほとんど姿を現してなかった縄文時代の土器や土偶が美術の世界に登場してくる。長谷川三郎は岡本太郎が縄文に着目するのに先駆けて、埴輪や土偶に着目したパイオニア。
猪熊弦一郎《猫と住む人》
イサム・ノグチ《旅》、《かぶと》
金重陶陽《備前灯籠》
宇野三吾《土偶形花器》
宇野三吾《ハニワ形花器》
岡本太郎《犬の植木鉢》
岡本太郎「犬の植木鉢」 :: 陶芸館(陶芸美術館)デジタルアーカイブ
勅使河原蒼風《クビ》《ミコ》
《埴輪 帽子をかぶった男》
イサム・ノグチは恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館)で埴輪を見た。《女王》(ホイットニー美術館蔵)のモデルは当作品かもしれない。
《埴輪 盾持男子像》
本物?実物?の「埴輪」は上の《埴輪 帽子をかぶった男》と当作品の2体のみ。土偶は0体。
もちろん悪い意味ではなく、この展覧会の趣旨や東京国立近代美術館が開催する意義がわかる。
羽石光志《古墳》
夕刻頃に埴輪たちが取り囲む墳丘を遠望するような図で、1973年に描かれた。1952年にも同じ構図の作品を描いた。それは青い空とピンクの雲という鮮やかな色彩の昼の日差しの絵。高度成長のピークをはさんだ社会の変化を表すよう。
《フォトアート》
山口蓬春《宴》
高山良策《矛盾の橋》
画面中央には、原爆ドームの屋根と、平和記念公園の近くにあるイサム・ノグチがデザインした平和大橋の欄干。右奥には、丹下健三による家形埴輪を模したデザインの平和記念資料館。手前には、うなだれる人物。題名の「矛盾」とは何を指しているのか。都市復興の一方で、遅れる被爆者救済の状況ともいわれる。
イサム・ノグチ《広島原爆慰霊碑のためのマケット》
原爆死没者慰霊碑のデザインは、当初イサム・ノグチに依頼されていたが、ノグチがアメリカにルーツを持つことから却下された。
岡本太郎《顔》
岡本太郎は縄文の発見者と言われる。1952年に上野の国立博物館で初めて縄文土器を目にして、「縄文土器論」を発表。この作品は同じ年に制作された作品で、いけばなの花器として構想されたものだが、制作された3体のうち一つは父・一平の墓碑になっている。
弥生時代を現代にまでつないで否定し、縄文時代を優位に見立てた。「弥生」以降の文化は「わび・さび」に代表されるような打破すべき封建的な日本であり、「縄文」こそ理想像である。弥生と縄文は対立する態度に置き換えられた。
石元泰博《ポートフォリオ「桂」より 九、蘇鉄山脇より御腰掛に導く飛石道》
2-4 原始にかえる
芥川(間所)紗織《古事記より》
ろうけつ染めという蝋と染料が反発する性質を利用した染色の技法。芥川紗織は当時女性の画家がほとんどいなかったなか、染色の技法によって独自のスタイルを切り開いた。
桂ゆき《人と魚》
2-5 土から都市へ
猪熊弦一郎《HANIWA I》
猪熊弦一郎《驚く可き風景(B)》
3章 ほりだしにもどる ―となりの遺物
1970年代から80年代にかけてSF・オカルトブームと合流し、特撮やマンガなどのジャンルで先史時代の遺物に着想を得たキャラクターが量産された。
《第19回 新潟国体ブラフ》
NHK《おーい!はに丸》
タイガー立石《富士のDNA》
劇団カッパ座《はに丸・ひんべえ》
主に明治時代以降のハニワの扱われ方の違いを通して、日本の社会を垣間見れた。
10月16日から東京国立博物館で特別展「はにわ」が開催されるので、当然こちらも行く予定。
同じ「埴輪」でも、今回の東京国立近代美術館では「ハニワ」、東京国立博物館では「はにわ」と表記しているのが面白い。
企画展を見終え、コレクション展。
東京国立近代美術館、所蔵作品展 MOMATコレクション(2024.9.3–12.22)
作品リスト
https://www.momat.go.jp/wp-content/uploads/2024/09/R6-2-MOMATCollection-list-j-2.pdf
エレベーターで4階へ。
1-5室、1880s-1940s明治の中ごろから昭和のはじめまで
眺めのよい部屋
1室、モデルたちの生誕・没後数十年
平福百穂《荒磯》
中村岳陵《豊幡雲》
「わたつみの 豊幡雲に 入日さし 今夜の月夜 清明こそ」(万葉集、天智天皇)
アンリ・ルソー《第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神》
ポール・セザンヌ《大きな花束》
ジョルジュ・ブラック《女のトルソ》
パウル・クレー《山への衝動》
草間彌生《集積の大地》
1952年に松本市第一公民館で2日間だけ開かれた草間の初個展の出品作の一つ。
2室、明治時代の美術
原田直次郎《騎龍観音》
和田三造《南風》
朝倉文夫《墓守》
竹内栖鳳《飼われたる猿と兎》
3室、開発される土地
坂本繁二郎《三月頃の牧場》
牧野虎雄《凧揚》
4室、夢想と自由と―谷中安規の世界
5室、シュルレアリスム100年
2024年はフランスの詩人アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してから100年を迎える。日本では「超現実主義」と翻訳されることもあるシュルレアリスムは、理性を排し、非合理的なものや無意識の領域の可能性を探求した20世紀最大の芸術運動。
ハンス・アルプ《ポートフォリオ『夢ともくろみ』より神秘的もくろみ帽子、口、臍の眼》
ジョアン・ミロ《絵画詩(おお!あの人やっちゃったのね)》
マックス・エルンスト《砂漠の花(砂漠のバラ)》
マックス・エルンスト《つかの間の静寂》
イヴ・タンギー《聾者の耳》
ジャクソン・ポロック《無題(多角形のある頭部)》
階段で3階に下りる。
6-8室、1940s-1960s 昭和のはじめから中ごろまで
6室、「相手」がいる
東京国立近代美術館には153点の戦争記録画が保管されている。
これらの多くは日中戦争から太平洋戦争にかけて軍部の委嘱によって制作されたもので、1938年に国家総動員法が成立すると、戦地へと従軍して記録画を制作する画家が増えていった。
戦争が終わると主要作品153点がGHQに接収され、上野の東京都美術館に保管、1951年にアメリカ合衆国に移された。日米就航100年にあたる1961年頃から返還を求める声が起こり、アメリカ政府から日本政府に「無期限貸与」、貸与後の取扱いは事実上日本側に一任することで合意に達した。
1970年にワシントンDCで交換文書の調印が行われ、同年4月に引き受け先に決まった当館に作品が到着した。
藤田嗣治《ソロモン海域に於ける米兵の末路》
小磯良平《カリジャティ会見図》
7室、プレイバック「日米抽象美術展」(1955)
1955年に国立近代美術館で開催された「日米抽象美術展」を振り返る。
《日米抽象美術展》ポスター
ハンス・リヒター《色のオーケストレーション》
この作品は「日米抽象美術展」で実際に展示された作品。
植木茂《作品》
ジョセフ・アルバース《正方形讃歌:持たれた》
抽象化のプロセス パネル
日米抽象美術展 招待状、招待券
建物を思う部屋、ソル・ルウィット《ウォールドローイング#769》
8室、生誕100年 芥川(間所)紗織
芥川(間所)紗織《女(Ⅰ)》《女(B)》《神話 神々の誕生》
芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト
岡本太郎《夜明け》
9室、清野賀子「The Sign of Life」
10室、アール・デコの精華/歴史の描き方
ルネ・ラリック《カーマスコット ロンシャン》《カーマスコット 勝利の女神》
安田靫彦《木花之佐久夜毘売》
撮影禁止
下村観山《大原御幸》
更に階段を下りて、2階。
11室、Lines and Grid
12室、ドローイングの生命
サム・フランシス《無題の両翼画》
川田祐子《A THOUSAND WINDS》
ギャラリー4では、小企画「フェミニズムと映像表現」。
作品リスト
https://www.momat.go.jp/wp-content/uploads/2024/08/R6-2_g4_feminism_and_movingimage-j.pdf
アントニー・ゴームリー《反映/思索》
イサム・ノグチ《門》
多田美波《Chiaroscuro》
木村賢太郎《七つの祈り石》
マリノ・マリーニ《あるイメージの構想》
16時39分に竹橋駅発の東京メトロ東西線で約3分、16時42分に日本橋駅に到着。
16時47分に日本橋駅発の東京メトロ銀座線で約1分、16時48分に京橋駅に到着。
ポーラ ミュージアム アネックス
https://www.po-holdings.co.jp/m-annex/
「マティス ― 色彩を奏でる」
ポーラ銀座ビル15周年を記念した展覧会。
《紫のハーモニー》
《中国の花瓶》
《室内:二人の音楽家》
《襟巻の女》
《リュート》
《道化師》『ジャズ』第1図(他にも全20図ある)
楽器で使用される高品位な木材が使用され、ホールという楽器の内部にいるような空間。客席数は333席。
18時30分から、ヴェネツィア室内合奏団コンサート~ヴィヴァルディの世界~。
ヴェネツィア室内合奏団は、全員がソリストという実力者たちのみで構成され、本拠地のサン・ヴィタール教会では、一年間に300公演以上をこなし、年間約7万人以上の人々が彼らの音楽を聴くという世界でも希有な合奏団。
https://retailing.jp.yamaha.com/library/event/5893.pdf
アントニオ・ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 ハ長調 RV177
アントニオ・ヴィヴァルディ:RV63「ラ・フォリア」
アントニオ・ヴィヴァルディ:2台のヴァイオリンのための協奏曲 イ短調 RV523
トマソ・アントニオ・ヴィターリ:「シャコンヌ」
アントニオ・ヴィヴァルディ:「海の嵐」ヴァイオリン協奏曲 ホ長調
アントニオ・ヴィヴァルディ:「調和の霊感」4台のヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ロ短調
ニコロ・パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲「ラ・カンパネラ」
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの他に、チェンバロ(ピアノの祖先)、そして一曲だけトライアングルも使われた。
全員がソリストということで、一曲ごとに主役が変わり、とても面白かった。
そして、アンコールの演奏が何度もあり、最後の方は会場が一体になったような気がした。