(ブログ)検索 (original) (raw)

原因についても

このページや 他のページのことも

宇宙の要素は使わない方々がいますので

線を引いての

全て私達の使用となっておりますので

ご承知おきを

イメージ画

某影響が出そうね

…そういえば

(16日?)fix 以前のものを忘れていて

(https://youtu.be/uHFfl4Pq4KI?si=9CMUI_W-uecKrK1J)

部分拝聴したわ

某資料を みたあとに待機とし

2024年10月16日に 掲載 17日編集

その後

更新しましたよ?

と 記入すると三度目の音

距離がついているのか 音程の聞こえ方も異なってきたわ

無理とされた共存

私は 本格的な療養とさせていただきますので

ここで開く資料…本格的な調べ物となりますよ

(早々…やはり其処依存の物事でしたか)

よくみることにしますね

双方のチェック項目に対しての概念も異なり

同じ目線も所有している

(窓口)

衝突から始めた要素は 本性はそれだけで

コーティングにしか向かえないほどだと

破壊的な方々におかれましては

豊かな資源に対しての

衝突や強奪により

(地球に)貧困を投げて滅亡へと向かうこととされた

原因の処理は

原因をお持ちの方々に引き継がれましたので

お持ちの方々により いずれにしても処理やお支払いがなされます

地球では暮らせないという方々により製作されたものや

先行きへの期待感から 武器を送り込まれての虐殺

原因だけを増幅されての破壊…浮かれては

共存できないアピールにも押されて 殺された方々

殺しては 要素を盗んでも働きは起きませんのでね

その方々によっては地球は維持されないことだけを主張されていて

殺されなければ…

あらゆる破壊的空中なんとかは出ませんでしたので

複雑化されたソレらの

古いツールやプランをお引取りになられての

これからのゴミの対処法やゴミ出しや循環モデルを含めての

構築プランは勿論被害者対応のことも含みますよ

加害者の量でのあれとしても そこは変わりませんので

諸問題

分析としても 維持としても無理とされた

狂気や凶気を どうなさるのか?

いちいち文書を作っている余裕は

ない筈もなく

上司が近くにいる時に口頭で価格や数量納期などを報告しながらの 丼ご商売

仲よしの方々の混沌とさせる行い

各職場への影響

気候の場合なら

例えば「これまで雨が降っていた場所に「雨が降らなくなった」」ことも

日本の大手メディアでは全く報道されないことを

日本へのダメージは計り知れない 形で行ってきた方々による

許されないことを狙う程に 振り切れさせた物事は

ここで勢いづけに乗られた形

国内での マスコミに載らない(海外)記事の紹介は 地球破壊へと捏ねるために

あたりましたよね

クーデターが起こされたとき 起きているときのもの…

特定分野の方々は 心身の分析により。。騒動を片さない中での

職替えよそおいの撹乱拡大なども

「お」「御」の捏ねによる殺人のエスカレート…巻き込んでの地球破壊だったそうよ

属を お世話するほうへと転換された ちょっとマニアックな黒色 深みのある艶 光の齎す

どの程度の合流からの

気候変動か

全ての平常時との比較など

経済 金融

アジア諸国から輸入される商品やサービスの決済において

某国の複数の物質を所有する(狂気や原因を持たない)者へ

某国の投げた多大な原因

全ての国により製作された生存不可能な環境下において

無理矢理引き出された 桁を外させた事象(戦争)(裏金)は

地球に どのような影響を引き起こしたのか

繰り返させて 増幅は止められていない中での

掠め取り 虐殺の場に投げているだけだと

ご予定は何のためか

既に指摘させていただいておりますよ

報じる者の原因の入り込み方 全てについても

プランを示されずに 乗っちゃった 今のことも含めて

地球史のことを 全て ご説明なさるそうですので

宜しくどうぞ

たのもしい 虐殺の罪への償い

ご当人の方々への 要素のお引き継ぎとされましたことを

普通に(ネタによっては)たのしく拝見しますね

引き継ぎ後の記入…

何か盛られたのかどうかも

引き続きみられても そうではなくても

*

注:文中の「?」は、疑問符を表す場合と、ローマ数字が反映されていないケース(携帯電話からの送付分)による表れがあります。

* * * * *

2021.9.12

ka-on

和音

陰陽師 で検索した結果

出納に関する軋轢

9世紀の後半になると 卜部だけではなく 陰陽師の占いにも 「祟り」が登場してくる 『三代実録』元慶二年(878)二月二十七日条 越前国敦賀 気比(けひ)神宮で起きた火災の原因を 「祟り」であると陰陽寮が占ったのである 16 気比神宮側は、火災は失火ではないという。このことを越前国司は中央に言上したが、中央では陰陽寮の占いによって、神社の穢が原因で祟りがあらわれたと認識する。つまり、太政官や神宮司が関与していない。神宮司は代々大中臣氏世襲しており、神祇官との結びつきが深い。そこで、あえて卜部ではなく、陰陽師に命じて神の「祟り」を認知しているのではないだろうか。つまり、国司気比神宮司との対立が、陰陽寮に祟りを認識させるきっかけとなったということになる。 17『亀卜』臨川書店

2018年7月17日 9時1分

中世都市の様相 など

『中世都市鎌倉を掘る』1994/鎌倉考古学研究所 編 より (パネル・ディスカッション/前半/?~P276) P273 大三輪 四角四境祭というのは、いわゆる境を定める陰陽のお祭りですが、その内容は詳しいことはわかりません。ただし四つの境のお祭りについては、どうもかなり広い範囲で行われ、どちらかというと四境祭りの方が先に行われているということがあります。 そんなことで後の四角祭の方は、もう少し中に入ってきて、狭い範囲を限る時に、四角の祭りが行われている。おそらく、私がさきほど中核部と言いましたけれども、その四角を決めるというのが、四角祭で、全部の四つの地域全体を含めた鎌倉の境を決めるのが四境祭だろうというふうに考えられます。 もう一つは、年代的にいつということがなかなか難しいんですけど、そういった宗教的な問題としては、やはり京都を意識していただろうと思われるのは、京都でいえば比叡山の方向にあたる所に天台山という山があります。それから東側の山裾に、八雲やぐも 神社という神社が祇園社と呼ばれていて、室町時代の文書に祇園神主という宛名が出てまいります。それから今問題になっております御成小学校の裏山の突端のところが天狗堂と呼ばれていまして、おそらく西側の愛宕山を意識していたのではないかということが考えられますが、いつの時期からそうだったのかということについては定かではありません。 P273~ 堀内 京都の場合、報告で言いましたように、平安京の中で、発掘調査例から具体的な京域内での祭祀遺構というのは十分に把握されていません。ただ一応『三大実録』にみる七条朱雀の疫神祭に先ほどふれましたが、図5(194ページ)は左京八条三坊七町の図ですが、このAの調査地点で平安時代前期の川跡が確認されました。 その川跡から、罪や疫病などの災いを防止、和らげるために献じたといわれる人形や土馬がまとまって出土したことから当地域は平安京の当初からこういう祭祀を行う場所にあたるのではないかと考えられます。ただこのような祭りと四角四境祭などの祭祀とがどのようにかわりがあるかは明瞭ではありません。この他、宮内裏の承明門のすぐ北側で、門の基壇を鎮めるための密教の祭であった跡が認められ、その中には「くい」・輪宝が埋納されていた。この遺構は、文献記載などから考えて延久三年(1071)の祭の跡に想定されています。平安京での四角四境祭は周辺部で行われたことがわかっていますが、その痕跡はまだ判明していません。 P274~ 「辻」について 笹本正治 今、司会の方から言われたことにたいして、お答えする力がないので、最初に感想から出発させていただきたいと思います。今までのお話の中で、都市の道、あるいは館を作るということが出てまいりました。当然のことですけれども、都市を作るに際しては、自然の大地を改変して、その上に新たに人間が構築物を作っていきます。そういう自然の大地を改変することが普請だとされています。 名古屋大学の三鬼清一郎先生(日本近代史)が、豊臣秀吉尾張の新田開発をした時に陰陽師をつれてきたけれども、当時の人々には自然の大地を改変すること、つまり自然に人間が手を加える時には、大地の神が怒るかもしれないという恐れがあって、それを陰陽師が鎮める役割を果たしたのではないか、ということをおっしゃっています。 今回の「中世都市の成立と展開」においても、都市を作るということは、普請に非常に関わっていたはずです。ですから都市を作る時には、陰陽師のような人達の役割が大変重要だったのではないでしょうか。別の面から言いますと、昨日網野先生から都市の出来る場について、大変面白い示唆を与えていただきました。河原とか浜、こういった所に都市ができるということです。私もその通りだと思うのですが、その際に注意したいのは、こういう場所は災害が起きやすい場所だということです。 私は専門が戦国時代なので、古いことはわからないのですが、武田信玄信濃千曲川河口に長沼城を作るに際して、普請にさし障りがないように、とくに洪水の災害から城を守るために、判の兵庫という陰陽師をおいて安全を守らせました。もし河原とか浜とか、水害や津波などの恐れがある場所を開発するとなると、そのような場にこそ、陰陽師は重要な役割をもつはずです。 さらに言いますと、これが司会者の言われたことにつながってくると思うのですけれど、都市論の中で、都市とそれ以外の場所、境界領域が問題にされてきています。出来上がった都市だけに関して言った場合でも、都市の外から穢れがくることをどうやって避けるかが問題になります。これがさきほどから問題になっている四角四境祭につながります。そのためには、外から入ってくる穢れのもとになる怨霊などをどうやって排除し、彼ら本来の場所に帰すかが重要になってきます。その役割を陰陽師が負っていました。それらがいったん都市の中に入ってきてしまった場合には、そういう怨霊や悪いものを追い出すことのできる辻などのあの世とこの世をつなぎうる特定の場で、外に追い出しています。これにも陰陽師がかかわります。 陰陽師というのは一つの言い方でして、「博士」「唱文士」と出てくる場合もありますし、私は修験や僧侶でも全く同じような役割を持っていると思います。 中世の絵巻物などを見ていると、そこにあまりに多くの修験者や陰陽師など、宗教者が描かれていることに気付かされます。おそらくそれだけ宗教者が見えるということは、実際は相当の数がいた。中世には人口構成の中に宗教者の比率が大きかったのが、近世や近代は大きく違う点ではないかと考えます。そうすると、ひょっとすると中世の都市においてこそ、今言ったような陰陽師とか宗教者の問題を考えてしかるべきではないでしょうか。「中世都市の成立と展開」という題の中で今までは職人、商人論、あるいは境界論などが論じられてきました。それらをドッキングするような役割を持つのが、陰陽師のような宗教者の問題ではないかと考えます。 いま司会をしておられます小野さんから「お前たちがやってることはなんじゃいな」「お前たちがこういうことも出てくるはずだということを、考古学の方に要求すれば、俺達は探してやる」ということを言われています。鎌倉の場合は、漆器等も残っているぐらいですから、私達が見落としている部分で、こういう祭祀に関わる道具、呪術に使ったものがいっぱい出てくる可能性があると思います。こうしたものに是非注意していただきたいのです。 陰陽師のような人々に対する意識や彼ら自体の呪術行為、こういうことを文献と考古学、さらには民俗学などのお互いの交流の中で追究していくことによって「中世都市の成立と展開」がもっとよくわかってくるのではないかと考えます。 (司会:四角四境祭 「領域を区切る」 単に区切るということではなく それぞれの領域がそれぞれに違う機能と性格を持っている) (ダブってくる 商業地や墓の問題 市の問題) ~276 (パネル・ディスカッション/後半/P276~) 松尾剛次/山形大学 さきほど、鎌倉の四角四境祭に関して大三輪先生のご発言がありましたが、『吾妻鏡』を見ますと、四角四境祭で、四角のお祭りが行われているのは、私の見たところでは、全て御所、将軍の御所の四角であると考えられます。もう一つは今回のシンポジウムの感想で、次回に向けての希望でもあります。鎌倉はある意味では宗教都市とも呼べるように寺社がたくさん甍を並べていたわけであります。たとえば大三輪先生のお話の中の、道路によって囲まれた中にも本覚寺ほんかくじ というお寺がありますが、それは日蓮宗の寺で、夷堂橋えびすどうばし 近くにあって商工業者を支配していましたし、あるいは極楽寺が和賀江を管轄していました。そういう寺社による商工業者、港湾の管轄等は都市鎌倉を理解するうえで重要な問題ですので、このような問題とからめて寺社等の発掘の成果も次回はとりあげていただければと思います。 切石を使った方形竪穴址に関する質問 「鎌倉石の基礎がありましたが、材質は近代の別荘等に使われたものと同じでしょうか」「切石を切り出す山はどの辺りが相当されるのでしょうか」 斉木 同一のものです。この切石の材質は、鎌倉周辺で鎌倉石と言いまして、砂質凝灰岩の切石です。現在は切り出せませんが、鎌倉では江戸時代を中心に井戸にも使われています。近世に作られた寺社仏閣の階段、あるいは地覆石じふくいし 使われたものと同質です。これを切り出した場所というのは、何ヵ所か確認されていますけれど、それが中世までいけるかどうかというのはちょっとわかりません。実際に見られますのは、東は衣張山きぬばりやま の裏とか西は腰越こしごえ の目白山、ちょうど龍口寺りゅうこうじ の裏辺りです。衣張山の石切場は以前テレビで鎌倉の地底城というとらえられ方をしていましたけれども、あれは間違いです。とにかく砂質凝灰岩の崖を、切り崩せば必ず取れる石ですので、もちろん制約はあるでしょうが、これらの周辺から取ったものだと思います。 質問「名越なごえ の切岸きりぎし を作った際、あるいはそういう土木工事の際に土丹の処理はどうしたのか。あるいはその事業の権利はどうなりますか」 河野 名越の切岸の成立がいつであるのかという問題は、崖を切った跡からは年代はわかりませんので、本当にあれが鎌倉時代の鎌倉とリンクしていたかどうかは説明出来ないわけです。土丹と言われているシルト質の泥岩ですが、これはどこの山の物もそう変わりはないのです。地質学者に見ていただくと、ちょっと違いがあるようです。これは余談ですが、御成小学校の中で下層の方から平安時代の掘り込み地業、つまり「基壇」を伴った倉庫跡が検出されていますが、そこで使われている土丹は逗子か葉山の方の物ではないかという指摘を、県立博物館の松島(義章)先生からいただいたことがあります。ということは、古代の段階でも、岩石土砂をあちこち運ぶということはやっていると思うのです。 私の発表の中で、確かに土丹を取る権利に触れていますが、実はそういった話に関しては雑誌『鎌倉』(69号)に、今司会席におられます馬淵さんがやはり土丹で地業をするという話を書いておられます。その時期は13世紀半ば近くからということです。ただ、この中で馬淵さんは、寺院などを造営する際に余った土丹を町の方へ持ってきているのではないかという一つの仮説をたてておられるわけです。それですと、寺院の建築というのはつねに継続的に進んでいくわけではないので、おそらく鎌倉の町の近くの、どこかの山際で継続的に土丹を取れる場所というのがあったのではないかと私は考えています。 ただ大三輪先生の話でもありましたように、谷戸やと の奥の部分はだいたいにおいて寺院か武家屋敷が占めておりますので、そうなると土丹を取る権利というのは、必然的にそこを占めてていたであろう階層が握っていたと思います。あるいは寺院と何らかの関係を持つ武士などが、そういう土丹採取に関する権利を持っていたのではないでしょうか。 そうすると、松尾さんから話が出ておりますように、商工業者の支配にお寺が関わってくる、流通の方にもお寺が関わってくる、それに鎌倉の場合ですと貿易に関しても極楽寺が握っているということからしますと、都市造営に関しても、お寺を介した形での支配関係というのが考えられないでしょうか。これはまだ想像の域を出ないものですが、道路や屋地の造成については、考古学と文献サイドが一緒に考えていい問題だと思います。 278 都市鎌倉の人口 「中世鎌倉では、武士や土地持ち農民以外の十万誓い人々の生活必需品の供給はどうやって行われていたのか」 「十万近い人々はいったい何を生業としていたか」 大三輪 大変な問題をふられてしまって困ってしまいました。まず物質(生活必需品)ですけれど、食糧を言っているのか、それとも生活用具を言うのか、その辺がどうもはっきりしないんですが、一つには本貫地、所領から送られてくる食糧というものが当然あったと思います。それから周縁部からさらに外側に拡がる空間の中に、農地が相当作られていて、農業生産物の供給ということも当然あったと思います。また生業との関わりでは、それぞれ何かを生産した場合に、必ずそれを売るとか、あるいは物と交換するというような形でやっていたわけで、その辺は網野さんにお伺いしたほうがいいと思います。昨日の話ではありませんけど、農業をやっていなければ食べれないんだということではないという気がします。 網野 大三輪さんのおっしゃる通り周辺地域からの供給もあると思いますが、もっと広域的に物質は供給されていたのだと思います。時期によって異なるとは思いますが、少なくとも十三世紀後半以降の物資の流通は、これまでの我々の常識よりもずっと活発で広域的だったと思います。例えば若狭の常神つねかみ 半島の突端の御賀尾浦(神子浦)は今では寒村のように見えますが、十四世紀の初頭、この浦の有力者刀禰とね は米を百石以上、銭を七十貫文以上、財産として持っていたことがわかっています。これは交易によって得たものであるのは確実で、そう考えますと、鎌倉に集中してきた物資の量は、もちろん年賀、公事の形での流入もあるでしょうけれども、商人たちの独自な交易による流入も大変大きかったと思います。私の報告の中でもふれましたように、鎌倉に居住する御家人たちが京都の六条若宮の造営のために負担している銭は四六〇〇貫文に及んでいるということが確認も出来るのですから、銭の流入も相当の量に達していたと考えられます。私は十三世紀後半以降の都市の発達は相当に評価することが出来ると思うので、農地の全くない所に人口が集中し都市が形成されうる条件があったと、考えてみてはどうかと思っています。そう考えてみると、いまよりはるかに小さい住居に人々が住んでいたのですから、中世の鎌倉の人口は現在よりもかなり多かったと見てよいのではないでしょうか。 石井 本来私が、総括提案で言わなければならないところを、あがってしまって、すっかり落としてしまったのですが、貿易の問題ももちろんやらなければいけなかったんです。幕府の都市法の中で物価の統制令とかを何度も出しているわけですが、その中の一つは物価の統制令を変えたと、変えたについてはこの命令を相模の国のしかるべき物の交易場に布告しろという付帯条項がついております。そうするとこれはやはり鎌倉の町の非常に多くの都市人口を養うためには、近隣の村、海村、平地村、その他を含めた村人の協力というのがなければいけないわけです。相模の国内のしかるべき物の交易場と言えるような、一種の物資流通ネットワークというものが、当然存在しただろうと考えております。こういうものを明らかにしていくということは、考古学、文献史学の両方にとってこれから非常に重要な都市研究の課題の一つではないかと考えます。 279『中世都市鎌倉を掘る』1994/鎌倉考古学研究所 編 『中世都市鎌倉を掘る』1994/鎌倉考古学研究所 編 第4章 消費する都市 鎌倉に見る中世都市の様相/大三輪龍彦(113-134) (「一 鎌倉の発掘のあゆみ」より) 鎌倉考古学研究所の発足 中世の始まりと終わりを示す記念碑的な遺跡 ・源頼朝が一番最初に幕府を作ったといわれる大倉の幕府跡 ・中世の終焉をむかえた小田原北条氏の時代の玉縄城 ところが不思議なことに、これらがすべて学校建設のために壊されてしまいました。だから、鎌倉の遺跡はどうも学校に壊される運命にあるんではないかというようなことを考えると、何か今の御成小学校内今小路西遺跡をめぐる情勢というものも、ひじょうに鎌倉的なことが起きているのかなあという気がしております。 そういう中で、昭和35年以降、だんだんと組織的な発掘が少しずつでてきたわけです。たとえばこれは中世の遺跡ではありませんが、鎌倉としては大がかりな発掘調査をやったというのが、大船にあります山居遺跡です。 縄文から平安時代までの遺跡の調査をした その頃から発掘を組織的に始め 鎌倉考古学研究会ができた 当時は山居遺跡を発掘した学生を中心にした会で三上次男(陶磁器の研究家/「陶磁の道」を提唱)を顧問にして活躍を始めた 時が経つにつれ「高度成長」 都市化の波とともに鎌倉の開発も進み 開発前の「事前調査」…遺跡の発掘調査も相次ぐ そういう中で、鎌倉考古学研究所というものが各調査団の連合体のような形で、協力をして研究を進めようということで生まれてきたわけです。ようやく民間の、いわゆる任意団体としての研究組織ができあがって、その中でそれまでバラバラであった各調査成果が体系的に結びつけられるようになっていったわけです。 その時々の一つの資料になっていった遺跡の90%というものは すでにない 116 (「五 消費するする都市」より) 使い捨て現象 鎌倉では ひじょうに多種多様な遺物が出てくる その中でも、鎌倉の一つの特色として、舶載陶磁や国産陶磁の膨大な量があります。もちろん他の中世遺跡でも、舶載陶磁とか、あるいは国内産の陶磁器、こういうものについては大変、研究が進んでおり、注目も集めているわけですけれども、鎌倉では、その他いわゆる有機質の遺物がひじょうにたくさん残っています。 それは鎌倉の一つの特性埋め立てを繰り返しきた歴史があり その埋め立てのたびに地下水が上昇していって 中世の有機質の遺物が全部水漬け状態で残るというようなことになったため 木器 漆器の類までが かなり良好な状態で遺存している こういうような、陶磁器だけでなくて、木器、漆器までを含んだ形での遺物構成、そういう物の中でみてまいりますと、今までは、鎌倉では中国の舶載陶磁器が極めて一般的に使われていたのではないかと言われてきました。量が多いから、そうではないかということを言っておりましたし、私自身もそういうことを考えていたわけでしたが、どうもやっぱり、木器、漆器というような一般的な、特に漆器の膨大な量から考えますと、日常的な物として、舶載陶磁を本当に考えていいのだろうかという気がするのです。 だから極めて一般的に、実は私達がプラスチック容器を使うように鎌倉では漆器が使用されていたというふうに考えてもいいかなというくらい、漆器の量が多いわけです。しかもそういった物が、あまり傷がついていない。使用した傷が少ない。つまり使い捨てというような感じの様相がひじょうに強いわけです。たとえば土器溜まりなんかでも、土器は一括して廃棄される。そこへ何十人前の宴会のための折敷も一緒に廃棄されているというような使い捨て、いわゆる使い捨て現象というものが遺物の上でみられる。これもやはり都市の一つの特徴ではないだろうかと考えます。 つまり消費性がひじょうに高い 消費をする都市であるということは、そのことからも伺える。 (これで、さきほどのいわゆる建物から考えて移動人口が多いということ。それから今度は遺物の面から見ると消費性が高い。) 131 『中世都市鎌倉を掘る』1994 ・・・・・・・・ 漆器ですか 漆といえば 即思い出されます採り方が http://www.satoyama-life.pref.ibaraki.jp/tokusyu/p14/ 「掻き鎌」 https://note.hinode.shop/column/urushi-scraping/ …より漆を出させるために、反対側の小さな鎌の部分であるメサシで、少しだけ引っ掻きます。漆器に使われる漆は、このウルシノキの木が、傷つけられた部分を塞ぐために出てきた樹液が使われます。… …一度に沢山の傷をつけられるわけではなく、6月頃に小さな傷を一度つけ、漆が木の中でその傷を修復するために集まってくるように促すのだそうです。 そして数日後、漆が傷周辺に集まった頃に、もう少し大きな傷をつけて採取、それを繰り返しながら段々に傷を長くしていきます。… 「少し残しておかないといけないんです。」 …一つの溝から出た漆を採りきってしまうと、木が傷を塞ぐ分の漆がなくなり… 「逆三角形を形作る、無数の傷跡の理由」 「一度に全部の傷がついたのではない」 そんな やりかた どなたかたちが そのように プラスチック容器 日本製のものも よくみかけるような (百均に)並んでいる商品の裏をよくみますけれども 要素・・原材料 成分などもですが 住所も常常確認 あちこち 移動されたのかな ・・・・ 7~9は 本が持てない感じ あれですか? ずっと ?瞑想? こちらも そのうち また機会があれば ということで 14と15 16に追加 なんとかを取る 「権利」「階層」というのも 「土丹」 どこかの泥岩 陶器 (地名)(土器)(欠片) などとの つながり が と 個人的には

2017年10月9日 7時0分

「礎居・柱立て」「龍伏」「棟上げ」など

安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 2000〜(2004 3刷) 藤巻一保 訳・解説 【材木取りの吉日】より (略) 材木取りには、第一にこれらの日を用いるべきである。ほかの日取りを用いてはならない。ことに、甲乙きのえきのとと戊己つちのえつちのとの天干てんかんの日は、断じて木を切るべきではない。よくよく注意せよとの口伝くでんがある。 掲げられた日取りには、五行の木神(もくしん)の日である甲乙(きのえきのと)と、土神(どしん)の日である戊己(つちのえつちのと)がない。また、十二支では土神である未と戌がない。これらの日は、木神の眷属である木を切ることを忌み、土神が養い育てている木を切ることを憚(はばか)ったものだろう。 また、吉日の中では、金の庚と(かのえ)と辛(かのと)を天干とする日が最も多く選ばれている。用材を切り出すには金物を使う。そこで金物(五行の金)の神である庚と辛の日が、とりわけ重視されたのである。撰日(せんじつ)の背景には、五行を用いたアニミズムがある。 P45 【巧匠が木を導き招き置くべき吉日】 より (略) 巧匠(たくみ)は大工のこと。山から切り出した材木を現場に運ぶ吉日という意味なのだろうか。未詳。 日取りを見ると、やはり木神(もくしん)の甲(きのえ)と、土神(どしん)の戊(つちのえ)・己(つちのと)の干(かん)の日が避けられている。ただし、この項では、同じ木神でも乙(きのと)の日は吉日に含まれている。前項の切り出しの日は、甲・乙ともに避けられていたが、すでに切り出された材木は、大工の手で加工されるので、同じ木神でも陰に属して他に従う性をもつ乙は使えるということか。 前項同様、吉日でとくに目立つのは、庚(かのえ)・辛(かのと)や酉(とり)・申(さる)の金神(こんじん)である。これは、庚辛などの金神が刃物をつかさどり、金剋木(ごんこくもく)で木を切り倒したり削ったりして、有用の材に変える五行だからである。大工の間で伝承される撰日があったのだろう。 P246 【礎居・柱立ての吉日】 P247~ 甲寅きのえとら日・乙卯きのとう日、 丙子ひのえね日、 庚申かのえさる・庚午うま・庚戌いぬ・庚辰たつ日、辛酉かのととり日 壬みずのえ寅・壬午・壬子日、癸みずのと卯・癸酉・癸亥い・癸丑・癸巳日。 これらの吉日は礎石(そせき)を据(す)える日に用いるとよい。柱立(はしらだ)てのときには、とくにこの日を選んで行うべきである。家造りの吉日選びには、とくに柱立ての日が肝要(かんよう)だからである。 ●礎石と祭祀 礎居そきょは柱の土台石(礎)を据えることをいい 礎石の敷設ふせつ(礎敷いしずえしき)にも陰陽道からきたものと思われる呪術的作法があった 「礎石を敷く際の手順は、その月の生気しょうきの方かたから敷き始め、以後順々に右回りに据えていくべきである。また、礎石のほかに、敷地の東・西・南・北・乾いぬい・坤ひつじさる・巽たつみ・艮うしとら・の八方位に清浄な石を置くこと。これを神石かみいしという。生気の方の礎石と、この神石に幣ぬさを立て、八足はっそくの机きを置いて、お神酒みき、洗米せんまい、餅もちなどの供物くもつを供そなえて祭り、祭りが終わったらその月の生気の方の礎石から、順番に石をつき固めていくのである。 生気の方とは」、以下の方位である。 正二三四五六七八九十霜雪 ○生気方 北艮南東巽西南坤北西乾東」 『万暦大成ばんれきたいせい』 ●柱立てと祭祀 より抜粋 (略) 最初に立てた柱のかたわらに その年の玉女神(ぎょくにょしん)のいる方向に向けて 拝礼を行う 机を設け、三本の幣を立てて三玉女神と見立て、お神酒や供物を供え、その後に7本の幣を立てて、北斗七星に象(かたど)り、造営成就と永久安全を玉女と北斗七星に祈り、柱を順々に立てていくのである。すべての柱を立て終えたら、また先のごとく神々を拝する。 柱立てのときには 文と歌を三度ずつ唱える 三玉女神や北斗七星が出てくるのは陰陽道の影響であり 三玉女神の方位に拝礼する作法は 安倍晴明の時代のころから始まったとされる呪術的歩行法および鎮めの儀礼(反閇へんばい)に見られる (三玉女神への拝礼は 「棟上げの吉日」にも見られる) ●撰日について 「礎居・柱立ての吉日」に 土神(どしん)の戊己(つちのえつちのと)の日は一切含まれていない。陰陽師や、その占術の影響下にあった者が、いかに土神を犯すことを怖れ、崇敬したかが、ここからもうかがわれる(本書では犯土を「はんど」と読ませているが、暦書では「つち」の訓がふられている)。 もうひとつの興味深い点は、木を切る日や材木選びの撰日では用いられていた火神(かしん)の丙丁(ひのえひのと)が、この礎居・柱立て吉日ではほぼ忌避され、唯一、丙子日だけが選ばれている点である。丙丁の日を嫌ったのは新築する家屋の火事を恐れたためで、丙子日だけが含まれているのは、丙子日の子が水をつかさどるため、丙の火を制御できるからである。 礎居・柱立てに際し、火を嫌い、火を制する水を重んじたことは、水神(すいじん)の壬癸(みずのえみずのと)の火が、吉日中に大量に選ばれていることからもわかる。 「建築という大事業にあたっては、古人は細心の注意を払って五行(ごぎょう)を駆使した」 建築にまつわるこれら様々な儀礼や次第(しだい)は、中身は迷信とはいえ、家というものに対する古人の敬虔(けいけん)な思いの反映といっていい。土地や用材から、釘(くぎ)や鎹(かすがい)などの小物一つ一つに至るまで心を配り、建築作業の節目節目で神のご加護(かご)を祈るという姿勢は、俗信として捨て去るには惜しい造屋(ぞうおく)の際の人のとるべき心がけではなかろうか。業者まかせで金だけが問題という現代の建築事情を見たら、古人はさぞや興ざめすることだろう。 ~P249 【柱立ての龍伏の口伝】 春三月みつき 頭は西三 腹は南一 足は東四 背は北二 夏三月 頭は東三 腹は北一 足は西四 背は南二 秋三月 頭は南三 腹は東一 足は北四 背は西二 冬三月 頭は北三 腹は西一 足は南四 背は東二 ※方位にならぶ数字は順番を表す 龍伏(りゅうふく)については、大聖文殊(だいしょうもんじゅ)がこういっている。 「この大地の底に、一匹の大蛇がいる。その大きさははかり知れない。ところで、この大蛇は、四季ごとに伏し方が大いに異なっている。もし最初に、この大蛇の頭に柱を立てるようなことがあれば、父母や師君(しくん)が死亡する。また、足に立てるようなら、眷属・使用人が没亡し、背に立てると、妻子も自分も死んでしまう。しかし、最初に龍の腹に立てれば、よろずの福が求めなくてもやってきて、七種の妖異(ようい)は知らぬ間に退き、子孫は増え栄え、家内は安全におさまるのである。ゆえに、柱立てのときには、まず腹、つぎに背、頭、足の口伝を専一にすべきである。世間の暦に、この口伝を明かしておく」 ●龍伏とは何か 宅地に伏せているという龍の災いを除(よ)け 福を招くための柱立(はしらだ)ての口伝 柱は 腹 背 頭 足 の順に立てるが 地下の龍が動き回るので 四季により立て始める方位が異なる 春なら 南→北→西→東と立て 夏なら 北→南→東→西と立てるように と口伝は教えている 地が龍に伏しているというのは、風水でいう龍脈りゅうみゃく(地の気の流れ道)の日本流かもしれないが、管見(かんけん)では、日本陰陽道に龍脈という観念そのものが見あたらない。龍脈が云々されるようになったのはごく最近のことで、陰陽師が龍脈を読みつつ、種々の風水を行ったなどという話しは、一種の俗説だろうと私は考えている。 『簠簋(ほき)内伝』の続羣しょくぐん(「ぐん」のつくりは「君」の下に「羊」)本には、春の項の「頭は西」の横に「未申角立ひつじさるのかどにたてる」、「腹は南」の横に「辰巳たつみ角立」、「足は東」の横に「丑寅うしとら角立」、「背は北」の横に「戌亥いぬい角立」の小文字の傍注がある。西に柱を立てる場合は、真西ではなく未申(坤=西南)の角に、南に立てる場合は、真南ではなく辰巳(巽=東南)に立てるといった意味だろうか。 この龍伏について、『万暦大成ばんれきたいせい』は「跡形もない妄説である。ゆめゆめ信じてはならない」としている。わざわざ信じるなと断っているくらいだから、江戸時代まで、まだこの俗信が庶民の間で行われていたわけである。 ●御流神道の柱立ての大事 嵯峨天皇から空海に伝えられたという御流神道(ごりゅうしんとう)の江戸期の秘伝書『御流神道類聚集るいじゅしゅう』に「柱立ての大事」の一項がある 陰陽道との交流が如実に現れているので ここに紹介しておく 「柱立ての儀式に臨む僧侶は、まず護身法を行い、内縛印(ないばくいん)を組んで「帰命きみょうア」と真言を唱え、次に八葉印(はちよういん)を組んで「帰命バン」と唱え、次に地結印(ちけついん)を組んで「帰命ウン」と唱える ついで 金剛合掌(こんごうがっしょう)し「南無梵天帝釈増長広目多聞持国なむぼんてんたいしゃくぞうじょうこうもくたもんじこく、皆来集会影向かいらいしゅうえようごう」と唱えてから散具を打ち 次に 親指で龍伏柱に五芒星(ごぼうせい)の符と九字印の符を書く」 柱に書かれたこの両符は、前者が安倍晴明(あべのせいめい)の考案になるとされる晴明桔梗(ききょう)印で、通称を「セーマン」といい、後者の九字が道教(どうきょう)から陰陽道や仏教、修験道などに取りこまれた、通称「ドーマン」と呼ばれる府である。ドーマンの名は晴明の宿敵の芦屋道満(あしやどうまん)からとられたと思われるもので、この両符は陰陽師が頻用した。その符が、このように柱立ての儀式でも使われているということは、建築に対する陰陽道の影響力の強さを物語るものである。 なお、この両符は、建築をさまざまな障害・災いから除けるためのものである。 P251~3 【棟上げの吉日】 甲午・申辰・申子日・乙卯・乙酉・乙亥日、 庚申・庚辰・庚戌・庚子・庚午日、辛酉、辛丑・辛亥日、 壬子、壬午、壬申日、癸酉、癸亥・癸丑日 これらは棟上むねあげの吉日ではあるが、棟折日とうせつにちと重複している場合は、絶対に棟上げに用いてはならない。以上で屋造やづくり編を終わる。 ●棟上げと祭祀 柱や梁(はり)を組み上げた後 その上に屋根の骨格にあたる棟木(むなぎ)を上げて水平に据えることを棟上げという (そのときの作法を おもに『万暦大成』にしたがって記す) まず家の中央に三本の御幣ごへいを立て、お神酒など供物をそなえる。御幣の中央は天御中主尊あめのみなかぬしのみこと・天照大神あまてらすおおみかみ(日)・月読尊つくよみのみこと(月)の三尊合座さんそんごうざのしるしとし、左の御幣は罔象女命みずはのめのみこと、右は五帝龍王神ごていりゅうおうじんの合座のしるしとする。 また幣ぬさのうしろには扇車おおぎぐるま(扇三面を要かなめを中心に組み合わせたもの)二本、あるいは一本を立て、同じくその左右に破魔弓はまゆみ一張はりずつを立てる。そうして、幣串ぬさぐしの根元のところに木綿の綱をかける。また、柱の根元にも神壇しんだんを設け、大貴巳命おおなむちのみこと(大国主命おおくにぬしのみこと)を祭って供物を供えるのである。 罔象女命は水神で 家を最も恐ろしい火災から守護していただくために祭る また 五帝龍王神は盤牛王(ばんごおう)の子の五行神で ( 青 赤 白 黒 黄 ) 地鎮祭などで 5色5本の幣を立てて祭るが ここでは右側の幣にまとめて五龍を祭っている P254 ●吉田流神道の「柱立て次第」 吉田神道の『唯一神道伝授記(ゆいいつしんとうでんじゅき)』の「柱立て次第」では、陰陽道式の色彩がさらに強く、まず、洗米やお神酒を五杯ずつ土器に盛って祭壇に供える。これは五帝龍王にお供えするためである。ついで、生気(しょうき)の方位(春は東、夏は南、秋は西、冬は北)に向かって礼拝し、祝詞を奏上したあとで、五帝龍王を祭壇に勧請するのである。 次に、棟木の前にはその年の三玉女の方位に壇を設け(三玉女の中の天皇玉女てんのうぎょくじょの方位を用いる)、玉女を礼拝する。 以上が終わると、次に槌打(ついう)ちの儀に移る。槌打ちは「一の槌、二の槌、三の槌」と打って打ち納める。一の槌は「寿命」を、二の槌は「長遠ちょうえん」を、三の槌は「福徳自在」を呼びこみ、打ち固めるための呪術らしい。 ついで、一同は中央の幣を正座に直して拝礼し、退く。 「そもそも、造屋ぞうおくは、最初の五色の土取りから始めてこの棟上げの日に至るまで、当主は身を清浄にし、造営成就、古不壊こふえの儀を、右に掲げた諸神に深く祈らねばならない」と『万暦大成』は記している。 P255 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 ※色字は記入者によるもの 藤巻一保 1952年北海道生まれ。中央大学文学部卒。雑誌・書籍編集者を経て著述業。 中心テーマは宗教を軸とした歴史・思想・文化だが、とくに中世以降の密教習合神道を母胎とした神秘思想、および近代新宗教内のカルト的教義と運動の掘り起こしを精力的につづけている。書籍雑誌での執筆のほか、企画・監修・講演など幅広いジャンルで活動しており、学研(現・学研パブリッシング)『ブックス・エソテリカ』シリーズは創刊から企画を担当。 (~12.3)

2015年11月28日 10時43分

「いざなぎ流」

画像:新宿御苑 10.21 ※ 「式神十二神将」を この項に加えました 26※ 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』2000~(2004 3刷)藤巻一保 訳・解説 【式神式神と呼ばれる特別な神がいるわけではなく 陰陽師が使役したとされる鬼神(きじん)のこと 式神に特定の個性がないことは、晴明説話に登場する式神の描かれ方が、まったくまちまちなことからも想像できる。(P306) P306~ 『今昔物語』に 晴明が播磨の老僧の式神を隠す話が出てくる その式神は僧のお供をする2人の童子として描かれている これは仏教の護法善神(ごほうぜんじん)の一種の 「護法童子」と見ていい 『宇治拾遺物語』では 晴明が草の葉に呪文をかけて蛙に投げつけ 蛙を潰した話や 鳥の姿に紙を折って呪文を唱え 空に投げ上げると 白鷺に変わったという話が出てくる 前者は古代中国の南方で発展した越方(えっぽう)とも呼ばれる「禁術」の一種で、気や念力によってあらゆるものを封じる。たとえば、人を禁ずれば人は動くことができず、虎を禁ずれば虎は地に伏す。鳥は羽ばたくことができず地に落ち、柱に打ち込んだ釘を、気をもって吹けば釘は柱からニョキニョキと躍り出て、弓から射られた矢のように飛んでいく。こんな話が、『抱朴子』にはたくさん出てくる。 この禁術が、病気治しに験(げん)があるというので中国の官僚組織に取りこまれて呪禁道(じゅごんどう)となり、同名のまま日本に移入されたわけだが、この禁術により、術者が紙を刀にしたり枷(かせ)にするなどのことは朝飯前で、実際、古代から近代に至るまで、鳴き声のうるさい“蛙”を呪で禁じて声を出なくしたり殺したという話は、本家中国には膨大にある。晴明の説話と関連があるかどうかは定かではないが、いずれにせよ、蛙を草の葉で殺した話などは、まったくこの禁呪の系譜である。 次に、紙を白鷺に変えたというのは、道教の「剪紙成兵術」(せんしせいへいじゅつ)に似る。紙でつくった人形を、人か鬼神のようなものに変えて駆使する術で、時代は下るが清代の『子不語(しふご)』に、方術師の張奇神(ちょうきしん)という者が、書生の呉に侮辱されたのに腹を立て、鎧姿の金甲神(きんこうしん)を呉のもとに送って復讐しようとした。ところが呉が『易経』で金甲神を叩くと、パタリと倒れて紙人形に返ったという話がある。 紙人形や木人などは呪術の常用具で、折ったり切ったり削ったりして、人にも馬にも鳥にもかたどる。そこに術者が命を吹きこめば動き出すという趣向で、こういった術は、陰陽師に限らず、世界のどこの呪術者でも使っている。 いわくありげに式神などといってはいるが あるものは護法使い あるものは禁術 あるものは道教呪術であって 「陰陽道式神」などと称するものは存在しないのである(P307) それは、実在の陰陽師が現実に式神を使ってどうこうしたという史話がなく、式神使役法の次第がないことからも明らかといっていい。そうはいっても、陰陽師が鬼神を使わなかったというのではない。陰陽師も、もちろん鬼神を使役した。ただし、神を勧請して働いていただくことは、陰陽道に限らずあらゆる呪術宗教の基底なので、そうした術式はあって当たり前という意味であって、ことあらためて“式神呪法”などというものが存在したわけではないということなのである。 (その上で) 陰陽道でいう式神ときわめて密接な関係をもつと思われる 四国の「いざなぎ流」に見られる「式神観」を 同流研究の第一人者 高木啓夫氏の 『いざなぎ流御祈祷の研究』をもとに紹介する ●いざなぎ流と式王子 P308~ いさなぎ流とは、古くは「博士はかしょ」「陰陽師」、現在は「太夫」と呼ばれる祈祷師が伝承してきた、陰陽道神道・仏教・修験道が複雑に集合して成り立っている加持祈祷系の民間宗教をいう。 いざなぎ流では、占いや加持祈祷の際、多種多様の式神を駆使するが、それら式神のボスのことを、「式王子(しきおうじ)」と呼んでいる。いざなぎ流の祭文(さいもん)によると、式王子は、天竺のシャラダ王(シャウ王、シャウラン王)の娘ヨウユウ姫が、天竺・唐(から)・日本三ヶ朝(さんがちょう)の王と交わってなした子で、黒鉄(くろがね)の兜をかぶり、巨大な角を七つ半も振り立て、真っ赤な舌を出し、身はさまざまな色の曼陀羅模様を帯びるという異形の赤子(クセ子)であった。 そこで、ヨウユウ姫は、天竺の金巻童子(かなまくどうじ)を雇い降ろして、この子を天に上げてくれと頼んだが、金巻童子は、「この子は式(いざなぎ流太夫の使う術法)の警護者、式神軍団が主宰する三万三千式の式の王、式の太郎権現様(たろうごんげんさま)にしよう」といって、天竺のナンタ池の底に、大木を打ち倒し、石を詰めて踏み鎮めて、埋めてしまった(セリフは筆者の解釈による)。 この池の端に「青松千本、白松千本、ま松千本」が五方に枝を伸ばしていたが、その後、式王子は、この松を「休み木」、つまり依り代として示現し、いざなぎ流の太夫の以来があれば、松の縁から降りてきて、人にとり憑いた悪魔などの調伏をしてくれるというのである。 また、別系統の祭文では、『簠簋(ほき)内伝』第二巻冒頭の縁起で開設した「盤古大王」が、「福才明吉明王(ふくさいみょうきつみょうおう)」との間に「五人五郎王子」という子をもうけ、五人五郎王子は、自分たちだけでは心も手も届かないので、式の警護人が必要だといって「式王子」を探し求めたのだと語られている。 これも実に興味深い祭文で、陰陽道の神話が、きわめて濃厚に反映されている。盤古についてはすでに記したが、その子の五人五郎王子も陰陽道神にほかならない。彼らには「五方五体の王子」という異名もあるが、これは東・西・南・北・中央の五方、および木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の五行のことなのである。 この五方五体の王子が見いだした式王子が、いざなぎ流太夫たちの使う式神の代表で、「行おこない降おろし」と呼ばれるいざなぎ流の神降ろしで召喚される。その作法次第を延べた『小たかのしき』というきわめて貴重な資料を、高木氏が収集している。 「御平ごへいハ十九七六五三ト、クジヲ付つくル、長ながさハ三尺じゃくニシテヨシ、ヒナノ人形ツクリ、ソノヒナノ人ギョニ、御平ヲウダカシテ、タテヲキ、イノルコト、ツルギヲ以テ切ルトキハ、下ヨリ上ヘ切リ、十ヲキレバ、ソク死ノ法ナリ、此この法ヲ使ウ時ハ、ソナヘお金十二円米壱斗弐升いっとにしょう、よくこんきう物ニテモ金十二銭、白米壱升二合そなゑる事、松ノ木をウヱ、修おこなイヲロス也」 《御幣は10・9・7・6・5・3の小さな折り目を付ける。幣串ぬさぐしの長さは3尺でよい。ヒナ人形をつくり、そのヒナ人形にご幣を抱かして祭壇に立て置き、折ること。剣(陰陽道でいう禁刀きんとう)をもって九字を切るときは、下から上に切り、9まで切る。10を切ると即死である。このほうを使うときは、お供えのお金は12円。米は1斗2升、非常に困窮している者であっても、金12銭、白米12合は供えること。松ノ木を植え、そこに式王子を行い降ろすのである》 祭文のところで述べたように 松は式王子の拠り代 人形は 具体的にどのようにつくったのか不明 九字切りの部分は、高木氏は「九回までで、十回すると、恐らく祈祷太夫も即死するという意味であろう」として、九と十を回数と解釈しているが未詳。 かくして いざなぎ流太夫は式王子を行い降ろす 式王子には 眷属ともいうべき「十二ひなご王子」がいて この王子らが いざなぎ流太夫が駆使する様々な呪法・術法(これを「式」という)の場に現れ、その職能にしたがって働くので、実質的にな式神は こちらということになる (十二ひなご王子について …略…) 高木氏が収集した資料のうち 「式打ち」「式打ち返し(呪詛返し)」などの式方術にかかわるものの99パーセントは「式王子系」だという そのルーツを考える上で 大いに注目されよう ~P311 ●式神十二神将 P311~ 式王子には12人のひなご王子がいる 晴明が駆使したとされる式神も12人だったということが、『源平盛衰記』に述べられている。妻があまりに式神に脅えるので、晴明が十二神将(じんしょう)の式神に呪をかけて、一条戻り橋の下に移し据(す)えたというのである。 (ここから 26.8.33 の分) 十二神将とは 陰陽道の占術で用いる1年12カ月から割り出された神 晴明が駆使した式神十二神将の変化と見なされていた これらの神々は 陰陽師が常にそれを用いて過去・現在・未来を察したりするのに使っている六壬式盤(りくじんしきばん)上の神にほかならない。 式盤の神 すなわち式神 重要なのは それが12というセットだという点 十二神将とは 要するに五行の変化であり その五行が変容して十二神将になっている まったく同様の祭文がいざなぎ流にもある 「五方五体の王子」=五行が 「十二ひなご王子」=十二神将を自分たちの働きの分身としているのだ 『源平盛衰記』が述べる晴明の式神と、いざなぎ流の式王子は、このように構造がぴたりと符合している。ただし、陰陽師の式盤を用いた占術を、いざなぎ流も使っており、そこから式王子が派生してきたというのではない。いざなぎ流太夫そのものには、中央の陰陽寮官僚が用いた形跡は見られない。彼らのルーツを語る『いざなぎ祭文』には、いざなぎ流太夫の祖である「いざなぎ様」が、自分の使う占術を語る部分があるが、そこで語られるのは「八卦の繰り出し、九星の繰り当て」で、近世、民間に広く流布した簡便な雑占(ざっせん)にすぎないからである。 六壬にもとづく十二神将の名称は、彼らの祭文には登場しない。けれども、「式神=十二柱の陰陽師使役の神」という観念は伝わっていた可能性が十分にある。 それはおそらく、五行から派生した1年12カ月の吉凶禍福(きっきょうかふく)をつかさどる神、といった素朴なものだったろう。この12カ月の神に、平安末からの末法観(まっぽうかん)と連動する浄土思想の大流行にともなって広まった仏教の地獄説が習合し、憑依霊などを祓う巫覡(ふげき)の民間呪術が組み合わされて、式王子の眷属神(けんぞくしん)たる「十二ひなご王子」になったに違いない。 いざなぎ流の式神は 憑き物や妖魅(ようみ)・悪鬼(あっき)の類いを切り滅ぼし、放逐するものと考えられた その性格は まさに陰陽道説話に登場する式神と同じ 12という数について 「此法ヲ使ウ時ハ、ソナへお金十二円、米壱斗弐升、よくこんきう物ニテモ金十二銭、白米壱升二号そなゑる事」という文章があった。お供えの金が12円ないし12銭、供物の米が1斗2升(=12升)ないし1升2合(=12合)というのは、明らかに12人のひなご王子に対応している。それはまた、1年12カ月の神々の数といってもよい。 陰陽道にも幣(へい)を12本立てる祭祀があり、五行神に対しても12本立てるケースがある。 江戸期の『天社神道行事』の中から「大鎮祭」の部分を引いておく 「あらたに家を造り、わたまし(新居に移ること)させる先に、このまつりをいたす事也。青き幣、東二本、赤き幣二本南へ、白き幣二本西へ、黒き幣二本北、黄なる幣、四方に壱本ずつ立つべし、神供じんくは土器にもるなり。おりひつ(折櫃)あらば高槻たかつき(の器に)据え供ふべし。(略)その後、五穀五方に埋む」 これは新居に移る前に行う土御門家の作法だが、木・火・金・水の四方の神に各2本、中央の土神に4本の幣を立てている。見かけは五行神だが、その数から、1年12カ月の12神に奉っていることがわかる。 木=春ふた月、東方守護の寅・卯の2本 火=夏ふた月、南方守護の巳・午の2本 金=秋ふた月、西方守護の申・酉の2本 水=冬ふた月、北方守護の亥・子の2本 という構成 また、陰陽道と交互に甚大な影響を及ぼしあった吉田神道の宗源行事では、精進料理の飯が12膳供えられ、幣は12本立てられる。 宗源行事とは 吉田神道で行う八百万神(やおよろずのかみ)を祭る祭儀で 土御門家でも邸内で行ったもので 12本の幣は「土公神どこうじん、十二冥官みょうかん」とされている このように、12という数は、五行の5、北斗七星の7、八卦・八方位の8、九星九宮の9などと並んで、陰陽道で最も重視された数のセットのひとつであった。中でも式神については、陰陽道占術の式占盤上の十二神将からの連想が大きく働いていたものと思われる(ただしその図象は、神将というより、十二冥官=冥府の十二の鬼神の役人のように見える)。 冒頭で断ったように、式神という特定の神はいない。それは陰陽師が使う鬼神以上のものではない。「式」は「もちいる」の意だとする村山氏の指摘は、まったくそのとおりだろう。陰陽師が使役する神は、鬼神も含めて、そのすべてが式神といえる。ただし、泰山府君などの大神は、人間である陰陽師が使役できるような、軽い神ではない。では、人間でも使役できる神は何かというと、彼らが常に用いている六壬式盤上の神ということになる。ここに、十二神将の化身としての式神が浮かびあがってきたのである。 使役の呪法とは、要するに祭場に緒神を勘請し、またおのれの瞑想裡(めいそうり)にヴィジョンとして呼びこみ、それを実体化させて使うのである。これは、巫術(ふじゅつ)の根底にある技法であり、陰陽師もまた、これを行ったことは、反閇の内観のところで述べておいた。 ただし、陰陽師には、もうひとつ、欠かすことのできない小道具としての撫物や呪詛のための「人形ひとがた」があった。これが式神のイメージに大きく寄与したことも、まちがいのないことなのである。 ~P315 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 「十二」なんとか というエッセンスは 「天使」とか いろいろなところで使われているのかもしれませんし 顕微鏡で見られたり そうでなかったりするような 世界 ですか 境域でしょうか… そういうあれでも そうなのかもしれませんが (「王子」もおられる かな) そこには 小さくて動きの素晴らしいおじさんや ガーリーで 小柄で穏やかな デキル隊長もいたり… などなど など 「王子」だけではないので そこら辺も含めて 目を皿のようにして ご覧になると… また 既存の概念と違った世界がみえる…拡がるのかもしれません 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ここまで 26の8.33 の分 別の本 紹介ページから一部抜粋 呪術探求 いざなぎ流式王子 安倍晴明役行者を超える、闇の呪法のすべて 斎藤英喜 著(神話・祭祀学専攻) 新紀元社 平安時代も半ばを過ぎた、十世紀の末、四月の中旬のことである。 出産間近の、さる高官の妻女がなかなか産気づかなかった。物の怪などの障りがあるらしいということから、陰陽師安倍晴明が「解除」の祈祷を行うことになった。 「解除」とは一種のお祓いの儀礼のこと。神祇官の中臣やト部が行う神道系の「祓え」にたいして、陰陽師が執行するものをとくに「解除」という。この当時、出産に際して祓えの祈祷が行われたことは、あの『源氏物語』を書いた女房の日記〈『紫式部日記』)のなかにも詳細な記録がある。その日記によれば、一条天皇中宮・彰子の皇子出産のときに、多数の陰陽師が召し集められて、祓えの祈祷を担当している。出産を前にした中宮に取り憑く物の怪調伏のために、僧侶の加持祈祷とともに陰陽師の祓えが行われたらしい。 (略) このように奈良時代陰陽寮の仕事はもっばら「占い」中心であった。そこには祓えや呪術に関わる姿はほとんど見えない。ところが、平安時代に入ると、陰陽寮の仕事の性格が大きく変わってくる。陰陽寮の官人たち、あるいは陰陽寮出身の者が「陰陽師」と総称されるようになり、「陰陽師」たちは、占いとともに呪術的な祈祷や祭祀の担い手に変貌していく。さらに世間では、彼ら陰陽師の一部は「式神」を使役して、あるときは呪調を請け負ったりもする黒い呪術師とみなされていくようになるのだ。 最高司祭者・中臣氏の「大祓の祝詞」 占い師から呪術師への変貌―。その変化を促したのは、社会のいたるところに「怨霊」や「物の怪」が跋扈しはじめる「平安時代」という時代そのもののなかにあった。いや、こういってもよい。怨霊たちが呪術師としての「陰陽師」を作り上げたのだと。 平安京を創始した桓武天皇。日本史の常識が語るように、彼はその即位と自らの権力維持のために多くの対立者を闇に葬った。とくに有名なのは早良親王である。桓武天皇は権力闘争の過程で自ら葬った人々の怨霊や崇りに怯え続けた。それを祓い鎮めるには、今までの神祇官の神官や僧侶たちでは役にたたなかった。 (略) とのこと (23は西口で ルームナンバー333でしたな)

2015年11月23日 13時55分

「身固」

コウサするセン と ヒトフデガキ(のオホシサマ) 。。。。。 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』2000~(2004 3刷)藤巻一保 訳・解説 【身固】 陰陽師が奉仕した身体を堅固安穏(けんごあんのん)にするための呪法を「身固(みがため)」という。身体を堅固にするといってももちろんなんらかの健康法を行うわけではなく、依頼者の身体そのものに、呪的な守護を打ちかけるのである。 陰陽師の呪法のうち 地鎮では土地が 鎮宅では邸宅が 物忌では依頼主の生活領域全体が 穢れ祓いでは依頼主の身に付着した穢れが 呪法の対象 身固は依頼主の身体 ないしその分身としての衣服が呪法の対象 呪法によって その人の身体そのものを守るのである (『宇治拾遺物語』に出てくる話) 蔵人の少将が内裏に向かう途次 カラスに糞をかけられ それを見た安倍晴明は 呪詛されたものだと判断した (カラスが式神しきがみで 少将は陰陽師に呪詛された と) 「このままでは、あなたの命は今夜限りです」と晴明は告げた 「少将わななきて、『あさましきことかな、さらば助け給へ』とて、ひとつ車に乗りて少将の里へ出いでぬ。……晴明、少将をつと抱きて“身がため”をし、又何事にか、つぶつぶと夜一夜いも寝ず、声絶たえもせず読み聞かせ加持しけり」 『宇治拾遺物語』(原文) 晴明の祈祷により 敵の陰陽師の呪詛は破れ 翌日 式神を使った陰陽師から使いがきた (使いに託した言葉)「自分が打った式神が、身固の強い人のために打ち返され(呪詛返しされ)、我が身にはね返ってきた。もう死にそうだ」(大略) 物語では、この陰陽師は少将の妻の姉妹の夫に雇われて序阻したことになっている。けれども、その陰陽師と晴明では力量に雲泥の開きがあったため、式神を打ち返されて瀕死の状態に陥ったというのだが、このとき晴明が使った呪法として「身がため」が出てくる。 先に引いた原文では、晴明が、ただ少将をしっかり抱いているだけのように見えるが、実際には種々の呪法的作法が行われていたのでなければならない。晴明がどんな身固の法を修したかは不明だが、身固そのものは、おおよその次第がわかっているので、次に紹介しておこう。 ●近世土御門家の身固 身固については、遠藤克己氏が、江戸期の土御門家の諸記録を集めて、詳しく紹介している。その中に、土御門泰重(やすしげ)がげ元和6年(1620)正月9日、京都御所に拝賀に行き、そこで後水尾(ごみずのお)天皇に身固を行ったときの記録がある。 それによると、まず最初にお礼を申し上げ、その後二拝。次に禁刀(きんとう/陰陽師が呪法で用いる刀)を執(と)って天皇の座所のほうに進み、御前(ごぜん)の一間(けん)前あたりから膝立ちで進んで御前に至る。 ついで、天皇の胸のあたりに「四縦五横書(しじゅうごおうしょ)」を書き付け、次に左手の掌中(しょうちゅう)に「符」を書き、同じように右手にも書いてから、禁刀を懐中(かいちゅう)にしまい、退出したという。 (ここに出てくる「四縦五横書」とは、反閇(へんばい)のところで書いた九字の印のことを指す。)(「反閇」で とばした部分-記入者) 泰重は、まず天皇の胸めがけて(空中に)九字を切り、ついでに左右の掌中に符を書いた(符の内容は不明)。これが、当時の身固の作法だったことが知れる。 四縦五横の印は、反閇においては地に向かって切られていた。それによって、その地が鎮められ、守護されるのだが、ここでは天皇の身体そのものが、反閇の際と同じ加持の対象に見立てられている。手に禁刀をとって御前に向かうとあるから、四縦五横の印は、あるいはこの禁刀によって切られたものかもしれないが、天皇の御前で刃物を使うことは考えにくいので、指で印を切るなど、別の作法があったのかもしれない。 この身固の際、種々の呪文が唱えられることもあったらしい。若杉家文書の「属星祭文(しょくしょうさいもん)」に載る身固式には、身固に用いる禁刀の呪文と、四縦五横の呪文。および四縦五横印の符式が記されている。 (以下のとおり) ◎刀禁呪 吾是天帝所執持金刀、非凡常刀、百練之鋼、是百練之刀也、一下何鬼不走、何病不癒、千妖万邪皆悉暫済除、急急如律令 (吾はこの天帝の使う所の金刀きんとうを執持しつじす、凡常の刀に非ず、これ百練の刀也、一下ひとくだしせば、何ぞ鬼の走らざらざるや[禁刀を振り降ろせば使役されない鬼神きじんはいないの意]、何ぞ病の癒えざるや、千妖万邪皆悉暫済除せんようまんじゃかいしつさいじょ、急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう) ◎(四縦五横)呪 天為我父、地為我母、在六合中南斗北斗三台玉女、左青龍右白虎前朱雀後玄武、前後扶翼、急急如律令 (天を我が父と為し、地を母と為す、六合中くになかに南斗・北斗・玉女ぎょくじょ在り、左には青龍、右には白虎、前には朱雀、後ろには玄武、前後扶翼す、急急如律令) ◎符式 身固は天皇のみに行われたわけではなく、公家や将軍などに対しても、賀茂・安倍家によって奉仕された。先の例では天皇のみに直接身固が行われているが、一般にはその人の衣服に対して行ったという。 徳川家光の子の家綱の加冠(かかん)の式の際、土御門泰重が衣服への身固を行った記録が『徳川実記』にある。 「土御門三位泰重卿、衣冠の上に大帷子おおかたびら着し、一揖いちゆうして跪き、(家綱の)御直垂おんひたたれに向ひ、日時を勘かんがへ、吉方きっぽうにむかひ、御身固おんみがためをつかふまつる。御伝ごでんの輩やから、その御直垂を受取れば、若君下段に出いでまし、伝の輩、御直垂をきせ奉り終て、(高倉大納言たかくらのだいなごん)永慶えいけい、泰重の両卿、出て拝し奉る。これは土御門、午前に参り御手みての内ならびに御衣おんぞに呪詛つかふまつるためしなれど、御齢としいまだきびはにわたらせ給へば、御衣に呪詛し奉ること、幼主ようしゅならびに、皇后宮こうごうのみやなどの例によられしとぞ」 『徳川実記』 この文では身固を「呪詛」と記している なお、この身固は、単独でも行われるが、種々の陰陽道祭祀の前段としても行われた。密教では、神仏を勧請し、加持祈祷などの法を修する際、あらかじめ護身法を行う。まず我が身の業罪を清めた後、身に如来の慈悲の甲冑をまとうと観念し(これを被甲ひこう護身という)、式次第にのっとって印を結び、真言を唱えていくのだが、祭祀の前段として行われる身固は、この被甲護身と通じ合うように思われる。 (先の『宇治拾遺物語』の話に戻れば、晴明は少将の身を四縦五横印で呪禁し、刀禁呪などを唱えて式神の動きを封じたのみならず、逆に呪文によって式神を支配し、打ち返したと考えれば、大いにリアリティが出てくるのではないだろうか) 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 P301~5 。。。。。 。。。。。 。。。。。 まあ なんといいますか …個人的には そういうあれに関して りありてぃ というような何かが 出てきたことは無いですな ヨウシュ コウゴウ 。。。。。 「一筆書き」など Wikipediaに きいてみました

2015年11月18日 15時41分

「物忌」

強装束化以降の有文垂纓冠 ・・・・・・・・・・ そうとう違和感のある 身近に無いような 世界にみえ 同じ「星」のこととは どうしても思えない… 次に読む予定の… 少し内容にふれましたが 「身固」も同様で 頭だけでなく 手指なども とまりがち な ようでもあります ・・・・・・・・・・ 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』2000~(2004 3刷)藤巻一保 訳・解説 【物忌】 神祭りにあたり、穢れを嫌い、清浄を喜ぶ神のために斎戒(さいかい)することを「物忌(ものいみ)」という。つまり物忌は、本来、陰陽道とは無関係の日本的宗教慣習だったわけだが、平安中期には意味が変質した。どう変わったのかというと、たとえば夢見が悪かったり、身辺に怪事があった場合などに陰陽師に占わせることがまず行われ、その結果、陰陽師から出された指示にしたがって、外出や飲食などを慎み、一定期間、家にこもって精進潔斎(しょうじんけっさい)の生活を送ることを物忌というようになったのである。 陰陽師六壬(りくじん)を用いて、依頼主からの質問を占った。その上で出てくる解釈は、貴族の主要関心事である四方面、すなわち「失(う)せ物、火事、口舌(くぜつ/論争・政争・兵革)、病事」に、ほぼ限られた(三和礼子「物忌考」叢書1)というから、これらが平安時代における物忌を必要とするおもな用件だったわけである。 平安中期以降の物忌は、完全な禁忌(きんき)になっていた。物忌が必要かどうか、物忌の原因となった怪異等の背景にひそむ忌は何か、どれくらいの期間、物忌すればよいかなどは、すべて陰陽師の判断の下にあった。また、怪異・凶夢などに対する強迫観念じみた不安や恐れの感情が、貴族たちに根づくにあたり、大きな役割を果たしたのも、陰陽道であった。 こうして貴族は、何かあるごとに、物忌のために家に籠もったが、後には禍(わざわい)を封じるために陰陽師が謹製した呪札のことも、物忌と呼ぶようになった。それについては、18世紀の有職故実家(ゆうそくこじつか)の伊勢貞丈(ていじょう)の『貞丈雑記』の記述が、しばしば引き合いにだされる。 ●呪礼としての物忌 「物忌というのは、夢見が怪しかったり、また何か怪しい出来事があって、気にかかって陰陽師に占わせたとき、陰陽師から、『これは大事のあることを告げるしらせです。しかじかの日数、お慎みください』といわれて、その日数は他所へも行かず、家の内に引きこもって、人にも会わず、慎んでいることをいう。その間は、柳の木を三分ばかりの長さに削り、そこに物忌と書きつけて、(端に)糸をつけて“しのぶ草”の茎に結いつけ、冠にも挿し、簾(みす)にも挿しておくのである。白い紙を小さく切って、その紙に物忌と書くこともある。しのぶ草には、別に“ことなし草”の異名もある。それゆえ、この草を用いるのである」 『貞丈雑記』 これを読むと、物忌には、陰陽師が厄除け、不祥事除けのための呪物を提供したことがわかる。「物忌」と書きつけた柳の木片や紙片がそれである。これをしのぶ草に結いつけたのは、この草の異名が「ことなし草」、つまり“何事もなく過ぎる”草だからで、それを冠や烏帽子(えぼし)、簾に挿して、忌み事を除けた。 前出「物忌考」によると、天皇の物忌の際には、蔵人所(くろうどどころ)出納(すいとう)が関係各所に物忌を配布し、柱などに貼りつけさせた。また、天皇の清涼殿は、蔵人がいたるところの御簾に物忌を差し挟み、前記の柳の物忌札を、しのぶ草の茎に結わえたものを、天皇の冠の纓(えい)に差した。この冠をかぶって、天皇は忌みが明けるまで清涼殿に籠もったのである。 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』P299、300 コトバンクより 纓 えい

2015年11月15日 14時35分

「カルト的な体質」

Journalism 【櫻井ジャーナル】 (櫻井ジャーナル) 「西側メディアが難民キャンペーンを始めた直後から予告されていた「テロ」が仏国で起こった背景」2015.11.14 * 『アメリカ帝国はイランで墓穴を掘る』2007 櫻井春彦 The End Way Of U.S. Empire ■Introduction (くくりの一文) 「毒蛇が足下にいても目隠ししていれば怖くないということなのだろうか」 (第6章 カルト化するアメリカ) 【ユダヤ系エリートによるイスラエルの発見】より(抜粋) (アメリカの通信傍受船が攻撃されていた頃、イスラエル軍シナイ半島エジプト人捕虜を殺し始めていた。犠牲者は1000名にのぼると言われている) (略) (国連を平然と攻撃する兵士が「敵」のエジプト人を大量殺戮しても不思議ではない) この戦争までイスラエルを支援、核兵器開発でも協力していたフランスが戦争後、イスラエルと距離を置くようになったのも当然だろう。その穴を埋めるように入ってきたのがアメリカだ。それまでイスラエルの存在を気に掛けていなかったユダヤ系エリートが突然、戦争後にこの国を「発見」し、イスラエルは「ユダヤアメリカ人の宗教」になったという。(Norman G.Finkelstein,“The Holocaust Industry”,Verso,2000) (略)(P237~8) 【カルト国家アメリカ】 ナチの母体になったトゥーレ協会のカルト的な体質は有名だが、ジョージ・W・ブッシュ政権を支え、イスラエルの軍事力行使を後押ししているキリスト教原理主義者もカルト的な体質を持っている。 自分たちが頭の中で描く「世界」をつくり出すために実際の情報を軽視し、あたかも自分たちが「預言者」であるかのように振る舞うネオコンもカルト的存在である。「唯一の超大国」と呼ばれるアメリカは現在、「カルト国家」になっている。イスラエル人脈はカルト人脈でもあるのだ。 カルト化するアメリカを象徴している人物が国防副次官のウィリアム・ボイキン中将だ。イラクの掃討作戦を指揮している彼は「暗黒の使いルシフェル」と戦っているつもりなのである。 こうしたカルト的信仰を持つアメリカ軍の将校が増えているとも指摘されているが、イラク戦争が泥沼化する中、一般の兵士の中にもキリスト教原理主義者の信者が増加している可能性がある。この種の人々は「ハルマゲドン」における「最終戦争」、つまり核戦争を経て救世主が再臨すると信じているわけで、イランに対する核攻撃に逡巡するわけがない。 イスラム革命でイランは宗教国家になったと言われるが、アメリカも昔から宗教国家である。イスラムキリスト教の違いだけだ。カルト化についても、有力メディアはアメリカの状況について沈黙する一方、イランのカルト的体質は正しくない情報を使って宣伝している。 例えば、マフモウド・アフマディネジャド大統領のイスラエルに関する発言が「誤訳」され、世界に伝えられている。ミシガン大学のジュアン・コール教授やガーディアン紙のジョナサン・スティールによると、「エルサレムを占領しているこの体制は歴史のページから消えるだろう」という歴史的な予言を「イスラムは地図から消し去られるべきだ」という攻撃的な内容に変えて報道されたという。(The Guardian,June 2,2006) また、アメリカ議会の情報政策小委員会も「誤訳」を広めている。「ユダヤ人が虐殺されていないという神話を広め、これを神、宗教、預言者の上に置いている」とイラン大統領は発言したと報告しているのだが、実際は「ホロコーストの名の下に彼らは神話をつくり出し、それを神、宗教、預言者よりも価値あるものだと見なしている」と話していた。ホロコーストそのものを否定したわけでなく、「ホロコーストの名の下につくり出された神話」を問題にしていたのである。 これまでイスラエルは自分たちの侵略行為、残虐行為などに対する非難を「反ユダヤ主義」という呪文ではねつけてきたが、それならばナチのホロコーストを批判する人たちを「反ドイツ主義」と呼ぶことができるだろうか。ナチの強制収容所で虐殺された人々に対する冒涜としか言いようがない。 (P238~241) ■Afterthoughts より (ニューヨークのホテルでこんな経験をした) ロビーで人を待っている時に後ろから突き飛ばされたような衝撃を受けたので振り返ると、団体客の長い列が横を通り過ぎていた。それは日本からきた観光客だったが、その様子を見ると、全員が先頭の旗を必死に追いかけていて、周囲の状況が全く目に入っていない。旗印の周辺に群れてはいても、皆互いにつながっているわけではない。日本人は団体行動が苦手なのだと感じたのはその時のことである。 そうした種類の人々を操るには、個々人を引きつける旗印が有効だ。その旗印として「ワンフレーズ」を巧妙に使い、国民を動かした政治家は小泉純一郎であろう。陰陽師のように彼が唱えた「呪文」の中で、最も効果的だったのものが「改革」だが、それがもたらした結果は「機会不平等」の「格差社会」だった。 (略) 権力者が使う呪術を打ち破るためには事実を掘り起こし、積み重ねるしかないのだが、事実の入手はマスコミに頼れない。歴史を学び、多くの書物を読み、外国の史料、文献にあたる必要がある。何が事実で何が幻影なのかを見極めることは難しいが、呪術の世界から抜け出すためにはこれしかない。 (略) 物理的な力でねじ伏せるのではなく、心理面へ働きかけることで戦い、支配するという点でCIAの心理作戦は呪術的である。 ところが、アメリカでは権力者自身が呪術の影響を受けるという倒錯した現象も起こっている。 (略) 振り返ると、1492年にクリストファー・コロンブスカリブ海に現れた当時、北アメリカには100万とも1800万人とも言われる先住民が住んでいた。これだけ数字に幅があるのは、ヨーロッパ人が何人の先住民を虐殺したかが不明だからである。1890年12月にウーンデッド・ニー・クリークで先住民の女性や子供が騎兵隊に虐殺される事件が起きているが、その当時の人口は約25万人に減少していた。 これだけの殺戮を実行できた背景には先住民に対する蔑視、差別があったことは言うまでもない。例えば、1620年にイギリスからニューイングランドへやって来た「ピューリタン」と呼ばれる一団は、自分たちこそがアメリカを開拓する使命を神から授かった人間だと信じ、先住民は野蛮で未開の「サタンの息子」だと考えていた。 ヨーロッパから移住してきたアメリカ人が先住民を殲滅し、アフリカから多くの人間を拉致して奴隷にした歴史を消し去ることはできない。 (略)(P253まで) * 『アメリカ帝国はイランで墓穴を掘る』洋泉社、2007年 イランの問題はイスラエルの問題と表裏一体の関係にある。イラン攻撃を狙うアメリカの新保守/神保守(親イスラエル派)は勢いを失ったが、消え去ったわけではない。イスラエルに軍事強硬派政権が存在し、プーチンにロシアから追い出されたエリツィン時代の「富豪」もロンドンとイスラエルを基盤に暗躍する。 【内容情報】(「BOOK」データベースより) アルカイダのオサマ・ビンラディン、反カストロのルイス・ポサダ-。皆CIAが生み出したテロリストだ。実はアメリカこそテロ支援国家なのである!アメリカやイギリス、イスラエルの情報機関であるCIAやSIS、モサドテロリズムは密接につながっている。中東、中米で行ってきた彼らの工作活動を知らずして、中東情勢、そしてイラン問題は語れない。 【目次】(「BOOK」データベースより) 序章 疑惑のアメリカ帝国/第1章 シミュレーション イラン攻撃はアメリカ帝国崩壊への一里塚となる/第2章 イラン攻撃への道/第3章 悪の枢軸/第4章 王制の時代/第5章 イスラム共和国/第6章 カルト化するアメリカ 【著者情報】 桜井春彦(サクライハルヒコ) 調査ジャーナリスト。1955年東京生まれ。早稲田大学理工学部卒。ロッキード事件の発覚を機に権力犯罪を調べ始める。1980年代半ばには、大韓航空007便事件とともに、上場企業が大蔵省や大証券と組んで実行したシステム化された不正行為を調査。後に『ザ・ハウス・オブ・ノムラ』を著わすアルバート・アレッツハウザーから協力を依頼された。 21世紀に入ってからは雑誌「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビュー)で米情報機関の秘密工作に関する十数本のレポートを執筆している。現在の状況と似ているとされる1930年代にアメリカでファシズム体制の樹立を目指すクーデター計画が存在した事実も「9.11」の直前に紹介した。 また、雑誌「世界」(岩波書店)では「ブッシュ政権の内幕」としてジョージ・W・ブッシュ政権の実態に関するレポートを発表している。著書に『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』(三一書房)がある。 (本データは書籍が刊行された当時のもの) ************************************ ある種の「歴史を消し去ることはできない」 記入者-とても大きなひとつに わざわざ 犠牲者を出すこと それらをやらかしている方々が おかしなこと(個人の感想です) を延々やらかし続け… られるのは 到底納得できない(個人の感覚)思想 理論などに …なんでしょう? 導かれ 導き… 同調 あるいは もともとの それら 質量は変わらない か 見せかけている何か などの割合は 大幅に変化していただきたいもの …と 思う人々の 割合 バランス 次第 の「未来」云々 ということでしょうか (と 個人的には) -記入者 ************************************ 「その先にどのような未来が待っているかは、これから人々がどのような準備をするかにかかっている」(櫻井氏)

2015年11月15日 9時7分

蘇民将来」 「金神」

安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』2000~(2004 3刷)藤巻一保 訳・解説 【天徳神の方位】より 天徳神(てんとくじん)の方位とは、蘇民将来(そみんしょうらい)のいる方向のことである。蘇民将来は、武塔天神(むとうてんじん)ともいう。この神のいる方位に向かって病を避くべきである。船に乗るのは吉。剛猛(ごうみょう)、造舎(ぞうしゃ)、出行(しゅっこう)、いずれも吉。この神は広遠国(こうえんこく)の王で、牛頭天王の大旦那(おおだんな)である。たとえ八万四千の行疫神(ぎょうえきしん)が流行しても、天徳神の方(かた)だけは犯さない。大吉の方位と識(し)るべきである。 ●蘇民将来と『備後国風土記』 『簠簋(ほき)内伝』の牛頭天王縁起(ごずてんのうえんぎ)は、『備後国風土記(びんごのくにふどき)』をそっくり下敷きにしている。 同風土記によると、昔、北の海にいた武塔という名の天神が、南海の神のもとに夜這い(求婚)にでかけた。その途中で日暮れになったので、将来という名の兄弟に宿を乞うた。兄の蘇民将来は貧しく、弟の将来は裕福だったが、宿を貸してもてなしたのは兄のほうで、弟は拒絶した。 数年後、武塔神は8人の子を引き連れて再び蘇民将来の家を訪れ、「以前のもてなしの礼をしようと思うが、お前に子孫はあるか」とたずねた。蘇民将来が、「娘と妻がおります」と答えると、武塔神は、「茅の輪を腰の上に着けさせよ」といった。そこで、蘇民将来が教えのとおりにすると、その夜のうちに疫病が襲い、蘇民将来一家をのぞいて、すべての人々が死んでしまった。 このとき武塔神は、蘇民将来に「私は速須佐雄神(はやすさのおかみ)であると」と正体を明かし、もし疫病が襲ってきたら、いつであれ「蘇民将来の子孫」と唱えて腰に茅の輪をつければ、疫病から免れるであろうと教えたという。 ここに登場する武塔神牛頭天王なのだが、武塔神という呼称そのものについては、皆目わかっていない。日本古典文学大系風土記』(岩波書店)校注者の秋本吉郎氏は、武塔神については、密教の「武塔天神王(むとうてんじんおう)」によるという説と、武に勝れた神という意味の「タケタフカミ(武勝神)」からきたという説を挙げているが、ほかに朝鮮系の神との説もある。蘇民将来についても同様で、何に由来した神かは不明である。 ●蘇民将来信仰 そのルーツは不明だが、避疫神(ひえきしん)としての信仰は古く、平安時代にはすでに行われていた。その後も各地でスサノオ神とセットで祀られており、京都の八坂神社(祇園社)はもっとも有名である。「蘇民将来之子孫」と記したお守りは、いまでも各地の国津神(くにつかみ)系の神(おもにスサノオとの眷属神)を祀る神社で売られており、疫病を除(よ)け、災厄を祓い、福をもたらす神として人気が高い。家の門口に蘇民将来のお札を貼って災い除けとしている家は、今も少なくない。 本来は陰陽道とは無関係の神だったと思われるが、中世、陰陽師が中国の干支術(かんしじゅつ)上の神である天徳神と習合させて、暦(こよみ)にとりこんだものと思われる。 避疫のほか、船に乗るのを吉としているのは、蘇民将来牛頭天王に船を提供したからであり、剛猛、造舎、出行によいというのも、すべて牛頭天王縁起に由来している。 (P56、7) 【金神・七殺の異説・遊行・四季遊行・四季間日】より 金神とは、巨旦大王(こたんだいおう)の精魂(せいこん)である。その七魄(しちはく)が遊行(ゆぎょう)して、人間世界である南閻浮提(みなみえんぶだい)の衆生(しゅじょう)を殺戮(さつりく)する。ゆえにもっとも厭(いと)うべき方位である。 ●金神という神について (P60~) 牛頭天皇と戦い滅ぼされる巨旦大王は、『簠簋(ほき)内伝』では、鬼門(北東)と並んで民間で最も忌まれてきた金神(こんじん)と同一視される。牛頭天王と妻子とパトロン蘇民将来)が善玉(ベビーフェース)の代表なら、悪役(ヒール)の代表がこの金神という位置づけである。明治以降、一世を風靡した大本教の艮金神(うしとらのこんじん)も、この陰陽道の金神から発している。 金神の「金」は五行の金を神格化したもので、陰陽道が広めた“方位の神”であることは間違いないが、その直接的なルーツはさだかではない。平安中期に日本で編まれた『百忌暦文(ひゃっきりゃくぶん)』『金神決暦(こんじんけつりゃく)』などが、金神の方忌(かたい)み(その方位を避けること)の根拠となったらしいが、これらの書が残っていないため、内容は不明である。 ただ、いずれにせよ、五行の金から割り出されたことは確実といえる。金は、方位では西、季節では秋にあたり、夏=南=火に発展したものが、その勢いを失って小さく縮み、収束していく状態をつかさどる。そこで、運命的には衰退、殺伐、退縮などのマイナス色が強く、金本来の冷たく固い性質と、金=刃物、・武器という連想、また万物が活動を止める冬の直前の五行というところから、伝統的に「殺気(さっき)」の五行とも見なされてきたからである。 たとえば『漢書(かんじょ)』五行志では、五行の金はこう説明されている。 「金は西方である。万物は成熟しおわって、粛殺(しゅくさつ)の気を生ずる始めである。それゆえ、立秋になると、鷹や隼(はやぶさ)が小動物を襲い、秋分になると、霜がうっすらおりる。王事にあてはめるならば、軍事を起こし、旄(はたぼこ)を手に持ち、鉞( まさかり)を杖つき、: 兵卒たちに誓って武威(ぶい)をさかんにすることである」 このように、五行の金には「粛殺」や「戦争」など、闘争の意味合いが強い。加えて、中国では天に輝く金としての太白星(たいはくしょう)(金星=魔王天王の名を持つ大将軍)にも、同様の意味が与えられており、西洋のような愛と美の女神ヴィーナスの意味はない。陰陽道における金の理解もこれに準じており、太白星がいる方位は万事「凶」とされ、俗に「三年塞がり」といわれる大将軍の方位にもなっている。 こうした金にまつわる観念が猛悪の方位神となって神格化され、祟りとしての金神が生まれた。一説に道教神に由来するともいうが、確証はない。 ●金神七殺 金神の方位である「金神方(こんじんかた)」は、平安末期までには陰陽道の凶方(きょうほう)として定着していたらしく、仁安(にんあん)3年(1168)、陰陽頭(おんみょうのかみ)の賀茂在憲(かものありのり)や陰陽助(おんみょうのすけ)の安倍泰親(あべのやすちか)が、六条天皇に金神方を犯さないよう、方違(かたちが)いを進言している。その際、過去の例を引いているが、それによると、金神の方忌みは清原定俊(きよはらのさだとし)の上奏に従って白河(しらかわ)天皇が行っている。 次の鳥羽(とば)天皇、後白河(ごしらかわ)天皇のときには、陰陽博士や学者らが、「金神七殺(しちせつ)の説には根拠がなく、唐の陰陽書にも記載がない」といって反対し、とりやめになったが、二条天皇は採用したという。それが六条天皇の代になると、かつては反対者だった陰陽師も金神説に加担するようになっており、金神方を忌む俗習が、紆余曲折の末に平安末期の時点で確立され、陰陽師の有力者が後押ししていった様子がよくわかる(村山修一『日本陰陽道史創設』)。 その後、金神は律令制の崩壊にともなう陰陽寮の解体、陰陽道の通俗化とともに、陰陽師を介して民間に浸透していき、江戸時代には暦の迷信の中に確固たる地位を占めるまでになった。 金神方を犯すと、犯したものをはじめ、その眷属6人までを祟り殺し、もしその家に住む者の数が7人に満たない場合は、隣家の者も巻き添えにして7人を祟り殺すなどといったのである。これを「金神七殺」という。とくに、庚の年、辛の年、申の年、酉の年は、いずれも五行の金にあたるので、金神の祟りが激しいとされた。 この「金神七殺」は、もちろん根拠のない俗説だが、その背景には占術上の理論がある。7という数は、ある干(かん)から数えて7つ目にあたる干が、占術上、最凶の相性になるところからきている。 たとえば「甲(きのえ)」に対する「庚(かのえ)」がそれで、これを占術方面では「七殺」と呼んだ。この七殺をそのまま金神にあてはめ、7人まで祟り殺すとか、金神には魂が7つあるので、7人を殺すのだなどといった珍説生み出されたのである。『簠簋(ほき)内伝』には、冒頭の金神方のほかに、異説も記載されているが、異説はこれにとどまらない。 ●金神遊行 遊行というのは、金神が本来いるはずの場所から出て、別の方位に遊びに行くことをいう。 たとえば、甲と己(つちのと)年には、金神は南(午・未)から西(申・酉)にかけての方位にいる。しかし、、この年であっても、庚寅の日から5日間は北方に行っているので、午・未・申・酉の方位を用いても問題はないということである。また、四季ごとの遊行日も決まっており、たとえば春は乙卯(きのとう)の日から5日間は東に遊びにでかけているから、その年の金神方を用いてもさしつかえないというように解釈した。 ●間日のこと 間日(まび)とは、祟り神が祟りをおよぼさない日、その影響力が空白になる日のことをいう。 たとえば甲の年には、金神は午・未・申・酉の方向にいるため、これらの方位は避けるか方違いすることになるが、甲年のうち、春なら丑の日、夏なら申の日、秋なら未の日、冬なら酉の日は、たとえ金神の方位で事をなしても、金神の怒りにふれることはないという意味である。どの日が間日になるかは、神によって異なる。 (~P62) ............................................................ マ日… 「魔の18年拝命」というフレーズが目に入ってきた日に ............................................................ また 別のタイミングでもあり… 12、13と …二日間現場にまいりまして 手芸分野以外でもキーなどの重なる方(名前の漢字が同じで読みが異なる)と これまでの人生の詳細な部分を語り合うようなことも 13にあり… …13夜は ほんの僅かな間ですが 櫻井氏の著書を開きまして その(開かれた)ページなどを 14、15に たてました ゲンジツ(ミ) 「カルト的な体質」

2015年11月14日 14時44分

「凶会日」(暦注下段)

急性骨髄性白血病 (AML-M6) の血液の例-Wikipedia * 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 藤巻一保 訳・解説 【十二月凶会日の事】 娑婆と冥土の境に、広大な山河が広がっている。山は名づけて死出山(しのでやま)といい、河は名づけて三途川(さんずのかわ)という。 この山と河の間に、非常に高くて太い鉄樹が生えており、その下に24本の梢が生えている。すべて刀剣の林である。二十四稍(しょう/梢)の凶会(くえ)とは、この24本の刀剣の林の名前のことである。 かの鉄樹の花が開くとき、太歳神(たいさいじん)とその眷属たちが、それぞれこの刀剣の林に下向し、太歳会(たいさいえ)をお勤めになる。そのとき、天上天下の神々や三途八難の冥官冥衆(みょうかんみょうしゅ)も、太歳神にしたがってことごとくかの林に結集し、人間世界の一切の衆生のすべての幸福や、天佑や、祝言などを停止(ちょうじ)する。この法会のことを、名づけて凶会日(くえにち)というのである。はなはだ神秘の教えである。この凶会日を、しっかりと禁ずべきである。 「もしこの凶会日の法を用いない人があるなら、その人は必ず災禍に出会い、たちまち身を覆し(略)」 《二十四稍凶会日》 一年を支配する最も有力な神である太歳神は、60日を一区切りとして、前・後・対・位という4つの相をとりながら座所を変えていく。その太歳神の巡幸のうち、冥府の刀剣林において太歳会を行う日が定められており、それがここに出る凶会日だと、『簠簋(ほき)内伝』の著者はいう。列挙された悪日は、いずれも陰陽道の干支術から割り出されたもので、一部は今日でも四柱推命などの占術に用いられているが、さほど重要視されるものではない。 ただし、文字面のおどろおどろしさや、仏教とからめた縁起の不気味さから、古代ではそれなりに重視されたものだろう。この凶会日も具注暦に見える。 《二十四稍凶会日の意味》 三陰 この日、衣服を裁つことがあれば、患いつく。 陰錯 この日、死者を弔えば、死人に憑依される。 陽錯 この日は病人のもとをたずねてはならない。 陰道 この日は掃除をしてはいけない。 衝陽 この日は公事を勤めてはならない。 絶陰 この日は嫁取りに関することを行ってはならない。 絶陽 この日に結婚式を行ってはならない。 単陰 この日は新米を食べてはいけない。 単陽 この日は財宝を出してはならない。 陰位 この日は病人のいる家に行ってはいけない。 狐辰 この日は不浄のことを行ってはならない。 歳博 この日は仏神に祈ってはならない。 了戻 この日は解除(はらい/祓い)をおこなってはならない。 遂陳 この日は仏神を拝してはいけない。 行狼 この日は種蒔きをしてはならない。 陰陽交破 この日の嫁取りは凶。 陰陽衝撃 この日は人や家畜を叩いてはならない。 陰陽倶錯 この日の外出を深く忌む。 陰陽衝破 この日は使用人を使ってはならない。 陰錯了戻 この日は仏法に関することを行うことをはなはだ忌む。 陰錯絶陽 この日は建築に関することを忌む。 狐辰了戻 この日は仏法に関することを行うことをはなはだ忌む。 陽破陰衝 この日は生き物を殺傷してはならない。 陰錯狐辰 この日は訴訟を起こしてはならない。 (上の)「日取りの説は灌頂壇において特別に授与すべきもの」であり この法を求めるものに対しては、文章の各段にしたがって、新たに日を選定して与えなさい。決して粗雑に扱ってはならない。 《仏教との交渉》 「日取りの説は灌頂壇において特別に授与すべきもの」とある 灌頂壇とは、密教修行者が師から印可(認可のしるし)をもらう儀礼の場だから、『簠簋(ほき)内伝』の第三巻以降を著したのは、陰陽道を学んだ法師陰陽師である可能性が高い。太歳神にまつわる謎めいた物語も、仏教と陰陽道の接点で編み出され、口伝として語り伝えられたものだろう。 師から伝授を受けよといった表現は、以後もたびたび出てくる。中世において、陰陽道占術が、師資(師匠と弟子)相承(そうじょう)の秘伝として扱われていたことがわかる。 (このページには「地獄の針山」(『白話玉暦』)の絵が添えられている-記入者) 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』2000~(2004 3刷)藤巻一保 訳・解説 具注暦 日本の朝廷の陰陽寮が作成し頒布していた暦 吉凶判断のための様々な暦注が記載されていたことから、注が具さ(つぶさ)に記入されているということで、このように呼ばれる。巻暦の体裁で、漢字のみで記される。基本的には上段に日付・干支・納音・十二直などの基本的な項目・暦注が記載され、中段には二十四節気・七十二候などが、下段にはその他の暦注が記載され、半年分で1巻とされた(従って上下2巻で1年分となる)。 現存する最古の具注暦のうち、紙に書かれたものは正倉院文書の天平18年(746年)暦である。 奈良時代から具注暦に日記を書く習慣が生まれ、平安時代には余白部分が拡大されるようになる。藤原道長の日記が書き込まれた具注暦は『御堂関白記』と呼ばれ、国宝となっている。(このようなものを、当時は『暦記』と呼んだ) 鎌倉時代後期を過ぎると仮名暦の登場によって衰退するが、それでも公式の暦として重んじられた。江戸時代には、実用よりも公家や大名の「ステータスシンボル」として作られることが多くなった。 明治改暦による太陽暦への移行によって仮名暦ともども廃絶した。-wikipedia と いわれている… らしい * あれ? 【選り抜き記事】 どこかをクリックしたのかな さっき この病名も浮かんでいた…… 白血病は「血液のがん」ともいわれ、遺伝子変異をおこした造血細胞(白血病細胞)が骨髄で自律的に増殖して正常な造血を阻害し、多くは骨髄のみにとどまらず血液中にも白血病細胞があふれ出てくる血液疾患。白血病細胞が造血の場である骨髄を占拠するために造血が阻害されて正常な血液細胞が減るため感染症や貧血、出血症状などの症状が出やすくなり、あるいは骨髄から血液中にあふれ出た白血病細胞がさまざまな臓器に浸潤(侵入)して障害することもある(略)-Wikipedia * 凶会日(暦注下段)とは というタイトルで 2015-10-17 14:06:31 にエキサイトメールから携帯に送付した メモを こちらにも… Wikipedia-暦注下段(れきちゅうげだん) 暦の最下段に書かれていた日々の吉凶についての暦注である。単に下段ともいう。市販の暦では、下段ではなく行事の欄に記載しているものもある。 下段には迷信的な要素が多く、その弊害も大きいことから、日本では朝廷・政府などから3回も禁止され、また識者からの批判も多かった。しかし、なかなか改められず、現在まで庶民の間で根強く生き残っている。 (内) 凶会日 くえにち、くえび。暦には「くゑ日」と記載される。陰陽二気の調和がうまく行かず、万事に忌むべき日で、この日に吉事を行うことは凶とされている。市販の暦では「くしえ・くしゑ」となっていることもある。 古い暦注の一つで、具注暦には24種の名称で記載されている。宣明暦には1年に82回記載され、貞享暦で72回に整理された。 凶会日の撰日には諸説あるが、宣明暦時代は節切りで、貞享暦以降は月切り(旧暦)による。凶会日は、月毎に特定の干支を定める。下記のうち、括弧書きのものは貞享暦で廃止されたものである。 1月 辛卯・(庚戌)・甲寅 2月 己卯・乙卯・辛酉 3月 甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・壬申・戊申・庚辰・甲申・甲辰・丙申・甲辰・庚申・(癸亥) 4月 戊辰・(己巳)・辛未・癸未・乙未・己亥・丙午・丁未・(丁巳)・戊午・己未・癸亥 5月 丙午・(壬子)・戊午 6月 己巳・丙午・丁未・(癸丑)・丁巳・(戊午)・己未 7月 乙酉・甲辰・庚申 8月 己酉・乙卯・辛酉 9月 (丙寅)・甲戌・(戊寅)・(庚寅)・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・(壬寅)・庚戌・甲寅 10月 乙丑・己巳・丁丑・戊子・己丑・戊戌・己亥・辛丑・壬子・癸丑・丁巳・癸亥 11月 戊子・丙午・壬子 12月 戊子・丁未・壬子・(癸丑)・癸亥

2015年11月7日 12時2分

つくられた 「イメージ」

打ち込み作業が ままならないようですので 少しふりかえって 藤巻氏の文章から 部分的に抜粋させていただきます (…関わりのない世界のことで 愉快なことでもない というなか 障りにならない方向を みつけたいものです) 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』2000~(2004 3刷)藤巻一保 訳・解説 「祓いの祭祀と撫物」より (P274) 日々の生活に起こる異変や不吉 注意すべき季節のめぐりや建築・移転などに際し 災いを避け 穢れを祓い 招福安穏を祈るための祭祀を 陰陽師が 請け負った 「陰陽道は……穢れに対応し得る術をもっていた。……天皇の内裏だいり、国家祭祀の対象神社は常に清浄が要求され、穢れを扱うことは避けねばならなかったため、もっぱら貴族個人の祓儀礼陰陽師にゆだねられるところとなった」(「陰陽道祭祀の成立と展開」叢書1 岡田荘司) 招魂祭のような陰陽道祭祀は 死霊という穢れとからむ そうした祭祀は、穢れを寄せつけてはならない神祇祭祀では扱うことができない。そこで陰陽師の登場となるわけで、その結果、「祓は神道行事の中核でありながら、10世紀以降、……陰陽師の独占となり、祓儀礼は、貴族社会から陰陽師の専掌せんしょうのように理解されていった」(岡田氏)のである。 穢れは 本来“気枯けがれ”であり 気が枯れれば死が訪れる… そこで 陰陽師は穢れを祓って気をよみがえらせるための法を修した 祓うためには生死の秘密を握っていなければならず また 生死をつかさどる神と 密接な交流ができていなければならない 晴明が、それ以前には中心神格ではなかった冥府の主神・泰山府君の祭祀を重視し、子孫の代になって泰山府君安倍氏陰陽道主祭神になっていった理由も、そこにあった。 伝承世界では、晴明は死の世界にまつわる秘密をつかんでいる者として描かれた。それは岡田氏の指摘にもあるとおり、彼ら陰陽師が、「穢れに対応し得る術」をもっていると信じられていたからなのである。 「陰陽道の反閇」 P292のあたり (「三歩九跡法でも 陰陽道では 神懸りと禹歩(反閇)が結び付けられた様子は見えず 陰陽師も道士と同じく北斗を踏むが それにより“場を鎮める”“その場から鬼神・疫神などの凶神を排除する”といった趣が がぜん強い 反閇は 直接道教から出たものというより「もともと中国の遁甲式占とんこうちょくせんに従属する祭法の反閇局法に由来するもの」(小坂眞二)で そこに道教の種々の呪法が組み合わされて成立したのだという 遁甲式占は、古代中国王朝で採用されていた三種の占い盤を用いた占い(太一たいいつ、奇門遁甲きもんとんこう、六壬りくじん)の一つで、陰陽(いんよう)の変化に乗じて人目をくらましたり身を隠し、吉をとって凶を避ける術といわれ、日本では陰陽寮がつかさどった。反閇という陰陽道呪法が、占術に由来するという小坂氏の意見は、大いに傾聴に値する) (そこに つづいている) 具体的な次第を記した平安末の『小反閇作法』 ? これから歩を運ぶところの門に向かい、出行の事由を玉女神に申し上げる。 ? 五気を観じ、臨視目する。 「五気」は木火土金水の五行のことをいう 具体的には、身体内の五臓の五行神のイメージを呼び起こし、それを内観的に観じたものだろう。 「臨視目」は道教の養生を目的とした瞑想法のことと思われる たとえば、道教を代表する経典『真誥しんこう』に、「服日月芒法ふくにちげつぼうほう」といって日月の光芒こうぼうを服する瞑想法が記されている。 「心臓の中に、象かたちの大きさが銭ぐらいのものがあり、それは赤色であることを存思する。また日には九つの芒があり、それが心臓から上がって喉から出て、歯間に至り、そこで芒は、たちまちもどって胃の中にかえることを存思する。このようにすることしばらくの間、臨目して心にあらわれるを存えば、胃中が分明である」(石井昌子訳) 文中の「存思」「臨目」が「臨思目」であり そうした瞑想法には多種多様なバリエーションがある 陰陽師が行ったという「臨思目」が、養生を目的とした右の服日月芒法と同じものだったわけではないが、ここでは、修法におけるイメージ操作の一例として挙げておきたい。この例のように、陰陽師は?の段階で、なんらかのイメージを心中に呼び起こしたものと思われる。 ?勧請呪かんじょうじゅを誦じゅす。 ここで祭祀に必要な神々を、召喚(勧請)するわけである。どんな神々が呼ばれたかは『小反閇作法』には記されていないが、『家秘要抄かひようしょう』(安倍泰邦やすくに)中の「反閇口伝」に神々の名が列挙されており、龍樹菩薩、提婆だいば菩薩などの仏教の菩薩と並んで、伏羲ふっき、神農しんのう、玄女げんじょなどの中国の大神が勧請されている。陰陽道ならではの顔ぶれといっていいだろう。 ?呪文を唱える。 ?三歩九跡を行う。 ?呪文を唱える。 ?6歩あゆむ。 (と続いていて 「九字」とか そのあたりは 略 でよろしいのかどうか-記入者)

2015年10月31日 16時10分

「七十二星西嶽真人符」「赤痢病祭」など

画像?:御苑21 森の中の水場の穴 画像?:奇險天下第一山--西嶽華山 大紀元 * 安倍清明[簠簋内伝] •参考:三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(天文司郎安倍博士吉備后胤清明朝臣撰) 「正一醮宅儀」によれば「道士は五方の宅神(四季歳月日時刑殺・太歳太陰将軍・門丞戸尉・井竈伏龍 ・庭堂屋吏)などを座に招き、香茶酒を供え、次いで宅内の五虚六耗・蜚尸邪魅・時瘟疫炁などの災いを起すものたちを駆逐し、最後に五色の神龍に降下を願って鎮宅を頼み、家屋の安鎮を行った」 「七十二星西嶽真人符」:「中国の「太上秘法鎮宅霊符」に基ずく道教の霊符で、平安以前から日本に伝わっており、陰陽師らによって盛んに活用された東嶽泰山府君が冥府を司るので、その東嶽に対峙する西嶽崋山の神を現世の生活を司る宅神とみなして、賀茂光栄あたりが祭った(村山修一) この符の威力は凄まじいものとされ、陰陽不和の解除のような抽象的なものから、悪鬼除け、口舌除け、盗難除け、刀兵除けなどの実際的なもの、種々の怪異の前兆除けなど、七十二の功徳が数え上げられており、これを家に置けば、「家々清吉、戸々康寧、上真垂佑、災害不生、福寿増延、子孫栄顕、田蚕倍盛、六畜興生、掃除精怪、蕩滅妖気、霊符秘妙、永鎮門庭」とされている この七十二星西嶽真人符は、平安末までは、専ら賀茂家が用いたが、鎌倉時代に至ると安倍家や宿曜師も用いるようになった」 * 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 2000~(2004 3刷)藤巻一保 訳・解説 《第二部 陰陽道の呪法》目次 祓いの祭祀と撫物 P268 埋鎮呪法 P276 陰陽道の霊符 P281 反閇 P290 物忌 P299 身固 P301 式神 P306 ※この後半部では 祓いの祭祀と撫物 と 反閇 (リンクは 水のごとし該当頁) に よらせていただきまして… (物忌 身固 のほうに まいります前に) 反閇 の前の部分 陰陽道の霊符 あたりに戻ります※ 『安倍晴明占術大全 -簠簋内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 〈陰陽道の霊符〉 ●鎮宅と霊符 鎮めや呪詛などの呪法と組み合わせて多用されたものに 陰陽道の霊符がある P281~ 『古事談』のエピソードより 関白藤原師実ふじわらのもろざねが、大内裏を模して春日町に自邸をつくった。他の邸宅がしばしば火事などで焼亡したのに対し、この大邸宅のみは、鎌倉時代に至るまで焼けなかった。その理由は、「晴明の子の安倍吉平あべのよしひらが寝殿の長押なげしもしくは棟木むなぎに鎮宅霊符の呪符を置いたからだ」といわれていたが、後に邸宅の修理のために内部を調べたところ、確かに天井裏から、呪符や人形など、さまざまな呪物が見つかった。それらの中には、当時の陰陽師には伝承されていないものもあったので、元あった場所にそのまま戻したという。 師実邸を鎮宅した陰陽師は、『古事談』では安倍吉平となっているが、村山氏によると、永保元年(1801)11月、陰陽頭おんみょうのかみの賀茂道言が、師実の土御門第北対つちみかどだいきたのついの天井に「七十二星西嶽真人せいがくしんじんの符を置かしめ、二月二日には厭百鬼符えんひゃっきふを打たしめ」たという(『修験・陰陽道と社寺史料』)。 その「七十二星西嶽真人符」や「厭百鬼符」が陰陽道の霊符で エピソードのとおり 家の天井や壁 あるいは宅地などに貼るなり置くなりして気を整え 外部からの災厄の進入を防ぐ というもので それを「鎮宅」といい 鎮宅のための符を「鎮宅霊符」という 鎮宅の呪法は古く、道教成立以前から行われていたというが、道教にとりこまれてから、大いに発展した。(略) 道士が座に招くという神々は、『簠簋内伝ほきないでん』にも多数登場している。五方の宅神は東西南北中央の方位神、四季歳月日時刑殺は、四季と年月日時にかかわる暦注の凶悪神、太歳太陰将軍は太歳神たいさいじんなどの八将神はっしょうじん、門丞もんじょうと戸尉こいは門の左右を守る門神もんしん、井竈伏龍せいそうふくりゅうは井戸と竈かまどに伏す龍、庭堂屋吏ていどうおくりは庭や屋敷内の神をいう。この門丞戸尉・井竈伏龍・庭堂屋吏とは、要するに四季によって門・井戸・竈・庭と座所を移す土公神どこうじんのことで、『簠簋内伝』第三巻にも登場している。 中国では これらの神々に あらゆる障害神(五虚六耗・蜚尸邪魅・時瘟疫炁)の駆逐を祈り 最後に五行の神格化である「五色神龍」の降下を願って鎮宅したわけだが そうした中国産の星神・方位神・土地神などを陰陽道がとりこみ活用していたことがうかがえる 鎮宅霊符は その鎮宅の祭祀の際に用いられた 仁平にんぴょう3年(1153)11月、平信範たいらののぶのりが新造した神殿の宅鎮例では、陰陽道の賀茂憲栄のりよしが、まず母屋四方に札を打ち、次に「西嶽真人鎮瓶ちんびょう」と「七十二星鎮札櫃ちんさつびつ」を母屋の天井上の北面および塗籠ぬりごめ内に置いたというから、霊符を瓶や櫃に封じて安置したものらしい。 「七十二星鎮札櫃」とあるのは、「七十二星」の符を記した木の鎮め札を、櫃の中に納めたという意味だろう。また、「西嶽真人鎮瓶」は「西嶽真人」を瓶中に封じたものと思われる。 〈陰陽道の霊符〉 ●七十二星西嶽真人符 P284 この二人の公家邸の鎮宅に共通して登場する「七十二星西嶽真人符」は、中国の『太上秘法鎮宅霊符』にもとづく道教の霊符で、平安以前から日本に伝わっており、陰陽師らによってさかんに活用された。 西嶽は中国の五霊山のうち西嶽華山せいがくかざんのこと、真人はその霊山を管掌する仙人である。村山修一氏は、東嶽泰山府君が冥府をつかさどるので、その東嶽に対峙する西嶽華山の神を現世の生活をつかさどる宅神と見なして、賀茂光栄みつよしあたりが祭ったのではないかと推測している。 また、「七十二」という数については、?易の先天八卦せんてんはっかと荒天六十四卦を足した数、?鎮宅のための主祭神である土公神(堅牢地神)が、四季の七十二候(一候5日×72候=360日=1年)に変化するところからとった数、などの説がある。72は中国の代表的な神秘数の一種で、晋の道士・葛洪かつこう(284~364年)の『抱朴子』にすでに邪気を除ける「七十二精鎮符」が登場している。ほかにも、神仙の霊地を「七十二福地」といってみたり、泰山で大秘祭(封禅)を行った帝王を「封禅七十二家」と呼ぶなど、72にはさまざまな秘説がある。それがこの「七十二西嶽真人符」にも受けつがれ、さらにずっと後代の明の時代には地に災いをもたらす72の凶星(七十二地煞ちさつ)などの説もつくられた。 七十二星の符と西嶽真人符は、元来は別物のようだが、その用例から見て、日本では同時に用いられたものに違いない。この符の威力はすさまじいものとされ、陰陽不和いんようふわの解除はらいのような抽象的なものから、悪鬼除あっきよけ、口舌くぜつ除け、盗難除け、刀兵とうびょう除けなどの実際的なもの、種々の怪異の前兆除け(たとえば猪・猫・犬などが自分の子を食う怪、鶏が夜に鳴く怪などなど)など、72の功徳が数え上げられており、これを家に置けば、「家々清吉かかせいきつ、戸々康寧こここうねい、上真垂祐じょうしんすいゆう、災害不生さいがいふしょう、福寿増延ふくじゅぞうえん、子孫栄顕しそんえいけん、田蚕倍盛でんさんばいせい、六畜興生ろくちくこうしょう、掃除精怪そうじょせいかい、蕩滅妖気とうめつようき、霊符秘妙れいふひみょう、永鎮門庭えいちんもんてい」とされている。 この七十二星西嶽真人符は、平安末までは、もっぱら賀茂家が用いたが、鎌倉時代に至ると安倍家や宿曜師すくようじも用いるようになった。このほか、呪符は呑むものとしても用いられた。呪符を呑ませるというのは、元来は道教道教系の巫術ふじゅつ作法と思われるが、陰陽道でも行われており、今でも新興宗教団体の中にこれを行うところが散見される。 宮内庁書陵部しょりょうぶ所蔵の『陰陽道祭用物帳』に、「赤痢病祭せきりびょうさい」についての記述があり、そこに、「符懸祭後病者身之(符に懸けて祭り、後に病者これを身にす)」と出てくる。まず、病気退散のために呪符を懸けて祈祷祭祀し、次にその呪符を病者の身に帯びさせ、さらに呑ませたというのである(岡田荘司陰陽道における典拠の考察」叢書4)。 岡田氏によれば「疫神祭えきじんさいは予め都に入ってくる疫癘えきれいを除く予防の祭であったが、赤痢病祭など病気の諸祭は病人を対象に撫物の鏡を差し出して、病気退散を願う個人祈祷の祭典」だった。撫物による祓い、祈祷、そして病気鎮めのための符呪を行ったわけで、陰陽道呪術が動員されているのがわかる。 P285 〈陰陽道の霊符〉 ●鎮宅霊符神 P285 西嶽真人符に代わって 近世霊符の代表になったのが 北斗七星関連の霊符 (略) 鎮宅霊符神=北斗を主神とする霊符も 七十二符とか 符法七十二道といった形で 平安時代に盛行した「七十二星」との結びつきを誇示している これらの呪符は、近世、仏教(おもに天台・真言密教修験道)や神道のほうでもさかんに配布し、霊験れいげんを競いあった。というより、北斗信仰そのものは、密教日蓮宗が、おもな担い手だったといっていい。 もちろん、陰陽師のほうでも、鎮宅霊符その他のお札やお守りを扱って、全国各地に広めた。彼らは貢納金こうのうきんを上納して土御門家から免状(職札しょくさつ)を授かり、自らは「博士はかせ」などと称した声聞師しょうもんじ(唱門師)、散所さんじょなどとも呼ばれる民間呪術者で、暦こよみ売り、呪術・祈祷、祭祀、卜占ぼくせんなどをなりわいとした。その陰陽師の本尊として泰山府君のほかに祭られたのが、この妙見菩薩=鎮宅霊符神なのである。 当時の陰陽師の家職の中には この霊符のことが明記されている 『近世陰陽道の研究』に引かれた「御奉行御尋之節前々おぶぎょうおたずねのせつまえまえより書上控かきあげひかえ」(若杉家文書、1770年)には、認可された陰陽師の家職が列挙されている。そのうち、霊符関係のものには、 ・秘符 お守りや神符しんぷなどの一切に用いる秘符、 ・矢除守やよけまもり 一切の突発的な異変・難儀を免れるためのお守り、 ・十二神の札 十二支の神霊の符、 ・神馬しんめの札 紙に符を押して神馬の代わりとしたもの、 の4種がある。陰陽師が種々の霊符の類を配布していたことがわかる。 また、土御門家では、螢惑星の生まれ代わりの安倍仲麻呂から伝えられたとする「蛍火武威昌運丸けいかぶいしょううんがん御守り」を授与してきたが、「万民を救う」このお守りも、「尊帝真君そんていしんくん」すなわち北斗七星の霊に祈り、その神威によってお守りとして力が発揮されると謳われたのである。 ~P289『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 * …螢惑星? 「螢惑(けいこく):火星 (「螢」は本当は少し違う字です)」 -惑星の名、名(日本の方へ) 「少し違う字」… 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』では 「螢」の中の 下の「虫」のところが「火」です * DNAが担う何か ? -水のごとし イギリスの細菌学者J・A・アークライトは、赤痢菌の病原性株と、それから生じた非病原性株を比較観察したところ、病原性株のコロニーは、表面がなめらかな円いドーム状であるのに対して、非病原性株は、表面がざらざらした扁平の不定形であることを見つけた。これらは、そのコロニーの特徴からそれぞれ、「スムース型(S型)」と「ラフ型(R型)」と名づけられた。これはのちに、菌体株そのものをさす名前ともなった。アークライトは、細菌の病原性とコロニーの形態の違いは、代々受け継がれていく遺伝的な突然変異によって生じたものであると考えた。 アークライトは、R型菌は試験管のなかで培養するとよく増殖するが、生体内ではあまり増えないことから、S型とR型のどちらかがより増殖するのは、ダーウィンのいう、「環境による自然淘汰」によるものであろうと考えた。また彼は、赤痢菌は増殖するときの環境によって、それにもっとも適した形態を示すように変化すると結論づけた。

2015年10月28日 13時50分

反閇 ヘンバイ 跛行 ハコウ

安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 2000〜(2004 3刷) 藤巻一保 訳・解説 「禹歩と反閇」 P290〜 反閇(へんばい)は陰陽道の鎮めの呪法に欠かすことのできない呪術的作法の代表 反閇とは、地霊や邪気を祓い鎮め、その場の気を整えて清浄することを目的とした呪術儀礼全体をいうが、狭義には、その際に用いられる独特の歩行法(足さばき)のことも反閇といい、中国式には「禹歩(うほ)」と呼ぶことも少なくない。 禹歩の足さばきは『抱朴子ほうぼくし』に出てくる 呪者はまず両足をそろえて成立し 次に右足が前 左足が後ろの形をとる 次に左足を右足の前に出し 右足を前に出し 両足をそろえる 以上を禹歩の第一歩とする 次に こんどは右足から前に出し 左足を前にし 両足をそろえる 以上を禹歩の第二歩とする 第三歩は第一歩と同じ足さばきを行う 足を3回運んで一歩とするので、合計9回の足さばきとなる。これを道教では「三歩九跡法(さんぽきゅうせきほう)」と呼んでいる。なぜ九跡を踏むかというと、北斗七星の数を踏むため(踏斗とうと)と、道教では説明している。北斗七星そのものは七星だが、道教陰陽道では、弼星と輔星という二つの星を加えて九星とする。そこで、道教を受容した日本の陰陽道では、この三歩九跡を「九星反閇」と呼んでいる。 禹歩のルーツは明らかではないが、その歩みが足の不自由な者の跛行はこう(足を引きずる歩き方)に似ていることから、伝説の聖王・禹王の跛行をルーツとする説がある。それによると、禹王は治水事業などを精力的に行って山河を徒渉(としょう)した。そのために足を病んで跛行するようになった。その姿を禹王の巫術を受け継いだ後代の巫覡ふげき(巫は巫女みこ、覡は男巫だんぷ)が模倣したというのである。 星野紘(ひろし)氏の『歌垣と反閇の民族誌』に、藤野岩友氏が台湾の劉枝萬(りゅうしまん)氏から聞いたという話が出てくる。それによると、台湾の道士は今でも「殆ど片脚をひきずって進む」という。台湾では禹歩といわず「歩罡踏斗ほこうとうと」というが、罡は「天罡てんこう」という北斗七星の異名のことなので、歩罡踏斗は、結局、北斗の形に歩むという意味になる。つまり、禹歩を、理屈では道教の後づけ理論にもとづいて北斗の形を踏む呪的歩行法としているにもかかわらず、実際には、星とは無関係な跛行神話が伝承されているわけである。 このように、禹歩は、そのルーツも原初的な意味も不明というしかないのだが、道教では、禹王および北斗七星に結びつけて、自家の秘宝とした。たとえば、道教教典の一つである『洞神八帝元変法どうしんはちていげんぺいほう』では、禹歩が以下のように説明されている。 「禹歩というのは、夏(か)王朝の禹王が行った術で、鬼神(きじん)を召し出して使役するための行歩法である。これをもって万術の根源とする。昔、大禹(だいう)が治水を行おうとしたが、川の深さを測ることができなかった。そこで海若(かいじゃく)という神や地の神たちを召し出して治水土木の方針を決した。その際、常に活用したのが、この歩行法である」 これによると、禹歩は巫術の一種である使鬼神法(しきじんほう)であるとされている。中国の巫覡が大禹に習って禹歩を用いて神懸りするというのは、こうした伝説からきたものとも考えられる。 禹歩のルーツについては、『歴世真仙體道通鑑れいせいしんせいたいどうつがん』に、「(諸神が)禹王に玉書(ぎょくしょ)、霊宝五符(れいほうごふ)、治水の真文(しんぶん)、および罡(こう)を歩んで鬼神を弾劾(だんがい)したり召喚(しょうかん)する法を授けた」とある。 やはり鬼神使役と関係づけられており、その際の呪的歩行が「歩罡」、すなわち北斗を踏むことだと説明されている。 「陰陽道の反閇」 P292 同じ「三歩九跡法でも 陰陽道では 神懸りと禹歩(反閇)が結び付けられた様子は見えず 陰陽師も道士と同じく北斗を踏むが それにより “場を鎮める”“その場から鬼神・疫神などの凶神を排除する” といった趣が がぜん強い 反閇は 直接道教から出たものというより「もともと中国の遁甲式占とんこうちょくせんに従属する祭法の反閇局法に由来するもの」(小坂眞二)で そこに道教の種々の呪法が組み合わされて成立したのだという 遁甲式占は、古代中国王朝で採用されていた三種の占い盤を用いた占い(太一たいいつ、奇門遁甲きもんとんこう、六壬りくじん)の一つで、陰陽(いんよう)の変化に乗じて人目をくらましたり身を隠し、吉をとって凶を避ける術といわれ、日本では陰陽寮がつかさどった。反閇という陰陽道呪法が、占術に由来するという小坂氏の意見は、大いに傾聴に値する。 ************************************************** ほか 「具体的な次第を記した平安末の『小反閇作法』」など いろいろありますようで… 「小反閇作法」 1 これから歩を運ぶところの門に向かい、出行の事由を玉女神に申し上げる。 2 五気を観じ、臨視目する。 五気は木火土金水の五行のことをいい 臨視目は道教の養生を目的とした瞑想法のことと思われ 瞑想法には多種多様なバリエーションがある らしい 「修法におけるイメージ操作」という藤巻氏によるフレーズ… 洗いなおしたほうがいいと思われるものは そうしたほうがよろしいのかもしれませんので みなおして たどる きざむ というような作業を また するのではないかと ************************************************** 跛行… 跛 - ウィクショナリー日本語版 - Wiktionary 「足」+「皮」 「皮」は頭のついた獣のかわ+「又(=手)」で動物の皮を引きはがす様、又は、斜めに身にまとう様で「斜め」になるものを意味。足を引きずり体を斜めにすること。 ・片方の足が不便で うまく歩けないこと ・跛行(ハコウ) びっこを引いて歩くこと。釣り合いの取れない状態で進むこと。 巫(ふ、かんなぎ)は 巫覡(ふげき)とも言う 神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。女性は「巫」、男性の場合は「覡」、「祝」と云った。「神和(かんな)ぎ」の意。-Wikipediaより 奇門遁甲 きもんとんこう 中国の占術。「式占」の一種である。 Wikipedia 式占 しきせん 占いの一種である。特徴は占うにあたって計算を行うときに、式盤(しきばん)あるいは栻(ちょく)と呼ばれる簡易な器具を使用するところにある。 wikipedia * 反閇 返閉 反陪 へんばい

2015年10月18日 13時15分

みのしろ はらい など

『ほき内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』より 種々の撫物 268~ 「祓(はら)い」とは人の見に付着した穢(けが)れや災厄を除去するために行う法で、「解除(はらい)」とも書く。穢れを解き除くのである。種々の方法があるが、最もポピュラーなのは、「撫物(なでもの)」と呼ばれる穢れ祓い用の人形ひとがた(偶人ともいう)を用いる方法だ。 わが身の穢れを祓う必要のある者は、まず陰陽師が謹製(きんせい)した撫物を受け取り、それで自分の身体を撫でる。撫物には、穢れを付着させる働きがあると見なされているので、これで身の穢れが人形に移る。こうして穢れを付着させた撫物は、ふたたび陰陽師の元に送り返される。 依頼主から撫物を受け取った陰陽師は、その人形を祭壇(さいだん)に据えて祈祷(きとう)を行い、穢れを祓う。祓い終わると、撫物を再び依頼主のもとに戻す。依頼主はその撫物を川に流すなり、火で焼き捨てる。これで穢れが祓われたと見なされるのである。 撫物を用いた祓いの歴史は古く、神道のほうで6月と12月の晦日みそか)に行う国家的祓い行事である「大祓い」でも、この撫物が用いられた。年に二度行われるので、この大祓いのことを「二季御贖(にきあがもの)ともいう。御贖とは、穢れを移す人形の意味である。 祭儀では、中臣氏が御祓麻(おおはらいぬさ)を奉り、漢人を祖先にもつ渡来氏族である東西漢部(とうざいのあやべ)氏が祓い刀を奉って、祓詞(はらいことば)を「漢語(あやのことば)」で読む。ついで、中臣氏が神道の祓詞(大祓の祝詞のりと)を奏上し、卜部(うらべ)氏が穢れの解除を行ったという。つまり、神祇官に属する中臣氏と卜部氏が穢れの解除を行ったという。つまり、神祇官に属する中臣氏と卜部氏は神道式で祓いを行い、漢部氏は、大陸流の陰陽道式で祓いの呪法を行ったわけで、大祓というと純神道的な祭儀と考えられそうだが、この祭には、大陸の陰陽道的・道教的要素が濃厚に混入していたわけである。 漢部氏が読んだ祓詞は、訳すとこうなる。 「謹しんで皇天上帝(こうてんじょうてい)、三極大君(さんきょくたいくん)、日月星辰(にちげつせいしん)、八方諸神(はっぽうしょしん)、司命司籍(しめいしせき)、左東王父(さとうおうふ)、右西王母(うせいおうぼ)、五方五帝、四時四気(しいじしき)を(勧かん)請しょうす。禄人(ろくじん)を捧げもって禍災(かさい)を除くことを請う、金刀(きんとう)を捧げもって帝祚(ていそ)の延びんことを請う……(以下略)」 ここに出てくる神々は、いずれも道教陰陽道の諸神で、筆頭の皇天上帝(昊天上帝)は、桓武天皇がまだ平安京を開く以前の延暦4年(785)、造営中の長岡京の南郊で行った天神祭祀の際の祭神でもあった。 こうした大陸の神々を大祓いの場に勧請し、災厄の除去と天皇の治世が永遠に続くことを祈るのだが、ここに出てくる「禄人」が、大陸伝来の撫物にあたる。禄人は、身分や祭祀によって種類の別があり、天皇中宮(ちゅうぐう)、東宮(とうぐう)は金人像・銀人像が用いられ、ほかに身分等に応じて鉄人増、木人像も使われた。木人像は、藤原京平城京から大量に出土している。 金人像・銀人像については、『延喜木工寮式』に、長さ1尺、広さ(幅)1寸で、鉄4両、金箔、銀箔各3枚とある。鉄で人形をつくり、その上に金箔を3枚貼ったものが金人像、銀箔3枚を貼ったものが銀人像で、箔の装いをこらさないものが、鉄人像、木製のものが木人像ということになる。 『貞観儀式(じょうがんぎしき)』を引いて、村山修一氏が「こう解説されている。 「鉄偶人三十六枚(金銀二種の箔の粧よそおいをしたものおのおの十六枚と箔のないもの四枚)、木偶人二十四枚、御輿形(みこしがた)四具、金装横刀(こがねづくりのたち)二口、荒世和世(あらよにごよ)の服、坩杯(つぼさかずき)などが用意されるが、これらの料物(りょうもつ)はすべて穢れを移し、投棄し去る身の代(しろ)の役をなす。また麻二斤、小竹(しぬ)二十株は前者が身体を撫でて穢れを移す撫物、後者が身長などを計り、その長さに小竹を折って身の代とするもので、祓には御麻おおぬさ・節折よおり(小竹)と贖(あがもの)の三通りが含まれる」(『日本陰陽道史総説』) このように、撫物は金銀などの人形だけではなく、衣服、幣(ぬさ)その他、種々のものが用いられた。小竹によって身長などを計り、その長さに合わせて折って身の代としたというのも興味深い。完全な自分の分身をつくり、そこにまるごと穢れを移して火や水に投棄したのである。 この二季御贖は、親王以下の百官が朱雀門に集まって行う国家の公式行事で、神祇官と東西漢部氏が執行し、陰陽師は関与していない。それに対し、より個人的な月ごとの祓い行事はもっぱら陰陽師が行った。この祓いを「七瀬祓(ななせのはらい)」という。 ~270 ************************************************** kotobankより 【七瀬の祓】 平安時代以降、朝廷で毎月または臨時に行った公事(くじ)の一。吉日を選んで、天皇の災禍を負わせた人形(ひとがた)を七人の勅使の手で加茂七瀬などの七つの瀬に持ってゆき、祓をして流した。鎌倉幕府もこれに準じて行った。七瀬の御禊(みそぎ)。 【七瀬の祓】 平安中期以降,宮中で毎月または臨時に行われた祓。天皇の災厄を移した人形(ひとがた)を七人の勅使が七か所の水辺(大七瀬・霊所七瀬・加茂七瀬などの組み合わせがある)に流すもの。一般貴族もこれに倣(なら)い,また鎌倉幕府も鎌倉に七瀬を選定した。七瀬の禊(みそぎ)。 ************************************************** 安倍清明[簠簋内伝] より •参考:三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(天文司郎安倍博士吉備后胤清明朝臣撰) 「七瀬祓」は古代から中世にかけての代表的な穢れ祓いの祭祀であり、毎月吉日を選んで陰陽師が人形を奉る、人形は折櫃に入れられ、蓋がされており、蓋の上に名などの上書きがしてあり、この人形に息を吹きかけ、自分の身体を撫でるこの穢れが付着した人形を、河原に運び、陰陽師が然るべき祭りを行ったうえで川に流す七瀬とは、平安京を流れる加茂川沿いの七つの祓いの霊所のことで、当初は川合・一条・土御門・近衛・中御門・大炊御門・二条末の洛中だったが、後に洛外にのび、さらには摂津・山城・近江という都を囲む諸国にまで範囲が拡大した人形以外に、その人が身につけた衣服や鏡などが撫物として用いられた 「天曺地府祭」は安倍家が独占し、撫物を用いた穢れ祓いが行われたこれは、天皇即位の際に京都梅小路の土御門邸内で行われた秘術で、新たに即位した天皇なり将軍を、天地の主だった神々、北帝大王・五道冥官・泰山府君・司命司録・南斗星官・北斗星官などに引き合わせ、その名を「黒簿」から削って生者の名簿に移し、福寿を増してあらゆる災いを取除き、その治世の永続をもたらしてくれるよう、天曺地府の神々に祈った 「六字河臨法」とは、七瀬祓が大規模になった祭祀で河臨祭と云い、それが仏教に取り込まれ大法となったものであり、十一世紀に編み出されたとされる天台宗の秘法である 「荒神祭」とは、人の災難を祓うために行う祭祀であり、かたしろ(人形)を陰陽師が祭祀・祈念し、終了後、川に流す 「招魂祭」とは、離散しかけた病者の魂を招き、「体魂安穏」とすると共に、死者の成仏と冥福を祈るための祭祀である 「和合祭」とは、夫婦円満を求める祭祀であり「解返呪詛祭」とは、人形の撫物で行う呪詛返しである。 ************************************************** 『ほき内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』より 七瀬祓 天曺地府祭てんちゅうちふさい (項目後半より) (七瀬祓が大規模になった祭祀に河臨祭があり 仏教にもとりこまれて六字河臨法という大法になっている) 六字河臨法 11世紀に編み出されたとされる天台宗の秘法で 呪詛・反逆・病事・産婦のために行うという(『阿娑縛抄あさばしょう』) 川に浮かべた船中に密教の大壇(だいだん)をしつらえ、修法を行って人形を川に流す。その次第を、天台寺門宗の羽田守快氏がこう解説している。 「(船を)岸から人が引っぱって川上に向かい、瀬に逢うごとに修法がなされ、七瀬をもって結願(けちがん)するという。……(船中では)神道の大祓さながらの穢れ祓いの呪法が行われるのである。茅(ち)の輪(わ)が設置され、鉄、木肌、藁でできた人形7組が用意される。施主は瀬に逢うごとにそれらを身体になすりつけ、息を吹きかけ、供物とともに河へ流す。そして中臣祓(なかとみのはらい)が詠まれる。法曼流(ほうまんりゅう)の諸尊法集『行林抄』では、これはスサノオ尊の天津罪を祓ったものだといわれる。茅の輪、大祓、スサノオ尊とはすべて、八坂神社の祭神・牛頭天王(ごずてんのう)に関するものである」(「台密たいみつの大秘法」『天台宗の本』所収) ごらんのとおり、この法は大祓や七瀬祓の密教版といっていい。本尊には六字明王(ろくじみょうおう)を用いる(ほかの説もある)が、この明王が結んでいる手印が「陰陽反閇おんようへんばいの印いん」だというところからも、陰陽道の影響の大きさがうかがえる。 また、茅の輪は疫病などを除けるために人がくぐる茅かや製の輪で、一部の神社では今でもこの茅の輪くぐりを行っている。 (スサノオ牛頭天王にまつわる避疫ひえきの呪法である) 271、2 『安倍晴明占術大全 -簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 2000〜(2004 3刷) 藤巻一保 訳・解説 ************************************************** 茅の輪は一度くぐらせていただいたかな …何かの効能などは まだかな 昨日 この頁にある いくつもの「語」「要素」が…日常会話の中に登場しまして^^ もう少し記入してみようかとも思っております ************************************************** Wikipediaより 九字 道家により呪力を持つとされた9つの漢字 朱雀・玄武・白虎・勾陣(陳)・帝久(帝公、帝正、帝台、帝后、帝禹)・文王・三台・玉女・青龍読みはすざく・げんぶ・びゃっこ・こうちん・ていきゅう・ぶんおう・さんたい・ぎょくにょ・せいりゅう。初出は鎌倉時代の反閇について書かれた文献。此の文献では帝の後の一文字が読めない為、あらゆる仮説が出されている。土御門家が用いる。 ************************************************** kotobankより 【反閇/返閉/反陪】へんばい ? 「禹歩(うほ)1」に同じ。 ? ?からきたもので、日本芸能の特殊な足の踏み方。「翁(おきな)」「三番叟(さんばそう)」の呪術的な足づかいや「道成寺」の乱拍子など。 【反閇】 陰陽師が邪気を払い除くため呪文を唱え大地を踏みしめ,千鳥足に歩む呪法。三足,五足,九足などさまざまの種類がある。平安朝以来天皇・将軍など貴族の外出にあたって多く行われ,悪い方角を踏み破る意味があるという。土御門(安倍)家の秘法では反閇のとき燃灯し,水,米,大豆,ゴマ,アワ,麦,酒,生牛乳などを用意して散供(さんぐ)を行う。平安朝,陰陽道の進出につれ,日本古来の鎮魂の作法が反閇と習合し,神楽が芸能化する中世にはそれに伴って反閇も《翁》《三番叟》《道成寺》など猿楽にとりいれられ,乱拍子(らんびようし)などとも呼び,祝福的意味をもつようになった。 【身固】みがため 陰陽道で一身の安全を祈って行う呪術作法。平安期以来,天皇が身固をする場合,御衣を陰陽師に与え,これに呪術をほどこす。《宇治拾遺物語》には安倍晴明が少将某を身固するのに,この人物を抱き呪文をとなえ加持した話を載せている。これは密教でいう護持に相当し,一般には撫物(なでもの)と称し,陰陽師の用いる人形を,依頼する人がなでまわしてこれを川に流す呪法も,広い意味からは身固の作法の一部とみなしうる。一説に身固は反閇(へんばい)の略法ともいわれ,反閇は六甲術とも称し,その作法の陰陽道の宗家である賀茂・安倍両氏の習伝するところで,大地を踏む所作(禹歩)が含まれる。 ************************************************** …そちらのほうにも oioi と思われます

2015年10月17日 12時26分

「積もり積もって閏月」

余計なお世話かもしれませんが…… 何かをどうこうする道具として あるいは それらに忠実に暮らす… 情熱を注いで… 好んで 憧れて 等々で 馴染んで 扱ってこられた方々…「がんじがらめ」の (支配する される)毎日を楽しまれてこられた方々 に おかれまして 然るべき それなり の あれで 暦や方位 干支 緒名称などの「正しい」…正確な (微)調整 修正はお済みなのでしょうか * 「すでに読者もお感じのことと思うが、とにかく悪日が多い。ここまで悪日を並べられると、もうどうでもよいという気分になるに違いない。もし、陰陽師のいうとおり、日や方位の吉凶を忠実に守ろうとしたら、まともな生活は不可能になる。 平安時代の貴族が、暦の吉凶にがんじがらめにされて、やたら物忌や方違(かたたが)いなどに明け暮れたのは、彼らが下からの収奪で暮らせる優雅な身分だったからで、実際に額に汗して働く者は、このような禁忌など守れるわけもない。そこで、江戸時代までには、多くの悪日説が捨て去られた」 (【十三箇の悪日】P238) 『安倍晴明占術大全 -簠簋内伝金烏玉兎集-現代語訳総解説』 2000~(2004 3刷) 藤巻一保 訳・解説 【はじめに】より (呪術のスケールということでいえば 小角や空海の派手な伝説に比べると) 「晴明の呪術はかなり小ぶりだ」 折にふれて、おまじないや未来予知などの力をチラチラと発揮して見せるといった程度で、活動の場も、もっぱら内裏周辺。 「いかにも“箱庭”的」 にもかかわらず、晴明は、中世以後、今日に至るまで、息の長い人気を誇ってきた。その最大の秘密は「暦」にある。晴明の呪術の背景にあるのは、まさにこの暦なのだ。 P2 「中世以降の晴明伝説は そのどれもが晴明の秘伝書といわれる『簠簋(ほき)内伝』を中核に展開されてきた」 P3 【あとがき】より 本書の編集の最終段階で、不思議なことに、5回も6回も同じ場所のデータが消え、真っ青になったと聞かされた。「三箇の悪日」と「九坎日(くかんにち)」、それに「小空亡」の項目で、最初から入力し直しても、いざ保存という時点で、そこだけが不思議と消えてしまう。もちろん原因はあるのだろうが、その原因がつかめないまま同じことが何度も続くと、しまいには悪日の(…略)。 【三箇の悪日】より 「唐の陰陽家の桑道茂(そうどうも)によると、滅門と大禍は歳月に現れた北斗七星のことで、陰陽の絶滅する地のことだという」 P111 三箇の悪日(大禍・狼藉・滅門)が、北斗七星のどの星を指したのかは不明だが、いずれにせよ、『簠簋内伝』が記す忌日は、実在の北斗の動きから導きだされた暦注ではない。 『簠簋内伝』の日取りは略式であり、中国ではより詳細な配当が行われていた。(略)このように、日取りに関する説は、陰陽家によって種々雑多で、それが師匠から弟子に伝えられていく間に秘伝化し、本来の姿がわからなくなることも少なくなかった。ただし、近世においては、生まれ年やその時の天干(てんかん)による区別は行わず、『簠簋内伝』に記された説のように、各月の三箇の悪日が固定化されたのである。 P112 大禍日・狼藉日・滅門日の三箇の日取りは、貧窮・飢渇・障碍の三神や、貪欲・瞋に・愚痴の三毒の出でくる日である。ゆえに万事に用いない。その理由は、八万四千の煩悩は三毒をもって根本とし、百億恒沙の荒神(こうじん)は右の三神をもって上首となすからである。ゆえに仏教ではとりわけこの三箇の悪日を忌むのである。 P110 【九坎日・血忌日】より 九坎…天の二十八宿中にある星座で9つの星からなるため この名 「泉源や入り江に流れが溢れるのを調節し、水をうまく導く」ための溝渠(こうきょ)をつかさどる-『和漢三才図会』 (この星は明るく輝くと凶 暗いと吉とされる) 九坎は北方をつかさどり、水源や水流を調節する神なので、『簠簋内伝』では入浴や洗濯などの水を汚す行為を忌むように教えているが、より古い時代には、「百事に凶」とされ、天皇の代初めが九坎日にあたると、恒例の四方拝も中止されたというくらい、重い忌みがあった。しかし、この『簠簋内伝』が書かれた中世のころには洗濯や垢すりを忌む程度の軽い禁忌に変わっている。 P104、5 「血忌日には、もっぱら人馬の身から血を採らないことを旨とする。また、九坎日は総じて我が身の垢を落とさない。 ゆえに、九坎日には洗濯は凶、血忌日には鍼灸が凶である」 P104 【小空亡日】より 「一日の昼、四日の夜、十一日の夜、十五日の昼、十八日の夜、二十二日の昼、二十五日の夜、二十九日の昼」 P212 【同じく空亡の事】より 空亡とは何か…六十干支表のうち 最下段の二つの支のことを 空亡といい 十干(じっかん)は10種だが 十二支は12種で2つ多いため 干と支を順に組み合わせていくと 10日(旬日/じゅんじつ)ごとに支が2つ余ることになる…それが 2つの支 干支は、天の気である干と、地の気である支が一体となって、はじめて働きを起こす。しかし、組み合う相手のない空亡にあたると、天の気が得られないわけだから、その地支は“空しく亡ぶ”というのが空亡の考え方なのである。 算命術でいう天中殺が この空亡にあたり もとになる干支があり 次にそれと対照しながら調べなければならない干支があるとき はじめて空亡は意味をもってくる(つまり 他の吉日・悪日のように単純に素人判断ができるものではなく 他の干支との関係で吉にも凶にもなる…高度にプロ的な判断が要求されてくる) P215 甲子(きのえね)より旬日、酉(とり)に至る。十干足りて戌(いぬ)・亥(い)に干の配当なし。ゆえに空亡時とする。 甲戌より旬日、未(ひつじ)に至る。十干足りて申(さる)・酉に干の配当なし。ゆえに空亡時とする。 甲申より旬日、巳(み)に至る。十干足りて午(うま)未に干の配当なし。ゆえに空亡時とする。 甲午より旬日、卯(う)に至る。十干足りて辰(たつ)・巳に干の配当なし。ゆえに空亡時とする。 甲辰より旬日、丑(うし)に至る。十干足りて寅(とら)・卯に干の配当なし。ゆえに空亡時とする。 甲寅より旬日、亥に至る。十干足りて子・丑に干の配当なし。ゆえに空亡時とする。 P214 【没日・滅日】 没日(もつにち)については、この日は日月が相違して、時候が隠没(おんもつ)するので没日というと、歴注にある。七十日で一巡して、七十一日目に回帰する。 滅日(めつにち)については、この日は日月が相違して、時候が転滅するので滅日というと、歴注にある。 「閏月関連の歴注か」 没日と滅日については、『簠簋内伝』の別本に、没日は「子(ね)から始まる」、滅日は「未(ひつじ)から始まる」とある。してみると、子の日から70日目が没日で、未の日から63日目が滅日になるというようにも読めるが、それとは別に、「没日は太陽が月と合わさり、日光を失う。ゆえに大悪日とする。……一年のうち、この日は用いるべからず。万事に凶」といったことも書かれており、これは日食のようにも思われる。 また『万暦大成(ばんれきたいせい)』には、「これらの日は、天と日月の巡りが遅くなったり早くなったりすることで生じてくる悪日である。すべてに忌みはばかるべき日である。この両日が積もり積もって閏月となる。口伝(くでん)」とあり、こちらは、造暦事、1年の長さの調節に際して設けられた日のようにも思われる。 日取りについては「秘伝」としてある写本もあり、どうやってこの日を定めたのか、何に由来する悪日なのかは不明。 P125 【四季の悪日】より 春は甲子日と乙(きのと)亥を八龍日(はちりゅうにち)という。 夏は丙(ひのえ)子と丁(ひのと)亥日を七鳥日(しちちょうにち)という。 秋は庚(かのえ)子と辛(かのと)亥を九虎日(くこにち)という。 冬は壬(みずのえ)子と癸(みずのと)亥を六蛇日(ろくだにち)という。 右に明らかにした四季の悪日とは、『算経(さんぎょう)』が述べているところの八難、七陽、九厄、六害のことである。 P129 (略)さて、問題は、この八龍・七鳥・九虎・六蛇がなぜ「悪日」かという点だが、これが明らかでない。 『暦林問答集』では、「子(ね)は十二支の首(はじめ)、亥(い)は十二支の終わり」だからだと、わかったようなわからないような説明をしているが、これではよく意味が通じない。春夏秋冬をつかさどる十干が、陰気の極まった子と亥の地気に出会うから悪日としたものだろうか。 P130 【五掟時の事】より 五掟時(ごじょうじ)の説は、五宝日(ごほうじにち)に準じて考えるとよい。撰日(せんじつ)に保(ほう)・儀・専・制・伐(ばつ)の五宝があるように、撰時には立・命・罰・刑・徳の五掟があるのである。相剋(そうこく)と相生(そうしょう)によって、この五掟が定まる。師の教えによって理解せよ。 P173 (略) ・立=専 ・命=保 ・罰=制 ・刑=伐 ・徳=儀 (のように対応するが 吉凶がひっくりかえっているものもある) ここで五掟(五種のルール)といっているのは、ある五行が生まれるとき(立)、成長・発展するとき(命)、衰え始めるとき(罰)、滅びるとき(刑)、再生のサイクルに入るとき(徳)のことである。 P174 「十二支による時間の読み方」 旧式の時刻の定め方はかなり複雑で、今とは大いに異なっている。最も厄介なのは、今日の定時法のように、1時間が60分と定まっていたわけではないという点である。定時法が採用される以前は、明け六つと暮れ六つを昼夜の境とし、それぞれ6等分したもののトータルが1日とされた。そのため、早く夜が明ける夏と、夜明けの遅い冬では、明け六つと暮れ六つの長さが著しく異なっていた。つまり1時間はどこまでいっても60分といった今日の定時法的な観念の通用しない、生活感覚に密着した不定時法の時間が用いられていたのである。 ただし、春分秋分のは昼夜の長さが等しくなる。そこで、この春分秋分を基準に昼夜を6等分すると、等しい長さの12等分の時間ができる。古文書の翻訳や時代小説などでは、これを仮に今の時間にあてはめているのである。 P174、5 「十二支法による時刻」 「時」は 今日の時間でいう2時間の幅を意味し 「刻」というのは その真ん中にあたる時点(これを正刻という)のことをいい 著名な丑時の呪詛も「丑の時参り」とえば午前1時から2時59分までの間の意味になり 「丑の刻参り」といえば午前2時ジャストのことで まるで意味が異なる(この場合は正しい用法は丑の時参り) 「江戸時代の庶民は不定時法を用いていたが 旧陰陽寮の管轄である暦法天文家などは一貫して定時法を用いており 一昼夜を百刻に分けて暦(こよみ)をつくっていた」 江戸研究家の林美一氏 この方法によれば、十二支法の一時(いっとき)=2時間は8刻と3分の1 1時間は4刻と6分の1であり 1刻は14.5分ということになる P176 『安倍晴明占術大全』 * この書を開いているときに (どなたかが残された) 挟んであった「資料確認票」が パラパラと舞い落ちた…4枚 連なって (紙の中心線のあたりが僅かにくっついたまま) 上から 『祇園信仰事典』 『安倍晴明占術大全』 『七田式「超右脳」スピード記憶術』 『寝る前1分記憶術』 (票は 8.16 17:11~13 作成だったようす)

2015年9月17日 14時41分

「左に東王父、右に西王母

(銅)鐸から(銅)鏡などへ という流れがあったのでしょうか 映るものをみつめたり 鏡面のみならず 何かを磨く というような使い方もなされ そんな流れの後 呪術を施すための道具にもなり そして現代での 鏡は・・ どのあたりから・・ 「ガ」が どうなったかは 存じません 「大祓」における西王母信仰 というあたりでしょうか このようなわかりやすいものがあるのね ということで メモします ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『古神道神道の謎を解く』(1993) ≪大祓に見る 陰陽道の影≫(村山修一)より 「中国陰陽は『倭人伝』以前から 日本の原始信仰に溶け込み、 神道儀礼を形成していった」 【「神道」という言葉の原典】より 「神道はもとより漢語であるから中国では古くから使用されていた」 そのもっとも古い用例としては『易経』の観の卦けの彖たんに「天の神道を観るに四時忒たがわず、聖人神道を以て教えを設け天下服す」とあるのが知られている。 『易経』とは卜占の書 中国における易の源流はすこぶる古く、いまの易の源流は紀元前1100年頃、周の国が興ったときに成立したもので周易と称する。『易経』はすなわち周易であって、陰陽八卦を基に六十四卦の説明をしたもので、太古の人々日常万般にわたり占いをもって神意をきき、事を決める手段となったのである。 「天の神道」とは「宇宙の真理・自然の理法」といった意味 「四季が正確にめぐるその霊妙なることをたたえ、聖人はその心理・理法なるものを手本として人の道を教え、天下が泰平になると説いた」 【追儺ついなの大祓行事】 奈良朝期には陰陽道が官僚機構に取り入られ陰陽師神祇官とならんで朝廷の宗教行事に参加することになった。たとえば両者の酷似した呪術作法として祓があげられるが、6月・12月二度の晦日の大祓には両者が奉仕した。祓は元来神道の代表的呪法とされ、ことに病気平癒祈願には随時行われるほか、二度の大祓はそれまでの邪気をすべて打ち払い、人々の健康のみならず農作物も虫害などの災厄から無事であることを祈念するためのものであった。文武天皇慶雲三年(七〇六)、天下に疫病が流行し百姓が多く死んだとき、土牛を立てて大祓をしたが、土牛は地神であり、悪鬼を追放したあと天皇の安泰を守る土牛を立てるのは中国の陰陽道に由来したものであった。 また当時、大祓の追儺ではまず中臣氏が御祓麻ぬさを上たてまつり、次に東西史部ふみとべ(文筆にたずさわった渡来系の官僚)が金装横刀こがねづくりのたち二口、金銀の人像各二枚、烏装横刀くろづくりのたち六口を用意して祓刀を奉り、祓詞(呪文)を読む。その祓詞とは「謹んで請う、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍さく、左に東王父、右に西王母、五方五帝、四時四気、棒ぐるに禄人を以てし禍災を除かんと請う、棒ぐるに金刀を以てし帝祚を延さんと請う、呪に曰く、東は扶桑に至り西は虞淵ぐえんに至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る。千城百国精治万歳万歳」というもので、そのあと百官が集まり、中臣氏が大祓の祝詞を読み、卜部氏が解除はらいをすることになっていた。「禄人」と呼ばれる金銀の人像は身の穢れを移す人形ひとがたであり、これを焼きあるいは流し去ることによって穢れを去る陰陽道の祓の道具である。木製の「禄人」には金銀の箔がおいてある。金銀は降魔の色をあらわし、刀の金装と烏装は陰陽を象徴し除災の呪力を示すもので東西史部は陰陽師の役を演じている。 祓詞に出された神々のうち皇天上帝は中国の最高の天帝である。三極大君は天地人三道の神、司命司籍は共に星の名、閻魔王を補佐する冥官でもある。東王父は中国山東省泰山にいる男の仙人、西王母陝西省華山に住む女の仙人である。西王母の信仰はとくに盛んではじめの怪獣のイメージから絶世の美人へと変わり、玉山または崑崙山にいる。そこには三千年に一度花咲き実がなる桃の木が生え、この実を食すれば何千年かの寿を保つと伝える。いわば長寿延命の神である。とにかくこうした陰陽道の神々の名前を列挙し、それらの神々に対して厄難を除き天皇の長寿を祈願しているのである。 扶桑・虞淵・炎光・弱水は陰陽道でいう東西南北の極地、百千万の数の表現もすべての物事の極限を意味する目出度い言葉であった。中臣祓の詞が徹底徹尾、罪・咎・穢を祓うことに終止したのに対し、上掲の祓詞が延命長寿を祈り、予祝的文句を並べている点が異なる。 こうして大祓の神事が神道陰陽道の習合行事に他ならないことを知るであろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 追儺(ついな) 大晦日(12月30日 (旧暦))の宮中の年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式。「鬼やらい」(鬼遣らい、鬼儺などとも表記)、「儺(な)やらい」とも呼ばれる。 (Wkipediaより一部) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「桃」とか ね

2014年8月17日 16時27分

石井恭二氏の著書 1

『性愛の知恵 大楽金剛不空真実三麼耶経 仏教と密教をめぐって』 (石井恭二 著) 《あとがき》より 「1993年夏のある夕方、吉祥寺の埴谷雄高氏のお宅を訪問したおりに、氏が未完の大作『死霊』について熱心に語られるままに、ふと話が仏教におよぶことになって、戦前に治安維持法違反の容疑で豊多摩刑務所に収監されていたとき、大日経などの仏典を読んだ経験を話された。どうも漢訳の仏典は語彙が難解であるうえ、漢字の象形性に気をとられて苦労されたとのことであったが、これはおそらく仏教経典を読もうとする誰もが悩むところであろうと思う。 またそのとき、埴谷氏は理趣経にも触れられたけれど、氏はこの経典を実際に読まれていたわけではなかった。 私はその一年ほど前に、『大楽金剛不空真実三麼耶経』を注を作りながら読んでいたので、この経典の情念論と言語論や現象論を簡単にまとめた解題をつくってお送りしたところ、さっそく大声の電話で「たいへん驚いた」という感想が伝えられた。 私が本書の出版を考えるようになったのは、こうした契機があったので、記すことにしたのである。」 《密教の流伝と変貌》より ~ 日本では、性愛を真正面から取り入れた宗教として立川流という真言宗の一派が知られています。この立川流は、関東では武蔵、伊豆、下野、機内では大和、摂津、紀伊、伊勢、北国では越中、九州では肥後というように、全国的な広がりをみせました。その開宗は京都醍醐寺の僧であった任寛によるとされております。 『源平盛衰記』には、永久元年1113の事件として 「折節怪しき童の有りけるを搦めて問ひければ、醍醐の勝覚僧都の童千手丸也人の語らふによって、君を侵し進らせんとて、常に内裏にたゝずむなりとぞ申しける。法王大いに驚き思し食し、検非違使盛重に仰せて千手丸を推問せらる。醍醐寺の任寛阿闍梨が語らふ也と申す。彼の任寛は三の宮の御持僧也。御位の御宿願を遂げさせ給はんが為に或は青同の貌、或は内侍の形にて、日夜に便宜を伺ひ奉りき。叶はずして今かく成り侍りぬぞと落ちたりける。やがて盛重に仰せて任寛を召し捕って、公卿僉議あり、罪斬刑に当たるといへ共、死罪一等を減じて遠流に定め任寛をば伊豆の国、千手丸をば佐渡の国へぞ流されける。」 と、後三条天皇の三の宮輔仁親王の侍僧であった醍醐寺の任寛という僧が、鳥羽天皇を殺してこの輔仁親王を帝位に擁立しようと謀り、そのクーデターが発覚して伊豆の国に遠流となった次第を記しています。 高野山の宥快という僧が著わした『宝鏡鈔』という書物には、 「一説に云く、醍醐三宝権僧正の弟子に任寛阿闍梨と云ふ人有り、罪過の子細有るに依って伊豆の国に流さる。彼の国に於いて渡世の為、具妻の俗人、肉食の汚穢人等の真言を授けて弟子と為す。爰に武蔵の国立川と云ふ所に陰陽師有り。任寛に対して真言を習ひ本と学ぶ所の陰陽の法に引き入れて、邪正混乱し、内外交雑して立川の流と称して真言の一流を構ふ。是れ邪法の濫觴也。」 と、伊豆の国に流された任寛が、立川に住む陰陽師真言を教えたところ、自分の陰陽の法と真言宗の教義を交えて立川流を創始したのだ、と述べられています。時は、平安時代の伝統的な荘園制度が崩れはじめ、全国各地に武士の勢力が台頭して乱世に突入していました。~ 続いて・・ 「 平安時代の中期からは修験道陰陽道が民間に流布されると、密教的な行法も盛大になっていました。さらに密教側は、神仏習合を唱導して、神仏調和の根本原理としての本地垂迹説を編み出すようになりました。もともと神宮寺と呼ばれる大御輪寺などがあるように、神仏習合はこの時代に始まったものではないけれど、三輪神道鎌倉時代の中期1300年代に成立したものです。『三輪大明神縁起』は「天照大神神本迹二位事」条で、天照大神の名の意味は天金輪王光明遍照大日尊であると主張しています。『古事記』と『日本書紀』の神代巻で天皇家の先祖だとされている天照大神大日如来であるという主張でありますが、『八幡愚童訓』などの八幡信仰になると、釈迦や弥陀も大日如来と同一神とされますから、とどのつまり、天皇家の祖先天照大神は釈迦如来であり、阿弥陀仏であり、大日如来でもあることになります。つまり本地垂迹説とは、日本の古来の神々は仏教の諸仏や菩薩が衆生を救済するために仮に現われたのだと説くもので神仏同一説であります。権現というものも同じ教説からの称号で、権とは仮の意です。平安末期から鎌倉時代にかけて、真言宗からは金剛界胎蔵界両界曼荼羅をもととして形成された両部神道と称するものが真言神道とも呼ばれています。広い意味では真言・天台の密教から出た神道はすべてこれに包括されますが、両部神道と云えば、やはり真言密教を中心とした神道を指します。 とは云え、この本地垂迹説そのものは、インドで仏教以前のヒンドゥ教の『リグ・ヴェーダ』時代の進行であって、火、風、太陽、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌなどの神々は始めなく終わりのない常に不変の梵の顕現つまり垂迹であるという思想に発しているものでもあります。『大楽金剛不空真実三麼耶経』も、大毘盧遮那如来すなわち太陽神が本源の神として法身であり、諸々の菩薩がその報身として教えを説くという構成によって、こうした思想を引き継いでいることになりましょう。ひいては真言密教真言とは、本地である神仏の言葉、真実の言葉という主張であります。 本地垂迹説は、日本ではまた逆に、大日本国は大日如来の本国であるなどとも唱えられて、南北朝時代南朝側のイデオローグであった北畠親房は、両部神道をさらに発展させて、日本古来の神こそが本であって、仏のほうこそ、仮の姿であると主張しました。」 というふうな流れのあと 「立川流」の背景などにもどられて 「鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇およびそのブレーンは、建武中興と称して、交卿の勢力と武家の勢力とを束ねながらその両勢力の上に君臨する独裁統治を行おうとしましたけれど、ともあれこの時代は、1274年と84年の二度にわたる元帝国軍襲来、いわゆる元寇の余波もあって、宗教と政治が絡みあう大混乱時代であります。 北条氏が滅亡を迎えた鎌倉時代の末期、いわゆる南北朝時代の初期に立川流を中興したとされる弘真という僧は、後醍醐天皇の厚遇を得て、北条高時をじゅう呪術によって調伏する祈祷をした人として知られている文観僧正で小野僧正とも呼ばれた僧であります。『太平記』によると、文観は、元は播磨国法華寺の住僧であったのが、壮年におよんで醍醐寺に移り住んだ人物です。この文観こそ、多枳尼天の呪術を修めた僧でありました。文観は、鎌倉幕府に露見した北条氏調伏のかどで硫黄島に流されました。しかし北条氏の滅亡ののちに京都に戻った文観は、後醍醐帝の寵遇をほしいままにして、建武二年1335には真言密教の京都での中心である東寺の第百十五世の長者に補されて真言宗大阿闍梨となり、醍醐寺の座主となりました。」 とのこと 『太平記』には 「彼の文観僧正の振舞を伝へ聞くこそ不思議なれ。適(たまた)ま一旦名利の境界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入り給ひし益も無く、只利欲、名聞のみに赴いて、更に観念定坐の勤めを忘れたるに似たり。何の用ともなきに財宝を倉に積み貧窮を扶けず、傍らに武具を集めて士卒を逞しうす。媚を成し交わりを結ぶ輩には、忠も無きに賞を申し与へられける間、文観僧正の手の者と号して、党を建て臂を張る者、洛中に充満して、五六百人に及べり。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎の兵打ち囲んで、路次を横行しければ、法衣忽ち馬蹄の塵に汚し、律儀空しく人口の譏(そしり)に落つ。」 と あるようです 「その文観が後醍醐天皇に授けた秘訣とは、我が宗は男女二根を公会して肉身のままに仏身を極めるもので、密教の最も勝れた境地である。『諸法無行経』には、「婬慾則ち是れ道、恚癡も亦復(また)然り」とあると説いて、その仏道を示す道は、胎蔵界曼荼羅の八葉中台に於いての男女交合像であったと云われます。 『諸法無行経』は、西域亀茲国の鳩摩羅什(413年寂)が漢訳した経典で、羅什は小乗・大乗仏教を学び三論中観を特に宣揚して、三論宗の祖とされています。中観は中論と略されますが、2~3世紀ころの竜樹が唱えたものです。人の認識はすべて空であり、しかし諸々の現象はそのまま実相であるという哲理は、実はどうどう巡りでして、空の覚りも人の認識ですから諸法[諸現象]であって、結局は実相のなかに包まれるものです。竜樹は、空もだめ、仮の認識である実相もだめ、その中間に固執するのもだめとします。」 「文観は、相当な学識を持った人であったでしょうから」「乱暴な説法はしなかったでしょう」 逸脱しているかもしれないととらえられるような部分も あるものの・・ ということのようですが ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 使い慣れない 漢字や 言い回しで そちらのほうに 時間を使いがちで ショウモウ気味のようでもありますが ・・どうも 退けない感じもしておりまして 秘されて と申しましても・・・ 関わられた方々が とてもとても多いでしょうに 特定のお名前のみが文章に残っていて 伝わっている・・ わけですよね

2014年4月19日 13時34分

藤巻一保氏の著書 1

(「はてな」より移動しました 投稿時間は記憶にありません) 「ふさがれた」と とらえられるような状況のときにどうするのか というところが 今もなお 「(秘)口伝」という部分の拡がりがあるのでしょうか 秘されたものは どんなふうにか変化し 後世に何かがあらわれたとしても はかりようがない という面 まして 文献などの資料が少なかったとしたら 言い伝えなどが 真っ直ぐであるかどうかもわからない ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 立川流の勢力圏は 関東に限らず 「高野山にも比叡山にも入っていたし、醍醐寺などは当然メッカだ。ほかにも古代からの大寺名刹の中に、立川流に染まった寺はいくつもある。」 (『真言立川流藤巻一保 著) 「成立相承した立川邪教の流れが、蒙古襲来の文永ごろ(1264~1275年)には完成していたものだろうと述べている」のは 守山聖真氏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この 元の文章 (藤巻氏もストーリー仕立てで話を進められている) 「(略)立川流の勢力圏は、もちろん関東にかぎりませんよね」 「かぎるものか。高野山にも比叡山にも入っていたし、醍醐寺などは当然メッカだ。ほかにも古代からの大寺名刹の中に、立川流に染まった寺はいくつもある。守山先生は、こうして成立相称した立川邪教の流れが、蒙古襲来の文永ごろ(1264~1275年)には完成していたものだろうと述べている。ここまできたら、後醍醐帝と文観の南北朝は目と鼻の先だ」 「いよいよですね」 「後醍醐帝に立川流が流れ込んだというのは、今わしが話してきたように、吒枳尼天も立川流も稲荷神も弁天も愛染明王も、すべては広義のケと死の女神に包摂されるという意味でなら正しい。というのも、文観は、まさにこの文脈に位置した僧だからな。ただ、当初、水骨さんが言っていたように、例の髑髏本尊との連想で後醍醐を論じるなら、それはとんでもない大タワケというものだ。」 ・ ・ ・ 「種蒔きは「勝覚」の弟「仁寛」ではないか」(そのつもりはなかったとしても) という見方 仁寛は「名家中の名家のボンボン」 (「わずか5か月で自死」) 「もう耐えられないと思い詰めた末の投岩自殺だったんだろうと、わしは思うよ」 「そんな心理状態で、男女和合の邪教を伝授したというのも、なんだかリアリティのない話のような気がしますね。ちょっと突飛な印象だ」 「そのとおり、突飛すぎるんだよなあ。今流の言葉でいえば、このとき仁寛はアイデンティティ崩壊の危機に瀕していた。そんなとき、果たして何が彼を支えたかだ。彼には、もう今生での未来はない。現世での道は完全にふさがれている。いまさら護摩を焚き、天部に祈っても詮ないわけだ。となれば、救いは蓮の台(うてな)しかなかったのではないかと、わしは思う。だからこそ仁寛は、蓮を念じると書いて“蓮念”と名を改めたと思うんだよ」 「なるほど、そういえば例の立川の陰陽師も、法名は見蓮(兼蓮)で蓮がつきますね」 「見蓮だけではない。別の系譜もあるんだ。これは、金沢文庫に残る立川流文書を詳細に調査した櫛田良洪先生が発見したものだが、《仁寛__伊豆浄蓮・遠江八田極楽寺学真房□・武蔵国立川蓮念(見蓮の誤記)》という血脈が現に残っているんだ」 「立川の見蓮だけじゃなくて、伊豆の弟子も蓮の字のつく浄蓮なんですか」 「学真房某(なにがし)にも蓮の字がついていた可能性がある。その部分が欠け字になって読めないんだ。とすると、仁寛こと蓮念は、蓮に関する何かを教えたと考えても、あながち間違いではなかろう。それなら蓮は何かということだ」 ・ “蓮”に隠されたもの 「これから話すことはわしの独断だということを、あらかじめ断っておくぞ。さて、蓮とは何か__これが問題だ。蓮というと、水骨さんはたぶん浄土宗系の南無阿弥陀仏の蓮のあたりを連想するんじゃないかな」 「まず思い浮かぶのはそれですね」 「しかし、仁寛はれっきとした密教僧であり、しかも阿闍梨だ。蓮といっても浄土宗の蓮ではなく、密教流の蓮に違いあるまい。しかもそれは、仁寛が付法を得た醍醐流密教の中の蓮であり、さらには、後に立川流の母胎になりえたような内容を含んだものでなくてはいかぬ。仁寛にその気がなくとも、弟子が教えを曲解して、いわゆる淫祠邪教立川流につくりあげていった可能性があるんだからな」 「弟子にしても、仁寛に念仏を習いにきたわけではなく、はっきりと密教を学びにきたわけですからね」 「仁寛が見蓮らの弟子に伝えたものは、後の立川流文書から推しても、真言の眼目である大日如来との一体による即身成仏以外にはありえない。その即身成仏を成就するためには、元来如意輪観音を本尊とした十八道行法を修し了(お)え、次に金剛界曼荼羅を本尊とした金剛界行法を修し了え、次に胎蔵界行法を修し了えたうえで、護摩行法を満了し阿闍梨から認可を受ける(伝法灌頂)という段取りが要求される。これを《四度加行(しどけぎょう)》というんだが、配流後、わずか五か月で自殺した仁寛が、満了するまでに何年もかかる四度加行を指導できたわけはない」 「それはそうでしょうね」 「ただし、四度加行が真言即身成仏のエッセンスであることに変わりはないから、そうなると、仁寛は、エッセンスの中のさらにエッセンスだけを抽出して立川の陰陽師に与えたと考えるのが自然だろう。となれば、四度加行の中の金剛界胎蔵界の一体化が大日如来だという考え、および観法しか考えられない」 「金胎両部の合一ですね」 「さらに、仁寛は勝覚から醍醐流を学んだんだから、醍醐教学の根幹である《本有(ほんう)思想》を説かなかった道理はない。本有思想というのは、簡単にいえば、人間は本来、仏性を宿している、本来成仏した存在なんだという思想だ。この思想が端的に表れているのが、『纂元面受(さんげんめんじゅ)』だ。なぜこの本に注目するかというと、『纂元面受』は、一方では醍醐教学の根本思想を鼓吹した書といわれ、他方では立川流邪教書といわれて、正統と異端の間におかれているからだ」 「それで、その『纂元面受』には何が書かれているんですか?」 「本有思想が全面的に展開されているんだが、注目したいのは、その際の両部合一の象徴だ。まず、金剛界を大智とし、父とし、“白い舎利”とする。また、胎蔵界を大悲とし、“赤い蓮華”として両者の合一を説くんだが、その合一の説明に、父母が和合相応した境地は不二であって、心は一つであり、だからこそ浄心だといった表現を用いているんだよ」 「何だか立川流のにおいがしてきたな・・・・・・」 「これはあくまで象徴なんだが、この合一を一つのイメージで表せば、胎蔵界のなかの中台八葉院の大日如来ということになる。つまり、八葉の“蓮”にのった大日如来こそが、行者の求める理想の姿だ。蓮の上で即身成仏するんだよ」 「立川流にも、男女が中台八葉院で合一した姿の曼荼羅がありますね」 「そういうことだな。しかも、こうした赤白・両部の教えは、陰陽師には最も理解しやすい。というのも、彼らの世界理解は陰陽二元からなっており、陰陽二元は一者である太極から発していると考えられていたからだ。陰陽道では、陰は女性原理、陽は男性原理と考える。そこのところを、陰は母で胎蔵界、陽は父で金剛界であり、両者は本来不二と教えれば、陰陽師の頭にはなんの抵抗もなくスラスラと入るわな」 「たしかに入ります。でもそれだと、仁寛はやっぱり立川流を説いた開祖だということになりませんか?」 「そうはならんだろう。仁寛は、別に女犯(にょぼん)の実践を説いたわけではない。しかも、右に述べてきたような思想のルーツは、仁寛の兄の勝覚にさかのぼるらしいんだ。名著『立川流とその社会的背景の研究』の著者の守山聖真先生が引いている三十七尊配位鈔(さんじゅうしちそんはいいしょう)』 内の 『権僧正(ごんのそうじょう)勝覚の御記(ぎょき)』というものが出てくる。勝覚の書き残した文書の引用だ。その一部に、こんなことが書かれている」 ~赤白をもって両部大日如来となし、あるいは日輪(にちりん)・月輪(がちりん)と名づける。・・・・・・いうところの赤色とは、皮膚と肉、また母婬である。すなわち、胎蔵界大日如来である。白色は色骨、また父婬である。すなわち、金剛界大日如来である。~ 「ほほう、まるっきり立川流だ。これが勝覚の御記にあるというなら、仁寛は別に異端の説を説いたつもりでなくても、自然に立川流の種を蒔いたことになる・・・・・・」 「密教の常用経典に『理趣経』がある。立川流でも根本三経の一つとして最も重視した経だ。中でも冒頭の《妙滴清浄句(みょうてきしょうじょうく)》の部分が眼目だ」 「妙滴清浄句というのは何ですか?」 「岩本裕(ゆたか)先生の訳はこうだ」 ~男女の交わりの完全な恍惚境、それは実に菩薩の境地である~ 「はあ? これもそのまんま立川流じゃないですか」 「これは比喩だよ。そのまま受け取るものではない。とはいえ、そのまま受け取りたくなってもおかしくない比喩でもある。漢訳の《妙滴》は“性愛の快楽”の意味で《妙住・妙楽》などとも訳される。梵音は《蘇羅多》。その意味は《那羅那哩娯楽(ならなりごらく)》だ。那羅が男、那哩が女を意味するので、ソラタすなわち那羅那哩娯楽は男女の楽しみ、要するに、岩本訳にあるとおり、男女の交わり、交会の意味なんだ」 「で、蓮はどこに?」 ・ ・ ・ ・ ・ k*blanc 2010.6.12分 「帝を導いた光」より 後醐醍帝を導いた伏見稲荷の光は 後に吉野金峯山の傍らに祀られた・・・ 吉野の導稲荷神社 導稲荷神社の分霊を請けて祀ったのが新宿の花園神社・・ 本 『真言立川流藤巻一保氏の著書 (巣鴨図書館) 「宗教における神秘主義」 「信長の信仰とその守護神を探る」 藤巻氏のご研究や執筆のテーマは多岐に渡られ ご専門の一つが「呪術」なのでしょうか・・ 「呪術の本」にも多く寄稿されていて・・ ご著書の中の「阿倍晴明」も拝読・・ カバーの折り返しに「真言立川流」も紹介されていて・・ 「異端として弾圧された謎の邪教」などと添えてあります 1336年に 後醍醐天皇が幽閉されていた花山院から吉野の吉水院に逃れるときに 突如として現れた霊光が 暗い夜道を明るく照らして後醐醍帝一行を導いた との逸話がある・・とか 吉野の蔵王堂境内にある導稲荷といわれている・・・そうで ~ 帝は三種神器を新任の勾当の内侍に持たせられ、 子供らが踏み破った土塀の崩れ穴から、女房の姿になって忍び出られた。 ・・・・・・しかし、このような姿で白昼に奈良をお通りになっては 人に怪しまれることもあろうと考え、 帝をみすぼらしいこも張りの輿にお移ししてお供の北面の武士どもを輿かきとし、 三種神器は足のついた行器(ほかい)に入れて、 神社参詣の人が弁当などを持たせたように見せかけ、 影繁がみずから人夫となってこれを持った。 ・・・・・・その日の暮れ方にようやく内山にまでお着きになった。 しかしここにも、敵が追いかけて来ることもあろうかと安心ができなかったから、 今夜中になんとしても吉野あたりまでお移し申しあげようと、 ここからふたたび帝を馬寮(めりょう)の馬にお乗せした。 八月二十八日の夜のことで道は暗くてとても進めそうにもなかったのだが、 このときにわかに 春日山から金峯山(きんぷせん)の峰まで光るものが飛び渡るように見え、 松明のような光が夜もすがら天地を照らしたので、行く道もはっきりと見えて、 まもなく夜明け方に大和国賀名生(やまとのくにあのう) というところへたどりつかれた。~ 『太平記』 ~その日はとても暗い夜だったので、お供の人々も、 「どうすればよいであろう」 と困惑しているのを帝がお聞きになり、 「ここはどのあたりか」 とお尋ねになられた。 そこで忠房の侍従が 「稲荷神社の前でございます」 と申し上げた。 すると帝は、 「ぬば玉の くらきやみ路にまようなり われにかさなん三つのともし火」 と、御製をお詠みになり、稲荷社を伏し拝まれた。 すると、社の上から非常に明るい光の一むらが立ち現れ、 臨幸の道を照らして帝の一行を送った。 そこで帝は大和の内山にお着きになったが、 そこで光は金の御嶽(金峯山)の上で消えうせた。~ 『吉野拾遺』 三つの灯火を貸してくれぬか?と詠まれた理由として 日月星の三天 伏見稲荷の三天峰の上中下のお宮の神の光を望まれた と・・ それは 聖天・弁財天・吒枳尼天(太陽・月・北斗でもある)と説明されておられます 吉野落ちの三年前の1333年に隠岐から脱出したときに 船上山で幕府調伏の祈禱を行った・・ ということについて ~京都における数度の合戦に、官軍側は毎度敗北をきっし、 八幡・山崎の陣もすでに小勢になってしまったと噂が流れたので、 後醍醐帝は天下の安否はこののちどうなろうかとご心痛になり、 船上山の皇居に仏壇を設けられて、 おんみずから金輪の修法を行われた。 その七日目にあたる夜、?日月星の三光天子?が光輝いて壇上に並び現われたので、 これは御願がただちに成就する徴だと、 帝は頼もしく思し召された。~ 『太平記太平記のほうは 聖天・弁財天・だ枳尼天の三天ではなく 日天子・月天子・明星天子のことをいっているのではないか・・ と推測されておられます 「帝を導いた伏見稲荷の三光は、後に吉野金峯山の傍らに祀られた。 これが吉野の導稲荷神社だ。 その導稲荷神社の分霊を請けて祀ったのが、新宿の花園神社・・・」 とのこと・・ 花園神社に だ枳尼天が祀られていたのは確かとしても ご本尊については もともとは十一面観音様ではないか と・・ 明治の神仏分離・判然令で仏様に出て行ってもらったというようなことだそうで それる・・というか もどって・・ (年代もさかのぼって) 「呪術の本」で 本田不二雄氏が 帝の行った金輪の修法について述べられていて ~ 1324年の第一次倒幕の野望がついえた後醍醐天皇は、 以後、有力寺院に幕府調伏の祈禱を命じ、のみならず 「禁裏(後醍醐)、聖天供とて御自ら御祈禱候」(金沢貞顕の書状)とあるように、 みずからも「聖天供」と呼ばれる修法を行っている。 聖天の法は、行者の所願のまま「どんな悲法悪行といえど成就せしたまう」という、 強烈な呪力を誇る最極秘の法とされている。 いっぽうで『渓嵐拾葉集』には、怨敵治罰の験とともに、 法を修する者を「国王」にするという秘密の効験があることも記されている。 すなわち、第二次倒幕のための準備を進めていたこの時期、 帝は実権をみずからの手に戻すべく呪的包囲網を 着々と固めていたのである。 やがて隠岐に配流されたのちも、帝は隠岐の行在所(あんざいしょ)で夜を徹して 倒幕の密教修法に明け暮れ、 期が熟したと見るや、伯耆国(ほうきのくに)に潜行。 船上山の皇居に仏壇を設け、みずから「金輪の法」を執り行ったといわれる。 金輪とは、古代インドの神話上の世界最高の王とされる 「金輪聖王」(こんりんじょうおう)に由来し、 いったんこの修法を行えば、どんな呪法もその効力が失われるという。 つまり帝は、みずからを神話上の聖王になぞらえ、 秘法中の王法を修することで悲願成就の総仕上げを行ったのである。 やがて新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時ら幕府数百人は自刃に追い込まれる。 こうして、帝のシナリオどおり、 いったんは天皇親政による建武の中興が成就したのである。 ~ (西新宿にも新宿総鎮守がある)

2014年4月16日 11時40分

かさねてきたもの

はてな」さんに 14日午後投稿したものですが 投稿・編集ができませんので移しまして (投稿時間は記憶にございません) muon 滔々と と 重なりつつ・・・・・ 続きとなります 醍醐寺にお邪魔したのは 3月16日 4.9に借りたのは 『婆娑羅 太平記 真言立川流』(黒須紀一郎 著) ストーリー仕立てになっていて(敵視する立場から書かれたものはないようす) 主人公は「文観弘真」 「仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、彼らと立川流との関係を疑問視する向きもある」と wikiさんは注意を促しておられる (4.7に)「新潟県新発田市で白骨化した遺体が見つかった事件」で 被害者の方の叫び声が聞かれて(車で)連れ去られたようだ ということが(9日に)流れて・・ ちょうど 『婆娑羅 太平記 真言立川流』での 何度か登場するシーンをみていた折のことでした ~「あれー!」 女の悲鳴が、周囲の木々にこだました。しかし、和尚は一向に斟酌する様子もない。~ ~和尚は、白い脛を顕にして暴れる女をものともせず、肩に担ぐと来た坂を上り始めた。~ (やがて女性は騒がなくなる) ~観念したのかと思ったが、そのようにも見えなかった。~ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2014年4月14日 午後3時頃 神奈川県川崎市宮前区 ケヤキの枝が落下し 付近を歩いていた女児(6歳)に当り 頭を強く打つケガ 2014年3月16日午前8時25分頃 広島県三原市宮浦2丁目 ポプラが根元から倒れ、近くを歩いていた女性(51)の頭を直撃 一緒にいた女性(57)も重傷 2012年11月18日岐阜県大垣市上石津町の森林公園内 小学校1年の女児(当時6歳)が落下したスギの枝の直撃を受けた ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ wikipedia立川流密教)」より 【歴史】 立川流鎌倉時代密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代後醍醐天皇の護持僧となった文観によって大成されたといわれる。 1113年(永久元年)、後三条天皇の第3皇子・輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を図って失敗し(永久の変)、11月に伊豆の大仁へ流された(ただし、これは冤罪の犠牲ともいわれる。後述)。名を蓮念と改め、この地で真言の教えを説いていた仁寛は、武蔵国立川(たちかわ)出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。ほかに観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、彼らに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。 1114年(永久2年)3月に仁寛が城山(じょうやま)から投身自殺を遂げたのちは、見蓮らが陰陽道真言密教の教義を混合して立川流を確立し、布教したとされている。鎌倉には、京都から放逐された天王寺真慶らによって伝えられた。 その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』によると、真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていたといわれる。 鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。 1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。 1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者[2]にまで上り詰めた。 これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。 鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。 1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。 1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者[2]にまで上り詰めた。 これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。 後南朝が衰退した後、立川流も徐々に衰退し、江戸時代の弾圧によって断絶。現在には伝わっていないというのが定説である。真言正統派においては、この邪説に対する反証として、戒律を厳しくするなどの試みが行われた。 しかしその独特の教義は仏教の各派に多くの影響を残し、後の日本の密教思想の形成の大きな遠因となっている。 【疑問】 上に記述した歴史については、多くの学者が疑義を呈している。 仁寛を立川流の開祖とする記述は、『伝灯広録』などの文献にみられる。しかし『伝灯広録』は、その記述に誤りや矛盾が数多く指摘されており、信頼性が低い。 仁寛が伊豆に流されてから死去するまでの期間は5ヶ月であった。流刑に遭うまでは、仁寛には独自理論の確立に関する目立った動きがみられないことから、この5ヶ月間で教義を練り上げ、しかも伝授したと考える必要があるが、あまりに短すぎるため不自然である。配流される前の、醍醐三宝院に在った頃から研究をしていたと考えても、見蓮に奥義を伝授するのに要した期間が短いことには変わりない。 千手丸事件で罰せられたのが仁寛、及び実行犯とされる千手丸の2名のみであったのは、そもそも天皇暗殺計画がなかったからではないか。即ち、謀反は輔仁親王や支持勢力の村上源氏(仁寛も一族の1人であった)の影響力を削ぐために白河上皇によって捏造されたものであり、彼らを一掃せずとも所期の目的を果たせさえすればよしとしたため、この2名のみを「生贄」としたのではないか(その際、仁寛の邪悪性を際立たせる材料として立川流を利用し、彼を開祖に仕立て上げたとの見方もある。なお、文観についても同様に、悪人の印象を植え付けるために立川流と関連付けられたとの説がある)。 立川流邪教視されるようになったのは、高野山の教学を大成した宥快が批判し、立川流の典籍などを高野山の御影堂の前に集めて焚書したことに始まるといわれる。宥快は高野山で行われていた念仏も追放したが、立川流高野山教学の権威を高めるための犠牲になったとされる。また、立川流南朝側と結びついていたのに対し、宥快などは北朝側と結びついていたため宗教的な権力だけでなく、政治的な権力の巻き添えになったとも伝えられる。 以上のような疑問のほか、仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、彼らと立川流との関係を疑問視する向きもある。 しかしながら、ほとんどの記録が失われた現在では、多くの疑問点が未だ真相不明のまま残されているのが実情である。現在残っている資料として『受法用心集』『宝鏡抄』といった文献があるが、これらは立川流を敵視する立場から書かれたものである。このような弁護がなされ、真言の教えをかばおうとしているが、まだ、成功したとはいえないとの批判もある。 ・ ・ ・ ・ ・ 立川流の勢力圏は 関東に限らず 「高野山にも比叡山にも入っていたし、醍醐寺などは当然メッカだ。ほかにも古代からの大寺名刹の中に、立川流に染まった寺はいくつもある。」 (『真言立川流藤巻一保) 「成立相承した立川邪教の流れが、蒙古襲来の文永ごろ(1264~1275年)には完成していたものだろうと述べている」のは 守山聖真氏 「赤白をもって両部大日如来となし、あるいは日輪(にちりん)・月輪(がちりん)と名づける。・・・・・・いうところの赤色とは、皮膚と肉、また母婬である。すなわち、胎蔵界大日如来である。白色は色骨、また父婬である。すなわち、金剛界大日如来である。」 (『三十七尊配位鈔(さんじゅうしちそんはいいしょう)』 内の 『権僧正(ごんのそうじょう)勝覚の御記(ぎょき)』) 種蒔きは「勝覚」の弟「仁寛」ではないか(そのつもりはなかったとしても) という見方があるようです ・ ・ ・ ・ ・ wikipedia 「勝覚」 勝覚(しょうかく、天喜5年(1057年)- 大治4年4月1日(1129年4月21日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は源俊房立川流の祖仁寛の兄。 醍醐寺座主定賢から灌頂を受け、また義範・範俊に師事して真言密教の奥義を伝授された。醍醐寺三宝院に住し、1085年(応徳2年)醍醐寺座主に就任し、1092年(寛治6年)に広隆寺、ついで1104年(長徳元年)には東大寺に移った。1107年(嘉承2年)に権少僧都に任じられる。度々神泉苑で祈雨法を修し、1120年(保安元年)に少僧都に任じられ、以後東寺長者・同寺法務・同寺寺務を経て権僧正に任じられて東寺別当に至った。弟子には三宝院流の祖定海・理性院流の祖賢覚・金剛王院流の祖聖賢などがいる。 ・ ・ ・ ・ ・ 漆も 要素のひとつ (髑髏絡みで) amorphous 2013.11.13 分より <11月13日を「うるしの日」とした由来> ~漆は遠い昔から使われてはきましたが、「うるしの製法」「漆器の製造法」は、文徳天皇の第一皇子惟喬親王が、いまだ完全でないのを憾みとせられ、京都嵐山法輪寺に参籠され、本尊虚空蔵菩薩より御伝授、御教示を受けて完成し、日本国中に広めたものといわれており、塗りをする場合に使う継ぎ漆を「コクソ」というのは、虚空蔵から転化したものだといわれております。 このようなことから、親王はその御霊験を深く感謝され、「我が法輪寺(うるしでら)盛んなれば、漆業もまた盛んなるべし、若し我が寺が寺衰うるときは漆業も衰べし、ゆめおろかにすべからず」と御遺戒されました。 爾来、漆関係者は、親王が参籠された満願の日である十一月十三日に報恩講(俗に”漆まつり”火焚祭)を設けて、供養するのがならわしとなっております。 この由緒ある十一月十三日を「うるしの日」と定めた次第であります。~ (『うるしと塗り読本』より) ・ ・ ・ ・ ・ そのようにして 「うるしの日」が制定された とのこと wikipedia 「漆」より 「2000年に北海道函館市で実施された垣ノ島B遺跡の調査で、出土した漆塗りの副葬品が約9000年前に作られたものであったことが明らかになった。」 【利用史】 中世には林産資源のひとつとして漆の採取が行われており、甲斐国では守護武田氏が漆の納入を求めている文書が残され(永禄3年武田家朱印状「桑原家文書」『山梨県史』資料編4(県内文書)所載)、『甲陽軍艦』では武田信玄織田信長に漆を贈答した逸話が記されている。 【漆塗起源の伝承】 倭武皇子(やまとたけるのみこ)は、宇陀の阿貴山で猟をしていたとき大猪を射たが、仕留めることができなかった。漆の木を折ってその汁を矢先に塗って再び射ると、とどめを刺すことができた。そのとき汁で皇子の手が黒く染まった。部下に木の汁を集めさせ、持っていた物に塗ると美しく染まった。そこでこの地を漆河原(現在の奈良県宇陀市大宇陀嬉河原(うれしがわら))と名附け、漆の木が自生している曽爾郷に漆部造(ぬりべのみやつこ)を置いた。(『以呂波字類抄』) 【即身仏と漆】 自分自身のミイラを仏像、すなわち即身仏とした修行者達は身体の防腐のために予めタンパク質含有量の少ない木の実のみを食する「木食」を行うと共に、「入定」(死して即身仏となること)の直前に漆を飲んでその防腐作用を利用したという。 *同「漆器」の項では 「福井県(鳥浜貝塚)で出土した漆の枝は、放射性炭素(C14)年代測定法による分析の結果、世界最古の約 12600年前のものであると確認され、漆木のDNA分析で日本の漆は日本固有種であることが判明した。」とあり さらに歴史を遡ることができるようす .................................................................................... 「漆は耐水性、耐熱性、絶縁性に優れ、酸やアルカリ、アルコール、シンナーにも耐性があり、ガラスを溶かすフッ化水素や、金を溶かす王水にも侵されない上に、毒性もなく、これをうわまる塗料は今でもないといわれている。」 「漆を実際に利用するためには、採取されたばかりの漆(荒味漆)からの木屑などの混入物を濾過除去して「生漆」を作り、さらに常温でよく攪拌し粒子を細かくする「ナヤシ」や、水分を飛ばす「クロメ」などの工程を経て、含水率を3パーセントくらいまでに抑えた「透き漆」を精製する必要がある。これに、顔料を加えると「色漆」、水酸化鉄を加えると「黒漆」となるのである。 また三内丸山出土の赤漆塗りの浅鉢は厚さ8ミリ、黒漆塗りの木製鉢にいたっては厚さわずか4ミリである。現代の職人が作るにしても、ちょっと手元が狂えば鑿(のみ)の刃先が突き抜けてしまうような薄さである。よほど高度な技術を持った熟練職人集団がいたとしか考えられない。それにしても、繊細な仕事には不向きな石器でどのようにしてこれを作ったのか。これも謎である。 八戸市郊外、新井田川流域の是川遺跡から出土した「漆塗り飾り太刀」は、玉類などをはめ込み、象眼のような細かい細工が施されている。この飾り太刀について、考古学者の清水潤三は「稀有の珍品」とした上で、その製作には金属工具が使われた可能性に言及している。同じ遺跡から出土した「漆塗り高杯」もきわめて精巧に木をくりぬいて作られたもので、専門の職人は「鋭利な刃物やロクロがなければ、このような整形はできない」と主張する。」 (『知られざる古代日本キリスト伝説』) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ そのお寺にまつわるのであろう 「夢」や「幻想」の一例を k*blanc 2011.5.2分より 『内なる神を求めて』 北川慈敬著 (2000年) 醍醐寺からは 解脱会と真如 その時点で二つの教えが出ていて そこの真如三昧耶堂には真如苑の教主さんが祀られているのだそうだ・・ お子さまの伴侶さんの母君がその信仰をお持ちの関係で 三昧耶堂にお参りに行かれていたとのこと ~ そこでしばらく拝んでいましたら、私の目の前に 亡くなられた真如苑の教主様ご夫妻のお姿が現れたのです。 「宗派の違うところからいつもいつも来て下さって、本当にどうもありがとうございます。 今日はまたこんな大切な日にお祈りしていただいたので、 お礼に大事なことをお知らせいたしましょう」 すると教主様の後ろに、二人のお子さまと、僧衣をまとった信者の方々が現れました。 そして教主様はおっしゃるのです。 「私どもの教団は、霊界にこういう世界を作っております。 ここは会員さんが亡くなった後でも、穏やかで安らげるようにと作った場所です。 そこであなたにお伝えしたいことは、あなたは普通の方よりも沢山の人に巡り合い、 お付き合いをなさってきたから、その分だけ罪も多いのです。 多くの人を受け入れてきた反面、気性が勝っていらっしゃるから、 多くの人をあなたは切ってきました。それがまだ業として残っています。 60になられたあなたは、これから最後までずっと、 人を切ることをやめなければいけません。 切ってきた人の分だけ、 これからは受け入れにくい人がやって来ることでしょう。 それをすべて受け入れることが、あなたの業罪消滅です。 今あなたに残された課題はそれだけです。 そして私たちが作ったように、あなたもあなたの霊界をどうかお作りになってください。 見えないところに行った人々を救ってあげて下さい」 こうおっしゃられて、私の目の前から姿を消されました。 ~ P112~3 ( 真如苑の本の中にも「真如霊界」という言葉がでてきていた 『真如苑』の本P143 )

2014年4月14日 14時31分