清水寺 (original) (raw)

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清水寺(きよみずでら、: Kiyomizu-dera Temple[1])は、京都市東山区清水1丁目にある北法相宗の大本山寺院山号は音羽山。本尊十一面千手観世音菩薩。正式には音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)と号する。もとは法相宗に属していたが、現在は独立して北法相宗を名乗る。西国三十三所第16番札所。洛陽三十三所観音霊場第10から14番札所。境内(敷地面積)は約13万 m2[2]

仁王門(2022年3月)

清水寺は法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院で、広隆寺鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺滋賀県大津市)、長谷寺奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場である。鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり[3]、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、1885年(明治18年)に法相宗に復す。1965年昭和40年)に住職であった大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した[4]

音羽の滝にて賢心法師(左)は行叡居士と対面 清水寺縁起絵巻(土佐光信筆、東京国立博物館蔵)上巻より

創建伝承

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館)『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)に、大和国興福寺の僧で当時子島寺奈良県高市郡高取町に現存)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」といい残して去っていった。行叡は観音化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(御賢心改め)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩の像を造り、共に祀ったという。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている[5]

平安時代以降

延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる[6]

清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。

平安時代以来長らく法相宗興福寺の支配下にあり、平安時代中期からは真言宗をも兼宗していたが、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。

文明元年(1469年)には応仁の乱の兵火によって焼失し、その再建のために時宗勧進願阿弥が迎え入れられた。願阿弥は清水寺入寺以前に橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事しており[7]、その際に率いていた勧進集団や要人との人脈をもって再興事業に臨んだ[8]。願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、本願成就院として近世にいたる本願の出発点となった[9]

豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵したが、江戸幕府になってもこの寺領は継承されている。現在の本堂は寛永6年(1629年)の火災の後、寛永10年(1633年)に徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている[10]

三職六坊

近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。「三職」とは寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。慈心院は本堂のみが随求堂(ずいぐどう)として残っている。成就院は近代の中興の祖である大西良慶(後述)が住坊とした所で、境内北側に位置し、現在は清水寺本坊となっている。「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したが、このうち真乗院は織田信長によって廃絶され、以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残るのみである[11]

近代

近代に入り明治時代となると、神仏分離により本堂の真北にある地主神社が清水寺から独立した。また、明治時代初期に宗旨を真言宗醍醐派に改めたが、1885年(明治18年)に法相宗に復している。

1914年大正3年)には興福寺住職・法相宗管長であった大西良慶1875年 - 1983年)が清水寺貫主(住職)に就任する。大西は1965年昭和40年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。大西は1983年(昭和58年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。大西は1966年(昭和41年)に月2回の北法相宗仏教文化講座を開始、1974年(昭和49年)には日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を通じた国際交流、平和運動、文化活動などに尽力した。次の貫主となった松本大圓は内部抗争により失脚した。現貫主は森清範が務めている。2023年に人事があり、森清顕が宗務長に、執事長は大西真興に代わり大西皓久が就いた。

2015年平成27年)には、10年かけて制作された絵巻物「清水寺平成縁起絵巻」が完成し、奉納された[12]。寺の草創期から「平成の大改修」の完了までの1,200年を描いた絵巻物で、全長65m。作画は日本画家で京都嵯峨芸術大学名誉教授の箱崎睦昌[13]。絵絹や裏彩色といった伝統技法を復活させて描かれた。戦火が多く描かれた室町時代の『清水寺縁起絵巻』とは異なり、何度も焼失と再建を繰り返した清水寺を支えた庶民の姿をテーマに描かれた[14]

各地の同名寺院

日本各地に「清水寺」(きよみずでら、せいすいじ)を名乗る寺院が多数あり、中には坂上田村麻呂の開創ないし中興の伝説を有するものもある。岩手県花巻市の音羽山清水寺は田村麻呂の開創を伝える。長野県山形村の慈眼山清水寺は田村麻呂の中興を伝え、この寺の千手観音像が京都にもたらされて東山の清水寺になったという。岐阜県加茂郡富加町の「白華山清水寺」は田村麻呂と延鎮による草創を伝える。

国宝徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建された。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大なケヤキの柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。なお、釘はいっさい使われていない[15]。このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」といい、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)の所説に基づくものである。なお、同じく観音霊場である奈良県長谷寺滋賀県石山寺の本堂も同様の「懸造」である。洛陽三十三所観音霊場第12番札所。

平面は、桁行(間口)9間、梁間(奥行)7間の身舎(もや)が主体部となる(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す。以下も同。)。身舎は奥の梁間3間分が内々陣、その手前の梁間1間分が内陣、内陣のさらに手前の梁間3間分が外陣となる。外陣内部は柱の省略がなく、独立柱が等間隔に立つ。内々陣と内陣の部分を正堂(しょうどう)、外陣部分を礼堂(らいどう)とも称する。一般拝観者が立入りできるのは外陣までである。この9間×7間の主体部の東・西・北面には1間幅の裳階(もこし、差し掛け屋根)をめぐらす。正面にあたる南面は、1間幅の庇を設け、その南には東西端にそれぞれ翼廊(楽舎)を設け、両翼廊の間に舞台を設ける。翼廊部分の屋根は入母屋造、妻入とし、外観に変化を与える。堂の西面にも裳階の外側に翼廊を設け、この部分を車寄と称する。裳階には、正堂部分では局(つぼね、参籠所)などが設けられている。外陣は東・西・南面を1間幅の廊下で囲まれ、外陣・廊下境には蔀戸を吊る。構造的には、礼堂の東と西の廊下は裳階、南の廊下は庇にあたる。裳階、翼廊を含めた平面規模は間口36メートル、奥行31メートルとなる。正堂部分は平坦な地面に建っているが、外陣およびそれより手前の部分は傾斜面に建っており、床下にはケヤキ材の長い柱と貫を縦横に組んで建物を支えている。このうち、もっとも手前(南)に位置し、せり出した舞台を支える6本の柱は平面十六角形で、長さ12メートルに及ぶ。これらの柱や貫は寛永再建時のものだが、舞台の床面の板(ヒノキ材)は、耐用年数が25 - 30年ほどで、たびたび張り替えられている。内々陣には、5間幅の須弥壇を設け、その周囲は床を一段低くし、石敷きの土間となる。須弥壇上には3基の厨子(国宝の附指定)が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、左(向かって右)の厨子には毘沙門天立像、右(向かって左)の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置する。三尊とも秘仏である(本尊については後述)。本尊厨子の左右には千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神雷神像が安置される[16]

清水の舞台

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」というが、清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際に飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件[注 1]、死亡者は34人に上り、生存率は85.4パーセントであった。飛び降りた動機は自分の病気の治癒や母親の眼病、暇がほしいといった、「観音様に命を預けて飛び降りれば、命は助かり願いがかなう」という厚い信仰心によるもので決して自殺する目的では無かったことに留意する必要がある。なお、1872年(明治5年)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめた[17][18]

清水道(松原通)、西方向を見る

本堂舞台下

音羽の滝

三重塔

西門と鐘楼(左)

鐘楼

子安塔

参道

東大路通の清水道交差点から清水寺までの約1.2キロの坂道は清水道と称され、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。この道は松原通(かつての五条通)の延長である。その南、東山五条の交差点から北東に上り、清水道に合流する五条坂も参詣道となっている。さらに、五条坂の途中から分岐して清水寺仁王門付近に達する清水新道(茶わん坂)もある。これらの参道が開けたのは近世以降のことであり、中世までは八坂の塔(法観寺)を経て産寧坂(三年坂)を南方向へ上り、経書堂(きょうかくどう)の所で左(東)へ折れるルートが参道であった。

境内の概要

境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、開山堂、朝倉堂などを経て本堂に至る。本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれている[注 2]。音羽の滝からさらに南へ進むと、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。北には清水寺本坊の成就院がある。

この他、本堂のすぐ北隣に地主神社(じしゅじんじゃ)がある。元々は清水寺の鎮守社で、現在では縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年(1633年)の再建である。なお、清水寺仁王門前にある狛犬は地主神社のものである。この狛犬は双方とも開口していて珍しい。明治時代の神仏分離により清水寺から独立しているが、歴史的経緯から世界遺産「古都京都の文化財」の清水寺の一部として登録されている。

随求堂本尊の秘仏大随求菩薩坐像は、享保13年(1728年)に造られた木彫像で像高110センチ。頭上に宝冠を頂き、8本の腕に五鈷杵、剣、蛇などの法具を持つ。光背は円形で金泥梵字が描かれている。これまで展覧会や清水寺境内の他の施設での「出開帳」を除く随求堂内での「居開帳」は、造像以来宝暦4年(1754年)と寛永8年(1796年)の2回だけしか行われてこなかったが、西国三十三所創設1300年を記念して、2018年(平成30年)3月2日から3月18日までと10月5日から10月15日まで、222年ぶりに随求堂内で居開帳が行われた[21][22]

本堂本尊

清水寺本堂本尊の千手観音立像は33年に1度開扉の秘仏であり、写真も公表されていない[注 3]。ただし、秘仏本尊を模して造られた「お前立ち像」の写真は公表されている。本像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像である。このような形式の像を「清水寺形千手観音」と称し、これを模した彫像、画像が日本各地に存在する[注 4]。このような、脇手のうちの2本を頭上に掲げる形の千手観音については経典に典拠がなく、その由来は未詳である。脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置するが、このうち地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟をかけ、兜をかぶり剣を持つ特殊な形の像である。

本堂本尊は、20世紀末以降では以下の機会に開帳された。

奥の院本尊

奥の院本尊の秘仏千手観音坐像(重要文化財)は、鎌倉時代の作で一木割矧造、像高63.9センチメートル。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に24の小面を乗せ、計27面をもつ特異な形の像である。本面と左右脇面は額に縦の眼を有する三眼とすること、膝前で組み合わせる宝鉢手は親指と人差し指で輪をつくる、阿弥陀如来と同様の印相とすること、光背に観音の三十三応現身を表すことなど、図像的に特異な点が多い。作風には快慶風が強いが、作者を快慶と同定するには至っていない。

本像は2002年(平成14年)に重要文化財に指定され、翌2003年(平成15年)3月7日から12月7日まで243年ぶりに開帳された。また、2008年(平成20年)8月から11月にかけて奈良国立博物館および名古屋市博物館で開催された特別展「西国三十三所」に出陳された。

国宝

ライトアップされた紅葉の本堂(2015年11月)

文化財保護法第2条[24] に基づき、建物とともに清水寺境内地も1993年(平成5年)9月1日付けで国宝に追加指定されている[25]

重要文化財

(建造物)

(美術工芸品)

※典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。2001年以降の指定物件については個別に注記。

※重要文化財の仏像のうち、千手観音坐像は秘仏、その他の像は宝蔵殿に収蔵され非公開である。本堂本尊の秘仏千手観音像は指定文化財ではない[注 6]

国の名勝

京都府指定有形文化財

西国三十三所観音霊場

15 今熊野観音寺 - 16 清水寺 - 17 六波羅蜜寺

洛陽三十三所観音霊場

9 青龍寺 - 10 清水寺善光寺堂 - 11 清水寺奥の院 - 12 清水寺本堂 - 13 清水寺朝倉堂 - 14 清水寺泰産寺 - 15 六波羅蜜寺

法然上人二十五霊場

12 欣浄寺 - 13 清水寺阿弥陀堂 - 14 正林寺

洛陽六阿弥陀めぐり

2 禅林寺(永観堂) - 3 清水寺阿弥陀堂 - 4 安祥院

神仏霊場巡拝の道

116 八坂神社 - 117 清水寺 - 118 六波羅蜜寺


注釈

  1. 『成就院日記』には記録が抜けている時期があり、記録が残っている148年分の合計。2度飛び降りて2度とも助かった女性がおり、飛び降りた実人数は234人。
  2. 清水寺信徒総代であった仏師・西村公朝の調査によると、秘仏本尊は寄木造、素地仕上げで像高は173cm、鎌倉時代中期頃の作であるという[23]
  3. 彫像では神奈川・龍峯寺像、画像では愛知・天永寺護国院本などがある。
  4. この重要文化財の十一面観音像を本堂本尊と誤認している文献があるので注意を要する。
  5. たとえば、以下の文献で清水寺本堂本尊を「重要文化財の十一面観音像」としているが、事実誤認である。
    • 村田靖子『もっと知りたい京都の仏像』(里文出版、2007)、p.55
    • 『週刊朝日百科』「日本の国宝」70号(朝日新聞社、1998)、p.318

出典

  1. 清水寺”. ローカルプレイス. 2022年1月31日閲覧。
  2. NHKクローズアップ現代「絵巻がひもとく清水寺〜知られざる1200年の歩み」2015年4月23日
  3. 「釈迦堂、土砂の下 西向き地蔵堂も全壊」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月13日朝刊、13版、22面
  4. 文化財保護法第2条「これらのもの(注:建造物等の有形文化財)と一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件を含む」