痩田肥利太衛門残日録その二 (original) (raw)

陰暦令和六年九月の絵

令和六年九月の暦

本日2024年10月3日は新月で陰暦の九月一日です。

陰暦九月の今月は小の月で2024/10/3~10/31(陰暦九月一日~九月二九日)となり、秋の最後の1ヵ月「晩秋」となります。
第十七節気「寒露」の九月節、2024/10/8~10/22(陰暦九月六日~九月二〇日)
第十八節気「霜降」の九月中、2024/10/23~11/6(陰暦九月二一日~十月六日)

霜降」が終わると2024年11月7日(陰暦十一月七日)から十九節気「立冬」の十月節2024年11月7日~11月21日(陰暦十月七日~十月二一日)となり、陰暦の季節は「冬」(2024年11月22日~2025年2月2日、令和六陰暦十一月~令和七年陰暦一月)を迎えることになります。

【陰暦は日付を表す暦と季節を表すの指標の二本立て】
陰暦の月の運行の1年は354日、太陽の運行の1年は365日なので陰暦の暦の1ヵ月は太陽の運行からズレていき、季節もズレていきます。

そこで陰暦の1年12ヵ月において季節を知る指標として太陽の運行から求めた二十四節気の2節気を1ヵ月とし、前半の節気を「節」、後半の節気は中気または「中」として12ヵ月としました。

その結果、陰暦の1ヵ月は新月から次の新月の前日の「約29.5日(大30日、小29日)」と陰暦の季節の指標の1ヵ月の「節」約15日と「中」約15日の二本立てとなり、正式名として太陰太陽暦と名付けられました。

当然、二本立ての太陰太陽暦は日付を表す「陰暦の大30日または小29日の1ヵ月」と季節を表す「季節の指標の節と中の1ヵ月」はズレることになります。

昼と夜が同じ長さになる日を春分(黄経0度)、秋分(黄経180度)に決め、昼が最も長い日を夏至(黄経90度)、昼が最も長い日を冬至(黄経270度)という四つの節気を含む「四季」は2節気を1ヵ月としたそれぞれ6節気3カ月となります。

陰暦の一月一日は毎年ズレますので陰暦一月一日を含む二十四節気の最初の節気を1年の始まりの季節とし、立春と定めました。
2024年2月10日は陰暦一月一日(新月)で陰暦では令和六年が始まりましたが、令和六年の春は第一節気の一月節「立春」の2024年2月4日から始まりました。

陰暦の秋は第十三節気七月節の2024年8月7日「立秋」から始まり、2024年第十八節気九月中の2024年11月6日「霜降」までの3ヵ月間(西暦では8月~10月)の六つ節気、

すなわち、陰暦七月(西暦8月)~九月(西暦10月)までの3ヵ月間をいいます。

平安中期の後宮十二司

後宮制度について】

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後宮十二司と官女(女官)】

後宮の皇后・中宮・妾御息所(めかけみやすんどころ)に奉仕する女性達は大宝・養老律令により、十二司の官女と命婦、乳母、采女などを含む官女組織として規定されました。

律令政治から摂関政治へと変化していく過程で、後宮の官女組織も変化していき、官女もいつしか女官と呼ばれるようになり、官位を持つ女官、無位の女官そのほか種々の雑役する女性達の名称も、役割も変化していきました。

後宮十二司】

後宮に仕える女官が所属する所(ところ)。時代の変化により一司が統合、五司が廃止されていきます。

内侍司(ないしのつかさ) ⇨ 内侍所(ないしどころ)

②蔵司(くらのつかさ) ③書司(ふみのつかさ)

④薬司(くすりのつかさ) ⑤兵司(つわもののつかさ) ⑥闤司(みかどのつかさ)

⑦殿司(とのものつかさ) ⑧掃司(かにもりのつかさ)

⑨水司(もいとりのつかさ)⑩膳司(かしわでのつかさ)

⑪酒司(みきのつかさ) ⑫縫司(ぬいのつかさ)

[内侍司(ないしのつかさ)] ⇨ (内侍所(ないしどころ))

天皇の日常生活や奏請(天皇に奏上して裁可を請う)や宣伝や礼式を行う役所。

「内侍所」は温明殿(おんめいでん)の中の神璽が鎮座しているところで「賢所(かしこどころ)」のことである。内侍が常に勤めていたので内侍所と呼ばれるようになった。

[尚侍(ないしのかみ)] の位階はもと従五位であったが平城天皇が尚侍(ないしのかみ)薬子(くすこ)を寵愛し、従三位にあげ、御寝所に伺候させた。品位がのぼり、大臣の娘が尚侍になるようになり、後に右大臣師輔の娘が尚侍となって村上天皇の寵愛を受けた。また道長の娘嬉子(きし)も尚侍となって東宮の妃となった。

[東豎子(あずまわらわ)] 尚侍司に所属。姫松ともいう。行幸のときに馬に乗って御供した。枕草子にも書かれている。

②[蔵司(くらのつかさ)]:

神璽(しんじ)・関契(かんけい)・御装束などを保管・貯蔵する役所。

[神璽しんじ)] 古くは皇位のしるしの鏡と剣であったが後に勾玉を加え「三種の神器」となる。

1.八咫鏡(やたのかがみ)、2.天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、3.八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。

[尚蔵] くらのかみ。律令では尚蔵(くらのかみ)の位階は、正三位、尚膳(かしわでのかみ)、尚縫(ぬいのかみ)は、正四位であった。これに対し、尚侍(ないしのかみ)は従五位と低かったが、平城天皇の頃から内侍司の権威がしだいに上り、やがて蔵司の地位と同等になり、蔵司の本務を掌る尚蔵(くらのかみ)の任務を尚侍(ないしのかみ)が代行するようになった。

宇多天皇時代(887~896)、神璽を保管する賢所が温明殿に移動、尚侍は別格として、内侍司典侍(ないしのすけ)以下の女官が温明殿に移り、守護するようになると**賢所は「内侍所」**と呼ばれるようになった。

「蔵司(くらのつかさ)」は村上天皇時代(946~966)の頃までに姿を消してしまった。

➂[書司(ふみのつかさ)]

尚書、典書および女嬬とともに書物、紙、墨などを掌る。

➃[薬司(くすりのつかさ)]

尚薬(くすりのかみ)、典薬(くすりのすけ)および女嬬とともに医薬を供する役で平安時代には**典薬寮の所管**になった。

⑤[兵司(つわもののつかさ)]

尚兵(つわもののかみ)、典兵(つわもののすけ)、女嬬(にょじゅ)などとともに兵庫寮から必要な兵器を出して供することを掌る。

⑥[闤司(みかどのつかさ)]

闤(みかど)は御門(みかど)、宮中の門のことをいい、尚闤(みかどのかみ)、典闤(みかどのすけ)、女嬬などともに門の鍵を預かり、出し入れを掌る。

⑦[殿司(とのものつかさ)]:

主殿司(とのものつかさ)とも書き、尚殿(とのものかみ)、典殿(とのものすけ)、女嬬(にょじゅ)とともに燈火や薪・炭などを掌る。村上天皇時代(946~966)の頃に男官の主殿寮に置かれるようになる。

⑧[掃司(かにもりのつかさ)]

尚掃(かにもりのかみ)、典掃(かにもりのすけ)、女嬬とともに後宮の殿舎の維持・管理や朝夕の格子の上げ下げや清掃を行う。

⑨[水司(もいとりのつかさ)]:

尚水(もいとりのかみ)、典水(もいとりのすけ)、女嬬六人とともに漿水(しょうすい、水・飲物)や雑粥を掌る。

⑩[膳司(かしわでのつかさ)]:

膳司の役目は内膳司の御厨子所(みずしどころ)で調理された料理を配膳する。

宮内省の被官(下部組織)の大膳職(外廷の食膳)の被官の司として内膳司(内廷の食事)その中に台所の御厨子所がある。

平安時代中期に膳司の役目はすべて御膳宿に移ると尚膳(かしわでのかみ)、典膳(かしわでのすけ)、掾膳(かしわでのじょう)はなくなった。

⑪[酒司(みきのつかさ)]:尚酒(みきのかみ)、典酒(みきのすけ)造酒司(みきのつかさ)]とともに御酒を造る役。

⑫[縫司(ぬいのつかさ)]:

尚縫は後宮でも地位が高く、権力もあったが、縫殿寮に改組された。

【用語】

[官人(かんじん)]:朝廷における官職に就いている者の総称。

[官女(かんにょ)]:宮中や貴人の家に仕える女性の総称。男性の官人と区別するための設けられた。

[女官(にょかん)]:後宮に仕える女性官人の総称で「官女」とほぼ同義。「女官」がより正式な呼称として定着していく。

[上臈(じょうろう)]:御匣(みくしげ)殿、尚侍、二位、三位の典侍で禁色(きんじき、赤または青の装束)を許された大臣の娘あるいは孫娘などをいう。

[中臈(ちゅうろう)]:四、五位の女官など

[下臈(げろう)]:摂関家の家司(けいし:役人)の娘、賀茂、日吉神社の家の娘。

[命婦(みょうぶ)]:大宝律令では五位以上のを持っている婦人を内命婦(ないみょうぶ)、五位以上のを持っている官人の妻を外命婦(げみょうぶ)と呼ぶ。

[女蔵人(にょくろうど)]:下臈の女房のことで、御匣殿の御装束や裁縫など種々の御用を務めた。皇后宮、東宮にも女蔵人がいた。

[女房(にょうぼう)]:御匣(みくしげ)殿、尚侍以下、命婦、女蔵人などの総称。

[采女(うねめ)]:大宝律令以前、郡司および諸氏の容姿端麗な娘を選び、朝廷に出仕させた。天皇の近くにも仕えていた。

[女嬬(にょじゅ)]:大宝律令以後、采女(うねめ)は、女官十二司の下に配し、女嬬(にょじゅ)と改名した。水司(もいとりのつかさ)、膳司(かしわでのつかさ)の無位の官女は采女(うねめ)と呼ばれた。

[得選(とくせん)]:御厨子所(みずしどころ)の女官。采女と区別(特別)してよぶようになった。

[刀自(とじ)]:刀自は老女の名称であったがやがて御厨子所(みずしどころ)や御膳宿(ごぜんやど)などの御用を務める女官を呼ぶようになった。

[わらわ(童女)]:皇后のわらわなど、小間使い(こまづかい)のようなもの。

[雑仕(ぞうし)]:雑役を担う女。

[下仕(しもつかへ)]:これも雑仕(ぞうし)と同様雑役をする女。

[半物(はしたもの)]:または「はした」ともいう。召つかいの中でも身分が高くもなくあまり賤しいものでない、中ほどの女をいったようだ。

[長女(おさめ)]:身分の低いもので、下女の長。

[樋洗(ひすまし)]:便器を洗う下女

[厠人(みかわやうど)]:樋洗(ひすまし)と同じように便器を取り扱う下女。

【参考】

1.「官職要解」講談社学術文庫、和田英松、(株)講談社、1983・11・10

2.「知っ得 後宮のすべて」国文学編集部、(株)学燈社、2008・1・10

3.「日本の歴史2 古代国家の成立」直木孝次郎、中央公論社、昭和40年3月15日

4.「日本の歴史3 奈良の都」青木和夫、中央公論社、昭和40年4月15日

5.「日本の歴史4 平安京北山茂夫中央公論社、昭和40年5月15日

6.「日本の歴史5 王朝の貴族」土田直鎮、中央公論社、昭和40年6月15日

陰暦令和六年八月の絵

令和六年八月の暦

8月26日(月)に日本の南にいた台風10号は動き遅く、九州の熊本付近に上陸し、6日間にわたり各地に大雨を降らせ、被害をもたらし、9月1日昼過ぎ、紀伊半島付近で熱帯低圧に変わりました。

西暦では9月1日の今日から秋に入ります。

陰暦では今日は陰暦令和6年7月30日ですが、 陰暦の季節を知る指標である二十四節気では、まだ「7月中」の第14節気「処暑」(西暦8月22日~9月6日)終わりです。

しかし、立秋から1ヵ月経とうとしており、後5日の西暦9月7日(陰暦8月5日)には陰暦では秋も三分一に達します。

(参考:陰暦の秋は陰暦7月(七月節の立秋、西暦では8月)から陰暦9月(九月中の霜降、西暦では10月)までの3ヶ月です。 西暦の秋(現在の感覚の季節)は西暦9月から西暦11月までの3ヶ月です。)

草花に朝露が宿り、秋が感じられるようになる「8月節」の第15節気「白露」(西暦9月7日~9月21日)に入るのは西暦9月7日からになります。

白露(8月節、西暦9月7日~9月21日)の初日(西暦9月7日)から秋分(8月中、西暦9月22日~10月7日)の最終日(西暦10月7日)までの1ヵ月間を「仲秋」といい、この間の満月(西暦9月18日、陰暦8月16日)を「中秋の名月」といいます。

国立天文台暦計算室のHPによると、仲秋(8月節白露と8月中秋分)は陰暦8月を指す言葉であり、中秋は陰暦の秋(七,八,九月)全体の真ん中を指します。したがって、初秋、仲秋、晩秋を含めた秋全体の真ん中の満月ということで「 中秋の名月」が正しいそうです。)

秋分の日の西暦9月22日(陰暦8月20日)は昼と夜の長さが同じになる秋分の日です。この日を境に昼の長さが最も短くなる冬至の日(西暦12月21日)まで日毎に昼の長さ短くなっていきます。

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図01 内裏(皇居)内の後宮

【2024年8月25日のNHK大河ドラマ「光るの君へ」第32回】
藤原道長(塚本佑)は一条天皇(塩野瑛久)の中宮として娘の彰子(見上愛)を入内させました。
しかし、一条天皇は亡き中宮定子(高畑充希)への思いが消えず彰子に気にかけてくれないことを道長は悩みます。

一条天皇が彰子の暮らす藤壺(飛香 舎、ひぎょうしゃ)に通ってもらう手段として、道長はまひろ(後の紫式部吉高由里子)が書いた源氏物語の始まりの段を贈りました。

道長のもくろみが成功し、一条天皇源氏物語に興味を示したので、まひろは道長の命により中宮彰子付の女房として藤壺へあがり、源氏物語の続きを執筆することになりました。

ということで、これから後宮はドラマの表舞台となるため後宮の概要について調べたことを載せてみました。

後宮について】

平安京における図01 内裏(皇居)と後宮の位置は下部の図02 大内裏の地図、図03 平安京の地図を参照)
後宮は皇后や妃などが起居する奥御殿またはそこに住む皇后・妃・女官などをいいます。

天皇が継嗣を得る大義名分により、正妻の皇后の下に、妃(ひ)は皇女、夫人(ぶにん)は三位以上の娘、嬪(ひん)は五位以上の娘を選ぶという妾(めかけ、側室)の制度を定めました。
律令には側室という名称はなく、妾は当時も一般的に用いられ、天皇の側室についても「妾御息所(めかけみやすんどころ)」と呼ばれました。

しかし、妃は醍醐天皇の頃(920年頃)、夫人は嵯峨天皇の頃(820年頃)、嬪は文武天皇の頃(700年頃)あっただけであまり採用されなかったといいます。

正妻である皇后は古来から慣習として皇女でなければならないとされていました。
しかし、飛鳥時代700年頃、藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人となり、聖武天皇(724年)の生母になったため、皇太后に準ずる「中宮」とする「中宮職」を定めました。

このように側近の公卿の娘が夫人になり、天皇自身が身近で奉仕する官女を寵愛するなど時代ととも妾御息所も変化していきます。
そして、平安時代になると天皇の正妻は皇女でなくても皇后になることができ、中宮天皇の正妻であり、皇后に準ずる地位を得ることになります。

平安京後宮としての皇后や妃などはじめ内侍司以下の官女そして内裏の北側に彼女たちが住む七殿五舎の御殿が配置されました。(図01内裏(皇居)参照)
❶承香 (しょうきょう)殿、➋常寧(じょうねい)殿、
貞観 (じょうがん)殿=御匣(みくしげ)殿、❹麗景(れいけい)殿、
❺宣耀 (せんよう)殿、❻弘徽 (こき)殿、❼登華(とうか)殿、
➀昭陽(しょうよう、梨壺)舎、②淑景(しげい、桐壺)舎、
③飛香 (ひぎょう、藤壺)舎、④凝華 (ぎょうか、梅壺)舎、
⑤襲芳 (しほう、雷鳴壺、かんなりつぼ)舎

女御(にょうご)、更衣(こうい)は平安時代の初めの桓武天皇(781~805)の頃から採用されました。延喜式によると、女御は夫人の下で、待遇は嬪と同様でしたが、しだいに地位がのぼり、摂関・大臣の娘を女御として、それから皇后にあがるようになりました。ただ、女御が大臣の娘の場合、皇子を生んでも権力・後ろだてがないと容易に皇后になれませんでした。

女御は、宣旨を下して補せられ、その上位階を賜ります。人員は幾人と定まっていないので、一時期、女御が多く居たこともありました。
また、女御は宣耀殿、弘徽殿、淑景舎(桐壺)、飛香 舎(藤壺)、凝華舎 (梅壺)などの御殿の名称をつけて宣耀殿女御、桐壺女御などと呼ばれ、また父の私第(私邸)の名称をとって堀河女御、高倉女御などと呼ばれました。
(襲芳舎 (しほうしゃ、雷鳴壺、かんなりつぼ)を除く御殿4舎は丸い形の庭に植えられた花や木の名前が御殿の名称になった)

更衣は天皇の御衣を御召し代えたり、御寝所に仕えるようになり、初めの頃は定員は12名でしたがその後、数名となり、その中に寵愛され、妾御息所(めかけみやすんどころ)になる更衣が出てきました。そして、更衣は女御の次で四位か五位の位階が与えられました。

御息所(みやすんどころ)は天皇が休憩する便殿(御座所)をいいますが、そこに伺候する女御や更衣を妾御息所(めかけみやすんどころ)または御息所また後宮を御息所とも呼ぶようになりました。

藤原道長の娘である「彰子」は、一条天皇の「妾御息所」から中宮へと昇進しました。
御匣殿(みくしげどの)は貞観殿の別名で、ここの御装束裁縫役の官女の長の御匣殿別当を略して御匣殿と呼ぶようになりました。

冷泉天皇の970年頃に公卿の娘が入内し、御匣殿別当になり、女御になったといいます。
内侍所(ないしどころ)は御温殿(うんめいでん)の中の神璽が鎮座された賢所(かしこどころ)のことで、内侍が常に詰めていたことから内侍所と呼ばれるようになりました。

薬子の変(薬子、くすこ:藤原式家 藤原種継の娘)
平城上皇(へいぜいじょうこう)と嵯峨天皇の間に二所朝廷といわれる対立が起こり、810年平城上皇重祚天皇に復位)を目指し挙兵した。平城上皇の寵愛を受けていた妾御息所の尚侍(ないしのかみ) 藤原薬子と兄の仲成が助長するも敗北した。(北家が飛躍しますが858年の掌握まで権力争いは続きます。)

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【用語】
[女房(にょうぼう)] 御匣(みくしげ)殿、尚侍(ないしのかみ)以下、命婦、女蔵人などの総称。
[上臈(じょうろう)] 御匣(みくしげ)殿、尚侍(ないしのかみ)、二位、三位の典侍(ないしのすけ)で禁色(きんじき、赤または青の装束)を許された大臣の娘あるいは孫娘などをいう。
[中臈(ちゅうろう)] 四、五位の女官など
[下臈(げろう)] 摂関家の家司(けいし:役人)の娘、賀茂、日吉神社の家の娘。
[命婦(みょうぶ)] 大宝律令では五位以上のを持っている婦人を内命婦(ないみょうぶ)、五位以上のを持っている官人の妻を外命婦(げみょうぶ)と呼ぶ。
[女蔵人(にょくろうど)] 下臈の女房のことで、御匣殿の御装束や裁縫など種々の御用を務めた。
皇后宮、東宮にも女蔵人がいた。
[采女(うねめ)・女嬬(にょじゅ)] 郡司および諸氏の容姿端麗な娘を選び、朝廷に出仕させた。
上古は天皇の近くに仕えていたが、大宝律令以後女官十二司の下に配し、女嬬とした。

図02 大内裏の地図

図03 平安京の地図

【参考】
1.「知っ得 後宮のすべて」国文学編集部、(株)学燈社、2008・1・10
2.「日本の歴史2 古代国家の成立」直木孝次郎、中央公論社、昭和40年3月15日
3.「日本の歴史3 奈良の都」青木和夫、中央公論社、昭和40年4月15日
4.「日本の歴史4 平安京北山茂夫中央公論社、昭和40年5月15日
5.「日本の歴史5 王朝の貴族」土田直鎮、中央公論社、昭和40年6月15日
6.「いっき学びなおす 日本史 古代・中世・近世 教養編」安藤達朗東洋経済新聞社、2016・3・31
7.「地図でスッと頭に入る平安時代繁田信一昭文社、2021・10・1

表1 五行説の季節(四季+土用)

表2 西暦年月日から干支年月日への変換式表

表3 土用の丑の日の計算

2024年8月7日「立秋」の今日から「秋」が始まり、昨日までの「暑中見舞い」から「残暑見舞い」に替わります。
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昨日まで「大暑」で酷暑が続き、今日から「秋」といっても、まだ、暑さは続き、とうてい「秋」とは思えません。

太陰暦の欠点である日付のズレを補うために古代中国ではかなり正確に二十四節気を組み込んだ太陰暦太陽暦を組み合わせた太陰太陽暦を発明し、季節を設定していました。

季節が変化する説明図にあるように、太陽が黄道春分点(0度)、立夏点(45度)、夏至点(90度)を通り、立秋点(135度)に達した日時が「立秋」と決め、秋は「立秋」(旧暦7月、西暦8月)」から秋分点(180度)を通り、「立冬(225度)」に到達前の「霜降点(210度)(旧暦9月、西暦10月)の終わり」までと決めたので、現在の気象観測や天体観測のからの季節より約1ヵ月早い秋の訪れとなります。(現在は二十四節気点到達までの日付時間を秒単位で予測できますが日本の古代や近世の予測は日付、概ねの時間まででした。)

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徒然草の第155段に「春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよおし、夏より既に秋は通(かよ)ひ、秋はすなわち寒くなり、‐‐‐‐‐‐‐、木の葉の落つるも、まず落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざし つはる に耐えずして落つるなり。‐‐‐‐‐‐‐」とあります。(「つはる」は、きざしだした兆候が進むことで、妊娠の「つわり」同じ意)
このように、実際はいきなり、夏から秋になるわけはなく、気温が上がったり下がったりしながら次第に涼しくなり、秋になっていきます。

このように突然秋が来るわけででなく、太陽が立秋点に到達する秋になるまで、すなわち夏から秋へ変化する季節の移行期間を古代中国思想の五行説では第五の季節「土用」を採用しています。

すなわち、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという五行説では四季にはそれぞれ季節の土用という移行期間の季節があり、1年は「春(木)・夏(火)・秋(金)・冬(水)・土用(土)」の5つの季節から成るとしています。
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したがって、土用も四季ごと4回あり、季節が始まる(立つ)、立春立夏立秋立冬の始まる前のそれぞれの移行期間18~19日間が土用であると説いています。

立秋の前日(西暦8月6日)を土用明けとする西暦7月19日~8月6日の約19日間の期間は夏土用と呼ばれ、夏から秋(立秋)になる移行期間です。
夏土用の期間は最も暑い「大暑」であるので、土用期間の大暑の期間の丑の日にうなぎを食べる慣習があります。

土用の丑の日の計算】
2024年の夏土用の丑の日を算出してみました。
① 2024年8月7日は立秋、その前日は土用の明け、この日から19日前の日が「土用の入り」になります。
② 土用の入りの7月19日の干支日付を「西暦日付から六十年干支日付への変換式」から求めます。

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③ 変換結果は表2の7月19日の六十干支日は甲申(きのえさる)となるので、土用の入りは十二支の干支は「申(さる)」となります。
④ この十二支の干支「申(さる)の日」から土用明けまでの19日間の日付と干支は表3になり、7月24日が丑の日で、8月5日が二の丑の日と算出されます。
⑤ 変換式で7月24日と立秋の8月7日の干支日(干支)を確認したのが表2です。

陰暦七月の絵

陰暦七月の暦

陰暦令和六年七月(ふみづき)は「新月」の西暦2024年8月4日(陰暦七月一日)から始まり、「満月」の西暦2024年8月20日(陰暦七月十七日)を経て、次の「新月の前日」である西暦9月2日(陰暦七月三十日)までの30日間(大の月)になります。

陰暦七月(西暦8月)である「ふみづき」の由来は七夕に託して文をしたためる月、または稲が穂を含む「含み月(ふくみづき)」、「穂見月(ほみづき)」が転じて文月(ふみづき)などの説があります。

月の満ち欠けによ太陰暦は1年と太陽の運行による1年との日付のズレが生じていますので、太陽の運行から求めた二十四節気を組み合わせ、補完した太陰太陽暦として実用していました。
徒然草の第一六一段には“桜の盛りは立春から数えて七十五日はだいたい狂わない”と書いています。)

太陰太陽暦の仕組み】
太陰暦の7月 西暦8月4日 ~ 9月2日(陰暦七月一日~陰暦七月三十日)
新月」から「次の新月の前日」までの30日間
② 太陽の運行から求めた7月

西暦8月7日 ~ 9月6日(陰暦七月四日~陰暦八月四日)
立秋」15日間と「処暑」の16日の31日間

2024年7月22日から本日の8月6日までの16日間(陰暦六月十七日~七月三日)が、六月中の第十二節気「大暑」でした。そして、明日の2024年8月7日は第十三節気「立秋」(七月節)が始まり、陰暦では季節は秋となります。

古代日本であれば大暑が終わり、陰暦7月(現在の8月)に入ると秋の気配を感じたかも知れませんが、現代は地球温暖化の影響でこのような酷暑なっているのかわかりませんが、本日の8月6日まで、度々気温30度~40度の酷暑日が続き、明日の8月7日から秋(立秋)になるとはとても思えません。

五行説の1年は「四季+土用」の5つの季節を持ちます。1年は四季がありますので、土用も4回あり、季節が始まる(立つ)、立春立夏立秋立冬の始まる前の変化(移行)期間の18~19日間が土用であると説いています。

西暦7月19日を土用の入りとして立秋の前日の西暦8月6日を土用明けとする19日間の期間は夏土用と呼ばれ、この移行期間を終える8月7日から陰暦では秋(立秋)に入ることになります。

残暑見舞いは「立秋」が始まる西暦8月7日(陰暦七月四日)から「処暑」の最後(白露の前日)の西暦9月6日(陰暦八月四日までとされています。

西暦8月31日は二百十日立春から数えて210日目)で、この頃から台風が多くなり、注意が必要になってきます。

七月節(16日間)
二十四節気
第十三節気「立秋」(陰暦七月四日~七月十八日、西暦8月7日~8月21日、15日間)

七十二候
第三十七候「涼風(すずかぜ)至る」(陰暦七月四日~七月八日、西暦8月7日~8月11日、5日間)
第三十八候「寒蝉(ひぐらし)鳴く」(陰暦七月九日~七月十三日、西暦8月12日~8月16日、5日間)
第三十九候「深き霧まとう」(陰暦七月十四日~七月十八日、西暦8月17日~8月21日、5日間)

六月中(16日間)
二十四節気
第十四節気「処暑」(陰暦七月十九日~八月四日、西暦8月22日~9月6日、16日間)

七十二候
第四十候「綿の柎(はなしべ)開く」(陰暦七月十九日~七月二十四日、西暦8月22日~8月27日、6日間)
第四十一候「天地始めて寒し」(陰暦七月二十五日~七月二十九日、西暦8月28日~9月1日、5日間)
第四十二候「禾(こくもの)乃(すなわ)ち実る」(陰暦七月三十日~八月四日、西暦9月2日~9月6日、5日間)

陰暦六月の絵

陰暦令和六年六月(水無月)は西暦2024年7月6日(陰暦六月一日)から始まり、西暦8月3日(陰暦六月二十九日)まで29日間の小の月になります。
そして、二十四節気第11節気「小暑」の六月節と第12節気「大暑」の六月中にかけ夏本番を迎えます。

陰暦六月(西暦7月)はじりじりと照り付ける酷暑が続き、水が枯れ果てることことから水無月(みなづき)といいます。

暑中見舞いは小暑が始まる陰暦六月一日(西暦7月6日)から大暑の終わる陰暦七月三日(西暦8月6日)の立秋の前日までとされています。

六月節(16日間)
二十四節気
第十一節気「小暑」(陰暦六月一日~六月十六日、西暦7月6日~7月21日、16日間)

七十二候
第三十一候「温風(あつかぜ)至る」(陰暦六月一日~六月六日、西暦7月6日~7月11日、6日間)
第三十二候「蓮(はす)はじめて咲く」(陰暦六月七日~六月十一日、西暦7月12日~7月16日、5日間)
第三十三候「鷹技を習う」(陰暦六月十二日~六月十六日、西暦7月17日~7月21日、5日間)

六月中(16日間)
二十四節気
第十二節気「大暑」(陰暦六月十七日~七月三日、西暦7月22日~8月6日、16日間)

七十二候
第三十四候「桐はじめて花を結ぶ」(陰暦六月十七日~六月二十一日、西暦7月22日~7月26日、5日間)
第三十五候「土潤って蒸し暑し」(陰暦六月二十二日~六月二十七日、西暦7月27日~8月1日、6日間)
第三十六候「大雨時々降る」(陰暦六月二十八日~七月三日、西暦8月2日~8月6日、5日間)