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2024年10月9日時点での考察

ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。

(宗書)478年中国に使いを出した 倭王武が、21代雄略天皇だとすると 神武天皇の間には20代居るので278年が、神武天皇の時代となる。それから5代遡ると天照大神の時代は まさに 卑弥呼の時代となる。

第10代 崇神天皇の時代に 第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそ ひめのみこと =箸墓古墳)が出て来るので、卑弥呼とは80年~100年ほど違う。〔日本書紀崇神天皇が占わせたと書かれているので、巫女は桃の種を使った〕

この事を前提として 話を進めます。

日本列島は、縄文時代から稲作(水稲)を行っていた事が証明されています。それまでは 中国→朝鮮半島→九州へ伝来した。そこから弥生時代は、水稲の伝来から始まったと 教えられてきました。ところが、発掘調査(プラント・オパールの研究)のおかげで 水稲農業は、日本が早かったこと(BCE 30世紀~40世紀)(朝鮮南部でBCE 5世紀~10世紀)が証明されて歴史書が 大きく変わってきました。九州から中国に伝来されたのです。ただし、それを認めたくない研究者により調査段階で混入を疑う人たちがいる。その人たちは、朝鮮半島を経由して伝わったと頑なに唱えているが、朝鮮半島の田=畑の意味を説明しない。

ルートは、朝鮮海岸沖を通って揚子江。沖縄→台湾→揚子江。の2ルートが考えられます。ちなみに、中国⇆九州の直接ルートを取る 図が出てきますが、天動説を採用し、海の端は切れて海水が流れ落ちていると考えられていたからです。当時に 目標も見えない航海をするとは思えません。中国から倭国に向かうにしても 陸地が見える範囲でしか漕がない筈です。又、帆掛け船もエジプトは紀元前20世紀頃から使われていたそうですが、中国・日本ともその痕跡の遺跡は見つかっていません。後の時代の遣唐使船や渡仏船にしても帆は使っていません。目標の陸地に向かって懸命にオールを漕ぐしかありません。そして、中国北部・朝鮮半島には当時稲作をしていた遺跡が見つからない事や 当時の水稲が寒さに弱い事が分かってきます。日本から朝鮮半島全体や中国北部に水稲が伝わったのは、寒冷対策の品種改良が行われた日本からの移民(20世紀初頭)からです。故に、①②③④⑤ルートとも却下となります。

多くの先生方が、簡単に渡海をするイメージを持たれますが、④のコースなど遭難覚悟のルートです。

出雲から朝鮮半島への交易も 出雲→松浦半島→壱岐対馬→朝鮮 となります。海流が早い日本海を西に進もうとしても何日掛かるでしょうか?日の出から日の入りまで懸命に漕いで1日1,000里と云われています。狗邪韓国(くやかんこく)から対馬国までが、1,000里です。最短距離で49.5㎞です。釜山から出雲までの距離が563㎞ですので、10倍の距離=10日間昼間休まずに漕ぎ続け 日本海の海流の速さは時速4㎞と云われています。10日間漕ぎ続けても夜休んでいたら戻されて10日後には能登半島に到着するでしょう。

故に、必ず松浦半島経由でなければ、陸に上がっての休憩が取れません。又、食料や水の確保も出来ません。

後で、記載しますが伊都国の重要性が認識されます。通行税を払わなければ拿捕されて略奪されます。

話しが逸れましたが、中国からの難民は朝鮮半島沖合ルートか台湾経由の沖縄ルートしか考えられません。(一部の生き残った遭難者が、出雲・越に上陸した)

日本本土には、BCE 20世紀頃から 中国の乱を逃れて渡って来た民が多くいた事でしょう。その中には殷王朝・周王朝の末裔なども居たかも知れません。

BCE 220年頃 徐福が、始皇帝の命を受け3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝財産五穀の種を持って東方に船出したと伝えられています。この多くの技術者たちが後の物部氏となります。私は、徐福渡来を 弥生時代の始まりとしました。今までパラパラと避難してきた民と全く違った征服を目的とした民です。5千人規模の移民で農耕技術や機織技術など多くの技術者を連れていますが、武器も持っています。只 兵士の数は多く無かったと思われます。渡来して来た時は、先住民=縄文人との争いが起こった事でしょう。日本人のDNA染色体が日本は侵略されていないと結論付けていますので、争いはあっても政略結婚で結びついたと思われます。

本題に戻ります。

天照大神卑弥呼なら 高千穂から出発した神武東征の適合性が取れません。宇宙人しか考えられなくなります。熊本から高千穂まで車で2時間以上かかりますし、高千穂から延岡に下るのにも2時間以上かかります。

高千穂に行って見れば分かりますが、凄く山奥で川沿いの小さな町です。ここで 日本を征服できる兵士や武器食料などの物資が揃う筈も有りません。凄い田舎なのです。最先端の技術・武器・物資などは全て海岸線沿いに在ります。そこで、可能性が高いのが、糸島・有明海沿いとなります。鉄の高温溶鉱炉の遺跡は、糸島・菊池などの北部九州の海岸沿いにあります。これを見ても 糸島に卑弥呼。菊池平野に狗奴国と見るのが自然でしょう。

では何故 卑弥呼が伊都国かと云うと、中国・朝鮮半島の交易は全て糸島が検閲権を握り 通行税を取っていたからです。卑弥呼は他国から共立されて女王になっています。年貢を納める習慣があると魏志倭人伝には記載してありますが、これは小国内の話です。国と国を結ぶ道路が整備されていない事から 中央集権国家(日本で始まったのが飛鳥時代)では無かった。と考えられます。卑弥呼は租税の代わりに伊都国の検閲権を掌握したのです。弟が一大卒となり同盟国に睨みを効かせます。帯方郡出先機関を伊都国に置き、他国の抜け駆けを見張ります。魏志倭人伝では 今も30ヶ国が 中国に朝貢していると有りますが、日本本土から朝貢が可能なのは 出雲・吉備・安芸・遠賀・狗奴国くらいでしょう。それも全て 一大卒に情報が入っており 通行税も取っています。逃れようとした船は拿捕しそして沈めました。倭寇の原型が始まったのです。

何故、中国からの移民が卑弥呼の祖先と云うのかは、生口文化です。魏志倭人伝は、生口と奴婢を使い分けています。刀伊の入寇(といのにゅうこう)1019年の時ですら 生口として島民が捉えられ食べられています。中国の文化なのです。

疑問

邪馬壹国は、入れ墨文化や生口(食人)文化がある。又、縄文人も入れ墨文化圏(入れ墨埴輪が東北にある)

一方 大和朝廷は入れ墨文化が無くなっている。

この事から、時代と共に少しずつ変わって行ったと思われる。

卑弥呼=太陽神 天照大神たちは、秦族を主体とした移民族 (先住の民と婚姻関係を結びながら子孫を増やす。)その内の一部の者たちが、自分たちの先祖は周王朝の末裔だと云い 正当性を主張する者が現れる。この者たちの首領が、神武大王になった。その後の10代(100年間)は、誰が本当の周王朝の末裔 姫氏なのかの争いになり 真偽が分からない状態になった。しかし、直系を示す為に名前だけでも記載した。

神武大王が熊襲出身説は、ここではその説を問題としない。

天皇家の家系を多くの学者が研究しているが、当時の書物(記紀・宮下文書・ウエツフミホツマツタヱ・出雲口伝・先代旧事本紀東日流外三郡誌など)がバラバラなので、真実は不明だが、卑弥呼天照大御神は、伊都国(糸島)に住み 倭寇の先祖だと断定できる。

2024年10月10日時点での考察

ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。

神武東征の疑問箇所

(宗書)478年 倭王武は中国に使いを出した。

倭王武=21代雄略天皇であろう(定説)

初代神武天皇の間には20代あるので278年が、神武天皇の時代である。

天照大御神は、神武天皇の5代前=50年前

安本美典氏(統計学)中世以前の統計で世界の帝王は10年で代替わりしている。〕

卑弥呼天照大御神の確率が高い

天のやすかわの地に隠れた 夜須では?小石原川(旧 ヤスカワ)は朝倉を通って筑後川水系

万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきづしひめのみこと)=台与=豊

筑紫は、筑前筑後。豊は、田川などの遠賀川水系を主とし 大分も含む。肥は、主に阿蘇周辺。熊襲は、熊本・鹿児島・宮崎などの九州南部を示す。(熊襲は田舎を示す蔑称)

天孫降臨とは、異民族と考えれば、突然 宮崎の高千穂では無理がある。

中国からの移民&徐福たち(紀元前219年と210年)の可能性が大きい。

松浦半島に上陸したが、農耕地が狭く 分かれて有明海沿いに上陸

コノハナサアクヤヒメ(別名神吾田津姫(カミアタツヒメ))と出て来るので、熊襲(熊本・鹿児島・宮崎などの広域)と主張する学者が多い。

愛宕山・笠沙山

糸島市沖の大島の愛宕神社【かつては天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の2神を祀る「鷲尾神社」でした。】

笠沙山と御笠山(別名宝満山・竈門山)カササとカサが同じ。且つ、竈門と云う地が後々度々重要な土地となる。

日向の高千穂が重要なら後の皇族が何回も向かう筈であるが、筑紫に行っても高千穂には向かっていない。

天照大神の子の天忍穂耳命アメノオシホミミ)と万幡豊秋津師比売命(ヨロズハタノアキノヒメ)=台与の子が瓊瓊杵尊(ミミギノミコト・天照大神の孫)は、木花咲耶姫コノハナサアクヤヒメ)との間で 神武大王が生まれる。

考察、

徐福たち(紀元前219年と210年)は、松浦半島に上陸し しばらく生活していたが、耕作地が狭く一部を残して 有明海沿いに移動。

松浦半島に残った者たちが、糸島に都を作った。中国との交易を始めると共に 農地を求め東進する。(第1次物部東征)近畿で、出雲地方から進出してきていた部族と婚姻により互いの勢力下に置く。

有明海沿いに上陸した者たちも 海岸沿いの吉野ケ里や川を上って朝倉と勢力を伸ばし、浮羽・日田へ進出。

もっと南の熊本平野に上陸した者たちは、狗奴国を築いた。

魏志倭人伝の誤り

倭人伝には、昔からの伝承などを取り入れ当時の風習などいい加減な表記になっている。帯方郡からの使者(梯儁)は、何故だか不彌國(フウビ・フヤ)まで行って、伊都国に戻っている。(距離が里から日に変わっているので行っていないのは明らか)その為、南至投馬國、水行二十曰。南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。は、伊都国からの距離。(放射説を取る)

投馬國へは、伊都国より 船で御笠川宝満川を経て筑紫平野の妻郡へ

邪馬壹國へは、伊都国より 船で御笠川を上り 大宰府から宝満山(御笠山・竈門山)田川から朝倉の広大な領地 に向かうルートになる。

故に、女王によって都(統)べられる 邪馬壹国は宝満山を中心にしたエリアとなるが、卑弥呼が住んでいたところは、伊都国である。

態々、船で行けるところを陸行1ヶ月と云ったのは、他国を信用していなかった為と思われる。(他の倭人も中国に朝貢していた【舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國】【伊都国は、郡使往來常所駐】)田川と朝倉は山で分けられているが、宝満山を祭場としたと考えられる。同盟国は、元は同じ物部氏だが、何代か過ぎるうちに別のグループとなり、国が変わったが、同じ女王国。

狗奴国とは、元は同じ秦族の物部氏だが傍系の女王に反対している。場所は、熊本平野と一部の菊池平野。

山鹿平野は女王国同盟。

倭国大乱と天の岩戸の関係

天照大神が岩戸に隠れた(高貴な人が死ぬ=隠れると評する。岩戸で死んだ・那珂川市岩戸村?

私は、竈門山の洞窟と考えている)ので、皆で大騒ぎ(争う)=再び乱れる。そして 新しい日御子巫女(ヒノミコ・台与・豊)を女王とした。そして2代目襲名儀式(飲みや歌への大騒ぎ)を行う。

20年後に台与が宇佐の地で死にその場所に宇佐神宮を建てる。

卑弥呼=日御子巫女=太陽神

その30~40年後に神武東征が始まる。邇邇芸命ニニギノミコト物部氏の先祖)は、

ココから諸説ある。

有明海より南周りで領地を広げて行くが、鹿児島は火山灰に覆われ 農耕に適する場所は無い。探している時 豪族の大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘コノハナサアクヤヒメと結婚し、神武大王を産む。四国沖を回り近畿へ入る。

Ⓑ吾田の長屋の笠狭の碕とは、コノハナサアクヤヒメ別名神吾田津姫(カミアタツヒメ)の住居近くの御笠川岬の事。愛宕山(糸島大島)・笠沙山(カササ・御笠・宝満山・竈門山)から流れる河口岬(海の中道

第1次東征と第2次東征を混ぜて記載しているので、第1次の行程(陸行:田川→宇佐→黒崎 一時撤退。)第2次の行程(水行:安芸→吉備)

私は、鹿児島ルートは取っておらず、最初は 南周りを考えていたが、痩せた土地で農耕に向かないと考えなおし、北部九州の北回りに変更した。

何故 東征なのか?新しい耕作地を探す若しくは、支配地を探す。日本の中央が近畿地方だとは 誰も思うはずが無い。中央は筑紫に決っている。

2案

神武大王が鹿児島回りをして日向→宇佐神宮(台与のお参り)→黒崎岡田宮→広島県広島市にある「多家神社(埃宮)」→吉備国高島宮

とあるが、第1次東征と第2次東征を混ぜて伝承(記紀に記載)されていて正確には分からない。

ただし、神武大王が、浪速の国でナガスネヒコが待ち構えていた。との記述から 先に近畿入りしていた出雲族物部氏の子孫の者たちの抵抗と考えられる。邇藝速日命ニギハヤヒ)が出迎えた点を考えると、神武大王が物部氏の直系であり、先に近畿入りしていたのは先発隊で傍系と思われる。

物部氏とは、中国からの渡来人の1つのグループと考えられる。

第1陣グループ 周王朝の姫族の末裔で、呉地域から逃れてきた民

第2陣グループ 徐福率いる技術職の軍勢

その他。各地からバラバラに渡海してきた民

日本はかつて「姫氏国」という倭漢通用の国称[2]をもっていた。日本紀私記の丁本によれば、野馬台詩には日本のことを「東海姫氏國」と称し、また日本神話において皇室の始祖は天照大神とされ、女帝・神功皇后を輩出していることから姫氏の国と呼ぶという。

なお、漢の文化における「姫」は、黄帝王の姓、そしてその継承者の姓を意味し、こちらに関連する逸話もある。

魏志倭人伝の大きな疑問点

5万戸や7万戸の住居が有るはずが無い。=陳寿は呉への対抗として大きな国と思わせたかった。 そして、呉国會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。と記載した。【顔や体に入れ墨をした虞仲の子孫が東に存在することが重要】

生口を献上したと書いてあるが、奴婢だったかもしれない。

生口=食用。奴婢=奴隷

周の古公亶父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物としてこれを断った。

この事から、倭人は皆黥面文身をしていると云う中国の伝承が有ったのかもしれない。(魏志倭人伝の文章は継ぎ貼りが多く信用性が薄い。特に【舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。】の記載で、倭国で漢に百余国が朝貢する国家が在るとは思えない。その上 今でも30国が朝貢している事が、誇張し過ぎである。30国あるとすれば、邪馬壹国クラスが30国もあるとは考えられない。魏志倭人伝以外に邪馬壹国以外が朝貢した形跡がない。あるとすれば、琉球王朝朝鮮半島倭人国家

日本侵攻時期

**刀伊の入寇**(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)3月末から4月

1274年文永11年・至元11年)10月3日、

1279年弘安4年・至元16年)5月

航海技術が発達し、真冬でなければ渡海出来る。

帆掛け船の概念は、日本にはまだ無かった。ギリシャでは紀元前から有ったので、中国では有ったかも知れないが、赤壁の戦いでは使われていない。渡海でも大型の手漕ぎボートなみと考えられる。渡仏船でも船倉に釘を打ち付け 水が入らない様にしていた。

7世紀遣唐使船 帆ではなく旗が靡いている。

中国へ向かうには、島伝いで、島や陸地が見える範囲での海岸線沿いの渡航とならざるを得ない。

九州の覇者たちは、正当な周王朝の末裔たちと徐福達の秦族たちの勢力争いでもあった。その徐福達の中でも徐福子孫と技術者たちの間にも諍いがあった。

最終的に、周王朝の末裔が正当なる大王となり神武大王となる。それに不満な秦族の代表格が、狗奴国王であった。

諍いを好まない黄帝周王朝の末裔たち姫氏は、各地と姻戚関係を築きながら その勢力を広げて行く。実に日本らしい発想である。(征服するのではなく、その地の有力者の娘を娶り 子にその地を統治させる。鎌倉時代前の統治方法で互いに納得できる)

農耕を広めた穏健派の黄帝の子孫と規律を重んじる秦族の血は、日本人そのもの

2024/09/03 検証 邪馬壱国と女王国

この半年間、暇に任せて 多くの資料やSNS上の説を読んで、少し訂正すべき点があると気づきました。

一大卒は卑弥呼の弟であり、糸島に住んでいた事に確信を持てました。では何故 伊都国なのか?の疑問も湧きます。そこで、矛盾点を洗い直すことにしました。

魏志倭人伝の矛盾点

印綬を授けるに値する国家なのか。侵略して朝鮮のように支配下(植民地)に 置いた方が良いのではないのか。

倭国倭王の位を仮授して下賜品を与える為との名目で、調査に来た。朝貢国となる倭国を助ける為の調査に来たのではない。ましてやミシュランガイドに載せる為ではない。兵糧・兵力・装備などの調査

行かなかったor行けなかった から。途中からは倭人に話を聞いただけ。

定説が1戸5人くらいと云われているが、身分の低い者でも2・3人の妻を持つとあるので、妻ごとに家を持つなら2・3人が住む戸となる。15万戸で、35万人か? 実際に数えた訳でもないので、戸数は割と多めに書いたと思われる。そして、中国の見方で1戸5人住んでいると呉が思えばよいのである。

弥生時代の人口が60万人しかいない(PCで調べた。ここでも1戸5人計算の為 12万戸)のに、倭人伝に掲載されている国だけでも15万戸ある。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種との記載で、7万戸が怪しくなる。また、7万戸の人口を支える 食糧と薪などの燃料が無い。朝貢に来ているのが30国くらいあるという事は、最低でも30万戸あるのでは?

研究者の中には、食料だけを考え石川地方を邪馬壱国と云われる方も居られますが、石川地方には大集落の遺跡は無いし、豪雪地帯で生き延びる燃料(薪)が足りない。簡単に藁を燃料にしたと云う都会人的な発想をされる方は、火が付きやすく燃え尽きやすい藁だけで暖を取るには どれだけの藁が必要かを検証すべきです。

共立されるまでは、菊池山鹿平野(大津も含む)に住み 熊本平野の狗奴国と争っていたが、北部九州の国家の王は、巨大勢力の狗奴国と 互角に戦う卑弥呼に 共立の女王になって欲しいと頼む。当時は中央集権の様に 国家間の道路は整備されておらず、税の徴収は 1国家内に留まっていた為、卑弥呼と弟は 中国・朝鮮朝貢の検閲権を要求。そして、卑弥呼たちは 伊都国に移り住み日本国から朝貢に行く30余りの国家の検閲と交易の検閲権を握り膨大な財を得る。壱岐対馬に渡り住むと 各王の動きが分かりにくいので、壱岐~松浦半島に向かうには 伊都国が、重要と認識した。初めは、奴国を要求したが、奴国王が拒絶した。

倭人伝に記載されている邪馬壱国は女王が都する(統治する)国のことで、昔 女王が住んでいた 女王の直轄国である。

投馬国が有明海沿いの妻郡だとすると南へ水行10日+陸行1ヶ月で、有明海を南下し菊池川を上り、歩けば確かに大津くらいに到達できる。国の大きさを考えれば 投馬国より広い。

他の国へは、至と記載されているのに 伊都国だけは到と記載。 陳寿は、帯方郡からの使者が伊都国までしか行っていないのでは と考え、到と書いた。どうしても、伊都国以降の行動に腑に落ちない点があった為。奴国・不彌國・投馬國・邪馬壹國の記載が雑で、伊都国までのような細かな記載が無い。

単純に考えれば、不彌國に寄る必要は無い。奴国からたった東行百里千余家の弱小国に 何故 寄らねばならないのか? 私は、不彌國から御笠川を船で上り 梅雨の中 南の投馬國へ水行20曰かけて向かう。大宰府が不彌國と考えていたが、妻郡(夜須・朝倉・浮羽 )の可能性が高いと思い始めた。葦船を使えば御笠川から宝満川への移動は難しくない。ここでの 投馬國5万戸は、奴国の2万戸より大きな国であるくらいの意味(倭人は数を良く理解できていないようだ。対馬より壱岐の方が 戸数が3倍多いなど腑に落ちない。壱岐でも対馬でも帯方郡の使者は戸数を聞いただけ)

多くの学者が、奴国から東に100里の不彌國を宗像や飯塚など大変遠くに説明されるが、たったの10㎞である。末廬國から伊都国までが東南に500里なのだから その距離の5分の1の距離を間違えるだろうか?

伊都国からの放射線型の考えでは、不彌國は今宿近くになるし、伊都国から南に20日行くと博多湾沿いに南下し(当時の博多湾は内陸まで入り込んでいる)これも同じく御笠川から宝満川経由で妻郡に至る。

では、何故 不彌國に寄ったのか。当時の伊都国は海岸沿いであったので、渡海用の船から葦船に乗り換える為 記載したのだろうか。大した距離では無いので 連続式と放射式でも そんなに変わりはない。

しかし、行っていないのなら、言われた通りに報告しただけなので深く考える必要は無い。

帯方郡から狗邪韓國までも陸行と云う学者も居られますが、船の方が楽だろう?偉い帯方郡の使者を歩かせる理由がない。そして、倭国上陸してからは、草木茂盛、行不見前人の様な 整備されていない道(獣道)を歩くだろうか。裸足では足が滑る梅雨時に輿には乗りたくない。

⑨ 1里は何キロ

何時も1里は何キロなのかを問題されますが、狗邪韓國から對馬國までが、水行1千里なので、(実際95㎞) 1里95mであろう。末廬國から伊都国までが、陸行500里なので、(実際52km) 1里100mとして考えれば 次からは簡単です。

陸行したのは、末廬國~伊都国は確実ですが、その他は 不明です。私は、水行と考えるのが自然と思います。理由は、足が痛いから。歩くと靴が汚れるから。兵庫県知事さえ20m歩くのに怒ったのである。帯方郡からの偉い使者が歩かせる わけがない。

重要ポイント

陳寿倭人伝を書いた理由は、呉に対する牽制の意味が強いなら、兵力を少し多めに書いてもおかしく無い。

赤壁の戦いに負けた魏にとっては、呉の後方から攻めて来る可能性がある倭人は驚異のはず。倭人琉球列島から台湾経由して呉に攻める事が出来る。邪馬壱国は15万戸を要する 海洋民族である。

魏志倭人伝を記帳面に考えず、字も読めない・距離も分からない田舎者が 道案内したと 緩く考えれば、割と簡単に邪馬壱国の場所は分かるのではないのか。

ましや、帯方郡の偉い使者の公務員=やっつけ仕事 と考えれば、想像が出来る。

中国には倭国を記した書物が多々あります。

漢書』では、朝鮮半島の南の海の中にあると書いており、『論衡』では、越常が併記され、は中国の南の呉越地方揚子江下流域の南付近)と関連があると推定しているようである。『晋書』や『梁書』などでは「太伯之後」と記し、倭人の祖である太伯の子孫と自称していたことを記録している。

現在残されている中国の文献には266年から413年にかけて倭国に関する記述がないことから、日本では4世紀を「空白の4世紀」と呼ぶ[1]

論衡倭人について、

時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

代は日本縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、周の成王の在位は前1042年~前1021年とされるが、『論衡』自体はかなり後の後漢の時代の1世紀に書かれたものである。なお、暢草には、霊芝ウコン香花草等の説がある。

山海経』第十二「海内北経」

「蓋國在鉅南 倭北 倭屬
蓋国は鉅の南、倭の北にあり。 倭はに属す。

倭は朝貢していたと考えられていたことがわかる。ただし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっており、「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。この黒歯国と倭が関連付けられている記載として、以下のものがある。

三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝
「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」
女王(卑弥呼)国を去ること4000余里(4000里前後)に裸国が有り、また黒歯国が在り、(裸国から)東南に船でおよそ一年である。

梁書』巻五十四 列伝第四十八 諸夷伝 東夷条 倭
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 」
その(女王国の)南に侏儒国が有り、(侏儒国の)人の身長は三四尺(古代中国の1尺は、隋までは23cm前後なので、三四尺は23cm×3≒70cm〜23cm×4≒90cm)である。また南に黒歯国と裸国があり、倭を去ること4000余里(4000里前後)、船で およそ一年で至る

中国正史倭人の文字の初出は『漢書』地理志である。

漢書』地理志地条

東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫! 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。

然して東夷は天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。それ、以(ゆゑ)有るかな! 楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

一方、東夷は性質が柔順であり、他の三方(西戎南蛮北狄)と異なる。そのため、孔子は、中国の中原では正しい道理が行われていないことを残念に思い、(筏で)海を渡って九夷に行きたいと望んだ。それは理にかなっている! 楽浪郡の先の海の中に倭人がいて、百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来た、と言われている。

また、の南方にあったの地理を記す「呉地」の条に、東鯷人の記事がある。

漢書』地理志地条

會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云

会稽の海の外に東鯷人有り。分ちて二十余国を為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

会稽の海の外に東鯷人有り。二十数カ国にわかれており、定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。

(テイ)」には、ナマズ説と説がある。記紀年魚と記される。

東鯷人と倭人が同じ人々を指すのかどうかについては不詳であるが、谷川健一は、「わが列島の中に「東鯷人」の国を求めるとすれば、阿蘇山の周辺をおいてほかにないと私は考える」と記している[2]

後漢書東夷伝

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う

倭奴国(の王)は、(朝鮮半島中部の楽浪郡を介して)、後漢の都の洛陽にまで使人(高官)をはるばる派遣し、朝貢した。光武帝によって授けられた金印倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾志賀島で掘り出されたものとされている。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国か)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)国王と読む説もある。

一方、中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。

北史倭国

安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。

後漢安帝の時(106-125年)、また遣(使)朝貢した、これを「倭奴国」という

隋書倭国

安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國

後漢安帝の時(106-125年)、また遣使朝貢した、これを「倭奴国」という

旧唐書倭国・日本国伝

倭國者、古倭奴國也。

倭国とは、古の「倭奴国」なり

この後は倭国大乱卑弥呼の記事があり、『三国志』の『書』東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に似ているが、「大乱」の時期を「桓霊間」(桓帝霊帝の時代)と具体的に記すなど相違点もある。魏志東夷伝」にはこの他、『漢書』地理志から引用したと見られる「東鯷人」の記事、『三国志』の『書』孫権伝から引用したと見られる夷洲と亶洲(「澶洲」と誤記)の記事もある。

「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」

檀石槐伝

後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。

「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」

魏志倭人伝』

三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」

倭人帯方郡[注釈 2]の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国

東夷伝には、夫余高句麗東沃沮挹婁馬韓辰韓弁辰倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。

東夷伝の韓伝冒頭にも倭という記載がある。

「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。

『晋書』

晋書武帝紀 太康10年(289年)条

「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」

この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。倭人については東夷伝武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。

邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人卑弥呼については書かれている。また266年の「倭人」の朝貢日本書紀の**神功皇后**紀に『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致し、その前の文帝(司馬昭)の時代(255~265年)にも何度もやって来たと東夷伝にあるので、この女王は台与と考えられている。

神功皇后(じんぐうこうごう)成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇仲哀天皇皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。

なお、実在したとすれば後述の広開土王碑文三国史記七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などから総合して4世紀後半ごろの可能性があるが、実在の可能性が高く『日本書紀』編者が比定したとされる「魏志倭人伝」にあらわれる卑弥呼の生涯とは約120年の差がある[1]

略歴

父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天之日矛の子孫・葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいる。

仲哀天皇2年、1月に立后天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。『古事記』分注の没年干支では仲哀天皇崩御は西暦362年に比定される。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。

翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である麛坂皇子忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。

熊襲征伐

仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。3月、天皇紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。

仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮武内宿禰審神者として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒魂)、事代主神住吉三神などであることを確認した。しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。3月17日、皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、20日に層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲という者を討った。そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安(夜須)という。

3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。

三韓征伐

仲哀天皇9年4月、松浦郡で誓約(うけい)を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には(筑紫夜須)にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。*夜須に船を集める?

また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。

10月、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。その勢いは船が山に登らんばかりだったという。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ[5]、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗百済朝貢を約束した。

地図の安とは、夜須の事で 入り江になっていた。

帰国した後の12月14日、皇后は筑紫誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。

熊王との戦い

新羅を討った翌年(摂政元年)2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇を行った。そして畿内への帰途についた。

現在の「忌宮神社(下関市)」か その周辺のことだと思われます。
推古天皇は豊浦宮で即位していますが、これは奈良県高市郡明日香村の地名です。蘇我蝦夷は豊浦大臣とも呼ばれていまして、これは豊浦に住んでいたからです。ただ、豊浦という地名はどのように考えても「港」に付けられる名前で奈良の盆地でつく名前ではないので、下関の豊浦が有力。

しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王住吉まで撤退した。

熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神稚日女尊事代主神住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。

彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は

皇后軍を率いる武内宿禰武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。逃げ場のなくなった忍熊王は五十狭茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。

いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な

熊王と五十狭茅宿禰は共に瀬田川入水し、遺体は後日になって引き上げられた。同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。

摂政2年11月8日、天皇河内国長野陵に葬った。

摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。

摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿笥飯大神に参拝。笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。

新羅再征

摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。

摂政46年3月、斯摩宿禰朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。

摂政47年4月、新羅百済朝貢してきた。百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。

摂政49年、新羅を再征伐。将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、百済から宝物をもたらした。

摂政62年、新羅朝貢してこないので葛城襲津彦に征伐させる。

摂政69年、4月に崩御

266年「11月に倭人が方物を献じた」に続いて、「円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせた」と解釈した記事を、あえて連続したものと見てとって「晋書武帝紀に東夷の前方後円墳のおこりが記されている」と即断した新説が提示されているが、依然として懸念が残されている。

宋書倭国

「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」

昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王

時の順帝は、上表に応え、詔を以て武を、使持節、都督倭・新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東大将軍とした。

倭王に叙爵し、倭国朝貢をし、宋が倭王(武)に対して、百済を除く朝鮮半島及び倭の六国支配を認めた。倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。

南斉書』列伝 第三十九 蛮 東南夷

「倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。」

倭国関係は東南夷伝に書かれている。冒頭は前正史の記述を大きく抄録したもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。

479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号を鎮東大将軍に昇格したことなどが書かれている。

『梁職貢図』に記された皇帝に対する周辺国や少数民族進貢の様子の中に、倭国の記載がある。

倭国についての記述

倭国は南斉の建元(479年〜482年)に、上表した。

斯羅国(新羅)についての記述

「斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉」[3][4]

斯羅國は元は東夷の辰韓諸国の中の一小国であった。の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に服属し、あるときはに服属していたため、国王は使者を派遣できなかったとしている。普通二年(521年)に、募秦王(法興王)が、初めて、百済に随伴し朝貢する使節を派遣した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と南京博物院旧蔵模本と比較したうえで「新羅高句麗を含んだ7カ国の題起は完全に新しく出現した資料」とした[5]。また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」(「或るときは韓に服属し、或るときは倭国王に服属した」)という記述について、任那日本府(369年-562年)問題や414年に建立された広開土王碑碑文における

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
百済新羅高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済加羅新羅を破り、臣民となした。_— 好太王碑_という記述解釈などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした[5]

『北史』倭国

漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。

後漢光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。

安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。

安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という

北史倭国伝では主に、邪馬台国への行程」、「邪馬台国以前の歴史」、「倭国の制度・風俗」、 阿蘇山 、「邪摩堆への行程」、「外交書簡」が述べられている。

『南史』倭国

南史倭国伝では、「倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。」に始まり、「倭国の風俗」、「倭の五王」、「侏儒国黒歯国・裸国」、「文身国」、「大漢国」、「扶桑国」について記述されている。

『隋書』

隋書』の「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記載がある。『隋書』では倭国ではなく俀国と評価されるが、これは別の国という意味ではなく単なる譌体(誤字)である[6]。ここでは全て「俀」を「倭」と表記を戻して解説する。

「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)し顔に点し身に文し、水に没して魚を捕る

とある。『魏志倭人伝』記事の焼き直しでなく、608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたものであれば、7世紀初頭の倭人社会についての資料となる。また、

新羅 百濟皆以倭爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
新羅百濟は、みな倭を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す

とある。

「開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

この遣隋使の記録は日本側には無い。

「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」
大業三年(607年)其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。

倭の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。

海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。

「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近」
古くは云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。

当時の隋の古伝によれば、倭人のルーツは、楽浪郡帯方郡から1万2000里(約4800m)離れた会稽の東側にあり、儋耳と近かったという。

『隋書』東夷傳

「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」

九夷(中国の東に住む諸民族)が居る所は、中華から遠くにあり、(九夷の)天性は柔順である。

旧唐書

旧唐書には日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。

倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 ~

日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉|『舊唐書』 東夷伝 倭國[7][8]

**日本国は倭国**の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいわく、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり。其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(尊大)、実(真実)をもって対(こた)えず。故に中国、焉(これ)を疑う。

新唐書

北宋時代に再編纂された『新唐書』においては、古の倭奴が、高句麗滅亡後、倭の悪名を嫌って日本と改名したとの理解に対して、「日本という小国を倭があわし(併合し)その号(日本の名)を冒(名のる)」し、日本と改めたと説明したが、疑いを持たれた、という記述がある。

検証

1.倭の5王とは、朝鮮半島倭王の事である。

の1字名は大和氏らしくないと考えれば、朝鮮に渡った大和朝廷親族が、王を名乗った。

九州王朝の親族と思われる。

2.欠史8代 は、筑紫朝廷であった。

島の倭国には阿蘇山がある事(新唐書)から、九州に倭国の朝廷が有ったと 思われる。

新唐書には、倭国と日本国を別国と記されている。

3.倭国大乱を大和族と倭族との戦いと考える。

倭族を日本土着の縄文人(自然信仰の国津神の民)と考える。

大和族を渡来人が、自分たちの出目を良く見せる為に造りだした神話=天孫降臨 太陽信仰の天津神の民

太陽信仰の天津神の民のルーツ

多くの渡来人達は、日本列島に辿り着いた。特に中国から春秋戦国時代の戦乱を逃れた難民が九州に辿り着いていた。出雲地方には、朝鮮半島から倭人を祖とする民が、渡り住んだ。出雲地方は、朝鮮からの文化の一方通行で、交易は無かったと思われる。

理由は、朝鮮半島に向かうには目標が無い方角に向かわない。日本列島を 陸地を見ながら南下し、松浦半島まで行き、壱岐から対馬そして朝鮮半島に向かうしか方法が無いので、朝鮮と交易しようとすれば、必ず、糸島の一大卒や海賊に狙われる。

徐福などの秦人や夏の姫氏などが、北部九州に渡来した。東に逃げてきた渡来人たちは自分たちを日向の民(朝日にむかう民)と呼んだ。「逃げてきたのではない。太陽に向かってきたのだ。」と自分たちの自尊心を保った。

日本には、日向と云う地名が数か所ある。糸島の日向、朝倉の日向、黒木の日向神、菊池の日向、宮崎の日向。

妙に、南東に繋がっている。日向の民が少しずつ避難していったように見える。*冬至に23.5度太陽の昇る方角を東とすれば、東へ向かったように見える。春秋に東へ向かえば、田川方面になる。真夏に移動したら宗像・遠賀方面。もしかすると、数回に分かれて東進したとすれば、進んだ方角が、数季にわたり 隊よって微妙に方角が違っていたのかもしれない。

古事記

その降臨の記述には「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天降りまさしめき。(中略)ここは韓国に向い、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」 伊都国の高祖山のそばにある山をクシフル山

次に筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の國[一五]を白日別(しらひわけ)といひ、豐(とよ)の國(くに)を豐日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の國(くに)を建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)[一六]といひ、熊曾(くまそ)の國[一七]を建日別(たけひわけ)といふ。

一五 北九州。一六 誤傳があるのだろう。肥の國(肥前肥後)の外に、日向の別名があげられているのだろうというが、日向を入れると五國になつて、面四つありというのに合わない。一七 クマ(肥後南部)とソ(薩摩)とを合わせた名。

ココの筑紫とは、九州の事だと分かるが、日向は無い。後で付けたと分かる。話が、複雑に誤解が有る。あえて、誤読を誘ったようにも見える。筑紫を北部九州と考えると、笠沙の岬とは 御笠川の河口方面。東に当たる。

他の説で、東シナ海韓国岳(カラクニダケ)に向かって進む倭にとっては真直ぐ向かい来るように見える立地であろう。将に来たる状態ということで「真向い」にある、「本物に来た」、説明調に言うと、「本物の韓国(からくに)の真ん前に来たかのような立地にある」と同じ意味である。

ほぼ北に標高1,700mを誇る霧島火山の最高峰である韓国岳、わたつみと呼ばれた東シナ海を西南諸島沿いに北上する倭族にとって、最大の目印、指標だったに違いない。笠沙の岬」や倭が渡った土地という名を残す「鵜戸=日向鵜戸神社」も遠くない

しかし、霧島に登っても日向の鵜戸は見えない。船出来たのなら大隅半島を回らねば 見えない。後付けで、当時は、日向と云う地名は無い。建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)の神の土地は、肥前肥後の長崎から佐賀・熊本である。寧ろ、豐日別(とよひわけ)の神か建日別(たけひわけ)の神の土地に近い。また、何故朝鮮を目指したかが分からない。南中国からの難民なら蓬莱の地日本へ向かうなら分かる。無理に解釈しようとしている。九州王朝説を取ると宮崎は阿蘇の反対側で、認識されていなかった未開の土地の可能性さえある

*九州を車で一周されたら分かりますが、北九州から鹿児島までの道のりと大隅半島から大分までを比べると、宮崎の海岸沿いは 本当に何にもない土地です。

糸島の日向(近くにクシフル山あり)の地に渡り住んだ秦族若しくは夏の姫氏の子孫が 縄文人弥生人との混血を繰り返し、土着した。数百年後 先住民(黥面文身族)に追われて、田川(朝倉を含む)に王朝をたてた。そして 聞(企救)・苅田を通って宇佐に着く。(美々津港に着いたとは、宮崎の高千穂→日向 から美々津と云うシナリオの創作である。理由;宮崎日向から東とは四国であり 筑紫ではない。たとえ船が無くても宮崎日向近くで作ればよい。宮崎高千穂の山間の狭い土地に大軍を作れる人口や農耕地は無い。高千穂の山奥に急に朝廷文化が開くはずはない)田川から見て東には、英彦山(日御子巫女の山=ヒミコの山)。田川・宇佐・大分などは豊国(とよの国=台与の国)と呼ぶ。

では、卑弥呼・台与と日向族(大和族)との関係はと云うと、卑弥呼・台与は、縄文人の特徴(入れ墨文化)があり、大和族と争った方だと考えられる。卑弥呼は、日向族が かつて支配していた糸島や朝倉を略奪した。故に 投馬国は、朝倉に有った。宗像・遠賀・直方・田川などの遠賀川流域は、日向族の勢力圏にある。女王国は菊池・山鹿平野から山門地方を統治しているだけで、住んでいたのは糸島の伊都国に姉弟で住んでおり 弟が一大卒をしていた。理由は、日向族が、異民族で多くの戦術や兵站などの知識で武力が、優れている事に気づき、交易の要と農業の一大生産地を抑える必要を感じたためである。

倭の大乱とは、九州での日向族倭人族の戦いで数十年を要した。欠史8代は、その間の大和族の王(*血のつながりは無く権力者)の事で、神武大王の後継者である。崇神天皇(御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと))が、近畿王朝の 初めての天皇である。

神武東征では、宇佐(海岸沿いは、交易の利益を倭人に抑えられている)で戦い、黒崎に向かっている。などの記述があるが、いずれも海岸線沿いでは、海洋民族の倭人に苦戦している。この筑紫の戦いを倭国大乱と云う。その間は、神武大王だけではなく、多くの失史8代の大王が関わっている。

崇神天皇〔即位12年、戸口を調査して初めて課役を課した。この偉業をもって御肇国天皇はつくにしらすすめらみこと)と称えられている。『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。〕

崇神天皇は、と倭迹迹日百襲姫命大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇沐浴斎戒して宮殿の中を清めて、「願わくば 夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫大水口宿禰穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、大物主神倭大国魂神大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子市磯長尾市(いちしのながおち)にせよという神託を受けた。そこで天皇はおじの伊香色雄に命じて物部の八十平瓮(やそひらか)を作らせ、大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子を探し出して大物主神を祭る神主とした。三輪山御神体とする大神神社の始まりである。また市磯長尾市の倭大国魂神を祭る神主とし、八十万(やそよろず)の群神を祭った。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。

また、即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。しかし北陸へ出発した大彦命は和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。

御真木入日子はや 己が命を 殺せむと 竊まく知らに 姫遊すも
大城戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも

引き返して報告したところ、倭迹迹日百襲姫命がさらに詳細な予言を行った。その結果、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることがわかった。叛乱が露見した武埴安彦は山背から、妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の武埴安彦勢には大彦命彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。叛乱終息後に四道将軍は再出発し、翌年に帰還して戎夷を従わせたことを報告した。また北陸道を進んだ大彦命東海道を進んだ武渟川別の親子が合流した土地を相津(会津)という。

記紀では、神武大王から崇神天皇までの九州王朝と近畿王朝を如何に繋げるかを苦心している。

天照大御神卑弥呼の関係

卑弥呼天照大御神と合体させることで、日本神話を神格化させようとする考えがありますが、それは間違いです。時代が違います。寧ろ 台与なら分かります。

宮崎日向から東征したと 創作した 後人たちが、どうしても日向の山中に天照大御神の岩屋が有る必要に迫られ、近くの高千穂を探し出し、北の山に朝鮮山と銘打って、高千穂での物語にした創作物語です。天照大御神の天岩戸が有るとすれば、英彦山の山奥か、糸島の大岩神社だと思われます。

私は、糸島説を支持します。糸島に辿り着いた渡来人たちは、自分たちは異国人ではなく 「神の国から来た民だ」というなら理屈が通ります。数百年間 糸島に住み着き 定住していたが、他の部族(黥面文身族)からその土地を追われ、田川に移住。一部は、山裏の朝倉に移住する。(一部は 日向三ダムを通り、阿蘇の南 高千穂まで逃げたのかもしれない)田川・鎌と朝倉は割と近い。宝満山を北と南に分かれただけの同じ支配地

狗奴国とは、元は奴国と同じ部族で、「女王の支配下に入りたくない」だけの部族の可能性もある。そう考えると、ただの中たがえで、戦争していたわけでは無いとすれば、敵は、大和朝廷しかなくなる。

鹿児島などの南九州は火山灰の影響で、肥沃な土地とは言い難い。

新唐書に、【日本の王の姓は阿毎氏で、「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、は阿毎、は多利思北孤、は阿輩雞彌という。[筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている】

「使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」とあり、天を兄とし、日を弟とした。天が明けぬうち出てあぐらをかいて座り政務し、日が出ると政務をやめ弟にゆだねた。隋の高祖は義理がないとしてこれを改めさせたという。

また、「内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」とあり、12の官(冠位十二階)制度があるという[3]

大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった文帝(楊堅)の子、煬帝を怒らせた(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)。文帝の死、煬帝の即位を倭は知らなかった。「日出處」「日沒處」は当時の仏典(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』など)に「日出処是東方 日没処是西方」とあり東西の方角を表す表現でもある。

これは、有名な日が出ると政務を止めて弟にゆだねる箇所です。その中に筑紫城に神武が、天皇になったと記載されています。記紀にも出て来るか所なのに 筑紫で天皇になった箇所は伏せています。

ここで、隋書には過去の倭が授かっていた、朝鮮半島の将軍や倭国王への任命や称号を日本側から求めたり、印綬を多利思比孤へ支給する記述が出現しない[4]。このことから単なる方角を表す表現と断定はできない。

煬帝は怒ったが、高句麗の背後にある倭を重視し、裴世清を倭に派遣した。『日本書紀』は裴世清が持参した返書を載せており、「皇帝問倭皇」から始まっている。倭皇は「倭王」を改竄したものとする論者が多いが、煬帝から「皇」を与えられたと改竄しても皇国史観の補強にはならず、半ば皮肉を込めて倭王の無礼を受け容れたとも考えられる。『日本書紀』では日本側はこの「皇」を取り入れて「天皇」を名乗ったように書かれている。

聖徳太子の時代にも大和朝廷は、九州に在った。

大和朝廷は、九州王朝と近畿王朝があり、白村江の戦いに両陣営から船を出すが、近畿王朝は、殆ど戦っておらず。九州王朝の衰退の原因になります。白村江に集結した1,000隻余り[要出典]の倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻土師富杼氷老大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許された、との記録がある。白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

記紀では、近畿の大和朝廷天皇が、万世一系(ばんせいいっけい)の天皇の家系を重んじて、九州王朝や百済王朝を書かなかった。

最後に記紀より中国史を多く採用したのは、記紀は国内の天皇家を誇張しているのに対し、中国史は 日本に忖度する必要が無い(敵対国への牽制国と云うだけ)の為。

九州王朝や百済王朝が有ったが、書けなかった と推測できる。

九州王朝から近畿王朝への移りの段階では、かなりの苦心が見えるし、微妙に卑弥呼神功皇后とし、台与を妹としている点が 努力の跡が伺える。

始めに

国史記紀を併合して考えると、歴史の改ざんや日本人の固定概念で間違った方向へ向かってしまう。

倭国とは、古代縄文人の住む場所と考えました。

紀元前5,300年に噴火した鬼界カルデラの火山灰で、南部九州を始め多くの縄文人が死絶え 一部の逃げ遂せた縄文人は、各地に逃げた。黒潮に乗り四国や紀伊半島・関東にまで逃げた人々。一部は人が住んでいない(5千年間)朝鮮半島に逃げて、そこで文化圏を作った。

朝鮮に渡った縄文人は、農耕(栗の植林や陸稲など)を始め、そこで王朝を作るようになる。朝鮮北部からは、シベリア等からの移民が移住してくるようになり、朝鮮での縄文人は移民たちと交わる。祖を同じくする日本列島と朝鮮倭人は会話が可能で、同じ倭人と言われる。

1.倭の5王とは、朝鮮半島倭王の事である。

の1字名は大和氏らしくないと考えれば、朝鮮に渡った大和朝廷親族が、王を名乗った。

九州王朝の親族と思われる。

2.欠史8代 は、筑紫朝廷であった。

島の倭国には阿蘇山がある事(新唐書)から、九州に倭国の朝廷が有ったと 思われる。

新唐書には、倭国と日本国を別国と記されている。

3.倭国大乱を大和族と倭族との戦いと考える。

倭族を日本土着の縄文人国津神の民)と考える。

大和族を渡来人が、自分たちの出目を良く見せる為に造りだした神話=天孫降臨 天津神の民

国津神の民は、自然信仰。天津神の民は、太陽信仰

多くの渡来人達は、日本列島に辿り着いた。特に中国から春秋戦国時代の戦乱を逃れた難民が九州に辿り着いていた。出雲地方には、朝鮮半島から倭人を祖とする民が、渡り住んだ。出雲地方は、朝鮮からの文化の一方通行で、交易は無かったと思われる。

理由は、朝鮮半島に向かうには目標が見え無い方角に向かわない。

徐福達などの秦人や夏の姫氏などが、北部九州に渡来した。東に逃げてきた渡来人たちは自分たちを日向の民(朝日にむかう民)と呼んだ。「逃げてきたのではない。太陽に向かってきたのだ。」と自分たちを鼓舞した。

日本には、日向と云う地名が数か所ある。糸島の日向、朝倉の日向、黒木の日向神、菊池の日向、宮崎の日向。

妙に、南東に繋がっている。日向の民が少しずつ避難していったように見える。

古事記

その降臨の記述には「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天降りまさしめき。(中略)ここは韓国に向い、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」 伊都国の高祖山のそばにある山をクシフル山

次に筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の國[一五]を白日別(しらひわけ)といひ、豐(とよ)の國(くに)を豐日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の國(くに)を建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)[一六]といひ、熊曾(くまそ)の國[一七]を建日別(たけひわけ)といふ。

ココで云う筑紫とは、九州の事だと分かるが、日向は無い。後で付けたと分かる。話が、複雑に誤解が有る。あえて、誤読を誘ったようにも見える。筑紫を北部九州と考えると、笠沙の岬とは 御笠川の河口方面。東に当たる。

九州王朝説を取ると宮崎は阿蘇の反対側で、宮崎と云う土地を認識されていなかった可能性さえあります。

糸島の日向(近くにクシフル山あり)の地に渡り住んだ秦族若しくは夏の姫氏の子孫が 縄文人との混血を繰り返し、土着した。数百年後 先住民に追われて、田川・朝倉に王朝をたてた。そして 聞(企救)・苅田を通って宇佐に着く。(美々津港に着いたとは、宮崎の高千穂→日向 から美々津と云うシナリオの創作である。理由;宮崎日向から東とは四国であり 筑紫ではない。たとえ船が無くても宮崎日向近くで作ればよい。宮崎高千穂の山間の狭い土地に大軍を作れる人口や農耕地は無い。)田川から見て東には、英彦山(日御子巫女の山=ヒミコの山)。田川・宇佐・大分などは豊国(とよの国=台与の国)と呼ぶ。

では、卑弥呼・台与と日向族(大和族)との関係はと云うと、卑弥呼・台与は、縄文人の特徴(入れ墨文化)があり、大和族と争った方だと考えられる。卑弥呼は、日向族が かつて支配していた糸島や朝倉を略奪した。故に 投馬国は、朝倉(田川盆地も支配下)に有った。女王国は菊池・山鹿平野から山門地方を統治しているだけで、住んでいたのは糸島の伊都国に姉弟で住んでおり 弟が一大卒をしていた。理由は、日向族が、異民族で多くの戦術や兵站などの知識が有り、武力が優れている事に気づき、交易の要と農業の一大生産地を抑える必要を感じたためである。

倭の大乱とは、九州での日向族倭人族の戦いで数十年を要した。欠史8代は、その間の日向族の王の事で、神武大王の後継者である。

崇神天皇(御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと))が、近畿王朝の 初めての天皇である。

天照大御神卑弥呼の関係

卑弥呼天照大御神と合体させることで、日本神話を神格化させようとする考えがありますが、それは間違いです。時代が20年ほど違います。寧ろ 台与なら分かります。

宮崎日向から東征したと 創作した 後人たちが、どうしても日向の山中に天照大御神の岩屋が有る必要に迫られ、近くの高千穂を探し出し、北の山に朝鮮山と銘打って、高千穂での物語にした創作物語です。

天照大御神の天岩戸が有るとすれば、英彦山の山奥か、糸島の大岩神社だと思われます。

私は、糸島説を支持します。糸島に辿り着いた渡来人たちは、自分たちは異国人ではなく 「神の国から来た民だ」というなら理屈が通ります。数百年間 糸島に住み着き 定住していたが、他の部族(黥面文身族)からその土地を追われ、田川に移住。一部は、山を越えて朝倉に移住する。(一部は 日向三ダムを通り、阿蘇の南 高千穂まで逃げたのかもしれない)田川・鎌と朝倉は割と近い。宝満山を北と南に分かれただけの同じ支配地。

卑弥呼の統べる国に行くには

東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。 東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく。博多湾岸付近)まで百里で至る。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。
南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。 南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。
南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。 南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。

とあるので、投馬は素直に読むと妻郡(筑後・八女)・浮羽・日田地方なら5万戸近くはありそうだ。(5万戸は、誇張があり3万戸くらいか)

それから水行10日陸行1ヶ月で菊池・山鹿平野あたりと思われる。ここで問題になるのが、狗奴国(クヌ国)で官を狗古智卑狗がキクチヒコと読んだので、菊池の皇太子のようであるが、ココチヒコorクコチヒコの可能性もあり 熊本平野だと推測される。また、キクチヒコと呼んで、元は 菊池は狗奴国の領土だったが、女王国の支配地になった可能性もある。

蘇の付く地名が多いのは、阿蘇山も女王国の支配下にあった可能性まである。

狗奴国とは、元は奴国と同じ部族で、「女王の支配下に入りたくない」だけの部族の可能性もある。そう考えると、ただの中たがえで、戦争していたわけでは無いとすれば、敵は、大和朝廷しかなくなる。

鹿児島などの南九州は火山灰の影響で、肥沃な土地とは言い難い。

【重要】6月末の梅雨時に倭国へ来た。

陸行は、10日で47㎞くらい しか進まない。大雨や長雨なら10日間でも1歩も進まない。

道路愛護などの治水工事や道路修復などは、後の代に始まった事です。隣の国へ通じる道を慌てて修復する必要はないのです。貿易があるなら水路です。この時代の倭国には、中央集権や封建制度の概念はありません。租税の徴収は国邑内での話です。卑弥呼は、南の狗奴国との戦いに功績があり、おだて上げられ共立されただけです。共立した女王に税を納めるとは思われません。中央集権制なら租税の徴収の為、幹線道路は、統一国家が整備したでしょう。

女王の利益は、交易税を取る事です。

国と国を結ぶ道路は 当時はあまり整備されていない。隣の国へ行くのは船です。

又、偉い 帯方郡からの使者を そんなに歩かせません。

それに、魏国は呉の牽制の為 邪馬壱国と同盟を結びたいのに 魏や呉から2ヵ月近く離れる国とよしみを通じるはずはない。事が起こって知らせて 軍団を率いて来るのに半年もかかる国など 無きに等しい。呉に近いから牽制になる。近畿説や東北説で邪馬壱国が、そんなに遠くあれば、倭王の称号は与えない。

検証

不彌國までは、曲りなりにも距離は里で表現されているので、そこまでは行った。後は話を聞いただけ。

1回目は、途中まで行き伊都国へ戻った。2回目は、伊都国に留まった。

東や南と書いているから、伊都国からの放射説だの言う 先生が居られますが、邪馬壱国が近畿にあるのなら 末廬國から伊都国までは分かります。しかし奴国や不彌國に立ち寄る必要はない。検閲を受けた後 伊都国から真直ぐ船で行けばよい。そして、博多湾を北上し、関門海峡を通り 瀬戸内海を進み、大国の安芸や吉備を通ればよい。

壱岐から黒潮にのり出雲に向かえばよいと考える方もいるようだが、対馬海峡を渡るのに目標が見えない方向に進もうとする事は 理屈が通りません。流されたら海の端から落ちて行き死ぬと思っているから。

海流にのれば早いと考えるのは、現代の詳しい地図を見ることができ、海流に詳しい人だけ。当時の人たちが判るはずもない。現代人の貴方でも 理屈(きっと出雲か越に着くはず)は分かっていても 目標が見えない航海は 躊躇するはずです。数日早く着くより 安全を優先します。

投馬国の場所は、

朝倉から浮羽の一部+日田+田川+八女の一部にかけて。

邪馬壱国の場所は、

菊池・山鹿平野説を取るが、7万戸(35万人)のはずがない。 理由;35万人の人口を食べさす農地が狭い(今より海岸は内陸にあった)、漁業(養殖等が無いので、魚や貝を食べつくす)、ましてや燃料が足り無い。(木材を切り倒し、植林も無いし、遠慮も無いので、禿山になってしまう=争いが起こる)

実際には、投馬国は5万戸ではなく話半分以下の2万戸ぐらい。邪馬壱国は7万戸ではなく、3万戸以下かも。

弥生時代の人口を考えると、話し半分に聞いた方が良い。

弥生時代の人口は、60万人と推定されるとの調査結果から、魏志倭人伝に出て来る戸数だけでも、15万戸余り=5人家族で75万人 既にオーバー。そして、女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である。また、大陸と今 使者と通訳を接触させているのは三十国とあるから、弥生人は200万以上となり 数字が合わない。

年代・元号 西暦 総数 出典
崇峻天皇2年 589年 3,931,152 910,420 3,017,033 聖徳太子伝記(『大日本国古来人口考』引用)

卑弥呼が死んだのが、247~248年とされているので、340年後で390万人となると、弥生人の人口は60万人が妥当のようだ。

卑弥呼は伊都国に住んでいたが、それを隠した。

水行20日+10日 陸行30日は何里なのか

帯方郡に帰り、報告書を太守弓遵に提出したら「ここから邪馬壱国まで何里か」聞かれ、副官と話し合い出した答えが、12,000里です。末盧国~伊都国を実際に歩測したし、日数も覚えています。

報告書に嘘は書けませんので、経した日数と距離で算出しました。要は、計算して出しただけです。

倭人伝には、帯方郡~邪馬壱国12,000里と書いてある。

帯方郡~末盧国 10,000里 水行 残り2,000里

末盧国~伊都国 500里 陸行

伊都国→奴国→不彌國 100里+100里=200里 水行

残りの1,300里

不彌國~投馬国 水行20日

投馬国~邪馬壱国 水行10日+陸行30日

皆さんには 分からないと思いますが、私(梯儁・ていしゅん)には分かります。

私(梯儁)は、末盧国~伊都国 500里 を 陸行 が 何日かかったのか知っています。

伊都国~不彌國 200里 を 水行 も 何日かかったのか知っています。

残りの1,300里を計算すればよいのです。

陸行1日4.7㎞で 仮定し、渡海で疲れていたなどを考慮すると、

末盧国~伊都国 500里 を 陸行 15日掛かったとすれば 30日で1,000里

残り300里÷30日=10里/1日

水行10日=100里 水行20日=200里

です。12,000里から逆算しただけです けど。

例えば、末盧国~伊都国 500里を 陸行 20日くらい掛かったとすれば 30日で750里

伊都国~不彌國 200里を 水行 11日くらい掛かった事になり 30日余りで550里

エクセルで作ってみてください。梅雨時の500里をあなたが思う日数で歩いたと仮定したら、残りは簡単に算出されます。みたいに ただの数字遊びです。

(重要機密事項です。いい加減な報告をしたとして打ち首になります)

伊都国~不彌國 の水行の日数も覚えています。誰にも文句を言われません。雨で進めなかった だけです。(実は不彌國で出航できず 近くのスナックへ行って 焼酎を飲みながら 姉ちゃんたちと カラオケを歌っていた とは決して報告しません。)

「そんなはずはない。」と専門家の方が言われるかもしれませんが、偉い私(梯儁)が「間違いない」と言えば正解なのです。だって 行ったのは私と部下の副官だけ ですから。ハ ハ ハ

書いた合計の距離で、邪馬壱国の場所を探さないでください。

行っていないのだから、邪馬壱国の場所を探し当てようとすること自体 無理があるのです。

また、この計算方法は 寝ていて ふと 思いついただけですから。

上記では、帯方郡からの放射説と連続説について採らないと書きました。では、伊都国からではどうでしょうか。水行20日と 水行10日陸行30日を放射説と連続説について

伊都国から水行20日で76㎞×20日=1,520㎞休日無して漕ぎ続けていますが、海岸に沿って水行していますので、休憩も簡単に取れます。1日76㎞は、死ぬ気で漕いでです。1日漕いで1日休みと考えれば、奄美大島当たりと思います。放射説では、水行10日で指宿あたり、戻るルートになり陸行ができません。まさか北へ歩いて高千穂まで行ったとは、理屈に合わないので、不採用とします。

卑弥呼を美化しすぎている

卑弥呼とは、体に入れ墨をしている野蛮民族の霊能力者シャーマンであって国を統治する能力はない。弟が国王を兼務。緩やかな共立であり、各国王が支配地を統治している。諍いを起こすとシャーマンに呪い殺されるのを恐れた。もしかすると、人肉を食べる人食い部族だったかもしれない。【原文内に生口を褒美にやる記載あり】。 生口=食肉用奴隷 奴婢=奴隷かも

生口と奴婢を使い分けている。卑弥呼の墓に100人の奴婢を狥葬とある。

ハッキリ言って、卑弥呼を美化しすぎている。老衰で死にそうな年寄りで、滅多に人に会わず、生口を中国に献上する。人身売買の親玉。鬼道・奇術で人を迷わし、呪う事を生業にした。鬼・ヤマンバです。

私は、九州説を取っていますが、決して女王の国 邪馬壱国が わが街で在って欲しいとは思っていません。

マスコミに踊らされ、地域活性化のために役場の観光課やツーリスト業者・宿泊施設・観光地が 「わが町が卑弥呼の里だ」と声高らかに唱え歓喜する。本当は、野蛮人(きしょくわるーて えすか人たち)の里なのに。

卑弥呼の墓の謎

卑弥呼の居住地と墓の場所は違う

卑弥呼の墓

1.最有力は、卑弥呼避難先の糸島の平原古墳 平原1号墓

副葬品の多さ(内行花文鏡・方格規矩鏡など40面の銅鏡)鏡の大きさが八咫あることや「八頭花崎八葉形也」の図象が施されていると云われる八咫鏡の同じ物ではとの説あり。侵攻した大和朝廷が奪った可能性あり。ただし、ここでは狥葬が見つかっていない

案外 奴婢なので 甕棺に入れずに そのまま埋めたのかも。

尚、円筒形器台が発掘されたことから、狥葬者用との説あり。

当時 甕棺は、高価な棺だったので豪族親類縁者のみ使用ができた。

2.英彦山の中腹 まだ発掘されていない。台与の墓は、宇佐神宮 であって欲しい。

欠史8代

新唐書に、【日本の王の姓は阿毎氏で、「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、は阿毎、は多利思北孤、は阿輩雞彌という。[筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている】

「使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」とあり、天を兄とし、日を弟とした。天が明けぬうち出てあぐらをかいて座り政務し、日が出ると政務をやめ弟にゆだねた。隋の高祖は義理がないとしてこれを改めさせたという。

また、「内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」とあり、12の官(冠位十二階)制度があるという[3]

大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった文帝(楊堅)の子、煬帝を怒らせた(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)。文帝の死、煬帝の即位を倭は知らなかった。「日出處」「日沒處」は当時の仏典(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』など)に「日出処是東方 日没処是西方」とあり東西の方角を表す表現でもある。

これは、有名な日が出ると政務を止めて弟にゆだねる箇所です。その中に筑紫城に神武が、天皇になったと記載されています。

記紀では、筑紫で天皇になった箇所は伏せています。

聖徳太子の時代にも大和朝廷は、九州に在った。

大和朝廷は、九州王朝と近畿王朝があり、白村江の戦いに両陣営から船を出すが、近畿王朝は、殆ど戦っておらず。白村江で敗れたのは九州王朝の大王達であった。そして九州王朝の衰退へとなります。

白村江に集結した1,000隻余り[要出典]の倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻土師富杼氷老大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許された、との記録がある。白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

出兵に消極的な近畿王朝の中大兄皇子たちは、九州王朝の船が燃えるのを見つめていただけであった。

あとがき

YAMATOTOTOTOHIMOMOSOHIMENOMIKOTO=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(未来が予言できたとされている)箸墓古墳に葬られる。

崇神天皇は、倭迹迹日百襲姫命に多くの亀占や託宣をさせている。桃の実が出土しても納得できる。

墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られた可能性あり、倭人伝の「石棺はあるが槨がない」に矛盾するし、大きすぎるし狥葬が無い。建造に時間が掛かるため権力の継承が必要。

卑弥呼と未来が分かる巫女をごっちゃにした方が 面白いので近畿説の人にうけた。

しつこい様ですが

陸行1日の距離は、4.7㎞です

唐の「大唐六典」の28.05㎞(中国の唐の時代は道路整備も進んでいます。平地が長く1日の軍行は28㎞進むかもしれない。それに中国の長安は 湿地帯はなく 小麦やトウモロコシが主食の 黄色く乾燥している大地です。山道でなければ割と早く歩ける。但し 土誇りがすごい。時速4㎞で7時間歩く。それも1ヶ月間)

中国時代劇に出てくるような食料を積んだ荷車はありません。当然 携帯食・弁当もありません。

日本の土地は河川も多いし橋も無い。 戦国時代でも1日軍行20kmしかない(現代の陸軍も同じ)ことをお忘れのようです。「1日の歩く平均距離が4.7㎞では短すぎる」との話が多くでますが、では考えてください。朝起きて一日の行程を占い(雨なら動かない)出発。14時ぐらいになれば 宿泊場所探し・野営設営・火起こし・食料調達を始めます。弥生時代の道の状況や労働環境・栄養状態を考慮すると1日10㎞未満かと思われます。梅雨時ですので、3日に1日は雨で動きません。ましてや、日本の険しい山河や獣を警戒して進むことを考えたなら、もっとゆっくり進むのではないでしょうか。 普通に考えたら難しいと思いませんか。蛭(ヒル)がいる畦道やムカデが這っている山道を裸足で歩く。そして一番厄介なのが 野薔薇などの棘のある植物です。中国の軍隊行進と一緒にしないで欲しい。1日28㎞の発想は、裸足で田舎道を歩いたことが無い都会人の発想です。偽りだと思うなら、田舎の年寄りに聞くか、自分で試したらいい。田舎に行って(マムシ注意の看板がある)蛇が出てきそうな畦道を 裸足で何メートル進めますか?試したくもないでしょう?

末盧国の記述で【草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない】とあります。外国からの使者や交易人が通る道なのに 整備されていないのです。これが、当時の倭国の現状です。

1里を、短里として無理やり こじつけ たと、言われる方も居られますが、帯方郡から狗邪韓國までは、水行ですので、実測(歩測)できません。7,000里と云われている。程度でしょう。狗邪韓國から對馬國1,000里。對馬國から一大國も1,000里。一大國から末廬國まで千余里も違うではないか。と指摘をされますが、海ですから「やく」なのです。海上でギリギリ見える距離が1,000里なのですし、松浦半島から海岸沿いに唐津まで航海した距離が約千余里なのです。普通に考えればよいのです。陸行で唐津から糸島までが,帯方郡から連れてきた測量士の歩測した実数です。500里移動。=実際53km 。53km㎞割る500里で1里106mです。なお、歩測ですので、正確ではありませんし、唐津のどこの海岸に着いたのか?や 伊都国のどの場所が到着地かも分かりません ので目安としてください。)

【東南陸行五百里、到伊都國】 どうして、この末廬國~伊都国までの距離を長里(1里=434m・これを決めたのが秦の始皇帝)と考え、434m×500里=217kmと計算になるのでしょうか。困り果てて捻り出したのが、狗邪韓國から伊都国までの距離だとか??

だったら次の【東南至奴國百里】も、狗邪韓國から奴国までの距離になるのでは?

どちらが こじつけ でしょうか?

又、当時の測り方は2股を1歩とし135cmくらい×50歩=1里で計算するので、山道・ぬかるんだ道は、1里が短くなります。

里から日数になっているし、伊都国から奴国までの里の記載の仕方がおかしい。 距離は出鱈目だと言う方もおられます。しかし 末盧国から伊都国までの歩いた距離は約500里なのです。ぬかるんだ細い道を 荷物を背負いながら歩測したことをお忘れなく。

近畿説を取る方で、水行のスピードを静水の時 平均時速5.2㎞と言う人もおられますが、漁師が漕ぐような スピードで漕げるわけではありません。又、満潮引潮などで潮の流れが変わってきます。現地で集めた人にその国の中を漕がせ、次の国へ行ったら又人を集める作業から始めるのです。同じ人を使うと「帰れなくなる」と嫌がり漕ぎません。賃金を払うわけではないので諸役(苦役)なのですし、海が時化ている時もあるし 日が暮れたら魚介類は取れない(火起こしが出来ない日は 当然飯なし)し、陸地に上がって野営地を探し 雨をしのがなければいけません。弁当やコンビニはありません。

瀬戸内海を10日間で行けるはずはありません。奴婢を使ったとしたら なお漕ぎません。それとも ガレー船のように鞭打ちながら漕がせるのですか?陸に近づいたら飛び込んで逃げますよ。想像してください。もし、強行して同じ人に10日間 毎日7時間 船を漕がせて 陸に上がっても荷を担がせるのですか?あなたは、帰りには煮て食われますよ。荷物を運んでいるのは現地の野蛮人なのですよ。

陳寿は何故、倭国の植物や動物まで詳しく書いたのか?

陳寿は、倭国旅行日記を書いたわけではない。まして、ミシュランガイドや観光ガイドは書かない。

倭国への侵攻をする場合の食料・荷駄・軍馬など調達のため細かく記載した。と見るのが、必然でしょう。

近畿に女王国があるなら 普通なら関門海峡安芸国吉備国・上陸地の浪花などの軍事重要地点は絶対書くはず。対馬壱岐の動植物まで書いておいて 不彌國からは 端折って書かない理由がない。

中国の文献には、途中から端折って書かない物もある。が、偵察行動で途中から書かない事は 書く必要がないか、妨害に有って書けない くらいしか想像できません。途中から端折る文献は 報告に値しない事柄のようです。

気候や動植物の変化が無かった。=南九州や東北地方に行かなかった。

海で先の見えない方角へは向かわない。(15世紀半ばの大航海時代まで待つ必要あり)

白村江の戦の時、朝廷軍の航路でも、松浦半島→壱岐対馬済州島 ルートです。

敗戦で慌てて退却したのに、出雲には向かっていません。

魏志倭人伝の怪しい所は、里ではなく日数になってから、戸数が大きくなったこと。を 見ると誰かが邪馬壱国 ひいては倭国を 大きな国家と見せたかった事が伺えます。

陳寿は 使者が途中までしか行っていないことに気付きました。そして 戸数が 曖昧な数と 分かっていながら そのまま書いたのか、若しくは、戸数に手を加えて多くしたか。です。

この方が簡単です。 多い戸数=多い人口=強大な武力

魏志倭人伝を読み解く重要ポイント

陳寿の狙い

実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。

呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

邪馬壱国の場所

5千家の小国家 不彌國(フウビ・フヤ)に寄った。

季節は、6月末の梅雨時

では最後に、嘘をついたのは、一大卒の指示を受けた 案内人でした。

私は 案内人が人口を多めに言った嘘と思います。陳寿は、人口のところを少し多めに書いたかも?

答えは単純でした。遠くまで行きたくない案内人(やっつけ仕事の下級役人)と一大卒、陳寿の思惑が重なっただけ。

殆どの研究者の方が、日数の距離、多くの人口を抱える都市の2つで迷路に迷い込んでいます。

距離の嘘に気がつけば、多くの説の根底が崩壊します。多くの人口を抱える国家の存在が 嘘とわかれば、邪馬壱国が小国家で、卑弥呼直轄領では?の可能性が浮かんできます。

本当に7万戸の巨大国家 邪馬壱国はあったのか。

邪馬壱国は7万戸(35万人)ですよ。食料もですが、燃料の薪は どうしたのでしょうか?人口が少ないうちなら裏山に行けば 薪は手に入ります。人口が多くなれば、通貨が無ければ薪の取引ができません。後の時代の人々は、通貨があったから、薪や炭・藁を買えたのです。【國國有市】とありますが、市にどれだけの薪が並んでいたのでしょうか。1戸が1日3㎏の薪を使うとして(寒い地方説なら暖房用も必要なので、倍以上必要) 毎日210トン必要です。物々交換で多くの燃料は 手に入りません。近くの山は全て禿山になっています。奥さんが晩御飯の準備に薪を集めに行って3日も帰ってこない事になります。数年で遠くの山も禿山です。多くの文明が燃料不足で砂漠化し衰退しています。コメを通貨代わりにしたと思われるなら かなり無理があります。昔のコメの収穫高は 思うほど多くはありません。理詰めで考えれば 答えは簡単です。7万戸の国家は無かった。

【對馬國、有千餘戸。 一大國、有三千許家】これもおかしくないですか?対馬より壱岐の人口が3倍もある。(現在の人口が 対馬市28,452人 壱岐市24,622人)。 刀伊の入寇(1019年)で壱岐島民148名が虐殺され、女性239人が拉致された。生存者はわずか35名。

数が違いすぎませんか?人口は全て倭人から聞いた数なのです。卑弥呼の侍女1,000人も同じです。倭人は算数が苦手だった。人口に関しては、嘘を吐いたか よく分からないけど「このくらいかな」くらいな 話です。

倭国は、案外 避難民が集う土地かもしれません。北・西・南方より 争いを避けて逃げてきた人々が住む土地。故に 規律や秩序を守り、災害に耐え、支え合う民族ではないでしょうか。悪く言えば、弱者が支え合う国。故に団結力が強い。

結論

(ア)魏志倭人伝の辻褄が合わないところをスルーせずに、文章を論理的に考え、理屈に合わない箇所を調べると、嘘若しくは、虚実があると分かる。食料・燃料の薪を考慮すれば、人口が多すぎる。里が分かるとしながら日数で記載。

(イ)現代の道路や船旅の概念を捨てるべき。隣の国邑との国境の道は誰も整備しない。故に、船の利用をする。山中には、猛獣や盗賊がいる。

(ウ)季節は、6月末の梅雨時

(エ)陸行は、道が整備されていないので、10日で47㎞くらいしか進めない。又、狼や山犬が多く野宿は危険。土砂崩れ箇所がある。裸足で滑るなどの理由で、帯方郡の使者を伴った長距離歩行はしない。

誰も 裸足で橋も無い、蛇が居そうな畦道を自給自足の旅をしたくない。=簡単に山に入らない。

(オ)水行は、大変疲れるので、休憩・食事時間をたっぷりとる必要がある。又、渡海は目的地が見えないとしない。

(カ)陳寿の狙いは、実際の邪馬壱国の大きさは関係なく、卑弥呼の兵士動員力が多いと思わせればよい。又、呉の東に海洋民族である 倭国(女王国)の存在が重要。

(キ)邪馬壱国の場所を特定するカギは、「何故、5千家の小国家 不彌國 に寄る必要があったのか。」 御笠川を上る為に不彌國に寄って葦船に乗り換えた とするしか説明のしようがない。

上記の全てを考慮すれば、

邪馬壱国(女王国)の場所は、九州だが、場所の特定は隠された。

梯儁(テイシュン)の女王国 旅日記

2024年4月20日

暇な年寄りTomy K

突然の辞令

グレゴリオ歴240年

魏の朝鮮における出先機関に勤める帯方郡建中校尉である 私(梯儁)は、いつもの二日酔いの朝を迎えていた。仕事先の役場に出勤すると妙に騒がしい。何やらひそひそ話が聞こえてくる。隣机の同僚に尋ねても話を逸らす始末だ。そこへ上官の高尉から呼び出しがあった。何事かと思いながら上官のドアをノック。上官は「直ぐに太守弓遵呼様の処へ出頭するように」と、理由を聞いても何も教えてくれない。私は、ドキドキし歩きながら考えていた。仕事中に隠れてエロ本を見ていた事がばれて叱責されるのかな。でもイキナリ 太守からの懲罰を受けるほどの 重大な失態をした心当たりはないのだが。もしかすると、受付嬢の凛々ちゃんへのセクハラや部下へのパワハラが訴えられたかな?下手すると また左遷を言い渡されるのかな。朝鮮半島帯方郡でさえ 魏の洛陽に務めていた時の些細な事で7年前に左遷されて それから真面目に(たまに、新人女子のお尻を チョットだけ触っただけ)働いてきたのに。

私は、7年前までは、洛陽ではエリート将校で、家族円満で将来を約束された青年だった。妻が出産で実家に帰っていた時 ちょっとした気まぐれで、色目を使ってきた若いだけのブス女に手を出してしまったのが、転落の始まりだった。あの女は下げマンに違いない。1回乳を触った(こねくり回した)だけのブス女からセクハラで訴えられた。懲罰委員会に呼び出されたけど、凄腕弁護士を雇い穏便に終わらせる予定だったが、何もなかった事には出来ず、左遷を言い渡された。女房は子を連れて実家に帰ってしまった。今の仕事を辞めたい気持ちはあったが、今までの奨学金の返済もあったし、田舎の両親も 私の入官に大いに喜び、邑中に自慢して回った姿を思い出す と簡単には辞められなかった。上官からは、「しばらく田舎へ行ってくると良い。ほとぼりが冷めたら帰って来させてやる」と言われたが、7年たっても何の音さたもない。今は気楽な一人暮らしだが、子供の養育費と年老いた両親への仕送り等で、結構 金回りに苦労している。

憂鬱な気持ちで 太守の官邸に足を運んだ。

ドアをノックし入室し頭を上げると 妙に にこやかな太守の顔が目に飛び込んできた。「梯儁君 だいぶ頑張っているようだね。その頑張りに報いる為 長期の旅行をプレゼントしたいと考えているのだが」。「えぇ・・ありがとうございます。」「喜んで貰えると思っていたよ。それでは、これを」と1枚の辞令書を貰った。

辞令書;帯方太守弓遵発、建中校尉梯儁に 邪馬壱国に帯方郡からの使者として出張を命じる。

やった。長期出張だ。ただ 出張の期間も何も書かれていない。詳しくは副官より聞くようにと言われサクサクと退出を促された。副官からの話では、出張手当も出るようだし、経費も使い放題だ。目的は、昨年 倭国の邪馬壱国から魏の洛陽に朝貢が行われ それへの返礼だそうだ。楽な仕事のようだ。

表向きは、邪馬壱国からの朝貢の礼と 皇帝よりの詔書印綬 それに多くの土産を届ける事だが、本当の目的は、倭国の国力の調査との事。「調査と云うと何か きな臭い戦況でもあるのですか?」「いやいや、邪馬壱国から魏王曹叡(そう えい)様に 男の生口4人と女の生口6人、それに草木染の班布2疋2丈(4反2丈)を献じた」そうな。「では、魏王様は『たったこれだけ?この田舎者!』と怒っておられるのですか。」いやいや、「『遠路はるばる、大儀であった』と喜ばれ 邪馬壱国の女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を与えられた」とのこと。たった これだけの品で喜ばれるはずが無いと疑い、親官からの話によると、「30年前の赤壁の戦いの際 魏は、呉の5万の水軍に敗北しており、魏の良き協力国を探していたとの事で、倭国の邪馬壱国が、どの程度の国家なのか調べてくるように」 とのお達しだ。 「但し、軍務に関わることで いい加減な報告をすると、お前ひとりの首だけでは済まないからな」と 脅された。

なんてことはないと ニコニコ顔で役場に帰ると 同僚から心配そうな顔を向けられた。辞令の話をすると「ご愁傷様」との慰めの声。ウム?・・「タダの楽な出張ではないか。何がご愁傷さまだ。」と不満を云うと、「倭国のが どんな所か知らないのですか」 エ・ちょっと待って、「なにか危うい気がしてきた。ちょっと調べてくる。」 と 役場を飛びだした。

図書館に行って調べても 75年~88年に書かれた「漢書」地理志だけで、あまり資料がない。 そこで、度々倭国から朝貢の使者が来ていたので接客係に聞いてみた。又、倭国への渡航歴がある商人に話を聞いて回った。

倭人は、顔に入れ墨をしている。倭国帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢(後漢25年 - 220年)の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせていた。〕

「顔に入れ墨 きしょくわる 野蛮人や。生口文化が残っている そうな。食われるかも エスカ 処や」

これが、ご愁傷様の意味か。行きたくない。誰代わってくれないかな。誰に相談しても「辞令は君に出されたものだから、行かなければ、斬首刑だな」と言われた。

くそ、どうせ死刑か食われるかなら 凛々ちゃんと やってから死にたい。

凛々ちゃんに土下座をして頼んだが、断られた。なんと薄情な女だ。この女も下げマンに違いない。

私は、わりとポジティブな性格なのだ。

旅立

まず、渡海の為 船の調達や剛腕の漁師を集めるため 漁業管轄所の理事長のところを尋ねた。理事長は、難しい顔をしたが、「公務である」と脅し、2隻の船と12人の漁師を紹介してくれた。「港に着いたらこの書類を見せたら 指示に従ってくれる」と封筒を渡された。腕利きの護衛も必要だが、これに関しては、自分の部下から独身者を選んだ。もし食われても悲しむのが少ない方が良い。最初の生贄用に 1人俺より少し学歴の高いだけで、何時も俺を小ばかにした目で見ている いけ好かない奴がいるので、アイツも連れて行こう。

季節は波の荒い冬を避け 日中が一番長い夏至時に渡海した方が良いのだが、行きだけではなく帰りも考え 5月上旬で日和の良い日を選んだ。

出発の前日は、ソープに行って思いっきり腰を振った。渡海には 少しでも軽い方が良い。

護衛の部下たちには長期出張で観光旅行と伝えていただけなので、うきうき顔であったし、留守番の者たちから羨ましがれたり 土産を依頼されたり と浮かれた顔だった。帯方郡を出発したが、最初の1週間は港まで歩きだった。事情を知っている私と副官は憂鬱な顔で歩いた。

港に到着し、漁協の組合長に書類を見せたが、顔色がミルミル青ざめた。ここでも「公務である」と 高飛車にでて すぐに船と漁師を集めさせた。漁師たちは「家族と水杯だけでもさせて欲しい」と嘆願するので、この港で1泊することにした。

翌朝早く 港を出港する。帯方郡から狗邪韓國まで あるいは南へ、あるいは東へ進み 7千里(630km)海岸沿いに進んだ。途中の港でも 帯方郡からの使者で「公務である」と言うだけで、夜の街でも 良くもてたし 美味いただ飯も食えた。

15日後に狗奴韓国に着いた。明日から いよいよ対馬に向かう渡海である。ここでも護衛や漁師たちから「少しでも船を軽くしたい」と申し出があり、私も快諾し、2晩 腰を振った。

漁師たちは、1晩は腰を振ったが、翌日は体力の回復に努めた。私と副官は念入りに2晩 腰を振り続け 朝日が黄色く見えた。

渡海

市で、乾物などの非常食を調達(お金は当然払わない)して、水を積み込む。海賊に襲われた時の為、女の生口も乗船させようと思ったが、それよりスピード重視との副官からの提言でそれを採用した。

読者の方は、私がまだスケベ心が残っていると思われるかもしれませんが、生口と奴婢は違います。宿泊地で抱いた奴婢は色白でかわいい声で鳴いたが、生口は若いだけのブスで、鳴かずに泣いているだけ。文化人は、誰も抱く気もしない 海賊に献上するだけの品です。

夜が白み始めた朝早くに出航。ともかく、懸命に南へ向かって船を進ませていると、やっと夜が明け切り遠くに島が見え始めた。対馬のようだ。漁師だけではなく護衛の者たちも懸命に櫓を漕ぐ。「俺は護衛だ」と偉ぶるわけにはいかない。海流に流されたら、海の端から落ちて この世に二度と戻れない。

千里漕ぎ、日が暮れ始めたころ やっと対馬に着いた。みんなへとへとだ。漁師などは昼飯も食べていない。海の怖さを知っているからだ。

対馬に上陸し 休んでいると、島の役人が押っ取り刀でやって来た。顔を見た瞬間ギョッとした。顔に入れ墨があるとは知っていたが、実際に見ると異様だ。役人の話によると、その島は、對馬國と言い 大官を卑狗(ヒコ)と言い、副官を卑奴母離(ヒナモリ)と言う。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。との事。

この島は絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。2日休んで、再び渡海する。次は南の壱岐島へ向かう。

又、千里漕ぎ、日が暮れ始めたころ 壱岐に着いた。ここでも島の役人からこの島は、一大国と言い 官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。との事で、対馬と同じ管轄のようだ。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。など話を聞く。

2日休んで、再び渡海する。次は南に見える陸地へ向かう。

百里で松浦半島に着いた。半島に上陸する前に 小舟が近づいて来て、着いて来いと言う。海賊かと思い一瞬緊張したが、渡航歴のある漁師が「安心しなされ、ただの案内人です」と言う。 どうも舩を停泊させ易い港まで先導してくれるようだ。ここから又5百里ほど東へ移動して、唐津に停泊した。

一大国から合計千余里で、末廬国(まつろ)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。

やっと、倭国へ着いた。顔の入れ墨には、だいぶ慣れたが、あまり気持ちの良いものではない。唐津には、伊都国から検閲官が使いに来ていて 船荷を調べられた。覚せい剤などの違法物の取り締まりを強化しているし、積荷が無くならない様に調べていると云う。ここでも2日間休むが、漁師たちに船を漕がせ、伊都国へ向かわせた。残りの私・副官・測量士・護衛たちは、歩いて伊都国へ向かうことにした。検閲官は、「船の方が楽ですよ。」と言ったが、私が「船酔いで辛く 歩く」と言ったので、承諾してくれた。本当は、魏から倭国討伐の支持が有っても大丈夫なように、倭国の樹木や動物などの食料調査。小国間の距離を歩測したかった。でも、何て雨が多い国 なんだろう。

ジャングル

歩き始めると、すぐに後悔した。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。また、先頭に歩く者の顔に蜘蛛の巣が張り付き 気持ち悪そうだ。足元は、蛇やムカデが怖く棒で地面を叩いて 進むのが遅い。「ヒィヤー」突拍子もない声が響き渡る。足に蛭が吸い付いているのだ。その様子を見ていた他の者も 慌てて体中を調べ 全員が吸い付いている蛭を取ろうとしている。ヌルヌルして なかなか取れないし、血を吸い真っ赤に親指大に膨れている。汗のにおいに誘われて、蚊の大群にずっと襲われ続けた。午後になり寝床を探すが、民家はなく大木に寄り添い休むだけだった。薪になる木も湿っている為 火の付きが悪い。狼の遠吠えも聞こえるし、何かから見つめられているような野獣の目の光が怖い。伊都国に着くまでの15日間生きた心地がしなかった。「こんなところへ二度と来ない。」これは、私の心の叫びでもあるし、隊員の実際の叫びでもあった。

面会

東南東に歩いて五百里で、伊都国(いとこく)に到着した。この国には、邪馬壱国から一大卒と云う監察官が居て めちゃくちゃ偉いらしい。帯方郡の使者が往来し、常駐する場所でもあると聞いて、少しほっとした。そこにいる帯方郡の者たちに話を聞くと。一大卒は、この伊都国を含め30ヶ国の監察官で取り締まりを行っているそうだ。この国には、長官(爾支〔にき〕)や副官(泄謨觚〔せもこ〕・柄渠觚〔へくこ〕)が居たが、全く権限が無く一大卒のパシリらしい。昔、一大卒が来る前はそれなりに権限があったらしい。千余戸ある。どの国も王がいたが、みなは女王国に統属している。ようは、一大卒は女王様直属の監察官のようだ。女王国の卑弥呼は、老婆だが奇術・鬼道を使い 人を呪い殺すそうだ。旅の疲れを癒すためと言われ1日待たされて、一大卒に面会が叶う。邪馬壱国への訪問の目的を伝えると、「遠いところからようこそ来ていただきました。お礼申し上げます。」と私を上座に導き 慇懃に礼を告げられた。「女王国は凄く遠いので、ここで 女王に在ったことにしませんか?と酒宴の場で告げられたが、「魏王より、女王卑弥呼様を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚(卑弥呼に)を含む莫大な下賜品を預かって来ています。女王様に直接お渡しし、魏王のお心をお伝えしなければなりません。どうぞこのまま、邪馬壱国へ案内して頂けないでしょうか」「そのお気持ち感謝致します。なにぶん遠ございますので、駕籠と船はこちらで準備致します。また、荷運びや護衛もこちらで手配いたしますので、お連れの方は、ここにお泊りください。」「はい、ご配慮ありがとうございます。では、副官と数名の護衛だけを連れて行くようにさせて頂きます。」と話が進んだ。私も通訳者も、美女のベリーダンスで超ご機嫌になり、飲み過ぎて 一大卒が案内係にアレコレ支持をしているのは分かったが、話の内容までは、理解出来なかった。

長雨

翌朝 港で、渡海用の船はこのまま置いて行き、別の小舟で出航した。この倭国に着いて しとしと雨が降っている。この国は雨の国なのか?太陽は3日に1回くらいしか見られないのか?不思議な国だ。

東南の方へ船を向かわせの百里奴国(なこく)に着いた。官を兕馬觚(しまこ)と言い、副官を卑奴母離と言う。らしい。官の名前なのか役職なのか分からないが、記録しておこう。二万余戸の貿易港らしい。ヒスイなどの土産はここで買えばよいと教えられる。帯方郡の太守や上官の土産をここで買った。下げマンの凛々への土産は買わない事にした。次に百里東行して不弥国に(ふみこく)に着いた。官を多模(たま)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。そうな。案内人の話によると、どうも ここから葦船に乗り換え 横の割と大きな川を南に上る予定だそうだ。ただ 長雨で川が増水し、崖崩れや氾濫が有っているらしい。「一大卒様から くれぐれも 安産第一と念を押されています。川嵩が治まるまでしばらくここに逗留いたしましょう」と言われ納得した。その夜には、副官・護衛を連れて夜の街へ繰り出した。なにぶん田舎町で数件のスナックしかなかったが、そのうちの1件に私の好みの若い美女が居た。まだ16歳と言う。まだ酒は飲めないが、踊りは色っぽいし、歌がうまい、一緒にカラオケを歌ったり ショーを見たりして、毎晩この店に入り浸った。

断念

10日ぐらいして これからの行程を案内係に聞くと「投馬国へ行くのは、船で南へ20日間くらいかかりそうです。そして邪馬台国へ行くには、船で南へ10日間と、歩いて30日くらいかかる」と言われた。帯方郡を出てから2か月以上経っている。これから2ヵ月掛かって女王国に着いて、帰るころには11月になってしまう。心が折れた。伊都国へ帰ろう。

一大卒に 親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を預け、くれぐれも女王卑弥呼様に宜しくと依頼し、渡海した船に乗り、松浦半島に向かった。

帰りは、割と楽な気がした。邪馬壱国の一大卒が、帰りも上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝する為、人を付けてくれた。

報告

帰りの船旅で、付いて来てくれた倭人に色々な話を聞いて、報告書に事欠かないような内容になった。投馬国や邪馬壱国の官の名前や戸数も聞いて、行っていないのが ばれない様にして貰った。

帯方郡の太守に報告に行くとご苦労だった。「女王国は遠かったであろう。ここから何里あるのかな」など、質問攻めにあったが、何里と聞かれて焦った。「報告書をまとめますので、しばらくお時間をください。」と言って、辞退した。ここから名距離は、副官と話し合い12,000里と計算した。当然、投馬国や邪馬壱国の日数距離も計算している。

役所に帰ると、みんなから歓迎された。「よく生きて帰って来た」その夜は、慰労会になり、しこたま飲まされた。隣に凛凛が座っている。しきりに俺に色目を使ってくる。冷静に考えれば凛々は、そこまで美女でもなかった。溜まっていた俺が近場の色気のある女に 手を出そうとした過ぎない。8年近く前の失敗を来る返すところだった。多くの遊びの経験を積み 私も、一回り大きく成長したようだと 我ながら思った。

ただ、不弥国のスナックの美女に未練はあった。

機会が有れば、伊都国常駐の役人になりたい。

おわり

弥呼と迹迹(toto)姫の戦

2024年4月19日

暇な年寄りTomy K

これは、フィクションです。

箸墓古墳に葬られている姫 YAMATO TOTOHIMOMOSO HIMENOMIKOTO=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命を 次から迹迹(toto)姫と略させて頂きます。

鬼道を使う卑弥呼と 未来が分かる巫女迹迹(toto)姫の戦いの記録

北部九州に大乱が起こり それを収めた魔導師【卑弥呼】と云う老婆がいた。卑弥呼は、小国の山門国の女王に過ぎなかったが、南の強大な狗奴国と鬼道・奇術で 対等に戦い続けていた。それとは別に北部九州では、各国が交易の利権争いをしていた。

地理的に松浦半島は、壱岐対馬を経由して朝鮮半島への交易ルートが確立していた為、どの国家も松浦半島の末盧国を我が領土にしようと争っていた。各国の力が拮抗していた為、調停に入ったのが、山門国の卑弥呼であった。各国の王は、卑弥呼の鬼道を目のあたりにして、恐れおののいた。そして、私たち連合の女王にと嘆願したのであった。卑弥呼が出した条件は、末盧国と奴国の間にある 小国の伊都国の支配と一大卒と云う検閲権であった。また、従来の山門国は、女王卑弥呼の直轄領とした。これにより、北部九州の争いは収まり、邪馬壱国連合は大いに繁栄していく。伊都国を手中に収めたことで倭国中の交易は、卑弥呼の意のままになった。当然 争っていた狗奴国や近畿の大和朝廷も朝鮮に渡るには、伊都国の管理下に置かれ、税も徴収された。朝鮮を通して魏の出先機関である帯方郡朝貢を行ない、倭国の窓口として帯方郡の役人も伊都国に常駐するようになる。そして、魏の洛陽へも直接朝貢をした。邪馬壱国の最盛期であった。

一方、大和朝廷は、元は同じ九州の伊都国から始まっていた。クシフル山の民(日向の民)が、先住民(伊都国)に追われ、一部は南へ逃れ朝倉→浮羽→菊池→高千穂へそして定住。一部は東へ逃れ飯塚盆地→朝鮮半島からの漂着者が暮らす 遠賀川流域文化と合流しの田川の地で勢力を伸ばし、英彦山(日の巫女の山)から日が昇る東の宇佐へ侵攻を初め神武東征が始まる。(宮崎の日向説は記紀の創作です)瀬戸内海沿いに東進し、紀伊半島を回り、奈良へ。青銅製の武器しかなく、婚姻などの政略結婚にて勢力を伸ばして、近畿地方を勢力下にする。これ以上に勢力を伸ばすには、鉄製武器が必要になり吉備と同盟結ぶが、吉備国でも高温フイコが手に入らなかった。朝鮮には、鉄製品の材料や技術もあるのだが、伊都国を卑弥呼に抑えられ交易が思うように出来ない。伊都国を通らず直接朝鮮半島に渡海させるのだが、遭難したようで、誰一人帰っては来なかった。やはり九州を攻めるしかない。

卑弥呼の鬼道・奇術に対抗するには、厄払いの巫女が必要と捜したら、孝霊天皇皇女の迹迹(toto)姫の名が上がってきた。恐れ多くも、皇女の迹迹(toto)姫にお願いするしか方法が無く、一同そろって懇願した。

卑弥呼の鬼道・奇術は,凄まじく 大和朝廷の貴人が幾人も病に倒れた。迹迹姫も 桃の種を使い厄払いをして対抗する。この攻防が数ヵ月続き か弱い迹迹姫は、衰弱していく。一方 卑弥呼も如何に鬼道が優れているとしても高齢である為 弱っていき 死んでしまった。迹迹姫も卑弥呼が放った死ぬ前の最後の呪いで死んでしまう。迹迹姫の死因が意味不明なのが奇術の恐ろしい所である。姫が、大和朝廷の為に 命をかけて戦ったことの感謝の気持ちと、孝霊天皇の深い悲しみを与し、孝霊天皇の為に造っていた、当時とするなら最大の古墳(箸墓古墳)を彼女に贈った。皇女なのに古墳の大きさが異常なのは、そのためである。

大和朝廷は、卑弥呼が死んだ後に 鉄製品(鉄鏃・鉄鉾など)の鋳造技術を得てから武力統一を図った。第10代天皇 崇神SUJINN天皇 4道将軍派遣や 第12代天皇 景行天皇(息子の日本武尊) 筑紫遠征

一方、邪馬壱国でも変化がある。卑弥呼が死んだ後、弟が邪馬壱国の王になろうとしたが、卑弥呼の奇術に抑圧されていた各国の王が、またもや利権を争い始めた。そこで若い壹與を女王にし、帯方郡の使者に後見人になってもらう事で 争いが収まっていた。

邪馬壱国に伊都国を占有さられ、朝鮮との交易が出来なかったので、大和朝廷と狗奴国は協力し、大和朝廷は 九州の東北海岸から、狗奴国は 有明海から 攻めた。

邪馬壱国 滅亡。